14時55分、ターニャは総統執務室の外にいた。
予定より五分早い。
早すぎるわけではない。遅れる可能性を消すには、この程度が妥当だった。
待機室の時計は、秒針が進むたびに小さな音を立てていた。廊下を行き交う足音より弱い。それでも、話し声が途切れると妙に耳へ残る。
セレブリャコーフは、持参物一覧と革挟みの中身を最後に照合していた。
総統向け説明票。
ブラント所見要旨。
面会許可控え。
ヒムラー用の内部資料は別封。
筆記具。
抜けはない。
「内容に変更はありません」
「よし」
「面会時間は五分のままです。ただし、前の会議が延びています」
「開始がずれても順番は変えない」
「はい」
EVAは、壁際に立っていた。視線は、総統執務室へ続く扉ではなく、反対側の小さな控室へ向いている。
そこにはブラントがいる。
補助医候補として呼ばれたが、総統の前へ出すとは決まっていない。必要になった時だけ入れる。今は制服姿のまま、指定された部屋で待機していた。
白衣ではない。
親衛隊中佐の階級を付けたフィールドグレーの開襟型制服。鞄は椅子の脇に置き、膝の上には何も載せていない。読書もせず、時計を何度も見ることもなく、呼ばれるまで待っていた。
ターニャが控室の前を通った際、ブラントは立ち上がった。
「指示があるまで、こちらでお待ちください」
「承知しました」
「総統閣下からご質問があった場合のみ、所見を述べていただきます」
「記録形式についてだけですね」
「はい。モレル医師の治療評価には入らないでください」
「分かっています」
それ以上の会話はなかった。
ブラントは座り直した。
静かな男だった。
静かだから安心できるわけではない。必要な時に必要なことを言う者は、声の大きい者より深く入る。だが、今はその性質が要る。
EVAが、控室の閉じた扉を見た。
「待てる」
「そうだな」
「慣れている」
「命令を待つことにか」
「人が決めるのを」
ターニャは、EVAへ顔を向けなかった。
「今はそれでいい」
「はい」
総統執務室の内側から、声が漏れた。
大きくはない。
複数の男が短く答え、すぐに黙る。地名らしい単語。飛行場。港湾。航続距離。天候。海軍側の条件。英軍がダンケルクで失った兵力についても触れているらしい。
内容までは聞き取れない。
だが、ひとつの声だけは分かった。
その声が低くなると、他の声が消える。
声を張り上げているわけではない。それでも、周囲が先に息を止める。返答の間合いまで、その男のものになる。
総統。
演説台の上で聞く声とは違った。
近い場所では、声量より変化が怖い。穏やかに話していたと思えば、ひとつの語で急に鋭くなる。その瞬間まで同意していた者も、自分が何かを誤ったような顔をする。
しばらくして、扉が開いた。
空軍と海軍の将校が数人出てくる。誰も話さない。資料を抱え、目線を交わさずに廊下を離れていく。
最後に出てきた将校は、額に汗を浮かべていた。
室内は暑くない。
ターニャは、革挟みの位置を確かめた。
ヒムラーが先に呼ばれた。
彼は襟元を直すこともなく、自然な動きで扉の中へ入った。数分後、係官がターニャの名を呼んだ。
セレブリャコーフが革挟みを差し出す。
「持参物、確認済みです」
「ここで待機しろ」
「はい」
EVAが言った。
「目」
「何だ」
「逸らさない」
「分かっている」
ターニャは扉の前へ進んだ。
係官が開く。
中へ入る。
総統執務室は、広さより奥行きを感じさせる部屋だった。
机の向こうに大きな地図がある。フランス側には書き込みが少なくなり、海峡を挟んだイギリス南部へ印が集まっていた。飛行場、港、鉄道線、通信施設。机の一角には、空軍の目標候補一覧が開かれたまま置かれている。
地図の前に立っていた男が、振り返った。
アドルフ・ヒトラー。
写真や演説映像で見る姿より、近くでは小さな動きが目についた。
肩の位置。
指の動き。
口元の止まり方。
顔には会議の疲れが見える。だが、その疲れは弱さにはならない。むしろ、周囲に余計な言葉を控えさせる圧として残っている。
目が、ターニャへ向いた。
見られたというより、測られた感覚に近い。
階級。
制服。
年齢。
所属。
手に持った革挟み。
その全てを一度に見られている。
ヒトラーは、すぐには何も言わなかった。
ターニャは姿勢を正し、最上段の礼を取った。
「お時間を賜り、恐れ入ります」
「君が説明するのか」
「はい。親衛隊全国指導者個人幕僚部付兼国家保安本部付の調整官として、健康管理補助体制についてご説明申し上げます」
ヒトラーの視線が、ターニャからヒムラーへ移る。
「この子供が、私の健康管理を決めるのか」
声は静かだった。
冗談にも聞こえる。
だが、笑ってよい空気ではない。
ヒムラーは、わずかに頭を下げた。
「総統閣下、医療判断をさせるものではございません。警護、記録、関係部署の調整を担当させております」
「医者ではないのだな」
ヒトラーが再びターニャを見る。
「はい。私は医師ではございません」
「なら、なぜここにいる」
「医療の良し悪しではなく、薬品の出入り、診療記録、担当者間の引き継ぎを扱うためでございます」
ヒトラーは、少しだけ顎を上げた。
「話せ」
ターニャは革挟みを開いた。
総統向けの説明票だけを出す。
机の上へ置く許可を待つ。
ヒトラーが指先を動かした。
置け、という意味だった。
ターニャは、机の端へ説明票を置いた。
「対英戦準備に伴い、今後、会議、ご移動、接見の増加が見込まれます。モレル医師の診療継続を支え、総統閣下の健康管理を安定させるため、補助医一名と補助記録体制の配置を提案申し上げます」
