【挿絵表示】
史実では、SSを単なる護衛組織から、警察・情報・収容所・人種政策を抱え込む巨大組織へ拡大させた人物である。
本作では、ターニャの直接的な上位者の一人。
神秘主義的な側面を持ちながらも、単なる妄想家ではなく、思想・人事・警察権・組織拡大を束ねる制度構築者として描いている。
ハイドリヒが鋭い実務の刃なら、ヒムラーはその刃を置く鞘と、振るうための組織そのものを作った男である。
署名した準備案は、そのままではまだ使えなかった。
署名は責任を置くためのものだ。だが、責任を置いた文書を、すぐ回してよいとは限らない。相手が多い案件ほど、最初に通る文面は細くなければならない。太い文面は目立つ。目立つ文面は、読まれる前に警戒される。
ターニャは、乾いた署名の下に吸取紙を重ねた。
インクの余りが取れる。
黒い字は残る。
それで十分だった。
「少尉、紹介状の形式に直す」
「補助医配置準備案から、紹介状へ変えるのですね」
「そうだ。ただし、紹介状と書くな」
「では、推薦根拠添付でよろしいでしょうか」
「よい。表題は硬くしろ」
セレブリャコーフは、別紙を引いた。
候補医師推薦根拠添付。
ターニャは、その文字を見て頷いた。
紹介状は、人の匂いが強い。誰かが誰かを推したという色が出る。推薦根拠添付なら、文書の部品になる。部品なら、回付箱へ入れやすい。
ブラントの名は、すでに机にある。
問題は、その名をどう見せるかだった。
カール・ブラント。
その名は軽くない。総統に近く、医療行政に関わり、国家の命令を病院と書式へ落とせる。親衛隊側が使うには便利だが、便利すぎる名前は危ない。強い札は、出した瞬間に相手へ自分の狙いを教える。
モレルに、後任が来たと思わせてはいけない。
医務側に、監査が来たと思わせてもいけない。
総統には、長年の個人医を軽んじていると思わせてはならない。
だから、ブラントはまだ、医師として前に出るのではない。
記録形式を整える者として置く。
「候補者名は本文の中段に下げろ」
「冒頭には置きませんか」
「置かない。冒頭は目的だ。対英戦準備に伴う総統健康管理の継続性。そこから入る」
「はい」
「次に現担当医の負担軽減。その次に補助記録の整備。候補者名はその後でいい」
「承知しました」
セレブリャコーフは、文を組み替えていった。
EVAは、机の横に立っていた。今日の彼女は紙を持っていない。ただ、清書されていく文面を見ている。時折、視線が一語で止まる。
「監査」
ターニャは、すぐに反応した。
「どこだ」
EVAは、草案の下段を指した。
補助医による診療記録監査。
セレブリャコーフがわずかに眉を動かした。
「削ります」
「削れ。監査はまだ早い」
「補助確認にします」
「それでいい」
監査。
正しい言葉だ。
だが、早い。
正しい言葉ほど、時期を間違えると相手を起こす。今必要なのは、眠らせたまま手足の位置を測ることだった。
ターニャは、草案の別の行に目を止めた。
薬品管理。
これも強い。
「薬品管理も変えろ」
「薬品名称対応、でしょうか」
「そうだ。管理ではなく対応。保管は一般確認に下げる」
「はい」
「鍵や棚の話は入れるな」
「入れません」
セレブリャコーフは、指示通りに語を入れ替えた。
補助医による薬品名称対応表の確認。
注射剤保管条件の一般確認。
補助記録の形式整理。
立会者運用の助言。
これなら、まだ通る。
モレルから見れば、面倒な書式が増えただけだ。医務側から見れば、負担を整理する話に見える。ヒムラーとハイドリヒが見れば、単独裁量を削る下準備だと分かる。
同じ紙で、違う相手に違う顔を見せる。
それができる文面でなければ、この件は進まない。
ターニャは、別添の経歴欄を開いた。
ブラントの実績は、さらに削る必要があった。
総統命令に基づく医療行政への関与。
国家衛生政策に関する実務経験。
関係部署間の調整能力。
ここまでは残す。
