幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

113 / 113

レルゲン軍服ラフ画(階級:国防軍中佐)

【挿絵表示】


参謀将校の軍服には、肩章や制帽のパイピングなど、
いたる所にこのカーマインレッドが配されていました。
いわゆるエリート様ですね。


第2節 白衣の寵臣は香水で隠す 後半

 

 持込目録は、翌朝には別の意味を持ち始めていた。

 

 最初に反応したのは医務側ではない。警護でもない。党の側だった。

 

 総統の近くで何かが起きている。モレルの鞄に記録票が付いた。親衛隊の少佐が、医療の中ではなく通路を見ている。そうした気配は、書類より早く廊下を流れる。勝利の余熱が残る建物の中では、噂もまた軽かった。

 

 ターニャは、その軽さを信用しなかった。

 

 軽い噂ほど、誰かの不満が乗っている。

 

 不満は使える。

 

 だが、不満そのものは使えない。

 

 朝の執務室には、前日より多い封筒が届いていた。表書きはさまざまだ。党官房周辺からの参考提出。宣伝省関係者からの非公式控え。侍従側の追加説明。警護班の通行記録。どれも同じ方向を向いているようで、実際にはそれぞれ別の腹を抱えていた。

 

 セレブリャコーフは封筒を開けるたび、分類欄へ落としていく。

 

「党官房周辺から、面会順に関する追加です」

 

「正式回答か」

 

「いえ。参考提出です」

 

「では、参考の箱へ。本文にはまだ入れるな」

 

「はい」

 

 次の封筒。

 

「宣伝省に近い方からです。式典時の同席者に関する苦情が含まれています」

 

「苦情は後ろだ。日時と場所があるものだけ抜け」

 

「分かりました」

 

 さらに次。

 

「警護班から、診療鞄通過時の対応記録です」

 

「それは先に出せ」

 

「はい」

 

 ターニャは、警護班の記録を受け取った。

 

 そこには、持込目録の初回運用について短く書かれていた。モレル側は票を受け取った。診療鞄は従来通り通過。警護側は、持込目録の提出有無を確認。鞄の中身には触れず、通過時刻と立会者だけを残した。

 

 悪くない。

 

 現場で揉めていない。記録だけが増えている。今はそれで十分だった。

 

「この運用は残す。警護班に、止めるなと再度伝えろ」

 

「止めずに記録、ですね」

 

「そうだ。止めれば医療妨害になる。記録すれば、次に見られる」

 

「伝えます」

 

 セレブリャコーフはすぐに短い指示票を作った。

 

 EVAは窓際に立ち、封筒の山を見ていた。彼女の視線は紙面ではなく、封筒の差出元を追っているようだった。

 

「偏り」

 

 ターニャは顔を上げた。

 

「どこだ」

 

「党官房。多い」

 

「不満があるのだろう」

 

「利害」

 

「同じことだ」

 

 EVAは何も返さなかった。

 

 その通りだった。

 

 ボルマン周辺は、モレルが総統への接近経路を持っていることを嫌っている。総統にいつ会えるか、何を先に聞かせるか、どの報告を後ろへ回すか。それは権力の順番そのものだった。医師が体調を理由にその順番へ口を出せるなら、側近たちにとっては不愉快に決まっている。

 

 ただし、その不愉快さは善意ではない。

 

 総統を守りたいからではない。自分たちの通路が狭くなるから嫌なのだ。

 

 それでも、使える部分はある。

 

 利害のある者ほど、細かい変更に敏感だ。誰が何分待たされたか。どの説明が後ろへ回ったか。誰の面会が短くなったか。彼らはそうしたことをよく覚えている。

 

 問題は、その記憶を怒りのまま出してくることだった。

 

 午前の遅い時間に、党官房周辺の事務官がやって来た。名目は、参考提出した控えの補足説明である。実際には、モレルへの不満を正式に言いたいが、責任は持ちたくないという顔だった。

 

 ターニャは、執務室ではなく、隣の小部屋で会うことにした。机の上には、昨日の持込目録もモレルの署名束も置かない。相手に見せるのは、面会順変更に関する空欄だけだ。

 

 事務官は、椅子に座るなり身を乗り出した。

 

「あの医師については、以前から問題がありました。総統への診療を理由に、予定が動くことがあるのです。こちらが調整した面会順が、直前に変わることもあります」

 

 ターニャは、控えを見たまま答えた。

 

「日時をお願いします」

 

「日時、ですか」

 

「はい。いつ、どの面会が、誰の指示で変更されたかです」

 

「それは、記録を見れば」

 

「記録にあるなら提出してください。ないなら、証言者名を添えてください」

 

 事務官の勢いが少し落ちた。

 

「我々としては、あの男が総統への接近を独占している状態を危惧しておりまして」

 

「危惧は分かりました。こちらで扱えるのは、記録です」

 

「しかし、状況は明らかです。診療を口実にすれば、誰よりも先に総統の部屋へ入れる。体調説明も彼を通る。これは政治的にも」

 

「政治的評価は不要です」

 

 ターニャは、そこで視線を上げた。

 

「必要なのは、面会順が変わった日付、変更前後の相手、変更を伝えた者、記録の所在です」

 

 事務官は口を閉じた。

 

 言いたいことは分かる。モレルが嫌いなのだ。自分たちの順番を乱すから。自分たちの説明を遅らせるから。自分たちが総統へ近づく前に、医師が入り込むから。

 

 だが、それをそのまま文書にするわけにはいかない。

 

「お気持ちは分かります。ただ、こちらで扱えるのは記録です。日時と証言者名を添えてください」

 