ヒトラーは、最初の数行を読んだ。
読む速度は速い。
だが、途中で指が止まった。
「補助医」
「はい」
「余計な医者はいらん」
即答だった。
声は大きくない。
それでも、室内の空気が一段硬くなる。
「モレルは長く私を診ている。私がいつ疲れるか、何を使えば戻るか、どこが悪いかを知っている。別の医者を置けば、話が複雑になるだけだ」
「モレル医師のご経験を否定する提案ではございません」
「否定していないと言いながら、補助を置くのか」
「はい。ご経験を失わないためでございます」
ヒトラーの目が細くなった。
「失う?」
短い一語だった。
だが、責められているのは語だけではない。
その語を選んだ理由まで問われている。
「モレル医師に万一のことがあった場合でも、過去の処置を他の医師が正確に読めるようにする、という意味でございます」
「モレルに何か起きると言うのか」
「そのように申し上げているのではございません。戦時下では、ご予定も移動も増えます。一名へ知識と負担が集中している状態を、補う必要がございます」
ヒトラーは説明票から目を離した。
「私は病人ではない」
声が少し低くなる。
「はい。そのようには申し上げておりません」
「周りはすぐに私を休ませようとする。疲れている、眠るべきだ、会議を減らすべきだ。だが、私の体調は私が分かっている。医者よりもな」
「おっしゃる通りでございます」
ターニャは、すぐに否定しなかった。
ここで反論すれば、医学の話になる。
医学の話になれば、ターニャには勝ち目がない。そもそも勝つべき場所でもない。
「ご体調をご判断なさるのは総統閣下でございます。モレル医師は、そのご判断を支えてこられました。今回の案は、その関係を変えるものではございません」
「では何を変える」
「残し方でございます」
「残し方」
「はい。いつ、どの薬品を、どの程度使用したのか。処置後に何が保管され、次の診療へ何が伝えられたのか。それを、モレル医師以外の者にも読める形へ整えます」
ヒトラーの指先が、机を一度だけ叩いた。
「それはモレルの記録が悪いと言っているのか」
「いいえ。現在の記録は、モレル医師ご本人が使用することを前提としております。補助医を置く場合、他の医師が読める形式を加える必要がございます」
「だから、余計な医者を置く必要はないと言っている」
会話が戻った。
同じ場所へ戻される。
ヒトラーは、同じ言葉を繰り返しているわけではない。相手がどこまで崩れるかを見ながら、同じ主張を別の角度から押している。
ターニャは、一度だけ息を整えた。
「モレル医師を遠ざける話ではございません。総統のご体調を、一人の記憶だけに預けないためです」
言い切った。
室内が静まった。
ヒムラーは動かない。
ヒトラーも、すぐには答えなかった。
先ほどまで机を叩いていた指が止まっている。
目だけが、ターニャを見ていた。
不快。
その感情は明らかだった。
しかし、怒鳴らない。
怒鳴らないからこそ、次に何が来るのか分からない。
長い沈黙のあと、ヒトラーの口元がわずかに緩んだ。
笑ったようにも見える。
だが、目は変わらない。
「君は、モレルの記憶を信用していないのか」
「信用の問題ではございません」
「では、何の問題だ」
「継続の問題でございます」
「言葉を変えただけではないか」
「いいえ。信用は人に置くものです。継続は、誰かが不在でも動く状態を指します」
ヒトラーの笑みが消えた。
「私の医者を、役所の係員にするつもりか」
「いたしません」
「親衛隊は、何でも帳簿に入れたがる」
「必要な部分だけでございます」
「必要かどうかを、君が決めるのか」
「いいえ。総統閣下のご裁可を仰ぐために参りました」
ターニャは、声の速さを変えなかった。
内心では、答えを短くする。
余計な補足は危険だ。
総統は説明を聞いているようで、説明者そのものを見ている。少しでも自信を失えば、提案の内容ではなく、提案者の忠誠や意図へ話が移る。
ヒトラーは、椅子に座らなかった。
地図の前から机へ戻り、説明票を持ち上げる。視線が文字を追う。途中で、ブラントの名前に止まった。
「カール・ブラント」
「はい」
「彼を入れたいのか」
「補助医候補として適任と判断しております」
「親衛隊の医者だからか」
「親衛隊の階級を有し、命令系統を理解していることは理由のひとつでございます。ただ、主な理由は、医療行政と記録整理の実務を扱える点です」
「医療行政」
ヒトラーは、その言葉を嫌うように繰り返した。
「私の身体を行政で扱うのか」
「お身体を扱うのではございません。診療の周囲にある記録を扱います」
「違いがあるのか」
「ございます。薬を選ぶのは医師です。何を使用したかを残すのは、体制の仕事でございます」
ヒトラーの視線が、再びヒムラーへ向いた。
「君もそう思うのか」
ヒムラーは、丁寧に答えた。
「はい、総統閣下。モレル医師の診療を守るためにも、補助者が必要と考えております」
「守る」
「対英戦を前に、総統閣下のご予定はさらに増加いたします。モレル医師一名に診療、薬品管理、記録、関係者への伝達まで集中させることは、同医師への負担としても大きすぎます」
「モレルは不満を言っていない」
「承知しております。だからこそ、ご負担が表へ出る前に補うべきかと存じます」
ヒムラーの言い方は柔らかい。
柔らかいが、引かない。
総統へ忠実に仕える上官の声で、提案の意味を同じ場所へ戻している。
ヒトラーは、説明票を机へ置いた。
