幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第4節 医者ではない博士の紹介状 前半

 

 技術的助言者への限定照会。

 

 白紙に置いたその題名は、しばらく机の上で乾いたままだった。

 

 ターニャは、すぐに電話を取らなかった。電話を取れば、相手は出る。出れば話す。話せば、こちらが望む以上に広がる。ドクトルという男は、要点を与えると発明へ飛び、空白を見せると未来を語り、危険を示すと目を輝かせる。使えるが、扱いには手間がかかる。

 

 手間がかかる相手を呼ぶ時は、先に欄を作っておかなければならない。

 

 ターニャは、照会用の項目を一枚に絞った。

 

 一、医療記録を警護記録へ接続できる医師の条件。

 

 二、総統随行区画に入れても、医務側と正面衝突しにくい人物。

 

 三、モレル医師の治療を否定せず、記録の形式だけを整えられる者。

 

 四、国家の命令を医療行政へ落とせる実務能力。

 

 五、親衛隊側の確認経路に乗せられること。

 

 そこまで書いて、六番目は空けた。

 

 善良さ。

 

 そこは要らない。

 

 必要なのは、優しい医者ではない。患者の手を握り、柔らかい言葉をかけ、周囲を安心させる人物でもない。今いるのは、総統の近くに出入りする薬品と診療の控えを、読める形に戻せる人間だ。

 

 善人ではなく、書式を守る人間。

 

 それが要る。

 

 セレブリャコーフが、電話交換へ回す番号を書いた控えを差し出した。

 

「研究室側へ、予定確認の連絡が取れました。ドクトルは在室とのことです」

 

「逃げ場がないな」

 

「はい」

 

「いや、こちらの話だ」

 

 セレブリャコーフは、何も言わずに受話器を置いた。余計な笑いを挟まないのは、実に優秀だった。

 

 EVAは、窓際で立っている。相変わらず、そこにいるだけで圧がある。手には、第一群A一の更新票を持っていた。伝達経路、内線記録、立会者未記載。総統の診療室から会議室へ伸びる道は、完全ではないが形を持ち始めている。

 

 ターニャは、それを見てから受話器を取った。

 

 回線がつながるまでの短い無音が、妙に長い。

 

 やがて、向こうで何かが倒れる音がした。

 

「もしもし、こちら研究室だ! いや待て、その箱は触るな。番号が逆になる!」

 

 ターニャは、目を閉じかけた。

 

「ドクトルか」

 

「おお、その声は。少佐殿――」

 

「その呼び方は要らん」

 

「では少佐。ずいぶん冷たい入り方ではないか。勝利のあとには、もう少し華やかな話を持ってきてくれてもよいだろう」

 

「華やかさはない。医者を紹介しろ」

 

 向こうで、一瞬だけ音が止まった。

 

「私は医者ではないぞ」

 

「知っている。だから聞いている」

 

「ほう」

 

 ドクトルの声が、少し変わった。

 

 まだ面白がっている。だが、こちらの言い方に引っかかったらしい。彼は、ふざけていても、要点が変な場所にあると気づく。

 

「医者に聞けば、治療の話になる。私が欲しいのは、治療の話ではない」

 

「では何だ」

 

「医療を記録へ戻せる人間だ」

 

 電話の向こうで、紙をどかす音がした。

 

 ターニャは続けた。

 

「薬の効き目は聞いていない。処方の善し悪しも聞かない。総統随行区画へ入る薬品、診療鞄、処置時刻、立会者、保管場所、伝達経路。これを読める形にする人間が要る」

 

「随分と物騒な相談だな」

 

「物騒にしたくないから、お前に聞いている」

 

「私に聞く時点で、既に相当な物騒さだと思うが」

 

「黙って答えろ」

 

 ドクトルは、喉の奥で笑った。

 

「よろしい。まず確認だ。君は医者を探しているのではない。医療の言葉を、行政と警護が読める書式に翻訳できる者を探している」

 

「そうだ」

 

「そして、治療の妥当性を裁くつもりはない」

 

「ない」

 

「だが、医師の私的な判断だけで総統の近くへ薬品が入ることを避けたい」

 

「その言い方でいい」

 

「誰だ」

 

 ターニャは、少しだけ受話器を持つ手に力を入れた。

 