 ターニャの声は、柔らかくも冷たくもない。会議用の平らな声だった。

 

 事務官は、少しだけ姿勢を直した。

 

「証言者名を出せば、こちらにも影響があります」

 

「匿名の不満は、参考以上にはなりません」

 

「総統のご信任を得ている人物です。こちらとしても慎重に」

 

「慎重に扱うために、名前が必要です」

 

 事務官は、今度こそ黙った。

 

 ターニャは、追い込まなかった。相手は善意の告発者ではない。利害のある提出者だ。逃げ道を全て塞げば、何も出さなくなる。少しだけ道を残す必要がある。

 

「まずは、部署名で構いません。個人名は別添にしてください。こちらから不用意に広げることはありません」

 

「それなら、いくつか出せるかもしれません」

 

「明日正午までにお願いします。間に合わない分は、追加提出で構いません」

 

「分かりました」

 

「ただし、悪評は不要です。面会順と伝達経路に絞ってください」

 

 事務官の顔に、わずかな不満が浮かんだ。

 

 言いたかったのだろう。

 

 モレルは見苦しい。

 

 態度が悪い。

 

 総統のそばに置くべきではない。

 

 しかし、それを言うなら宣伝省の人間にでも言えばいい。ターニャの机に必要なのは、面会順を動かした証拠だった。

 

 事務官が退室したあと、セレブリャコーフが控えを整理した。

 

「党官房周辺は、面会順への影響を主張。ただし、現時点では証言者名なし。明日正午までに部署名付きで提出予定です」

 

「それでいい」

 

「悪評については記載しませんか」

 

「今は不要だ。後で必要になれば、宣伝省筋と合わせる」

 

「はい」

 

 EVAが短く言った。

 

「逃げた」

 

「完全には逃げていない」

 

「半分」

 

「半分出れば十分だ」

 

 ターニャは、事務官の残した封筒を見た。

 

 全てを出す者はいない。誰もが自分の責任を軽くし、自分の不満だけを重くする。そこから使える部分を削り出すのが仕事だった。

 

 次に来たのは、宣伝省に近い職員だった。

 

 こちらは、党官房周辺より露骨だった。服装は整っている。話し方も丁寧だ。だが、机に座る前から嫌悪が顔に出ていた。

 

「率直に申し上げますと、あの医師は総統のそばに置くには見苦しいのです」

 

 ターニャは、返事を急がなかった。

 

 セレブリャコーフが控えを開く。

 

 職員は続けた。

 

「白衣は高価なのでしょうが、清潔に見えない。香水も強い。薬品の匂いと混ざって、廊下に残ることがあります。写真や儀礼の場で、あの人物が近くにいるのは避けたい」

 

「日時をお願いします」

 

 ターニャが言うと、職員は少し戸惑った。

 

「日時ですか」

 

「はい。どの式典、どの撮影、どの移動で支障が出たのかです」

 

「支障と言いますか、見た目の問題です」

 

「見た目だけでは扱えません」

 

 職員は、いかにも不本意そうに唇を結んだ。

 

「総統の威厳に関わります」

 

「なら、なおさら記録が必要です。写真撮影の変更、同席者の差し替え、動線の変更があったなら出してください」

 

「臭気については」

 

「感想としては受け取ります。主資料にはしません」

 

「しかし、多くの者が」

 

「多くの者ではなく、確認者名をお願いします」

 

 職員の肩がわずかに下がった。

 

 彼もまた、責任を持って証言したいわけではない。嫌いなのだ。見苦しいから。臭いから。総統の見え方を汚すから。宣伝の人間としては、正しい嫌悪かもしれない。

 

 だが、嫌悪は嫌悪である。

 

 ターニャは、机の上の細い票を指で押さえた。

 

「こちらで使えるのは、儀礼運営への影響です。式典時刻、撮影位置、変更理由、確認者。それを出してください」

 

「見た者の印象は」

 

「必要なら別添にしてください。ただし、優先順位は下です」

 

「分かりました」

 

 職員は、そう言ったものの、納得していない顔だった。

 

 納得しなくていい。

 

 納得は不要だ。提出だけすればよい。

 

 職員が退室すると、部屋の空気だけが少し残った。モレル本人がいた時ほどではないが、似た種類の嫌悪が言葉に移っているようだった。

 

 セレブリャコーフは、控えをまとめながら言った。

 

「宣伝省周辺は、外見と臭気への嫌悪が中心です。式典動線と撮影位置の変更があれば提出予定です」

 

「臭気は後ろに回せ」

 

「はい」

 

「ただし、複数部署から同じ話が出ていることは控えに残せ。主張ではなく、共通する観測として扱う」

 

「記載します」

 

 EVAが、短く言った。

 

「匂い。残る」

 

 ターニャは、少しだけ目を伏せた。

 

「分かっている。だが、匂いだけでは署名にならない」

 

「はい」

 

 午後になると、勝利の空気がまた廊下へ戻ってきた。

 

 誰かがイギリス空軍の消耗について話している。別の部屋では、海軍の慎重さを笑う声があった。フランスに勝った者たちは、次の勝利をもう半分手にしたつもりでいる。

 

 その中で、モレルへの悪口だけは妙に現実的だった。

 

 勝利の話は大きい。

 

 悪口は細かい。

 

 総統の近くにいる男の袖口が汚れていた。廊下に薬品の匂いが残った。診療鞄が大きかった。警護員に対する態度が悪い。面会順が変わった。体調説明が彼を通った。

 

 細かい話ほど、現場の不満がある。

 

 ターニャは、その細かさだけを拾った。

 

