幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第3節 診療室へ続く裏口 後半

 

 第一群の箱は、翌日の午前には薄い報告束になった。

 

 厚くしすぎる必要はない。厚い束は、それだけで読む者を選ぶ。読む者が減れば、読まれない部分が言い訳になる。ターニャは、第一群の三件を一枚の表へ圧縮させた。

 

 薬品側。

 

 伝達側。

 

 会議側。

 

 それぞれの欄には、結論を書かない。

 

 正式名称未確定。

 

 搬入元照合中。

 

 立会者未記載。

 

 診療後伝達あり。

 

 会議予定変更あり。

 

 発言録形式差異あり。

 

 未回答、回答延期、回答不能。

 

 それだけだった。

 

 誰が見ても、医療判断ではない。だが、誰が見ても、放置してよい表ではなかった。

 

 セレブリャコーフは、清書した報告束を机へ置いた。

 

「第一群の照合結果です。薬効、診断名、処方の適否は入れておりません」

 

「よい」

 

「ハイドリヒ長官への提出分は、保安上の分類を前に出しますか」

 

「出す。ただし、総統の体調には触れるな。未確認経路、照合対象、回答状況。この三つでいい」

 

「はい」

 

「ヒムラー閣下への分は、親衛隊側の対応案を付ける」

 

「モレル医師への直接措置ではなく、周囲の確認体制ですね」

 

「そうだ。優しい顔をした網だ」

 

 セレブリャコーフの手が一瞬止まった。

 

「表現は変えます」

 

「変えろ」

 

 ターニャは、短く返した。

 

 優しい顔をした網。

 

 提出物には向かない。だが、やることはそれだった。モレルを正面から殴らない。総統の信頼を否定しない。診療を止めない。医療に踏み込まない。その代わり、瓶、鞄、通路、内線、立会者、会議予定を一つずつ記録へ戻す。

 

 外から見れば、負担軽減。

 

 内側では、逃げ道の整理。

 

 相手が自分から出口を選ぶようにしておく。

 

 EVAが、机の端に立ったまま言った。

 

「言葉、柔らかい」

 

「必要ならな」

 

「中身、硬い」

 

「それも必要だ」

 

「以上」

 

 EVAは黙った。

 

 ターニャは、報告束の表紙を確認した。

 

 総統随行区画における診療関連記録の保安照合。

 

 医療という文字は入っている。だが、医療判断ではない。診療関連記録を保安の側から照合する。そういう表題だった。

 

 ハイドリヒの部屋へ向かう廊下は、いつもより静かだった。

 

 戦勝気分はまだ消えていない。だが、国家保安本部の奥へ進むほど、空気は乾いていく。笑い声は遠ざかり、足音と扉の開閉だけが残る。ここでは勝利も敗北も、まず分類される。誰が何を知り、どの経路へ流し、どこで止めるか。それが先だった。

 

 ハイドリヒは、前回と同じように机の向こうにいた。

 

 ターニャが入ると、視線だけが上がる。

 

「第一群か」

 

「はい。診療記録、搬入票、入退室、会議予定、伝達経路、会議録索引を照合しました」

 

「出せ」

 

 ターニャは、机に報告束を置いた。

 

 ハイドリヒは、表紙を見てすぐに開いた。彼は、最初の説明を待たない。必要なものは紙から拾う。紙で拾えないなら、あとで聞く。そういう読み方だった。

 

 指が、未回答欄で止まる。

 

「医務側は正式名称で遅らせているな」

 

「はい。略称が担当医師と医務補助者の間では通用する、という回答です」

 

「警護には通らん」

 

「そのため、警護記録では未確定扱いにしています」

 

 ハイドリヒは、次の頁をめくった。

 

 診療後伝達経路。

 

 侍従控室。

 

 会議室前。

 

 内線記録照会。

 

 会議録索引。

 

 彼の目が細くなった。

 

「電話まで見たか」

 

「第一群三件の診療後三十分以内、内線番号と時刻だけです。通話内容は対象外にしています」

 

「総統本人の回線は」

 

「触れていません」

 

「ならいい」

 

 ハイドリヒは、椅子に深く座り直した。

 

「総統へ何が入っているか、誰も読めない。これは医療ではない。保安の穴だ」

 

 声は平らだった。

 

 だが、その言葉で、この件の位置が変わった。

 

 医師の処方でもない。

 

 側近の不満でもない。

 

 総統の健康をめぐる噂でもない。

 

 保安の穴。

 

 国家保安本部が扱う言葉になった。

 

 ターニャは、姿勢を崩さず答えた。

 