「皆、イギリスを理由にする」
突然、話題が変わった。
声に熱が入る。
「空軍は、今なら飛行場を叩けると言う。海軍は、まだ条件が足りないと言う。陸軍は、海を渡るならさらに準備が必要だと言う。外務は、英国人は現実を理解する可能性があると言う。誰もが自分の案に、イギリスを付ける」
ターニャは黙っていた。
ヒトラーは地図へ向き直る。
背を向けたまま、続けた。
「英国はまだ、自分たちが敗れていないと思っている。フランスが倒れても、海峡がある。艦隊がある。帝国がある。だから、時間が自分たちの側にあると信じている」
声が強くなる。
先ほどまでの疲れが消えたように見えた。
地図上のイギリス南部へ手を伸ばす。その動きに合わせて、部屋の中心まで移ったような錯覚がある。
「だが、時間は彼らの側にはない。フランス軍は崩れた。大陸から戻った兵も、無傷ではない。彼らは失ったものをまだ数え切れていない。空から圧力をかけ、海上輸送を脅かし、政治に選択肢を突きつければ、理性のある者は分かる」
話しているのは、まだ決まっていない未来だった。
それでも、ヒトラーが口にすると、すでに動き始めた計画のように聞こえる。
確定していない要素が、彼の声の中ではひとつの方向へ並ぶ。
聞く者に、次の段階は当然そうなると思わせる力がある。
それがカリスマなのだろう。
同時に、怖さでもある。
彼が結論を口にした瞬間、別の可能性を示すこと自体が、理解不足や意志の弱さに見えかねない。
ヒトラーは、急にターニャへ振り返った。
「君は、私がその判断をできなくなると言いたいのか」
声の熱が、今度はこちらへ向いた。
「いいえ」
「では、なぜイギリスを理由にする」
「ご判断の内容ではなく、ご判断を続けられる環境を守るためでございます」
「環境」
「はい。会議の前後、ご移動中、接見が重なった場合でも、診療内容が一名の記憶だけに留まらず、必要な時に医師が確認できるようにいたします」
「私は、薬を飲んだから判断を変えるような人間ではない」
「そのようには考えておりません」
「なら、何を恐れている」
質問が鋭い。
ターニャは、一瞬だけ、未来の形を思い出した。
薬瓶が会議の前に置かれる。
注射が日常になる。
誰も、何が入っているのか正確に追えなくなる。
総統本人の感覚と個人医の裁量が、国家の決定のすぐ横に居座る。
(同じ未来とは限らない。だが、危険な形は同じだ)
内心を外へ出さない。
「記録が途切れることを恐れております」
「それだけか」
「はい」
短く答えた。
余計なことは言わない。
ヒトラーは、じっとターニャを見た。
嘘を見抜こうとしているのか。
忠誠を測っているのか。
それとも、単に返答が気に入らないのか。
分からない。
分からないこと自体が、不気味だった。
演説のように感情を大きく見せる時より、こうして黙っている時の方が、何を考えているのか読めない。
やがて、ヒトラーは椅子へ座った。
肘掛けには触れず、机へ片腕を置く。
「モレルは、私の体調を知っている」
「はい」
「私が朝、どの程度動けるか。長い会議のあと、何が必要になるか。胃が悪い時、眠れない時、声が出にくい時。彼は見てきた」
「そのご経験を残すために、補助が必要でございます」
「またそれか」
「はい」
ターニャは引かなかった。
言葉を増やせば崩れる。
同じ内容でも、同じ言い方を繰り返さない。
「モレル医師ご本人だけが読める形では、ご経験が共有されません。ご本人の判断を否定せず、その判断の経過を次へ渡せるようにいたします」
「次とは誰だ」
「まず、補助医です」
「ブラントか」
「候補として控えております」
「彼は冷たい」
ヒトラーの言葉は、評価なのか非難なのか判然としなかった。
「患者に愛想を振りまく男ではない」
「はい」
「それでよいのか」
「今回求めておりますのは、患者への愛想より、記録と引き継ぎを優先できる医師でございます」
ヒトラーの眉が少し動いた。
「君は人間を道具のように見るな」
穏やかな声だった。
だが、ターニャには反論の向きを見失わせる言い方だった。
国家が人間を職務で選ぶのは当然だ。
しかし、総統にそう言われれば、冷酷さを責められているようにも、適性を見抜いたことを試されているようにも聞こえる。
「職務上の適性として申し上げております」
「ブラントには何をさせる」
「モレル医師の診療を補い、薬品名、使用量、時刻、保管、補助記録を整理させます」
「診療には口を出させない」
「はい。診療判断はモレル医師が継続なさいます」
「私が望まない処置を止める権限もない」
「ございません」
「親衛隊が、私の薬を選ぶこともない」
「ございません」
ヒトラーは、ひとつずつ確認した。
返答のたびに、目が細くなる。
拒否する理由を探しているようにも見える。
あるいは、どこまでこちらが準備してきたかを確認しているのかもしれない。
「それでは、補助医を置いて何が変わる」
「モレル医師以外にも、過去の処置を読める者ができます」
「それだけか」
「まずは、それだけでございます」
まずは。
言ってから、ターニャは内心で警戒した。
総統が拾う可能性がある。
ヒトラーは、予想通りその語へ反応した。
「まずは?」
「最初の運用範囲でございます。総統閣下のご裁可なしに拡大いたしません」
「拡大する案があるのか」
「現時点ではございません」
半分は正しい。
鍵の分割。
立会制。
国家保安本部への写し。
実態としては、その先がある。
だが、それはまだ総統へ出していない。
現在の説明票にあるのは、補助医と補助記録だけだ。
