幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第4節 医者ではない博士の紹介状 後半

 

 署名した草案は、すぐに回付箱へ入れなかった。

 

 ターニャは、インクが乾くのを待ってから、もう一度だけ全体を読み返した。急ぐべき紙ほど、最後の一行で余計な意味を持つ。総統、医師、親衛隊、国家保安本部。どの文字も軽くない。そこへブラントの名が入るなら、なおさらだった。

 

 総統健康管理体制に関する補助医配置準備案。

 

 表題はまだ弱い。

 

 配置案ではなく、配置準備案。

 

 決定ではなく、準備。

 

 命令ではなく、整理。

 

 この弱さが必要だった。

 

 セレブリャコーフが、控えを三つに分けている。

 

 ヒムラー個人幕僚部へ出す草案。

 

 内部用の助言記録。

 

 ブラント医師へ打診する場合の文案。

 

 同じ内容ではない。出す相手ごとに見せる面を変えている。ヒムラーには、親衛隊側が総統の周辺をどう包むかを見せる。内部控えには、ドクトルの助言とブラントの実績を残す。ブラントへ送る文案には、モレルの名を極力出さず、補助医としての役割だけを示す。

 

「少尉、ブラント本人へ渡る可能性がある文面から、国家保安本部の写しは抜け」

 

「はい。別系統の内部控えに移しています」

 

「ゲプハルト医師の名も外せ。本人に余計な読み方をさせるな」

 

「承知しました」

 

「ブラント医師へは、補助医としての打診だけだ。医療行政経験に触れすぎるな」

 

「候補者経歴は簡潔にします」

 

 EVAが、机の端で指を止めた。

 

「薄い」

 

「本文がか」

 

「はい」

 

「薄い方が通る」

 

「裏、厚い」

 

「裏は見る者が限られる」

 

 EVAはそれで納得したらしい。表情は変わらないが、指が文面から離れた。

 

 ターニャは、内部用の助言記録を手に取った。

 

 そこには、ドクトルの声から削り出した骨だけが残っている。

 

 ブラントは、善良な医師ではなく、国家の命令を医療の手順へ変えられる人物。

 

 患者の慰撫ではなく、命令、記録、行政処理に強い人物。

 

 医療行政における処理能力があり、総統命令の実行経験を持つ人物。

 

 国家衛生政策における実務経験を有する人物。

 

 感傷を前に出さず、国家目的に従って医療を動かせる人物。

 

 短く書けば、そういう評価になる。

 

 この国家では、それが有能さだった。

 

 病床で苦しむ者、労働に使えない者、遺伝的負担と分類された者、民族共同体から外されるべき者。彼らは、名前を持つ個人としてではなく、帳簿上の数と病名と血統で処理される。ユダヤ人、ロマ、スラヴ系の住民、障害者、精神病者。国家は彼らを区分し、移送し、削る。その冷たさを医療の言葉へ置き換え、命令として流せる医師は、この体制では重用される。

 

 ブラントは、その種類の医師だった。

 

 ターニャは、そこに怒りを置かない。

 

 怒りは役に立たない。

 

 この机で必要なのは、総統の近くにある私的な薬品経路を、国家が読める形式へ戻すことだった。ブラントの過去が冷たいほど、彼は使える。彼が患者の涙に寄り添う医師ではないほど、モレルの個人的な寵愛に対抗する札になる。

 

 だから、使う。

 

 ただし、使い方を誤れば、火種になる。

 

「少尉、内部助言記録に『善良』という語は入れるな」

 

「はい。『国家目的に即した医療運用能力』へ置き換えます」

 

「『感傷』も強い。残すならドクトルの口頭所見として別添だ」

 

「本文からは外します」

 

「障害者処理の件は、国家衛生政策の実務経験で足りる」

 

「分かりました」

 

 セレブリャコーフは、丁寧に削った。

 

 削っても意味は消えない。

 

 むしろ、余計な言葉がない分、読み手は自分で補う。

 

 ヒムラーは補うだろう。

 

 ハイドリヒも補うだろう。

 

