扉が開くより先に、モレルの到着は分かった。
廊下で係官が声を落とす。返す声は、それより大きい。急な呼び出しを受けた者の不安を隠すように、言葉数だけが増えていた。
やがて、総統執務室の扉が内側へ開いた。
モレルは鞄を提げたまま入ってきた。
診療へ呼ばれたつもりなのだろう。手には薄い手袋を持ち、上着の内側から薬品の匂いがわずかに漂っている。歩調は急いでいたが、ヒトラーの姿を認めると、表情をすぐに整えた。
「総統閣下、お加減がすぐれないのでしょうか」
声には心配がある。
同時に、自分だけが呼ばれるべき場所へ来たという確信もあった。
ヒトラーは椅子に座ったまま、モレルを見上げた。
「いや。体調の話ではない」
「では、何かございましたか」
「この者たちが、君に補助医を付けたいと言っている」
モレルの顔から、作った笑みが一瞬だけ消えた。
視線がヒムラーへ移る。
次にターニャへ落ちる。
最後に、机の端へ置かれた説明票へ止まった。
「補助医、でございますか」
「そう書いてある」
ヒトラーの返答は淡々としていた。
だが、面白がっているようにも聞こえる。
自分の信頼を得ている個人医と、そこへ手順を入れようとする親衛隊。その両方を同じ部屋へ置き、互いの出方を見ようとしている。
モレルは、すぐには説明票へ手を伸ばさなかった。
「私の診療に、何か問題があったのでしょうか」
「それを私に聞くな」
ヒトラーは、ターニャへ目を向けた。
「説明した者に聞け」
部屋の視線が集まる。
ターニャは、一歩だけ前へ出た。
「モレル医師の診療内容を疑う案件ではございません。対英戦準備に伴い、総統閣下の日程が増加するため、診療と記録の補助体制を追加する提案です」
モレルの眉が寄った。
「私一人では足りない、とおっしゃるのですか」
「一名へ診療、薬品管理、記録、関係者への伝達が集中しております。負担を分けます」
「負担だとは感じておりません」
「感じておられるかどうかとは別の問題です」
ターニャは、声を強めなかった。
モレルの表情だけが硬くなる。
「別の問題?」
「はい。担当者が負担を訴えていなくても、引き継げる状態は必要です」
「私は総統閣下のお体を知っています」
「承知しております」
「毎日の状態を見ています。食事、睡眠、胃の調子、声、疲労の出方。長い会議のあとに何が必要かも、私が一番よく分かっている」
「その知識を残していただくための補助です」
モレルは、そこで初めて露骨にターニャを見た。
目の前の少女が、自分の経験を褒めているのか、奪おうとしているのか測りかねている。
「私の知識は、書類へ移せば同じになるものではありません」
「同じにする必要はありません」
「では、何のために書くのです」
「次に処置する際、前回何をしたかを正確に確かめるためです」
「私は覚えています」
「疑っていません。残すだけです」
ターニャの返答が短くなった。
言葉遣いだけは崩さない。
だが、モレルへ向ける説明から、余分な飾りを落とした。
モレルは、不快そうに口を結んだ。
ヒトラーが、その様子を見ている。
モレルをかばうでもなく、ターニャを止めるでもない。わずかに身を前へ傾け、二人の間にあるものを楽しむような目をしていた。
「モレル」
ヒトラーが呼んだ。
「はい、総統閣下」
「君は記録を付けていないのか」
「もちろん付けております」
モレルは即答した。
「必要な処置は全て残しております。私の手元には、総統閣下の体調を継続して見た記録がございます」
「なら、補助医に見せても困らないのではないか」
「困るということではございません」
モレルの返答が、わずかに遅れた。
「ただ、医療記録は、外部の者が一部だけ見ても正しく理解できません。薬品名や量だけを抜き出しても、その日の体調、前後のご予定、食事、精神的な疲労を知らなければ意味が変わります」
「それは正しい」
ヒトラーは、簡単に同意した。
モレルの顔に、少しだけ余裕が戻る。
だが、ヒトラーは続けた。
「だからこそ、それも書けばよい」
余裕が消えた。
「総統閣下」
「君にしか分からないことが多いというのなら、君にしか分からないままにする理由はない」
穏やかな声だった。
責めてはいない。
それでも、拒否を許していない。
ヒトラーは、モレルの経験を認めた。その直後に、その経験を残す責任を本人へ返した。
ターニャは黙っていた。
彼女が言えば、親衛隊の要求になる。
総統が言えば、信頼する医師への期待になる。
同じ内容でも、重さが違う。
ヒトラーは、その違いを直感で理解している。
あるいは、相手の逃げ道を塞ぐ言葉を自然に選んでいる。
モレルは、説明票へ視線を落とした。
「どのような記録を求めておられるのですか」
問いはヒトラーへ向けたものだった。
しかし、ヒトラーは答えない。
指先だけをターニャへ向けた。
「彼女の案だ」
モレルが、再びターニャを見る。
「薬品の正式名称、使用量、単位、処置時刻、残量、保管場所、立会者です」
「診察をしたことのない方には、簡単に見えるのでしょう」
「簡単だとは申し上げておりません」
「総統閣下の診療は、役所の倉庫管理ではありません」
「はい。ですから、私は処方に口を出しておりません」
「ですが、親衛隊が私の鞄と薬品を調べようとしている」
「総統閣下の警護区域へ入る物品を確かめます」
「私は何年も出入りしています」
「過去の出入りが、今後の確認を不要にする理由にはなりません」
モレルの口元が引きつった。
「私を信用していないのですか」
また、信用という言葉へ戻る。
ターニャは、そこへ乗らなかった。
「個人への信用と、警護手順は分けます」
「総統閣下の信頼も、ですか」
「総統閣下のご信頼を理由に、警護側が確認を放棄することはできません」
言ったあとで、室内の温度が下がったように感じられた。
ヒトラーの目が、ターニャへ向く。
モレルも黙る。
ヒムラーだけが動かなかった。
総統の信頼。
それは、この部屋で最も強い札だった。
モレルは、その札を使った。
ターニャは、否定しなかった。
ただ、その札でも消せない職務を置いた。
ヒトラーは、ゆっくりと口を開いた。
「私が信用していると言っても、確認するのか」
「はい」
ターニャは頭を下げた。
「総統閣下をお守りする役目を与えられた者が、信頼だけを理由に確認を省けば、職務を果たしたことになりません」
「私の判断が間違っていると言いたいのではないな」
「そのような意図はございません。ご判断の対象と、警護側の処理は別でございます」
「言葉を分けるのが好きだな」
「混ぜると、誰が何を決めたのか分からなくなります」
