技術的助言者への限定照会。
白紙に置いたその題名は、しばらく机の上で乾いたままだった。
ターニャは、すぐに電話を取らなかった。電話を取れば、相手は出る。出れば話す。話せば、こちらが望む以上に広がる。ドクトルという男は、要点を与えると発明へ飛び、空白を見せると未来を語り、危険を示すと目を輝かせる。使えるが、扱いには手間がかかる。
手間がかかる相手を呼ぶ時は、先に欄を作っておかなければならない。
ターニャは、照会用の項目を一枚に絞った。
一、医療記録を警護記録へ接続できる医師の条件。
二、総統随行区画に入れても、医務側と正面衝突しにくい人物。
三、モレル医師の治療を否定せず、記録の形式だけを整えられる者。
四、国家の命令を医療行政へ落とせる実務能力。
五、親衛隊側の確認経路に乗せられること。
そこまで書いて、六番目は空けた。
善良さ。
そこは要らない。
必要なのは、優しい医者ではない。患者の手を握り、柔らかい言葉をかけ、周囲を安心させる人物でもない。今いるのは、総統の近くに出入りする薬品と診療の控えを、読める形に戻せる人間だ。
善人ではなく、書式を守る人間。
それが要る。
セレブリャコーフが、電話交換へ回す番号を書いた控えを差し出した。
「研究室側へ、予定確認の連絡が取れました。ドクトルは在室とのことです」
「逃げ場がないな」
「はい」
「いや、こちらの話だ」
セレブリャコーフは、何も言わずに受話器を置いた。余計な笑いを挟まないのは、実に優秀だった。
EVAは、窓際で立っている。相変わらず、そこにいるだけで圧がある。手には、第一群A一の更新票を持っていた。伝達経路、内線記録、立会者未記載。総統の診療室から会議室へ伸びる道は、完全ではないが形を持ち始めている。
ターニャは、それを見てから受話器を取った。
回線がつながるまでの短い無音が、妙に長い。
やがて、向こうで何かが倒れる音がした。
「もしもし、こちら研究室だ! いや待て、その箱は触るな。番号が逆になる!」
ターニャは、目を閉じかけた。
「ドクトルか」
「おお、その声は。少佐殿――」
「その呼び方は要らん」
「では少佐。ずいぶん冷たい入り方ではないか。勝利のあとには、もう少し華やかな話を持ってきてくれてもよいだろう」
「華やかさはない。医者を紹介しろ」
向こうで、一瞬だけ音が止まった。
「私は医者ではないぞ」
「知っている。だから聞いている」
「ほう」
ドクトルの声が、少し変わった。
まだ面白がっている。だが、こちらの言い方に引っかかったらしい。彼は、ふざけていても、要点が変な場所にあると気づく。
「医者に聞けば、治療の話になる。私が欲しいのは、治療の話ではない」
「では何だ」
「医療を記録へ戻せる人間だ」
電話の向こうで、紙をどかす音がした。
ターニャは続けた。
「薬の効き目は聞いていない。処方の善し悪しも聞かない。総統随行区画へ入る薬品、診療鞄、処置時刻、立会者、保管場所、伝達経路。これを読める形にする人間が要る」
「随分と物騒な相談だな」
「物騒にしたくないから、お前に聞いている」
「私に聞く時点で、既に相当な物騒さだと思うが」
「黙って答えろ」
ドクトルは、喉の奥で笑った。
「よろしい。まず確認だ。君は医者を探しているのではない。医療の言葉を、行政と警護が読める書式に翻訳できる者を探している」
「そうだ」
「そして、治療の妥当性を裁くつもりはない」
「ない」
「だが、医師の私的な判断だけで総統の近くへ薬品が入ることを避けたい」
「その言い方でいい」
「誰だ」
ターニャは、少しだけ受話器を持つ手に力を入れた。
ここをぼかしても意味はない。ドクトルは、相手の名が出なければ余計な方向へ推理を始める。早めに言った方が、面倒が少ない。
「モレルだ」
沈黙。
今度は、明らかに質が違った。
向こうで聞こえていた小さな物音が止まる。研究助手へ何かを叫ぶ声もない。ドクトルが受話器を持ち直した気配がした。
「総統の個人医か。なるほど、治療ではなく権限の話だな」
ターニャは、わずかに口元を動かした。
「やっと話が通じたな」
「最初から通じているとも。君が相変わらず、肝心な名を後ろへ置くからだ」
