幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

120 / 120
第6節 総統の不快、親衛隊の微笑 前半

 

 14時55分、ターニャは総統執務室の外にいた。

 

 予定より五分早い。

 

 早すぎるわけではない。遅れる可能性を消すには、この程度が妥当だった。

 

 待機室の時計は、秒針が進むたびに小さな音を立てていた。廊下を行き交う足音より弱い。それでも、話し声が途切れると妙に耳へ残る。

 

 セレブリャコーフは、持参物一覧と革挟みの中身を最後に照合していた。

 

 総統向け説明票。

 

 ブラント所見要旨。

 

 面会許可控え。

 

 ヒムラー用の内部資料は別封。

 

 筆記具。

 

 抜けはない。

 

「内容に変更はありません」

 

「よし」

 

「面会時間は五分のままです。ただし、前の会議が延びています」

 

「開始がずれても順番は変えない」

 

「はい」

 

 EVAは、壁際に立っていた。視線は、総統執務室へ続く扉ではなく、反対側の小さな控室へ向いている。

 

 そこにはブラントがいる。

 

 補助医候補として呼ばれたが、総統の前へ出すとは決まっていない。必要になった時だけ入れる。今は制服姿のまま、指定された部屋で待機していた。

 

 白衣ではない。

 

 親衛隊中佐の階級を付けたフィールドグレーの開襟型制服。鞄は椅子の脇に置き、膝の上には何も載せていない。読書もせず、時計を何度も見ることもなく、呼ばれるまで待っていた。

 

 ターニャが控室の前を通った際、ブラントは立ち上がった。

 

「指示があるまで、こちらでお待ちください」

 

「承知しました」

 

「総統閣下からご質問があった場合のみ、所見を述べていただきます」

 

「記録形式についてだけですね」

 

「はい。モレル医師の治療評価には入らないでください」

 

「分かっています」

 

 それ以上の会話はなかった。

 

 ブラントは座り直した。

 

 静かな男だった。

 

 静かだから安心できるわけではない。必要な時に必要なことを言う者は、声の大きい者より深く入る。だが、今はその性質が要る。

 

 EVAが、控室の閉じた扉を見た。

 

「待てる」

 

「そうだな」

 

「慣れている」

 

「命令を待つことにか」

 

「人が決めるのを」

 

 ターニャは、EVAへ顔を向けなかった。

 

「今はそれでいい」

 

「はい」

 

 総統執務室の内側から、声が漏れた。

 

 大きくはない。

 

 複数の男が短く答え、すぐに黙る。地名らしい単語。飛行場。港湾。航続距離。天候。海軍側の条件。英軍がダンケルクで失った兵力についても触れているらしい。

 

 内容までは聞き取れない。

 

 だが、ひとつの声だけは分かった。

 

 その声が低くなると、他の声が消える。

 

 声を張り上げているわけではない。それでも、周囲が先に息を止める。返答の間合いまで、その男のものになる。

 

 総統。

 

 演説台の上で聞く声とは違った。

 

 近い場所では、声量より変化が怖い。穏やかに話していたと思えば、ひとつの語で急に鋭くなる。その瞬間まで同意していた者も、自分が何かを誤ったような顔をする。

 

 しばらくして、扉が開いた。

 

 空軍と海軍の将校が数人出てくる。誰も話さない。資料を抱え、目線を交わさずに廊下を離れていく。

 

 最後に出てきた将校は、額に汗を浮かべていた。

 

 室内は暑くない。

 

 ターニャは、革挟みの位置を確かめた。

 

 ヒムラーが先に呼ばれた。

 

 彼は襟元を直すこともなく、自然な動きで扉の中へ入った。数分後、係官がターニャの名を呼んだ。

 

 セレブリャコーフが革挟みを差し出す。

 

「持参物、確認済みです」

 

「ここで待機しろ」

 

「はい」

 

 EVAが言った。

 

「目」

 

「何だ」

 

「逸らさない」

 

「分かっている」

 

 ターニャは扉の前へ進んだ。

 

 係官が開く。

 

 中へ入る。

 

 総統執務室は、広さより奥行きを感じさせる部屋だった。

 

 机の向こうに大きな地図がある。フランス側には書き込みが少なくなり、海峡を挟んだイギリス南部へ印が集まっていた。飛行場、港、鉄道線、通信施設。机の一角には、空軍の目標候補一覧が開かれたまま置かれている。

 

 地図の前に立っていた男が、振り返った。

 

 アドルフ・ヒトラー。

 

 写真や演説映像で見る姿より、近くでは小さな動きが目についた。

 

 肩の位置。

 

 指の動き。

 

 口元の止まり方。

 

 顔には会議の疲れが見える。だが、その疲れは弱さにはならない。むしろ、周囲に余計な言葉を控えさせる圧として残っている。

 

 目が、ターニャへ向いた。

 

 見られたというより、測られた感覚に近い。

 

 階級。

 

 制服。

 

 年齢。

 

 所属。

 

 手に持った革挟み。

 

 その全てを一度に見られている。

 

 ヒトラーは、すぐには何も言わなかった。

 

 ターニャは姿勢を正し、最上段の礼を取った。

 

「お時間を賜り、恐れ入ります」

 

「君が説明するのか」

 

「はい。親衛隊全国指導者個人幕僚部付兼国家保安本部付の調整官として、健康管理補助体制についてご説明申し上げます」

 

 ヒトラーの視線が、ターニャからヒムラーへ移る。

 

「この子供が、私の健康管理を決めるのか」

 

 声は静かだった。

 

 冗談にも聞こえる。

 

 だが、笑ってよい空気ではない。

 

 ヒムラーは、わずかに頭を下げた。

 

「総統閣下、医療判断をさせるものではございません。警護、記録、関係部署の調整を担当させております」

 

「医者ではないのだな」

 

 ヒトラーが再びターニャを見る。

 

「はい。私は医師ではございません」

 

「なら、なぜここにいる」

 

「医療の良し悪しではなく、薬品の出入り、診療記録、担当者間の引き継ぎを扱うためでございます」

 

 ヒトラーは、少しだけ顎を上げた。

 

「話せ」

 

 ターニャは革挟みを開いた。

 

 総統向けの説明票だけを出す。

 

 机の上へ置く許可を待つ。

 

 ヒトラーが指先を動かした。

 

 置け、という意味だった。

 

 ターニャは、机の端へ説明票を置いた。

 

「対英戦準備に伴い、今後、会議、ご移動、接見の増加が見込まれます。モレル医師の診療継続を支え、総統閣下の健康管理を安定させるため、補助医一名と補助記録体制の配置を提案申し上げます」

 

 ヒトラーは、最初の数行を読んだ。

 

 読む速度は速い。

 

 だが、途中で指が止まった。

 

「補助医」

 

「はい」

 

「余計な医者はいらん」

 