ヒトラーは、しばらくターニャを見た。
怒りは見えない。
笑みもない。
それでも、目を逸らせない。
こちらの返答を聞いているというより、返答の奥へ手を入れようとしている。忠誠か。恐怖か。野心か。何を動力にして、この少女が自分の前で言葉を引かないのか。
やがて、ヒトラーは小さく笑った。
「ヒムラー」
「はい、総統閣下」
「この子は、君にも同じように言うのか」
ヒムラーの口元に、控えめな微笑が浮かんだ。
「必要と判断した場合は、私にも申し上げます」
「腹が立たないのか」
「結果が正しければ、問題ございません」
ヒトラーは、少し意外そうにヒムラーを見た。
ターニャも横目で上官を見た。
それは、明確な擁護だった。
ヒムラーは、総統の前で自分の配下を売り込まない。成果を本人のものとして扱い、必要な時だけ後ろから支える。
だが今は、ターニャが自分にも不都合なことを言える者だと認めた。
信頼していなければ言えない。
「随分と気に入っているようだ」
「有能な部下を信頼することは、組織に必要でございます」
「子供だぞ」
「年齢を理由に成果を捨てる方が、損失かと存じます」
ヒムラーは、落ち着いて答えた。
ヒトラーの笑みが少し深くなる。
「君も言うようになった」
「総統閣下からお預かりした任務を、確実に処理するためでございます」
ヒムラーは、最後を忠誠へ戻した。
ターニャを守りながら、自分が総統の下にいることを崩さない。
巧い。
総統の前で生き残ってきた男の言葉だった。
モレルは、そのやり取りへ入れない。
自分の診療をめぐる話だったはずが、いつの間にか総統、ヒムラー、ターニャの間で、職務と信頼の話へ変わっている。
彼は鞄の持ち手を握り直した。
「総統閣下。私は、親衛隊が医療へ介入することを心配しております」
ヒトラーの視線が戻る。
「この子は介入しないと言っている」
「最初は記録だけでも、次は薬品、その次は処置内容となります」
「そうなるのか」
問いはターニャへ飛んだ。
「総統閣下のご裁可なしに、範囲を広げることはございません」
「広げる必要が出る可能性はある」
「必要性が生じた場合は、改めてご報告いたします」
ヒトラーの目が細くなる。
「否定しないのだな」
「将来の状況を見ずに否定することはできません」
モレルが何か言いかけた。
だが、ヒトラーが先に笑った。
「正直だ」
笑いながらも、声には冷たさがある。
「皆、私の前では将来も変わらないと言いたがる。君は、変えるかもしれないと言う」
「必要がなければ変えません」
「必要なら変える」
「はい」
「誰が必要だと決める」
「私が確認し、ヒムラー閣下へ報告し、総統閣下のご判断を仰ぎます」
結論。
経路。
決裁者。
ターニャは、迷わずそこへ落とした。
ヒトラーは、指で机を二度叩いた。
「よい」
一言だった。
何がよいのかは説明しない。
答えか。
経路か。
あるいは、自分が最後に決めるという確認か。
誰も聞き返さなかった。
モレルは、少し前へ出た。
「ですが、総統閣下の体質を理解しているのは私です。外から来た医者に、同じことはできません」
「同じことをさせるとは申し上げておりません」
ターニャが答えた。
「なら、補助医は何をするのです」
「あなたが行った処置を、次に読める形へします」
「私の記録は読めます」
「別の医師が同じように読めるかを確認します」
「その医師は誰です」
「カール・ブラント医師です」
名前が出た瞬間、モレルの顔が変わった。
知っている。
当然だった。
総統周辺に出入りし、親衛隊の階級を持ち、医療行政でも名を知られている。単なる若い医師ではない。
「ブラント?」
「はい」
「彼が外にいるのですか」
「控えております」
「私に知らせずに?」
「総統閣下のご判断が先です」
「私の診療記録を、既に見せたのですか」
声が大きくなる。
ヒトラーの表情がわずかに変わった。
モレルは、それに気づいて音量を落とした。
「失礼いたしました。しかし、私の許可なく医療記録を外部へ出されたのであれば、看過できません」
「抜粋を、限定範囲で確認させました」
「私の許可は」
「取っておりません」
「では、無断ではありませんか」
「警護記録と薬品搬入記録を含むため、モレル医師のみの管理対象ではございません」
「診療内容が書かれている」
「診療内容の評価は禁じました」
「禁じたからよいという話ではない!」
モレルの声が跳ねた。
今度は、はっきりとヒトラーが眉を動かした。
モレルは口を閉じる。
総統の前で自制を失った。
それ自体が、小さな失点だった。
ターニャは追わなかった。
追えば、勝ちに行っているように見える。
ここで必要なのは、モレルを言い負かすことではない。補助医を入れることだ。
ヒトラーは、モレルへ静かに尋ねた。
「見せて困る内容があるのか」
「ございません」
「なら、なぜ怒る」
「私の診療を、事情を知らない者が評価することを危惧しております」
「評価しないと言っている」
「言葉では、です」
「モレル」
ヒトラーの声が低くなった。
モレルの背が、わずかに縮んだように見えた。
「私は君を信頼している」
「はい、総統閣下」
「だからこそ、今ここへ呼んだ」
「光栄でございます」
「私が聞きたいのは、親衛隊が嫌いかどうかではない。君の記録を、他の医者が読めるかどうかだ」
ヒトラーは、モレルの逃げ道を一つずつ狭めた。
信頼を先に与える。
そのあとで、答えるべき問いを限定する。
モレルは、総統への忠誠を示すために、問いへ答えなければならなくなる。
「読めます」
モレルは言った。
「必要な医学知識があれば、理解できます」
「なら、ブラントに読ませろ」
「総統閣下」
「君は読めると言った」
「はい。しかし、全体を見なければ誤解が生じます」
「では、全体を見せればよい」
モレルは、返答を失った。
ヒトラーの論理は単純だった。
単純だから強い。
複雑な事情を述べるほど、モレルが何かを隠そうとしているように見える。
ターニャは、そのやり取りを見ながら、総統が人を魅了する理由とは別の恐ろしさを感じていた。
彼は相手の言葉を覚えている。
そして、相手が自分で作った逃げ道を、同じ言葉で塞ぐ。
怒鳴る必要はない。
信頼すると言い、次に従わせる。
相手は拒否すれば、その信頼を裏切ることになる。
この部屋で忠誠を求められた者が、どうして逆らえる。
「ブラントを入れろ」
ヒトラーが命じた。
係官がすぐに動く。
モレルは、まだ何かを言いたそうだった。
だが、総統の命令が出たあとで止めれば、補助医ではなく総統の意思へ逆らうことになる。