ヒトラーは、ターニャの顔を見続けた。
時間が延びている。
五分は、もう過ぎているかもしれない。
誰も時計を見ない。
総統が話している間、予定時間は意味を失う。
ヒムラーも口を挟まなかった。
ヒトラーは説明票をもう一度読み、ブラントの名の横を指で押さえた。
「彼は外にいるのか」
「はい。ご質問がある場合に備え、控えております」
「入れようと準備してきたのだな」
「ご判断に必要な者を、すぐお呼びできるようにいたしました」
「モレルには知らせていない」
「はい」
「なぜだ」
「総統閣下のご意向を伺う前に、現担当医へ変更案を示すべきではないと判断いたしました」
「変更ではないと言ったはずだ」
「補助体制の追加でございます」
「言葉がうまいな」
ヒトラーは、今度こそ笑った。
短い笑いだった。
室内の緊張が一瞬だけ緩む。
しかし、ターニャは笑わなかった。
総統が笑ったからといって、許されたとは限らない。次の瞬間に何を問われるか分からない。
「親衛隊の学校では、子供にこういう話し方を教えるのか」
「職務上、必要な説明を行っております」
「恐れないのか」
問いが唐突だった。
ターニャは、一拍だけ遅れて答えた。
「恐れを理由に、ご報告を曲げることの方を恐れます」
ヒムラーが、わずかに顔を動かした。
ヒトラーの笑みが止まる。
室内の空気が再び重くなる。
言いすぎたかもしれない。
だが、引き戻せない。
ターニャは姿勢を崩さなかった。
ヒトラーは、しばらく何も言わなかった。
そして、意外なほど静かな声で言った。
「フランスの時も、君は余計なことをした」
「必要な範囲を処理したものと考えております」
「その結果、英国人はダンケルクで多くを失った」
「はい」
「今度は、私の医者に余計な仕事を増やす」
「モレル医師のご負担を減らすためでございます」
ヒトラーは鼻から短く息を吐いた。
「どこまでも同じ答えを返すつもりか」
「結論が変わっておりませんので」
また、短い沈黙が落ちる。
ヒムラーの口元に、ほとんど見えない変化があった。
笑みと呼ぶには小さい。
だが、ターニャには分かった。
ヒムラーは、この応酬を不快には思っていない。
総統へ逆らっているようには見せず、提案を引かない。求められている仕事をしている。その点を見ている。
ヒトラーは、今度はヒムラーへ言った。
「君は、この案を通したいのだな」
「総統閣下をお守りするために、必要と考えております」
「私を守る者は多い」
「はい」
「皆が、自分こそ必要だと言う」
「私どもは、モレル医師の必要性を減らすものではございません」
「では、モレルが反対したらどうする」
ヒムラーは、答える前にターニャを見なかった。
「まず、ご本人のご意見を伺うべきと存じます」
「君も慎重な言葉を使うようになったな」
「総統閣下のご健康に関わる案件でございます」
ヒトラーの視線が、机の上の説明票へ落ちた。
拒否はできる。
ここで破り捨てることもできる。
モレルは残る。
補助医は入れない。
それで終わる。
だが、この案はモレルを外すとは書いていない。治療を変えるとも書いていない。総統自身の判断を疑ってもいない。
ただ、補う。
残す。
支える。
それだけを表へ出している。
拒否するには、モレル一人へ全てを預ける方がよいと、総統自身が言わなければならない。
ヒトラーは、説明票を手元から離さなかった。
それが、今のところ唯一の変化だった。
「私は、モレルを信頼している」
「承知しております」
「彼は残る」
「もちろんでございます」
「診療も続ける」
「はい」
「ブラントを置くとしても、モレルの上ではない」
「補助医として配置いたします」
「モレルが必要ないと言えば」
「理由を伺い、記録いたします」
ヒトラーの眉が動いた。
「記録するのか」
「はい」
「親衛隊らしい」
今度の言葉には、明らかな皮肉があった。
ターニャは受け流した。
「ご判断に必要なためでございます」
「モレルを困らせたいわけではないのだな」
「その意図はございません」
「本当に?」
「はい」
嘘ではない。
困らせることが目的ではない。
目的は、裁量を一人へ置かないことだ。
結果としてモレルが困るとしても、それは目的ではない。
ヒトラーは、椅子の背へ身を預けた。
先ほど地図の前で話していた時の熱は、もうない。代わりに、疲労と疑念が同じ顔に戻っている。
その変化も怖かった。
演説する指導者。
体調を気にする患者。
信頼する医師を守ろうとする男。
自分への反対を許さない権力者。
それらが、ひとつの表情の中で入れ替わる。
どれが本当なのかではない。
全て本当なのだろう。
だから、次の言葉が読めない。
「モレルを呼べ」
ヒトラーは、突然言った。
室内の係官がすぐに動く。
ターニャは、姿勢を変えなかった。
「ブラントも控えているのだろう」
「はい」
「まずモレルを呼ぶ。本人の前で、同じ説明をしろ」
「承知いたしました」
「ブラントはまだ入れるな」
「はい」
「私は医者同士の喧嘩を見たいわけではない」
「そのようにはいたしません」
「君はそう言うだろうな」
ヒトラーは、説明票を机の端へ置いた。
返さない。
裁可もしない。
ただ、自分の手元に残した。
それは承認ではない。
拒否でもない。
モレル本人の反応を見てから決めるということだ。
係官が内線電話を取る。
総統個人医を至急呼ぶように伝える。
モレルの名が、受話器の向こうへ流れた。
ヒムラーは、総統へ深く頭を下げた。
「ご配慮に感謝申し上げます」
「まだ何も決めていない」
「承知しております」
