幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

121 / 123
第6節 総統の不快、親衛隊の微笑 後半

 

 扉が開くより先に、モレルの到着は分かった。

 

 廊下で係官が声を落とす。返す声は、それより大きい。急な呼び出しを受けた者の不安を隠すように、言葉数だけが増えていた。

 

 やがて、総統執務室の扉が内側へ開いた。

 

 モレルは鞄を提げたまま入ってきた。

 

 診療へ呼ばれたつもりなのだろう。手には薄い手袋を持ち、上着の内側から薬品の匂いがわずかに漂っている。歩調は急いでいたが、ヒトラーの姿を認めると、表情をすぐに整えた。

 

「総統閣下、お加減がすぐれないのでしょうか」

 

 声には心配がある。

 

 同時に、自分だけが呼ばれるべき場所へ来たという確信もあった。

 

 ヒトラーは椅子に座ったまま、モレルを見上げた。

 

「いや。体調の話ではない」

 

「では、何かございましたか」

 

「この者たちが、君に補助医を付けたいと言っている」

 

 モレルの顔から、作った笑みが一瞬だけ消えた。

 

 視線がヒムラーへ移る。

 

 次にターニャへ落ちる。

 

 最後に、机の端へ置かれた説明票へ止まった。

 

「補助医、でございますか」

 

「そう書いてある」

 

 ヒトラーの返答は淡々としていた。

 

 だが、面白がっているようにも聞こえる。

 

 自分の信頼を得ている個人医と、そこへ手順を入れようとする親衛隊。その両方を同じ部屋へ置き、互いの出方を見ようとしている。

 

 モレルは、すぐには説明票へ手を伸ばさなかった。

 

「私の診療に、何か問題があったのでしょうか」

 

「それを私に聞くな」

 

 ヒトラーは、ターニャへ目を向けた。

 

「説明した者に聞け」

 

 部屋の視線が集まる。

 

 ターニャは、一歩だけ前へ出た。

 

「モレル医師の診療内容を疑う案件ではございません。対英戦準備に伴い、総統閣下の日程が増加するため、診療と記録の補助体制を追加する提案です」

 

 モレルの眉が寄った。

 

「私一人では足りない、とおっしゃるのですか」

 

「一名へ診療、薬品管理、記録、関係者への伝達が集中しております。負担を分けます」

 

「負担だとは感じておりません」

 

「感じておられるかどうかとは別の問題です」

 

 ターニャは、声を強めなかった。

 

 モレルの表情だけが硬くなる。

 

「別の問題?」

 

「はい。担当者が負担を訴えていなくても、引き継げる状態は必要です」

 

「私は総統閣下のお体を知っています」

 

「承知しております」

 

「毎日の状態を見ています。食事、睡眠、胃の調子、声、疲労の出方。長い会議のあとに何が必要かも、私が一番よく分かっている」

 

「その知識を残していただくための補助です」

 

 モレルは、そこで初めて露骨にターニャを見た。

 

 目の前の少女が、自分の経験を褒めているのか、奪おうとしているのか測りかねている。

 

「私の知識は、書類へ移せば同じになるものではありません」

 

「同じにする必要はありません」

 

「では、何のために書くのです」

 

「次に処置する際、前回何をしたかを正確に確かめるためです」

 

「私は覚えています」

 

「疑っていません。残すだけです」

 

 ターニャの返答が短くなった。

 

 言葉遣いだけは崩さない。

 

 だが、モレルへ向ける説明から、余分な飾りを落とした。

 

 モレルは、不快そうに口を結んだ。

 

 ヒトラーが、その様子を見ている。

 

 モレルをかばうでもなく、ターニャを止めるでもない。わずかに身を前へ傾け、二人の間にあるものを楽しむような目をしていた。

 

「モレル」

 

 ヒトラーが呼んだ。

 

「はい、総統閣下」

 

「君は記録を付けていないのか」

 

「もちろん付けております」

 

 モレルは即答した。

 

「必要な処置は全て残しております。私の手元には、総統閣下の体調を継続して見た記録がございます」

 

「なら、補助医に見せても困らないのではないか」

 

「困るということではございません」

 

 モレルの返答が、わずかに遅れた。

 

「ただ、医療記録は、外部の者が一部だけ見ても正しく理解できません。薬品名や量だけを抜き出しても、その日の体調、前後のご予定、食事、精神的な疲労を知らなければ意味が変わります」

 

「それは正しい」

 

 ヒトラーは、簡単に同意した。

 

 モレルの顔に、少しだけ余裕が戻る。

 

 だが、ヒトラーは続けた。

 

「だからこそ、それも書けばよい」

 

 余裕が消えた。

 

「総統閣下」

 

「君にしか分からないことが多いというのなら、君にしか分からないままにする理由はない」

 

 穏やかな声だった。

 

 責めてはいない。

 

 それでも、拒否を許していない。

 

 ヒトラーは、モレルの経験を認めた。その直後に、その経験を残す責任を本人へ返した。

 

 ターニャは黙っていた。

 

 彼女が言えば、親衛隊の要求になる。

 

 総統が言えば、信頼する医師への期待になる。

 

 同じ内容でも、重さが違う。

 

 ヒトラーは、その違いを直感で理解している。

 

 あるいは、相手の逃げ道を塞ぐ言葉を自然に選んでいる。

 

 モレルは、説明票へ視線を落とした。

 

「どのような記録を求めておられるのですか」

 

 問いはヒトラーへ向けたものだった。

 

 しかし、ヒトラーは答えない。

 

 指先だけをターニャへ向けた。

 

「彼女の案だ」

 

 モレルが、再びターニャを見る。

 

「薬品の正式名称、使用量、単位、処置時刻、残量、保管場所、立会者です」

 

「診察をしたことのない方には、簡単に見えるのでしょう」

 

「簡単だとは申し上げておりません」

 

「総統閣下の診療は、役所の倉庫管理ではありません」

 

「はい。ですから、私は処方に口を出しておりません」

 

「ですが、親衛隊が私の鞄と薬品を調べようとしている」

 

「総統閣下の警護区域へ入る物品を確かめます」

 

「私は何年も出入りしています」

 

「過去の出入りが、今後の確認を不要にする理由にはなりません」

 

 モレルの口元が引きつった。

 

「私を信用していないのですか」

 

 また、信用という言葉へ戻る。

 

 ターニャは、そこへ乗らなかった。

 

「個人への信用と、警護手順は分けます」

 

「総統閣下の信頼も、ですか」

 

「総統閣下のご信頼を理由に、警護側が確認を放棄することはできません」

 

 言ったあとで、室内の温度が下がったように感じられた。

 

 ヒトラーの目が、ターニャへ向く。

 

 モレルも黙る。

 