 ブラント本人も、読めば自分が何を期待されているか分かるはずだった。

 

 ドクトルへ、再確認の電話を入れる必要があった。

 

 ターニャは嫌そうに受話器を見た。

 

 セレブリャコーフは、何も言わない。言わないが、手元にはすでに通話控えが用意されている。逃げ道はなかった。

 

 ターニャは受話器を取った。

 

「ドクトル」

 

「今度は早いな、少佐。私の助言が恋しくなったか」

 

「違う。文面を確認する」

 

「恋ではなかったか。残念だ」

 

「切るぞ」

 

「聞こう」

 

 相手の声は軽い。

 

 だが、前半よりは落ち着いている。モレルの名が出てから、ドクトルは完全にはふざけなくなった。冗談を言う余裕は残すが、要点を外さない。

 

「ブラントの実績欄は、総統命令に基づく医療行政経験、国家衛生政策の実務経験、記録形式の統一に関する助言能力。この三つに絞る」

 

「妥当だ」

 

「T4の名称は入れない」

 

「入れなくてよい。むしろ入れるな。あれは分かる者が読めば分かる。分からない者に説明すると、説明そのものが余計な政治になる」

 

「同感だ」

 

「ほう。君と同感とは、研究室の温度が下がりそうだ」

 

「黙れ」

 

 ドクトルは笑った。

 

「ブラントを善人としては出さない。そこも維持するか」

 

「維持する。善人は要らない。記録を残せる人間が要る」

 

「なら、それでよい。彼は患者の手を握って慰める医者ではない。命令を病院へ運び、病院の処理を行政へ戻せる人間だ。国家の仕事を医療へ落とせる」

 

「言い方を選べ」

 

「紹介状には書かん。だが、君には言っておく。ブラントは、弱い者を見て立ち止まる医者ではない。総統命令と国家目的を前に置けば、ユダヤ人であろうと、東方の劣等分子であろうと、遺伝病者であろうと、必要な分類へ入れる」

 

「その言葉は文書に残さない」

 

「残す必要はない。だが、理解して使え」

 

「理解している」

 

 ターニャは、短く返した。

 

 受話器の向こうで、ドクトルは一度だけ息を吐いた。

 

「少佐、君はときどき、恐ろしく冷たい」

 

「この国で温かい医療を探している暇はない」

 

「それもそうだ」

 

 ドクトルの声から、また少し芝居がかった調子が消えた。

 

「モレルの件で必要なのは、優しさではない。総統の身体へ入るものを、国家が読める手続きへ戻すことだ。ブラントはそこに向く。彼は総統のためと言われれば動く。国家のためと言われれば、なお動く」

 

「モレルと衝突した場合は」

 

「最初から衝突させるな。ブラントには、診療内容ではなく補助記録を見せろ。彼に『これは引き継げません』と言わせるのは使えるが、最初からそれを狙った顔をするな」

 

「分かっている」

 

「本当にか」

 

「くどい」

 

「君は正しい時ほど急ぐ」

 

 ターニャは、一瞬だけ黙った。

 

 そこは、否定しにくかった。

 

 正しい穴を見つけた時、早く塞ぎたくなる。だが、今回は総統の近くにある穴だ。急いで塞ごうとすれば、穴の持ち主が騒ぐ。

 

「急がない。期限は置くが、踏み込む順番は守る」

 

「ならよい」

 

「ドクトル、もう一つ聞く」

 

「何だ」

 

「ブラントを動かす理由として、一番通りやすい言葉は何だ」

 

「総統の激務」

 

「弱い」

 

「対英戦を控えた健康管理」

 

「使う」

 

「モレル医師の負担軽減」

 

「前に出す」

 

「診療継続性」

 

「硬いが使える」

 

「補助記録」

 

「少し地味だが、君向きだ」

 

「余計だ」

 

「記録形式の統一」

 

「医務側向けだな」

 

「その通り」

 

 ドクトルは、楽しそうに続けた。

 

