【挿絵表示】
肩書きは、総統随行医。
のちに保健・衛生分野の全権委員となる人物。
史実では、外科医として出発し、若くしてヒトラーの側近医師の一人となった。
ベルクホーフ周辺の内輪にも出入りし、単なる町医者ではなく、総統の身体と国家医療の境目に立つ医師である。
1939年には、フィリップ・ブーラーとともに「T4」計画に関与した。
医療を個人の治療ではなく、国家目的のために動かす側へ回った人物である。
のちには保健・衛生分野の調整権限を与えられ、民間医療と軍医療の間にも関わっていく。
つまりブラントは、診察室の医者で終わらず、医療を制度として扱う位置まで上がった。
本作では、モレルのような私的医師とは違い、記録・引き継ぎ・責任経路・国家管理に向いた実務家として扱っている。
薬瓶と個人裁量に沈む総統周辺へ入れるには、冷たく、清潔で、整理された医師である。
モレルが“総統個人の医者”なら、ブラントは“国家が総統の身体を管理するための医師”に近い。
※だんだんナチの人物や軍装のイラスト紹介になってきてそう汗
未発信の打診文は、翌朝になってから発信済みの控えへ変わった。
その変化は大きなものではない。照合箱から薄い挟みが出され、承認欄に時刻が入り、ヒムラー個人幕僚部の戻しが添えられる。発信可。件名維持。候補者への接触は限定。現担当医への説明は別途。
それだけだ。
だが、その一行で、名前は紙の中から外へ出た。
カール・ブラント。
ターニャは、その名が入った控えを机の端へ置いた。昨日までの文案とは違う。これは、もう実際に相手へ届いた文書である。文字の重さが変わる。
セレブリャコーフは、到着確認の控えを揃えていた。
「ブラント医師側より、受領済みです。本日午後、指定時刻に出頭すると回答がありました」
「出頭という語で返してきたのか」
「はい。本人名で署名されています」
「悪くない」
ターニャは、短く答えた。
出頭。
医者が患者のそばへ来るのではない。国家の命令系統に応じて指定場所へ来る。そこに、この男の性格が少し見える。
モレルなら、おそらく違う言い方をする。
総統の診療予定がある。
総統の体調次第だ。
自分の判断で動く。
そういう余白を残すはずだった。
ブラントは、少なくとも最初の返答では、余白を残さなかった。指定時刻に来る。本人署名で返す。それだけで、会う前から扱いやすさの一部が見える。
「場所は照合室ではなく、小会議室にする」
「記録を見せる場所とは分けますか」
「そうだ。最初から箱の前に座らせるな」
「はい」
「まず役割を確認する。そのあと必要な分だけ見せる」
「承知しました」
セレブリャコーフは、会議室の使用票に時刻を書き込んだ。
EVAは、窓際で黙っている。今日は何も持っていない。だが、視線はブラントの受領控えへ向いていた。
「来る」
「そうだ」
「静か」
「まだな」
「静かな人ほど、よく切る」
ターニャは、少しだけ目を細めた。
「見てから言え」
「はい」
午前のうちに、ブラントへ見せる資料はさらに削られた。
第一群A一の全体表は出さない。
A三も出さない。
薬品名称の対応票は、名称欄だけを抜く。
会議予定との重なりも見せない。
内線記録は伏せる。
見せるのは、モレルの診療記録の一部、持込目録の抜粋、処置時刻の記載例、立会者欄の空白、薬品名略記の混在、保管欄の不足だけだった。
ターニャは、資料束の表紙へ手を置いた。
これで十分だ。
ブラントに見せたいのは、疑惑ではない。
読めなさだ。
医者として、次に同じ患者を診る時、前の処置を追えるか。薬品が何で、どれだけ使われ、誰が見て、どこに保管され、次の診療で何を引き継ぐのか。そこを読めるか。
読めないなら、それでよい。
いや、よくはない。
だが、こちらの札にはなる。
「少尉、第一群という語は消せ」
「はい。抜粋資料として整理します」
「A一、A三の内部記号も外せ」
「外しています」