 夕方近く、警護班の下士官が呼ばれた。

 

 彼は党官房や宣伝省の職員より、ずっと話が短かった。立ったままでも構わないという顔をしていたが、ターニャは椅子を示した。現場の証言は、立たせたまま聞くと尋問になる。今はそうではない。

 

「診療鞄の通過について聞きます」

 

「はい」

 

「昨日から持込目録を確認していますね」

 

「はい。目録の有無、通過時刻、立会者のみ記録しています」

 

「モレル医師の反応は」

 

 下士官は、少しだけ間を置いた。

 

「不快そうでした」

 

「言葉は」

 

「『診療を倉庫扱いするのか』と」

 

 ターニャは、セレブリャコーフへ目を向けた。

 

 セレブリャコーフが控えに書く。

 

「他には」

 

「総統の許可がある場合も同じか、と確認されました」

 

「何と答えましたか」

 

「本人許可の場合は、その時刻と立会者を残すと伝えました」

 

「よろしい」

 

 下士官は、少し肩の力を抜いた。

 

「止める必要はない、との指示でしたので、通過は妨げておりません」

 

「それでいい。今後も止めるな」

 

「はい」

 

「鞄の中身を判断する必要もない。目録の有無だけを見てください。目録がない場合は、止めずに未提出として残す」

 

「未提出のまま通してよいのですか」

 

「通していい。後でこちらが見る」

 

 下士官は、明らかに安心した。

 

 現場は止めたくない。だが、見逃した責任も取りたくない。ならば、止めずに残す仕組みを渡せばよい。それがあれば、警護員は医師と争わずに済む。

 

 ターニャは、下士官にもう一つ聞いた。

 

「モレル医師は、警護員をどう扱っていますか」

 

 下士官はすぐには答えなかった。

 

 そこに答えがあった。

 

「言いにくいなら、言葉ではなく行動で構いません」

 

「通行確認を急がせることがあります。総統がお待ちだ、と」

 

「頻度は」

 

「多くはありません。ただ、こちらが確認しようとすると、そう言われることがあります」

 

「それは記録できますか」

 

「通過時刻と発言者は残せます」

 

「残してください。評価は不要です」

 

「はい」

 

 下士官は、短く敬礼して退室した。

 

 セレブリャコーフが控えを読み上げる。

 

「警護班は、通過阻止ではなく記録化を受け入れています。モレル医師は、確認時に総統の待機を理由に急がせる場合あり。今後、通過時刻と発言者を残す」

 

「そのまま」

 

「警護員への軽視については、評価を入れません」

 

「入れなくていい。行動だけで分かる」

 

 ターニャは、机上の三つの束を見た。

 

 党官房周辺。

 

 宣伝省周辺。

 

 警護班。

 

 それぞれ、モレルを嫌っている理由が違う。

 

 党官房は通路を奪われるのが嫌だ。

 

 宣伝省は見た目と臭気を嫌がる。

 

 警護は確認を急がされるのが困る。

 

 誰も、総統のためだけに動いているわけではない。

 

 それで構わない。

 

 善人の証言でなくても、事実は事実として拾える。

 

 ただし、善意の仮面を被せてはいけない。彼らは自分の都合で語っている。その都合ごと切り分けて、必要な部分だけ使う。

 

 夕方の終わりに、ターニャは国家保安本部の廊下を歩いた。

 

 護衛は少ない。前後に必要な距離を置くだけだ。戦勝気分のせいか、廊下にはまだ人が多い。誰もが忙しそうに見せている。実際に忙しい者もいるだろう。だが、勝利のあとの忙しさには、どこか自分を大きく見せたい空気が混じる。

 

 ターニャは、その中を通り過ぎた。

 

 向かう先は、ハイドリヒのいる部屋だった。

 

 ラインハルト・ハイドリヒ。

 

 国家保安本部の中枢を握る男。

 

 ヒムラーの下にいるが、単なる部下ではない。局印、回付経路、沈黙、情報の置き方。そのすべてで人を殺せる種類の男だった。直接怒鳴る必要がない。怒鳴らずに、相手の足場を消せる。

 

 扉の前で、秘書官が短く確認した。

 

 ターニャは、持参した束を示す。

 

「総統随行区画に関する照合報告です」

 

 秘書官はすぐに通した。

 

 部屋の中は、余計な匂いがしなかった。

 

 ターニャは、それを少しだけ意識した。モレルのいた小部屋とは違う。紙、インク、革、金属。それだけだ。権力の部屋に、感情を刺激する匂いは不要だった。

 

 ハイドリヒは机の向こうにいた。

 

 顔を上げる前に、手元の文書へ印を入れた。その動きだけで、先に片付けるべき仕事を片付ける男だと分かる。

 

「出せ」

 

 敬語はない。

 

 ターニャは、持参した束を机へ置いた。

 

「総統随行区画における薬品搬入、診療鞄、入退室、体調説明経路の照合です。医療判断は含めておりません」

 

 ハイドリヒは表紙を見た。

 

 すぐに一枚目をめくる。

 

 読む速度が速い。だが、飛ばしているわけではない。項目の弱い場所と、相手が逃げる場所を見ている。

 

「モレル本人には会ったか」

 

「はい。診療鞄の提示を受け、持込目録を渡しました」

 

「反応は」

 

「医療への干渉と受け取る姿勢を見せました。総統の信頼を強調しています」

 

「当然だな」

 

 ハイドリヒは、次の頁を開いた。

 

「総統の名を出したか」

 

「はい。本人許可がある場合は、時刻と立会者を記すよう伝えました」

 