 ヒムラーだけが動かなかった。

 

 総統の信頼。

 

 それは、この部屋で最も強い札だった。

 

 モレルは、その札を使った。

 

 ターニャは、否定しなかった。

 

 ただ、その札でも消せない職務を置いた。

 

 ヒトラーは、ゆっくりと口を開いた。

 

「私が信用していると言っても、確認するのか」

 

「はい」

 

 ターニャは頭を下げた。

 

「総統閣下をお守りする役目を与えられた者が、信頼だけを理由に確認を省けば、職務を果たしたことになりません」

 

「私の判断が間違っていると言いたいのではないな」

 

「そのような意図はございません。ご判断の対象と、警護側の処理は別でございます」

 

「言葉を分けるのが好きだな」

 

「混ぜると、誰が何を決めたのか分からなくなります」

 

 ヒトラーは、しばらくターニャを見た。

 

 怒りは見えない。

 

 笑みもない。

 

 それでも、目を逸らせない。

 

 こちらの返答を聞いているというより、返答の奥へ手を入れようとしている。忠誠か。恐怖か。野心か。何を動力にして、この少女が自分の前で言葉を引かないのか。

 

 やがて、ヒトラーは小さく笑った。

 

「ヒムラー」

 

「はい、総統閣下」

 

「この子は、君にも同じように言うのか」

 

 ヒムラーの口元に、控えめな微笑が浮かんだ。

 

「必要と判断した場合は、私にも申し上げます」

 

「腹が立たないのか」

 

「結果が正しければ、問題ございません」

 

 ヒトラーは、少し意外そうにヒムラーを見た。

 

 ターニャも横目で上官を見た。

 

 それは、明確な擁護だった。

 

 ヒムラーは、総統の前で自分の配下を売り込まない。成果を本人のものとして扱い、必要な時だけ後ろから支える。

 

 だが今は、ターニャが自分にも不都合なことを言える者だと認めた。

 

 信頼していなければ言えない。

 

「随分と気に入っているようだ」

 

「有能な部下を信頼することは、組織に必要でございます」

 

「子供だぞ」

 

「年齢を理由に成果を捨てる方が、損失かと存じます」

 

 ヒムラーは、落ち着いて答えた。

 

 ヒトラーの笑みが少し深くなる。

 

「君も言うようになった」

 

「総統閣下からお預かりした任務を、確実に処理するためでございます」

 

 ヒムラーは、最後を忠誠へ戻した。

 

 ターニャを守りながら、自分が総統の下にいることを崩さない。

 

 巧い。

 

 総統の前で生き残ってきた男の言葉だった。

 

 モレルは、そのやり取りへ入れない。

 

 自分の診療をめぐる話だったはずが、いつの間にか総統、ヒムラー、ターニャの間で、職務と信頼の話へ変わっている。

 

 彼は鞄の持ち手を握り直した。

 

「総統閣下。私は、親衛隊が医療へ介入することを心配しております」

 

 ヒトラーの視線が戻る。

 

「この子は介入しないと言っている」

 

「最初は記録だけでも、次は薬品、その次は処置内容となります」

 

「そうなるのか」

 

 問いはターニャへ飛んだ。

 

「総統閣下のご裁可なしに、範囲を広げることはございません」

 

「広げる必要が出る可能性はある」

 

「必要性が生じた場合は、改めてご報告いたします」

 

 ヒトラーの目が細くなる。

 

「否定しないのだな」

 

「将来の状況を見ずに否定することはできません」

 

 モレルが何か言いかけた。

 

 だが、ヒトラーが先に笑った。

 

「正直だ」

 

 笑いながらも、声には冷たさがある。

 

「皆、私の前では将来も変わらないと言いたがる。君は、変えるかもしれないと言う」

 

「必要がなければ変えません」

 

「必要なら変える」

 

「はい」

 

「誰が必要だと決める」

 

「私が確認し、ヒムラー閣下へ報告し、総統閣下のご判断を仰ぎます」

 

 結論。

 

 経路。

 

 決裁者。

 

 ターニャは、迷わずそこへ落とした。

 

 ヒトラーは、指で机を二度叩いた。

 

「よい」

 

 一言だった。

 

 何がよいのかは説明しない。

 

 答えか。

 

 経路か。

 

 あるいは、自分が最後に決めるという確認か。

 

 誰も聞き返さなかった。

 

 モレルは、少し前へ出た。

 

「ですが、総統閣下の体質を理解しているのは私です。外から来た医者に、同じことはできません」

 

「同じことをさせるとは申し上げておりません」

 

 ターニャが答えた。

 

「なら、補助医は何をするのです」

 

「あなたが行った処置を、次に読める形へします」

 

「私の記録は読めます」

 

「別の医師が同じように読めるかを確認します」

 

「その医師は誰です」

 

「カール・ブラント医師です」

 

 名前が出た瞬間、モレルの顔が変わった。

 

 知っている。

 

 当然だった。

 

 総統周辺に出入りし、親衛隊の階級を持ち、医療行政でも名を知られている。単なる若い医師ではない。

 

「ブラント?」

 

「はい」

 

「彼が外にいるのですか」

 

「控えております」

 

「私に知らせずに?」

 

「総統閣下のご判断が先です」

 

「私の診療記録を、既に見せたのですか」

 

 声が大きくなる。

 

 ヒトラーの表情がわずかに変わった。

 

 モレルは、それに気づいて音量を落とした。

 

「失礼いたしました。しかし、私の許可なく医療記録を外部へ出されたのであれば、看過できません」

 

「抜粋を、限定範囲で確認させました」

 

「私の許可は」

 

「取っておりません」

 

「では、無断ではありませんか」

 

「警護記録と薬品搬入記録を含むため、モレル医師のみの管理対象ではございません」

 

「診療内容が書かれている」

 

「診療内容の評価は禁じました」

 

「禁じたからよいという話ではない!」

 

 モレルの声が跳ねた。

 

 今度は、はっきりとヒトラーが眉を動かした。

 

 モレルは口を閉じる。

 

 総統の前で自制を失った。

 

 それ自体が、小さな失点だった。

 

 ターニャは追わなかった。

 

 追えば、勝ちに行っているように見える。

 

 ここで必要なのは、モレルを言い負かすことではない。補助医を入れることだ。

 

 ヒトラーは、モレルへ静かに尋ねた。

 

「見せて困る内容があるのか」

 

「ございません」

 

「なら、なぜ怒る」

 

「私の診療を、事情を知らない者が評価することを危惧しております」

 

「評価しないと言っている」

 

「言葉では、です」

 

「モレル」

 

 ヒトラーの声が低くなった。

 

 モレルの背が、わずかに縮んだように見えた。

 

「私は君を信頼している」

 

「はい、総統閣下」

 