「よい。ブラントには事件を見せるな。記録を見せろ」
「はい」
セレブリャコーフは、もう一度束をめくった。
彼女の手つきは早いが、乱れない。医務側、警護側、侍従側の文書を扱い続けた結果、紙の種類の違いにも慣れていた。薄い処方控え。厚めの台帳。警護班の短い申し送り。医務側の略記。どれも、彼女の指先で別の束に収まる。
午後の指定時刻より少し前、廊下から足音が近づいた。
モレルの時とは違った。
モレルは、歩くだけで周囲に匂いと気配を散らした。香料、薬品、革鞄、付き添いの気配、自分が通るのが当然だという空気。廊下が彼を避けるように動いた。
今、近づく足音は、それより硬い。
速くも遅くもない。
間隔が揃っている。
護衛でも、医務係の小走りでもない。軍務に慣れた者の歩き方だった。
扉の前で足音が止まる。
セレブリャコーフが応対に出た。
「カール・ブラント医師です」
「入れ」
扉が開く。
入ってきた男は、まず敬礼した。
白衣ではなかった。
フィールドグレーの開襟型制服。襟元はきちんと整えられ、布地に余計な皺がない。階級章は親衛隊中佐のものだった。親衛隊の階級を持ち、武装親衛隊側にも籍を持つ医師。医療と軍務のどちらにも足を置く者として、見せ方を分かっている。
帽子は手に持っていた。
鞄は一つ。
大きくない。
膨らんでもいない。
持ち手は古びていないが、装飾もない。必要なものだけ入っている形だった。モレルの鞄が、近くにいるだけで中身を主張していたのとは違う。ブラントの鞄は、閉じていることが仕事の一部のように見えた。
ターニャは、立ったまま応じた。
「カール・ブラント医師ですね」
「はい。指定を受け、参りました」
声は冷静だった。
甘くもない。
威圧的でもない。
相手を安心させるための丸みを、わざわざ作っていない声だった。
「私は、親衛隊少佐ターニャ・フォン・デグレチャフです。ヒムラー個人幕僚部付兼国家保安本部付の調整官として、この件を扱います」
「承知しました」
ブラントは、余計な感想を挟まなかった。
ターニャは、小会議室の椅子を示した。
「座ってください。最初に、呼ばれた理由を確認します」
「補助医として呼ばれたと理解しています」
「書類上は補助医です」
ブラントは、そこで一度だけ視線を上げた。
表情は変わらない。
ただ、言葉の端を拾った。
「書類上は、ですか」
「はい。実務上は、補助医という言葉だけでは足りません」
「では、私は何を見ればよろしいですか」
早い。
ターニャは、そう思った。
自分の待遇、席、権限、総統との距離を先に聞かない。何を見るかを聞く。少なくとも、今この場では正しい。
「モレル医師の治療を否定する必要はありません」
「はい」
「薬効の評価も不要です」
「では、記録ですか」
「そうです。いつ、何を、どれだけ使ったか。誰が見て、どこに置かれ、次の診療で読める形になっているか。それを見てください」
ブラントは、ゆっくり頷いた。
「診療の正否ではなく、継続可能性を見る」
「その理解で結構です」
「現担当医への介入は」
「求めません」
「総統への直接診療は」
「別命があるまで行いません」
「私の権限は」
「記録形式の確認、薬品名称対応表の照合、保管条件の一般確認、補助記録の作成助言です。指示権ではありません」
ブラントは、そこでわずかに目を細めた。
「指示権ではないが、照会権はある」
「はい。回答期限付きです」
「分かりました」
やはり、話が早い。
ターニャは、資料束を差し出した。
「抜粋です。全体ではありません」
「全体でない理由を伺っても」
「最初から全体を見せると、治療評価に見えます。今は形式だけを見ます」
「妥当です」
ブラントは、鞄を机の横へ置いた。
音が小さい。
モレルの鞄なら、中の瓶が触れ合う音がしただろう。ブラントの鞄は違う。革の底が床に当たっただけで、中身は鳴らなかった。
彼は鞄を開けた。
中も整っていた。