民族共同体の浄化、遺伝的負担の除去、病者の処理。そうした言葉は、親衛隊内部では通じる。通じるどころか、成果として評価される。ユダヤ人、ロマ、スラヴ系の住民、労働不能者、障害者。国家が劣等、負担、危険と分類した者たちは、すでに各部署の書類で人名より番号へ近づいている。
ブラントは、その類の処理を医療の側から進められる人間だ。
この国家では、それが能力として読まれる。
だが、今の推薦根拠に生々しく出す必要はない。
ターニャは、経歴欄の一部へ線を引いた。
「ここは削除」
「国家衛生政策の詳細ですか」
「そうだ。実務経験だけ残す」
「はい」
「障害者処理、遺伝病者措置、民族衛生上の分類。このあたりは内部の口頭説明で足りる」
「文書には出しません」
「出すとしても、ヒムラー閣下向けの別添だけだ。広げるな」
「承知しました」
セレブリャコーフの返事は静かだった。
彼女は、内容に踏み込まない。踏み込まず、指示を形にする。それが副官として正しい距離だった。
EVAが、経歴欄を見た。
「消しても、残る」
「読む者にはな」
「はい」
ターニャは、線を引いた箇所を見た。
消した文字は、消えたわけではない。別の者が読めば、残った短い語から十分に察する。総統命令。国家衛生政策。医療行政。これだけで、知る者には伝わる。知らない者にまで教える必要はない。
そこへ、研究室側から封筒が届いた。
ドクトルの名で回された正式な書類ではない。薄い封筒に、走り書きのような控えが入っている。表には、技術的助言補足、とだけあった。
ターニャは、嫌な予感を覚えながら開いた。
中には、短い文が数行だけあった。
ブラントは、記録を嫌う医師ではない。
曖昧さを嫌う医師である。
薬効の是非ではなく、記録の可読性に置けば、彼は役に立つ。
余白に、さらに一文。
君が私の紹介状を削ることは分かっているので、削りにくい形にしておいた。
ターニャは、無言でその余白を切り落とした。
セレブリャコーフが、一瞬だけ動きを止める。
「余白は保存しますか」
「不要だ」
「内部控えにも」
「不要だ」
「はい」
切り落とされた余白は、破棄箱へ入る。
使える三行だけが残った。
ドクトルは鬱陶しい。
だが、やはり要点を外さない。
曖昧さを嫌う医師。
これは使える。
ターニャは、別添の推薦根拠に一行を足した。
候補者は、診療内容の評価ではなく、記録形式の可読性確認に適する。
可読性。
よい言葉だった。
引き継ぎより弱い。
監査より柔らかい。
だが、記録として読めないものを問題にできる。
「可読性確認を入れる」
「はい」
「医療継続のため、と前に置け」
「医療継続のため、記録形式の可読性を確認する。これでよろしいでしょうか」
「それでいい」
セレブリャコーフは清書へ移した。
ターニャは、机の端に置かれていたイギリス方面の回付物へ目をやった。
空軍の目標候補。
海軍の条件表。
陸軍への照会控え。
それらは、まだ処理を待っている。イギリス空軍への攻撃準備は止まらない。飛行場、港、通信施設、燃料貯蔵、対空陣地。どれも重要だ。重要だが、総統の判断が揺れれば、全ての優先順位が狂う。
海を渡る前に、机の上の瓶を見なければならない。
ターニャは、空軍目標表を脇へ戻した。
「イギリス方面は、夜に回す」
「はい」
「ただし、受領時刻は入れておけ。放置に見せるな」
「入れています」
「よい」
その返事を聞いて、ターニャは推薦根拠へ戻った。
細い手続きが増えていく。
補助医配置準備案。
候補医師推薦根拠添付。
技術的助言補足。
経歴別添。
内部留保事項。
国家保安本部写し予定。
ゲプハルト形式確認案。
名前だけ見れば、どれも別の紙だ。
だが、全部が同じところへ向かう。
モレルの鞄から、国家の台帳へ。
個人医の言い慣れた略称から、警護が読める正式名称へ。
診療の後ろに隠れた伝達から、時刻と受領者のある記録へ。
ひとつずつ、私的な近さを制度へ戻す。
その最初の外向きの札が、ブラントだった。