 即答だった。

 

 声は大きくない。

 

 それでも、室内の空気が一段硬くなる。

 

「モレルは長く私を診ている。私がいつ疲れるか、何を使えば戻るか、どこが悪いかを知っている。別の医者を置けば、話が複雑になるだけだ」

 

「モレル医師のご経験を否定する提案ではございません」

 

「否定していないと言いながら、補助を置くのか」

 

「はい。ご経験を失わないためでございます」

 

 ヒトラーの目が細くなった。

 

「失う?」

 

 短い一語だった。

 

 だが、責められているのは語だけではない。

 

 その語を選んだ理由まで問われている。

 

「モレル医師に万一のことがあった場合でも、過去の処置を他の医師が正確に読めるようにする、という意味でございます」

 

「モレルに何か起きると言うのか」

 

「そのように申し上げているのではございません。戦時下では、ご予定も移動も増えます。一名へ知識と負担が集中している状態を、補う必要がございます」

 

 ヒトラーは説明票から目を離した。

 

「私は病人ではない」

 

 声が少し低くなる。

 

「はい。そのようには申し上げておりません」

 

「周りはすぐに私を休ませようとする。疲れている、眠るべきだ、会議を減らすべきだ。だが、私の体調は私が分かっている。医者よりもな」

 

「おっしゃる通りでございます」

 

 ターニャは、すぐに否定しなかった。

 

 ここで反論すれば、医学の話になる。

 

 医学の話になれば、ターニャには勝ち目がない。そもそも勝つべき場所でもない。

 

「ご体調をご判断なさるのは総統閣下でございます。モレル医師は、そのご判断を支えてこられました。今回の案は、その関係を変えるものではございません」

 

「では何を変える」

 

「残し方でございます」

 

「残し方」

 

「はい。いつ、どの薬品を、どの程度使用したのか。処置後に何が保管され、次の診療へ何が伝えられたのか。それを、モレル医師以外の者にも読める形へ整えます」

 

 ヒトラーの指先が、机を一度だけ叩いた。

 

「それはモレルの記録が悪いと言っているのか」

 

「いいえ。現在の記録は、モレル医師ご本人が使用することを前提としております。補助医を置く場合、他の医師が読める形式を加える必要がございます」

 

「だから、余計な医者を置く必要はないと言っている」

 

 会話が戻った。

 

 同じ場所へ戻される。

 

 ヒトラーは、同じ言葉を繰り返しているわけではない。相手がどこまで崩れるかを見ながら、同じ主張を別の角度から押している。

 

 ターニャは、一度だけ息を整えた。

 

「モレル医師を遠ざける話ではございません。総統のご体調を、一人の記憶だけに預けないためです」

 

 言い切った。

 

 室内が静まった。

 

 ヒムラーは動かない。

 

 ヒトラーも、すぐには答えなかった。

 

 先ほどまで机を叩いていた指が止まっている。

 

 目だけが、ターニャを見ていた。

 

 不快。

 

 その感情は明らかだった。

 

 しかし、怒鳴らない。

 

 怒鳴らないからこそ、次に何が来るのか分からない。

 

 長い沈黙のあと、ヒトラーの口元がわずかに緩んだ。

 

 笑ったようにも見える。

 

 だが、目は変わらない。

 

「君は、モレルの記憶を信用していないのか」

 

「信用の問題ではございません」

 

「では、何の問題だ」

 

「継続の問題でございます」

 

「言葉を変えただけではないか」

 

「いいえ。信用は人に置くものです。継続は、誰かが不在でも動く状態を指します」

 

 ヒトラーの笑みが消えた。

 

「私の医者を、役所の係員にするつもりか」

 

「いたしません」

 

「親衛隊は、何でも帳簿に入れたがる」

 

「必要な部分だけでございます」

 

「必要かどうかを、君が決めるのか」

 

「いいえ。総統閣下のご裁可を仰ぐために参りました」

 

 ターニャは、声の速さを変えなかった。

 

 内心では、答えを短くする。

 

 余計な補足は危険だ。

 

 総統は説明を聞いているようで、説明者そのものを見ている。少しでも自信を失えば、提案の内容ではなく、提案者の忠誠や意図へ話が移る。

 

 ヒトラーは、椅子に座らなかった。

 

 地図の前から机へ戻り、説明票を持ち上げる。視線が文字を追う。途中で、ブラントの名前に止まった。

 

「カール・ブラント」

 

「はい」

 

「彼を入れたいのか」

 

「補助医候補として適任と判断しております」

 

「親衛隊の医者だからか」

 

「親衛隊の階級を有し、命令系統を理解していることは理由のひとつでございます。ただ、主な理由は、医療行政と記録整理の実務を扱える点です」

 

「医療行政」

 

 ヒトラーは、その言葉を嫌うように繰り返した。

 

「私の身体を行政で扱うのか」

 

「お身体を扱うのではございません。診療の周囲にある記録を扱います」

 

「違いがあるのか」

 

「ございます。薬を選ぶのは医師です。何を使用したかを残すのは、体制の仕事でございます」

 

 ヒトラーの視線が、再びヒムラーへ向いた。

 

「君もそう思うのか」

 

 ヒムラーは、丁寧に答えた。

 

「はい、総統閣下。モレル医師の診療を守るためにも、補助者が必要と考えております」

 

「守る」

 

「対英戦を前に、総統閣下のご予定はさらに増加いたします。モレル医師一名に診療、薬品管理、記録、関係者への伝達まで集中させることは、同医師への負担としても大きすぎます」

 

「モレルは不満を言っていない」

 

「承知しております。だからこそ、ご負担が表へ出る前に補うべきかと存じます」

 

 ヒムラーの言い方は柔らかい。

 

 柔らかいが、引かない。

 

 総統へ忠実に仕える上官の声で、提案の意味を同じ場所へ戻している。

 

 ヒトラーは、説明票を机へ置いた。

 

「皆、イギリスを理由にする」

 

 突然、話題が変わった。

 

 声に熱が入る。

 

「空軍は、今なら飛行場を叩けると言う。海軍は、まだ条件が足りないと言う。陸軍は、海を渡るならさらに準備が必要だと言う。外務は、英国人は現実を理解する可能性があると言う。誰もが自分の案に、イギリスを付ける」

 

 ターニャは黙っていた。

 

 ヒトラーは地図へ向き直る。

 

 背を向けたまま、続けた。

 

「英国はまだ、自分たちが敗れていないと思っている。フランスが倒れても、海峡がある。艦隊がある。帝国がある。だから、時間が自分たちの側にあると信じている」

 

 声が強くなる。

 

 先ほどまでの疲れが消えたように見えた。

 

 地図上のイギリス南部へ手を伸ばす。その動きに合わせて、部屋の中心まで移ったような錯覚がある。

 