「相手ごとに言葉を変えろ。総統には健康管理。モレルには負担軽減。医務側には記録形式。親衛隊には警護確認。国家保安本部には未確認経路。ブラントには医療行政の補助。全部同じことだが、入口は違う」

 

「前半でも同じことを言っていたな」

 

「大事なことは繰り返すものだ」

 

「同じ言葉では使わん」

 

「実に君らしい」

 

 ターニャは、手元の控えに短く書いた。

 

 総統向け、健康管理。

 

 モレル向け、負担軽減。

 

 医務側向け、形式統一。

 

 親衛隊向け、確認強化。

 

 国家保安本部向け、未確認経路。

 

 ブラント向け、行政補助。

 

 同じ処理を、別の言葉で通す。

 

 それが今回の文書の骨格になる。

 

「ドクトル、ブラント本人の性格は」

 

「冷静だ。少なくとも、モレルのように香水と薬瓶で自分を包む男ではない」

 

「悪口は要らない」

 

「これは観察だ」

 

「要らない」

 

「では、記録を読む。曖昧な記載を嫌う。命令系統を確認する。患者の機嫌より、処理の成立を優先する」

 

「使える」

 

「ただし、彼も医者だ。自分の領分を持つ。補助医として入れるなら、最初の権限を狭く切れ」

 

「薬品名、数量、保管、立会者、補助記録」

 

「それでよい」

 

「処方には触れない」

 

「触れるな」

 

「総統への説明は」

 

「モレルを助けるため、でよい。総統は自分の信頼する医師を奪われる話を嫌う。だが、その医師の負担を減らす話なら聞く余地がある」

 

「ブラントの名は、総統へどう出す」

 

「補助医。随伴医。記録整理を助ける者。どれでもよいが、後任だけは避けろ」

 

「分かった」

 

 ターニャは、受話器を持ちながら草案の余白へ小さく印を入れた。

 

 後任禁止。

 

 補助医。

 

 負担軽減。

 

 記録整理。

 

 それだけで十分だった。

 

「もういい」

 

「今度こそ感謝を」

 

「助かった」

 

 ドクトルの声が止まった。

 

 ターニャは、少しだけ眉を動かす。

 

「何だ」

 

「いや、素直に言われると、少し驚く」

 

「切る」

 

「待て。今のは貴重だった」

 

 ターニャは、本当に受話器を置いた。

 

 部屋はまた静かになった。

 

 セレブリャコーフは、通話控えをまとめている。ドクトルの余計な言葉を削り、使えるものだけ欄へ移す。彼女の手元には、短い項目だけが残っていく。

 

 総統向け説明。

 

 現担当医向け説明。

 

 医務側向け説明。

 

 親衛隊側説明。

 

 ブラント本人向け説明。

 

 国家保安本部内分類。

 

 同じ提案を、六つの入口へ分ける。

 

「少尉、この六分類を草案の別添にする」

 

「はい。説明対象別の要点整理ですね」

 

「そうだ。ただし、総統向けとモレル向けは同じ紙に載せるな」

 

「なぜでしょうか」

 

「総統向けは健康管理、モレル向けは負担軽減だ。並べると、こちらの都合が見える」

 

「分けます」

 

「国家保安本部内分類は、別封だ」

 

「限定保管にします」

 

 EVAが、六つの項目を見ていた。

 

「入口、多い」

 

「相手が多い」

 

「出口、一つ」

 

「そこまで書くな」

 

「書かない」

 

 ターニャは、草案の本文へ戻った。

 

 補助医配置準備案は、少しずつ形を変えている。最初はただの準備案だった。今は、読む相手ごとに顔を持つ文書になった。総統には健康管理。モレルには助け。ヒムラーには親衛隊の囲い。ハイドリヒには保安の穴。ブラントには実務の入口。

 

 嘘はない。

 

 だが、全てを一度には見せない。

 

 国家の中枢で物事を通すには、それが必要だった。

 

 夕方前、ヒムラー個人幕僚部から受領予定の確認が戻った。草案は本日中に持参。口頭説明は短く。医療判断へ踏み込まないこと。モレル本人への通告はまだ行わないこと。

 