ヒムラーは、黙ってターニャを見た。
視線は一瞬だけだった。
よく通した。
言葉にしなくても、そう受け取れる。
ターニャは小さく頭を下げた。
ヒムラーの信頼は、前より明確になっている。
これまでは、役に立つ部下への評価だった。
今は、総統の前へ出しても崩れず、必要な結果を持ち帰れる者として見られている。
喜ぶべきなのだろう。
だが、総統から英国の講和案まで命じられた直後である。
評価が増えるたびに仕事も増える。
(何で評価と負担が同じ方向に動くんだ)
内心だけで吐き捨てた。
係官が控室へ向かう。
その間も、ヒトラーはモレルから目を離さなかった。
「君はブラントを嫌っているのか」
「個人的な感情ではございません」
「皆、そう言う」
「医療の考え方が違います」
「どう違う」
「彼は行政を重く見ます。私は患者を見ます」
モレルは、今度こそ自信を取り戻したように答えた。
「総統閣下のお体は、一覧表でも規則でもありません。その日の状態に合わせ、必要なものを必要な時に使う。長く拝見してきた私だからできます」
「ブラントにはできない」
「同じようにはできません」
ヒトラーは、ターニャへ目を向けた。
「君はどう思う」
「同じ役割を求めておりません」
「モレルは患者を見る。ブラントは何を見る」
「モレル医師が行った処置を、次へ渡せる形にします」
「患者を見ない医者を、私のそばへ置くのか」
前半で問われた内容に近い。
だが、今度はモレル本人がいる。
同じ返しでは足りない。
「総統閣下を診る医師は、モレル医師でございます。ブラント医師には、モレル医師の経験が途切れないよう支えさせます」
「二人で一人分か」
「役割を分けます」
「仲良くできると思うか」
「必要な範囲を命じます」
ヒトラーは、声を立てずに笑った。
「友情は要らないと言うのだな」
「職務が進めば足ります」
モレルが、さらに不快そうな顔をした。
ヒムラーの微笑は、ほんの少しだけ残っている。
総統も、その答えを嫌ってはいない。
人間関係を美しく語らず、必要な役割だけを置く。冷たい。だが、分かりやすい。
「君は徹底している」
「恐れ入ります」
「褒めたつもりではない」
「失礼いたしました」
「だが、嫌いではない」
ヒトラーは、何気なく言った。
その一言で、室内の空気が変わった。
ヒムラーの視線が静かに細まる。
モレルはターニャを見た。
総統の好意。
それは命令書より早く広がる。
正式な権限ではない。
だが、周囲の扱いを変えるには十分だった。
ヒトラーは、その影響を理解しているのか。
理解していて言ったのか。
分からない。
分からないまま、相手の立場だけが変わる。
ターニャは深く頭を下げた。
「身に余るお言葉です」
「余計な忠誠の言葉は要らん。結果を出せ」
「はい」
短く答える。
ここで長く語れば軽くなる。
ヒトラーは、既に興味を次へ移していた。
廊下から、今度は揃った足音が近づく。
ブラントだ。
扉の前で止まり、係官が入室を告げる。
「カール・ブラント医師が参りました」
「入れ」
扉が開く。
ブラントは、フィールドグレーの開襟型制服で入ってきた。白衣は着ていない。親衛隊中佐の階級章が、医師である前に組織の人間であることを示している。
鞄は持っていない。
控室に置いてきたのだろう。
必要のない物を、総統の前へ持ち込まない判断だった。
ブラントは敬礼し、総統へ挨拶した。
ヒトラーは、形式的な言葉を短く受けた。
「ブラント。モレルの記録を見たそうだな」
「はい、総統閣下。限定された抜粋のみ確認いたしました」
「どうだった」
ブラントは、モレルへ視線を向けなかった。
先に総統へ答える。
「診療の正否は判断しておりません」
「それは聞いていない」
「では、記録について申し上げます」
ブラントは、声を変えなかった。
「いつ、何を、どれだけ使ったのか。それが分からないと、次の処置ができません」
モレルが、すぐに割り込んだ。
「分からないのではない。君が前後の事情を知らないだけだ」
ブラントは、そこで初めてモレルを見た。
「前後の事情が必要であれば、それも記録すべきです」
「患者は毎日変わる。全てを文字にできると思うのか」
「全ては不要です」
「では、何を残す」
「次に処置する医師が、同じ薬品を重ねてよいか判断できる情報です」
「私が次も処置する」
「必ず、とは言えません」
モレルの顔が赤くなる。
「私を外すつもりか」
「私は、その判断をする立場にありません」
ブラントは、動じなかった。
「ですが、医師が一人しか読めない記録は、引き継ぎには使えません」
「私には経験がある」
「経験があるなら、記録できるはずです」
鋭い返答だった。
声は穏やかで、嫌味もない。
だからこそ逃げにくい。
経験がある。
その経験を盾にするなら、残せる。
残せないなら、それは他者へ渡せる経験ではない。
モレルは口を開いたまま、一瞬止まった。
ヒトラーが、ブラントを見た。
先ほどターニャを測った時とは違う。
医師として使えるかを見ている。
「君はモレルの治療を間違いだと思うのか」
「判断材料が足りません」
「逃げるのか」
「いいえ。分からないことを、正しいとも誤りとも申し上げないだけです」
ヒトラーの目に、興味が浮かんだ。
「モレルは私をよく知っている」
「承知しております」
「君よりもだ」
「はい」
「それでも補助できるのか」
「モレル医師の経験を、私が代わりに持つことはできません。ただ、経験が記録へ残るよう整えることはできます」
ターニャは、ブラントの答えを聞きながら、前半で選んだ人物が間違っていなかったことを確かめた。
自分を大きく見せない。
モレルを全面否定しない。
できることと、できないことを分ける。
その上で、記録の不足だけは譲らない。
ヒトラーは、しばらくブラントを見たあと、ターニャへ顔を向けた。
「君が選んだ理由は、これか」
「はい。診療の評価と、記録の整備を分けられる医師です」
「二人とも、分けるのが好きだな」
「混ぜたままでは、争いになります」
「もう争っているように見えるが」
「論点は明確になりました」
ヒトラーが笑った。
今度は短くない。
楽しげですらあった。
総統の笑いにつられ、係官の表情まで少し緩む。
ヒムラーも控えめに微笑んだ。
モレルだけが、笑わない。
人を引き込む笑いだった。
その場にいる者へ、自分もこの会話の一部だと思わせる。先ほどまでの緊張が、総統の一笑で別の空気へ変わる。
だが、モレルには逃げ道がないままだ。
ヒトラーのカリスマは、場を温める。
同時に、誰をその温かさの外へ置くかを決める。