「だが、時間は彼らの側にはない。フランス軍は崩れた。大陸から戻った兵も、無傷ではない。彼らは失ったものをまだ数え切れていない。空から圧力をかけ、海上輸送を脅かし、政治に選択肢を突きつければ、理性のある者は分かる」

 

 話しているのは、まだ決まっていない未来だった。

 

 それでも、ヒトラーが口にすると、すでに動き始めた計画のように聞こえる。

 

 確定していない要素が、彼の声の中ではひとつの方向へ並ぶ。

 

 聞く者に、次の段階は当然そうなると思わせる力がある。

 

 それがカリスマなのだろう。

 

 同時に、怖さでもある。

 

 彼が結論を口にした瞬間、別の可能性を示すこと自体が、理解不足や意志の弱さに見えかねない。

 

 ヒトラーは、急にターニャへ振り返った。

 

「君は、私がその判断をできなくなると言いたいのか」

 

 声の熱が、今度はこちらへ向いた。

 

「いいえ」

 

「では、なぜイギリスを理由にする」

 

「ご判断の内容ではなく、ご判断を続けられる環境を守るためでございます」

 

「環境」

 

「はい。会議の前後、ご移動中、接見が重なった場合でも、診療内容が一名の記憶だけに留まらず、必要な時に医師が確認できるようにいたします」

 

「私は、薬を飲んだから判断を変えるような人間ではない」

 

「そのようには考えておりません」

 

「なら、何を恐れている」

 

 質問が鋭い。

 

 ターニャは、一瞬だけ、未来の形を思い出した。

 

 薬瓶が会議の前に置かれる。

 

 注射が日常になる。

 

 誰も、何が入っているのか正確に追えなくなる。

 

 総統本人の感覚と個人医の裁量が、国家の決定のすぐ横に居座る。

 

(同じ未来とは限らない。だが、危険な形は同じだ)

 

 内心を外へ出さない。

 

「記録が途切れることを恐れております」

 

「それだけか」

 

「はい」

 

 短く答えた。

 

 余計なことは言わない。

 

 ヒトラーは、じっとターニャを見た。

 

 嘘を見抜こうとしているのか。

 

 忠誠を測っているのか。

 

 それとも、単に返答が気に入らないのか。

 

 分からない。

 

 分からないこと自体が、不気味だった。

 

 演説のように感情を大きく見せる時より、こうして黙っている時の方が、何を考えているのか読めない。

 

 やがて、ヒトラーは椅子へ座った。

 

 肘掛けには触れず、机へ片腕を置く。

 

「モレルは、私の体調を知っている」

 

「はい」

 

「私が朝、どの程度動けるか。長い会議のあと、何が必要になるか。胃が悪い時、眠れない時、声が出にくい時。彼は見てきた」

 

「そのご経験を残すために、補助が必要でございます」

 

「またそれか」

 

「はい」

 

 ターニャは引かなかった。

 

 言葉を増やせば崩れる。

 

 同じ内容でも、同じ言い方を繰り返さない。

 

「モレル医師ご本人だけが読める形では、ご経験が共有されません。ご本人の判断を否定せず、その判断の経過を次へ渡せるようにいたします」

 

「次とは誰だ」

 

「まず、補助医です」

 

「ブラントか」

 

「候補として控えております」

 

「彼は冷たい」

 

 ヒトラーの言葉は、評価なのか非難なのか判然としなかった。

 

「患者に愛想を振りまく男ではない」

 

「はい」

 

「それでよいのか」

 

「今回求めておりますのは、患者への愛想より、記録と引き継ぎを優先できる医師でございます」

 

 ヒトラーの眉が少し動いた。

 

「君は人間を道具のように見るな」

 

 穏やかな声だった。

 

 だが、ターニャには反論の向きを見失わせる言い方だった。

 

 国家が人間を職務で選ぶのは当然だ。

 

 しかし、総統にそう言われれば、冷酷さを責められているようにも、適性を見抜いたことを試されているようにも聞こえる。

 

「職務上の適性として申し上げております」

 

「ブラントには何をさせる」

 

「モレル医師の診療を補い、薬品名、使用量、時刻、保管、補助記録を整理させます」

 

「診療には口を出させない」

 

「はい。診療判断はモレル医師が継続なさいます」

 

「私が望まない処置を止める権限もない」

 

「ございません」

 

「親衛隊が、私の薬を選ぶこともない」

 

「ございません」

 

 ヒトラーは、ひとつずつ確認した。

 

 返答のたびに、目が細くなる。

 

 拒否する理由を探しているようにも見える。

 

 あるいは、どこまでこちらが準備してきたかを確認しているのかもしれない。

 

「それでは、補助医を置いて何が変わる」

 

「モレル医師以外にも、過去の処置を読める者ができます」

 

「それだけか」

 

「まずは、それだけでございます」

 

 まずは。

 

 言ってから、ターニャは内心で警戒した。

 

 総統が拾う可能性がある。

 

 ヒトラーは、予想通りその語へ反応した。

 

「まずは?」

 

「最初の運用範囲でございます。総統閣下のご裁可なしに拡大いたしません」

 

「拡大する案があるのか」

 

「現時点ではございません」

 

 半分は正しい。

 

 鍵の分割。

 

 立会制。

 

 国家保安本部への写し。

 

 実態としては、その先がある。

 

 だが、それはまだ総統へ出していない。

 

 現在の説明票にあるのは、補助医と補助記録だけだ。

 

 ヒトラーは、ターニャの顔を見続けた。

 

 時間が延びている。

 

 五分は、もう過ぎているかもしれない。

 

 誰も時計を見ない。

 

 総統が話している間、予定時間は意味を失う。

 

 ヒムラーも口を挟まなかった。

 

 ヒトラーは説明票をもう一度読み、ブラントの名の横を指で押さえた。

 

「彼は外にいるのか」

 

「はい。ご質問がある場合に備え、控えております」

 

「入れようと準備してきたのだな」

 

「ご判断に必要な者を、すぐお呼びできるようにいたしました」

 

「モレルには知らせていない」

 

「はい」

 

「なぜだ」

 

「総統閣下のご意向を伺う前に、現担当医へ変更案を示すべきではないと判断いたしました」

 

「変更ではないと言ったはずだ」

 

「補助体制の追加でございます」

 

「言葉がうまいな」

 

 ヒトラーは、今度こそ笑った。

 

 短い笑いだった。

 

 室内の緊張が一瞬だけ緩む。

 

 しかし、ターニャは笑わなかった。

 

 総統が笑ったからといって、許されたとは限らない。次の瞬間に何を問われるか分からない。

 

「親衛隊の学校では、子供にこういう話し方を教えるのか」

 

「職務上、必要な説明を行っております」

 

「恐れないのか」

 

 問いが唐突だった。

 

 ターニャは、一拍だけ遅れて答えた。

 