 ハイドリヒの指が一瞬止まった。

 

「嫌がっただろう」

 

「はい」

 

「そこは効く」

 

 彼はさらに紙をめくった。

 

 党官房周辺の不満。

 

 宣伝省に近い筋の嫌悪。

 

 警護班の困惑。

 

 侍従側の伝達経路。

 

 どれも、主資料と補助資料に分けてある。悪口は悪口のまま置かれていない。日時、場所、確認者、変更内容へ落とせるものだけが前に出ている。

 

 ハイドリヒは、宣伝省筋の控えで少しだけ目を細めた。

 

「見た目と臭いか」

 

「はい。ただし、主資料にはしていません」

 

「それでいい。そんなもので動けば、こちらが安くなる」

 

 ターニャは、静かに頷いた。

 

「式典動線や撮影位置の変更が確認できる場合のみ採用します」

 

「薬瓶は厄介だ。暗号なら読めばいい。だが、これは中身を読めないまま総統の部屋へ入っている」

 

 ハイドリヒの声は低かった。

 

 怒りではない。

 

 嫌悪でもない。

 

 ただ、危険物を分類する声だった。

 

 ターニャは答えた。

 

「薬の効き目ではなく、出入りを見ます。誰が運び、誰が受け取り、誰が立ち会ったかを揃えます」

 

「医師の領分には入るな」

 

「はい」

 

「入れば、医師同士の争いにされる。モレルはそれを望む」

 

「こちらは、総統周辺の未確認経路として扱います」

 

 ハイドリヒは、そこでようやくターニャを見た。

 

 目が冷たい。

 

 試すような視線ではない。もう、ある程度は評価を済ませた目だった。

 

「モレル本人は最後でいい。先に周りを枯らせ」

 

「周辺部署の証言と記録を揃えます」

 

「証言では弱い。記録へ落とせ」

 

「日時、場所、確認者、変更前後、提出元で整理します」

 

「よし」

 

 ハイドリヒは、党官房周辺の控えを指で叩いた。

 

「ボルマンの周りは、自分の道が狭くなることを嫌っているだけだ。使うなら、その腹を忘れるな」

 

「承知しています。面会順への影響だけを拾います」

 

「宣伝省は」

 

「見栄えと臭気への嫌悪が中心です。式典運営への影響が確認できるものだけを残します」

 

「警護は」

 

「止めずに記録する運用へ移しています。現場で医療側と争わせません」

 

「それでいい。現場に喧嘩をさせるな。喧嘩になれば、モレルが総統へ泣きつく」

 

 泣きつく。

 

 ハイドリヒの言葉は冷たかった。だが、正しい。

 

 総統の信頼を持つ医師が、自分は診療を妨害されたと訴える。そうなれば、警護員や書記官では受け止めきれない。だから、現場では止めず、上で記録を締める。

 

 ターニャは、補足資料を一枚出した。

 

「持込目録には、常備登録、当日追加、事後記載、本人許可、待機中保管場所を入れています」

 

 ハイドリヒは、それを見て小さく息を吐いた。

 

「細かいな」

 

「細かくしなければ、医療上の便宜で逃げられます」

 

「その通りだ」

 

 彼は票を机に置いた。

 

「本人許可欄は残せ。総統の名を使う回数が見える」

 

「はい」

 

「ただし、それをこちらから強調するな」

 

「見る者に読ませます」

 

「よし」

 

 部屋の外で、遠く電話が鳴った。

 

 ハイドリヒは気にしない。

 

 ターニャも動かなかった。

 

「ヒムラーには通してあるな」

 

「一次報告は受領済みです。医療判断へ踏み込まないこと、警護確認として扱うことを確認しています」

 

「なら、国家保安本部側でも同じ枠で持つ」

 

 ハイドリヒは、机上の別紙を引き寄せた。

 

「分類名は」

 

「総統周辺の未確認経路です」

 

「よい」

 

 彼は、その言葉を短く書いた。

 

 総統周辺の未確認経路。

 

 その欄に入れられた瞬間、モレルはただの嫌われ者の医師ではなくなった。薬を打つ男でも、臭い白衣の男でも、式典に出したくない人物でもない。

 

 総統の部屋へ、確認の薄い道を持つ存在。

 

 それが、国家保安本部の扱いになった。

 

 ハイドリヒは、ペンを置いた。

 

「モレルの名前は、まだ前に出すな」

 

「はい」

 

「名を出せば、総統の信頼とぶつかる。道を出せば、誰も簡単には否定できない」

 

「その方針で進めます」

 

「周囲の不満は吸え。ただし、誰の不満かを必ず残せ。後で手のひらを返される」

 

「証言者名または部署名を添えます。匿名分は補助扱いに留めます」

 

「いい」

 

 ハイドリヒは、そこで椅子に背を預けた。

 

 珍しい動きではない。だが、会話の段階が一つ変わったことは分かった。

 

「少佐」

 

「はい」

 

「君は、モレルをどう見る」

 

 ターニャは、一瞬だけ考えた。

 

 人格評価を求めているのではない。

 

 ハイドリヒが聞いているのは、処理対象としての性質だ。

 

「悪人として扱うには早いです。ですが、総統に近いことを、本人が当然の権限として扱っています。医療上の必要と本人許可が重なるため、周囲が止めにくい。記録の薄い通路を、本人は問題だと思っていません」

 

「つまり」

 

「悪意がなくても危険です」

 

 ハイドリヒの目が、わずかに細くなった。

 

「悪意がない危険は面倒だ。処分しづらい」

 

「はい。ですので、本人の意図ではなく、経路の確認から入ります」

 