午後遅く、ヒムラー個人幕僚部へ回す前の確認として、EVAが短いメモを出した。
欠落、二。
ターニャは、メモを見る。
「どこだ」
EVAは、草案の候補者欄を指した。
「着任時。権限」
ターニャは、すぐに理解した。
ブラントを補助医として置く。だが、着任時に何を持たせるかが曖昧だった。単なる紹介だけなら、モレルは無視できる。役割が強すぎれば、後任に見える。
細い権限が必要だった。
「少尉、着任時の権限を三つにする」
「記録形式の確認、薬品名称対応表の照合、補助記録の作成助言でしょうか」
「そうだ。命令権は持たせない」
「医務側への指示権は」
「なし。照会権だけだ」
「はい」
「ただし、照会への回答期限は置く。権限は弱く、期限は硬くしろ」
「承知しました」
セレブリャコーフは、権限欄を整えた。
補助医は、現担当医の診療に指示を行わない。
補助医は、記録形式、名称対応、補助記録について照会できる。
照会を受けた部署は、指定期限内に回答する。
診療の遅延を避けるため、回答は診療後に行うことを可とする。
ターニャは、そこまで読んで頷いた。
弱い権限。
硬い期限。
この組み合わせなら、最初は通る。
命令できない補助医なら、モレルは正面から拒みにくい。だが、期限付きの照会が残れば、無視は記録になる。
EVAがもう一度メモを見た。
「もう一つ」
「何だ」
「写し」
ターニャは、草案を見た。
写し先。
そこが空いている。
表には出せない。だが、内部には必要だ。国家保安本部への写しをいつ、どの段階で流すか。ここが曖昧だと、ブラントが作った補助記録は医務側の箱で止まる。
「写し先は内部留保事項へ入れる」
「国家保安本部、長官室ですか」
セレブリャコーフが聞いた。
「長官室では強い。最初は国家保安本部内の照合係でいい。必要時に長官室へ上げる」
「はい」
「ヒムラー個人幕僚部への写しは」
「それは入れる。だが本文には書かない」
「内部配布欄ですね」
「そうだ」
セレブリャコーフは、表紙とは別の薄い配布票を作った。
表に出る推薦根拠。
裏で回る配布票。
この二つがそろって、ようやく文書は制度の中を歩ける。
ターニャは、最終版の草案を読み上げずに確認した。
声に出す必要はない。
声に出すと、文面が強く聞こえることがある。目で読んで、硬すぎる言葉を削る。弱すぎる言葉は締める。これを繰り返す。
補助。
可読性。
照会。
期限。
負担軽減。
健康管理の継続性。
どれも単独では柔らかい。
並べると、逃げ道が狭くなる。
ターニャは、ようやく封筒を二つ用意させた。
一つは、ヒムラー個人幕僚部へ。
一つは、保留控えとして国家保安本部の照合箱へ。
ドクトルの名は、表には出ない。助言補足の別添にだけ残る。
ブラントの名は、候補者欄にある。
ゲプハルトの名は、別紙の形式確認者欄にある。
モレルの名は、本文では現担当医とだけ書かれている。
その言い換えが、最も重要だった。
モレルと書けば、人の話になる。
現担当医と書けば、役割の話になる。
役割なら、補助を置ける。
ターニャは、封筒の宛先を確認した。
「回付は限定」
「はい。ヒムラー個人幕僚部、指定受領者のみです」
「国家保安本部側は照合箱へ控え。広げるな」
「承知しました」
「ドクトルには返礼不要」
「よろしいのですか」
「礼を言うと、次が増える」
「はい」
EVAが、封筒を見た。
「増える」
「何が」
「次」
「分かっている」
増える。
これはまだ始まりにすぎない。
ブラントの名を置けば、次は本人への打診が要る。打診すれば、モレルに知られないよう経路を選ばねばならない。ヒムラーが承認すれば、総統へ見せる文面が必要になる。総統へ見せれば、モレルを助ける話として組まなければならない。
その先には、診療室がある。
薬瓶がある。
鞄がある。
署名がある。
ターニャは、封緘が乾くのを待った。
乾いた封蝋は、指先で押しても崩れない。
