幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第6節 総統の不快、親衛隊の微笑 前半

 

 14時55分、ターニャは総統執務室の外にいた。

 

 予定より五分早い。

 

 早すぎるわけではない。遅れる可能性を消すには、この程度が妥当だった。

 

 待機室の時計は、秒針が進むたびに小さな音を立てていた。廊下を行き交う足音より弱い。それでも、話し声が途切れると妙に耳へ残る。

 

 セレブリャコーフは、持参物一覧と革挟みの中身を最後に照合していた。

 

 総統向け説明票。

 

 ブラント所見要旨。

 

 面会許可控え。

 

 ヒムラー用の内部資料は別封。

 

 筆記具。

 

 抜けはない。

 

「内容に変更はありません」

 

「よし」

 

「面会時間は五分のままです。ただし、前の会議が延びています」

 

「開始がずれても順番は変えない」

 

「はい」

 

 EVAは、壁際に立っていた。視線は、総統執務室へ続く扉ではなく、反対側の小さな控室へ向いている。

 

 そこにはブラントがいる。

 

 補助医候補として呼ばれたが、総統の前へ出すとは決まっていない。必要になった時だけ入れる。今は制服姿のまま、指定された部屋で待機していた。

 

 白衣ではない。

 

 親衛隊中佐の階級を付けたフィールドグレーの開襟型制服。鞄は椅子の脇に置き、膝の上には何も載せていない。読書もせず、時計を何度も見ることもなく、呼ばれるまで待っていた。

 

 ターニャが控室の前を通った際、ブラントは立ち上がった。

 

「指示があるまで、こちらでお待ちください」

 

「承知しました」

 

「総統閣下からご質問があった場合のみ、所見を述べていただきます」

 

「記録形式についてだけですね」

 

「はい。モレル医師の治療評価には入らないでください」

 

「分かっています」

 

 それ以上の会話はなかった。

 

 ブラントは座り直した。

 

 静かな男だった。

 

 静かだから安心できるわけではない。必要な時に必要なことを言う者は、声の大きい者より深く入る。だが、今はその性質が要る。

 

 EVAが、控室の閉じた扉を見た。

 

「待てる」

 

「そうだな」

 

「慣れている」

 

「命令を待つことにか」

 

「人が決めるのを」

 

 ターニャは、EVAへ顔を向けなかった。

 

「今はそれでいい」

 

「はい」

 

 総統執務室の内側から、声が漏れた。

 

 大きくはない。

 

 複数の男が短く答え、すぐに黙る。地名らしい単語。飛行場。港湾。航続距離。天候。海軍側の条件。英軍がダンケルクで失った兵力についても触れているらしい。

 

 内容までは聞き取れない。

 

 だが、ひとつの声だけは分かった。

 

 その声が低くなると、他の声が消える。

 

 声を張り上げているわけではない。それでも、周囲が先に息を止める。返答の間合いまで、その男のものになる。

 

 総統。

 

 演説台の上で聞く声とは違った。

 

 近い場所では、声量より変化が怖い。穏やかに話していたと思えば、ひとつの語で急に鋭くなる。その瞬間まで同意していた者も、自分が何かを誤ったような顔をする。

 

 しばらくして、扉が開いた。

 

 空軍と海軍の将校が数人出てくる。誰も話さない。資料を抱え、目線を交わさずに廊下を離れていく。

 

 最後に出てきた将校は、額に汗を浮かべていた。

 

 室内は暑くない。

 

 ターニャは、革挟みの位置を確かめた。

 

 ヒムラーが先に呼ばれた。

 

 彼は襟元を直すこともなく、自然な動きで扉の中へ入った。数分後、係官がターニャの名を呼んだ。

 

 セレブリャコーフが革挟みを差し出す。

 

「持参物、確認済みです」

 

「ここで待機しろ」

 

「はい」

 

 EVAが言った。

 

「目」

 

「何だ」

 

「逸らさない」

 

「分かっている」

 

 ターニャは扉の前へ進んだ。

 

 係官が開く。

 

 中へ入る。

 

 総統執務室は、広さより奥行きを感じさせる部屋だった。

 

 机の向こうに大きな地図がある。フランス側には書き込みが少なくなり、海峡を挟んだイギリス南部へ印が集まっていた。飛行場、港、鉄道線、通信施設。机の一角には、空軍の目標候補一覧が開かれたまま置かれている。

 

 地図の前に立っていた男が、振り返った。

 

 アドルフ・ヒトラー。

 

 写真や演説映像で見る姿より、近くでは小さな動きが目についた。

 

 肩の位置。

 

 指の動き。

 

 口元の止まり方。

 

 顔には会議の疲れが見える。だが、その疲れは弱さにはならない。むしろ、周囲に余計な言葉を控えさせる圧として残っている。

 

 目が、ターニャへ向いた。

 

 見られたというより、測られた感覚に近い。

 

 階級。

 

 制服。

 

 年齢。

 

 所属。

 

 手に持った革挟み。

 

 その全てを一度に見られている。

 

 ヒトラーは、すぐには何も言わなかった。

 

 ターニャは姿勢を正し、最上段の礼を取った。

 

「お時間を賜り、恐れ入ります」

 

「君が説明するのか」

 

「はい。親衛隊全国指導者個人幕僚部付兼国家保安本部付の調整官として、健康管理補助体制についてご説明申し上げます」

 

 ヒトラーの視線が、ターニャからヒムラーへ移る。

 

「この子供が、私の健康管理を決めるのか」

 

 声は静かだった。

 

 冗談にも聞こえる。

 

 だが、笑ってよい空気ではない。

 

 ヒムラーは、わずかに頭を下げた。

 

「総統閣下、医療判断をさせるものではございません。警護、記録、関係部署の調整を担当させております」

 

「医者ではないのだな」

 

 ヒトラーが再びターニャを見る。

 

「はい。私は医師ではございません」

 

「なら、なぜここにいる」

 

「医療の良し悪しではなく、薬品の出入り、診療記録、担当者間の引き継ぎを扱うためでございます」

 

 ヒトラーは、少しだけ顎を上げた。

 

「話せ」

 

 ターニャは革挟みを開いた。

 

 総統向けの説明票だけを出す。

 

 机の上へ置く許可を待つ。

 

 ヒトラーが指先を動かした。

 

 置け、という意味だった。

 

 ターニャは、机の端へ説明票を置いた。

 