今、モレルは半歩だけ外にいる。
ヒトラーは笑みを残したまま、ターニャへ言った。
「それで、君はこの二人をどう使う」
ターニャは、待っていた問いへ答えた。
「モレル医師には、従来どおり診療を継続していただきます。ブラント医師には補助記録を担当させます」
「それだけか」
「まず、役割を確定します」
「期限は」
「本日中に運用案を整え、明朝から開始できます」
「早いな」
「遅らせる理由がございません」
ヒトラーの笑みが、わずかに深くなる。
ヒムラーがターニャを見る。
そこには、前よりはっきりした信頼があった。
総統の前で問われても、ターニャは結論を役割と期限へ戻す。ヒムラーが望んだ通りだった。
だが、決定はまだ足りない。
注射剤。
薬品搬入。
立会者。
写し。
鍵。
それらを、どの順で総統へ出すか。
ターニャは、革挟みの奥にある内部案を思い出した。
全部を一度に口にすれば、モレルは反発する。
だが、総統が今、話を聞く姿勢を見せている。
機会を逃せば、次はないかもしれない。
ヒトラーは、机へ指を置いた。
「続けろ」
声から笑みが消えた。
命令だけが残る。
ターニャは、頭を下げた。
「承知いたしました」
ターニャは、革挟みの奥から実施案を取り出した。
総統へ最初から見せる予定のなかった一枚だった。表向きの説明票より項目が多く、言葉も硬い。だが、ここまで話が進んだ以上、曖昧なまま終える方が危険だった。
ヒトラーの視線が、その動きを追う。
「隠していたのか」
「最初のご説明には細かすぎると判断いたしました」
「私に見せられない内容ではないのだな」
「はい。実施条件でございます」
ターニャは、机の端へ文書を置いた。
モレルが、覗き込むように首を伸ばす。
ブラントは動かない。
ヒムラーの表情も変わらなかった。ただ、ターニャがどこから話を始めるかを見ている。
「第一に、ブラント医師を補助医として配置します。モレル医師の診療は、これまでどおり継続していただきます」
ヒトラーは頷かなかった。
反対もしない。
「第二に、注射剤を使用する場合は、医療補助者または指定された立会者を一名置きます」
モレルが口を開いた。
「それでは緊急時に遅れます」
「緊急時は例外とします」
ターニャは即座に返した。
「ただし、処置後に理由、時刻、薬品名、使用量を記載していただきます」
「患者を前にして記録のことを考えろと?」
「処置中ではありません。処置後です」
「私は忙しい」
「筆記は補助者が行えます。モレル医師には、内容をご確認いただきます」
モレルの視線が、ブラントへ向く。
「彼に私の後ろへ立たせるのですか」
「毎回ブラント医師が立ち会うとは申し上げておりません」
「では誰です」
「医務側、警護側、侍従側から、状況に応じて指定します」
「医者でもない警護員を、診療室へ入れるつもりですか」
「薬効を判断させるのではありません。搬入された薬品と、使用された薬品が一致するかを確かめます」
モレルは、顔をヒトラーへ向けた。
「総統閣下。診療室に人が増えれば、落ち着いた診察ができません」
ヒトラーは、頬杖をつくこともなく、両手を机の上へ置いていた。
視線だけがモレルからターニャへ移る。
「常に人を置く必要があるのか」
「ございません」
「なら、いつ置く」
「注射剤の使用時です。通常の診察や問診には求めません」
「錠剤は」
「現段階では対象外とします」
「なぜ分ける」
「注射剤は、その場で投与され、あとから回収できないためでございます」
ヒトラーは、自分の腕へ一瞬だけ目を落とした。
その動きは小さい。
だが、モレルがすぐに前へ出た。
「総統閣下へ使用している注射は、全て体調に応じて選んでおります。危険なものではございません」
「危険だとは言っていない」
ヒトラーの返答は穏やかだった。
モレルの足が止まる。
「彼女は、見ていた者を残せと言っている。違うか」
「はい」
ターニャは答えた。
「薬品の危険性を論じるのではございません。誰が、何を、いつ確認したかを残します」
ヒトラーは、モレルへ視線を戻した。
「それで治療が遅れるのか」
「立会者がすぐに来ない場合は、遅れる可能性がございます」
「すぐ来るようにすればよい」
「総統閣下のご予定は、常に一定ではございません」
「だから、警護員がいるのだろう」
モレルは答えられなかった。
総統本人が、警護側の立会いを理由として認めた。
ターニャが押し込むより早い。
ヒトラーは、自分が出した結論を他人へ説明しない。言葉にした時点で、その場の前提を塗り替える。
先ほどまで医療へ人を入れることは、診療の邪魔だった。
今は、すぐ近くにいる警護員を一人使えば済む話になった。
複雑さが、彼の一言で消えたように見える。
実際には、立会者の選任、教育、秘密保持、交代、記録方法が必要になる。だが、それらは後から整えればよい。
決裁者が「できる」と言えば、組織はできる形を探す。
それが国家だった。
「緊急時には、処置を優先します」
ターニャは念を押した。
「立会者不在を理由に、必要な診療を止めるものではございません」
ヒトラーが、わずかに笑う。
「君は逃げ道も先に作るのだな」
「診療を妨げない条件で上げております」
「よい。次は」
許可に近い。
だが、ターニャはそこで礼を述べなかった。全項目が終わっていない。
「第三に、総統閣下の警護区域へ持ち込まれる薬品は、搬入時に警護班が外装、数量、搬入者を確かめます」
モレルの呼吸が、目に見えて深くなった。
「私の鞄を開けるのですか」
「鞄そのものを毎回検査するのではありません。持込目録と内容を合わせます」
「同じことです」
「違います。私物を調べるのではなく、薬品の出入りを見ます」
「医薬品は私の診療道具です」
「総統閣下の警護区域へ入った時点で、警護対象にもなります」
「親衛隊は薬の名前も分からないでしょう」
「名称の確認は医務側が行います。警護班は、封緘、数量、搬入者、持込時刻を扱います」
モレルは、ヒムラーへ顔を向けた。
「全国指導者。これは、私を密輸業者のように扱う話ではありませんか」
ヒムラーは、静かな微笑を崩さなかった。
「そのようには考えていない。総統閣下へ近づく物品を記録するのは、警護上当然のことだ」
「これまでは問題なく行ってきました」
「それは、今後も確認を省く理由にはならない」
ヒムラーの言葉は柔らかい。
しかし、ターニャよりさらに逃げ道がなかった。
部下が提案した線を、上官が親衛隊の職務として受け取る。これで、ターニャ個人の発案ではなくなった。
モレルが反論するなら、少女の調整官ではなく、親衛隊全国指導者の警護判断へ反対することになる。