「それで進めろ」

 

 短い命令だった。

 

 ターニャは、姿勢を正した。

 

「承知しました」

 

「次の提出は」

 

「二日以内に、持込目録の初回回答、面会順変更の部署名付き控え、警護班の運用報告を揃えます」

 

「医務側は遅らせるだろう」

 

「未回答理由の欄を作っています」

 

「ならいい。答えないことも答えだ」

 

 ハイドリヒは、報告束の一部だけを手元に残し、残りを返した。

 

「総統の近くに置かれたものは、誰かの好意で見えなくなる。見えなくなったものは、国家の外側に出る。外側に出たものは、あとで戻す時に血が要る」

 

 言葉は静かだった。

 

 だが、部屋の温度が下がるようだった。

 

「今回は、血を使う前に戻せ」

 

「はい」

 

 ターニャは、束を受け取った。

 

 退室の許可は言葉で示されなかった。ハイドリヒが次の書類へ視線を落とした。それが合図だった。

 

 廊下へ出ると、外の音が戻ってきた。

 

 誰かが笑っている。誰かが走っている。どこかで電話が鳴り、タイプライターが打たれている。国家保安本部の中では、喜びも恐怖も同じ廊下を通る。

 

 セレブリャコーフが、小さく確認した。

 

「分類は、総統周辺の未確認経路で進めます」

 

「そうだ」

 

「モレル医師の名は、前面に出しません」

 

「まだ出すな。名前は最後でいい」

 

「はい」

 

 EVAが、後ろから短く言った。

 

「枯らす」

 

 ターニャは、足を止めずに返した。

 

「周りからだ」

 

 EVAは黙った。

 

 執務室へ戻ると、机の上には新しい封筒が置かれていた。医務側からではない。警護班からでもない。侍従側の追加提出だった。

 

 セレブリャコーフが開封する。

 

「体調説明の伝達経路について、一部回答が来ています」

 

「早いな」

 

「はい。ただし、内容は薄いです」

 

 ターニャは受け取った。

 

 そこには、数日分の簡単な経路が書かれていた。

 

 医師から侍従。

 

 侍従から側近。

 

 側近から面会調整担当。

 

 日によっては、医師から直接側近へ説明。

 

 内容はない。

 

 だが、経路はある。

 

 十分だった。

 

「これを表へ入れろ」

 

「はい」

 

「直接説明がある日だけ、印を付ける。強調はするな」

 

「分かりました」

 

「面会順変更と同じ日に重なるかを見る」

 

「照合します」

 

 セレブリャコーフの手が早く動く。

 

 ターニャは、椅子へ座った。

 

 モレル本人は、まだ自由に総統の近くへ行くだろう。鞄も持つ。診療もする。総統は彼を信頼している。周囲は彼を嫌いながら、真正面から責任を取ることは避ける。

 

 構図は変わっていない。

 

 だが、記録の側は変わった。

 

 鞄には目録が付いた。

 

 本人許可には時刻と立会者が要る。

 

 面会順変更は部署名付きで出させる。

 

 式典上の苦情は、動線変更へ落とす。

 

 警護班は止めずに残す。

 

 侍従側は体調説明の伝達先を出し始めた。

 

 ひとつひとつは小さい。

 

 だが、小さいものが揃えば、道は細くなる。

 

 細くなった道を通る者は、自然に目立つ。

 

 ターニャは、表の右端に新しい欄を足した。

 

 国家保安本部側分類。

 

 そこへ、短く書く。

 

 総統周辺の未確認経路。

 

 セレブリャコーフが、その文字を見てから言った。

 

「この分類で、以後の回付をまとめます」

 

「そうしろ」

 

「提出先は、ヒムラー個人幕僚部と国家保安本部内の限定経路ですか」

 

「限定でいい。広げるな。広げれば、悪口が増える」

 

「はい」

 

 EVAが、窓の外を見た。

 

「増える」

 

「何がだ」

 

「見る目」

 

 ターニャは、机上の束を揃えた。

 

「構わない。見せるものは選ぶ」

 

 戦勝気分は、まだ外にある。

 

 イギリス方面の準備も、止まっていない。

 

 だが、国家の中枢では別の準備が始まった。

 

 モレルを医師として裁く準備ではない。

 

 嫌われ者として遠ざける準備でもない。

 

 総統へ続く未確認の道を、国家保安本部がひとつずつ記録へ引き戻す準備だった。

 

 ターニャは、最後にモレルの署名束を閉じた。

 

 その表紙にも、まだ名前は書かない。

 

 名前を書かずとも、道は見え始めていた。

 

 

 分類が決まると、動き出すものがあった。

 

 人ではない。

 

 まず、棚だった。

 

 国家保安本部の記録室で、総統随行区画に関する控えが別棚から引き出される。医務、警護、侍従、面会調整、式典運営。これまでそれぞれ別の箱に入り、別の理由で保管されていたものが、同じ照合番号の下へ仮に寄せられる。

 

 それだけで、空気が変わった。

 

 誰かが怒鳴ったわけではない。誰かを拘束したわけでもない。だが、今まで別の場所にあった記録が同じ机へ載る。それは、関係者にとって十分な圧力だった。

 

 ターニャは、執務室で回付範囲を確認していた。

 

 広げすぎれば噂になる。

 

 狭めすぎれば記録が足りない。

 

 必要なのは、見せる相手と見せない相手の区切りだった。

 

「少尉、国家保安本部内の閲覧者を三段に分けろ」

 

「はい。第一段は長官室、ヒムラー個人幕僚部、警護確認担当。第二段は記録室と照合係。第三段は提出元の照会分のみ閲覧、でよろしいでしょうか」

 