「対英戦準備に伴い、今後、会議、ご移動、接見の増加が見込まれます。モレル医師の診療継続を支え、総統閣下の健康管理を安定させるため、補助医一名と補助記録体制の配置を提案申し上げます」

 

 ヒトラーは、最初の数行を読んだ。

 

 読む速度は速い。

 

 だが、途中で指が止まった。

 

「補助医」

 

「はい」

 

「余計な医者はいらん」

 

 即答だった。

 

 声は大きくない。

 

 それでも、室内の空気が一段硬くなる。

 

「モレルは長く私を診ている。私がいつ疲れるか、何を使えば戻るか、どこが悪いかを知っている。別の医者を置けば、話が複雑になるだけだ」

 

「モレル医師のご経験を否定する提案ではございません」

 

「否定していないと言いながら、補助を置くのか」

 

「はい。ご経験を失わないためでございます」

 

 ヒトラーの目が細くなった。

 

「失う?」

 

 短い一語だった。

 

 だが、責められているのは語だけではない。

 

 その語を選んだ理由まで問われている。

 

「モレル医師に万一のことがあった場合でも、過去の処置を他の医師が正確に読めるようにする、という意味でございます」

 

「モレルに何か起きると言うのか」

 

「そのように申し上げているのではございません。戦時下では、ご予定も移動も増えます。一名へ知識と負担が集中している状態を、補う必要がございます」

 

 ヒトラーは説明票から目を離した。

 

「私は病人ではない」

 

 声が少し低くなる。

 

「はい。そのようには申し上げておりません」

 

「周りはすぐに私を休ませようとする。疲れている、眠るべきだ、会議を減らすべきだ。だが、私の体調は私が分かっている。医者よりもな」

 

「おっしゃる通りでございます」

 

 ターニャは、すぐに否定しなかった。

 

 ここで反論すれば、医学の話になる。

 

 医学の話になれば、ターニャには勝ち目がない。そもそも勝つべき場所でもない。

 

「ご体調をご判断なさるのは総統閣下でございます。モレル医師は、そのご判断を支えてこられました。今回の案は、その関係を変えるものではございません」

 

「では何を変える」

 

「残し方でございます」

 

「残し方」

 

「はい。いつ、どの薬品を、どの程度使用したのか。処置後に何が保管され、次の診療へ何が伝えられたのか。それを、モレル医師以外の者にも読める形へ整えます」

 

 ヒトラーの指先が、机を一度だけ叩いた。

 

「それはモレルの記録が悪いと言っているのか」

 

「いいえ。現在の記録は、モレル医師ご本人が使用することを前提としております。補助医を置く場合、他の医師が読める形式を加える必要がございます」

 

「だから、余計な医者を置く必要はないと言っている」

 

 会話が戻った。

 

 同じ場所へ戻される。

 

 ヒトラーは、同じ言葉を繰り返しているわけではない。相手がどこまで崩れるかを見ながら、同じ主張を別の角度から押している。

 

 ターニャは、一度だけ息を整えた。

 

「モレル医師を遠ざける話ではございません。総統のご体調を、一人の記憶だけに預けないためです」

 

 言い切った。

 

 室内が静まった。

 

 ヒムラーは動かない。

 

 ヒトラーも、すぐには答えなかった。

 

 先ほどまで机を叩いていた指が止まっている。

 

 目だけが、ターニャを見ていた。

 

 不快。

 

 その感情は明らかだった。

 

 しかし、怒鳴らない。

 

 怒鳴らないからこそ、次に何が来るのか分からない。

 

 長い沈黙のあと、ヒトラーの口元がわずかに緩んだ。

 

 笑ったようにも見える。

 

 だが、目は変わらない。

 

「君は、モレルの記憶を信用していないのか」

 

「信用の問題ではございません」

 

「では、何の問題だ」

 

「継続の問題でございます」

 

「言葉を変えただけではないか」

 

「いいえ。信用は人に置くものです。継続は、誰かが不在でも動く状態を指します」

 

 ヒトラーの笑みが消えた。

 

「私の医者を、役所の係員にするつもりか」

 

「いたしません」

 

「親衛隊は、何でも帳簿に入れたがる」

 

「必要な部分だけでございます」

 

「必要かどうかを、君が決めるのか」

 

「いいえ。総統閣下のご裁可を仰ぐために参りました」

 

 ターニャは、声の速さを変えなかった。

 

 内心では、答えを短くする。

 

 余計な補足は危険だ。

 

 総統は説明を聞いているようで、説明者そのものを見ている。少しでも自信を失えば、提案の内容ではなく、提案者の忠誠や意図へ話が移る。

 

 ヒトラーは、椅子に座らなかった。

 

 地図の前から机へ戻り、説明票を持ち上げる。視線が文字を追う。途中で、ブラントの名前に止まった。

 

「カール・ブラント」

 

「はい」

 

「彼を入れたいのか」

 

「補助医候補として適任と判断しております」

 

「親衛隊の医者だからか」

 

「親衛隊の階級を有し、命令系統を理解していることは理由のひとつでございます。ただ、主な理由は、医療行政と記録整理の実務を扱える点です」

 

「医療行政」

 

 ヒトラーは、その言葉を嫌うように繰り返した。

 

「私の身体を行政で扱うのか」

 

「お身体を扱うのではございません。診療の周囲にある記録を扱います」

 

「違いがあるのか」

 

「ございます。薬を選ぶのは医師です。何を使用したかを残すのは、体制の仕事でございます」

 

 ヒトラーの視線が、再びヒムラーへ向いた。

 

「君もそう思うのか」

 

 ヒムラーは、丁寧に答えた。

 

「はい、総統閣下。モレル医師の診療を守るためにも、補助者が必要と考えております」

 

「守る」

 

「対英戦を前に、総統閣下のご予定はさらに増加いたします。モレル医師一名に診療、薬品管理、記録、関係者への伝達まで集中させることは、同医師への負担としても大きすぎます」

 

「モレルは不満を言っていない」

 

「承知しております。だからこそ、ご負担が表へ出る前に補うべきかと存じます」

 

 ヒムラーの言い方は柔らかい。

 

 柔らかいが、引かない。

 

 総統へ忠実に仕える上官の声で、提案の意味を同じ場所へ戻している。

 

 ヒトラーは、説明票を机へ置いた。

 

「皆、イギリスを理由にする」

 

 突然、話題が変わった。

 

 声に熱が入る。

 