「薬品の出入り、記録上の処置時刻、立会者、保管場所を揃えます。治療判断には触れません」

 

「触れるな。触れれば、モレルは医師の顔をする」

 

「はい」

 

「今は医師の顔をさせるな。記録の署名者として扱え」

 

「その形で進めます」

 

 ハイドリヒは、A一の頁を指で叩いた。

 

「この件は、薬品側と伝達側が重なっている。だが、まだ弱い」

 

「はい。会議録の中身は確認していません。索引段階です」

 

「中身へ入るな。最初から総統の発言を読む話にするな」

 

「発言内容ではなく、発言録の有無、決裁の有無、予定変更との関係に留めます」

 

「それでいい」

 

 ハイドリヒは、A三の頁で止まった。

 

「発言録なし、要旨のみ。誰が決めた」

 

「確認中です。会議の性質による形式差と説明されています」

 

「便利な説明だ」

 

「はい。形式を決めた部署と、当日の記録者を照会しています」

 

「照会文を見せろ」

 

 ターニャは、別添を出した。

 

 ハイドリヒは素早く目を通す。

 

「悪くない。内容を聞かず、形式だけ聞いている」

 

「内容へ入れば、別の壁が立ちます」

 

「分かっているならいい」

 

 彼は、別添を机へ戻した。

 

 少しの沈黙があった。

 

 それは、迷いではない。相手が次に何を聞くかを選ぶ沈黙だった。

 

「少佐」

 

「はい」

 

「君は、こういう穴を見つけるのが早い」

 

 探る声だった。

 

 褒めているわけではない。少なくとも、ただの評価ではない。どうしてここへ目が行くのか。どこまで見えているのか。誰の意図で動いているのか。そういう問いが、短い言葉の奥に入っていた。

 

 ターニャは、余計な説明をしなかった。

 

「書類がそう言っています」

 

 ハイドリヒは、わずかに口元を動かした。

 

「書類は、並べた者の癖を映す」

 

「では、癖ごと拾います」

 

「拾った後で、何を捨てる」

 

「薬効、診断名、悪評です」

 

「何を残す」

 

「時刻、通過、署名、立会者、伝達先、未回答です」

 

「よし」

 

 短い許可だった。

 

 ハイドリヒは、報告束のうち一部を手元に残した。A一、A三、未回答一覧、内線記録照会票。A二は戻される。

 

「A二はまだ弱い。薬品名と搬入元の照合が来てからだ」

 

「承知しました」

 

「A一とA三は残す。伝達側がある。総統の会議前後に、診療室以外の部屋が動いている」

 

「はい」

 

「これを、モレルの名前で扱うな」

 

「総統随行区画の未確認経路として扱います」

 

「そうだ。名前を出せば、総統の信頼とぶつかる。経路を出せば、誰が信頼していようと確認できる」

 

 ハイドリヒは、机上の文書へ細い字で何かを書き込んだ。

 

 ターニャには見えない。

 

 見えなくてよい。

 

 彼がこの件を国家保安本部内のどの棚へ入れるかは、これで決まった。

 

「回付範囲は」

 

「限定しています。ヒムラー個人幕僚部、長官室、警護確認担当、照合係のみです。提出元には自部署に関わる照会分だけを返します」

 

「そのままにしろ。広げるな。悪口が増える」

 

「はい」

 

「モレルから抗議は」

 

「まだ正式には来ていません。ただ、医務側から回答延期と運用上の便宜を理由にした文書が来ています」

 

「本人が出てくる前に、周囲を固めろ」

 

「進めています」

 

「固めすぎるな」

 

 ターニャは、少しだけ目を上げた。

 

 ハイドリヒは続けた。

 

「逃げ道を一つ残せ。全部塞げば、総統へ駆け込む」

 

「負担軽減の名目を残します」

 

「それでいい。モレルには、自分が管理されているのではなく、診療の邪魔を減らすためだと思わせろ」

 

「はい」

 

 ハイドリヒは、そこで報告束を閉じた。

 

「ヒムラーには」

 

「この後、提出します」

 

「ゲプハルトの名前を出すなら、順番を間違えるな」

 

 ターニャは、表情を変えなかった。

 

「現時点では、親衛隊側の医療保証人としてのみ扱う予定です」

 

「ならいい。総統のそばへ入れる本命に見せるな。モレルが噛みつく」

 

「承知しています」

 

「ゲプハルトは体裁になる。だが、総統の信頼を奪う道具にはならん」

 

「はい」

 

 ハイドリヒは、次の書類へ視線を落とした。

 

 会話は終わった。

 