筆記具。
薄い手帳。
封筒入れ。
小さな器具袋。
薬品瓶は見えない。
少なくとも、むき出しではない。
必要なものが、所定の場所に収まっている。見せるための整理ではなく、使うための整理だった。
セレブリャコーフが、資料の配置を整える。
ブラントは、まず診療記録の写しを見た。
指で薬品名を追う。
次に、持込目録を見る。
その後、処方控えへ移る。
順番が自然だった。
診療記録だけを読まない。必ず、物の出入りと照らす。こちらが見せたい場所へ、こちらが言わなくても進んでいる。
ターニャは黙って待った。
ブラントは、数枚を読んだだけで、最初の紙を横へ置いた。
「略称が多いですね」
「医務側では通じるそうです」
「医務側だけで通じるなら、医務側の記録です」
「警護記録ではありませんね」
「はい。総統の周辺で扱うものとしては弱い」
ブラントは、薬品名称の対応欄へ目を移した。
「同一薬品の別名、または同系統薬の混在の可能性があります。ここは確認しなければなりません」
「同系統では足りませんか」
「足りません。次に診る者が、同じものと判断してよいのか、似た働きの別物なのかを区別できません」
「数量は」
「単位がそろっていません。量なのか濃度なのか、記載だけでは読みにくい箇所があります」
「読みにくい、ですか」
「はい。読めないと断じるには、医務側の慣行を確認する必要があります。ただ、このままでは引き継ぎに向きません」
引き継ぎ。
ターニャは、その語を聞いても表情を変えなかった。
文書では避けた語だ。
だが、ブラントの口から出るなら使える。
こちらが言わせたのではない。記録を読んだ医師が、自分でそう言った。その形が欲しかった。
「立会者欄はどう見ますか」
「空欄です」
「それだけですか」
「それだけで十分問題です。処置の内容を問う以前に、誰がその場で見ていたかが分かりません」
「総統本人の許可があれば」
「許可と確認は別です」
ブラントは、淡々と言った。
「総統本人が許されたとしても、次に記録を見る者には、何を誰が確認したかが必要です。許可は治療を可能にするかもしれませんが、記録の代わりにはなりません」
ターニャは、内心で小さく頷いた。
使える。
非常に使える。
モレルを批判していない。
総統の許可も否定していない。
だが、許可と記録を分けている。
それが必要だった。
「保管欄は」
「薬品ごとの管理場所が曖昧です。常備品、当日持込、処置後残量。この三つが分かれていません」
「診療鞄に入っていれば、管理されていると言えますか」
「医師個人の管理とは言えます。しかし、総統健康管理体制の記録とは別です」
「なるほど」
ブラントは、次の紙へ移った。
表情は変わらない。
怒りもない。
呆れもない。
ただ、読めるか、読めないかを見ている。そこに患者への愛想はない。モレルの人柄への言及もない。診療の善悪にも入らない。
この男は、国家の命令で医療を動かす時の顔をしていた。
ターニャは、ブラントの経歴欄を思い出した。
総統命令に基づく医療行政への関与。
国家衛生政策における実務経験。
民族共同体の負担と分類された者たちを、病院の白い壁の内側から行政の処理へ移すことのできる医師。精神病者、遺伝病者、労働できない者、帝国が重荷と見なした者。そうした者たちを、同情ではなく政策として扱う冷たさ。
親衛隊と党の周辺では、それは能力と呼ばれる。
ブラントは、そういう能力を持つ側の人間だった。
だから、総統周辺でも使える。
患者の肩に手を置いて慰める医者ではない。国家が求める形へ、医療を合わせる医者だ。
ターニャは、その冷たさを嫌うふりもしなかった。
ここでは、必要な道具だった。
ブラントが、処方控えの一枚で手を止めた。
「この記載は、誰が書いたものですか」
「モレル医師の署名があります。筆記者は確認中です」
「署名者と筆記者が違う可能性がある」
「はい」