「空軍は、今なら飛行場を叩けると言う。海軍は、まだ条件が足りないと言う。陸軍は、海を渡るならさらに準備が必要だと言う。外務は、英国人は現実を理解する可能性があると言う。誰もが自分の案に、イギリスを付ける」

 

 ターニャは黙っていた。

 

 ヒトラーは地図へ向き直る。

 

 背を向けたまま、続けた。

 

「英国はまだ、自分たちが敗れていないと思っている。フランスが倒れても、海峡がある。艦隊がある。帝国がある。だから、時間が自分たちの側にあると信じている」

 

 声が強くなる。

 

 先ほどまでの疲れが消えたように見えた。

 

 地図上のイギリス南部へ手を伸ばす。その動きに合わせて、部屋の中心まで移ったような錯覚がある。

 

「だが、時間は彼らの側にはない。フランス軍は崩れた。大陸から戻った兵も、無傷ではない。彼らは失ったものをまだ数え切れていない。空から圧力をかけ、海上輸送を脅かし、政治に選択肢を突きつければ、理性のある者は分かる」

 

 話しているのは、まだ決まっていない未来だった。

 

 それでも、ヒトラーが口にすると、すでに動き始めた計画のように聞こえる。

 

 確定していない要素が、彼の声の中ではひとつの方向へ並ぶ。

 

 聞く者に、次の段階は当然そうなると思わせる力がある。

 

 それがカリスマなのだろう。

 

 同時に、怖さでもある。

 

 彼が結論を口にした瞬間、別の可能性を示すこと自体が、理解不足や意志の弱さに見えかねない。

 

 ヒトラーは、急にターニャへ振り返った。

 

「君は、私がその判断をできなくなると言いたいのか」

 

 声の熱が、今度はこちらへ向いた。

 

「いいえ」

 

「では、なぜイギリスを理由にする」

 

「ご判断の内容ではなく、ご判断を続けられる環境を守るためでございます」

 

「環境」

 

「はい。会議の前後、ご移動中、接見が重なった場合でも、診療内容が一名の記憶だけに留まらず、必要な時に医師が確認できるようにいたします」

 

「私は、薬を飲んだから判断を変えるような人間ではない」

 

「そのようには考えておりません」

 

「なら、何を恐れている」

 

 質問が鋭い。

 

 ターニャは、一瞬だけ、未来の形を思い出した。

 

 薬瓶が会議の前に置かれる。

 

 注射が日常になる。

 

 誰も、何が入っているのか正確に追えなくなる。

 

 総統本人の感覚と個人医の裁量が、国家の決定のすぐ横に居座る。

 

(同じ未来とは限らない。だが、危険な形は同じだ)

 

 内心を外へ出さない。

 

「記録が途切れることを恐れております」

 

「それだけか」

 

「はい」

 

 短く答えた。

 

 余計なことは言わない。

 

 ヒトラーは、じっとターニャを見た。

 

 嘘を見抜こうとしているのか。

 

 忠誠を測っているのか。

 

 それとも、単に返答が気に入らないのか。

 

 分からない。

 

 分からないこと自体が、不気味だった。

 

 演説のように感情を大きく見せる時より、こうして黙っている時の方が、何を考えているのか読めない。

 

 やがて、ヒトラーは椅子へ座った。

 

 肘掛けには触れず、机へ片腕を置く。

 

「モレルは、私の体調を知っている」

 

「はい」

 

「私が朝、どの程度動けるか。長い会議のあと、何が必要になるか。胃が悪い時、眠れない時、声が出にくい時。彼は見てきた」

 

「そのご経験を残すために、補助が必要でございます」

 

「またそれか」

 

「はい」

 

 ターニャは引かなかった。

 

 言葉を増やせば崩れる。

 

 同じ内容でも、同じ言い方を繰り返さない。

 

「モレル医師ご本人だけが読める形では、ご経験が共有されません。ご本人の判断を否定せず、その判断の経過を次へ渡せるようにいたします」

 

「次とは誰だ」

 

「まず、補助医です」

 

「ブラントか」

 

「候補として控えております」

 

「彼は冷たい」

 

 ヒトラーの言葉は、評価なのか非難なのか判然としなかった。

 

「患者に愛想を振りまく男ではない」

 

「はい」

 

「それでよいのか」

 

「今回求めておりますのは、患者への愛想より、記録と引き継ぎを優先できる医師でございます」

 

 ヒトラーの眉が少し動いた。

 

「君は人間を道具のように見るな」

 

 穏やかな声だった。

 

 だが、ターニャには反論の向きを見失わせる言い方だった。

 

 国家が人間を職務で選ぶのは当然だ。

 

 しかし、総統にそう言われれば、冷酷さを責められているようにも、適性を見抜いたことを試されているようにも聞こえる。

 

「職務上の適性として申し上げております」

 

「ブラントには何をさせる」

 

「モレル医師の診療を補い、薬品名、使用量、時刻、保管、補助記録を整理させます」

 

「診療には口を出させない」

 

「はい。診療判断はモレル医師が継続なさいます」

 

「私が望まない処置を止める権限もない」

 

「ございません」

 

「親衛隊が、私の薬を選ぶこともない」

 

「ございません」

 

 ヒトラーは、ひとつずつ確認した。

 

 返答のたびに、目が細くなる。

 

 拒否する理由を探しているようにも見える。

 

 あるいは、どこまでこちらが準備してきたかを確認しているのかもしれない。

 

「それでは、補助医を置いて何が変わる」

 

「モレル医師以外にも、過去の処置を読める者ができます」

 

「それだけか」

 

「まずは、それだけでございます」

 

 まずは。

 

 言ってから、ターニャは内心で警戒した。

 

 総統が拾う可能性がある。

 

 ヒトラーは、予想通りその語へ反応した。

 

「まずは?」

 

「最初の運用範囲でございます。総統閣下のご裁可なしに拡大いたしません」

 

「拡大する案があるのか」

 

「現時点ではございません」

 

 半分は正しい。

 

 鍵の分割。

 

 立会制。

 

 国家保安本部への写し。

 

 実態としては、その先がある。

 

 だが、それはまだ総統へ出していない。

 

 現在の説明票にあるのは、補助医と補助記録だけだ。

 

 ヒトラーは、ターニャの顔を見続けた。

 

 時間が延びている。

 

 五分は、もう過ぎているかもしれない。

 

 誰も時計を見ない。

 