「だからこそ、今ここへ呼んだ」

 

「光栄でございます」

 

「私が聞きたいのは、親衛隊が嫌いかどうかではない。君の記録を、他の医者が読めるかどうかだ」

 

 ヒトラーは、モレルの逃げ道を一つずつ狭めた。

 

 信頼を先に与える。

 

 そのあとで、答えるべき問いを限定する。

 

 モレルは、総統への忠誠を示すために、問いへ答えなければならなくなる。

 

「読めます」

 

 モレルは言った。

 

「必要な医学知識があれば、理解できます」

 

「なら、ブラントに読ませろ」

 

「総統閣下」

 

「君は読めると言った」

 

「はい。しかし、全体を見なければ誤解が生じます」

 

「では、全体を見せればよい」

 

 モレルは、返答を失った。

 

 ヒトラーの論理は単純だった。

 

 単純だから強い。

 

 複雑な事情を述べるほど、モレルが何かを隠そうとしているように見える。

 

 ターニャは、そのやり取りを見ながら、総統が人を魅了する理由とは別の恐ろしさを感じていた。

 

 彼は相手の言葉を覚えている。

 

 そして、相手が自分で作った逃げ道を、同じ言葉で塞ぐ。

 

 怒鳴る必要はない。

 

 信頼すると言い、次に従わせる。

 

 相手は拒否すれば、その信頼を裏切ることになる。

 

 この部屋で忠誠を求められた者が、どうして逆らえる。

 

「ブラントを入れろ」

 

 ヒトラーが命じた。

 

 係官がすぐに動く。

 

 モレルは、まだ何かを言いたそうだった。

 

 だが、総統の命令が出たあとで止めれば、補助医ではなく総統の意思へ逆らうことになる。

 

 ヒムラーは、黙ってターニャを見た。

 

 視線は一瞬だけだった。

 

 よく通した。

 

 言葉にしなくても、そう受け取れる。

 

 ターニャは小さく頭を下げた。

 

 ヒムラーの信頼は、前より明確になっている。

 

 これまでは、役に立つ部下への評価だった。

 

 今は、総統の前へ出しても崩れず、必要な結果を持ち帰れる者として見られている。

 

 喜ぶべきなのだろう。

 

 だが、総統から英国の講和案まで命じられた直後である。

 

 評価が増えるたびに仕事も増える。

 

(何で評価と負担が同じ方向に動くんだ)

 

 内心だけで吐き捨てた。

 

 係官が控室へ向かう。

 

 その間も、ヒトラーはモレルから目を離さなかった。

 

「君はブラントを嫌っているのか」

 

「個人的な感情ではございません」

 

「皆、そう言う」

 

「医療の考え方が違います」

 

「どう違う」

 

「彼は行政を重く見ます。私は患者を見ます」

 

 モレルは、今度こそ自信を取り戻したように答えた。

 

「総統閣下のお体は、一覧表でも規則でもありません。その日の状態に合わせ、必要なものを必要な時に使う。長く拝見してきた私だからできます」

 

「ブラントにはできない」

 

「同じようにはできません」

 

 ヒトラーは、ターニャへ目を向けた。

 

「君はどう思う」

 

「同じ役割を求めておりません」

 

「モレルは患者を見る。ブラントは何を見る」

 

「モレル医師が行った処置を、次へ渡せる形にします」

 

「患者を見ない医者を、私のそばへ置くのか」

 

 前半で問われた内容に近い。

 

 だが、今度はモレル本人がいる。

 

 同じ返しでは足りない。

 

「総統閣下を診る医師は、モレル医師でございます。ブラント医師には、モレル医師の経験が途切れないよう支えさせます」

 

「二人で一人分か」

 

「役割を分けます」

 

「仲良くできると思うか」

 

「必要な範囲を命じます」

 

 ヒトラーは、声を立てずに笑った。

 

「友情は要らないと言うのだな」

 

「職務が進めば足ります」

 

 モレルが、さらに不快そうな顔をした。

 

 ヒムラーの微笑は、ほんの少しだけ残っている。

 

 総統も、その答えを嫌ってはいない。

 

 人間関係を美しく語らず、必要な役割だけを置く。冷たい。だが、分かりやすい。

 

「君は徹底している」

 

「恐れ入ります」

 

「褒めたつもりではない」

 

「失礼いたしました」

 

「だが、嫌いではない」

 

 ヒトラーは、何気なく言った。

 

 その一言で、室内の空気が変わった。

 

 ヒムラーの視線が静かに細まる。

 

 モレルはターニャを見た。

 

 総統の好意。

 

 それは命令書より早く広がる。

 

 正式な権限ではない。

 

 だが、周囲の扱いを変えるには十分だった。

 

 ヒトラーは、その影響を理解しているのか。

 

 理解していて言ったのか。

 

 分からない。

 

 分からないまま、相手の立場だけが変わる。

 

 ターニャは深く頭を下げた。

 

「身に余るお言葉です」

 

「余計な忠誠の言葉は要らん。結果を出せ」

 

「はい」

 

 短く答える。

 

 ここで長く語れば軽くなる。

 

 ヒトラーは、既に興味を次へ移していた。

 

 廊下から、今度は揃った足音が近づく。

 

 ブラントだ。

 

 扉の前で止まり、係官が入室を告げる。

 

「カール・ブラント医師が参りました」

 

「入れ」

 

 扉が開く。

 

 ブラントは、フィールドグレーの開襟型制服で入ってきた。白衣は着ていない。親衛隊中佐の階級章が、医師である前に組織の人間であることを示している。

 

 鞄は持っていない。

 

 控室に置いてきたのだろう。

 

 必要のない物を、総統の前へ持ち込まない判断だった。

 

 ブラントは敬礼し、総統へ挨拶した。

 

 ヒトラーは、形式的な言葉を短く受けた。

 

「ブラント。モレルの記録を見たそうだな」

 

「はい、総統閣下。限定された抜粋のみ確認いたしました」

 

「どうだった」

 

 ブラントは、モレルへ視線を向けなかった。

 

 先に総統へ答える。

 

「診療の正否は判断しておりません」

 

「それは聞いていない」

 

「では、記録について申し上げます」

 

 ブラントは、声を変えなかった。

 

「いつ、何を、どれだけ使ったのか。それが分からないと、次の処置ができません」

 

 モレルが、すぐに割り込んだ。

 

「分からないのではない。君が前後の事情を知らないだけだ」

 

 ブラントは、そこで初めてモレルを見た。

 

「前後の事情が必要であれば、それも記録すべきです」

 

「患者は毎日変わる。全てを文字にできると思うのか」

 

「全ては不要です」

 

「では、何を残す」

 

「次に処置する医師が、同じ薬品を重ねてよいか判断できる情報です」

 