「では、署名は承認を示すのか、作成を示すのか、そこも分ける必要があります」
「署名欄の意味が不明確、ですか」
「そうです。医療記録ではよく起きますが、この場所では避けるべきです」
「この場所、とは」
「総統の身体に関わる場所です」
ブラントは、そこで初めて少しだけ言葉を強めた。
「医師の手元なら、慣行で済む場合があります。ですが、総統の健康管理では、慣行だけでは足りません。次の者が読めること、責任の位置が分かること、処置後に追えること。この三つが必要です」
セレブリャコーフのペンが走る。
ターニャは、止めなかった。
今の言葉は記録に残せる。
総統の健康管理。
次の者が読めること。
責任の位置。
処置後に追えること。
どれも、こちらが欲しかった語だ。
ブラントは、最後の抜粋を読み終えると、資料束を揃えた。
几帳面な動きだった。
紙の端を机で軽く揃え、上下を確認し、元の順へ戻す。読んだ者が、読んだ後も資料の扱いを乱さない。そこもモレルとは違った。
モレルは、鞄の中では自分の秩序を持っていたのかもしれない。だが、外へ出す記録は他人に読ませる形ではなかった。
ブラントは、逆だった。
自分が読んだあと、次の者が読めるように戻す。
その違いは大きい。
「率直に言います」
ブラントは、ターニャを見た。
「お願いします」
「これは引き継げません。正しいかどうか以前に、何をしたかが分からない」
部屋が静かになった。
ターニャは、わずかに顎を引いた。
「そこを直します」
「直すには、現担当医の協力が必要です」
「協力させます」
「反発します」
「でしょうね」
ブラントは、その返答に少しだけ目を細めた。
「予想済みですか」
「ここに来るまでに、十分予想しました」
「ならば、最初に必要なのは、治療方針の変更ではありません」
「記録形式ですね」
「はい。薬品名称対応表、処置時刻、数量、単位、保管場所、立会者、署名の意味。最低限、この七つです」
「七つ」
「多くはありません」
「モレル医師は多いと言うでしょう」
「言うでしょう」
ブラントは、即答した。
「ですが、総統の健康管理であれば少ないくらいです」
ターニャは、セレブリャコーフへ視線を向けた。
「七項目を別表にしろ」
「はい」
「ブラント医師の所見として残す。ただし、治療評価ではなく記録形式の確認だ」
「承知しました」
セレブリャコーフが新しい紙を用意する。
ブラントは、そこで初めて鞄から自分の手帳を出した。
小さい手帳だった。
紙片が挟まれているが、雑ではない。色の違う細い栞で分けられている。彼は、そこへ短い文字で自分の所見を書いた。
ターニャは、その手元を見た。
この男は、残す。
何を言ったかを、あとで使える形にする。
それだけで、ここへ呼んだ意味はあった。
「ブラント医師」
「はい」
「あなたには、まだ現担当医へ直接接触していただきません」
「承知しています」
「総統への診療にも入りません」
「はい」
「まずは、補助記録の形式案を作成してください。診療内容ではなく、記録の形です」
「期限は」
「明日正午」
「可能です」
「必要資料は、こちらが指定して渡します。勝手に医務側へ照会しないでください」
「分かりました」
「照会が必要な場合は、私を通してください」
「その方が無難でしょう」
ブラントは、静かに答えた。
不満は見せない。
自分の権限が狭いことにも、特に反応しない。むしろ、範囲を絞られた方が仕事をしやすいと思っているように見えた。
ターニャは、その点を評価した。
医者には二種類いる。
自分の判断を広げたがる者。
与えられた目的に沿って、必要な範囲を詰める者。
今回必要なのは後者だった。
ブラントは、少なくとも今のところ、後者として動いている。
「一点、確認します」
ブラントが言った。
「どうぞ」
「私の所見は、現担当医への批判として扱われますか」
「扱いません。補助記録の整備根拠として扱います」