「よい。提出元に全体像を見せるな。自分たちの不満がどこに使われたかを探し始める」

 

「承知しました」

 

「党官房周辺からの控えは、面会順の変更分だけを戻す。宣伝省筋には、式典動線と撮影位置の項目だけ返せ。悪評の束を見せる必要はない」

 

「切り分けます」

 

 セレブリャコーフは、表情を変えずに記入していった。彼女はもう、この案件が医師一人の話で終わらないことを理解している。だからこそ、余計な反応をしない。反応をすれば、誰かがそこに感情を見つける。

 

 EVAは、机の横に立っていた。

 

 手にしているのは薄い台帳だった。表紙には何も書かれていない。だが、開くと短い行が並んでいる。誰がどの文書を見たか。誰がどの時刻に入室したか。誰が照会を急がせたか。

 

「閲覧、二件」

 

 ターニャは目だけを向けた。

 

「誰だ」

 

「医務側。党官房側」

 

「目的は」

 

「確認」

 

「何を確認したがっている」

 

「自分の名」

 

 ターニャは、ペンを置いた。

 

 予想通りだった。

 

 この段階で関係者が知りたいのは、真相ではない。自分の名がどこまで出ているかだ。自分が証言者として残るのか。自分の部署が提出元として見えるのか。自分の発言が悪口として扱われるのか。それだけを確かめようとする。

 

 だから、閲覧範囲を絞る必要がある。

 

「第三段の閲覧では、証言者名を伏せろ。部署名まででいい」

 

「はい」

 

「ただし、内部控えからは消すな。必要になれば出す」

 

「残します」

 

 EVAが台帳を閉じた。

 

「増える」

 

「何が」

 

「確認」

 

「増やせ。見に来た者の名も残せ」

 

「はい」

 

 ターニャは、椅子の背に触れず、机上の一覧へ視線を戻した。

 

 総統の部屋へ続く道は、ひとつではない。

 

 医師の診療鞄。

 

 侍従の伝達。

 

 党官房の面会調整。

 

 宣伝側の式典動線。

 

 警護の通行許可。

 

 それぞれが別の名目で動いている。だから、ひとつずつは小さい。小さいから、これまで見逃されてきた。

 

 だが、並べると別の形になる。

 

 小さな通路が、同じ人物の周辺で重なっている。

 

 その重なりが問題だった。

 

 昼前、医務側から追加の回答が来た。

 

 今度は前回より厚い。厚いが、読みやすいわけではない。正式名称、略称、常備品、当日追加品。項目は増えた。しかし、肝心の「誰の指示で一括扱いにしたか」は、また曖昧にされていた。

 

 セレブリャコーフが、その行を指で示した。

 

「『長年の診療慣行に基づく』となっています」

 

「便利な墓地だな」

 

「墓地、ですか」

 

「責任者が死んでいるとは限らないが、誰も掘り返したがらない」

 

 セレブリャコーフは、少しだけ目を伏せた。

 

「運用開始日も明記されていません」

 

「では、未回答だ」

 

「はい」

 

「慣行で済ませた欄は、慣行を承認した者を確認する。承認者がいないなら、未承認運用として扱う」

 

「文面を作ります」

 

「柔らかく書け。いきなり未承認と出すな。『承認記録の確認が必要』でよい」

 

「承知しました」

 

 ターニャは、追加回答を机に置いた。

 

 相手も学んできている。空欄をそのまま出せば突かれる。だから、言葉で埋める。慣行、便宜、医療上の必要、長年の運用。どれも、まともそうに見える。だが、誰が責任を持つかを消すには都合がよすぎる。

 

 責任を消す言葉は、全て照合欄へ戻す。

 

 それだけでいい。

 

 午後には、党官房周辺から部署名付きの回答が来た。

 

 個人名は別添になっている。約束通りではある。ただし、別添の封が妙に厳重だった。つまり、出したくないが、出さざるを得ないということだ。

 

 セレブリャコーフが内容を確認する。

 

「面会順変更は、七件。うち三件は診療後の体調説明と同日です」

 

「その三件だけ前へ出せ」

 

「残り四件は」

 

「保留。診療との関係が見えないものまで混ぜるな」

 

「はい」

 

「変更を伝えた者は」

 

「侍従経由が二件。側近事務方が一件。医師から直接という記載はありません」

 

「直接でない方が面倒だな」

 

「なぜでしょうか」

 

「誰も自分の判断ではないと言える」

 

 セレブリャコーフは、短く頷いた。

 

 そういう形が一番厄介だった。

 

 医師が言った。

 

 侍従が伝えた。

 

 側近事務方が調整した。

 

 党官房が不満を持った。

 

 どこにも、単独の決裁者がいない。全員が少しずつ動かし、全員が自分の責任ではないと言える。結果だけが残る。

 

 この種の動きは、戦場より官僚組織に多い。

 

 砲弾なら、発射した砲がある。命令なら、署名者がいる。だが、面会順の変更や体調説明の伝達は、誰もが「伝えただけ」と言える。

 

 だから、伝えただけの者も表に入れる。

 

 伝達は、責任ではないかもしれない。

 

 だが、経路ではある。

 

 EVAが、別添の封を見た。

 

「隠した」

 

「隠してはいない。別にしただけだ」

 

「同じ」

 

「実務では違う」

 

「結果は同じ」

 

 ターニャは、少しだけ息を吐いた。

 

「結果を変えるために、こちらの控えへ入れる」

 

「はい」

 

 EVAは、それで黙った。

 