「恐れを理由に、ご報告を曲げることの方を恐れます」

 

 ヒムラーが、わずかに顔を動かした。

 

 ヒトラーの笑みが止まる。

 

 室内の空気が再び重くなる。

 

 言いすぎたかもしれない。

 

 だが、引き戻せない。

 

 ターニャは姿勢を崩さなかった。

 

 ヒトラーは、しばらく何も言わなかった。

 

 そして、意外なほど静かな声で言った。

 

「フランスの時も、君は余計なことをした」

 

「必要な範囲を処理したものと考えております」

 

「その結果、英国人はダンケルクで多くを失った」

 

「はい」

 

「今度は、私の医者に余計な仕事を増やす」

 

「モレル医師のご負担を減らすためでございます」

 

 ヒトラーは鼻から短く息を吐いた。

 

「どこまでも同じ答えを返すつもりか」

 

「結論が変わっておりませんので」

 

 また、短い沈黙が落ちる。

 

 ヒムラーの口元に、ほとんど見えない変化があった。

 

 笑みと呼ぶには小さい。

 

 だが、ターニャには分かった。

 

 ヒムラーは、この応酬を不快には思っていない。

 

 総統へ逆らっているようには見せず、提案を引かない。求められている仕事をしている。その点を見ている。

 

 ヒトラーは、今度はヒムラーへ言った。

 

「君は、この案を通したいのだな」

 

「総統閣下をお守りするために、必要と考えております」

 

「私を守る者は多い」

 

「はい」

 

「皆が、自分こそ必要だと言う」

 

「私どもは、モレル医師の必要性を減らすものではございません」

 

「では、モレルが反対したらどうする」

 

 ヒムラーは、答える前にターニャを見なかった。

 

「まず、ご本人のご意見を伺うべきと存じます」

 

「君も慎重な言葉を使うようになったな」

 

「総統閣下のご健康に関わる案件でございます」

 

 ヒトラーの視線が、机の上の説明票へ落ちた。

 

 拒否はできる。

 

 ここで破り捨てることもできる。

 

 モレルは残る。

 

 補助医は入れない。

 

 それで終わる。

 

 だが、この案はモレルを外すとは書いていない。治療を変えるとも書いていない。総統自身の判断を疑ってもいない。

 

 ただ、補う。

 

 残す。

 

 支える。

 

 それだけを表へ出している。

 

 拒否するには、モレル一人へ全てを預ける方がよいと、総統自身が言わなければならない。

 

 ヒトラーは、説明票を手元から離さなかった。

 

 それが、今のところ唯一の変化だった。

 

「私は、モレルを信頼している」

 

「承知しております」

 

「彼は残る」

 

「もちろんでございます」

 

「診療も続ける」

 

「はい」

 

「ブラントを置くとしても、モレルの上ではない」

 

「補助医として配置いたします」

 

「モレルが必要ないと言えば」

 

「理由を伺い、記録いたします」

 

 ヒトラーの眉が動いた。

 

「記録するのか」

 

「はい」

 

「親衛隊らしい」

 

 今度の言葉には、明らかな皮肉があった。

 

 ターニャは受け流した。

 

「ご判断に必要なためでございます」

 

「モレルを困らせたいわけではないのだな」

 

「その意図はございません」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

 嘘ではない。

 

 困らせることが目的ではない。

 

 目的は、裁量を一人へ置かないことだ。

 

 結果としてモレルが困るとしても、それは目的ではない。

 

 ヒトラーは、椅子の背へ身を預けた。

 

 先ほど地図の前で話していた時の熱は、もうない。代わりに、疲労と疑念が同じ顔に戻っている。

 

 その変化も怖かった。

 

 演説する指導者。

 

 体調を気にする患者。

 

 信頼する医師を守ろうとする男。

 

 自分への反対を許さない権力者。

 

 それらが、ひとつの表情の中で入れ替わる。

 

 どれが本当なのかではない。

 

 全て本当なのだろう。

 

 だから、次の言葉が読めない。

 

「モレルを呼べ」

 

 ヒトラーは、突然言った。

 

 室内の係官がすぐに動く。

 

 ターニャは、姿勢を変えなかった。

 

「ブラントも控えているのだろう」

 

「はい」

 

「まずモレルを呼ぶ。本人の前で、同じ説明をしろ」

 

「承知いたしました」

 

「ブラントはまだ入れるな」

 

「はい」

 

「私は医者同士の喧嘩を見たいわけではない」

 

「そのようにはいたしません」

 

「君はそう言うだろうな」

 

 ヒトラーは、説明票を机の端へ置いた。

 

 返さない。

 

 裁可もしない。

 

 ただ、自分の手元に残した。

 

 それは承認ではない。

 

 拒否でもない。

 

 モレル本人の反応を見てから決めるということだ。

 

 係官が内線電話を取る。

 

 総統個人医を至急呼ぶように伝える。

 

 モレルの名が、受話器の向こうへ流れた。

 

 ヒムラーは、総統へ深く頭を下げた。

 

「ご配慮に感謝申し上げます」

 

「まだ何も決めていない」

 

「承知しております」

 

 ヒトラーは答えず、イギリス南部の地図へ視線を戻した。

 

 先ほどまでの健康管理の話が、もう終わったようにも見える。だが、机の端には説明票が残っている。

 

 ターニャは、その位置を確認した。

 

 総統の右手が届く場所。

 

 捨てられてはいない。

 

 係官が内線を置いた。

 

「モレル医師は、ただちに参ります」

 

 ヒトラーは、地図から目を離さずに頷いた。

 

 ヒムラーが、ほんのわずかに微笑んだ。

 

 勝利を示す笑みではない。

 

 総統自身の命令で、モレルがこの部屋へ呼ばれた。

 

 それだけを確認した者の表情だった。

 

 ターニャは、革挟みを閉じなかった。

 

 次に必要になるのは、柔らかい説明ではない。

 

 モレル本人の前で、同じ目的を崩さずに言い切ることだった。

 

 

 

 モレルが到着するまでには、少し時間がかかるらしかった。

 

 係官が受話器を置いたあとも、ヒトラーは席へ戻らなかった。説明票のことを忘れたように、壁を占める地図の前へ歩いていく。

 

 赤や青の印が入り乱れる大陸側ではなく、その目は海峡の向こうへ向いていた。

 

 イギリス。

 

 島そのものは、地図の上では大きくない。

 

 だが、その背後には海がある。艦隊がある。世界各地の港と航路があり、植民地と自治領があり、ロンドンを通る金と保険と商船がある。

 

 フランスを倒しただけでは、戦争は終わらない。

 

 この島をどう扱うかで、その後の戦争の形が変わる。

 

 ヒトラーは、イギリス南部の沿岸を指でなぞった。

 

「空軍は、南部の飛行場を叩けば、英国の戦闘機を追い詰められると言っている」

 