 ここをぼかしても意味はない。ドクトルは、相手の名が出なければ余計な方向へ推理を始める。早めに言った方が、面倒が少ない。

 

「モレルだ」

 

 沈黙。

 

 今度は、明らかに質が違った。

 

 向こうで聞こえていた小さな物音が止まる。研究助手へ何かを叫ぶ声もない。ドクトルが受話器を持ち直した気配がした。

 

「総統の個人医か。なるほど、治療ではなく権限の話だな」

 

 ターニャは、わずかに口元を動かした。

 

「やっと話が通じたな」

 

「最初から通じているとも。君が相変わらず、肝心な名を後ろへ置くからだ」

 

「先に出すと、お前は騒ぐ」

 

「否定はせん」

 

 ドクトルの声から、ふざけた響きが減っていた。

 

「モレルは、医者としての腕だけでそこにいるわけではない。総統の習慣、好み、信頼、体調の波。そこへ入り込んでいる。正面から腕を論じても無駄だ」

 

「分かっている」

 

「薬の中身を論じても、彼は自分の領分に引き込む。君が言う通り、治療の話にされる」

 

「だから、記録に戻す」

 

「正しい。嫌なほど正しい」

 

 ドクトルは、そこで一拍置いた。

 

「だが、医療の記録を整えるには、医療側が黙っていられるだけの顔がいる。親衛隊の書記官だけでは、医者どもは鼻で笑う」

 

「その顔を聞いている」

 

「カール・ブラント」

 

 名前は、短く出た。

 

 ターニャは、反応しなかった。

 

 いや、正確には、反応を外へ出さなかった。

 

(よりによって、そこか)

 

 内心だけが、薄く動く。

 

 カール・ブラント。

 

 総統に近い医師。

 

 国家の命令を医療行政へ落とせる男。

 

 ターニャの知る未来では、決して軽く扱える名前ではない。だが、この場でそれを語る必要はない。善悪の裁判を始める場所でもない。

 

 ここはベルリンで、戦争の最中で、総統の薬瓶を国家管理へ戻すための机の前だった。

 

「理由を言え」

 

「ブラントは、患者の前で涙ぐむ医者ではない。国家が決めた方針を、医療の手順へ落とすことができる。総統命令を受け、行政を動かし、医療の現場へ通せる」

 

「優しい医者ではない、ということか」

 

「優しさなら他を当たれ。君が欲しいのは、記録を残し、命令を医療へ変換し、現場を従わせられる人間だろう」

 

「そうだ」

 

「ならブラントだ」

 

 ドクトルは、即答した。

 

 その迷いのなさが、かえって厄介だった。彼はブラントを善人として推していない。有能な部品として推している。国家の目的に沿って医療を動かす人間。感傷で手を止めず、命令を手続きへ変える人間。

 

 いまのドイツにおいて、それは評価だった。

 

 ターニャは、受話器を少し持ち直した。

 

「モレルの後任にはしない」

 

「当然だ。今そんなことをすれば、モレルは総統へ泣きつく」

 

「補助医だ。最初は」

 

「補助医、監査役、記録の保全係。言葉はいくらでもある」

 

「余計な言葉を増やすな」

 

「では、補助医でよい」

 

「監査役の色は外へ出さない」

 

「出さずとも、仕事がそうなる」

 

 ドクトルは、すでに面白がっている。真面目ではあるが、厄介な種類の真面目さだった。問題の構造を理解したうえで、その複雑さを楽しんでいる。

 

 ターニャは、話を短く切った。

 

「ブラントは、モレルの治療を否定せずに記録へ入れるか」

 

「できる。少なくとも、できる顔を持っている」

 

「顔では困る」

 

「肩書きと言い直そう。総統の随伴医として通せる。国家の医療政策を扱ってきた実績もある。医療を個人の親切ではなく、命令と行政で動かす男だ」

 

「総統が受け入れる余地は」

 

「ある。モレルほど私的な寵臣ではない。だが、総統の周辺で国家の医師として置くには不足しない」

 

「親衛隊側の体裁は、ゲプハルトで整える」

 

「ふむ。ゲプハルトは親衛隊の医師としての札になる。だが、総統のそばへ差し込むには少々硬い」

 

「ヒムラー閣下も同じ見立てだ」

 