「私が次も処置する」

 

「必ず、とは言えません」

 

 モレルの顔が赤くなる。

 

「私を外すつもりか」

 

「私は、その判断をする立場にありません」

 

 ブラントは、動じなかった。

 

「ですが、医師が一人しか読めない記録は、引き継ぎには使えません」

 

「私には経験がある」

 

「経験があるなら、記録できるはずです」

 

 鋭い返答だった。

 

 声は穏やかで、嫌味もない。

 

 だからこそ逃げにくい。

 

 経験がある。

 

 その経験を盾にするなら、残せる。

 

 残せないなら、それは他者へ渡せる経験ではない。

 

 モレルは口を開いたまま、一瞬止まった。

 

 ヒトラーが、ブラントを見た。

 

 先ほどターニャを測った時とは違う。

 

 医師として使えるかを見ている。

 

「君はモレルの治療を間違いだと思うのか」

 

「判断材料が足りません」

 

「逃げるのか」

 

「いいえ。分からないことを、正しいとも誤りとも申し上げないだけです」

 

 ヒトラーの目に、興味が浮かんだ。

 

「モレルは私をよく知っている」

 

「承知しております」

 

「君よりもだ」

 

「はい」

 

「それでも補助できるのか」

 

「モレル医師の経験を、私が代わりに持つことはできません。ただ、経験が記録へ残るよう整えることはできます」

 

 ターニャは、ブラントの答えを聞きながら、前半で選んだ人物が間違っていなかったことを確かめた。

 

 自分を大きく見せない。

 

 モレルを全面否定しない。

 

 できることと、できないことを分ける。

 

 その上で、記録の不足だけは譲らない。

 

 ヒトラーは、しばらくブラントを見たあと、ターニャへ顔を向けた。

 

「君が選んだ理由は、これか」

 

「はい。診療の評価と、記録の整備を分けられる医師です」

 

「二人とも、分けるのが好きだな」

 

「混ぜたままでは、争いになります」

 

「もう争っているように見えるが」

 

「論点は明確になりました」

 

 ヒトラーが笑った。

 

 今度は短くない。

 

 楽しげですらあった。

 

 総統の笑いにつられ、係官の表情まで少し緩む。

 

 ヒムラーも控えめに微笑んだ。

 

 モレルだけが、笑わない。

 

 人を引き込む笑いだった。

 

 その場にいる者へ、自分もこの会話の一部だと思わせる。先ほどまでの緊張が、総統の一笑で別の空気へ変わる。

 

 だが、モレルには逃げ道がないままだ。

 

 ヒトラーのカリスマは、場を温める。

 

 同時に、誰をその温かさの外へ置くかを決める。

 

 今、モレルは半歩だけ外にいる。

 

 ヒトラーは笑みを残したまま、ターニャへ言った。

 

「それで、君はこの二人をどう使う」

 

 ターニャは、待っていた問いへ答えた。

 

「モレル医師には、従来どおり診療を継続していただきます。ブラント医師には補助記録を担当させます」

 

「それだけか」

 

「まず、役割を確定します」

 

「期限は」

 

「本日中に運用案を整え、明朝から開始できます」

 

「早いな」

 

「遅らせる理由がございません」

 

 ヒトラーの笑みが、わずかに深くなる。

 

 ヒムラーがターニャを見る。

 

 そこには、前よりはっきりした信頼があった。

 

 総統の前で問われても、ターニャは結論を役割と期限へ戻す。ヒムラーが望んだ通りだった。

 

 だが、決定はまだ足りない。

 

 注射剤。

 

 薬品搬入。

 

 立会者。

 

 写し。

 

 鍵。

 

 それらを、どの順で総統へ出すか。

 

 ターニャは、革挟みの奥にある内部案を思い出した。

 

 全部を一度に口にすれば、モレルは反発する。

 

 だが、総統が今、話を聞く姿勢を見せている。

 

 機会を逃せば、次はないかもしれない。

 

 ヒトラーは、机へ指を置いた。

 

「続けろ」

 

 声から笑みが消えた。

 

 命令だけが残る。

 

 ターニャは、頭を下げた。

 

「承知いたしました」

 

 

 

 ターニャは、革挟みの奥から実施案を取り出した。

 

 総統へ最初から見せる予定のなかった一枚だった。表向きの説明票より項目が多く、言葉も硬い。だが、ここまで話が進んだ以上、曖昧なまま終える方が危険だった。

 

 ヒトラーの視線が、その動きを追う。

 

「隠していたのか」

 

「最初のご説明には細かすぎると判断いたしました」

 

「私に見せられない内容ではないのだな」

 

「はい。実施条件でございます」

 

 ターニャは、机の端へ文書を置いた。

 

 モレルが、覗き込むように首を伸ばす。

 

 ブラントは動かない。

 

 ヒムラーの表情も変わらなかった。ただ、ターニャがどこから話を始めるかを見ている。

 

「第一に、ブラント医師を補助医として配置します。モレル医師の診療は、これまでどおり継続していただきます」

 

 ヒトラーは頷かなかった。

 

 反対もしない。

 

「第二に、注射剤を使用する場合は、医療補助者または指定された立会者を一名置きます」

 

 モレルが口を開いた。

 

「それでは緊急時に遅れます」

 

「緊急時は例外とします」

 

 ターニャは即座に返した。

 

「ただし、処置後に理由、時刻、薬品名、使用量を記載していただきます」

 

「患者を前にして記録のことを考えろと?」

 

「処置中ではありません。処置後です」

 

「私は忙しい」

 

「筆記は補助者が行えます。モレル医師には、内容をご確認いただきます」

 

 モレルの視線が、ブラントへ向く。

 

「彼に私の後ろへ立たせるのですか」

 

「毎回ブラント医師が立ち会うとは申し上げておりません」

 

「では誰です」

 

「医務側、警護側、侍従側から、状況に応じて指定します」

 

「医者でもない警護員を、診療室へ入れるつもりですか」

 

「薬効を判断させるのではありません。搬入された薬品と、使用された薬品が一致するかを確かめます」

 

 モレルは、顔をヒトラーへ向けた。

 

「総統閣下。診療室に人が増えれば、落ち着いた診察ができません」

 

 ヒトラーは、頬杖をつくこともなく、両手を机の上へ置いていた。

 

 視線だけがモレルからターニャへ移る。

 

「常に人を置く必要があるのか」

 

「ございません」

 

「なら、いつ置く」

 

「注射剤の使用時です。通常の診察や問診には求めません」

 

「錠剤は」

 

「現段階では対象外とします」

 

「なぜ分ける」

 

「注射剤は、その場で投与され、あとから回収できないためでございます」

 

 ヒトラーは、自分の腕へ一瞬だけ目を落とした。

 