ヒトラーは答えず、イギリス南部の地図へ視線を戻した。
先ほどまでの健康管理の話が、もう終わったようにも見える。だが、机の端には説明票が残っている。
ターニャは、その位置を確認した。
総統の右手が届く場所。
捨てられてはいない。
係官が内線を置いた。
「モレル医師は、ただちに参ります」
ヒトラーは、地図から目を離さずに頷いた。
ヒムラーが、ほんのわずかに微笑んだ。
勝利を示す笑みではない。
総統自身の命令で、モレルがこの部屋へ呼ばれた。
それだけを確認した者の表情だった。
ターニャは、革挟みを閉じなかった。
次に必要になるのは、柔らかい説明ではない。
モレル本人の前で、同じ目的を崩さずに言い切ることだった。
モレルが到着するまでには、少し時間がかかるらしかった。
係官が受話器を置いたあとも、ヒトラーは席へ戻らなかった。説明票のことを忘れたように、壁を占める地図の前へ歩いていく。
赤や青の印が入り乱れる大陸側ではなく、その目は海峡の向こうへ向いていた。
イギリス。
島そのものは、地図の上では大きくない。
だが、その背後には海がある。艦隊がある。世界各地の港と航路があり、植民地と自治領があり、ロンドンを通る金と保険と商船がある。
フランスを倒しただけでは、戦争は終わらない。
この島をどう扱うかで、その後の戦争の形が変わる。
ヒトラーは、イギリス南部の沿岸を指でなぞった。
「空軍は、南部の飛行場を叩けば、英国の戦闘機を追い詰められると言っている」
ターニャは答えを求められるまで黙っていた。
「だが、空軍は勝てると言う時ほど、勝ったあとの話をしない」
ヒトラーの声には、先ほどの不快さがわずかに残っていた。
それでも、モレルの話をしていた時とは別の熱がある。
地図を見ている間、この男は疲れて見えない。
目の前にまだ存在しない勝利を置き、それを見てきた出来事のように語る。聞く者は、どこからが予測で、どこまでが決定なのかを見失う。
「英国を破壊することはできる。だが、破壊したあと、その帝国を誰が動かす」
問いはヒムラーへ向いたように見えた。
ヒムラーは、すぐには答えなかった。
「総統閣下のお考えは、英国本土を完全に占領することではないと承知しております」
「占領は手段だ。目的ではない」
ヒトラーは振り返らない。
「ロンドンへドイツの役人を何万人送り込めば、大英帝国が動くと思う。インドも、アフリカも、中東も、海の向こうだ。英国人が百年かけて作ったものを、我々が一日で取り上げれば壊れる」
彼の指が、地図の外へ伸びた。
そこにはイラクも、インドも、マラヤも描かれていない。
だが、ヒトラーの声の中では、見えない地域まで同じ地図へ入っていた。
「英国人は海を支配することに慣れている。商船を動かし、保険を付け、港を結び、異民族を使って利益を持ち帰る。彼らはそれを帝国と呼ぶ」
そこで、ヒトラーは小さく笑った。
「捨てさせる必要はない。向きを変えさせればよい」
ターニャは、思わずヒトラーの横顔を見た。
声を張っているわけではない。
それでも、言葉が部屋を広げていく。
ベルリンの一室だった場所が、海峡から地中海、中東、インド洋まで続くような感覚がある。思いつきを並べているのではない。イギリス人の誇りすら、利用できる力として見ている。
単純な征服者の言葉ではなかった。
相手が大切にしているものを残し、その大切なものの向きを自分へ変えようとしている。
それができると、本人が信じている。
そして、話を聞いている側まで、できるのではないかと思わせる。
それが怖い。
「ターニャ・デグレチャフ」
突然、名を呼ばれた。
「はい」
「君は、英国人をどう見る」
問いが広すぎる。
軍人としてか。
民族としてか。
国家としてか。
ヒトラーは説明しない。
相手が何を選ぶかを見るための問いだった。
ターニャは、一度だけ言葉を整えた。
「総統閣下。現在のイギリスは、本土だけで戦っているのではございません。海運、海外拠点、資源供給、金融を一体として動かしております」
「続けろ」
「本土を焼き払えば、その仕組みを壊すことはできます。しかし、講和後に利用できる部分も失います」
ヒトラーが、ゆっくりとこちらへ向いた。
先ほどまでの不快さは消えていない。
だが、その目には別の光がある。
興味。
幼い士官がどこまで先を見ているのか、測ろうとする目だった。
「利用する?」
「はい。英国が講和に応じ、王室、内閣、議会を維持するのであれば、帝国圏の輸送と資源をそのまま残せます」
「英国人に、我々のために帝国を動かさせると言うのか」
「自分たちの帝国を守るために動かせます」
言い切る。
ヒトラーの眉がわずかに上がった。
「違いは何だ」
「ドイツへ従えと命じれば、屈辱になります。帝国を失いたくなければ協定を守れと示せば、英国側の利益として説明できます」
ヒトラーは黙った。
その沈黙は、拒絶ではない。
言葉を吟味している。
ターニャは続けた。
「英国本土の制度を残し、外交、軍事、港湾、飛行場、通信についてドイツの同意を要する形にします。反独組織への対処と警察協力も条件に入れます」
ヒムラーが、そこで静かに口を開いた。
「総統閣下、国内統治を英国政府へ残すなら、親衛隊が広い占領行政を抱える必要もございません。保安上の対象を絞り、英国側の警察機構を使えます」
「英国警察を、ドイツの敵に向けるのか」
「英国政府が講和を維持するのであれば、自国の秩序を守る行為として実施させられます」
ヒムラーは淡々としている。
しかし、その説明は明確だった。
王室を残す。