「それなら、所見を出せます」
「批判として扱われるなら」
「医師同士の争いになります。私はそれを望みません」
「意外ですね」
「争うなら、目的が必要です。ここで争う目的はありません」
ブラントは、淡々としたまま続けた。
「必要なのは、総統の健康管理が切れないことです。そのために記録を整える。そういう話なら、私は働けます」
ターニャは、返答を一拍置いた。
「結構です」
それだけ言った。
余計な賞賛はしない。
ブラントは、賞賛を欲しがる種類には見えない。欲しがらない相手に褒め言葉を渡すと、かえって軽くなる。
必要なのは、次の指示だ。
「少尉、資料の写しを準備しろ」
「範囲は」
「今日見せた抜粋と、薬品名称対応票の未確定欄だけだ。会議予定との照合表は渡すな」
「はい」
「警護班の申し送りも、立会者欄の確認分だけにしろ」
「承知しました」
セレブリャコーフが束を作る。
ブラントは、それを待っている間も姿勢を崩さなかった。
座り方に無駄がない。背筋は硬すぎず、机との距離も近すぎない。相手に愛想を振りまくための身振りがない。だが、無礼でもない。
モレルのような近さがない。
その距離感がよかった。
総統のそばへ入れるには、近すぎる者は危ない。だが、遠すぎる者は使えない。ブラントは、今のところ、距離を測っている。
ターニャは、彼の制服の襟元へ一瞬だけ目をやった。
親衛隊の階級章。
中佐。
医者であり、親衛隊の人間であり、武装親衛隊にも属する。白衣だけの医師ではない。命令と組織の重さを知っている。そこが、モレルとの決定的な違いだった。
モレルは総統個人へ近い。
ブラントは国家へ接続している。
今回必要なのは、後者だった。
資料の写しが整う。
セレブリャコーフが封筒へ入れ、封をせずブラントへ差し出した。
「確認用です。返却期限は明日正午です」
「受領しました」
ブラントは、その場で受領欄へ署名した。
時刻も自分で入れる。
筆跡は読みやすい。
ターニャは、それを見てから言った。
「もう一つ。あなたの所見には、モレル医師の名前を必要以上に入れないでください」
「現担当医と書きます」
「そうしてください」
「治療行為への評価を求められた場合は」
「拒否してください。必要なら、私の指示だと言って構いません」
「分かりました」
「責任者は私です」
ブラントは、そこで初めてわずかに表情を動かした。
驚きではない。
確認するような目だった。
「よろしいのですか」
「責任者が曖昧な仕事は要りません」
「同意します」
短い返答だった。
だが、その一言で、ブラントの評価も少し定まった。
彼は、責任の所在を気にする。
よいことだ。
責任を嫌う者は、あとで逃げる。責任の位置を確認する者は、少なくとも仕事の線を理解している。
ブラントは立ち上がった。
「明日正午までに、補助記録形式案を提出します」
「提出先は私の執務室です。途中で医務側へ回さないでください」
「承知しました」
「質問があれば、書面で出してください」
「口頭ではなく」
「はい。口頭は残りません」
「分かりました」
ブラントは、帽子を手に取り、敬礼した。
入ってきた時と同じく、動作に飾りがない。鞄も静かだった。中身が整理されている者の音だ。
扉が閉じる。
足音が遠ざかる。
モレルの時のように、香料も薬品の残り香もない。ただ、机の上に、ブラントの署名した受領票が残っていた。
ターニャは、それを手に取った。
署名。
時刻。
受領範囲。
返却期限。
必要なものが揃っている。
まだ、補助医としての鎖は細い。
だが、少なくとも一方の端は、国家の側に結ばれた。
セレブリャコーフが、ブラントの所見用の控えを整理する。
「七項目の別表を作ります」
「作れ。薬品名称、数量、単位、時刻、保管、立会者、署名の意味」
「はい」
「所見の表題は」
「補助記録形式に関する初期所見、でよろしいでしょうか」
「よい。治療という語を入れるな」