「それなら話は早い」

 

 ドクトルは、何かを書き始めたようだった。ペン先が走る音が、受話器越しに小さく聞こえる。

 

「待て。何を書いている」

 

「紹介状の骨子だ」

 

「勝手に書くな」

 

「君が医者を紹介しろと言った」

 

「紹介状を寄越せとは言っていない」

 

「だが、必要になる」

 

 ターニャは、目頭を押さえたくなった。

 

 押さえない。

 

 受話器を持ったまま、淡々と返す。

 

「こちらで文書に落とす。お前は要点だけ言え」

 

「要点か。よろしい。ブラントは、モレルの薬瓶を奪う男ではない。最初は、総統健康管理の記録を整える補助医として置く。薬品名の対応表、注射剤の保管、診療記録の写し、立会者の運用。そのあたりから入る」

 

「続けろ」

 

「モレルには、負担軽減と言う。総統には、対英戦を控えた健康管理の安定化と言う。親衛隊には、警護上の確認強化と言う。医務側には、記録形式の統一と言う」

 

「言い方が多い」

 

「相手が多いからだ」

 

 そこは正しい。

 

 ターニャは、反論しなかった。

 

 ドクトルは、さらに続けた。

 

「ブラントを善良な医者として出すな。彼をそのように扱うと、モレルとの比較が患者への愛想になる。そんな土俵は不要だ」

 

「善人は要らない。記録を残せる人間が要る」

 

「なら、やはりブラントだ」

 

 電話の向こうで、ドクトルが椅子に腰掛けたような音がした。

 

「君は分かっているだろうが、国家衛生政策は、柔らかい心では処理できん。生きる価値のない者、遺伝的に負担となる者、帝国の身体を弱らせるもの。そうした対象を、感傷でなく国家の目的として扱える医師が要る。ブラントは、その手続きを知っている」

 

 ターニャは、受話器を持つ手を動かさなかった。

 

 ドクトルの言葉は、この国家が当然のように使う言葉だった。ユダヤ人、スラヴ人、ロマ、障害者、敵性民族。彼らはこの体制の中では、人間としてではなく、分類と処理対象として扱われる。国家衛生、民族衛生、労働力、負担、危険因子。言葉が変わるだけで、結論は冷たい。

 

 そして、その冷たさを実務へ落とせる者が、ここでは有能と呼ばれる。

 

 ターニャは、その価値観を正す立場にはいない。

 

 今必要なのは、国家の中枢にある薬瓶を個人医から切り離すことだった。

 

「その話は、今は外へ出すな」

 

「無論だ。紹介状に『処分がうまい』などとは書かん」

 

「書いたら燃やす」

 

「怖い怖い。では、総統命令に基づく医療行政経験とでも書くか」

 

「それでいい。余計な装飾はいらない」

 

「国家目的に即した医療運用能力」

 

「まだ硬い」

 

「総統健康管理体制への適応能力」

 

「使える」

 

「記録形式の統一に関する助言」

 

「それも使える」

 

「モレル医師の負担軽減」

 

「前に出す」

 

「実態は」

 

「言うな」

 

 ドクトルは笑った。

 

「君は本当に、夢のない書式にするのが上手い」

 

「夢で総統の薬品棚を管理するな」

 

「もっともだ」

 

 ターニャは、手元の白紙に短く書き始めた。

 

 カール・ブラント。

 

 補助医。

 

 総統健康管理体制の記録整理。

 

 医療行政経験。

 

 薬品名称対応表。

 

 診療記録の保全。

 

 立会者運用。

 

 医務側の負担軽減。

 

 国家保安本部への写し。

 

 最後の一行は、すぐに線を引いた。

 

 国家保安本部への写しは、表に出すには早い。

 

 内部欄へ移す。

 

「ブラントは、モレルと正面からぶつかるか」

 

「置き方次第だ。後任と見せればぶつかる。補助と見せれば、最初は飲む余地がある」

 

「最初は、か」

 

「永遠に飲むわけがないだろう。だが、最初を通せれば十分だ。椅子を置けば、人はその椅子がある前提で動くようになる」

 

「椅子ではなく欄だ」

 

「では、欄だ。君らしい」

 

 ターニャは、ペンを止めた。

 

「ドクトル」

 