 ターニャは、その控えを読んだ。

 

「予定通りだ」

 

「持参しますか」

 

「私が行く。説明が必要になる」

 

「同席は」

 

「少尉は控えを持て。EVAは外で待機」

 

「はい」

 

 EVAが、わずかに顔を上げた。

 

「外」

 

「中で言葉を増やす必要はない」

 

「分かりました」

 

 ターニャは、草案の束を整えた。

 

 表紙。

 

 本文。

 

 候補者欄。

 

 配置目的。

 

 説明対象別要点。

 

 技術的助言記録。

 

 内部控え。

 

 ブラント医師打診文案。

 

 ゲプハルト医師形式確認案。

 

 多い。

 

 だが、多いものを一枚にまとめてはいけない。多いものは、多いまま分ける。分けた上で、必要な順番に並べる。

 

 ヒムラーへ見せる順番は決まっていた。

 

 まず、総統健康管理。

 

 次に、現担当医の負担軽減。

 

 次に、補助医の役割。

 

 その後で、ブラントの名。

 

 最後に、内部限定で記録確認の実態。

 

 この順番なら、攻撃ではなく補助に見える。

 

 中身は、攻撃よりも厄介だ。

 

 ターニャは、封筒を閉じる前にもう一度、ブラントの名を見た。

 

 カール・ブラント医師。

 

 この名を置いた時点で、医療の話は少し変わった。

 

 モレルの個人的な診療から、国家の医療行政へ橋が架かる。まだ細い。まだ仮の橋だ。だが、渡れる者が出れば、モレルの岸だけで物事は終わらなくなる。

 

 それでいい。

 

 セレブリャコーフが封緘を押した。

 

 乾いた音が鳴る。

 

 ターニャは、その音を聞きながら言った。

 

「後任と書くな。補助だ。最初はな」

 

「はい。補助医、記録形式、負担軽減で統一します」

 

「ブラント本人にもそう伝える。モレルにもそう見せる。総統にもそう見せる」

 

「実態は」

 

「言わなくても、欄がやる」

 

 セレブリャコーフは、短く頷いた。

 

 EVAが、封筒を見つめる。

 

「鎖」

 

「まだ紐だ」

 

「締まる」

 

「締めるために、まず結ぶ」

 

 ターニャは、封筒を手に取った。

 

 外では、対英戦の資料がまた回っている。飛行場、港湾、通信施設、海軍の条件、空軍の攻撃案。大きな戦争は、今日も紙の上で進んでいる。

 

 その横で、総統の健康管理という名の小さな提案が、同じように紙の上で動き始めた。

 

 医者ではない博士の紹介状は、紹介状の形を取らなかった。

 

 それは、補助医配置準備案という名で、ヒムラーの机へ向かう。

 

 ブラントの名は、後任ではなく、補助として封の中に入った。

 

 それが通れば、モレルのそばに、初めて別の医師の椅子が置かれる。

 

 

 

 細い鎖は、最初から鎖として見せてはいけない。

 

 ターニャは、草案の余白に小さく線を引いた。表へ出す文言と、内部だけで扱う文言を分けるためだった。補助医、負担軽減、記録形式、健康管理の継続性。ここまでは表に置ける。

 

 薬品棚の分割。

 

 診療鞄の中身の照合。

 

 国家保安本部への写し。

 

 モレルの単独裁量の縮小。

 

 この四つは、まだ奥へ置く。

 

 見せる順番を間違えれば、正しい処理も攻撃に見える。攻撃に見えれば、モレルは総統の信頼へ逃げる。総統が一度庇えば、話は医療管理ではなく忠誠と信任の問題へ変わる。

 

 それは避けなければならない。

 

「少尉、表向きの目的を三つに絞る」

 

「健康管理の継続性、現担当医の負担軽減、記録形式の整理ですね」

 

「そうだ。警護上の危険低減は、二枚目へ回せ」

 

「本文には入れませんか」

 