彼女は封筒を回付箱へ置いた。
箱が閉じられる。
音は軽い。
だが、その中に入った名前は軽くない。
カール・ブラント。
まだ補助医候補にすぎない。
後任ではない。
監査役とも書かれていない。
それでも、総統の薬瓶へ伸びる私的な手に、別の手が添えられる準備は整った。
ターニャは、机の上に残った白紙を片付けなかった。
次に必要な文書は、もう分かっている。
本人への打診文。
総統へ見せる説明文。
モレルへ渡す負担軽減案。
名前の違う三枚が、同じ鎖になる。
彼女は、温くなったコーヒーを一口飲んだ。
苦味だけが残った。
それで、眠気は少し遠のいた。
到着控えが戻ったあとも、机の上は片付かなかった。
提出した文書は、提出した瞬間に手を離れる。だが、それで終わりではない。上に行った紙は、別の手で折り返される。語が削られ、欄が足され、意図が薄められ、時には思ったより鋭くなる。
ターニャは、回付箱の空いた場所を見た。
そこには、もう封筒はない。
代わりに、待つ時間だけが残っている。
「ゲプハルト医師への照会は出ました」
セレブリャコーフが言った。
「受領は」
「医務関係の親衛隊側窓口で受領済みです。回答期限は明日十時としています」
「よい。早すぎるか」
「やや早いですが、形式確認に限定しているため通ると思います」
「ならいい」
ゲプハルトの方は、あくまで足場だ。
親衛隊側にも医療を見られる者がいる。そういう形を作るための札であり、総統の部屋へ入れるための札ではない。そこを取り違えれば、医者の縄張り争いになる。
ターニャは、その危険をもう一度書面へ落とした。
ゲプハルト医師は、親衛隊側の形式確認者として薬品名称対応表および保管条件の一般確認に関与する。
総統診療への接近を予定しない。
現担当医の処置内容を評価しない。
短い三行だった。
短いが、必要だった。
EVAが、机の横から言った。
「札」
「ゲプハルトの扱いか」
「はい。違う札」
「そうだ。ブラントとは混ぜない」
「混ぜると」
「燃える」
EVAは、そこで頷いた。
セレブリャコーフの手が、次の控えへ移る。
「ブラント医師宛の未発信文案は、保留扱いで保管します」
「封はするな」
「未封で保管ですね」
「そうだ。承認前に封をすると、発信前提に見える」
「はい」
「ただし、勝手に触れられないよう、管理票は付ける」
「作ります」
未発信文書管理票。
その表題は、味気ない。
だが、味気ない方がいい。
そこに書かれるのは、宛先、件名、作成者、未発信理由、発信条件、保管場所。誰かが見ても、まだ送れないことが分かる。勝手に動かせば、その者の名前が残る。
名前が残る場所では、人は少し慎重になる。
完全ではない。
だが、何もしないよりはいい。
ターニャは、管理票の発信条件欄に書いた。
ヒムラー個人幕僚部の承認後。
必要に応じ、国家保安本部側分類を別添とする。
そこまで書いて、二行目に線を引いた。
強すぎる。
まだ国家保安本部を前に出すな。
彼女は、書き直した。
必要に応じ、限定照合資料を添付する。
こちらの方がよい。
「少尉、国家保安本部の名を減らせ」
「はい。限定照合資料で統一します」
「ブラント本人へ出す文には、国家保安本部を出すな」
「承知しました」
「親衛隊の文書だと分かれば足りる」
国家保安本部の名は便利だが、便利すぎる。出せば相手は緊張する。緊張した相手は、余分な反応をする。ブラントには、まだ緊張より理解を求めるべきだった。
その時、廊下から控えめな足音が近づいた。
セレブリャコーフが扉を開ける。
ヒムラー個人幕僚部の係官だった。先ほどの年配の男ではない。若い。表情は硬く、封筒を両手で差し出している。
「戻しです」
セレブリャコーフが受け取り、封緘番号を見る。
「一致しています」
「開けろ」
封筒の中には、提出した準備案の写しと、短い手書きの指示が入っていた。
総統への説明では、現担当医の負担軽減を第一とせよ。
補助医の権限は書くな。