「何だ」

 

「ブラントを紹介する文面は、治療能力ではなく、記録能力で作る。異論は」

 

「ない。だが、記録能力だけでは弱い。総統周辺へ入れる理由がいる」

 

「対英戦を控えた健康管理の安定化」

 

「よい。総統は忙しい。勝利の後で次の戦いがある。モレル一人へ負担が集中している。そこで補助医を置く。美しい」

 

「美しくなくていい。通ればいい」

 

「通るために美しくするのだよ、少佐」

 

「装飾は削る」

 

「君は私の芸術を理解しない」

 

「理解したくない」

 

 少しだけ、会話の温度が戻った。

 

 だが、すぐにターニャは戻す。

 

「ブラントの実績は、どう書けばよい」

 

「総統命令に基づく医療行政への関与。国家衛生政策の実務経験。医療記録と行政手続きの接続能力。これでよい」

 

「T4の名は出さない」

 

「出す必要はない。知る者は分かる」

 

「知る者にだけ分かればいい」

 

「そういうことだ」

 

 ドクトルの声は、淡々としていた。

 

 彼は、ブラントを慈悲深い医者として語らない。帝国の医療を国家目的へ向けて動かせる人間として語る。障害者を処分し、民族共同体の負担を減らすという体制の論理を、実務へ落とした医師。その実績は、この国家の内部では冷たい賞賛の対象になる。

 

 ターニャは、その冷たさを利用する。

 

 利用しなければ、モレルの私的な裁量へ対抗する札が足りない。

 

「ブラントに、モレルの診療記録を見せる範囲は」

 

「最初は形式だけだ。薬品名の対応、数量、時刻、保管、署名。処方の妥当性は見せない」

 

「同意見だ」

 

「処方に触れれば、モレルは噛む。形式なら、負担軽減で通せる」

 

「立会者欄は」

 

「入れる。ただし、監視ではなく引き継ぎ補助と言う」

 

「引き継ぎという語は避けたい」

 

「では、補助記録」

 

「使える」

 

「診療鞄は」

 

「持込目録へ入れている」

 

「なら、ブラントには目録の読み方だけ教えればよい。鞄そのものを開けさせるな」

 

「当然だ」

 

「君は時々、当然を当然にやるから怖い」

 

「褒め言葉として聞いておく」

 

「褒めているとも」

 

 ターニャは、受話器の向こうの声から少し離れるように、椅子へ浅く座った。

 

 話は見えてきた。

 

 ブラントを後任とは書かない。

 

 補助医とする。

 

 モレルの負担軽減を前面に出す。

 

 対英戦を控えた総統健康管理の安定化を理由にする。

 

 薬品搬入、注射剤保管、診療記録、立会者、補助記録の統一を目的にする。

 

 ゲプハルトは親衛隊側の形式確認に留める。

 

 ドクトルは技術的助言者として、紹介の根拠を裏で支える。

 

 そして、国家保安本部の写しは、まだ表へ出さない。

 

「ドクトル、紹介状は書くな」

 

「まだ言うか」

 

「書くな。こちらで作る」

 

「では、私の名はどう使う」

 

「技術的助言者として、推薦根拠の補助に使う」

 

「実に地味だ」

 

「地味だから使える」

 

「私はもっと壮麗な」

 

「要らん」

 

 即座に切った。

 

 ドクトルは、少し残念そうに息を吐いた。

 

「よろしい。では、私からは口頭助言という形でよいな」

 

「そうだ。文書化するなら、こちらから照会を出す」

 

「期限は」

 

「今日中に草案を作る。必要なら明日、確認を回す」

 

「急ぐな」

 

 意外な言葉だった。

 

 ターニャは、少しだけ黙った。

 

「お前がそれを言うのか」

 

「言うとも。モレルは総統の近くにいる。速すぎる手は、彼に自分が狙われていると教える」

 

「分かっている」

 

「ブラントを呼ぶなら、総統のためという顔を崩すな。モレルのためでもあると言え。あの男は、自分が助けられる側だと思えば、すぐには牙をむかん」

 

「すぐには、か」

 

「永遠には無理だ」

 

「十分だ」

 

 ターニャは、メモの最後に書いた。

 

 最初は補助。

 

 次に記録。

 

 最後に裁量の分割。

 