ヒムラーは、それを声高に示さない。
微笑んだまま、立場だけを置いた。
総統の前で見せる親衛隊の微笑とは、こういうものなのだろう。
好意に見える。
だが、後ろでは扉が閉じている。
「総統閣下」
モレルは、再びヒトラーへ向いた。
「私が持ち込む薬品は、その日の状態へ合わせております。事前に全てを決めることはできません」
「事前に決めろとは言っていない」
ヒトラーが答えた。
「持ってきたものを書けと言っている」
「種類が多い場合もございます」
「なら、多いと書けばよい」
単純な返答だった。
室内に短い沈黙が落ちる。
モレルが並べた医療上の複雑さを、ヒトラーは理解していないわけではない。
理解する必要を感じていない。
持ち込んだものを書け。
その結論だけで十分だと考えている。
人は、総統がそう言えば、複雑な事情の方を後ろへ下げる。
それは理屈の勝利ではない。
権威だけでもない。
ヒトラーは、相手が反対しにくい単純な形へ話を縮める。聞いている者には、自分まで余計なことを難しく考えていたように感じさせる。
そして、自分の言葉に従うことが、最も自然な選択へ見えてくる。
恐ろしい能力だった。
「持込目録は、モレル医師の補助者に作らせます」
ターニャは続けた。
「警護班は受領のみです。診療前に長く止めません」
「どの程度かかる」
ヒトラーが問う。
「通常であれば、数分以内に終えます」
「一分でやれ」
言い切られた。
ターニャは、ほんの一瞬だけ考えた。
無理ではない。
事前に書式を作り、モレル側が記載済みの一覧を持参し、警護班は封緘と数量だけを見る。名称はあとから医務側へ回す。
「事前記載を条件にすれば可能です」
「なら、そうしろ」
「承知いたしました」
モレルが、困ったように笑った。
「総統閣下。診療のために急いでいる時に、一覧を書く余裕があるかどうか」
「君が書く必要はない」
「ですが、私の薬品です」
「補助者に書かせろ。補助が必要だと言われた理由を、自分で増やすな」
ヒトラーの声には怒気がない。
それでも、モレルの笑顔はその場で止まった。
逃げようとして差し出した言葉が、補助体制を正当化する材料として返ってきた。
ターニャは、総統の横顔を見た。
即興なのだろうか。
それとも、最初からここまで考えていたのか。
分からない。
この男の前では、偶然の一言まで計算に見える。
人々が勝手に意味を見出す。
そして、その意味に従う。
「第四に、診療記録の写しを、指定された保管先へ送付します」
ターニャは、語尾まで慎重に置いた。
モレルが、すぐに反応する。
「保管先とは、どこです」
「国家保安本部です」
「医療記録を秘密警察へ渡すのですか」
「国家保安本部は、秘密警察だけではありません」
ターニャの返答が短くなる。
「警護と保安に必要な限定資料として扱います。閲覧者は指定します」
「総統閣下の体調が、警察文書になる」
「診断内容を広く流すのではありません。薬品名、処置時刻、数量、立会者、署名者の控えです」
「それも医療記録です」
「同時に、総統警護に関わる記録でもあります」
モレルは、今度こそ露骨にヒムラーを見た。
「全国指導者は、本当にこれを認めるのですか」
「認める」
ヒムラーは、一言で答えた。
微笑は残っている。
「総統閣下の健康に関する情報が、不必要に広がることは許さない。だからこそ、指定された保管先で扱わせる」
「私の手元に置く方が安全です」
「君一人の手元にしかない状態を、今問題にしている」
ヒムラーの声は穏やかだった。
だが、言葉は鋭い。
ターニャが積み上げた論点を、そのまま自分の判断として使っている。
総統の前で、ヒムラーはターニャの仕事を引き取っていた。
責任を奪うのではない。
部下の提案を、上官の権限で守っている。
それが信頼の形だった。
ターニャが一人でモレルと争っているのではない。
親衛隊の取り決めを、ターニャが説明している。
その位置へ上げられた。
評価としては望ましい。
将来の仕事量を考えなければ。
「閲覧者は誰だ」
ヒトラーが尋ねた。
「当面は、ヒムラー閣下の指定者、国家保安本部側の照合担当、私、セレブリャコーフ少尉に限定いたします」
「ブラントは」
「医療上必要な範囲のみ、私を通して閲覧させます」
「モレルは自分の記録を見られるのか」
「もちろんでございます」
「私には」
「いつでもご覧いただけます」
ヒトラーは、そこでモレルへ向いた。
「私が見られるならよいではないか」
「総統閣下がお望みでしたら、異存はございません」
モレルは頭を下げた。
異存はない。
そう言うしかない。
ここまでの反論を、ヒトラーが自分の閲覧権ひとつで終わらせた。
総統本人が見る資料を保管する。
その形にされれば、秘密警察への流出だとは主張しにくい。
「閲覧履歴を残します」
ターニャは付け加えた。
「誰が、いつ、どの範囲を見たかを記載いたします」
「君もか」
「はい。私も対象です」
「ヒムラーも?」
ヒトラーが、少し面白そうに問う。
「私も対象でございます」
ヒムラーが答えた。
ヒトラーは笑った。
「親衛隊全国指導者まで帳面へ名前を書くのか」
「例外を設ければ、そこから管理が崩れます」
ターニャが答える。
「君は上官にも容赦がないな」
「ヒムラー閣下のご許可をいただいております」
「許可したのか」
「はい」
ヒムラーの声には、迷いがなかった。
ヒトラーは、二人を交互に見た。
「よい関係だ」
その言葉は、褒めているようにも、警戒しているようにも聞こえた。
ターニャは反応を控えた。
ヒムラーも深く頭を下げるだけに留める。
総統の前で、上官と部下の結びつきを誇示する意味はない。
強く見せすぎれば、別の疑いを呼ぶ。
ヒトラーは、その沈黙をどう受け取ったのか、口元をわずかに上げた。
「最後は」
ターニャは、実施案の末尾へ目を落とした。
「薬品保管棚の鍵を分けます」
モレルの手が止まった。
それまで鞄の持ち手へ置かれていた指が、わずかに強く曲がる。
「どういう意味です」
「常備薬品を置く保管棚について、開錠を一名だけで完結させない運用にします」
「私が必要な時に薬を取り出せなくなる」
「緊急用は別にします」
「また例外ですか」
「診療を止めないためです」
「誰がもう一方の鍵を持つのです」
「通常は警護責任者です。医療上の確認が必要な場合は、ブラント医師または指定医務官を加えます」
「私の薬品棚です」
「総統閣下のために保管される薬品棚です」
モレルの顔が固まった。
ターニャも、声を少し低くした。
ここが最も深い。
鍵を分ける。