役割は、健康管理記録の整理補助に限る。
候補者経歴は別添のまま。
ブラントへの打診は、総統への説明文作成後に行う。
最後に、ヒムラーの筆跡で短い一文があった。
守る形を崩すな。
ターニャは、それを読んで紙を置いた。
予想の範囲だった。
だが、一点だけ重い。
ブラントへの打診は、総統への説明文作成後。
つまり、ブラントを先に呼んで地ならしすることはできない。まず総統へ見せるための言葉を作る必要がある。モレルを助ける話として、総統の目に耐える文面へ整えなければならない。
第五節の仕事が、もうこちらへ伸びてきている。
しかし、まだ進まない。
ここでは、その入口だけ作る。
「ブラント医師宛の文案は保留継続」
「はい」
「先に総統説明文の骨子を作る」
「ここで作りますか」
「骨子だけだ。本文は次で詰める」
「承知しました」
ターニャは、新しい紙を引いた。
総統説明用要点。
これも、まだ文書名ではない。
要点。
それで足りる。
最初に書くべき言葉は決まっている。
モレル医師の負担軽減。
次に、対英戦準備に伴う会議増加。
その次に、健康管理記録の整理補助。
ブラントの名は、最後だ。
候補者として、ではなく、補助に適した医師として。
ターニャは、順番を紙に置いた。
一、対英戦準備に伴い、総統の会議、移動、接見が増える。
二、現担当医への負担集中を避ける。
三、健康管理記録の整理補助を置く。
四、補助医は診療を奪わず、記録形式を補う。
五、候補者としてブラント医師を提示する。
六、現担当医の診療継続を前提とする。
ターニャは、六番目を二番目へ移した。
モレルの診療継続を早めに書く。
そうしなければ、警戒される。
「二番に現担当医の診療継続を入れろ」
「負担集中より前ですか」
「そうだ。継続が先だ。軽減はその後」
「はい」
「総統が読むなら、モレルを守る順番にしろ」
「承知しました」
セレブリャコーフは、要点表を書き直した。
EVAが、ヒムラーの手書き指示を見ていた。
「守る形」
「そうだ」
「囲む形」
「言うな」
「はい」
ターニャは、ヒムラーの指示を折り、別添に戻した。
守る形を崩すな。
それは命令だった。
モレルを敵に見せるな。
ブラントを後任に見せるな。
総統に、信頼を疑われたと思わせるな。
全部、同じ意味だった。
ターニャは、ドクトルの助言補足をもう一度見た。
曖昧さを嫌う医師。
記録の可読性確認。
この二語は、総統向けには使いにくい。総統に「読めない記録」と言えば、誰の記録が読めないのかという話になる。そこからモレルへ線が伸びる。
別の語が必要だった。
整理。
補助。
継続。
負担軽減。
また同じ柔らかい語に戻る。
ターニャは少しだけ舌打ちしたくなった。
しない。
「少尉、総統説明用では、可読性という語を使わない」
「整理、で置き換えますか」
「そうだ。健康管理記録の整理補助」
「はい」
「ブラント医師の経歴も出しすぎるな。総統命令に基づく医療行政経験だけでいい」
「国家衛生政策は別添ですね」
「総統向けには出さない」
「承知しました」
総統にとって、ブラントの国家衛生政策上の実務能力は、意味を持つかもしれない。だが、ここで強く見せる必要はない。総統が求めるのは、自分の健康管理が安定し、モレルが邪魔されず、戦争指導に支障が出ないことだ。
国家のために障害者を処理できる医師だと見せるより、総統の予定を乱さない医師だと見せる方が通る。
同じ人物でも、見せる面を変える。
ターニャは、そのことに少し嫌な納得を覚えた。
使えるものは、角度で変わる。
十五分ほどで、総統説明用の骨子はできた。
まだ本文ではない。
だが、これでヒムラーの指示へ返せる。
セレブリャコーフが、確認用に読み上げず、机へ滑らせた。
ターニャは黙読した。
現担当医の診療継続。
現担当医の負担軽減。
対英戦準備。
会議増加。
健康管理記録の整理補助。
補助医候補。
カール・ブラント。