 そこまで書いて、すぐに最後の行へ線を引いた。

 

 裁量の分割は、まだ早い。

 

 今の文書に必要なのは、最初の二つだけだ。

 

 補助。

 

 記録。

 

 その二語で押す。

 

「話は終わりだ」

 

「もう少し感謝してもよいのではないか」

 

「感謝は、使える名前だった場合にする」

 

「ブラントで外したことはない」

 

「その自信が鬱陶しい」

 

「君のそういう率直さは嫌いではないぞ、少佐殿――」

 

「切るぞ」

 

「少佐。今のは言いかけただけだ」

 

「言いかけるな」

 

 ドクトルは笑った。

 

 今度の笑いには、いつもの調子が戻っていた。

 

「では、少佐。記録へ戻せ。薬瓶を魔法の小瓶にするな。瓶は瓶だ。誰が持ち込み、誰が開け、誰が見たか。それだけで、随分と夢は消える」

 

「やっとまともなことを言ったな」

 

「私はいつもまともだ」

 

「切る」

 

「ブラントだ。忘れるな」

 

「忘れん」

 

 ターニャは、受話器を置いた。

 

 部屋が静かになった。

 

 しばらく、誰も話さなかった。ドクトルの声が消えると、机の上の紙だけが残る。薬品、記録、伝達、会議、補助医、ブラント。全てが、まだ正式な命令にはなっていない。

 

 だが、道はできた。

 

 セレブリャコーフが、控えを確認する。

 

「ブラント医師を、総統健康管理体制の補助医として整理します。後任とは書きません」

 

「そうだ。後任と書くな。補助だ。最初はな」

 

「役割は、記録形式、薬品名称対応表、注射剤保管、補助記録、立会者運用」

 

「処方の適否は除外」

 

「はい」

 

「ゲプハルト医師は、親衛隊側の形式確認者として別紙」

 

「分けます」

 

 EVAが、机上の白紙を見た。

 

「名前、入った」

 

「条件を満たす名だ」

 

「危険」

 

「知っている」

 

「使う?」

 

「使う」

 

 ターニャは、ペンを取った。

 

 新しい文書の表題を書く。

 

 総統健康管理体制に関する補助医配置準備案。

 

 まだ、配置案ではない。

 

 準備案。

 

 この一語で、紙の強さが少し落ちる。

 

 落とさなければならない。

 

 強すぎる紙は、早く燃える。

 

 ターニャは、本文の最初に書いた。

 

 対英戦準備に伴い、総統の会議、移動、接見が増加する見込みである。健康管理の継続性を確保し、現担当医の負担を軽減するため、補助医の配置および記録形式の整理を準備する。

 

 モレルを外すとは書かない。

 

 監査とも書かない。

 

 薬品棚を分けるとも、国家保安本部へ写しを流すとも、まだ書かない。

 

 ただ、負担軽減。

 

 継続性。

 

 記録形式。

 

 補助医。

 

 それだけを表に置く。

 

 実態は、その後ろに入れる。

 

 セレブリャコーフが、清書用の用紙を準備した。

 

「この草案は、ヒムラー閣下へ先に回しますか」

 

「先に私が見る。余計な言葉を削る」

 

「はい」

 

「ドクトルの名は、本文に出すな。別添の助言記録に留める」

 

「承知しました」

 

「ブラントの実績は、総統命令に基づく医療行政経験と書け。国家衛生政策の詳細は出さない」

 

「はい」

 

「分かる者には、それで分かる」

 

 ターニャは、ペンを進めた。

 

 ブラントの名は、ついに紙の上へ置かれた。

 

 だが、後任としてではない。

 

 補助医として。

 

 監査役としても、まだ書かない。

 

 最初は、総統を守るための補助。

 

 モレルを助けるための記録整理。

 

 それが、薬瓶へ細い鎖をかける最初の文面だった。

 

 

 

 細い鎖は、最初から鎖として見せてはいけない。

 

 ターニャは、草案の余白に小さく線を引いた。表へ出す文言と、内部だけで扱う文言を分けるためだった。補助医、負担軽減、記録形式、健康管理の継続性。ここまでは表に置ける。

 

 薬品棚の分割。

 

 診療鞄の中身の照合。

 

 国家保安本部への写し。

 