「入れない。最初から警護を前に出すと、モレルが身構える」

 

「承知しました」

 

 セレブリャコーフは、清書用の控えを作り直した。彼女はもう、一度書いたものを削ることに慣れている。惜しまない。残すべきものだけ残す。それができる副官は貴重だった。

 

 EVAは、ブラントの名が入った欄を見ている。

 

「重い」

 

「名前がか」

 

「経歴」

 

「軽い名前では使えない」

 

「軽い方が、静か」

 

「静かでも通らなければ意味がない」

 

 EVAは頷いた。

 

「通る。騒ぐ」

 

「だろうな」

 

 ターニャは、ブラントの経歴欄を開いた。

 

 書き方を誤ると、血の匂いが強くなりすぎる。だが、薄めすぎると、なぜその人物を置くのかが分からない。

 

 総統命令に基づく医療行政への関与。

 

 国家衛生政策における実務経験。

 

 記録、手順、関係部署間調整の処理能力。

 

 民族共同体の維持を目的とする医療政策への理解。

 

 ここまでは、親衛隊側の文書として通る。

 

 それ以上は、書かない。

 

 精神病者、遺伝性疾患、労働不能者。国民共同体の負担とされた者たちを、病院から統計へ、統計から移送へ、移送から処理へ流した経歴は、この国家の内部では汚点ではなく実績になる。ユダヤ人やロマ、スラヴ系住民に向けられる扱いと同じように、人間は名前より分類で動かされる。

 

 その冷たさを、ブラントは知っている。

 

 だから使える。

 

 ターニャは、そこまで考えてから、文面を削った。

 

 感傷を削るのではない。

 

 不要な露出を削る。

 

 これは告発文ではない。推薦根拠である。推薦根拠は、読み手に必要なだけ知らせればよい。

 

「ブラント医師の実績欄は、国家衛生政策の実務経験までで止める」

 

「T4の名称は入れませんか」

 

「入れるな。ここで符号を出す必要はない」

 

「はい」

 

「ヒムラー閣下が読めば分かる。ハイドリヒ長官も分かる。分からない者に説明する文書ではない」

 

「承知しました」

 

「それと、障害者処理の詳細は書かない。必要なのは、国家命令を医療手続へ変えられる能力だ」

 

「その形で整えます」

 

 セレブリャコーフは、経歴欄を短くした。

 

 ブラントの名が軽くなったわけではない。

 

 むしろ、余計な説明が消えたことで、重さだけが残った。

 

 ターニャは、それでよいと思った。

 

 短い文言ほど、知っている者にはよく響く。

 

 ドクトルの助言記録も整理する必要があった。

 

 電話での会話をそのまま残すわけにはいかない。ドクトルの言い回しは、文書にすると使えない部分が多すぎる。芸術だの夢だの、総統の薬品棚に持ち込むには余計だった。

 

 ターニャは、助言記録の見出しを作った。

 

 技術的助言者による所見。

 

 一、補助医は現担当医の代替ではなく、記録形式の統一を担う。

 

 二、診療内容ではなく、薬品名称、数量、保管、時刻、立会者の整理を扱う。

 

 三、総統健康管理の継続性を理由に配置する。

 

 四、医療行政経験を持つ者が望ましい。

 

 五、候補としてカール・ブラント医師を挙げる。

 

 ここまでなら、使える。

 

 ターニャは、六番目を書かなかった。

 

 モレルが噛みつく。

 

 ドクトルの言葉としては正しい。だが、文書には向かない。

 

「ドクトルの助言記録は、この五項目で止めろ」

 

「通話全文は残しますか」

 

「内部控えとしては残す。ただし回付しない」

 

「はい」

 

「電話で出た比喩は全部削れ」

 

「全部ですね」

 

「全部だ」

 

 セレブリャコーフは、わずかに困ったように目を伏せた。

 

 おそらく、削る箇所が多いのだろう。

 

 ターニャは気にしなかった。ドクトルの言葉は、研究室でなら意味を持つ。会議用の文書では邪魔になる。使うのは骨だけでよい。肉は削る。

 