 総統が話している間、予定時間は意味を失う。

 

 ヒムラーも口を挟まなかった。

 

 ヒトラーは説明票をもう一度読み、ブラントの名の横を指で押さえた。

 

「彼は外にいるのか」

 

「はい。ご質問がある場合に備え、控えております」

 

「入れようと準備してきたのだな」

 

「ご判断に必要な者を、すぐお呼びできるようにいたしました」

 

「モレルには知らせていない」

 

「はい」

 

「なぜだ」

 

「総統閣下のご意向を伺う前に、現担当医へ変更案を示すべきではないと判断いたしました」

 

「変更ではないと言ったはずだ」

 

「補助体制の追加でございます」

 

「言葉がうまいな」

 

 ヒトラーは、今度こそ笑った。

 

 短い笑いだった。

 

 室内の緊張が一瞬だけ緩む。

 

 しかし、ターニャは笑わなかった。

 

 総統が笑ったからといって、許されたとは限らない。次の瞬間に何を問われるか分からない。

 

「親衛隊の学校では、子供にこういう話し方を教えるのか」

 

「職務上、必要な説明を行っております」

 

「恐れないのか」

 

 問いが唐突だった。

 

 ターニャは、一拍だけ遅れて答えた。

 

「恐れを理由に、ご報告を曲げることの方を恐れます」

 

 ヒムラーが、わずかに顔を動かした。

 

 ヒトラーの笑みが止まる。

 

 室内の空気が再び重くなる。

 

 言いすぎたかもしれない。

 

 だが、引き戻せない。

 

 ターニャは姿勢を崩さなかった。

 

 ヒトラーは、しばらく何も言わなかった。

 

 そして、意外なほど静かな声で言った。

 

「フランスの時も、君は余計なことをした」

 

「必要な範囲を処理したものと考えております」

 

「その結果、英国人はダンケルクで多くを失った」

 

「はい」

 

「今度は、私の医者に余計な仕事を増やす」

 

「モレル医師のご負担を減らすためでございます」

 

 ヒトラーは鼻から短く息を吐いた。

 

「どこまでも同じ答えを返すつもりか」

 

「結論が変わっておりませんので」

 

 また、短い沈黙が落ちる。

 

 ヒムラーの口元に、ほとんど見えない変化があった。

 

 笑みと呼ぶには小さい。

 

 だが、ターニャには分かった。

 

 ヒムラーは、この応酬を不快には思っていない。

 

 総統へ逆らっているようには見せず、提案を引かない。求められている仕事をしている。その点を見ている。

 

 ヒトラーは、今度はヒムラーへ言った。

 

「君は、この案を通したいのだな」

 

「総統閣下をお守りするために、必要と考えております」

 

「私を守る者は多い」

 

「はい」

 

「皆が、自分こそ必要だと言う」

 

「私どもは、モレル医師の必要性を減らすものではございません」

 

「では、モレルが反対したらどうする」

 

 ヒムラーは、答える前にターニャを見なかった。

 

「まず、ご本人のご意見を伺うべきと存じます」

 

「君も慎重な言葉を使うようになったな」

 

「総統閣下のご健康に関わる案件でございます」

 

 ヒトラーの視線が、机の上の説明票へ落ちた。

 

 拒否はできる。

 

 ここで破り捨てることもできる。

 

 モレルは残る。

 

 補助医は入れない。

 

 それで終わる。

 

 だが、この案はモレルを外すとは書いていない。治療を変えるとも書いていない。総統自身の判断を疑ってもいない。

 

 ただ、補う。

 

 残す。

 

 支える。

 

 それだけを表へ出している。

 

 拒否するには、モレル一人へ全てを預ける方がよいと、総統自身が言わなければならない。

 

 ヒトラーは、説明票を手元から離さなかった。

 

 それが、今のところ唯一の変化だった。

 

「私は、モレルを信頼している」

 

「承知しております」

 

「彼は残る」

 

「もちろんでございます」

 

「診療も続ける」

 

「はい」

 

「ブラントを置くとしても、モレルの上ではない」

 

「補助医として配置いたします」

 

「モレルが必要ないと言えば」

 

「理由を伺い、記録いたします」

 

 ヒトラーの眉が動いた。

 

「記録するのか」

 

「はい」

 

「親衛隊らしい」

 

 今度の言葉には、明らかな皮肉があった。

 

 ターニャは受け流した。

 

「ご判断に必要なためでございます」

 

「モレルを困らせたいわけではないのだな」

 

「その意図はございません」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

 嘘ではない。

 

 困らせることが目的ではない。

 

 目的は、裁量を一人へ置かないことだ。

 

 結果としてモレルが困るとしても、それは目的ではない。

 

 ヒトラーは、椅子の背へ身を預けた。

 

 先ほど地図の前で話していた時の熱は、もうない。代わりに、疲労と疑念が同じ顔に戻っている。

 

 その変化も怖かった。

 

 演説する指導者。

 

 体調を気にする患者。

 

 信頼する医師を守ろうとする男。

 

 自分への反対を許さない権力者。

 

 それらが、ひとつの表情の中で入れ替わる。

 

 どれが本当なのかではない。

 

 全て本当なのだろう。

 

 だから、次の言葉が読めない。

 

「モレルを呼べ」

 

 ヒトラーは、突然言った。

 

 室内の係官がすぐに動く。

 

 ターニャは、姿勢を変えなかった。

 

「ブラントも控えているのだろう」

 

「はい」

 

「まずモレルを呼ぶ。本人の前で、同じ説明をしろ」

 

「承知いたしました」

 

「ブラントはまだ入れるな」

 

「はい」

 

「私は医者同士の喧嘩を見たいわけではない」

 

「そのようにはいたしません」

 

「君はそう言うだろうな」

 

 ヒトラーは、説明票を机の端へ置いた。

 

 返さない。

 

 裁可もしない。

 

 ただ、自分の手元に残した。

 

 それは承認ではない。

 

 拒否でもない。

 

 モレル本人の反応を見てから決めるということだ。

 

 係官が内線電話を取る。

 

 総統個人医を至急呼ぶように伝える。

 

 モレルの名が、受話器の向こうへ流れた。

 

 ヒムラーは、総統へ深く頭を下げた。

 

「ご配慮に感謝申し上げます」

 

「まだ何も決めていない」

 

「承知しております」

 

 ヒトラーは答えず、イギリス南部の地図へ視線を戻した。

 