 その動きは小さい。

 

 だが、モレルがすぐに前へ出た。

 

「総統閣下へ使用している注射は、全て体調に応じて選んでおります。危険なものではございません」

 

「危険だとは言っていない」

 

 ヒトラーの返答は穏やかだった。

 

 モレルの足が止まる。

 

「彼女は、見ていた者を残せと言っている。違うか」

 

「はい」

 

 ターニャは答えた。

 

「薬品の危険性を論じるのではございません。誰が、何を、いつ確認したかを残します」

 

 ヒトラーは、モレルへ視線を戻した。

 

「それで治療が遅れるのか」

 

「立会者がすぐに来ない場合は、遅れる可能性がございます」

 

「すぐ来るようにすればよい」

 

「総統閣下のご予定は、常に一定ではございません」

 

「だから、警護員がいるのだろう」

 

 モレルは答えられなかった。

 

 総統本人が、警護側の立会いを理由として認めた。

 

 ターニャが押し込むより早い。

 

 ヒトラーは、自分が出した結論を他人へ説明しない。言葉にした時点で、その場の前提を塗り替える。

 

 先ほどまで医療へ人を入れることは、診療の邪魔だった。

 

 今は、すぐ近くにいる警護員を一人使えば済む話になった。

 

 複雑さが、彼の一言で消えたように見える。

 

 実際には、立会者の選任、教育、秘密保持、交代、記録方法が必要になる。だが、それらは後から整えればよい。

 

 決裁者が「できる」と言えば、組織はできる形を探す。

 

 それが国家だった。

 

「緊急時には、処置を優先します」

 

 ターニャは念を押した。

 

「立会者不在を理由に、必要な診療を止めるものではございません」

 

 ヒトラーが、わずかに笑う。

 

「君は逃げ道も先に作るのだな」

 

「診療を妨げない条件で上げております」

 

「よい。次は」

 

 許可に近い。

 

 だが、ターニャはそこで礼を述べなかった。全項目が終わっていない。

 

「第三に、総統閣下の警護区域へ持ち込まれる薬品は、搬入時に警護班が外装、数量、搬入者を確かめます」

 

 モレルの呼吸が、目に見えて深くなった。

 

「私の鞄を開けるのですか」

 

「鞄そのものを毎回検査するのではありません。持込目録と内容を合わせます」

 

「同じことです」

 

「違います。私物を調べるのではなく、薬品の出入りを見ます」

 

「医薬品は私の診療道具です」

 

「総統閣下の警護区域へ入った時点で、警護対象にもなります」

 

「親衛隊は薬の名前も分からないでしょう」

 

「名称の確認は医務側が行います。警護班は、封緘、数量、搬入者、持込時刻を扱います」

 

 モレルは、ヒムラーへ顔を向けた。

 

「全国指導者。これは、私を密輸業者のように扱う話ではありませんか」

 

 ヒムラーは、静かな微笑を崩さなかった。

 

「そのようには考えていない。総統閣下へ近づく物品を記録するのは、警護上当然のことだ」

 

「これまでは問題なく行ってきました」

 

「それは、今後も確認を省く理由にはならない」

 

 ヒムラーの言葉は柔らかい。

 

 しかし、ターニャよりさらに逃げ道がなかった。

 

 部下が提案した線を、上官が親衛隊の職務として受け取る。これで、ターニャ個人の発案ではなくなった。

 

 モレルが反論するなら、少女の調整官ではなく、親衛隊全国指導者の警護判断へ反対することになる。

 

 ヒムラーは、それを声高に示さない。

 

 微笑んだまま、立場だけを置いた。

 

 総統の前で見せる親衛隊の微笑とは、こういうものなのだろう。

 

 好意に見える。

 

 だが、後ろでは扉が閉じている。

 

「総統閣下」

 

 モレルは、再びヒトラーへ向いた。

 

「私が持ち込む薬品は、その日の状態へ合わせております。事前に全てを決めることはできません」

 

「事前に決めろとは言っていない」

 

 ヒトラーが答えた。

 

「持ってきたものを書けと言っている」

 

「種類が多い場合もございます」

 

「なら、多いと書けばよい」

 

 単純な返答だった。

 

 室内に短い沈黙が落ちる。

 

 モレルが並べた医療上の複雑さを、ヒトラーは理解していないわけではない。

 

 理解する必要を感じていない。

 

 持ち込んだものを書け。

 

 その結論だけで十分だと考えている。

 

 人は、総統がそう言えば、複雑な事情の方を後ろへ下げる。

 

 それは理屈の勝利ではない。

 

 権威だけでもない。

 

 ヒトラーは、相手が反対しにくい単純な形へ話を縮める。聞いている者には、自分まで余計なことを難しく考えていたように感じさせる。

 

 そして、自分の言葉に従うことが、最も自然な選択へ見えてくる。

 

 恐ろしい能力だった。

 

「持込目録は、モレル医師の補助者に作らせます」

 

 ターニャは続けた。

 

「警護班は受領のみです。診療前に長く止めません」

 

「どの程度かかる」

 

 ヒトラーが問う。

 

「通常であれば、数分以内に終えます」

 

「一分でやれ」

 

 言い切られた。

 

 ターニャは、ほんの一瞬だけ考えた。

 

 無理ではない。

 

 事前に書式を作り、モレル側が記載済みの一覧を持参し、警護班は封緘と数量だけを見る。名称はあとから医務側へ回す。

 

「事前記載を条件にすれば可能です」

 

「なら、そうしろ」

 

「承知いたしました」

 

 モレルが、困ったように笑った。

 

「総統閣下。診療のために急いでいる時に、一覧を書く余裕があるかどうか」

 

「君が書く必要はない」

 

「ですが、私の薬品です」

 

「補助者に書かせろ。補助が必要だと言われた理由を、自分で増やすな」

 

 ヒトラーの声には怒気がない。

 

 それでも、モレルの笑顔はその場で止まった。

 

 逃げようとして差し出した言葉が、補助体制を正当化する材料として返ってきた。

 

 ターニャは、総統の横顔を見た。

 

 即興なのだろうか。

 

 それとも、最初からここまで考えていたのか。

 

 分からない。

 

 この男の前では、偶然の一言まで計算に見える。

 

 人々が勝手に意味を見出す。

 

 そして、その意味に従う。

 

「第四に、診療記録の写しを、指定された保管先へ送付します」

 

 ターニャは、語尾まで慎重に置いた。

 

 モレルが、すぐに反応する。

 

「保管先とは、どこです」

 

「国家保安本部です」

 

「医療記録を秘密警察へ渡すのですか」

 

「国家保安本部は、秘密警察だけではありません」

 

 ターニャの返答が短くなる。

 