 ターニャは、戻された束を受け取り、静かに退室した。

 

 廊下へ出ると、セレブリャコーフが短く確認した。

 

「A一とA三は長官室控えとして残りました。A二は照合継続です」

 

「そうだ」

 

「ゲプハルト医師の扱いは、体裁までですね」

 

「今はな」

 

「総統周辺へ入れる候補にはしない」

 

「まだだ。そこまで行けば、別の争いになる」

 

「承知しました」

 

 EVAは、後ろから一言だけ言った。

 

「噛む」

 

 ターニャは足を止めなかった。

 

「モレルがか」

 

「はい」

 

「噛ませない。囲う」

 

「柔らかく」

 

「そうだ」

 

 ヒムラーの小部屋へ向かう途中で、ターニャは一度だけ窓の外を見た。

 

 ベルリンは、相変わらず勝利の後始末に揺れている。新聞は勝ちを飾り、党は次の演説を作り、空軍はイギリスを叩く目標を増やし、海軍は条件を並べる。陸軍は補給の数字を抱え、国家保安本部は総統の診療室へ伸びる見えない道を測っている。

 

 国が勝っている時ほど、中央は危うくなる。

 

 誰もが次の大きな勝利を見たがるからだ。

 

 小さな穴を見ている者は、嫌われる。

 

 だが、穴は嫌われても残る。

 

 ヒムラーは、ターニャが入るとすぐに報告束へ手を伸ばした。

 

「ハイドリヒは何と言った」

 

「保安上の穴として扱うべきとの判断です」

 

「当然だ」

 

 ヒムラーは、椅子に座ったまま頁をめくった。

 

 ハイドリヒとは読み方が違う。ハイドリヒは情報の流れを見る。ヒムラーは、そこに親衛隊の手をどこまで入れられるかを見る。どちらも冷たいが、冷たさの種類が違った。

 

「モレルをいきなり敵にするな。総統が守る」

 

「承知しました。モレル医師の負担軽減として進めます」

 

 ヒムラーは、短く笑った。

 

「そうだ。優しい言葉で囲え。逃げようとしたら硬くすればいい」

 

「診療を妨げないことを前面に出します。持込目録、立会者、保管場所、伝達経路の整理を、現場負担の整理として扱います」

 

「よい。医者は、自分の領分を荒らされたと思うと騒ぐ。だが、楽になると言えば聞くことがある」

 

「はい」

 

「聞かなくても、楽にするための書式を拒んだ事実が残る」

 

「その形にします」

 

 ヒムラーは、ゲプハルトの名が入った補足案を見た。

 

「カール・ゲプハルトを出すか」

 

「親衛隊側の医療確認者として、名前を置く案です。総統周辺へ直接入れるものではありません」

 

「それでいい。ゲプハルトで親衛隊側の体裁は整う。だが総統のそばへ入れるなら、総統に縁のある医師が要る」

 

 ターニャは、静かに聞いた。

 

 ゲプハルトは親衛隊側の医師として使える。ヒムラーの側から見れば、体裁を整えるには便利だ。医療への干渉ではない。親衛隊側にも確認者がいる。そう言える。

 

 だが、総統が信頼するかは別だった。

 

 モレルを弱めるには、単に別の医師を置けばよいわけではない。総統の近くへ入るには、総統が受け入れる理由がいる。正しさだけでは足りない。肩書きだけでも足りない。

 

 ターニャは、そこで余計な名前を出さなかった。

 

 まだ早い。

 

 ここで候補を出せば、その名前が政治の道具になる。

 

「総統に縁のある医師については、別途整理します」

 

「急げ。ただし、急いでいる顔をするな」

 

「承知しました」

 

「モレルに代わりを見せるな。見せれば、あの男は総統へ泣きつく。自分が追い出されると思えば、何でも言う」

 

「代替ではなく、確認体制の補助として進めます」

 

「そうだ。補助、軽減、整理。そういう言葉を使え」

 

「はい」

 

 ヒムラーは、報告束を机に置いた。

 

「ハイドリヒは、情報の穴として見るだろう」

 

「はい」

 

「私は、親衛隊が総統の周りをどこまで押さえられるかを見る。だが、同じことだ。総統に触れるものを、個人医の鞄だけに任せるな」

 

「そのための記録化です」

 

「記録で済むうちは記録で済ませろ。済まなくなったら、その時に別の手を使う」

 

「承知しました」

 

 ヒムラーは、指でゲプハルトの名を押さえた。

 

「ゲプハルトには、まだ全体を見せるな」

 

「医療確認の範囲だけにします」

 