「先に出すと、お前は騒ぐ」
「否定はせん」
ドクトルの声から、ふざけた響きが減っていた。
「モレルは、医者としての腕だけでそこにいるわけではない。総統の習慣、好み、信頼、体調の波。そこへ入り込んでいる。正面から腕を論じても無駄だ」
「分かっている」
「薬の中身を論じても、彼は自分の領分に引き込む。君が言う通り、治療の話にされる」
「だから、記録に戻す」
「正しい。嫌なほど正しい」
ドクトルは、そこで一拍置いた。
「だが、医療の記録を整えるには、医療側が黙っていられるだけの顔がいる。親衛隊の書記官だけでは、医者どもは鼻で笑う」
「その顔を聞いている」
「カール・ブラント」
名前は、短く出た。
ターニャは、反応しなかった。
いや、正確には、反応を外へ出さなかった。
(よりによって、そこか)
内心だけが、薄く動く。
カール・ブラント。
総統に近い医師。
国家の命令を医療行政へ落とせる男。
ターニャの知る未来では、決して軽く扱える名前ではない。だが、この場でそれを語る必要はない。善悪の裁判を始める場所でもない。
ここはベルリンで、戦争の最中で、総統の薬瓶を国家管理へ戻すための机の前だった。
「理由を言え」
「ブラントは、患者の前で涙ぐむ医者ではない。国家が決めた方針を、医療の手順へ落とすことができる。総統命令を受け、行政を動かし、医療の現場へ通せる」
「優しい医者ではない、ということか」
「優しさなら他を当たれ。君が欲しいのは、記録を残し、命令を医療へ変換し、現場を従わせられる人間だろう」
「そうだ」
「ならブラントだ」
ドクトルは、即答した。
その迷いのなさが、かえって厄介だった。彼はブラントを善人として推していない。有能な部品として推している。国家の目的に沿って医療を動かす人間。感傷で手を止めず、命令を手続きへ変える人間。
いまのドイツにおいて、それは評価だった。
ターニャは、受話器を少し持ち直した。
「モレルの後任にはしない」
「当然だ。今そんなことをすれば、モレルは総統へ泣きつく」
「補助医だ。最初は」
「補助医、監査役、記録の保全係。言葉はいくらでもある」
「余計な言葉を増やすな」
「では、補助医でよい」
「監査役の色は外へ出さない」
「出さずとも、仕事がそうなる」
ドクトルは、すでに面白がっている。真面目ではあるが、厄介な種類の真面目さだった。問題の構造を理解したうえで、その複雑さを楽しんでいる。
ターニャは、話を短く切った。
「ブラントは、モレルの治療を否定せずに記録へ入れるか」
「できる。少なくとも、できる顔を持っている」
「顔では困る」
「肩書きと言い直そう。総統の随伴医として通せる。国家の医療政策を扱ってきた実績もある。医療を個人の親切ではなく、命令と行政で動かす男だ」
「総統が受け入れる余地は」
「ある。モレルほど私的な寵臣ではない。だが、総統の周辺で国家の医師として置くには不足しない」
「親衛隊側の体裁は、ゲプハルトで整える」
「ふむ。ゲプハルトは親衛隊の医師としての札になる。だが、総統のそばへ差し込むには少々硬い」
「ヒムラー閣下も同じ見立てだ」
「それなら話は早い」
ドクトルは、何かを書き始めたようだった。ペン先が走る音が、受話器越しに小さく聞こえる。
「待て。何を書いている」
「紹介状の骨子だ」
「勝手に書くな」
「君が医者を紹介しろと言った」
「紹介状を寄越せとは言っていない」
「だが、必要になる」
ターニャは、目頭を押さえたくなった。
押さえない。
受話器を持ったまま、淡々と返す。
「こちらで文書に落とす。お前は要点だけ言え」
「要点か。よろしい。ブラントは、モレルの薬瓶を奪う男ではない。最初は、総統健康管理の記録を整える補助医として置く。薬品名の対応表、注射剤の保管、診療記録の写し、立会者の運用。そのあたりから入る」
「続けろ」
「モレルには、負担軽減と言う。総統には、対英戦を控えた健康管理の安定化と言う。親衛隊には、警護上の確認強化と言う。医務側には、記録形式の統一と言う」
「言い方が多い」
「相手が多いからだ」
そこは正しい。
ターニャは、反論しなかった。