「入れません」
EVAが、ブラントの去った扉を見ていた。
「静か」
「そうだな」
「切る」
「まだ切らせない」
「はい」
ターニャは、受領票を照合箱へ入れた。
そして、別の白紙を引いた。
ブラントが見た不備。
それは、モレルを外す理由ではない。
まだ、そうではない。
だが、モレル一人へ預けておけない理由にはなる。
ターニャは、白紙の上に短く書いた。
現担当医記録の補助記録化に関する必要項目。
その下に、七つの欄を置く。
今度は、ドクトルの紹介ではない。
ブラント本人の所見から出た欄だった。
そこに、意味があった。
誰かの推薦状では弱い。
本人の署名と、読んだ記録への所見があれば、次へ進める。
ターニャは、最後にもう一度、モレルの抜粋資料を見た。
薬品名の揺れ。
数量の不統一。
立会者の空欄。
署名の意味の曖昧さ。
保管場所の薄さ。
ブラントは、それを見て言った。
引き継げない。
その一語は、派手ではない。
だが、医療の言葉としては重かった。
ターニャは、ペンを置いた。
前半の仕事は、そこまでだった。
モレルの記録には、もう明確な不備がある。
それを、医者が読んで、医者の言葉で残した。
あとは、その不備をどう総統へ見せるかだった。
そのまま机を閉じるには、まだ早かった。
ブラントは去った。だが、彼が読んだ痕跡は残っている。資料の端は揃えられ、受領票には時刻が入り、確認用に抜かれた写しは元の順番へ戻されていた。騒がしい言葉も、余計な感想もない。残ったのは、短い所見と、読み直すべき場所だけだった。
ターニャは、ブラントが手を止めた頁をもう一度開いた。
同じ日付の中に、三つの筆跡がある。
医師の署名。
補助者らしい記載。
あとから足されたような細い文字。
紙面だけを見ていれば、さほど珍しくはない。忙しい医務室なら、複数人が記録へ触れることもある。だが、総統の診療に関わる控えとして見るなら、話は変わる。
誰が書いたのか。
誰が承認したのか。
誰が見たのか。
その三つが、同じ署名の下に隠れている。
「少尉、筆記者欄を追加しろ」
「署名者とは別ですね」
「そうだ。署名だけでは足りない。書いた者と認めた者を分ける」
「はい」
「筆記者不明の場合は、不明と書け。空けるな」
「承知しました」
セレブリャコーフは、新しい欄を足した。
筆記者。
確認者。
署名者。
同じように見える三つの言葉が、別の欄へ分かれた。
それだけで、モレルの記録は少し違う顔になる。署名があるから十分ではない。署名が何を意味しているかが分からないなら、それ自体が確認対象になる。
ターニャは、次の頁へ移った。
薬品名の横に、短い記号がある。
その記号が、別の日には少し変わっている。大文字と小文字。略称と商品名。時には、同じものを指しているらしいが、時には違うもののようにも見える。医務側なら通じるのかもしれない。だが、ブラントはそこで手を止めた。
医務側だけで通じる記録は、医務側の記録です。
その言い方は、静かだった。
しかし、強かった。
ターニャは、そこに印を置いた。
「薬品名は、種類で分ける」
「正式名称、商品名、略称、通称でしょうか」
「それでいい。成分名が分かるなら別欄だ」
「医務側へ照会します」
「照会文には、疑義とは書くな。対応表作成のため、と書け」
「はい」
疑義。
その語は便利だ。
便利だが、攻撃に近い。
まだ使わない。
相手に疑われていると思わせるより、整理していると思わせる方が早い。整理なら答えやすい。答えなければ、整理に協力しなかった事実が残る。
EVAが、処方控えの端を見ていた。
「あと」
「どこだ」
「日付」
ターニャは、指された場所を見た。
日付欄の数字の濃さが違う。本文より濃い。別のペンか、別の時間に入れたものかもしれない。もちろん、それだけで後日記載とは言えない。だが、見逃す理由にもならない。
「日付の記入時点か」
「薄い。濃い」