「警護と保安に必要な限定資料として扱います。閲覧者は指定します」

 

「総統閣下の体調が、警察文書になる」

 

「診断内容を広く流すのではありません。薬品名、処置時刻、数量、立会者、署名者の控えです」

 

「それも医療記録です」

 

「同時に、総統警護に関わる記録でもあります」

 

 モレルは、今度こそ露骨にヒムラーを見た。

 

「全国指導者は、本当にこれを認めるのですか」

 

「認める」

 

 ヒムラーは、一言で答えた。

 

 微笑は残っている。

 

「総統閣下の健康に関する情報が、不必要に広がることは許さない。だからこそ、指定された保管先で扱わせる」

 

「私の手元に置く方が安全です」

 

「君一人の手元にしかない状態を、今問題にしている」

 

 ヒムラーの声は穏やかだった。

 

 だが、言葉は鋭い。

 

 ターニャが積み上げた論点を、そのまま自分の判断として使っている。

 

 総統の前で、ヒムラーはターニャの仕事を引き取っていた。

 

 責任を奪うのではない。

 

 部下の提案を、上官の権限で守っている。

 

 それが信頼の形だった。

 

 ターニャが一人でモレルと争っているのではない。

 

 親衛隊の取り決めを、ターニャが説明している。

 

 その位置へ上げられた。

 

 評価としては望ましい。

 

 将来の仕事量を考えなければ。

 

「閲覧者は誰だ」

 

 ヒトラーが尋ねた。

 

「当面は、ヒムラー閣下の指定者、国家保安本部側の照合担当、私、セレブリャコーフ少尉に限定いたします」

 

「ブラントは」

 

「医療上必要な範囲のみ、私を通して閲覧させます」

 

「モレルは自分の記録を見られるのか」

 

「もちろんでございます」

 

「私には」

 

「いつでもご覧いただけます」

 

 ヒトラーは、そこでモレルへ向いた。

 

「私が見られるならよいではないか」

 

「総統閣下がお望みでしたら、異存はございません」

 

 モレルは頭を下げた。

 

 異存はない。

 

 そう言うしかない。

 

 ここまでの反論を、ヒトラーが自分の閲覧権ひとつで終わらせた。

 

 総統本人が見る資料を保管する。

 

 その形にされれば、秘密警察への流出だとは主張しにくい。

 

「閲覧履歴を残します」

 

 ターニャは付け加えた。

 

「誰が、いつ、どの範囲を見たかを記載いたします」

 

「君もか」

 

「はい。私も対象です」

 

「ヒムラーも?」

 

 ヒトラーが、少し面白そうに問う。

 

「私も対象でございます」

 

 ヒムラーが答えた。

 

 ヒトラーは笑った。

 

「親衛隊全国指導者まで帳面へ名前を書くのか」

 

「例外を設ければ、そこから管理が崩れます」

 

 ターニャが答える。

 

「君は上官にも容赦がないな」

 

「ヒムラー閣下のご許可をいただいております」

 

「許可したのか」

 

「はい」

 

 ヒムラーの声には、迷いがなかった。

 

 ヒトラーは、二人を交互に見た。

 

「よい関係だ」

 

 その言葉は、褒めているようにも、警戒しているようにも聞こえた。

 

 ターニャは反応を控えた。

 

 ヒムラーも深く頭を下げるだけに留める。

 

 総統の前で、上官と部下の結びつきを誇示する意味はない。

 

 強く見せすぎれば、別の疑いを呼ぶ。

 

 ヒトラーは、その沈黙をどう受け取ったのか、口元をわずかに上げた。

 

「最後は」

 

 ターニャは、実施案の末尾へ目を落とした。

 

「薬品保管棚の鍵を分けます」

 

 モレルの手が止まった。

 

 それまで鞄の持ち手へ置かれていた指が、わずかに強く曲がる。

 

「どういう意味です」

 

「常備薬品を置く保管棚について、開錠を一名だけで完結させない運用にします」

 

「私が必要な時に薬を取り出せなくなる」

 

「緊急用は別にします」

 

「また例外ですか」

 

「診療を止めないためです」

 

「誰がもう一方の鍵を持つのです」

 

「通常は警護責任者です。医療上の確認が必要な場合は、ブラント医師または指定医務官を加えます」

 

「私の薬品棚です」

 

「総統閣下のために保管される薬品棚です」

 

 モレルの顔が固まった。

 

 ターニャも、声を少し低くした。

 

 ここが最も深い。

 

 鍵を分ける。

 

 それは、薬品を取り出すたびに他人が関わるということだ。モレルの手元だけで完結していたものが、警護と医務の経路へ接続される。

 

 補助医という穏やかな名目の内側で、最も強く裁量を削る項目だった。

 

「総統閣下」

 

 モレルは、正面からヒトラーを見た。

 

「これは、私の診療を信用しない運用です」

 

「違います」

 

 ターニャが先に答えた。

 

「鍵の所在を一人にしない運用です」

 

「言葉を変えても同じです」

 

「同じではありません」

 

「私が薬を取り出すたび、親衛隊へ許可を求めるのですか」

 

「許可ではなく、開錠への立会いです」

 

「それを許可と言うのです」

 

「判断はモレル医師が行います。警護側は止めません。取り出した事実を残します」

 

「信用されていない」

 

「信用の話へ戻す必要はありません」

 

「あなたは医者ではない!」

 

 モレルの声が、再び執務室へ響いた。

 

 ブラントが、わずかに視線を下げる。

 

 ヒムラーの微笑は消えない。

 

 ヒトラーだけが、静かにモレルを見ていた。

 

 その視線に気づいたモレルは、すぐに頭を下げた。

 

「失礼いたしました」

 

「モレル」

 

「はい、総統閣下」

 

「彼女は医者ではない」

 

「はい」

 

「だから、薬を選ばないと言っている」

 

「その通りでございます」

 

「なら、何が不満だ」

 

 モレルは、すぐには答えなかった。

 

「私の判断へ、疑いが持ち込まれることです」

 

「疑っているのか」

 

 ヒトラーがターニャへ問う。

 

 視線が正面から刺さる。

 

 ここで「いいえ」と答えれば、鍵を分ける理由が弱くなる。

 

 「はい」と答えれば、モレルへの攻撃になる。

 

 ターニャは、数瞬だけ沈黙した。

 

 ヒトラーは待つ。

 

 答えを急かさない。

 

 その待ち方が怖い。

 

 怒鳴られるより、沈黙の方が言葉を選べなくなる。何を答えても、総統はその答えを覚え、あとで別の意味へ使える。

 

「個人の判断を疑っているのではございません」

 

 ターニャは、ゆっくり答えた。

 

「一人の判断だけで、搬入、保管、使用、記録まで完結する形を危険と見ております」

 