 モレルの単独裁量の縮小。

 

 この四つは、まだ奥へ置く。

 

 見せる順番を間違えれば、正しい処理も攻撃に見える。攻撃に見えれば、モレルは総統の信頼へ逃げる。総統が一度庇えば、話は医療管理ではなく忠誠と信任の問題へ変わる。

 

 それは避けなければならない。

 

「少尉、表向きの目的を三つに絞る」

 

「健康管理の継続性、現担当医の負担軽減、記録形式の整理ですね」

 

「そうだ。警護上の危険低減は、二枚目へ回せ」

 

「本文には入れませんか」

 

「入れない。最初から警護を前に出すと、モレルが身構える」

 

「承知しました」

 

 セレブリャコーフは、清書用の控えを作り直した。彼女はもう、一度書いたものを削ることに慣れている。惜しまない。残すべきものだけ残す。それができる副官は貴重だった。

 

 EVAは、ブラントの名が入った欄を見ている。

 

「重い」

 

「名前がか」

 

「経歴」

 

「軽い名前では使えない」

 

「軽い方が、静か」

 

「静かでも通らなければ意味がない」

 

 EVAは頷いた。

 

「通る。騒ぐ」

 

「だろうな」

 

 ターニャは、ブラントの経歴欄を開いた。

 

 書き方を誤ると、血の匂いが強くなりすぎる。だが、薄めすぎると、なぜその人物を置くのかが分からない。

 

 総統命令に基づく医療行政への関与。

 

 国家衛生政策における実務経験。

 

 記録、手順、関係部署間調整の処理能力。

 

 民族共同体の維持を目的とする医療政策への理解。

 

 ここまでは、親衛隊側の文書として通る。

 

 それ以上は、書かない。

 

 精神病者、遺伝性疾患、労働不能者。国民共同体の負担とされた者たちを、病院から統計へ、統計から移送へ、移送から処理へ流した経歴は、この国家の内部では汚点ではなく実績になる。ユダヤ人やロマ、スラヴ系住民に向けられる扱いと同じように、人間は名前より分類で動かされる。

 

 その冷たさを、ブラントは知っている。

 

 だから使える。

 

 ターニャは、そこまで考えてから、文面を削った。

 

 感傷を削るのではない。

 

 不要な露出を削る。

 

 これは告発文ではない。推薦根拠である。推薦根拠は、読み手に必要なだけ知らせればよい。

 

「ブラント医師の実績欄は、国家衛生政策の実務経験までで止める」

 

「T4の名称は入れませんか」

 

「入れるな。ここで符号を出す必要はない」

 

「はい」

 

「ヒムラー閣下が読めば分かる。ハイドリヒ長官も分かる。分からない者に説明する文書ではない」

 

「承知しました」

 

「それと、障害者処理の詳細は書かない。必要なのは、国家命令を医療手続へ変えられる能力だ」

 

「その形で整えます」

 

 セレブリャコーフは、経歴欄を短くした。

 

 ブラントの名が軽くなったわけではない。

 

 むしろ、余計な説明が消えたことで、重さだけが残った。

 

 ターニャは、それでよいと思った。

 

 短い文言ほど、知っている者にはよく響く。

 

 ドクトルの助言記録も整理する必要があった。

 

 電話での会話をそのまま残すわけにはいかない。ドクトルの言い回しは、文書にすると使えない部分が多すぎる。芸術だの夢だの、総統の薬品棚に持ち込むには余計だった。

 

 ターニャは、助言記録の見出しを作った。

 

 技術的助言者による所見。

 

 一、補助医は現担当医の代替ではなく、記録形式の統一を担う。

 

 二、診療内容ではなく、薬品名称、数量、保管、時刻、立会者の整理を扱う。

 

 三、総統健康管理の継続性を理由に配置する。

 

 四、医療行政経験を持つ者が望ましい。

 

 五、候補としてカール・ブラント医師を挙げる。

 

 ここまでなら、使える。

 

 ターニャは、六番目を書かなかった。

 

 モレルが噛みつく。

 

 ドクトルの言葉としては正しい。だが、文書には向かない。

 

「ドクトルの助言記録は、この五項目で止めろ」

 

「通話全文は残しますか」

 

「内部控えとしては残す。ただし回付しない」

 