政府を残す。
議会も残す。
その代わり、国家の向きを決める部分だけを握る。
英国人が英国人を統治し、英国人の警察が反独運動を抑え、英国人の商船がドイツへ資源を運ぶ。
全面占領より、はるかに少ない負担で済む。
ヒトラーは、二人の言葉を聞きながら地図へ戻った。
「英国の植民地は従うと思うか」
「全てが同じようには動きません」
ターニャは、すぐに答えた。
「自治領は独自の政府を持っております。カナダ、オーストラリア、南アフリカまで、ロンドンの命令だけで従わせることは難しいでしょう」
「なら、帝国は使えん」
「いいえ」
否定したあと、ターニャはすぐに敬語へ戻した。
「失礼いたしました。全てを一度に握る必要はございません」
ヒトラーは、怒らなかった。
むしろ、続きを待っている。
「帝国圏の石油、ゴム、錫、港湾、商船は、同じ仕組みで動いているわけではありません。英国政府が直接強く管理する地域と、自治権を持つ地域を分けて扱うべきです」
「直轄植民地と自治領を分ける」
「はい。遠隔地の行政がロンドンの講和に従わない場合、現地ごとに圧力をかけます」
「ドイツ海軍をインド洋へ送るのか」
「その必要はございません」
ターニャは、東側の地図へ目を向けた。
正確な地域図は、今の壁にはない。
それでも、意図は伝わる。
「アジアでは、日本を使えます」
室内の空気が、わずかに変わった。
ヒトラーの顔から笑みが消える。
だが、不快ではない。
「日本」
「はい。日本は東アジアで、実際に軍事力を動かせる国家です。ドイツが直接届かない地域でも、日本なら現地政府と植民地当局へ圧力をかけられます」
「日本人に英国の帝国を渡すのか」
「渡すのではございません。従わない地域へ、ドイツの代わりに圧力をかけさせます」
「代償を求める」
「当然、求めるでしょう」
ターニャは、そこをぼかさなかった。
「ですが、ドイツが艦隊と兵力を送るより安く済みます。日本が欲する範囲と、英国側に残す範囲を切り分ければよろしいかと存じます」
ヒトラーは、数歩だけ歩いた。
その動きは落ち着いている。
だが、頭の中では別の地図が作られているように見えた。
「日本との協定を、イタリアを含む三国の枠へ広げる」
独り言に近い。
「ヨーロッパはドイツ。地中海はイタリア。東アジアは日本」
言葉にした瞬間、その構想が巨大になる。
単なる軍事同盟ではない。
世界を三つの圏へ分け、アメリカとソ連をその外へ押し出す形だった。
ヒムラーが、慎重に言葉を添えた。
「総統閣下、英国をその枠の敵として残すより、協定下の海洋国家として置く方が、アメリカへの牽制にもなります」
「アメリカ」
ヒトラーの声に、明らかな軽蔑が混じった。
「彼らは欧州へ口を出したがる。だが、自国民へ戦争の理由を説明できない」
「英国が独立した政府と王室を残し、正式に講和しているなら、アメリカがドイツへ直接介入する理由は弱くなります」
ターニャは、慎重に続けた。
「英国を救う、という名目が使えません。ドイツが英国本土を併合せず、英国政府が講和を受け入れた形であれば、アメリカ側は新しい理由を作らなければなりません」
「理由など、作るだろう」
「作ります」
即答した。
「経済制裁、航路、武器供与、世論工作。手段は残ります。ただ、いきなり戦争へ入るには弱い。少なくとも、時間は得られます」
ヒトラーは、そこで初めて満足そうに頷いた。
「時間か」
「はい。ドイツが必要としているのは、永久にアメリカを止めることではございません。次の決定を行うまで、介入の時期を遅らせることです」
ヒトラーの目が、鋭くなる。
この男は、時間という言葉を嫌わない。
自分が使う時間ならば、むしろ好む。
「英国と講和し、その帝国から石油と資源が流れ、アメリカは介入の旗印を失う。日本はアジアで英国植民地を従わせる」
ヒトラーが、ターニャの言葉を自分の言葉へ変えていく。
「日本とアメリカが衝突した場合はどうする」
問いは早かった。
ターニャは、一瞬だけ考えた。
「英国の不干渉を、講和条件へ入れるべきです」
「日本を見捨てるのか」
「英国を日本側へ参戦させない、という意味でございます。ドイツと日本の関係は別の協定で定めます」
「英国の港をアメリカへ使わせない」
「はい。補給、修理、情報提供を制限します。一方で、ドイツ向けの資源輸送と商取引は継続させます」
「日本が英国植民地を攻撃したら」
「そこは協定で境界を決めます」
ターニャは、答えを急がなかった。
「英国が講和後も保持する地域、日本の影響圏と認める地域、個別交渉へ回す地域を分けます。曖昧にすれば、先に現地で撃ち合いが始まります」
ヒトラーは笑った。
今度の笑いは、先ほどターニャへ向けた皮肉とは違う。
楽しんでいる。
世界を分け、動かし、相手がまだ知らない選択肢を先に並べる。その作業を楽しんでいる。
「君は英国を倒す前から、その植民地を分けるのか」
「勝ってから考えては遅れます」
ターニャは、丁寧に答えた。
「講和条件は、相手が弱った時に提示できなければ意味がございません」
「英国は講和すると思うか」
「条件次第でございます」
「逃げたな」
「確約できる材料がございません」
ヒトラーの笑みが深くなる。
「だが、可能性はあると思っている」
「はい」
「なぜだ」
「ダンケルクで戻った兵力は、無傷ではございません。フランスも失いました。イギリス空軍と艦隊が残っているため、すぐには屈しないでしょうが、戦争を続ける費用は増えています」
数字は出さない。
数字で説明すべき場面ではない。