ドクトルは、さらに続けた。
「ブラントを善良な医者として出すな。彼をそのように扱うと、モレルとの比較が患者への愛想になる。そんな土俵は不要だ」
「善人は要らない。記録を残せる人間が要る」
「なら、やはりブラントだ」
電話の向こうで、ドクトルが椅子に腰掛けたような音がした。
「君は分かっているだろうが、国家衛生政策は、柔らかい心では処理できん。生きる価値のない者、遺伝的に負担となる者、帝国の身体を弱らせるもの。そうした対象を、感傷でなく国家の目的として扱える医師が要る。ブラントは、その手続きを知っている」
ターニャは、受話器を持つ手を動かさなかった。
ドクトルの言葉は、この国家が当然のように使う言葉だった。ユダヤ人、スラヴ人、ロマ、障害者、敵性民族。彼らはこの体制の中では、人間としてではなく、分類と処理対象として扱われる。国家衛生、民族衛生、労働力、負担、危険因子。言葉が変わるだけで、結論は冷たい。
そして、その冷たさを実務へ落とせる者が、ここでは有能と呼ばれる。
ターニャは、その価値観を正す立場にはいない。
今必要なのは、国家の中枢にある薬瓶を個人医から切り離すことだった。
「その話は、今は外へ出すな」
「無論だ。紹介状に『処分がうまい』などとは書かん」
「書いたら燃やす」
「怖い怖い。では、総統命令に基づく医療行政経験とでも書くか」
「それでいい。余計な装飾はいらない」
「国家目的に即した医療運用能力」
「まだ硬い」
「総統健康管理体制への適応能力」
「使える」
「記録形式の統一に関する助言」
「それも使える」
「モレル医師の負担軽減」
「前に出す」
「実態は」
「言うな」
ドクトルは笑った。
「君は本当に、夢のない書式にするのが上手い」
「夢で総統の薬品棚を管理するな」
「もっともだ」
ターニャは、手元の白紙に短く書き始めた。
カール・ブラント。
補助医。
総統健康管理体制の記録整理。
医療行政経験。
薬品名称対応表。
診療記録の保全。
立会者運用。
医務側の負担軽減。
国家保安本部への写し。
最後の一行は、すぐに線を引いた。
国家保安本部への写しは、表に出すには早い。
内部欄へ移す。
「ブラントは、モレルと正面からぶつかるか」
「置き方次第だ。後任と見せればぶつかる。補助と見せれば、最初は飲む余地がある」
「最初は、か」
「永遠に飲むわけがないだろう。だが、最初を通せれば十分だ。椅子を置けば、人はその椅子がある前提で動くようになる」
「椅子ではなく欄だ」
「では、欄だ。君らしい」
ターニャは、ペンを止めた。
「ドクトル」
「何だ」
「ブラントを紹介する文面は、治療能力ではなく、記録能力で作る。異論は」
「ない。だが、記録能力だけでは弱い。総統周辺へ入れる理由がいる」
「対英戦を控えた健康管理の安定化」
「よい。総統は忙しい。勝利の後で次の戦いがある。モレル一人へ負担が集中している。そこで補助医を置く。美しい」
「美しくなくていい。通ればいい」
「通るために美しくするのだよ、少佐」
「装飾は削る」
「君は私の芸術を理解しない」
「理解したくない」
少しだけ、会話の温度が戻った。
だが、すぐにターニャは戻す。
「ブラントの実績は、どう書けばよい」
「総統命令に基づく医療行政への関与。国家衛生政策の実務経験。医療記録と行政手続きの接続能力。これでよい」
「T4の名は出さない」
「出す必要はない。知る者は分かる」
「知る者にだけ分かればいい」
「そういうことだ」
ドクトルの声は、淡々としていた。
彼は、ブラントを慈悲深い医者として語らない。帝国の医療を国家目的へ向けて動かせる人間として語る。障害者を処分し、民族共同体の負担を減らすという体制の論理を、実務へ落とした医師。その実績は、この国家の内部では冷たい賞賛の対象になる。
ターニャは、その冷たさを利用する。
利用しなければ、モレルの私的な裁量へ対抗する札が足りない。
「ブラントに、モレルの診療記録を見せる範囲は」
「最初は形式だけだ。薬品名の対応、数量、時刻、保管、署名。処方の妥当性は見せない」
「同意見だ」
「処方に触れれば、モレルは噛む。形式なら、負担軽減で通せる」