 先ほどまでの健康管理の話が、もう終わったようにも見える。だが、机の端には説明票が残っている。

 

 ターニャは、その位置を確認した。

 

 総統の右手が届く場所。

 

 捨てられてはいない。

 

 係官が内線を置いた。

 

「モレル医師は、ただちに参ります」

 

 ヒトラーは、地図から目を離さずに頷いた。

 

 ヒムラーが、ほんのわずかに微笑んだ。

 

 勝利を示す笑みではない。

 

 総統自身の命令で、モレルがこの部屋へ呼ばれた。

 

 それだけを確認した者の表情だった。

 

 ターニャは、革挟みを閉じなかった。

 

 次に必要になるのは、柔らかい説明ではない。

 

 モレル本人の前で、同じ目的を崩さずに言い切ることだった。

 

 

 

 モレルが到着するまでには、少し時間がかかるらしかった。

 

 係官が受話器を置いたあとも、ヒトラーは席へ戻らなかった。説明票のことを忘れたように、壁を占める地図の前へ歩いていく。

 

 赤や青の印が入り乱れる大陸側ではなく、その目は海峡の向こうへ向いていた。

 

 イギリス。

 

 島そのものは、地図の上では大きくない。

 

 だが、その背後には海がある。艦隊がある。世界各地の港と航路があり、植民地と自治領があり、ロンドンを通る金と保険と商船がある。

 

 フランスを倒しただけでは、戦争は終わらない。

 

 この島をどう扱うかで、その後の戦争の形が変わる。

 

 ヒトラーは、イギリス南部の沿岸を指でなぞった。

 

「空軍は、南部の飛行場を叩けば、英国の戦闘機を追い詰められると言っている」

 

 ターニャは答えを求められるまで黙っていた。

 

「だが、空軍は勝てると言う時ほど、勝ったあとの話をしない」

 

 ヒトラーの声には、先ほどの不快さがわずかに残っていた。

 

 それでも、モレルの話をしていた時とは別の熱がある。

 

 地図を見ている間、この男は疲れて見えない。

 

 目の前にまだ存在しない勝利を置き、それを見てきた出来事のように語る。聞く者は、どこからが予測で、どこまでが決定なのかを見失う。

 

「英国を破壊することはできる。だが、破壊したあと、その帝国を誰が動かす」

 

 問いはヒムラーへ向いたように見えた。

 

 ヒムラーは、すぐには答えなかった。

 

「総統閣下のお考えは、英国本土を完全に占領することではないと承知しております」

 

「占領は手段だ。目的ではない」

 

 ヒトラーは振り返らない。

 

「ロンドンへドイツの役人を何万人送り込めば、大英帝国が動くと思う。インドも、アフリカも、中東も、海の向こうだ。英国人が百年かけて作ったものを、我々が一日で取り上げれば壊れる」

 

 彼の指が、地図の外へ伸びた。

 

 そこにはイラクも、インドも、マラヤも描かれていない。

 

 だが、ヒトラーの声の中では、見えない地域まで同じ地図へ入っていた。

 

「英国人は海を支配することに慣れている。商船を動かし、保険を付け、港を結び、異民族を使って利益を持ち帰る。彼らはそれを帝国と呼ぶ」

 

 そこで、ヒトラーは小さく笑った。

 

「捨てさせる必要はない。向きを変えさせればよい」

 

 ターニャは、思わずヒトラーの横顔を見た。

 

 声を張っているわけではない。

 

 それでも、言葉が部屋を広げていく。

 

 ベルリンの一室だった場所が、海峡から地中海、中東、インド洋まで続くような感覚がある。思いつきを並べているのではない。イギリス人の誇りすら、利用できる力として見ている。

 

 単純な征服者の言葉ではなかった。

 

 相手が大切にしているものを残し、その大切なものの向きを自分へ変えようとしている。

 

 それができると、本人が信じている。

 

 そして、話を聞いている側まで、できるのではないかと思わせる。

 

 それが怖い。

 

「ターニャ・デグレチャフ」

 

 突然、名を呼ばれた。

 

「はい」

 

「君は、英国人をどう見る」

 

 問いが広すぎる。

 

 軍人としてか。

 

 民族としてか。

 

 国家としてか。

 

 ヒトラーは説明しない。

 

 相手が何を選ぶかを見るための問いだった。

 

 ターニャは、一度だけ言葉を整えた。

 

「総統閣下。現在のイギリスは、本土だけで戦っているのではございません。海運、海外拠点、資源供給、金融を一体として動かしております」

 

「続けろ」

 

「本土を焼き払えば、その仕組みを壊すことはできます。しかし、講和後に利用できる部分も失います」

 

 ヒトラーが、ゆっくりとこちらへ向いた。

 

 先ほどまでの不快さは消えていない。

 

 だが、その目には別の光がある。

 

 興味。

 

 幼い士官がどこまで先を見ているのか、測ろうとする目だった。

 

「利用する?」

 

「はい。英国が講和に応じ、王室、内閣、議会を維持するのであれば、帝国圏の輸送と資源をそのまま残せます」

 

「英国人に、我々のために帝国を動かさせると言うのか」

 

「自分たちの帝国を守るために動かせます」

 

 言い切る。

 

 ヒトラーの眉がわずかに上がった。

 

「違いは何だ」

 

「ドイツへ従えと命じれば、屈辱になります。帝国を失いたくなければ協定を守れと示せば、英国側の利益として説明できます」

 

 ヒトラーは黙った。

 

 その沈黙は、拒絶ではない。

 

 言葉を吟味している。

 

 ターニャは続けた。

 

「英国本土の制度を残し、外交、軍事、港湾、飛行場、通信についてドイツの同意を要する形にします。反独組織への対処と警察協力も条件に入れます」

 

 ヒムラーが、そこで静かに口を開いた。

 

「総統閣下、国内統治を英国政府へ残すなら、親衛隊が広い占領行政を抱える必要もございません。保安上の対象を絞り、英国側の警察機構を使えます」

 

「英国警察を、ドイツの敵に向けるのか」

 

「英国政府が講和を維持するのであれば、自国の秩序を守る行為として実施させられます」

 

 ヒムラーは淡々としている。

 

 しかし、その説明は明確だった。

 

 王室を残す。

 

 政府を残す。

 

 議会も残す。

 

 その代わり、国家の向きを決める部分だけを握る。

 

 英国人が英国人を統治し、英国人の警察が反独運動を抑え、英国人の商船がドイツへ資源を運ぶ。

 