総統命令に基づく医療行政経験。
治療判断への介入なし。
この並びなら、まだ穏やかだ。
穏やかすぎるほどだ。
だが、それでよい。
穏やかな紙ほど、深く入る。
「これを戻しへの回答に付ける」
「はい」
「短くしろ。考えを全部見せる必要はない」
「確認骨子として一枚に収めます」
「そうだ」
EVAが、骨子の端を押さえた。
「少ない」
「わざとだ」
「多いと」
「読まれる」
「読まれると」
「直される」
EVAは納得したように手を離した。
読ませるための紙と、通すための紙は違う。
これは通すための紙だった。
ドクトルなら、その違いを嫌がるだろう。彼は語りたがる。夢を足したがる。装飾を増やしたがる。だが、装飾は燃えやすい。
ターニャは、まだ机の端に置かれていた研究室の資料目録を見た。
必要な三点だけを取り寄せる指示は出してある。記録書式、医療行政、補助医制度。それ以外は戻した。
正しい判断だった。
余計な箱を受け取れば、今日の机は研究室に占領されていた。
扉がまた叩かれた。
セレブリャコーフが応対する。
今度は研究室の助手ではない。通信係だった。
「研究室より、通話希望です」
ターニャは、受話器を見た。
「急ぎか」
「急ぎとのことです」
「内容は」
「『紹介状の魂について』と」
ターニャは、即座に言った。
「断れ」
セレブリャコーフは、ためらわなかった。
「文書作成中のため、後刻確認すると返します」
「後刻もいらん。必要があればこちらから聞く」
「はい」
通信係が下がった。
EVAが、小さく言った。
「魂」
「燃やす」
「まだ来ていない」
「来る前に燃やす」
セレブリャコーフは、表情を崩さずに手元へ戻った。
ターニャは、少しだけ肩の力を抜いた。
ドクトルの助言は必要だ。
だが、魂は要らない。
紹介状に必要なのは、宛先、理由、範囲、禁止事項、期限。それだけだ。魂を入れれば、誰かが読む。読めば、余計な感情が動く。
感情は、総統周辺では特に危険だった。
モレルは感情で守られている。
だから、こちらは感情を使わない。
使うのは、負担軽減という言葉だけだ。
夕方の光が、窓の上の方だけを薄く染めた。
部屋の中はまだ暗い。照明が机の上だけを照らしている。紙の白さとインクの黒さだけが強く見える。
ターニャは、総統説明用骨子の控えを折った。
折り目は正確に付ける。
文書の扱いが雑な者は、内容も雑に扱う。
そう見られてはならない。
「戻しへの回答を出す」
「はい。宛先はヒムラー個人幕僚部指定係です」
「持参。通常回付に戻すな」
「承知しました」
「受領後、到着控えを取れ」
「はい」
セレブリャコーフは、二度目の封緘を進めた。
今回の封筒は、先ほどより薄い。
中身が少ないからだ。
だが、意味は軽くない。
ヒムラーの指示を受け、総統説明用の順番を整えた。そのことを伝える封筒だった。
これが戻れば、次は総統へ見せる文面に入る。
そこまで行けば、第5節の扉が開く。
だが、今はまだ第4節の終わりにいる。
医者ではない博士が名を出し、ターニャが削り、ヒムラーが守る形を命じた。ブラントはまだ来ていない。モレルもまだ知らない。ただ、紹介状の外枠だけが整った。
ターニャは、ブラント宛の未発信文案を封筒に入れず、別の薄い挟みに収めた。
未発信。
承認待ち。
補助医候補。
この三つの印が並ぶ。
それが今の限界だった。
限界を越えれば、相手が起きる。
限界の手前まで寄せれば、次の命令で一歩進める。
ターニャは、挟みを照合箱へ入れた。
蓋を閉じる音は、先ほどの封筒より少し鈍かった。
中には、まだ送られない名が入っている。
名前は閉じ込められたまま、命令を待つ。
それでよかった。
この段階で必要なのは、動くことではない。
動ける形で止めておくことだった。
次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)
-
イギリス戦方面
-
帝国内政(モレル関連)