「立会者欄は」
「入れる。ただし、監視ではなく引き継ぎ補助と言う」
「引き継ぎという語は避けたい」
「では、補助記録」
「使える」
「診療鞄は」
「持込目録へ入れている」
「なら、ブラントには目録の読み方だけ教えればよい。鞄そのものを開けさせるな」
「当然だ」
「君は時々、当然を当然にやるから怖い」
「褒め言葉として聞いておく」
「褒めているとも」
ターニャは、受話器の向こうの声から少し離れるように、椅子へ浅く座った。
話は見えてきた。
ブラントを後任とは書かない。
補助医とする。
モレルの負担軽減を前面に出す。
対英戦を控えた総統健康管理の安定化を理由にする。
薬品搬入、注射剤保管、診療記録、立会者、補助記録の統一を目的にする。
ゲプハルトは親衛隊側の形式確認に留める。
ドクトルは技術的助言者として、紹介の根拠を裏で支える。
そして、国家保安本部の写しは、まだ表へ出さない。
「ドクトル、紹介状は書くな」
「まだ言うか」
「書くな。こちらで作る」
「では、私の名はどう使う」
「技術的助言者として、推薦根拠の補助に使う」
「実に地味だ」
「地味だから使える」
「私はもっと壮麗な」
「要らん」
即座に切った。
ドクトルは、少し残念そうに息を吐いた。
「よろしい。では、私からは口頭助言という形でよいな」
「そうだ。文書化するなら、こちらから照会を出す」
「期限は」
「今日中に草案を作る。必要なら明日、確認を回す」
「急ぐな」
意外な言葉だった。
ターニャは、少しだけ黙った。
「お前がそれを言うのか」
「言うとも。モレルは総統の近くにいる。速すぎる手は、彼に自分が狙われていると教える」
「分かっている」
「ブラントを呼ぶなら、総統のためという顔を崩すな。モレルのためでもあると言え。あの男は、自分が助けられる側だと思えば、すぐには牙をむかん」
「すぐには、か」
「永遠には無理だ」
「十分だ」
ターニャは、メモの最後に書いた。
最初は補助。
次に記録。
最後に裁量の分割。
そこまで書いて、すぐに最後の行へ線を引いた。
裁量の分割は、まだ早い。
今の文書に必要なのは、最初の二つだけだ。
補助。
記録。
その二語で押す。
「話は終わりだ」
「もう少し感謝してもよいのではないか」
「感謝は、使える名前だった場合にする」
「ブラントで外したことはない」
「その自信が鬱陶しい」
「君のそういう率直さは嫌いではないぞ、少佐殿――」
「切るぞ」
「少佐。今のは言いかけただけだ」
「言いかけるな」
ドクトルは笑った。
今度の笑いには、いつもの調子が戻っていた。
「では、少佐。記録へ戻せ。薬瓶を魔法の小瓶にするな。瓶は瓶だ。誰が持ち込み、誰が開け、誰が見たか。それだけで、随分と夢は消える」
「やっとまともなことを言ったな」
「私はいつもまともだ」
「切る」
「ブラントだ。忘れるな」
「忘れん」
ターニャは、受話器を置いた。
部屋が静かになった。
しばらく、誰も話さなかった。ドクトルの声が消えると、机の上の紙だけが残る。薬品、記録、伝達、会議、補助医、ブラント。全てが、まだ正式な命令にはなっていない。
だが、道はできた。
セレブリャコーフが、控えを確認する。
「ブラント医師を、総統健康管理体制の補助医として整理します。後任とは書きません」
「そうだ。後任と書くな。補助だ。最初はな」
「役割は、記録形式、薬品名称対応表、注射剤保管、補助記録、立会者運用」
「処方の適否は除外」
「はい」
「ゲプハルト医師は、親衛隊側の形式確認者として別紙」
「分けます」
EVAが、机上の白紙を見た。
「名前、入った」
「条件を満たす名だ」
「危険」
「知っている」
「使う?」
「使う」
ターニャは、ペンを取った。
新しい文書の表題を書く。
総統健康管理体制に関する補助医配置準備案。
まだ、配置案ではない。
準備案。
この一語で、紙の強さが少し落ちる。
落とさなければならない。
強すぎる紙は、早く燃える。
ターニャは、本文の最初に書いた。
対英戦準備に伴い、総統の会議、移動、接見が増加する見込みである。健康管理の継続性を確保し、現担当医の負担を軽減するため、補助医の配置および記録形式の整理を準備する。