 全面占領より、はるかに少ない負担で済む。

 

 ヒトラーは、二人の言葉を聞きながら地図へ戻った。

 

「英国の植民地は従うと思うか」

 

「全てが同じようには動きません」

 

 ターニャは、すぐに答えた。

 

「自治領は独自の政府を持っております。カナダ、オーストラリア、南アフリカまで、ロンドンの命令だけで従わせることは難しいでしょう」

 

「なら、帝国は使えん」

 

「いいえ」

 

 否定したあと、ターニャはすぐに敬語へ戻した。

 

「失礼いたしました。全てを一度に握る必要はございません」

 

 ヒトラーは、怒らなかった。

 

 むしろ、続きを待っている。

 

「帝国圏の石油、ゴム、錫、港湾、商船は、同じ仕組みで動いているわけではありません。英国政府が直接強く管理する地域と、自治権を持つ地域を分けて扱うべきです」

 

「直轄植民地と自治領を分ける」

 

「はい。遠隔地の行政がロンドンの講和に従わない場合、現地ごとに圧力をかけます」

 

「ドイツ海軍をインド洋へ送るのか」

 

「その必要はございません」

 

 ターニャは、東側の地図へ目を向けた。

 

 正確な地域図は、今の壁にはない。

 

 それでも、意図は伝わる。

 

「アジアでは、日本を使えます」

 

 室内の空気が、わずかに変わった。

 

 ヒトラーの顔から笑みが消える。

 

 だが、不快ではない。

 

「日本」

 

「はい。日本は東アジアで、実際に軍事力を動かせる国家です。ドイツが直接届かない地域でも、日本なら現地政府と植民地当局へ圧力をかけられます」

 

「日本人に英国の帝国を渡すのか」

 

「渡すのではございません。従わない地域へ、ドイツの代わりに圧力をかけさせます」

 

「代償を求める」

 

「当然、求めるでしょう」

 

 ターニャは、そこをぼかさなかった。

 

「ですが、ドイツが艦隊と兵力を送るより安く済みます。日本が欲する範囲と、英国側に残す範囲を切り分ければよろしいかと存じます」

 

 ヒトラーは、数歩だけ歩いた。

 

 その動きは落ち着いている。

 

 だが、頭の中では別の地図が作られているように見えた。

 

「日本との協定を、イタリアを含む三国の枠へ広げる」

 

 独り言に近い。

 

「ヨーロッパはドイツ。地中海はイタリア。東アジアは日本」

 

 言葉にした瞬間、その構想が巨大になる。

 

 単なる軍事同盟ではない。

 

 世界を三つの圏へ分け、アメリカとソ連をその外へ押し出す形だった。

 

 ヒムラーが、慎重に言葉を添えた。

 

「総統閣下、英国をその枠の敵として残すより、協定下の海洋国家として置く方が、アメリカへの牽制にもなります」

 

「アメリカ」

 

 ヒトラーの声に、明らかな軽蔑が混じった。

 

「彼らは欧州へ口を出したがる。だが、自国民へ戦争の理由を説明できない」

 

「英国が独立した政府と王室を残し、正式に講和しているなら、アメリカがドイツへ直接介入する理由は弱くなります」

 

 ターニャは、慎重に続けた。

 

「英国を救う、という名目が使えません。ドイツが英国本土を併合せず、英国政府が講和を受け入れた形であれば、アメリカ側は新しい理由を作らなければなりません」

 

「理由など、作るだろう」

 

「作ります」

 

 即答した。

 

「経済制裁、航路、武器供与、世論工作。手段は残ります。ただ、いきなり戦争へ入るには弱い。少なくとも、時間は得られます」

 

 ヒトラーは、そこで初めて満足そうに頷いた。

 

「時間か」

 

「はい。ドイツが必要としているのは、永久にアメリカを止めることではございません。次の決定を行うまで、介入の時期を遅らせることです」

 

 ヒトラーの目が、鋭くなる。

 

 この男は、時間という言葉を嫌わない。

 

 自分が使う時間ならば、むしろ好む。

 

「英国と講和し、その帝国から石油と資源が流れ、アメリカは介入の旗印を失う。日本はアジアで英国植民地を従わせる」

 

 ヒトラーが、ターニャの言葉を自分の言葉へ変えていく。

 

「日本とアメリカが衝突した場合はどうする」

 

 問いは早かった。

 

 ターニャは、一瞬だけ考えた。

 

「英国の不干渉を、講和条件へ入れるべきです」

 

「日本を見捨てるのか」

 

「英国を日本側へ参戦させない、という意味でございます。ドイツと日本の関係は別の協定で定めます」

 

「英国の港をアメリカへ使わせない」

 

「はい。補給、修理、情報提供を制限します。一方で、ドイツ向けの資源輸送と商取引は継続させます」

 

「日本が英国植民地を攻撃したら」

 

「そこは協定で境界を決めます」

 

 ターニャは、答えを急がなかった。

 

「英国が講和後も保持する地域、日本の影響圏と認める地域、個別交渉へ回す地域を分けます。曖昧にすれば、先に現地で撃ち合いが始まります」

 

 ヒトラーは笑った。

 

 今度の笑いは、先ほどターニャへ向けた皮肉とは違う。

 

 楽しんでいる。

 

 世界を分け、動かし、相手がまだ知らない選択肢を先に並べる。その作業を楽しんでいる。

 

「君は英国を倒す前から、その植民地を分けるのか」

 

「勝ってから考えては遅れます」

 

 ターニャは、丁寧に答えた。

 

「講和条件は、相手が弱った時に提示できなければ意味がございません」

 

「英国は講和すると思うか」

 

「条件次第でございます」

 

「逃げたな」

 

「確約できる材料がございません」

 

 ヒトラーの笑みが深くなる。

 

「だが、可能性はあると思っている」

 

「はい」

 

「なぜだ」

 

「ダンケルクで戻った兵力は、無傷ではございません。フランスも失いました。イギリス空軍と艦隊が残っているため、すぐには屈しないでしょうが、戦争を続ける費用は増えています」

 

 数字は出さない。

 

 数字で説明すべき場面ではない。

 

 ヒトラーが見ているのは、英国人が何を恐れ、何を守りたがるかだった。

 

「帝国を残せるなら、戦争継続より講和を選ぶ者は出ます」

 

「チャーチルは選ばない」

 