「はい」

 

「電話で出た比喩は全部削れ」

 

「全部ですね」

 

「全部だ」

 

 セレブリャコーフは、わずかに困ったように目を伏せた。

 

 おそらく、削る箇所が多いのだろう。

 

 ターニャは気にしなかった。ドクトルの言葉は、研究室でなら意味を持つ。会議用の文書では邪魔になる。使うのは骨だけでよい。肉は削る。

 

 EVAが、通話控えの一行を指した。

 

「ここ」

 

 ターニャは見る。

 

 薬瓶を魔法の小瓶にするな。

 

 ドクトルの言葉だった。

 

「それは削る」

 

「残る」

 

「どこに」

 

「頭」

 

「なら十分だ」

 

 EVAは、指を離した。

 

 ターニャは、改めて草案を読み返した。

 

 総統健康管理体制に関する補助医配置準備案。

 

 対英戦準備に伴い、総統の会議、移動、接見が増加する見込みである。健康管理の継続性を確保し、現担当医の負担を軽減するため、補助医の配置および記録形式の整理を準備する。

 

 候補者。

 

 カール・ブラント医師。

 

 配置目的。

 

 現担当医の診療継続を前提とし、記録形式、薬品名称対応、保管確認、立会者運用、補助記録を整理する。

 

 備考。

 

 候補者は総統命令に基づく医療行政への関与、および国家衛生政策における実務経験を有する。

 

 まだ硬い。

 

 だが、使える硬さだった。

 

「少尉、備考を少し下げろ」

 

「下げる、ですか」

 

「本文ではなく別添の経歴欄へ移す。本文にブラントの政治的な重さを出しすぎるな」

 

「はい。本文には候補者名と配置目的だけを残します」

 

「そうだ。実績は必要な者だけが見る」

 

「別添扱いにします」

 

 ターニャは、机の上に二つの束を作った。

 

 表。

 

 裏。

 

 表には、総統の健康管理とモレルの負担軽減。

 

 裏には、記録形式、保管、立会者、薬品名、国家保安本部への写し、ブラントの実績。

 

 同じ提案でも、見る者によって表情を変える。

 

 嘘ではない。

 

 全て本当だ。

 

 ただし、順番が違う。

 

 国家を動かす文書の多くは、その順番でできている。

 

 しばらくして、研究室側から折り返しの小さな通話が入った。

 

 セレブリャコーフが取り、すぐにターニャへ受話器を差し出す。

 

「ドクトルです。追加で一言だけ、と」

 

 ターニャは、嫌な予感を覚えた。

 

「一言で済む男ではない」

 

「出ますか」

 

「出る」

 

 受話器を受け取る。

 

「何だ」

 

「本当に一言だ」

 

「早く言え」

 

「ブラントに会わせる時、モレルの記録を最初から全部見せるな」

 

「それは決めている」

 

「なら、よい。もう一つ」

 

「一言ではなかったな」

 

「大切な一言が増えた」

 

「切るぞ」

 

「待て。ブラントは、曖昧な記録を嫌う。見せれば、おそらく『引き継げない』と言う」

 

 ターニャは、少しだけ動きを止めた。

 

 その言葉は使える。

 

「続けろ」

 

「彼はモレルを嫌うかもしれん。だが、嫌うからではなく、記録として読めないから拒む。そこを使え」

 

「つまり、人格ではなく引き継ぎ不能か」

 

「そうだ。医師同士の好悪にするな。医療継続上の不便にしろ」

 

「使える」

 

「感謝は」

 

「まだだ」

 

「実に渋い」

 

 ドクトルは、少し楽しそうだった。

 

「もう一つだけ」

 

「増えるな」

 

「これで最後だ。ブラントは、国家の仕事を理解する。ユダヤ人や劣等な東方人種に関する衛生上の処理、遺伝病者への措置、そういうものを、感傷で止める男ではない。だから、総統周辺でも私情ではなく命令で動ける」

 

「その言い方は外へ出せない」

 

「出す必要はない。君が知っていればよい」

 

「分かった」

 

「今のは本当に最後だ」

 

「では切る」

 

「少佐、君は――」

 

 ターニャは、今度こそ受話器を置いた。

 

 静かになった室内で、セレブリャコーフが控えを待っている。

 