「それは、モレルでなくてもか」

 

「はい。ブラント医師であっても同じです。私であっても例外にはいたしません」

 

 ヒトラーの目が細くなる。

 

「君自身も?」

 

「一名だけで全てを処理する権限は持ちません」

 

「持てと言われたら」

 

「役割を分けるよう、ご再考をお願い申し上げます」

 

 空気が張りつめた。

 

 モレルが、驚いたようにターニャを見る。

 

 ブラントも、わずかに顔を上げた。

 

 ヒムラーは動かなかった。

 

 総統から権限を与えられても、受け取らない。

 

 言い方によっては、総統の命令へ条件を付けたことになる。

 

 だが、ターニャは頭を下げたまま待った。

 

 ヒトラーは、椅子の背から身体を離した。

 

 目の奥に、怒りとも興味ともつかない光が宿る。

 

「なぜだ」

 

「人は誤ります」

 

「君もか」

 

「はい」

 

「私も?」

 

 問いが落ちた。

 

 室内から、わずかな物音まで消える。

 

 ターニャは、すぐに答えられなかった。

 

 否定すれば、嘘になる。

 

 肯定すれば、危険だった。

 

 ヒトラーは、その迷いを見ている。

 

 笑わない。

 

 助けない。

 

 少女がどのように逃げるかを待っている。

 

「総統閣下のご判断を、実行する者が誤る可能性はございます」

 

 ターニャは答えた。

 

「そのため、命令の内容、処理した者、結果を残す必要がございます」

 

「私が誤るかは答えない」

 

「私が判断する立場ではございません」

 

「うまく逃げたな」

 

「職務の範囲へ戻しました」

 

 ヒトラーは、数秒だけターニャを見続けた。

 

 その後、突然、声を上げて笑った。

 

 モレルも係官も、つられるように表情を緩める。

 

 ブラントはわずかに口元を動かしただけだった。

 

 ヒムラーの微笑は、先ほどより深い。

 

 笑いの中心にいるヒトラーは、先ほどまでの冷たい問いを忘れさせるほど魅力的に見えた。

 

 問い詰められていたターニャでさえ、張りつめていた身体からわずかに力が抜ける。

 

 それが不気味だった。

 

 この男は、相手を追い込み、その直後に笑いの輪へ戻す。

 

 許されたと思わせる。

 

 認められたと思わせる。

 

 次も、この人の前で答えたいと思わせる。

 

 恐怖のあとに与えられる親しさは、普通の好意より強く残る。

 

 人々が彼を見ていた理由が分かる。

 

 ただ命令されていたのではない。

 

 総統に試され、総統に笑われ、総統に認められたと感じた者たちは、その瞬間をもう一度得るために働く。

 

 ヒトラーは笑いを収め、ターニャへ言った。

 

「よい。鍵は分けろ」

 

 決定だった。

 

 モレルの顔から血の気が引く。

 

「総統閣下」

 

「緊急時は君が使えるようにしろ」

 

「はい」

 

 ターニャが答えた。

 

「通常は立会いを付けます。緊急用薬品は別箱とし、使用後の記載を義務とします」

 

「それなら治療は止まらないな」

 

「止めません」

 

「ブラント」

 

「はい、総統閣下」

 

「モレルを助けろ。邪魔はするな」

 

「承知いたしました」

 

「モレル」

 

「はい」

 

「診療は君が続ける」

 

 モレルの顔に、わずかな安堵が戻る。

 

「ありがとうございます」

 

「だが、記録は残せ」

 

「はい」

 

「薬品も見せろ」

 

「承知いたしました」

 

「彼らが余計なことをしたら、私に言え」

 

 モレルは、すぐに深く頭を下げた。

 

「はい、総統閣下」

 

 ヒトラーは、次にターニャへ視線を向ける。

 

「モレルが困るような規則を作るな」

 

「診療を継続できる条件で整えます」

 

「彼が不満を言ったら」

 

「内容を記録し、必要であれば修正案を上げます」

 

「何でも記録か」

 

「後で、言った、言わないを避けられます」

 

「つまらん世界だ」

 

 ヒトラーは、苦笑するように言った。

 

「ですが、止まりにくくなります」

 

「君は、止まらないことばかり考えているな」

 

「戦時でございますので」

 

 ヒトラーの目が、細く笑った。

 

「よい答えだ」

 

 ターニャは深く頭を下げた。

 

 決定事項は揃った。

 

 ブラントを補助医として置く。

 

 モレルの診療は継続。

 

 注射剤は立会制。

 

 薬品搬入は警護班が確かめる。

 

 診療記録の写しは、国家保安本部の限定保管へ送る。

 

 保管棚の鍵は分ける。

 

 表向きには、モレルを支える補助体制。

 

 実態は、薬品と記録を一人の手元から切り離す仕組みだった。

 

「少佐」

 

 ヒムラーが呼んだ。

 

 ターニャは、上官へ顔を向ける。

 

「はい」

 

「決定事項を本日中に文書化しろ。明朝から運用を始める」

 

「承知いたしました。担当者、例外条件、提出先まで確定させます」

 

「私へ最終案を持ってこい」

 

「はい」

 

 ヒムラーの声には、以前より明確な重みがあった。

 

 単なる指示ではない。

 

 この場で通した仕事を、そのままターニャへ任せるという意思だった。

 

 別の者へ取り上げない。

 

 医務側にも、国家保安本部の別部署にも渡さない。

 

 総統の前で説明し、決定まで運んだ者に、実施まで持たせる。

 

 ヒムラーの信頼は、言葉より担当の置き方に現れていた。

 

「ヒムラー」

 

 ヒトラーが言った。

 

「この子に働かせすぎるな」

 

 ターニャは、思わず顔を上げかけた。

 

 ヒムラーは、穏やかに答える。

 

「能力に応じた任務を与えております」

 

「それを働かせすぎると言う」

 

「必要な補佐は付けております」

 

 ヒトラーは、ターニャを見た。

 

「本当か」

 

「はい。セレブリャコーフ少尉をはじめ、必要な実務担当を付けていただいております」

 

「不満はないか」

 

「ございません」

 

「少しは考えてから答えろ」

 

「考えた上でございます」

 

 ヒトラーは、また笑った。

 

「ヒムラー。君の部下は、君より頑固だ」

 

「頼もしく思っております」

 

 ヒムラーの返答は早かった。

 

 ターニャは、その横顔を見た。

 

 総統の前で、はっきりと頼もしいと言った。

 

 その評価は、あとから撤回できない。

 

 ヒムラーの配下としての位置は、これまで以上に強くなった。

 

 同時に、逃げ道も減った。

 

(本当に、評価というものは余計な仕事を連れてくる)

 