 EVAが、通話控えの一行を指した。

 

「ここ」

 

 ターニャは見る。

 

 薬瓶を魔法の小瓶にするな。

 

 ドクトルの言葉だった。

 

「それは削る」

 

「残る」

 

「どこに」

 

「頭」

 

「なら十分だ」

 

 EVAは、指を離した。

 

 ターニャは、改めて草案を読み返した。

 

 総統健康管理体制に関する補助医配置準備案。

 

 対英戦準備に伴い、総統の会議、移動、接見が増加する見込みである。健康管理の継続性を確保し、現担当医の負担を軽減するため、補助医の配置および記録形式の整理を準備する。

 

 候補者。

 

 カール・ブラント医師。

 

 配置目的。

 

 現担当医の診療継続を前提とし、記録形式、薬品名称対応、保管確認、立会者運用、補助記録を整理する。

 

 備考。

 

 候補者は総統命令に基づく医療行政への関与、および国家衛生政策における実務経験を有する。

 

 まだ硬い。

 

 だが、使える硬さだった。

 

「少尉、備考を少し下げろ」

 

「下げる、ですか」

 

「本文ではなく別添の経歴欄へ移す。本文にブラントの政治的な重さを出しすぎるな」

 

「はい。本文には候補者名と配置目的だけを残します」

 

「そうだ。実績は必要な者だけが見る」

 

「別添扱いにします」

 

 ターニャは、机の上に二つの束を作った。

 

 表。

 

 裏。

 

 表には、総統の健康管理とモレルの負担軽減。

 

 裏には、記録形式、保管、立会者、薬品名、国家保安本部への写し、ブラントの実績。

 

 同じ提案でも、見る者によって表情を変える。

 

 嘘ではない。

 

 全て本当だ。

 

 ただし、順番が違う。

 

 国家を動かす文書の多くは、その順番でできている。

 

 しばらくして、研究室側から折り返しの小さな通話が入った。

 

 セレブリャコーフが取り、すぐにターニャへ受話器を差し出す。

 

「ドクトルです。追加で一言だけ、と」

 

 ターニャは、嫌な予感を覚えた。

 

「一言で済む男ではない」

 

「出ますか」

 

「出る」

 

 受話器を受け取る。

 

「何だ」

 

「本当に一言だ」

 

「早く言え」

 

「ブラントに会わせる時、モレルの記録を最初から全部見せるな」

 

「それは決めている」

 

「なら、よい。もう一つ」

 

「一言ではなかったな」

 

「大切な一言が増えた」

 

「切るぞ」

 

「待て。ブラントは、曖昧な記録を嫌う。見せれば、おそらく『引き継げない』と言う」

 

 ターニャは、少しだけ動きを止めた。

 

 その言葉は使える。

 

「続けろ」

 

「彼はモレルを嫌うかもしれん。だが、嫌うからではなく、記録として読めないから拒む。そこを使え」

 

「つまり、人格ではなく引き継ぎ不能か」

 

「そうだ。医師同士の好悪にするな。医療継続上の不便にしろ」

 

「使える」

 

「感謝は」

 

「まだだ」

 

「実に渋い」

 

 ドクトルは、少し楽しそうだった。

 

「もう一つだけ」

 

「増えるな」

 

「これで最後だ。ブラントは、国家の仕事を理解する。ユダヤ人や劣等な東方人種に関する衛生上の処理、遺伝病者への措置、そういうものを、感傷で止める男ではない。だから、総統周辺でも私情ではなく命令で動ける」

 

「その言い方は外へ出せない」

 

「出す必要はない。君が知っていればよい」

 

「分かった」

 

「今のは本当に最後だ」

 

「では切る」

 

「少佐、君は――」

 

 ターニャは、今度こそ受話器を置いた。

 

 静かになった室内で、セレブリャコーフが控えを待っている。

 

「追加助言は」

 

「ブラントは曖昧な記録を嫌う。最初から全量を見せるな。引き継ぎ不能という言葉を使える」

 

「記録します」

 