 ターニャは答えを求められるまで黙っていた。

 

「だが、空軍は勝てると言う時ほど、勝ったあとの話をしない」

 

 ヒトラーの声には、先ほどの不快さがわずかに残っていた。

 

 それでも、モレルの話をしていた時とは別の熱がある。

 

 地図を見ている間、この男は疲れて見えない。

 

 目の前にまだ存在しない勝利を置き、それを見てきた出来事のように語る。聞く者は、どこからが予測で、どこまでが決定なのかを見失う。

 

「英国を破壊することはできる。だが、破壊したあと、その帝国を誰が動かす」

 

 問いはヒムラーへ向いたように見えた。

 

 ヒムラーは、すぐには答えなかった。

 

「総統閣下のお考えは、英国本土を完全に占領することではないと承知しております」

 

「占領は手段だ。目的ではない」

 

 ヒトラーは振り返らない。

 

「ロンドンへドイツの役人を何万人送り込めば、大英帝国が動くと思う。インドも、アフリカも、中東も、海の向こうだ。英国人が百年かけて作ったものを、我々が一日で取り上げれば壊れる」

 

 彼の指が、地図の外へ伸びた。

 

 そこにはイラクも、インドも、マラヤも描かれていない。

 

 だが、ヒトラーの声の中では、見えない地域まで同じ地図へ入っていた。

 

「英国人は海を支配することに慣れている。商船を動かし、保険を付け、港を結び、異民族を使って利益を持ち帰る。彼らはそれを帝国と呼ぶ」

 

 そこで、ヒトラーは小さく笑った。

 

「捨てさせる必要はない。向きを変えさせればよい」

 

 ターニャは、思わずヒトラーの横顔を見た。

 

 声を張っているわけではない。

 

 それでも、言葉が部屋を広げていく。

 

 ベルリンの一室だった場所が、海峡から地中海、中東、インド洋まで続くような感覚がある。思いつきを並べているのではない。イギリス人の誇りすら、利用できる力として見ている。

 

 単純な征服者の言葉ではなかった。

 

 相手が大切にしているものを残し、その大切なものの向きを自分へ変えようとしている。

 

 それができると、本人が信じている。

 

 そして、話を聞いている側まで、できるのではないかと思わせる。

 

 それが怖い。

 

「ターニャ・デグレチャフ」

 

 突然、名を呼ばれた。

 

「はい」

 

「君は、英国人をどう見る」

 

 問いが広すぎる。

 

 軍人としてか。

 

 民族としてか。

 

 国家としてか。

 

 ヒトラーは説明しない。

 

 相手が何を選ぶかを見るための問いだった。

 

 ターニャは、一度だけ言葉を整えた。

 

「総統閣下。現在のイギリスは、本土だけで戦っているのではございません。海運、海外拠点、資源供給、金融を一体として動かしております」

 

「続けろ」

 

「本土を焼き払えば、その仕組みを壊すことはできます。しかし、講和後に利用できる部分も失います」

 

 ヒトラーが、ゆっくりとこちらへ向いた。

 

 先ほどまでの不快さは消えていない。

 

 だが、その目には別の光がある。

 

 興味。

 

 幼い士官がどこまで先を見ているのか、測ろうとする目だった。

 

「利用する?」

 

「はい。英国が講和に応じ、王室、内閣、議会を維持するのであれば、帝国圏の輸送と資源をそのまま残せます」

 

「英国人に、我々のために帝国を動かさせると言うのか」

 

「自分たちの帝国を守るために動かせます」

 

 言い切る。

 

 ヒトラーの眉がわずかに上がった。

 

「違いは何だ」

 

「ドイツへ従えと命じれば、屈辱になります。帝国を失いたくなければ協定を守れと示せば、英国側の利益として説明できます」

 

 ヒトラーは黙った。

 

 その沈黙は、拒絶ではない。

 

 言葉を吟味している。

 

 ターニャは続けた。

 

「英国本土の制度を残し、外交、軍事、港湾、飛行場、通信についてドイツの同意を要する形にします。反独組織への対処と警察協力も条件に入れます」

 

 ヒムラーが、そこで静かに口を開いた。

 

「総統閣下、国内統治を英国政府へ残すなら、親衛隊が広い占領行政を抱える必要もございません。保安上の対象を絞り、英国側の警察機構を使えます」

 

「英国警察を、ドイツの敵に向けるのか」

 

「英国政府が講和を維持するのであれば、自国の秩序を守る行為として実施させられます」

 

 ヒムラーは淡々としている。

 

 しかし、その説明は明確だった。

 

 王室を残す。

 

 政府を残す。

 

 議会も残す。

 

 その代わり、国家の向きを決める部分だけを握る。

 

 英国人が英国人を統治し、英国人の警察が反独運動を抑え、英国人の商船がドイツへ資源を運ぶ。

 

 全面占領より、はるかに少ない負担で済む。

 

 ヒトラーは、二人の言葉を聞きながら地図へ戻った。

 

「英国の植民地は従うと思うか」

 

「全てが同じようには動きません」

 

 ターニャは、すぐに答えた。

 

「自治領は独自の政府を持っております。カナダ、オーストラリア、南アフリカまで、ロンドンの命令だけで従わせることは難しいでしょう」

 

「なら、帝国は使えん」

 

「いいえ」

 

 否定したあと、ターニャはすぐに敬語へ戻した。

 

「失礼いたしました。全てを一度に握る必要はございません」

 

 ヒトラーは、怒らなかった。

 

 むしろ、続きを待っている。

 

「帝国圏の石油、ゴム、錫、港湾、商船は、同じ仕組みで動いているわけではありません。英国政府が直接強く管理する地域と、自治権を持つ地域を分けて扱うべきです」

 

「直轄植民地と自治領を分ける」

 

「はい。遠隔地の行政がロンドンの講和に従わない場合、現地ごとに圧力をかけます」

 

「ドイツ海軍をインド洋へ送るのか」

 

「その必要はございません」

 

 ターニャは、東側の地図へ目を向けた。

 

 正確な地域図は、今の壁にはない。

 

 それでも、意図は伝わる。

 

「アジアでは、日本を使えます」

 

 室内の空気が、わずかに変わった。

 

 ヒトラーの顔から笑みが消える。

 

 だが、不快ではない。

 

「日本」

 

「はい。日本は東アジアで、実際に軍事力を動かせる国家です。ドイツが直接届かない地域でも、日本なら現地政府と植民地当局へ圧力をかけられます」

 

「日本人に英国の帝国を渡すのか」

 

「渡すのではございません。従わない地域へ、ドイツの代わりに圧力をかけさせます」

 

「代償を求める」

 

「当然、求めるでしょう」

 

 ターニャは、そこをぼかさなかった。

 