「印だけ入れろ。判断はしない」
「はい」
セレブリャコーフが、備考欄に短く記した。
日付記入状態、要確認。
それ以上は書かない。
ターニャは、その短さを見て頷いた。
断定しない短さ。
だが、消えない短さ。
これが必要だった。
ブラントは、モレルの人柄を語らなかった。香料の匂いにも、鞄の膨らみにも、総統への近さにも触れなかった。ただ、記録として次へ渡せないと言った。それで足りた。
足りたからこそ、こちらで勝手に色を足してはいけない。
不潔だ。
横柄だ。
私的な寵臣だ。
そういう言葉はいくらでも浮かぶ。だが、文書へ入れた瞬間に弱くなる。悪口は、悪口として反撃される。記録の穴は、穴として残る。
ターニャは、悪口を捨てた。
欄だけ残す。
「ブラント医師の所見は、分類し直す」
「七項目とは別に、補助項目ですか」
「そうだ。筆記者、確認者、署名の意味、日付記入時点。この四つを補助項目へ置く」
「はい」
「提出時は、主項目と補助項目に分けろ。一枚に詰めるな」
「承知しました」
セレブリャコーフは、紙を二枚に分けた。
主項目。
補助項目。
同じ内容を、同じ場所に置かない。それだけで、読む側の反応は変わる。主項目に入れれば要求に見える。補助項目に置けば、確認に見える。
確認なら、通りやすい。
通れば、次に要求へ変えられる。
ブラントの初期所見は、だんだんと形を持ち始めた。
薬品名。
数量。
単位。
時刻。
保管。
立会者。
署名の意味。
筆記者。
確認者。
日付記入時点。
どれも小さい。
だが、ひとつずつ埋めれば、モレルの診療記録は、もうモレル一人の手元では完結しない。
そこが重要だった。
EVAが、机の上の二枚を見た。
「増えた」
「必要な増加だ」
「増えると、逃げる」
「だから分ける」
「分けると」
「ひとつずつ答えさせられる」
EVAは、わずかに頷いた。
セレブリャコーフが、ブラントへ渡す予定の資料管理票を作り直している。返却期限、閲覧範囲、追加照会禁止、質問は書面。そこへ新しく、複写禁止の欄が入った。
ターニャは、その欄を見た。
「複写禁止は強いな」
「外しますか」
「いや、残せ。ただし理由を付ける」
「機密保持ですか」
「それでは広すぎる。医療情報保護でいい」
「はい」
「保護という言葉は便利だ。使える時は使え」
セレブリャコーフは、理由欄へ書き込んだ。
医療情報保護のため、指定範囲外の複写を禁ずる。
医療情報保護。
きれいな言葉だった。
その裏で守るのは、情報の流路である。
きれいな言葉ほど、使い方を間違えなければ役に立つ。
午後の遅い時刻、ブラントから最初の質問票が届いた。
早い。
ターニャは、封筒の薄さを見て少しだけ意外に思った。分厚い反論ではない。質問票は一枚だけだった。筆跡は、受領票と同じく読みやすい。
一、薬品名称対応表の既存資料の有無。
二、注射剤保管場所の現行運用。
三、立会者を置かない場合の理由記載の慣行。
四、診療後補助記録の保管先。
五、補助医所見の提出範囲。
五つ。
十分だ。
余計な質問がない。
ターニャは、質問票を机に置いた。
「答えやすい順に返す」
「すべて返答しますか」
「一度に全部は返さない。既存資料の有無、保管場所の現行運用、所見の提出範囲。この三つを先に返す」
「立会者を置かない理由記載と、診療後補助記録の保管先は」
「こちらで詰める。まだ返すな」
「はい」
「立会者の理由記載を今出すと、モレルが嫌がる」
「補助記録の保管先は、国家保安本部写しに関わります」
「そうだ。まだ答えない」
セレブリャコーフは、回答案を作り始めた。
ブラントは、こちらが踏み込みたい場所を正確に聞いてきている。
薬品名。
保管。
立会者。
保管先。
提出範囲。
どれも急所だ。
だが、急所だと分かっているからこそ、一度に出さない。向こうが有能であっても、全てを渡す必要はない。有能な者ほど、渡したものを使って先へ進む。進みすぎれば、こちらの手順が追いつかない。