それは、薬品を取り出すたびに他人が関わるということだ。モレルの手元だけで完結していたものが、警護と医務の経路へ接続される。
補助医という穏やかな名目の内側で、最も強く裁量を削る項目だった。
「総統閣下」
モレルは、正面からヒトラーを見た。
「これは、私の診療を信用しない運用です」
「違います」
ターニャが先に答えた。
「鍵の所在を一人にしない運用です」
「言葉を変えても同じです」
「同じではありません」
「私が薬を取り出すたび、親衛隊へ許可を求めるのですか」
「許可ではなく、開錠への立会いです」
「それを許可と言うのです」
「判断はモレル医師が行います。警護側は止めません。取り出した事実を残します」
「信用されていない」
「信用の話へ戻す必要はありません」
「あなたは医者ではない!」
モレルの声が、再び執務室へ響いた。
ブラントが、わずかに視線を下げる。
ヒムラーの微笑は消えない。
ヒトラーだけが、静かにモレルを見ていた。
その視線に気づいたモレルは、すぐに頭を下げた。
「失礼いたしました」
「モレル」
「はい、総統閣下」
「彼女は医者ではない」
「はい」
「だから、薬を選ばないと言っている」
「その通りでございます」
「なら、何が不満だ」
モレルは、すぐには答えなかった。
「私の判断へ、疑いが持ち込まれることです」
「疑っているのか」
ヒトラーがターニャへ問う。
視線が正面から刺さる。
ここで「いいえ」と答えれば、鍵を分ける理由が弱くなる。
「はい」と答えれば、モレルへの攻撃になる。
ターニャは、数瞬だけ沈黙した。
ヒトラーは待つ。
答えを急かさない。
その待ち方が怖い。
怒鳴られるより、沈黙の方が言葉を選べなくなる。何を答えても、総統はその答えを覚え、あとで別の意味へ使える。
「個人の判断を疑っているのではございません」
ターニャは、ゆっくり答えた。
「一人の判断だけで、搬入、保管、使用、記録まで完結する形を危険と見ております」
「それは、モレルでなくてもか」
「はい。ブラント医師であっても同じです。私であっても例外にはいたしません」
ヒトラーの目が細くなる。
「君自身も?」
「一名だけで全てを処理する権限は持ちません」
「持てと言われたら」
「役割を分けるよう、ご再考をお願い申し上げます」
空気が張りつめた。
モレルが、驚いたようにターニャを見る。
ブラントも、わずかに顔を上げた。
ヒムラーは動かなかった。
総統から権限を与えられても、受け取らない。
言い方によっては、総統の命令へ条件を付けたことになる。
だが、ターニャは頭を下げたまま待った。
ヒトラーは、椅子の背から身体を離した。
目の奥に、怒りとも興味ともつかない光が宿る。
「なぜだ」
「人は誤ります」
「君もか」
「はい」
「私も?」
問いが落ちた。
室内から、わずかな物音まで消える。
ターニャは、すぐに答えられなかった。
否定すれば、嘘になる。
肯定すれば、危険だった。
ヒトラーは、その迷いを見ている。
笑わない。
助けない。
少女がどのように逃げるかを待っている。
「総統閣下のご判断を、実行する者が誤る可能性はございます」
ターニャは答えた。
「そのため、命令の内容、処理した者、結果を残す必要がございます」
「私が誤るかは答えない」
「私が判断する立場ではございません」
「うまく逃げたな」
「職務の範囲へ戻しました」
ヒトラーは、数秒だけターニャを見続けた。
その後、突然、声を上げて笑った。
モレルも係官も、つられるように表情を緩める。
ブラントはわずかに口元を動かしただけだった。
ヒムラーの微笑は、先ほどより深い。
笑いの中心にいるヒトラーは、先ほどまでの冷たい問いを忘れさせるほど魅力的に見えた。
問い詰められていたターニャでさえ、張りつめていた身体からわずかに力が抜ける。
それが不気味だった。
この男は、相手を追い込み、その直後に笑いの輪へ戻す。
許されたと思わせる。
認められたと思わせる。
次も、この人の前で答えたいと思わせる。
恐怖のあとに与えられる親しさは、普通の好意より強く残る。
人々が彼を見ていた理由が分かる。
ただ命令されていたのではない。
総統に試され、総統に笑われ、総統に認められたと感じた者たちは、その瞬間をもう一度得るために働く。
ヒトラーは笑いを収め、ターニャへ言った。
「よい。鍵は分けろ」
決定だった。
モレルの顔から血の気が引く。
「総統閣下」
「緊急時は君が使えるようにしろ」
「はい」
ターニャが答えた。
「通常は立会いを付けます。緊急用薬品は別箱とし、使用後の記載を義務とします」
「それなら治療は止まらないな」
「止めません」
「ブラント」
「はい、総統閣下」
「モレルを助けろ。邪魔はするな」
「承知いたしました」
「モレル」
「はい」
「診療は君が続ける」
モレルの顔に、わずかな安堵が戻る。
「ありがとうございます」
「だが、記録は残せ」
「はい」
「薬品も見せろ」
「承知いたしました」
「彼らが余計なことをしたら、私に言え」
モレルは、すぐに深く頭を下げた。
「はい、総統閣下」
ヒトラーは、次にターニャへ視線を向ける。
「モレルが困るような規則を作るな」
「診療を継続できる条件で整えます」
「彼が不満を言ったら」
「内容を記録し、必要であれば修正案を上げます」
「何でも記録か」
「後で、言った、言わないを避けられます」
「つまらん世界だ」
ヒトラーは、苦笑するように言った。
「ですが、止まりにくくなります」
「君は、止まらないことばかり考えているな」
「戦時でございますので」
ヒトラーの目が、細く笑った。
「よい答えだ」
ターニャは深く頭を下げた。
決定事項は揃った。
ブラントを補助医として置く。
モレルの診療は継続。
注射剤は立会制。
薬品搬入は警護班が確かめる。
診療記録の写しは、国家保安本部の限定保管へ送る。
保管棚の鍵は分ける。
表向きには、モレルを支える補助体制。
実態は、薬品と記録を一人の手元から切り離す仕組みだった。
「少佐」
ヒムラーが呼んだ。
ターニャは、上官へ顔を向ける。
「はい」
「決定事項を本日中に文書化しろ。明朝から運用を始める」
「承知いたしました。担当者、例外条件、提出先まで確定させます」
「私へ最終案を持ってこい」
「はい」
ヒムラーの声には、以前より明確な重みがあった。
単なる指示ではない。
この場で通した仕事を、そのままターニャへ任せるという意思だった。
別の者へ取り上げない。
医務側にも、国家保安本部の別部署にも渡さない。
総統の前で説明し、決定まで運んだ者に、実施まで持たせる。