「ですが、ドイツが艦隊と兵力を送るより安く済みます。日本が欲する範囲と、英国側に残す範囲を切り分ければよろしいかと存じます」

 

 ヒトラーは、数歩だけ歩いた。

 

 その動きは落ち着いている。

 

 だが、頭の中では別の地図が作られているように見えた。

 

「日本との協定を、イタリアを含む三国の枠へ広げる」

 

 独り言に近い。

 

「ヨーロッパはドイツ。地中海はイタリア。東アジアは日本」

 

 言葉にした瞬間、その構想が巨大になる。

 

 単なる軍事同盟ではない。

 

 世界を三つの圏へ分け、アメリカとソ連をその外へ押し出す形だった。

 

 ヒムラーが、慎重に言葉を添えた。

 

「総統閣下、英国をその枠の敵として残すより、協定下の海洋国家として置く方が、アメリカへの牽制にもなります」

 

「アメリカ」

 

 ヒトラーの声に、明らかな軽蔑が混じった。

 

「彼らは欧州へ口を出したがる。だが、自国民へ戦争の理由を説明できない」

 

「英国が独立した政府と王室を残し、正式に講和しているなら、アメリカがドイツへ直接介入する理由は弱くなります」

 

 ターニャは、慎重に続けた。

 

「英国を救う、という名目が使えません。ドイツが英国本土を併合せず、英国政府が講和を受け入れた形であれば、アメリカ側は新しい理由を作らなければなりません」

 

「理由など、作るだろう」

 

「作ります」

 

 即答した。

 

「経済制裁、航路、武器供与、世論工作。手段は残ります。ただ、いきなり戦争へ入るには弱い。少なくとも、時間は得られます」

 

 ヒトラーは、そこで初めて満足そうに頷いた。

 

「時間か」

 

「はい。ドイツが必要としているのは、永久にアメリカを止めることではございません。次の決定を行うまで、介入の時期を遅らせることです」

 

 ヒトラーの目が、鋭くなる。

 

 この男は、時間という言葉を嫌わない。

 

 自分が使う時間ならば、むしろ好む。

 

「英国と講和し、その帝国から石油と資源が流れ、アメリカは介入の旗印を失う。日本はアジアで英国植民地を従わせる」

 

 ヒトラーが、ターニャの言葉を自分の言葉へ変えていく。

 

「日本とアメリカが衝突した場合はどうする」

 

 問いは早かった。

 

 ターニャは、一瞬だけ考えた。

 

「英国の不干渉を、講和条件へ入れるべきです」

 

「日本を見捨てるのか」

 

「英国を日本側へ参戦させない、という意味でございます。ドイツと日本の関係は別の協定で定めます」

 

「英国の港をアメリカへ使わせない」

 

「はい。補給、修理、情報提供を制限します。一方で、ドイツ向けの資源輸送と商取引は継続させます」

 

「日本が英国植民地を攻撃したら」

 

「そこは協定で境界を決めます」

 

 ターニャは、答えを急がなかった。

 

「英国が講和後も保持する地域、日本の影響圏と認める地域、個別交渉へ回す地域を分けます。曖昧にすれば、先に現地で撃ち合いが始まります」

 

 ヒトラーは笑った。

 

 今度の笑いは、先ほどターニャへ向けた皮肉とは違う。

 

 楽しんでいる。

 

 世界を分け、動かし、相手がまだ知らない選択肢を先に並べる。その作業を楽しんでいる。

 

「君は英国を倒す前から、その植民地を分けるのか」

 

「勝ってから考えては遅れます」

 

 ターニャは、丁寧に答えた。

 

「講和条件は、相手が弱った時に提示できなければ意味がございません」

 

「英国は講和すると思うか」

 

「条件次第でございます」

 

「逃げたな」

 

「確約できる材料がございません」

 

 ヒトラーの笑みが深くなる。

 

「だが、可能性はあると思っている」

 

「はい」

 

「なぜだ」

 

「ダンケルクで戻った兵力は、無傷ではございません。フランスも失いました。イギリス空軍と艦隊が残っているため、すぐには屈しないでしょうが、戦争を続ける費用は増えています」

 

 数字は出さない。

 

 数字で説明すべき場面ではない。

 

 ヒトラーが見ているのは、英国人が何を恐れ、何を守りたがるかだった。

 

「帝国を残せるなら、戦争継続より講和を選ぶ者は出ます」

 

「チャーチルは選ばない」

 

「はい」

 

「ならば、チャーチルを英国そのものにしてはならん」

 

 ヒトラーは、低く言った。

 

 その一言だけで、目的が変わる。

 

 敵国を打ち倒すのではない。

 

 敵国の中から、別の英国を引き出す。

 

「英国人全体へ、ドイツが彼らの帝国を奪うのではないと示す。チャーチルだけが、英国を破滅へ連れていくと見せる」

 

 ヒトラーは、再び地図の前へ立った。

 

 その背中に迷いはない。

 

 今までターニャとヒムラーが出した断片を、自分の構想へ飲み込んでいる。

 

 海運。

 

 資源。

 

 王室。

 

 議会。

 

 自治領。

 

 日本。

 

 アメリカ。

 

 ばらばらだったものが、ヒトラーの言葉を通るとひとつの大きな意志に見える。

 

 理屈だけなら、穴はいくらでもある。

 

 英国政府が従う保証はない。

 

 植民地が離反する可能性もある。

 

 日本が約束通りに動くとも限らない。

 

 アメリカが別の口実を作らない保証もない。

 

 それでも、ヒトラーが語ると、その穴は可能性の隙間に変わる。

 

 できない理由ではなく、次に押さえる場所へ変わる。

 

 この男が人々を魅了した理由を、ターニャは理解した。

 

 言葉がうまいからではない。

 

 相手が見ている現実より、大きな現実を見せる。

 

 そして、その大きな現実の中に、聞いている者の役割を与える。

 

 空軍には英国の翼を折る役割。

 

 海軍には海峡を閉じる役割。

 

 親衛隊には講和後の秩序を作る役割。

 

 日本にはアジアを押さえる役割。

 

 英国人にすら、帝国を守る役割を残す。

 

 誰もが、自分が必要だと思わされる。

 

 同時に、そこから外れた者は未来そのものへ逆らう者に見える。

 

 魅力と恐怖が、同じ場所にあった。

 

「爆撃はどうする」

 

 ヒトラーが問うた。

 

「空軍は、ロンドンを叩けば英国人の意志を折れると言う者もいる」

 

 ターニャは、すぐに答えなかった。

 

 ここは重要だった。

 

 史実を語ることはできない。

 

 だが、危険な形は知っている。

 

「現段階では、都市そのものを目標にすべきではないと考えます」

 

 ヒトラーの顔から、先ほどまでの楽しげな色が消えた。

 

「英国の首都を守れと言うのか」

 

「いいえ。英国の戦争継続能力を削るには、優先順位が違うと申し上げております」

 