ターニャは、回答案の冒頭を短くした。
現時点では、薬品名称対応表の既存完全版は確認されていない。
注射剤保管場所については、常備品、当日持込、処置後残量を分ける方向で整理中。
補助医所見は、当面、調整官経由で提出する。
ここまでで止める。
立会者と保管先は残す。
「未回答ではなく、別途確認中にしろ」
「はい」
「期限は」
「明日正午までに再回答でよろしいでしょうか」
「遅い。明日十時」
「承知しました」
時間を置きすぎると、相手が自分で動く。
動かせないために、こちらから期限を置く。
ターニャは、回答案へ署名した。
ブラントへの返答は、丁寧すぎてもよくない。医師として立てすぎれば、相手の領分が広がる。粗雑に扱えば、協力が鈍る。必要なのは、官僚的な礼儀と、明確な範囲だった。
回答票は、セレブリャコーフの手で封筒へ入れられた。
今度は封緘を軽くする。
機密ではあるが、過剰に固める必要はない。相手はすでに指定された協力者であり、内容も限定されている。すべてを重く扱えば、本当に重いものとの差が消える。
ターニャは、その差を大事にした。
重いものは重く。
軽いものは軽く。
中間のものは、中間として流す。
それができない組織は、いずれ全部を同じ箱へ入れて腐らせる。
「ブラント医師の質問票は、別に保存しろ」
「所見とは分けますか」
「分ける。質問票は、彼が何を見たかの証拠になる」
「はい」
「所見は、彼が何を判断したかだ。同じ束に入れるな」
「承知しました」
セレブリャコーフは、保存箱を二つに分けた。
質問。
所見。
ターニャは、その文字を見て満足した。
聞いたことと、判断したこと。
この区別は重要だ。
後でモレルが騒いだ時、ブラントが勝手に判断したのか、こちらが何を示したのか、切り分けられる。切り分けられるものは守れる。混ざったものは、燃える。
夕方前、ブラントから受領確認だけが返ってきた。
回答受領。
追加質問は明朝まで保留。
補助記録形式案は予定通り提出。
それだけだった。
ターニャは、その短さに少しだけ安心した。
ドクトルなら、三倍の紙を返してくる。
モレルなら、なぜ必要なのかと怒るか、総統の予定を盾にする。
ブラントは、受け取った、保留する、提出する、と返す。
使いやすい。
そして、使いやすい人間ほど、使われることに慣れている。
ターニャは、そこも忘れなかった。
ブラントは単なる書記ではない。国家が医療に何を求めるかを知っている。命を救うだけでなく、命を分類し、命令に従って扱う側の医師だ。国民共同体の負担とされた者を、感情ではなく処理として見ることができる。
そういう人間を、総統のそばへ入れる。
危険でないわけがない。
だが、モレルの私的な近さを放置する方が、今はもっと危ない。
ターニャは、机の上の資料を閉じた。
「少尉、明日の正午までに、ブラント所見を受ける準備を整える」
「補助記録形式案の受領箱を作ります」
「受領箱だけでは足りない。一次確認、差し戻し、採用案、保留案に分けろ」
「はい」
「採用案という語は内部だけだ。外には出すな」
「承知しました」
EVAが、小さく言った。
「鎖、増える」
「まだ糸だ」
「でも、結ぶ」
「そうだ。結んだら切りにくくなる」
ターニャは、ブラントの受領確認を保存箱へ入れた。
これで、前半の位置は固まった。
ブラントは来た。
記録を読んだ。
不備を見た。
質問を返した。
まだ、総統へ出す文面には入らない。
まだ、モレルへ告げる段階でもない。
だが、医師の言葉はもう残った。
引き継げない。
可読性が足りない。
責任の位置が曖昧。
それらは感情ではない。
悪口でもない。
記録として、次の机へ運べるものだった。
次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)
-
イギリス戦方面
-
帝国内政(モレル関連)