ヒムラーの信頼は、言葉より担当の置き方に現れていた。
「ヒムラー」
ヒトラーが言った。
「この子に働かせすぎるな」
ターニャは、思わず顔を上げかけた。
ヒムラーは、穏やかに答える。
「能力に応じた任務を与えております」
「それを働かせすぎると言う」
「必要な補佐は付けております」
ヒトラーは、ターニャを見た。
「本当か」
「はい。セレブリャコーフ少尉をはじめ、必要な実務担当を付けていただいております」
「不満はないか」
「ございません」
「少しは考えてから答えろ」
「考えた上でございます」
ヒトラーは、また笑った。
「ヒムラー。君の部下は、君より頑固だ」
「頼もしく思っております」
ヒムラーの返答は早かった。
ターニャは、その横顔を見た。
総統の前で、はっきりと頼もしいと言った。
その評価は、あとから撤回できない。
ヒムラーの配下としての位置は、これまで以上に強くなった。
同時に、逃げ道も減った。
(本当に、評価というものは余計な仕事を連れてくる)
顔には出さない。
ヒトラーは、もう決定を終えた者の顔をしていた。
「モレル。今日は診察の予定があるのか」
「夕刻に、体調を拝見する予定でございました」
「予定どおり来い」
「はい、総統閣下」
「ブラントは同席しない」
モレルの肩が、少しだけ下がる。
「ありがとうございます」
「明日からだ」
その肩が、再び固くなる。
「承知いたしました」
「今日は、今までどおり診ろ。明日から記録を変える」
「はい」
ヒトラーは、モレルへ手を差し出した。
握手ではない。
話は終わったという合図だった。
モレルは、すぐに深く礼を取る。
顔には笑みを戻している。
総統への感謝。
診療継続への安堵。
補助医を受け入れる従順さ。
全てを同じ笑顔へ収めている。
「失礼いたします」
モレルは鞄を持ち上げた。
片方の手には、入室時から持っていた手袋がある。
笑顔のまま、指が革を強く握り込む。
柔らかな手袋に、深い皺が寄った。
ブラントが一歩下がり、道を空ける。
二人の視線が短く交わった。
言葉はない。
モレルは笑っている。
ブラントの顔は変わらない。
同じ総統のそばへ置かれた医師でありながら、二人の間には診療室より冷たい距離ができていた。
係官が扉を開く。
モレルが先に退出する。
ブラントも、総統へ礼を取った。
「補助記録の案は、明朝までに整えます」
「モレルを怒らせるな」
ヒトラーが言う。
「必要なことだけ申し上げます」
「それで怒る男もいる」
「その場合は、記録します」
ヒトラーは、一瞬だけ黙った。
それから、声を上げずに笑った。
「君まで同じことを言うのか」
「調整官から、そのように指示されております」
「なるほど」
ヒトラーの目が、ターニャへ向く。
「君の病気が移ったらしい」
「職務上の取り決めでございます」
「そういうところだ」
ブラントは、わずかに頭を下げて退出した。
ヒムラーが、内部用の控えを受け取る。
「総統閣下。決定事項を整え、改めてご報告いたします」
「細かいところは任せる」
「恐れ入ります」
「ただし、モレルを追い出すな」
「承知しております」
「私が決める」
「御意のままに」
ヒムラーは、最上段の礼を取った。
ターニャも革挟みを閉じる。
これで退出できる。
面会前には存在しなかった決定が、もう六つある。今夜中に運用へ変え、明朝から動かさなければならない。
セレブリャコーフへ担当表を作らせる。
警護班へ立会者を選ばせる。
医務側へ薬品名の確認者を出させる。
国家保安本部側の保管場所を限定する。
鍵を作る。
緊急用薬品の別箱を用意する。
モレルへの説明文も必要だ。
ブラントの職務範囲も、改めて署名させなければならない。
仕事の列が、頭の中で次々に伸びていく。
総統の前でため息をつくことはできない。
ターニャは、退出の礼を取った。
「貴重なお時間を賜り、ありがとうございました」
「待て」
ヒトラーの声が、背中へ届いた。
ターニャの足が止まる。
ヒムラーも振り返った。
「デグレチャフは残れ」
室内の空気が、再び変わった。
ヒムラーは、すぐには動かなかった。
「総統閣下、私も同席いたしましょうか」
「いや。外で待て」
一拍。
「承知いたしました」
ヒムラーはターニャを見た。
ほんの一瞬だった。
恐れるなとも、余計なことを言うなとも、表情には出ていない。
ただ、任せたという視線だった。
先ほどまでの信頼が、今度は退室という形で示される。
ヒムラーは係官と共に外へ出た。
扉が閉じる。
室内には、ヒトラーとターニャだけが残った。
先ほどまで複数の人間がいた部屋が、急に広く感じられる。
壁の地図。
机の上のイギリス南部。
総統健康管理体制の説明票。
空になった椅子。
ヒトラーは、すぐには話さなかった。
ターニャも待つ。
時計の音は聞こえない。
窓の外から入る街の気配も、厚い壁に遮られている。
ヒトラーは椅子から立ち上がり、ゆっくりと机を回った。
ターニャの前で止まる。
距離は近い。
見下ろす目には、先ほどまでの笑みがない。
「本当は、モレルをどう思っている」
声は低かった。
総統として会議へ投げる問いではない。
答えを文書へ残すつもりのない問いだった。
「優れた経験を持つ個人医と考えております」
「それだけか」
「現状では、裁量が一名へ集中しすぎております」
「危険だと思っているのだな」
ターニャは、即答を避けた。
ヒトラーの目が、わずかに細くなる。
「先ほどは形が危険だと言った。今は二人だけだ」
逃げ道をひとつずつ消してくる。
総統の前で、モレル本人の前で、ヒムラー同席の場で使った言葉を覚えている。
今度は、組織の答えではなく、ターニャ個人の判断を求めている。
「はい」
ターニャは答えた。
「危険になり得ると考えております」
「モレルが?」
「薬品と判断と記録が、一人の記憶だけで完結する状態が、でございます」
「また形へ戻す」
「私が確認できるのは、そこまでです」
「医者ではないからか」
「はい」
「それとも、言いたくないからか」
ヒトラーは、少しだけ身体を屈めた。
視線の高さが近づく。
演説台の上で群衆を見下ろす顔ではない。
一人の相手の中身だけを覗こうとする顔だった。
その近さが、怒声より怖い。
「断定できる材料がございません」
「材料があれば、私にモレルを外せと言うのか」
「必要であれば、ご報告いたします」
「君は、私が怒っても言うのだな」
「職務でございますので」
「忠誠ではなく?」
「職務を果たすことが、忠誠であると考えております」
ヒトラーは、目を逸らさない。
ターニャも逸らさなかった。