モレルを外すとは書かない。
監査とも書かない。
薬品棚を分けるとも、国家保安本部へ写しを流すとも、まだ書かない。
ただ、負担軽減。
継続性。
記録形式。
補助医。
それだけを表に置く。
実態は、その後ろに入れる。
セレブリャコーフが、清書用の用紙を準備した。
「この草案は、ヒムラー閣下へ先に回しますか」
「先に私が見る。余計な言葉を削る」
「はい」
「ドクトルの名は、本文に出すな。別添の助言記録に留める」
「承知しました」
「ブラントの実績は、総統命令に基づく医療行政経験と書け。国家衛生政策の詳細は出さない」
「はい」
「分かる者には、それで分かる」
ターニャは、ペンを進めた。
ブラントの名は、ついに紙の上へ置かれた。
だが、後任としてではない。
補助医として。
監査役としても、まだ書かない。
最初は、総統を守るための補助。
モレルを助けるための記録整理。
それが、薬瓶へ細い鎖をかける最初の文面だった。
細い鎖は、最初から鎖として見せてはいけない。
ターニャは、草案の余白に小さく線を引いた。表へ出す文言と、内部だけで扱う文言を分けるためだった。補助医、負担軽減、記録形式、健康管理の継続性。ここまでは表に置ける。
薬品棚の分割。
診療鞄の中身の照合。
国家保安本部への写し。
モレルの単独裁量の縮小。
この四つは、まだ奥へ置く。
見せる順番を間違えれば、正しい処理も攻撃に見える。攻撃に見えれば、モレルは総統の信頼へ逃げる。総統が一度庇えば、話は医療管理ではなく忠誠と信任の問題へ変わる。
それは避けなければならない。
「少尉、表向きの目的を三つに絞る」
「健康管理の継続性、現担当医の負担軽減、記録形式の整理ですね」
「そうだ。警護上の危険低減は、二枚目へ回せ」
「本文には入れませんか」
「入れない。最初から警護を前に出すと、モレルが身構える」
「承知しました」
セレブリャコーフは、清書用の控えを作り直した。彼女はもう、一度書いたものを削ることに慣れている。惜しまない。残すべきものだけ残す。それができる副官は貴重だった。
EVAは、ブラントの名が入った欄を見ている。
「重い」
「名前がか」
「経歴」
「軽い名前では使えない」
「軽い方が、静か」
「静かでも通らなければ意味がない」
EVAは頷いた。
「通る。騒ぐ」
「だろうな」
ターニャは、ブラントの経歴欄を開いた。
書き方を誤ると、血の匂いが強くなりすぎる。だが、薄めすぎると、なぜその人物を置くのかが分からない。
総統命令に基づく医療行政への関与。
国家衛生政策における実務経験。
記録、手順、関係部署間調整の処理能力。
民族共同体の維持を目的とする医療政策への理解。
ここまでは、親衛隊側の文書として通る。
それ以上は、書かない。
精神病者、遺伝性疾患、労働不能者。国民共同体の負担とされた者たちを、病院から統計へ、統計から移送へ、移送から処理へ流した経歴は、この国家の内部では汚点ではなく実績になる。ユダヤ人やロマ、スラヴ系住民に向けられる扱いと同じように、人間は名前より分類で動かされる。
その冷たさを、ブラントは知っている。
だから使える。
ターニャは、そこまで考えてから、文面を削った。
感傷を削るのではない。
不要な露出を削る。
これは告発文ではない。推薦根拠である。推薦根拠は、読み手に必要なだけ知らせればよい。
「ブラント医師の実績欄は、国家衛生政策の実務経験までで止める」
「T4の名称は入れませんか」
「入れるな。ここで符号を出す必要はない」
「はい」
「ヒムラー閣下が読めば分かる。ハイドリヒ長官も分かる。分からない者に説明する文書ではない」
「承知しました」
「それと、障害者処理の詳細は書かない。必要なのは、国家命令を医療手続へ変えられる能力だ」
「その形で整えます」
セレブリャコーフは、経歴欄を短くした。
ブラントの名が軽くなったわけではない。
むしろ、余計な説明が消えたことで、重さだけが残った。
ターニャは、それでよいと思った。
短い文言ほど、知っている者にはよく響く。
ドクトルの助言記録も整理する必要があった。
