第11節 未来への担保
未来は、常に不確定である。
だが、不確定であるからこそ、人はその“担保”を欲する。
ある者は信仰にそれを求め、またある者は科学に。あるいは、火薬と金属、つまりは兵器にこそ、国家の延命を託す者もいる。
その日、ターニャ・デグレチャフ中尉のもとに届けられたのは、ベルリンより発信された一通の“非公式通信”であった。差出人の名は伏せられていたが、暗号の書式、封筒の質、そして添付された印影の微細な擦れ具合――すべてが示していた。
これは、国家保安本部(RSHA)の最上層からの、“特別な便り”であると。
「……ノルウェー、重水、原子核分裂。理論段階、進捗は限定的……か」
ターニャは書面の内容を確認しながら、あえてため息を吐いた。
軍事研究に関わる文書としては曖昧すぎる。だが、“あえて曖昧にしてある”という点が、むしろ重要である。
なにせこの情報は、正式には存在しない。よって、信じるか否かは、受け手の“胆力”に依存する。
新型兵器の影。
それは未だ影にすぎないが、影であるがゆえに、幻想として使える。
「……やはり、切り札にしては不確実すぎますね」
少女は囁くように呟きつつ、しかし書類を封じる手には迷いがなかった。
不確実な情報も、“交渉”という名の博打においては武器になる。
問題は、そのカードをいつ、どこで、どの相手に切るか――それだけだ。
彼女の脳裏には、すでに複数の“未来”が並列で構築されていた。
ひとつは、ドイツが敗北する未来。
そのとき、ターニャが選ぶべきは、保身か、裏切りか、それとも……?
だが同時に、もうひとつの未来――ドイツが“勝たないまでも負けない”、すなわち講和または限定的な勝利に持ち込む未来も、彼女は完全には否定していなかった。
なぜなら、“負けない未来”の可能性を切り捨てる者は、いずれ勝利の機会すら見失うからである。
「……問題は、我々がいかに“負けない姿勢”を演出するか、か」
ターニャは椅子にもたれかかりながら、ふと目を閉じた。
世界は今、動きつつある。
英仏両国は、ポーランド侵攻への反応を形式的抗議に留めたが、それは決して“無関心”を意味しない。
とりわけイギリスは、ノルウェーの鉱山地帯に神経を尖らせている。連合国による“封鎖”と“先制的介入”の可能性は、もはや仮定ではない。
フランスはフランスで、情報戦の泥沼にすでに足を取られている。国内の共産主義者との睨み合いが、対独対応を著しく遅らせているという。
そして――肝心の国防軍。
彼らはこの“新型兵器”の存在に懐疑的だった。
「絵に描いた核分裂に予算など出せるか」と呟いた将校の報告が、ターニャの耳にまで届いている。
実際、国家保安本部の中でさえ、その実現性には大きな疑念があった。
だがそれでも、ターニャはこの“影のような兵器”に意味を見出していた。
それが幻想であれ、信仰であれ、疑念であれ――戦略とは、そうした“概念”を操る学問であるからだ。
「……使える。使い方次第では、“生き残る未来”の一部たりうる」
それが、彼女の下した結論であった。
この情報を即座に切るつもりはない。
だが、いずれ必要になる時が来る。追い詰められた末の一手として、あるいは、こちらから仕掛ける“罠”として。
それまでは、沈黙。
すべてを知り、すべてを記憶し、しかし何も語らず――
彼女は“準備だけ”を整えておく。
「未来の担保。それは誰かが用意してくれるものではなく、自ら盗み取るものだ」
この一言にこそ、ターニャ・デグレチャフという存在の“真骨頂”が宿っていた。
第12節 灰色地帯の核心へ
灰色とは、中間である。
白でもなく、黒でもなく、そのどちらとも言えぬ曖昧な空間。
だが、曖昧という言葉に含まれる“穏やかさ”は、この地域には存在しない。
灰色地帯――それは東部ポーランド、すなわちリヴィウ=クラクフ間に広がる“占領地の亀裂”であった。
名目上は文民統治、実質は軍政。
行政機構はドイツ民政当局が握り、治安は親衛隊が管理、そして食糧供給と兵站を国防軍が握る。
要するに――誰も支配しておらず、誰も責任を取らない。
ターニャ・デグレチャフ中尉がその地域に“視察”として向かうことを決めたのは、命令の通達というより、矛盾そのものが“問題提起”として浮かび上がってきたからであった。
「戦線ではなく、戦場。だが、銃声よりも“報告書の矛盾”の方が騒がしいとは……」
移動車両の中、ターニャは車窓に映る田園風景を見ながら、手元の資料に目を落とす。
いずれも“整合的”な文章ばかり。食糧配給は正常。治安報告に異常なし。反乱の兆候ゼロ。
だが、それらが並べば並ぶほど、欺瞞の匂いが強くなるのが、国家保安本部(RSHA)の調整官としての“感覚”である。
なぜなら、それらの報告は、現場の人間が書いたにしては整いすぎている。
ターニャは薄く笑う。
「現場というのは、本来もっと“汚れている”ものです」
報告書という名の絵画。
だが、その絵の中では、死者は描かれず、瓦礫も描かれず、飢えた群衆は影としてすら登場しない。
それこそが、国家の病理にほかならなかった。
総督府は、軍政の“責任”をRSHAに押しつけ、RSHAは“秩序維持”の名のもとにゲシュタポを派遣し、アプヴェーアは“情報提供”という体裁で、独自の代理人を送り込んでくる。
そして、ナチ党の地方組織――党地区指導部は、それらの上にあぐらをかき、密告と口出しだけを繰り返す。
行政という名の泥沼。
だが、その泥の中にこそ、ターニャが探し求める“核心”は潜んでいる。
その核心――すなわち、“崩壊の兆し”であり、国家が次に破綻する“継ぎ目”である。
その歪みを嗅ぎ分け、指先で“調整”すること。
それこそが、ターニャ・デグレチャフという存在がRSHAの中枢に召喚された、真の理由であった。
だから彼女は、この不穏な“視察”を前向きに捉えていた。
無秩序を嗅ぎ取り、沈黙を測定し、必要とあらば“記録なき処理”を行う。
それが、彼女に与えられた役割だ。
だからこそ、最後の命令文の末尾を見たとき、ターニャの口元には皮肉な笑みが浮かんでいた。
『視察地をリヴィウに変更。同行者コード“EVA”』
EVA――それは、彼女がかつて一度だけ交差した、“例の少女”を示す暗号名だった。
「……あの“子供”を、また使うとは」
国家保安本部は、既に“灰色地帯”に手を突っ込んでいる。
それも、**ターニャが予測し得なかった“深さ”まで。
だからこそ、彼女の眼差しもまた、深くなる。
これはただの行政視察ではない。
それは、“次の戦場”の地図であり、“次の粛清”の序章であり、そして、“自らの未来を決定づける試金石”でもあった。
灰色の霧の中へと、少女は静かに歩みを進める。
その背にあるのは、国家の意志か、ただの狂気か――あるいは、まだ見ぬ勝機か。
5話へと続きます!
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