 宣伝省側からは、式典動線の資料が届いた。

 

 こちらは、意外にも使えた。

 

 モレルの外見や臭気への嫌悪は後ろへ回したが、式典時の立ち位置変更、写真撮影時の列の調整、総統周辺に置く人物の入れ替えは、いくつか記録に残っていた。理由欄はぼかしてある。しかし、変更があった事実は動かない。

 

「ここは使う」

 

 ターニャは、撮影位置の変更表を指で押さえた。

 

「モレル医師を避けるためと書きますか」

 

「書かない。『総統周辺配置の調整』で十分だ」

 

「理由欄は空欄です」

 

「空欄のまま残せ。宣伝省側が理由を言いたいなら、正式に出させる」

 

「はい」

 

「こちらから嫌悪の言葉を補わない」

 

 セレブリャコーフが記録する。

 

 それでよかった。

 

 嫌っている者は、自分の言葉で嫌悪を出せばいい。こちらが代わりに言ってやる必要はない。むしろ、こちらが言えば、その瞬間に話が安くなる。

 

 夕方、警護班の通行記録がまとまった。

 

 持込目録の提出は、初日から完全ではなかった。モレル側は、常備品登録を理由に、当日分の記載を簡略にしようとしていた。警護班は止めずに通し、未提出または略記として残している。

 

 指示通りだった。

 

 ターニャは、通行記録を見て頷いた。

 

「よく残している」

 

「現場から、止めなくてよいなら続けられるとの返答です」

 

「当然だ。止める仕事を現場へ押し付ければ、最初に潰れるのは警護員だ」

 

「はい」

 

「未提出分は、こちらから医務側へ返す。警護へは戻すな」

 

「現場の負担を増やさないためですね」

 

「そうだ。警護は入口を見ればいい。中身の交渉は上でやる」

 

 ターニャは、通行記録の端に短く書き込んだ。

 

 止めず、残す。

 

 この二語で足りる。

 

 だが、提出用にはもう少し丁寧にする必要がある。

 

 総統診療の遅延を避けるため、現場では通過を妨げず、記録確認を後段で行う。

 

 この書き方なら、医療側も正面から反対しにくい。診療を止めていないからだ。だが、記録は残る。未提出は未提出として上がる。

 

 モレルにとっては不愉快だろう。

 

 不愉快でよい。

 

 不愉快だが、総統に泣きつくには弱い。

 

 夜に入る前、ハイドリヒ側から短い戻しが来た。

 

 回付欄には余計な言葉がない。確認範囲を維持。本人名の前出し不可。周辺経路の整理を継続。証言の採用基準を厳守。

 

 最後に一行だけ、手書きの追記があった。

 

 ――感情は捨てろ。通った道だけ残せ。

 

 ターニャは、その行を見てから、控えを閉じた。

 

 ハイドリヒらしい。

 

 冷たく、使える。

 

「少尉、採用基準を明文化する」

 

「はい。証言の採用条件ですね」

 

「日時、場所、確認者、変更内容、提出元。五つのうち三つ未満なら補助扱い。四つ以上で本表へ移す」

 

「作成します」

 

「ただし、医務側の持込目録は別だ。品目、数量、常備か追加か、立会者。この四項目で見る」

 

「はい」

 

「警護班の通行記録は、時刻、立会者、目録有無、未提出理由」

 

「分けます」

 

 セレブリャコーフは、疲れを見せなかった。

 

 だが、机の上の控えは増えている。彼女の手元だけでなく、部屋全体が記録の小さな山に囲まれていた。勝利の報告より地味で、占領地の処理より狭い。だが、この山の中心は総統の部屋へ続いている。

 

 ターニャは、立ち上がって棚の前へ行った。

 

 棚には、まだ空きがある。

 

 そこへ、新しい箱を置かせた。

 

 表紙には、分類名をそのまま貼らない。外から見れば、ただの照合箱に見えるようにする。

 

「表題は短くしろ」

 

「何としますか」

 

「随行区画照合」

 

「承知しました」

 

「中の第一頁だけ、正式分類を入れる」

 

「総統周辺の未確認経路、ですね」

 

「そうだ」

 

 セレブリャコーフは、箱の背に短いラベルを貼った。

 

 随行区画照合。

 

 それは目立たない名だった。目立たないが、開ければ中身は重い。そういう名がいい。騒ぐためではなく、残すための箱だった。

 

 EVAが、箱の位置を見た。

 

「ここ」

 

「何かあるか」

 

「近い」

 

「何に」

 

「出口」

 

 ターニャは、棚の位置を見た。

 

 確かに、扉に近い。誰かが入ってきた時、目に入りやすい場所だった。

 

「奥へ移せ」

 

「はい」

 

 セレブリャコーフが箱を奥の段へ動かした。

 

 EVAは、それを見届けてから黙った。

 

 こういう細かさは、時々役に立つ。見せるつもりのないものを、見える場所に置く必要はない。見せたい時に出せばいい。

 

 夜が深くなると、廊下の戦勝気分も少し薄れた。

 

 代わりに、別の音が残る。

 

 タイプライターの打鍵。

 

 電話の短い呼び出し。

 

 扉の開閉。

 

 控えを運ぶ足音。

 

 国家は、昼の演説より夜の処理で動く。

 

 ターニャは、机へ戻り、今日の追加分をまとめた。

 

 ボルマン周辺の不満は、面会順の変更へ落とした。

 

 ゲッベルズ周辺の嫌悪は、式典動線の調整へ薄めた。

 

 警護班の困惑は、止めずに記録する運用へ変えた。

 