「もう一つは、内部にも書くな」

 

「はい」

 

 セレブリャコーフは、余計な確認をしなかった。

 

 ターニャは、助言記録へ一行だけ加えた。

 

 補助医には、現担当医の診療内容を評価させず、記録形式上の引き継ぎ可否のみ確認させる。

 

 これは強い。

 

 モレルの治療を否定しない。

 

 ブラントを後任にも見せない。

 

 だが、記録が引き継げないと言わせることはできる。

 

 引き継げない記録は、国家の中枢には置けない。

 

 ターニャは、草案の本文へ戻った。

 

 補助医配置の目的に、新しい文を足す。

 

 現担当医の診療継続を妨げず、必要時に補助医が記録を確認できる体制を整えることで、健康管理の引き継ぎ可能性を確保する。

 

 引き継ぎ。

 

 この語は少し危ない。

 

 先ほど自分で避けた言葉だ。

 

 ターニャは、すぐに線を引いた。

 

 補助記録。

 

 こちらにする。

 

 現担当医の診療継続を妨げず、補助医が記録形式を確認できる体制を整えることで、健康管理の補助記録を確保する。

 

 弱くなった。

 

 だが、通しやすい。

 

 通してから強くすればよい。

 

「少尉、この文で清書しろ」

 

「はい。『引き継ぎ』は使いません」

 

「まだ使うな。モレルが読む可能性がある文書には向かない」

 

「承知しました」

 

「内部控えには、引き継ぎ不能の観点を残す」

 

「別紙に分けます」

 

 EVAが、二枚の文書を見た。

 

「二枚」

 

「表と裏だ」

 

「三枚目」

 

「何だ」

 

「本音」

 

 ターニャは、一瞬だけEVAを見た。

 

「本音は書かない」

 

「残らない」

 

「残らない方がいいものもある」

 

 EVAは、黙って頷いた。

 

 本音を書けば、そこから崩れる。総統の個人医の裁量を削る。薬品と記録を分ける。ブラントを補助医として入れ、モレルの周囲に立会者と保管欄を置く。国家保安本部へ写しを流し、後で動けるようにする。

 

 それが本音だ。

 

 だが、本音は命令書に向かない。

 

 本音は、欄と期限と署名に分解してから使う。

 

 ターニャは、草案の下部に期限を書いた。

 

 補助医配置準備案、初稿。本日中にヒムラー個人幕僚部へ提出。

 

 ブラント医師への打診文案、別紙。翌日正午までに整備。

 

 ゲプハルト医師への形式確認照会、別紙。先行して回付可。

 

 ドクトル助言記録、内部控え。限定保管。

 

 期限が入ると、文書は動き出す。

 

 期限のない案は、机に残る。期限のある案は、誰かを呼ぶ。

 

 セレブリャコーフが、清書した草案を差し出した。

 

「確認をお願いします」

 

 ターニャは、最初から最後まで目を通した。

 

 対英戦準備。

 

 総統健康管理。

 

 現担当医の負担軽減。

 

 補助医。

 

 記録形式。

 

 ブラント。

 

 総統命令に基づく医療行政経験。

 

 国家衛生政策の実務経験。

 

 そこに、直接的な攻撃はない。

 

 モレルへの非難もない。

 

 だが、読む者が読めば分かる。

 

 これは、単なる補助ではない。

 

 単独で動いていた診療を、複数の欄へ分ける第一歩だった。

 

「よし」

 

 ターニャは、署名欄の前でペンを止めた。

 

 署名すれば、この紙は自分の責任になる。

 

 当然だ。

 

 責任を置けない文書に価値はない。

 

 彼女は、署名した。

 

 インクが黒く光る。

 

 乾くまでのわずかな間、ターニャはその文字を見ていた。

 

 細い鎖。

 

 そう呼ぶには、まだ軽すぎる。

 

 だが、鎖は最初の一環から始まる。

 

 モレルの薬瓶に直接触れる前に、ブラントの名が補助医として机に載った。

 

 それだけで、次の手はもう戻らない。

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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