「そうだ。あれも医者だ。医者は医者の争いを始める。今は争いではない。包囲だ」

 

 包囲。

 

 提出物にはできない言葉だった。

 

 だが、的確だった。

 

 モレルを撃たない。

 

 診療を止めない。

 

 代わりに、彼の周囲へ欄を置く。持込目録、立会者、内線記録、伝達経路、会議録索引、業者名、保管場所。ひとつずつ置けば、柔らかい書式に見える。全てが揃えば、逃げ道を削る囲いになる。

 

 ターニャは、頷いた。

 

「第一群A一とA三を優先します。A二は薬品名称と搬入元の回答待ちです」

 

「A二はなぜ後ろだ」

 

「薬品側に寄っています。医療への反発が強くなります。先に伝達経路があるA一、A三を固める方が安全です」

 

「よい。モレルを薬で叩くな。道で叩け」

 

「はい」

 

「薬は医者の言葉になる。道は警護の言葉になる」

 

「その通りです」

 

 ヒムラーは、満足したのか、報告束の一部に印を入れた。

 

「この方針で続けろ。期限は」

 

「第一群の追加照合は明日正午まで。ゲプハルト医師への限定照会案は、本日中に草案を出します。総統に縁のある医師の候補整理は、別紙で提出します」

 

「よし」

 

「モレル医師への表向きの説明は、負担軽減と記録整理で統一します」

 

「それで行け」

 

 命令はそこで終わった。

 

 ターニャは、報告束を受け取り、部屋を出た。

 

 廊下へ戻ると、足元の床が少し硬く感じられた。疲れのせいではない。おそらく、考えることが増えたからだ。モレルの周囲を囲うだけなら、手順で進む。だが、次には別の医師の名前が必要になる。

 

 ゲプハルトは体裁。

 

 総統に縁のある医師は別。

 

 その整理を間違えれば、モレル排除どころか、親衛隊内部の医療縄張りに火をつける。

 

(何でこう、穴を一つ塞ぐと別の穴が口を開ける)

 

 内心は荒れたが、歩調は変えなかった。

 

 セレブリャコーフが横に並ぶ。

 

「ヒムラー閣下の指示は、記録整理を継続。ゲプハルト医師は限定照会。総統に縁のある医師は別紙整理ですね」

 

「そうだ」

 

「モレル医師への説明は、負担軽減と記録整理で統一します」

 

「強い言葉は避けろ。相手に総統へ駆け込む理由を渡すな」

 

「はい」

 

 EVAが、後ろから言った。

 

「柔らかい網」

 

 ターニャは、振り返らずに返した。

 

「提出物には書くな」

 

「書かない」

 

「ならいい」

 

 執務室へ戻ると、照合室から追加の控えが届いていた。

 

 内線記録の一部だった。

 

 第一群A一とA三で、診療後三十分以内に侍従控室と側近事務方の内線がつながっている。通話内容はない。時刻と内線番号だけだ。だが、伝達経路の表には十分だった。

 

 セレブリャコーフが、すぐに照合票へ移す。

 

「A一、A三とも内線記録ありです。A二は該当なし」

 

「A一とA三を優先する根拠が増えた」

 

「はい」

 

「内容は聞くな」

 

「通話内容は対象外のままにします」

 

「それでいい」

 

 ターニャは、内線記録の写しを見た。

 

 短い数字の列。

 

 それだけで、診療室から会議室へ続く裏口の一部が見えた。医師が直接何を言ったかは分からない。侍従が何を伝えたかも分からない。だが、診療後に部屋と部屋がつながり、会議前の動きがあった。

 

 ここまで来れば、次は流れを止めるのではなく、流れの上に欄を置く。

 

 ターニャは、新しい指示票を書いた。

 

 診療後に総統会議予定へ影響する伝達を行う場合、伝達者、受領者、時刻、伝達種別を記録すること。

 

 伝達内容は医療情報として扱い、本照合の対象外とする。

 

 会議予定に変更が出た場合、変更前後の時刻と調整担当を記録すること。

 

 短い。

 

 だが、これでよい。

 

 総統の体調内容には触れない。

 

 誰が聞き、誰へ渡し、予定がどう動いたかだけを残す。

 

 セレブリャコーフが、指示票を確認する。

 

「伝達種別は、体調、予定、面会順、その他で分けますか」

 

「そうしろ。内容は書かせるな」

 

「はい」

 

「医務側には見せるな。侍従と警護向けだ」

 

「分かりました」

 

 ターニャは、ゲプハルトに関する別紙を引き寄せた。

 