ヒトラーが見ているのは、英国人が何を恐れ、何を守りたがるかだった。
「帝国を残せるなら、戦争継続より講和を選ぶ者は出ます」
「チャーチルは選ばない」
「はい」
「ならば、チャーチルを英国そのものにしてはならん」
ヒトラーは、低く言った。
その一言だけで、目的が変わる。
敵国を打ち倒すのではない。
敵国の中から、別の英国を引き出す。
「英国人全体へ、ドイツが彼らの帝国を奪うのではないと示す。チャーチルだけが、英国を破滅へ連れていくと見せる」
ヒトラーは、再び地図の前へ立った。
その背中に迷いはない。
今までターニャとヒムラーが出した断片を、自分の構想へ飲み込んでいる。
海運。
資源。
王室。
議会。
自治領。
日本。
アメリカ。
ばらばらだったものが、ヒトラーの言葉を通るとひとつの大きな意志に見える。
理屈だけなら、穴はいくらでもある。
英国政府が従う保証はない。
植民地が離反する可能性もある。
日本が約束通りに動くとも限らない。
アメリカが別の口実を作らない保証もない。
それでも、ヒトラーが語ると、その穴は可能性の隙間に変わる。
できない理由ではなく、次に押さえる場所へ変わる。
この男が人々を魅了した理由を、ターニャは理解した。
言葉がうまいからではない。
相手が見ている現実より、大きな現実を見せる。
そして、その大きな現実の中に、聞いている者の役割を与える。
空軍には英国の翼を折る役割。
海軍には海峡を閉じる役割。
親衛隊には講和後の秩序を作る役割。
日本にはアジアを押さえる役割。
英国人にすら、帝国を守る役割を残す。
誰もが、自分が必要だと思わされる。
同時に、そこから外れた者は未来そのものへ逆らう者に見える。
魅力と恐怖が、同じ場所にあった。
「爆撃はどうする」
ヒトラーが問うた。
「空軍は、ロンドンを叩けば英国人の意志を折れると言う者もいる」
ターニャは、すぐに答えなかった。
ここは重要だった。
史実を語ることはできない。
だが、危険な形は知っている。
「現段階では、都市そのものを目標にすべきではないと考えます」
ヒトラーの顔から、先ほどまでの楽しげな色が消えた。
「英国の首都を守れと言うのか」
「いいえ。英国の戦争継続能力を削るには、優先順位が違うと申し上げております」
「言ってみろ」
「戦闘機基地、整備拠点、燃料、通信施設、港湾、軍需工場。まず、イギリス空軍が飛び続けるために必要な場所へ集中すべきです」
「ロンドンは政治の中心だ」
「はい。ですが、首都への大規模爆撃は、英国民へ分かりやすい敵を与えます」
「既に我々は敵だ」
「政府にとっての敵と、国民一人ひとりにとっての復讐対象は違います」
ヒトラーは、何も言わない。
ターニャは、さらに言葉を選んだ。
「軍事施設を狙う限り、英国政府は敗北の理由を説明しなければなりません。都市を焼けば、チャーチルは怒りだけで国民をまとめられます」
「爆撃を恐れていると思われる」
「継続して飛行場を失う方が、イギリス空軍には深刻でございます」
ヒムラーが、静かに同意を示した。
「総統閣下、講和後の統治を考えるなら、反独感情を必要以上に広げない方が扱いやすいかと存じます」
「英国人の感情を気にするのか」
「利用できる感情は残すべきです」
ヒムラーは、ためらわなかった。
「ドイツ軍を恐れさせることと、全英国人へ復讐を誓わせることは別でございます。王室と政府を残すなら、彼らが国民へ講和を説明できる余地が必要です」
ヒトラーは、ゆっくりと頷いた。
「英国人には、負けたのではなく、帝国を守る選択をしたと思わせる」
「はい」
「チャーチルには、その選択を奪おうとしていると見せる」
「その形が有効かと存じます」
ヒトラーは、再び笑った。
今度は大きくない。
満足を隠さない笑いだった。
「首都を焼くのは簡単だ」
彼は言った。
「だが、焼け跡から英国人の帝国は動かん。飛行場を奪い、艦隊を港へ押し込み、食料と燃料の不安を広げる。そのうえで、帝国を残す道を示す」
言葉が続くたびに、空気が変わる。
戦場の説明ではない。
歴史の行き先を、自分の手で選んでいる男の声だった。
「彼らは二つから選ぶ。チャーチルと共に英国を失うか、ドイツと共に帝国を残すか」
そんなに単純ではない。
ターニャの理性は分かっている。
だが、その場で聞けば、単純に見える。
二つの道しかないように思える。
ヒトラーの恐ろしさは、複雑な現実を無視することではなかった。
複雑な現実の中から、自分に都合のよい二つだけを抜き出し、それ以外を弱者の迷いに見せることだった。
そして、選ばせる。
選ばせたあとで、自分が未来を予見していたように見せる。
ヒトラーは、ターニャを見た。
「君は、なぜそこまで先を見る」
問いは、先ほどまでとは違っていた。
責めているのではない。
純粋に興味を向けている。
それがかえって不気味だった。
「職務上、戦闘の後に何を残すかまで考える必要がございます」
「戦闘の後」
「はい。占領、講和、警察、輸送、資源。勝利後に動かせなければ、戦場で得たものを失います」
「君は軍人なのか、役人なのか」
「親衛隊の調整官でございます」
「答えになっていない」
ヒトラーは笑った。
「いや、それが答えか」
彼は、ターニャを上から下まで見た。
黒い制服。
小さな身体。
親衛隊少佐の階級。
ヒムラーの個人幕僚部と国家保安本部をまたぐ肩書き。
前線へ出れば軍人に見える。
会議室では役人に見える。
総統の前で英国帝国の資源と日本の軍事力を結びつければ、どちらにも見えない。
「奇妙な子供だ」
ヒトラーは、静かに言った。