「言ってみろ」

 

「戦闘機基地、整備拠点、燃料、通信施設、港湾、軍需工場。まず、イギリス空軍が飛び続けるために必要な場所へ集中すべきです」

 

「ロンドンは政治の中心だ」

 

「はい。ですが、首都への大規模爆撃は、英国民へ分かりやすい敵を与えます」

 

「既に我々は敵だ」

 

「政府にとっての敵と、国民一人ひとりにとっての復讐対象は違います」

 

 ヒトラーは、何も言わない。

 

 ターニャは、さらに言葉を選んだ。

 

「軍事施設を狙う限り、英国政府は敗北の理由を説明しなければなりません。都市を焼けば、チャーチルは怒りだけで国民をまとめられます」

 

「爆撃を恐れていると思われる」

 

「継続して飛行場を失う方が、イギリス空軍には深刻でございます」

 

 ヒムラーが、静かに同意を示した。

 

「総統閣下、講和後の統治を考えるなら、反独感情を必要以上に広げない方が扱いやすいかと存じます」

 

「英国人の感情を気にするのか」

 

「利用できる感情は残すべきです」

 

 ヒムラーは、ためらわなかった。

 

「ドイツ軍を恐れさせることと、全英国人へ復讐を誓わせることは別でございます。王室と政府を残すなら、彼らが国民へ講和を説明できる余地が必要です」

 

 ヒトラーは、ゆっくりと頷いた。

 

「英国人には、負けたのではなく、帝国を守る選択をしたと思わせる」

 

「はい」

 

「チャーチルには、その選択を奪おうとしていると見せる」

 

「その形が有効かと存じます」

 

 ヒトラーは、再び笑った。

 

 今度は大きくない。

 

 満足を隠さない笑いだった。

 

「首都を焼くのは簡単だ」

 

 彼は言った。

 

「だが、焼け跡から英国人の帝国は動かん。飛行場を奪い、艦隊を港へ押し込み、食料と燃料の不安を広げる。そのうえで、帝国を残す道を示す」

 

 言葉が続くたびに、空気が変わる。

 

 戦場の説明ではない。

 

 歴史の行き先を、自分の手で選んでいる男の声だった。

 

「彼らは二つから選ぶ。チャーチルと共に英国を失うか、ドイツと共に帝国を残すか」

 

 そんなに単純ではない。

 

 ターニャの理性は分かっている。

 

 だが、その場で聞けば、単純に見える。

 

 二つの道しかないように思える。

 

 ヒトラーの恐ろしさは、複雑な現実を無視することではなかった。

 

 複雑な現実の中から、自分に都合のよい二つだけを抜き出し、それ以外を弱者の迷いに見せることだった。

 

 そして、選ばせる。

 

 選ばせたあとで、自分が未来を予見していたように見せる。

 

 ヒトラーは、ターニャを見た。

 

「君は、なぜそこまで先を見る」

 

 問いは、先ほどまでとは違っていた。

 

 責めているのではない。

 

 純粋に興味を向けている。

 

 それがかえって不気味だった。

 

「職務上、戦闘の後に何を残すかまで考える必要がございます」

 

「戦闘の後」

 

「はい。占領、講和、警察、輸送、資源。勝利後に動かせなければ、戦場で得たものを失います」

 

「君は軍人なのか、役人なのか」

 

「親衛隊の調整官でございます」

 

「答えになっていない」

 

 ヒトラーは笑った。

 

「いや、それが答えか」

 

 彼は、ターニャを上から下まで見た。

 

 黒い制服。

 

 小さな身体。

 

 親衛隊少佐の階級。

 

 ヒムラーの個人幕僚部と国家保安本部をまたぐ肩書き。

 

 前線へ出れば軍人に見える。

 

 会議室では役人に見える。

 

 総統の前で英国帝国の資源と日本の軍事力を結びつければ、どちらにも見えない。

 

「奇妙な子供だ」

 

 ヒトラーは、静かに言った。

 

 声に嫌悪はない。

 

 称賛とも言い切れない。

 

 珍しいものを見つけた者の声だった。

 

「フランスで兵を動かし、ダンケルクで英国人を減らし、今度は英国の帝国を残せと言う」

 

「ドイツの利益になる形で、でございます」

 

「分かっている」

 

 ヒトラーは、そこでヒムラーへ顔を向けた。

 

「君は、どこで見つけた」

 

「総統閣下。本人の成果が、こちらへ届きました」

 

 ヒムラーは、穏やかに答えた。

 

「私が作った者ではございません」

 

「作れるものではないか」

 

「はい」

 

 ヒムラーの口元に、微かな笑みがあった。

 

 自分の配下が総統の興味を引いた。

 

 その満足を隠しながら、所有を主張しすぎない。

 

 ヒムラーもまた、総統の前での立ち位置を知っている。

 

「ターニャ・デグレチャフ」

 

 ヒトラーが名を呼ぶ。

 

「はい」

 

「英国を倒したあと、君の言う形を試す価値はある」

 

「恐れ入ります」

 

「まだ勝っていない」

 

「はい」

 

「だが、勝ったあとを考えない者に、勝利は使えん」

 

 ヒトラーは地図へ手を伸ばした。

 

「飛行場を叩く。戦闘機を地上へ縛る。港と軍需を削る。だが、英国人全体を敵にする爆撃は急がない」

 

 命令ではない。

 

 まだ構想だ。

 

 しかし、この男が口にした時点で、周囲は命令の前触れとして受け取る。

 

 ヒムラーが、深く頭を下げた。

 

「空軍側への整理が必要であれば、関係部署へ伝達いたします」

 

「まだ待て。空軍の意見も聞く」

 

「承知いたしました」

 

「だが、首都を焼けば勝てるという者には、勝ったあと何を支配するのか聞け」

 

「はい」

 

 ヒトラーは、ターニャへ目を戻した。

 

「英国への講和案も考えろ」

 

 ターニャは、一瞬だけ息を止めた。

 

「私が、でしょうか」

 

「君が言い出した」

 

「承知いたしました」

 

「王室も議会も残す。だが、軍事と外交は自由にさせない。港、飛行場、通信、警察協力も必要だ」

 

「はい」

 

「帝国の資源と航路を、どうドイツへ結ぶか。日本とアメリカをどう扱うかも入れろ」

 

「条件ごとに分けて整理いたします」

 

「数字だけを並べるな」

 

 ヒトラーは、少し笑った。

 

「英国人が受け入れられる顔を作れ。彼らは自分たちが支配されると思えば戦う。帝国を守ると思えば、取引する」

 

「承知いたしました」

 

 ターニャは、最上段の礼で受けた。

 

 内心では、仕事が増えたことを理解する。

 

 総統の健康管理を通すために来た。

 

 なぜ、英国講和後の帝国管理案まで持ち帰ることになるのか。

 

(何でこうなる!?)