 まだ名前だけでよい。

 

 カール・ゲプハルト。

 

 親衛隊側医療確認者。

 

 役割、医療記録の形式確認、薬品名称対応表の確認、保管条件の一般確認。

 

 禁止事項、総統診療への直接介入、モレル処方への適否判断、総統周辺への独自接近。

 

 ここまで書けば、ゲプハルトはモレルの代替ではない。親衛隊側の体裁を整えるための確認者になる。

 

 それでも、医者は医者だ。

 

 医者同士の争いに見えた瞬間、この案件は別の方向へ燃える。

 

「少尉、ゲプハルト医師への照会案は、医療確認ではなく形式確認に寄せろ」

 

「名称対応表、保管条件、記載形式ですね」

 

「そうだ。治療の良し悪しは聞くな」

 

「はい」

 

「総統のそばへ入れる話は書かない」

 

「書きません」

 

 EVAが、別紙を見た。

 

「体裁」

 

「そうだ」

 

「本命、別」

 

「まだ名前を出さない」

 

「はい」

 

 ターニャは、ペンを置いた。

 

 ようやく、形が見えてきた。

 

 ハイドリヒは情報保安として穴を見る。

 

 ヒムラーは親衛隊の包囲として見る。

 

 ターニャは、その二つを同じ書式へ落とす。

 

 薬品の出入り。

 

 処置時刻。

 

 立会者。

 

 保管場所。

 

 伝達経路。

 

 会議予定。

 

 内線記録。

 

 ゲプハルトは体裁。

 

 総統に縁のある医師は、次の問題。

 

 モレルはまだ敵ではない。

 

 だが、彼の通る裏口は、もう誰にも見えない道ではなくなった。

 

 ターニャは、第一群A一とA三の束を新しい封筒へ入れた。

 

 封筒の表には、目立たない字で記す。

 

 伝達経路追加照合。

 

 その下に、小さく期限を入れる。

 

 明日正午。

 

 期限のある紙は、待つだけの紙ではない。

 

 誰かを動かす紙だ。

 

 セレブリャコーフが封緘を押した。

 

 乾いた音が、部屋に落ちる。

 

 EVAが、封筒を見て言った。

 

「閉じた」

 

「まだ閉じていない」

 

 ターニャは、封筒を回付箱へ置いた。

 

「閉じるために、開けたままにする」

 

 EVAは、少しだけ首を傾けた。

 

「矛盾」

 

「実務だ」

 

「はい」

 

 ターニャは、次の白紙を引き寄せた。

 

 そこには、まだ題名を書かない。

 

 ゲプハルトの名を書く紙ではない。

 

 モレルの名を書く紙でもない。

 

 総統に縁のある医師を探すための、別の入口だった。

 

 診療室へ続く裏口を塞ぐには、ただ閉めるだけでは足りない。

 

 総統が通ってよいと思える正面の扉を用意しなければならない。

 

 その準備だけが、白紙のまま残った。

 

 

 白紙は、すぐには埋めなかった。

 

 名前を急いで書けば、その名前が先に歩き出す。医師の候補、親衛隊の推薦、総統周辺への接近。どの言葉も、扱いを誤ればモレルへ届く。届けば、彼は自分が追われていると理解する。

 

 まだ、その段階ではない。

 

 ターニャは、白紙の上部に小さく題だけを置いた。

 

 医療確認経路の条件整理。

 

 医師名ではない。

 

 候補表でもない。

 

 条件整理。

 

 これなら、まだ誰も撃たない。

 

 セレブリャコーフが、横から確認した。

 

「個人名は入れませんか」

 

「入れない。最初は条件だけだ」

 

「項目は、総統との接点、医療記録の形式理解、親衛隊側との連絡可否、でしょうか」

 

「それに、モレル医師との直接衝突を避けられることを入れろ」

 

「はい」

 

「総統の診療を奪う者ではなく、記録を整える者として置く」

 

「承知しました」

 

 ターニャは、ペンを持ったまま、少しだけ机の上を見た。

 

 第一群A一とA三。

 

 内線記録。

 

 会議録索引。

 

 伝達経路。

 

 持込目録。

 

 ゲプハルトの限定照会案。

 

 そして、名前のない条件整理。

 

 それぞれの紙は、別々の顔をしている。だが、向かう先は同じだった。総統の身体へ入るものと、総統の判断へ届く言葉を、個人医の慣行から国家の確認へ戻す。

 

 言えば簡単だ。

 

 実行は面倒だった。

 