電話での会話をそのまま残すわけにはいかない。ドクトルの言い回しは、文書にすると使えない部分が多すぎる。芸術だの夢だの、総統の薬品棚に持ち込むには余計だった。
ターニャは、助言記録の見出しを作った。
技術的助言者による所見。
一、補助医は現担当医の代替ではなく、記録形式の統一を担う。
二、診療内容ではなく、薬品名称、数量、保管、時刻、立会者の整理を扱う。
三、総統健康管理の継続性を理由に配置する。
四、医療行政経験を持つ者が望ましい。
五、候補としてカール・ブラント医師を挙げる。
ここまでなら、使える。
ターニャは、六番目を書かなかった。
モレルが噛みつく。
ドクトルの言葉としては正しい。だが、文書には向かない。
「ドクトルの助言記録は、この五項目で止めろ」
「通話全文は残しますか」
「内部控えとしては残す。ただし回付しない」
「はい」
「電話で出た比喩は全部削れ」
「全部ですね」
「全部だ」
セレブリャコーフは、わずかに困ったように目を伏せた。
おそらく、削る箇所が多いのだろう。
ターニャは気にしなかった。ドクトルの言葉は、研究室でなら意味を持つ。会議用の文書では邪魔になる。使うのは骨だけでよい。肉は削る。
EVAが、通話控えの一行を指した。
「ここ」
ターニャは見る。
薬瓶を魔法の小瓶にするな。
ドクトルの言葉だった。
「それは削る」
「残る」
「どこに」
「頭」
「なら十分だ」
EVAは、指を離した。
ターニャは、改めて草案を読み返した。
総統健康管理体制に関する補助医配置準備案。
対英戦準備に伴い、総統の会議、移動、接見が増加する見込みである。健康管理の継続性を確保し、現担当医の負担を軽減するため、補助医の配置および記録形式の整理を準備する。
候補者。
カール・ブラント医師。
配置目的。
現担当医の診療継続を前提とし、記録形式、薬品名称対応、保管確認、立会者運用、補助記録を整理する。
備考。
候補者は総統命令に基づく医療行政への関与、および国家衛生政策における実務経験を有する。
まだ硬い。
だが、使える硬さだった。
「少尉、備考を少し下げろ」
「下げる、ですか」
「本文ではなく別添の経歴欄へ移す。本文にブラントの政治的な重さを出しすぎるな」
「はい。本文には候補者名と配置目的だけを残します」
「そうだ。実績は必要な者だけが見る」
「別添扱いにします」
ターニャは、机の上に二つの束を作った。
表。
裏。
表には、総統の健康管理とモレルの負担軽減。
裏には、記録形式、保管、立会者、薬品名、国家保安本部への写し、ブラントの実績。
同じ提案でも、見る者によって表情を変える。
嘘ではない。
全て本当だ。
ただし、順番が違う。
国家を動かす文書の多くは、その順番でできている。
しばらくして、研究室側から折り返しの小さな通話が入った。
セレブリャコーフが取り、すぐにターニャへ受話器を差し出す。
「ドクトルです。追加で一言だけ、と」
ターニャは、嫌な予感を覚えた。
「一言で済む男ではない」
「出ますか」
「出る」
受話器を受け取る。
「何だ」
「本当に一言だ」
「早く言え」
「ブラントに会わせる時、モレルの記録を最初から全部見せるな」
「それは決めている」
「なら、よい。もう一つ」
「一言ではなかったな」
「大切な一言が増えた」
「切るぞ」
「待て。ブラントは、曖昧な記録を嫌う。見せれば、おそらく『引き継げない』と言う」
ターニャは、少しだけ動きを止めた。
その言葉は使える。
「続けろ」
「彼はモレルを嫌うかもしれん。だが、嫌うからではなく、記録として読めないから拒む。そこを使え」
「つまり、人格ではなく引き継ぎ不能か」
「そうだ。医師同士の好悪にするな。医療継続上の不便にしろ」
「使える」
「感謝は」
「まだだ」
「実に渋い」
ドクトルは、少し楽しそうだった。
「もう一つだけ」
「増えるな」
「これで最後だ。ブラントは、国家の仕事を理解する。ユダヤ人や劣等な東方人種に関する衛生上の処理、遺伝病者への措置、そういうものを、感傷で止める男ではない。だから、総統周辺でも私情ではなく命令で動ける」
「その言い方は外へ出せない」