総統の前で忠誠を定義する。
危うい。
だが、媚びる言葉を並べるより、今のヒトラーにはこちらの方が通る。
「私は、忠誠とは命令に従うことだと思っている」
「はい」
「違うと言うのか」
「命令を正確に実行するため、必要な事実を先にお伝えすることも含まれると考えております」
「私が聞きたくない事実でも?」
「はい」
ヒトラーの口元が、ほんの少し動いた。
笑みではない。
不快でもない。
何かを確かめた者の顔だった。
「君は、私を恐れているか」
また、その問いだった。
前より近い。
他に誰もいない。
ターニャは、喉の奥が乾くのを感じた。
「はい」
今度は、正直に答えた。
ヒトラーの眉が上がる。
「先ほどは、恐れを理由に報告を曲げる方が怖いと言った」
「恐れていないとは申し上げておりません」
「では、なぜ逆らえる」
「逆らっているつもりはございません」
「私が嫌がることを言う」
「必要なご報告です」
「同じことだ」
「私にとっては違います」
ヒトラーは、しばらく黙っていた。
それから、窓の方へ歩いた。
背を向ける。
「人は、私の前で二つに分かれる」
独り言のような声だった。
「恐れて黙る者と、気に入られようとして話しすぎる者だ」
ターニャは返さない。
「君は、恐れているのに黙らない。気に入られようともしていない」
「任務を終えることを優先しております」
「それが気に入らん」
ヒトラーは振り返った。
顔には笑みがある。
先ほどの言葉と表情が一致しない。
「そして、面白い」
ターニャは、礼を取った。
「恐れ入ります」
「英国の案も、モレルの案も、君は同じ顔で話す」
「どちらもドイツの戦争指導に関わります」
「人間の顔ではないな」
ヒトラーは、静かに笑った。
「兵士でも、役人でも、医者でもない。自分がどこにいるか分かっているのか」
「親衛隊少佐として、命じられた位置におります」
「それでは足りん」
ヒトラーの声が、急に硬くなる。
「君は、自分が何者なのかを聞かれている」
ターニャは答えを探した。
転生者。
未来を知る者。
帝国を破滅させる形を知りながら、その帝国の制服を着ている者。
どれも言えない。
言うべきでもない。
「国家の命令を、実行可能な形へ直す者でございます」
選んだ答えは、それだった。
ヒトラーの笑みが消えた。
目だけが、ターニャを見据える。
「命令を直す?」
「失礼いたしました。命令の目的を損なわず、実施手順へ落とすという意味でございます」
「いや」
ヒトラーは、ゆっくり首を振った。
「最初の言葉の方が正しい」
ターニャの背に、冷たいものが走る。
ヒトラーは、近づかない。
だが、声だけが距離を詰める。
「命令は、人間の口から出る。完全ではない。現場へ届くまでに、形を与える者が必要だ」
穏やかな口調だった。
「君は、それをしている」
「恐れ入ります」
「だから、危険でもある」
ターニャは黙った。
「命令を形にする者は、命令を変えることもできる」
「私一人では決裁できないよう、手順を分けております」
「そこでも自分を縛るのか」
「必要でございます」
「自分を信用していない?」
「一名へ預けないという原則です」
ヒトラーは、低く笑った。
「本当に徹底している」
その声音には、感心と警戒が混じっていた。
「よい。君はヒムラーの下で働け」
ターニャは、わずかに目を上げた。
「はい」
「だが、私へ上げるべきものを、ヒムラーの机で止めるな」
命令だった。
「承知いたしました」
「英国の講和案も、私へ持ってこい」
「ヒムラー閣下の決裁を経て提出いたします」
「それでよい」
ヒトラーは、机へ戻った。
説明票を持ち上げる。
「モレルの件もだ。異常があれば、隠すな」
「はい」
「彼を追い出すための異常を探すな」
「そのようなことはいたしません」
「ブラントにも言え」
「承知いたしました」
「そして」
ヒトラーは、そこで一度言葉を止めた。
ターニャを見る。
先ほどまでの問い詰める目ではない。
人を引き込む時の目だった。
この人物の言葉を、自分だけが聞いていると思わせる目。
「イギリスを倒したあと、君が言った帝国の使い方を見せろ」
声は静かだった。
それでも、命令というより未来を預けられたように聞こえる。
大勢の人間が、この感覚に魅了されたのだろう。
総統が自分を見た。
自分の能力を認めた。
自分へ、歴史の続きを任せた。
その錯覚は、勲章より重い。
ターニャは、それが錯覚だと知っている。
知っていても、胸の奥にわずかな熱が生まれる。
だからこそ、この男は危険だった。
「全力を尽くします」
それ以外の返答はなかった。
ヒトラーは満足したように頷く。
「よい。行け」
「失礼いたします」
ターニャは、最上段の礼を取った。
背を向ける。
扉までの距離が、入室した時より長く感じられた。
手を伸ばす前に、背後から最後の声が届く。
「デグレチャフ」
ターニャは振り返った。
「はい」
ヒトラーは、既にイギリス南部の地図へ目を落としていた。
「私が間違えると思った時も、今日のように話せ」
ターニャは、息を止めそうになった。
命令なのか。
試しているのか。
将来、同じことを言えば本当に許されるのか。
分からない。
ヒトラー自身にも、その時まで分からないのかもしれない。
それでも、今は答えなければならない。
「承知いたしました」
ヒトラーは、もうこちらを見なかった。
地図の上で、指がイギリス南部の飛行場をなぞっている。
ターニャは扉を開けた。
廊下にはヒムラーが待っていた。
セレブリャコーフとEVAも、その後ろにいる。
ヒムラーは、ターニャの顔を一度見ただけで、何も尋ねなかった。
「戻るぞ」
「はい」
四人は歩き始めた。
廊下の先には、今夜中に作る運用案が待っている。
そのさらに先には、イギリス講和後の主権管理案がある。
ターニャは、閉じた扉を振り返らなかった。
総統から与えられた言葉は、許可ではない。
免責でもない。
間違いを指摘しろと言いながら、実際に指摘した時、同じ顔で受け入れる保証はどこにもなかった。
それでも、命令として残った。
モレルの薬瓶へ最初の制限がかかった日、ターニャ自身にも、別の細い鎖が結ばれていた。
次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)
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イギリス戦方面
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帝国内政(モレル関連)