 モレルを正面から外せば、総統が守る。医療の正しさで争えば、医者同士の喧嘩になる。親衛隊の権限だけで押せば、党と側近がそれぞれの腹を隠して乗ってくる。ハイドリヒは情報の穴として見る。ヒムラーは親衛隊の囲いとして見る。ターニャは、その二つを同じ机へ置かなければならない。

 

 統制とは、きれいな言葉ではない。

 

 統制は、面倒な者たちの利害を、同じ欄へ押し込むことだった。

 

「少尉、条件整理は三段に分ける」

 

「三段、ですか」

 

「第一は、今すぐ必要な確認者。第二は、総統周辺へ入る可能性がある医師。第三は、モレル医師と交代する場合の前提」

 

 セレブリャコーフのペンが止まった。

 

「第三まで書きますか」

 

「内部用だけだ。外には出さない」

 

「はい」

 

「提出用は第一だけにする。第二と第三は封を分けろ」

 

「承知しました」

 

 セレブリャコーフは、三枚の用紙を用意した。

 

 一枚目は、限定確認。

 

 二枚目は、接近可能性。

 

 三枚目は、交代前提。

 

 ターニャは三枚目を裏返した。

 

「これは、まだ使わない」

 

「では、保存のみですね」

 

「そうだ。今これを動かすと、話が早すぎる」

 

 早すぎる話は、いつも崩れやすい。

 

 モレルは、まだ総統のそばにいる。総統の信頼も残っている。周囲の悪評は多いが、悪評だけでは足りない。記録の穴は見えてきた。だが、穴を見つけたことと、そこから人を引き抜くことは違う。

 

 だから、まずは穴に札を立てる。

 

 その次に、通る者へ目録を持たせる。

 

 それでもなお逃げるなら、ようやく道を変える。

 

 EVAが、裏返された三枚目を見た。

 

「伏せる」

 

「そうだ」

 

「見えると、走る」

 

「誰が」

 

「全員」

 

 ターニャは、小さく息を吐いた。

 

「その通りだ」

 

 総統周辺の医療に代替の匂いがした瞬間、全員が走る。

 

 モレルは守りに走る。

 

 医務側は縄張りを守る。

 

 党官房は面会順の取り返しに走る。

 

 宣伝省は見た目のよい医師を求める。

 

 親衛隊側の医師は、自分の出番を読む。

 

 そして総統本人は、自分の信頼を損ねられたと感じるかもしれない。

 

 そうなれば、記録の話は消える。

 

 残るのは、誰が総統のそばに立つかという争いだけだ。

 

 ターニャは、一枚目の「限定確認」へ集中した。

 

 ゲプハルトの役割は、ここに置く。

 

 薬品名称対応表の形式確認。

 

 保管条件の一般確認。

 

 持込目録の書式助言。

 

 医務記録と警護記録の接続欄の確認。

 

 禁止事項。

 

 処方の適否判断。

 

 総統診療への直接介入。

 

 モレル個人への評価。

 

 総統周辺への独自接近。

 

 書けば書くほど、役割は狭い。

 

 だが、狭いから使える。

 

 広い権限は、相手を刺激する。狭い確認は、相手が拒みにくい。

 

「ゲプハルト医師には、この一枚だけだ」

 

「はい。限定確認の範囲のみ渡します」

 

「本人が広げようとしたら止めろ」

 

「どの文面にしますか」

 

「『現段階では形式確認に限る』でいい」

 

「承知しました」

 

 セレブリャコーフが、文言を整える。

 

 ターニャは、二枚目を見た。

 

 接近可能性。

 

 ここには、まだ空欄が多い。

 

 総統との接点。

 

 既往の診療関係。

 

 政治的な受容可能性。

 

 親衛隊側との連絡経路。

 

 医療記録を残す能力。

 

 モレルとの摩擦見込み。

 

 書いているだけで、面倒な表だった。

 

 医師は腕だけでは足りない。総統が受け入れなければ近づけない。親衛隊が使えなければ確認できない。記録を残せなければ意味がない。モレルと正面から衝突すれば、総統の前で争いになる。

 

 必要なのは、良い医師ではない。

 

 入れる医師だった。

 

 その事実が、ターニャを少し不快にした。

 

 だが、不快だからといって、現実は変わらない。

 

「総統に縁のある医師の洗い出しは、どこへ聞く」

 

 ターニャが言うと、セレブリャコーフは少し考えた。

 

「医務側へ正面から聞くと、モレル医師へ伝わる可能性があります」

 

「だろうな」

 

「侍従側の過去診療記録、側近の随行記録、儀礼時の医療待機記録から拾う形が安全です」

 

「それで行く」

 