 

 叫びたい気分は、外へ出さない。

 

 出せば、総統に面白がられるだけだ。

 

 ヒムラーは、横で静かに微笑んでいる。

 

 助ける気はなさそうだった。

 

 むしろ、この場でターニャの価値が上がったことを歓迎している。

 

 それがまた厄介だった。

 

 ヒトラーは、もう一度イギリスの地図を見た。

 

 その背中は、先ほどモレルの話で不快を示していた男と同じには見えない。

 

 大陸を手に入れ、次に海の帝国をどう曲げるかを考えている。

 

 自分が選べば世界が変わると、疑っていない。

 

 その確信が、人を惹きつける。

 

 失敗の可能性を忘れさせる。

 

 彼のそばにいる者は、自分も歴史の中心に立っているように感じるのだろう。

 

 ターニャでさえ、一瞬だけその感覚に触れた。

 

 この男の構想が正しく運べば、英国を破壊せずに屈服させ、大英帝国の海運と資源をドイツのために残せる。

 

 アメリカの介入を遅らせ、日本をアジアの圧力として使える。

 

 ヨーロッパの戦争を、海の向こうまで再編できる。

 

 不可能とは言い切れない。

 

 だから危険だった。

 

 荒唐無稽なら、誰も従わない。

 

 現実に触れる部分があるから、人は残りの危険まで飲み込む。

 

 ヒトラーは振り返り、穏やかに言った。

 

「君の話は、モレルの話より面白かった」

 

 ターニャは、返答に迷わなかった。

 

「恐れ入ります。ただ、健康管理の件も御判断を賜る必要がございます」

 

 一瞬、ヒムラーの微笑が深くなった。

 

 ヒトラーは、目を細めた。

 

 そして、笑った。

 

 声を上げるほどではない。

 

 だが、今度は明らかな笑いだった。

 

「忘れていない」

 

 笑みが消える。

 

「英国を動かす前に、私を役所へ入れたいのだったな」

 

「総統閣下を役所へ入れる意図はございません」

 

「分かっている。言葉通りに取るな」

 

「失礼いたしました」

 

 ヒトラーは椅子へ戻った。

 

 先ほどより機嫌はよく見える。

 

 だが、それが安心につながらない。

 

 彼の感情は、周囲が理解したと思った瞬間に向きを変える。

 

 魅了した次の瞬間に、不快を戻す。

 

 未来を語った直後に、個人の忠誠を問う。

 

 聞く側は、その変化についていくため、自分から彼の意図を探し始める。

 

 それもまた、支配の形だった。

 

 廊下の向こうで、足音が近づいた。

 

 急いでいる。

 

 医務側の者らしい柔らかい靴音と、革鞄の金具が触れる小さな音。

 

 ヒトラーの表情が変わった。

 

 先ほどまで世界を三つの圏へ分けていた男が、信頼する医師を待つ患者の顔へ戻る。

 

 だが、その目の奥には、先ほどの熱がまだ残っている。

 

 係官が扉の前で声を低くした。

 

「モレル医師が到着いたしました」

 

 ヒトラーは、ターニャの説明票へ一度だけ目を落とした。

 

「入れろ」

 

 ヒムラーの微笑は、もう消えていた。

 

 ターニャも革挟みへ手を置く。

 

 英国の帝国をどう残すかという話は、一度、扉の外へ退いた。

 

 次に入ってくるのは、世界の資源ではない。

 

 総統の身体を、自分だけが知っていると信じる男だった。

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

我らが帝国に栄光を!(作者:やがみ0821)(原作:幼女戦記)

身も蓋もないあらすじ▼帝政ドイツを強大化させ、黄金時代を築き上げた実績がある2人が、転生して帝国にやってきた。▼領土も人口もドイツより凄いけれど、外交的に詰んでいる。▼やるしかない――▼なろうで完結させた貴族になったが、未来がヤバかったとのクロスです。▼12月8日本編完結しました。▼


総合評価:20290/評価:8.85/完結:37話/更新日時:2019年12月08日(日) 21:44 小説情報

銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜(作者:斉宮 柴野)(原作:銀河英雄伝説)

ゴールデンバウム王朝末期。▼ファルケンハイン伯爵家の嫡男アルブレヒトは、怠惰と美食と美女を愛する典型的な俗物だった。▼ところがその場しのぎの発言や自己保身の態度が、なぜか「深遠な洞察」と誤解され、門閥貴族たちの期待を一身に背負ってしまう。▼気づけば彼はリップシュタット盟約の盟主として、ローエングラム侯ラインハルトと銀河の覇権を争う立場に――!▼これは、歴史に…


総合評価:2335/評価:7.46/連載:245話/更新日時:2026年07月21日(火) 00:08 小説情報

皇女戦記(作者:山本 奛)(原作:幼女戦記)

幼女戦記の世界は、存在Xの目論見通り、悲劇的結末がちらついている。▼如何に強大な帝国とて、このままいけばかのドイツ帝国と同じ末路をたどるであろう。▼では、ここで問題。▼そんな「史実」を知っている人間がターニャ以外に存在していて。▼かつ、帝国の意思決定に関与できる立場にいたならば?▼そんな妄想からできた仮想戦記です。▼◇本作において、核兵器は登場いたしません▼…


総合評価:34772/評価:9.06/連載:143話/更新日時:2025年08月09日(土) 14:30 小説情報

貞操逆転世界で占い師(軍師)を務めていたら、貴族令嬢方に包囲され逃げられなくなった件について(作者:ですわお嬢様)(オリジナルファンタジー/戦記)

男女の役割が入れ替わった中世っぽい異世界で、ガリティア王国の女爵(男爵)家に転生した。▼軍事貴族の家柄に転生したことも相まって、勝手に憧れて軍略などを学んでいたが、この世界では男性が故に出征することもなく箱入り息子として育てられることに。▼だか、ある日にまさかの革命が起こり、王家と共に軍人だった母は戦死してしまう。▼慌てて隣国に亡命すると、そこには同じく革命…


総合評価:12900/評価:8.63/連載:56話/更新日時:2026年07月02日(木) 12:10 小説情報

推しの少年漫画に転生した件(作者:暁刀魚)(オリジナル現代/冒険・バトル)

【書籍販売中】▼ 幸運にも、大好きだった少年漫画に転生した百鬼セオ。▼ 自身の前世知識を用いて、不幸になってしまったキャラの救済や、前世でさんざん妄想していた異能を実現するために奮闘することを決意する。▼ しかしセオは知らなかった。▼ 前世にてセオが死んだ後、この作品の続編とソシャゲが始まったこと。▼ そこでセオの知らない新しい設定が生えていたことを。▼ こ…


総合評価:19277/評価:8.49/連載:96話/更新日時:2026年05月17日(日) 20:07 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>