 医務側の曖昧な回答は、承認記録の確認へ戻した。

 

 侍従側の伝達経路は、体調説明の流れとして表へ入れた。

 

 どれも、派手ではない。

 

 だが、派手である必要はなかった。

 

 派手な処分は、総統の信頼とぶつかる。静かな照合は、信頼そのものを否定しない。ただ、信頼の周囲にある空欄を埋める。

 

 空欄が埋まれば、モレルがどれだけ多くの場所に触れているかが見える。

 

 見えれば、次は誰かが判断せざるを得ない。

 

 ターニャは、今日の最終控えに目を通した。

 

 末尾に、短い文を加える。

 

 本件は、医療行為の適否を扱わない。

 

 総統随行区画に出入りする物品、人員、説明経路の照合に限る。

 

 関係部署は、提出済みの証言および記録について、確認者または部署名を付すこと。

 

 未回答箇所は、未回答として保存する。

 

 そこまで書いて、ペンを止めた。

 

 十分だ。

 

 セレブリャコーフが、清書用の控えを受け取った。

 

「明朝、限定回付に回します」

 

「頼む」

 

「モレル医師本人への追加照会はどういたしますか」

 

「まだ出すな」

 

「待ちますか」

 

「向こうから来る」

 

 セレブリャコーフは、少しだけ目を上げた。

 

「抗議でしょうか」

 

「おそらくな。だが、抗議の形を見てからでいい。こちらが先に詰めると、医療妨害へ逃げられる」

 

「承知しました」

 

 EVAが、窓の外を見たまま言った。

 

「来る」

 

 ターニャは、机の上の持込目録を見た。

 

「だろうな」

 

 モレルは、黙っていない。

 

 総統の信頼を持つ医師が、自分の鞄に目録を付けられ、本人許可の時刻まで残せと言われた。周囲の部署が証言を出し始め、警護班が通過時刻を残し、侍従側が体調説明の経路を出し始めている。

 

 彼は気づくだろう。

 

 自分が嫌われていることではない。

 

 嫌われているだけなら、これまで通りだった。

 

 今は違う。

 

 自分を嫌っている者たちの不満が、悪口ではなく欄へ変えられている。

 

 そのことに気づいた時、彼は抗議する。

 

 その抗議も、また記録になる。

 

 ターニャは、随行区画照合の箱を閉じさせた。

 

 箱が棚の奥へ収まる。

 

 音は小さい。

 

 だが、確かに閉じた。

 

 モレルの名前は、まだ表に出ていない。

 

 それでも、彼の通っていた道は、もう以前と同じではなかった。

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

幼女ルーデル戦記(作者:com211)(原作:幼女戦記)

ハンス・ウルリッヒ・ルーデルin幼女。▼スツーカ大佐は強くてニューゲームで転生されたようです。▼ハンス=ウルリッヒ・ルーデルは実在した人物です。▼彼をご存じない方はアンサイクロペディア等の彼の項目を一度読まれてから▼この二次創作を読むとより一層楽しめるはずです▼


総合評価:10444/評価:8.53/連載:21話/更新日時:2025年01月26日(日) 23:10 小説情報

我らが帝国に栄光を!(作者:やがみ0821)(原作:幼女戦記)

身も蓋もないあらすじ▼帝政ドイツを強大化させ、黄金時代を築き上げた実績がある2人が、転生して帝国にやってきた。▼領土も人口もドイツより凄いけれど、外交的に詰んでいる。▼やるしかない――▼なろうで完結させた貴族になったが、未来がヤバかったとのクロスです。▼12月8日本編完結しました。▼


総合評価:20146/評価:8.84/完結:37話/更新日時:2019年12月08日(日) 21:44 小説情報

皇女戦記(作者:山本 奛)(原作:幼女戦記)

幼女戦記の世界は、存在Xの目論見通り、悲劇的結末がちらついている。▼如何に強大な帝国とて、このままいけばかのドイツ帝国と同じ末路をたどるであろう。▼では、ここで問題。▼そんな「史実」を知っている人間がターニャ以外に存在していて。▼かつ、帝国の意思決定に関与できる立場にいたならば?▼そんな妄想からできた仮想戦記です。▼◇本作において、核兵器は登場いたしません▼…


総合評価:34691/評価:9.07/連載:143話/更新日時:2025年08月09日(土) 14:30 小説情報

ダキア大公家三男に転生したので帝国を理解らせに行く話(作者:舞葉)(原作:幼女戦記)

ダキアが舞台の幼女戦記二次ってあんまり見たことないなと思ったので書いてみました。相変わらずの怪文書です。原作キャラが敗北したり死んだり生存したりする可能性がありますので、苦手な方はご容赦を。▼本作は原作小説(ネット版)と書籍版をベースにしております。登場する演算宝珠はすべて『精密懐中時計』なので、ご理解いただけると幸いです。


総合評価:5085/評価:8.27/完結:48話/更新日時:2025年08月29日(金) 13:04 小説情報

帝国兵となってしまった。(作者:連邦士官)(原作:幼女戦記)

 肥田慎吾は安全に暮らすために歩き始めた。それが石を積む行為であるとしても。▼ その積まれた石は果たして塞のものなのか賽なのか、再び蝶の羽ばたきがどういった効果をもたらすかは誰も知らない。▼【挿絵表示】▼ 月一回更新と不定期更新予定です。▼ 1月14日更新▼ 大戦前夜終了しました。▼ フランソワ・レガドニア戦役編開始▼ 暁にマルチ投稿をしています。


総合評価:8615/評価:8.04/連載:42話/更新日時:2025年01月14日(火) 11:11 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>