「はい」

 

「ならば、チャーチルを英国そのものにしてはならん」

 

 ヒトラーは、低く言った。

 

 その一言だけで、目的が変わる。

 

 敵国を打ち倒すのではない。

 

 敵国の中から、別の英国を引き出す。

 

「英国人全体へ、ドイツが彼らの帝国を奪うのではないと示す。チャーチルだけが、英国を破滅へ連れていくと見せる」

 

 ヒトラーは、再び地図の前へ立った。

 

 その背中に迷いはない。

 

 今までターニャとヒムラーが出した断片を、自分の構想へ飲み込んでいる。

 

 海運。

 

 資源。

 

 王室。

 

 議会。

 

 自治領。

 

 日本。

 

 アメリカ。

 

 ばらばらだったものが、ヒトラーの言葉を通るとひとつの大きな意志に見える。

 

 理屈だけなら、穴はいくらでもある。

 

 英国政府が従う保証はない。

 

 植民地が離反する可能性もある。

 

 日本が約束通りに動くとも限らない。

 

 アメリカが別の口実を作らない保証もない。

 

 それでも、ヒトラーが語ると、その穴は可能性の隙間に変わる。

 

 できない理由ではなく、次に押さえる場所へ変わる。

 

 この男が人々を魅了した理由を、ターニャは理解した。

 

 言葉がうまいからではない。

 

 相手が見ている現実より、大きな現実を見せる。

 

 そして、その大きな現実の中に、聞いている者の役割を与える。

 

 空軍には英国の翼を折る役割。

 

 海軍には海峡を閉じる役割。

 

 親衛隊には講和後の秩序を作る役割。

 

 日本にはアジアを押さえる役割。

 

 英国人にすら、帝国を守る役割を残す。

 

 誰もが、自分が必要だと思わされる。

 

 同時に、そこから外れた者は未来そのものへ逆らう者に見える。

 

 魅力と恐怖が、同じ場所にあった。

 

「爆撃はどうする」

 

 ヒトラーが問うた。

 

「空軍は、ロンドンを叩けば英国人の意志を折れると言う者もいる」

 

 ターニャは、すぐに答えなかった。

 

 ここは重要だった。

 

 史実を語ることはできない。

 

 だが、危険な形は知っている。

 

「現段階では、都市そのものを目標にすべきではないと考えます」

 

 ヒトラーの顔から、先ほどまでの楽しげな色が消えた。

 

「英国の首都を守れと言うのか」

 

「いいえ。英国の戦争継続能力を削るには、優先順位が違うと申し上げております」

 

「言ってみろ」

 

「戦闘機基地、整備拠点、燃料、通信施設、港湾、軍需工場。まず、イギリス空軍が飛び続けるために必要な場所へ集中すべきです」

 

「ロンドンは政治の中心だ」

 

「はい。ですが、首都への大規模爆撃は、英国民へ分かりやすい敵を与えます」

 

「既に我々は敵だ」

 

「政府にとっての敵と、国民一人ひとりにとっての復讐対象は違います」

 

 ヒトラーは、何も言わない。

 

 ターニャは、さらに言葉を選んだ。

 

「軍事施設を狙う限り、英国政府は敗北の理由を説明しなければなりません。都市を焼けば、チャーチルは怒りだけで国民をまとめられます」

 

「爆撃を恐れていると思われる」

 

「継続して飛行場を失う方が、イギリス空軍には深刻でございます」

 

 ヒムラーが、静かに同意を示した。

 

「総統閣下、講和後の統治を考えるなら、反独感情を必要以上に広げない方が扱いやすいかと存じます」

 

「英国人の感情を気にするのか」

 

「利用できる感情は残すべきです」

 

 ヒムラーは、ためらわなかった。

 

「ドイツ軍を恐れさせることと、全英国人へ復讐を誓わせることは別でございます。王室と政府を残すなら、彼らが国民へ講和を説明できる余地が必要です」

 

 ヒトラーは、ゆっくりと頷いた。

 

「英国人には、負けたのではなく、帝国を守る選択をしたと思わせる」

 

「はい」

 

「チャーチルには、その選択を奪おうとしていると見せる」

 

「その形が有効かと存じます」

 

 ヒトラーは、再び笑った。

 

 今度は大きくない。

 

 満足を隠さない笑いだった。

 

「首都を焼くのは簡単だ」

 

 彼は言った。

 

「だが、焼け跡から英国人の帝国は動かん。飛行場を奪い、艦隊を港へ押し込み、食料と燃料の不安を広げる。そのうえで、帝国を残す道を示す」

 

 言葉が続くたびに、空気が変わる。

 

 戦場の説明ではない。

 

 歴史の行き先を、自分の手で選んでいる男の声だった。

 

「彼らは二つから選ぶ。チャーチルと共に英国を失うか、ドイツと共に帝国を残すか」

 

 そんなに単純ではない。

 

 ターニャの理性は分かっている。

 

 だが、その場で聞けば、単純に見える。

 

 二つの道しかないように思える。

 

 ヒトラーの恐ろしさは、複雑な現実を無視することではなかった。

 

 複雑な現実の中から、自分に都合のよい二つだけを抜き出し、それ以外を弱者の迷いに見せることだった。

 

 そして、選ばせる。

 

 選ばせたあとで、自分が未来を予見していたように見せる。

 

 ヒトラーは、ターニャを見た。

 

「君は、なぜそこまで先を見る」

 

 問いは、先ほどまでとは違っていた。

 

 責めているのではない。

 

 純粋に興味を向けている。

 

 それがかえって不気味だった。

 

「職務上、戦闘の後に何を残すかまで考える必要がございます」

 

「戦闘の後」

 

「はい。占領、講和、警察、輸送、資源。勝利後に動かせなければ、戦場で得たものを失います」

 

「君は軍人なのか、役人なのか」

 

「親衛隊の調整官でございます」

 

「答えになっていない」

 

 ヒトラーは笑った。

 

「いや、それが答えか」

 

 彼は、ターニャを上から下まで見た。

 

 黒い制服。

 

 小さな身体。

 

 親衛隊少佐の階級。

 

 ヒムラーの個人幕僚部と国家保安本部をまたぐ肩書き。

 

 前線へ出れば軍人に見える。

 

 会議室では役人に見える。

 

 総統の前で英国帝国の資源と日本の軍事力を結びつければ、どちらにも見えない。

 

「奇妙な子供だ」

 