声に嫌悪はない。
称賛とも言い切れない。
珍しいものを見つけた者の声だった。
「フランスで兵を動かし、ダンケルクで英国人を減らし、今度は英国の帝国を残せと言う」
「ドイツの利益になる形で、でございます」
「分かっている」
ヒトラーは、そこでヒムラーへ顔を向けた。
「君は、どこで見つけた」
「総統閣下。本人の成果が、こちらへ届きました」
ヒムラーは、穏やかに答えた。
「私が作った者ではございません」
「作れるものではないか」
「はい」
ヒムラーの口元に、微かな笑みがあった。
自分の配下が総統の興味を引いた。
その満足を隠しながら、所有を主張しすぎない。
ヒムラーもまた、総統の前での立ち位置を知っている。
「ターニャ・デグレチャフ」
ヒトラーが名を呼ぶ。
「はい」
「英国を倒したあと、君の言う形を試す価値はある」
「恐れ入ります」
「まだ勝っていない」
「はい」
「だが、勝ったあとを考えない者に、勝利は使えん」
ヒトラーは地図へ手を伸ばした。
「飛行場を叩く。戦闘機を地上へ縛る。港と軍需を削る。だが、英国人全体を敵にする爆撃は急がない」
命令ではない。
まだ構想だ。
しかし、この男が口にした時点で、周囲は命令の前触れとして受け取る。
ヒムラーが、深く頭を下げた。
「空軍側への整理が必要であれば、関係部署へ伝達いたします」
「まだ待て。空軍の意見も聞く」
「承知いたしました」
「だが、首都を焼けば勝てるという者には、勝ったあと何を支配するのか聞け」
「はい」
ヒトラーは、ターニャへ目を戻した。
「英国への講和案も考えろ」
ターニャは、一瞬だけ息を止めた。
「私が、でしょうか」
「君が言い出した」
「承知いたしました」
「王室も議会も残す。だが、軍事と外交は自由にさせない。港、飛行場、通信、警察協力も必要だ」
「はい」
「帝国の資源と航路を、どうドイツへ結ぶか。日本とアメリカをどう扱うかも入れろ」
「条件ごとに分けて整理いたします」
「数字だけを並べるな」
ヒトラーは、少し笑った。
「英国人が受け入れられる顔を作れ。彼らは自分たちが支配されると思えば戦う。帝国を守ると思えば、取引する」
「承知いたしました」
ターニャは、最上段の礼で受けた。
内心では、仕事が増えたことを理解する。
総統の健康管理を通すために来た。
なぜ、英国講和後の帝国管理案まで持ち帰ることになるのか。
(何でこうなる!?)
叫びたい気分は、外へ出さない。
出せば、総統に面白がられるだけだ。
ヒムラーは、横で静かに微笑んでいる。
助ける気はなさそうだった。
むしろ、この場でターニャの価値が上がったことを歓迎している。
それがまた厄介だった。
ヒトラーは、もう一度イギリスの地図を見た。
その背中は、先ほどモレルの話で不快を示していた男と同じには見えない。
大陸を手に入れ、次に海の帝国をどう曲げるかを考えている。
自分が選べば世界が変わると、疑っていない。
その確信が、人を惹きつける。
失敗の可能性を忘れさせる。
彼のそばにいる者は、自分も歴史の中心に立っているように感じるのだろう。
ターニャでさえ、一瞬だけその感覚に触れた。
この男の構想が正しく運べば、英国を破壊せずに屈服させ、大英帝国の海運と資源をドイツのために残せる。
アメリカの介入を遅らせ、日本をアジアの圧力として使える。
ヨーロッパの戦争を、海の向こうまで再編できる。
不可能とは言い切れない。
だから危険だった。
荒唐無稽なら、誰も従わない。
現実に触れる部分があるから、人は残りの危険まで飲み込む。
ヒトラーは振り返り、穏やかに言った。
「君の話は、モレルの話より面白かった」
ターニャは、返答に迷わなかった。
「恐れ入ります。ただ、健康管理の件も御判断を賜る必要がございます」
一瞬、ヒムラーの微笑が深くなった。
ヒトラーは、目を細めた。
そして、笑った。
声を上げるほどではない。
だが、今度は明らかな笑いだった。
「忘れていない」
笑みが消える。
「英国を動かす前に、私を役所へ入れたいのだったな」
「総統閣下を役所へ入れる意図はございません」
「分かっている。言葉通りに取るな」
「失礼いたしました」
ヒトラーは椅子へ戻った。
先ほどより機嫌はよく見える。
だが、それが安心につながらない。
彼の感情は、周囲が理解したと思った瞬間に向きを変える。
魅了した次の瞬間に、不快を戻す。
未来を語った直後に、個人の忠誠を問う。
聞く側は、その変化についていくため、自分から彼の意図を探し始める。
それもまた、支配の形だった。
廊下の向こうで、足音が近づいた。
急いでいる。
医務側の者らしい柔らかい靴音と、革鞄の金具が触れる小さな音。
ヒトラーの表情が変わった。
先ほどまで世界を三つの圏へ分けていた男が、信頼する医師を待つ患者の顔へ戻る。
だが、その目の奥には、先ほどの熱がまだ残っている。
係官が扉の前で声を低くした。
「モレル医師が到着いたしました」
ヒトラーは、ターニャの説明票へ一度だけ目を落とした。
「入れろ」
ヒムラーの微笑は、もう消えていた。
ターニャも革挟みへ手を置く。
英国の帝国をどう残すかという話は、一度、扉の外へ退いた。
次に入ってくるのは、世界の資源ではない。
総統の身体を、自分だけが知っていると信じる男だった。
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イギリス戦方面
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