「名簿照会ではなく、過去記録の確認ですね」

 

「そうだ。候補を探しているように見せるな」

 

「はい」

 

 ターニャは、白紙へ新しい欄を足した。

 

 過去接点の確認元。

 

 侍従記録。

 

 随行医療待機記録。

 

 儀礼時医療配置。

 

 側近経由の診療控え。

 

 どれも、直接的ではない。

 

 だが、その方がよい。

 

 正面から「総統に近づける医師は誰か」と聞けば、誰もが意味を読む。過去の記録を確認するだけなら、まだ照合の範囲で通る。

 

 EVAが、短く言った。

 

「名前、あと」

 

「そうだ。名前は最後」

 

「条件、先」

 

「その順番だ」

 

 その時、照合室から追加の控えが届いた。

 

 セレブリャコーフが受け取り、すぐに目を通す。

 

「A一の侍従側回答です。診療後の伝達はあり。伝達者は侍従、受領者は側近事務方。内容は医療情報のため記載対象外、とあります」

 

「時刻は」

 

「会議開始十八分前です」

 

「内線記録と合うか」

 

「合います」

 

 ターニャは、手を止めた。

 

 これでA一は一段進んだ。

 

 内容は分からない。分からなくていい。診療後、侍従から側近事務方へ伝達があり、内線記録と会議予定が合う。会議後には予定変更がある。これを医療判断として扱う必要はない。伝達経路として見れば十分だった。

 

「A一を更新しろ。『伝達あり』を確認済みにする」

 

「はい」

 

「内容不記載は、医療情報扱いとして受ける。ただし、伝達種別は未回答だ」

 

「未回答欄に移します」

 

「そうだ」

 

 セレブリャコーフは、照合票を書き換えた。

 

 ターニャは、A一の更新を見ながら思う。

 

 空欄は、少しずつ別の言葉に変わっている。

 

 未回答。

 

 回答延期。

 

 確認済み。

 

 医療情報扱い。

 

 記録形式差異。

 

 それぞれの言葉は小さい。だが、小さい言葉が増えるほど、穴の輪郭ははっきりする。

 

 穴は、暗闇ではなくなる。

 

 暗闇でなくなれば、誰かが通る時に見える。

 

「A三は」

 

「侍従側は回答待ちです。会議録形式の決定者も未回答です」

 

「急がせるな。期限までは待て」

 

「はい」

 

「期限を過ぎたら、未回答で上げる」

 

「承知しました」

 

 ターニャは、壁の時計を見た。

 

 時間は少ない。

 

 だが、急ぎすぎてはいけない。

 

 手続きには、待つ時間も含まれる。相手に答える機会を与えたという事実が必要になる。答えなかった者を責めるには、答える時間を与えていなければならない。

 

 焦れば、こちらの穴になる。

 

 それだけは避ける。

 

 廊下から、別の足音が近づいた。

 

 今度は、警護班の連絡係だった。彼は扉の外で待たされ、セレブリャコーフが控えだけを受け取った。中へは入れない。照合室へ人を増やす必要はない。

 

「警護班から、立会者欄の補足です」

 

「読め」

 

「A一は、立会者なし。本人許可の記載もなし。A三は、扉前警護員が通過を確認。ただし診療室内立会いなし」

 

「よい」

 

「よい、ですか」

 

「記録としてはよい。内容としては悪い」

 

「はい」

 

「A一は立会者なしを確認済みにしろ。A三は、室内立会いなし、扉前通過確認あり。分けて書け」

 

「承知しました」

 

 立会者なし。

 

 それは、総統診療として珍しいのかどうかは知らない。知らないから、医療的には判断しない。だが、薬品の出入り、会議前の処置、伝達経路、予定変更が同じ日にあるなら、立会者がないことは意味を持つ。

 

 意味を持つが、結論ではない。

 

 ターニャは、A一の票へさらに印を加えた。

 

 これでA一は、薬品名称未確定を除き、伝達側と警護側がかなり埋まった。

 

 A一。

 

 診療後伝達あり。

 

 内線記録一致。

 

 立会者なし。

 

 会議後予定変更あり。

 

 薬品正式名称は延期。

 

 十分に危ない。

 

 だが、まだ医療へは入らない。

 

 ハイドリヒの言葉が残っていた。

 

 薬瓶は、中身を読めないまま総統の部屋へ入っている。

 

 その通りだ。

 

 中身を読む前に、部屋へ入った経路を押さえる。

 

 ターニャは、封筒を一つ用意させた。

 

「A一だけ、追加報告にする」

 