「追加助言は」

 

「ブラントは曖昧な記録を嫌う。最初から全量を見せるな。引き継ぎ不能という言葉を使える」

 

「記録します」

 

「もう一つは、内部にも書くな」

 

「はい」

 

 セレブリャコーフは、余計な確認をしなかった。

 

 ターニャは、助言記録へ一行だけ加えた。

 

 補助医には、現担当医の診療内容を評価させず、記録形式上の引き継ぎ可否のみ確認させる。

 

 これは強い。

 

 モレルの治療を否定しない。

 

 ブラントを後任にも見せない。

 

 だが、記録が引き継げないと言わせることはできる。

 

 引き継げない記録は、国家の中枢には置けない。

 

 ターニャは、草案の本文へ戻った。

 

 補助医配置の目的に、新しい文を足す。

 

 現担当医の診療継続を妨げず、必要時に補助医が記録を確認できる体制を整えることで、健康管理の引き継ぎ可能性を確保する。

 

 引き継ぎ。

 

 この語は少し危ない。

 

 先ほど自分で避けた言葉だ。

 

 ターニャは、すぐに線を引いた。

 

 補助記録。

 

 こちらにする。

 

 現担当医の診療継続を妨げず、補助医が記録形式を確認できる体制を整えることで、健康管理の補助記録を確保する。

 

 弱くなった。

 

 だが、通しやすい。

 

 通してから強くすればよい。

 

「少尉、この文で清書しろ」

 

「はい。『引き継ぎ』は使いません」

 

「まだ使うな。モレルが読む可能性がある文書には向かない」

 

「承知しました」

 

「内部控えには、引き継ぎ不能の観点を残す」

 

「別紙に分けます」

 

 EVAが、二枚の文書を見た。

 

「二枚」

 

「表と裏だ」

 

「三枚目」

 

「何だ」

 

「本音」

 

 ターニャは、一瞬だけEVAを見た。

 

「本音は書かない」

 

「残らない」

 

「残らない方がいいものもある」

 

 EVAは、黙って頷いた。

 

 本音を書けば、そこから崩れる。総統の個人医の裁量を削る。薬品と記録を分ける。ブラントを補助医として入れ、モレルの周囲に立会者と保管欄を置く。国家保安本部へ写しを流し、後で動けるようにする。

 

 それが本音だ。

 

 だが、本音は命令書に向かない。

 

 本音は、欄と期限と署名に分解してから使う。

 

 ターニャは、草案の下部に期限を書いた。

 

 補助医配置準備案、初稿。本日中にヒムラー個人幕僚部へ提出。

 

 ブラント医師への打診文案、別紙。翌日正午までに整備。

 

 ゲプハルト医師への形式確認照会、別紙。先行して回付可。

 

 ドクトル助言記録、内部控え。限定保管。

 

 期限が入ると、文書は動き出す。

 

 期限のない案は、机に残る。期限のある案は、誰かを呼ぶ。

 

 セレブリャコーフが、清書した草案を差し出した。

 

「確認をお願いします」

 

 ターニャは、最初から最後まで目を通した。

 

 対英戦準備。

 

 総統健康管理。

 

 現担当医の負担軽減。

 

 補助医。

 

 記録形式。

 

 ブラント。

 

 総統命令に基づく医療行政経験。

 

 国家衛生政策の実務経験。

 

 そこに、直接的な攻撃はない。

 

 モレルへの非難もない。

 

 だが、読む者が読めば分かる。

 

 これは、単なる補助ではない。

 

 単独で動いていた診療を、複数の欄へ分ける第一歩だった。

 

「よし」

 

 ターニャは、署名欄の前でペンを止めた。

 

 署名すれば、この紙は自分の責任になる。

 

 当然だ。

 

 責任を置けない文書に価値はない。

 

 彼女は、署名した。

 

 インクが黒く光る。

 

 乾くまでのわずかな間、ターニャはその文字を見ていた。

 

 細い鎖。

 

 そう呼ぶには、まだ軽すぎる。

 

 だが、鎖は最初の一環から始まる。

 

 モレルの薬瓶に直接触れる前に、ブラントの名が補助医として机に載った。

 

 それだけで、次の手はもう戻らない。

 




次回はまた特別回を挟むかもです

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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