「出す必要はない。君が知っていればよい」
「分かった」
「今のは本当に最後だ」
「では切る」
「少佐、君は――」
ターニャは、今度こそ受話器を置いた。
静かになった室内で、セレブリャコーフが控えを待っている。
「追加助言は」
「ブラントは曖昧な記録を嫌う。最初から全量を見せるな。引き継ぎ不能という言葉を使える」
「記録します」
「もう一つは、内部にも書くな」
「はい」
セレブリャコーフは、余計な確認をしなかった。
ターニャは、助言記録へ一行だけ加えた。
補助医には、現担当医の診療内容を評価させず、記録形式上の引き継ぎ可否のみ確認させる。
これは強い。
モレルの治療を否定しない。
ブラントを後任にも見せない。
だが、記録が引き継げないと言わせることはできる。
引き継げない記録は、国家の中枢には置けない。
ターニャは、草案の本文へ戻った。
補助医配置の目的に、新しい文を足す。
現担当医の診療継続を妨げず、必要時に補助医が記録を確認できる体制を整えることで、健康管理の引き継ぎ可能性を確保する。
引き継ぎ。
この語は少し危ない。
先ほど自分で避けた言葉だ。
ターニャは、すぐに線を引いた。
補助記録。
こちらにする。
現担当医の診療継続を妨げず、補助医が記録形式を確認できる体制を整えることで、健康管理の補助記録を確保する。
弱くなった。
だが、通しやすい。
通してから強くすればよい。
「少尉、この文で清書しろ」
「はい。『引き継ぎ』は使いません」
「まだ使うな。モレルが読む可能性がある文書には向かない」
「承知しました」
「内部控えには、引き継ぎ不能の観点を残す」
「別紙に分けます」
EVAが、二枚の文書を見た。
「二枚」
「表と裏だ」
「三枚目」
「何だ」
「本音」
ターニャは、一瞬だけEVAを見た。
「本音は書かない」
「残らない」
「残らない方がいいものもある」
EVAは、黙って頷いた。
本音を書けば、そこから崩れる。総統の個人医の裁量を削る。薬品と記録を分ける。ブラントを補助医として入れ、モレルの周囲に立会者と保管欄を置く。国家保安本部へ写しを流し、後で動けるようにする。
それが本音だ。
だが、本音は命令書に向かない。
本音は、欄と期限と署名に分解してから使う。
ターニャは、草案の下部に期限を書いた。
補助医配置準備案、初稿。本日中にヒムラー個人幕僚部へ提出。
ブラント医師への打診文案、別紙。翌日正午までに整備。
ゲプハルト医師への形式確認照会、別紙。先行して回付可。
ドクトル助言記録、内部控え。限定保管。
期限が入ると、文書は動き出す。
期限のない案は、机に残る。期限のある案は、誰かを呼ぶ。
セレブリャコーフが、清書した草案を差し出した。
「確認をお願いします」
ターニャは、最初から最後まで目を通した。
対英戦準備。
総統健康管理。
現担当医の負担軽減。
補助医。
記録形式。
ブラント。
総統命令に基づく医療行政経験。
国家衛生政策の実務経験。
そこに、直接的な攻撃はない。
モレルへの非難もない。
だが、読む者が読めば分かる。
これは、単なる補助ではない。
単独で動いていた診療を、複数の欄へ分ける第一歩だった。
「よし」
ターニャは、署名欄の前でペンを止めた。
署名すれば、この紙は自分の責任になる。
当然だ。
責任を置けない文書に価値はない。
彼女は、署名した。
インクが黒く光る。
乾くまでのわずかな間、ターニャはその文字を見ていた。
細い鎖。
そう呼ぶには、まだ軽すぎる。
だが、鎖は最初の一環から始まる。
モレルの薬瓶に直接触れる前に、ブラントの名が補助医として机に載った。
それだけで、次の手はもう戻らない。
次回はまた特別回を挟むかもです
次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)
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イギリス戦方面
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帝国内政(モレル関連)