「ヒムラー閣下とハイドリヒ長官、両方ですか」

 

「両方だ。ただし、文面を変える」

 

「長官向けは保安照合。ヒムラー閣下向けは確認体制の整理ですね」

 

「そうだ」

 

「ゲプハルト医師の限定照会案も同封しますか」

 

「ヒムラー閣下向けだけに入れろ。長官向けには不要だ」

 

「はい」

 

 セレブリャコーフが、二種類の追加報告を作り始めた。

 

 同じ内容でも、見せ方が違う。

 

 ハイドリヒには穴を示す。

 

 ヒムラーには囲いの形を示す。

 

 どちらにも、モレル排除とは書かない。

 

 書かなくても、分かる者には分かる。

 

 分からせすぎてはいけない者には、まだ分からなくてよい。

 

 EVAが、机の上の二つの封筒を見た。

 

「同じ中身」

 

「見せる面が違う」

 

「裏表」

 

「そうだ」

 

 ターニャは、手元の白紙へ目を戻した。

 

 医療確認経路の条件整理。

 

 そこには、まだ空白が多い。

 

 次に必要なのは、ドクトルだった。

 

 医師ではない。

 

 だが、医療と技術と国家の都合をつなげるには、彼の目が役に立つ。モレルの薬の効き目を判断させるためではない。総統周辺へ入れられる医師の条件、記録の書式、医務側が嫌がる線引き。そのあたりを、医者とは別の角度で切らせる必要があった。

 

 ただし、ドクトルを早く呼びすぎると面倒になる。

 

 彼は楽しむ。

 

 余計な比喩を使い、未来だの可能性だのと騒ぎ、必要以上に大きな話へ広げる。ターニャは、それを切る仕事まで増やすことになる。

 

 それでも、必要だった。

 

「少尉、ドクトルの所在は」

 

「研究室側に確認しますか」

 

「直接呼ぶな。まず予定だけ確認しろ」

 

「はい」

 

「用件は、医療ではなく記録書式の相談だ」

 

「その形で問い合わせます」

 

「薬品の効能を聞くと思わせるな。そうなると、あの男は嬉々として資料を抱えてくる」

 

 セレブリャコーフは、少しだけ目を伏せた。

 

「記録書式、確認体制、医師候補条件の三点でよろしいでしょうか」

 

「よい。余計な夢を語らせないために、最初から三点に絞る」

 

「承知しました」

 

 EVAが、短く言った。

 

「来る」

 

「ドクトルがか」

 

「走る」

 

「やめろ。想像しただけで疲れる」

 

 ターニャは、思わず短く返した。

 

 すぐに表情を戻す。

 

 仕事に疲れを出す場所ではない。

 

 だが、ドクトルに関しては、内心の疲労が先に来る。彼は有能だ。そこは疑わない。問題は、有能さの出し方が騒がしいことだった。

 

 それでも、今回必要なのは騒がしさではなく、切り分ける力だ。

 

 医療の領分と、警護の領分。

 

 記録書式と、処方判断。

 

 親衛隊側の確認者と、総統側が受け入れる医師。

 

 この線引きを、医務側の言葉に寄せすぎず、なおかつ素人の命令にも見せずに整えなければならない。

 

 ターニャは、白紙に最後の一行を加えた。

 

 技術的助言者への限定照会。

 

 名前はまだ書かない。

 

 だが、誰に聞くかは決まっていた。

 

 セレブリャコーフが、二通の封筒を封緘する。

 

 ひとつは、保安照合の追加報告。

 

 ひとつは、確認体制整理の追加報告。

 

 封蝋が乾くまでの短い時間、部屋には誰も話さなかった。

 

 外では、別の部署がイギリスの飛行場一覧を運んでいるはずだった。港湾資料も、海軍の条件表も、空軍の攻撃案も、陸軍の補給計算も止まっていない。

 

 それらは大きな戦争の紙だった。

 

 こちらは、小さな診療室の紙である。

 

 だが、総統の判断が揺れれば、大きな戦争の紙も一緒に揺れる。

 

 だから、この小さな紙を後回しにはできない。

 

 ターニャは、封緘の乾いた封筒を回付箱へ置いた。

 

 次の扉が見えた。

 

 診療室へ続く裏口を見つけたなら、次は正面の扉を用意する。

 

 そのためには、面倒な博士の口を借りるしかない。

 

 ターニャは、白紙を閉じずに机の中央へ残した。

 

 まだ題だけの文書が、次の仕事を待っていた。

 




SS-GBとプロット・アゲンスト・アメリカ見直し中。
あと100回は見なきゃ。

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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