 ヒトラーは、静かに言った。

 

 声に嫌悪はない。

 

 称賛とも言い切れない。

 

 珍しいものを見つけた者の声だった。

 

「フランスで兵を動かし、ダンケルクで英国人を減らし、今度は英国の帝国を残せと言う」

 

「ドイツの利益になる形で、でございます」

 

「分かっている」

 

 ヒトラーは、そこでヒムラーへ顔を向けた。

 

「君は、どこで見つけた」

 

「総統閣下。本人の成果が、こちらへ届きました」

 

 ヒムラーは、穏やかに答えた。

 

「私が作った者ではございません」

 

「作れるものではないか」

 

「はい」

 

 ヒムラーの口元に、微かな笑みがあった。

 

 自分の配下が総統の興味を引いた。

 

 その満足を隠しながら、所有を主張しすぎない。

 

 ヒムラーもまた、総統の前での立ち位置を知っている。

 

「ターニャ・デグレチャフ」

 

 ヒトラーが名を呼ぶ。

 

「はい」

 

「英国を倒したあと、君の言う形を試す価値はある」

 

「恐れ入ります」

 

「まだ勝っていない」

 

「はい」

 

「だが、勝ったあとを考えない者に、勝利は使えん」

 

 ヒトラーは地図へ手を伸ばした。

 

「飛行場を叩く。戦闘機を地上へ縛る。港と軍需を削る。だが、英国人全体を敵にする爆撃は急がない」

 

 命令ではない。

 

 まだ構想だ。

 

 しかし、この男が口にした時点で、周囲は命令の前触れとして受け取る。

 

 ヒムラーが、深く頭を下げた。

 

「空軍側への整理が必要であれば、関係部署へ伝達いたします」

 

「まだ待て。空軍の意見も聞く」

 

「承知いたしました」

 

「だが、首都を焼けば勝てるという者には、勝ったあと何を支配するのか聞け」

 

「はい」

 

 ヒトラーは、ターニャへ目を戻した。

 

「英国への講和案も考えろ」

 

 ターニャは、一瞬だけ息を止めた。

 

「私が、でしょうか」

 

「君が言い出した」

 

「承知いたしました」

 

「王室も議会も残す。だが、軍事と外交は自由にさせない。港、飛行場、通信、警察協力も必要だ」

 

「はい」

 

「帝国の資源と航路を、どうドイツへ結ぶか。日本とアメリカをどう扱うかも入れろ」

 

「条件ごとに分けて整理いたします」

 

「数字だけを並べるな」

 

 ヒトラーは、少し笑った。

 

「英国人が受け入れられる顔を作れ。彼らは自分たちが支配されると思えば戦う。帝国を守ると思えば、取引する」

 

「承知いたしました」

 

 ターニャは、最上段の礼で受けた。

 

 内心では、仕事が増えたことを理解する。

 

 総統の健康管理を通すために来た。

 

 なぜ、英国講和後の帝国管理案まで持ち帰ることになるのか。

 

(何でこうなる!?)

 

 叫びたい気分は、外へ出さない。

 

 出せば、総統に面白がられるだけだ。

 

 ヒムラーは、横で静かに微笑んでいる。

 

 助ける気はなさそうだった。

 

 むしろ、この場でターニャの価値が上がったことを歓迎している。

 

 それがまた厄介だった。

 

 ヒトラーは、もう一度イギリスの地図を見た。

 

 その背中は、先ほどモレルの話で不快を示していた男と同じには見えない。

 

 大陸を手に入れ、次に海の帝国をどう曲げるかを考えている。

 

 自分が選べば世界が変わると、疑っていない。

 

 その確信が、人を惹きつける。

 

 失敗の可能性を忘れさせる。

 

 彼のそばにいる者は、自分も歴史の中心に立っているように感じるのだろう。

 

 ターニャでさえ、一瞬だけその感覚に触れた。

 

 この男の構想が正しく運べば、英国を破壊せずに屈服させ、大英帝国の海運と資源をドイツのために残せる。

 

 アメリカの介入を遅らせ、日本をアジアの圧力として使える。

 

 ヨーロッパの戦争を、海の向こうまで再編できる。

 

 不可能とは言い切れない。

 

 だから危険だった。

 

 荒唐無稽なら、誰も従わない。

 

 現実に触れる部分があるから、人は残りの危険まで飲み込む。

 

 ヒトラーは振り返り、穏やかに言った。

 

「君の話は、モレルの話より面白かった」

 

 ターニャは、返答に迷わなかった。

 

「恐れ入ります。ただ、健康管理の件も御判断を賜る必要がございます」

 

 一瞬、ヒムラーの微笑が深くなった。

 

 ヒトラーは、目を細めた。

 

 そして、笑った。

 

 声を上げるほどではない。

 

 だが、今度は明らかな笑いだった。

 

「忘れていない」

 

 笑みが消える。

 

「英国を動かす前に、私を役所へ入れたいのだったな」

 

「総統閣下を役所へ入れる意図はございません」

 

「分かっている。言葉通りに取るな」

 

「失礼いたしました」

 

 ヒトラーは椅子へ戻った。

 

 先ほどより機嫌はよく見える。

 

 だが、それが安心につながらない。

 

 彼の感情は、周囲が理解したと思った瞬間に向きを変える。

 

 魅了した次の瞬間に、不快を戻す。

 

 未来を語った直後に、個人の忠誠を問う。

 

 聞く側は、その変化についていくため、自分から彼の意図を探し始める。

 

 それもまた、支配の形だった。

 

 廊下の向こうで、足音が近づいた。

 

 急いでいる。

 

 医務側の者らしい柔らかい靴音と、革鞄の金具が触れる小さな音。

 

 ヒトラーの表情が変わった。

 

 先ほどまで世界を三つの圏へ分けていた男が、信頼する医師を待つ患者の顔へ戻る。

 

 だが、その目の奥には、先ほどの熱がまだ残っている。

 

 係官が扉の前で声を低くした。

 

「モレル医師が到着いたしました」

 

 ヒトラーは、ターニャの説明票へ一度だけ目を落とした。

 

「入れろ」

 

 ヒムラーの微笑は、もう消えていた。

 

 ターニャも革挟みへ手を置く。

 

 英国の帝国をどう残すかという話は、一度、扉の外へ退いた。

 

 次に入ってくるのは、世界の資源ではない。

 

 総統の身体を、自分だけが知っていると信じる男だった。

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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