 顔には出さない。

 

 ヒトラーは、もう決定を終えた者の顔をしていた。

 

「モレル。今日は診察の予定があるのか」

 

「夕刻に、体調を拝見する予定でございました」

 

「予定どおり来い」

 

「はい、総統閣下」

 

「ブラントは同席しない」

 

 モレルの肩が、少しだけ下がる。

 

「ありがとうございます」

 

「明日からだ」

 

 その肩が、再び固くなる。

 

「承知いたしました」

 

「今日は、今までどおり診ろ。明日から記録を変える」

 

「はい」

 

 ヒトラーは、モレルへ手を差し出した。

 

 握手ではない。

 

 話は終わったという合図だった。

 

 モレルは、すぐに深く礼を取る。

 

 顔には笑みを戻している。

 

 総統への感謝。

 

 診療継続への安堵。

 

 補助医を受け入れる従順さ。

 

 全てを同じ笑顔へ収めている。

 

「失礼いたします」

 

 モレルは鞄を持ち上げた。

 

 片方の手には、入室時から持っていた手袋がある。

 

 笑顔のまま、指が革を強く握り込む。

 

 柔らかな手袋に、深い皺が寄った。

 

 ブラントが一歩下がり、道を空ける。

 

 二人の視線が短く交わった。

 

 言葉はない。

 

 モレルは笑っている。

 

 ブラントの顔は変わらない。

 

 同じ総統のそばへ置かれた医師でありながら、二人の間には診療室より冷たい距離ができていた。

 

 係官が扉を開く。

 

 モレルが先に退出する。

 

 ブラントも、総統へ礼を取った。

 

「補助記録の案は、明朝までに整えます」

 

「モレルを怒らせるな」

 

 ヒトラーが言う。

 

「必要なことだけ申し上げます」

 

「それで怒る男もいる」

 

「その場合は、記録します」

 

 ヒトラーは、一瞬だけ黙った。

 

 それから、声を上げずに笑った。

 

「君まで同じことを言うのか」

 

「調整官から、そのように指示されております」

 

「なるほど」

 

 ヒトラーの目が、ターニャへ向く。

 

「君の病気が移ったらしい」

 

「職務上の取り決めでございます」

 

「そういうところだ」

 

 ブラントは、わずかに頭を下げて退出した。

 

 ヒムラーが、内部用の控えを受け取る。

 

「総統閣下。決定事項を整え、改めてご報告いたします」

 

「細かいところは任せる」

 

「恐れ入ります」

 

「ただし、モレルを追い出すな」

 

「承知しております」

 

「私が決める」

 

「御意のままに」

 

 ヒムラーは、最上段の礼を取った。

 

 ターニャも革挟みを閉じる。

 

 これで退出できる。

 

 面会前には存在しなかった決定が、もう六つある。今夜中に運用へ変え、明朝から動かさなければならない。

 

 セレブリャコーフへ担当表を作らせる。

 

 警護班へ立会者を選ばせる。

 

 医務側へ薬品名の確認者を出させる。

 

 国家保安本部側の保管場所を限定する。

 

 鍵を作る。

 

 緊急用薬品の別箱を用意する。

 

 モレルへの説明文も必要だ。

 

 ブラントの職務範囲も、改めて署名させなければならない。

 

 仕事の列が、頭の中で次々に伸びていく。

 

 総統の前でため息をつくことはできない。

 

 ターニャは、退出の礼を取った。

 

「貴重なお時間を賜り、ありがとうございました」

 

「待て」

 

 ヒトラーの声が、背中へ届いた。

 

 ターニャの足が止まる。

 

 ヒムラーも振り返った。

 

「デグレチャフは残れ」

 

 室内の空気が、再び変わった。

 

 ヒムラーは、すぐには動かなかった。

 

「総統閣下、私も同席いたしましょうか」

 

「いや。外で待て」

 

 一拍。

 

「承知いたしました」

 

 ヒムラーはターニャを見た。

 

 ほんの一瞬だった。

 

 恐れるなとも、余計なことを言うなとも、表情には出ていない。

 

 ただ、任せたという視線だった。

 

 先ほどまでの信頼が、今度は退室という形で示される。

 

 ヒムラーは係官と共に外へ出た。

 

 扉が閉じる。

 

 室内には、ヒトラーとターニャだけが残った。

 

 先ほどまで複数の人間がいた部屋が、急に広く感じられる。

 

 壁の地図。

 

 机の上のイギリス南部。

 

 総統健康管理体制の説明票。

 

 空になった椅子。

 

 ヒトラーは、すぐには話さなかった。

 

 ターニャも待つ。

 

 時計の音は聞こえない。

 

 窓の外から入る街の気配も、厚い壁に遮られている。

 

 ヒトラーは椅子から立ち上がり、ゆっくりと机を回った。

 

 ターニャの前で止まる。

 

 距離は近い。

 

 見下ろす目には、先ほどまでの笑みがない。

 

「本当は、モレルをどう思っている」

 

 声は低かった。

 

 総統として会議へ投げる問いではない。

 

 答えを文書へ残すつもりのない問いだった。

 

「優れた経験を持つ個人医と考えております」

 

「それだけか」

 

「現状では、裁量が一名へ集中しすぎております」

 

「危険だと思っているのだな」

 

 ターニャは、即答を避けた。

 

 ヒトラーの目が、わずかに細くなる。

 

「先ほどは形が危険だと言った。今は二人だけだ」

 

 逃げ道をひとつずつ消してくる。

 

 総統の前で、モレル本人の前で、ヒムラー同席の場で使った言葉を覚えている。

 

 今度は、組織の答えではなく、ターニャ個人の判断を求めている。

 

「はい」

 

 ターニャは答えた。

 

「危険になり得ると考えております」

 

「モレルが?」

 

「薬品と判断と記録が、一人の記憶だけで完結する状態が、でございます」

 

「また形へ戻す」

 

「私が確認できるのは、そこまでです」

 

「医者ではないからか」

 

「はい」

 

「それとも、言いたくないからか」

 

 ヒトラーは、少しだけ身体を屈めた。

 

 視線の高さが近づく。

 

 演説台の上で群衆を見下ろす顔ではない。

 

 一人の相手の中身だけを覗こうとする顔だった。

 

 その近さが、怒声より怖い。

 

「断定できる材料がございません」

 

「材料があれば、私にモレルを外せと言うのか」

 

「必要であれば、ご報告いたします」

 

「君は、私が怒っても言うのだな」

 

「職務でございますので」

 

「忠誠ではなく?」

 

「職務を果たすことが、忠誠であると考えております」

 

 ヒトラーは、目を逸らさない。

 

 ターニャも逸らさなかった。

 

 総統の前で忠誠を定義する。

 

 危うい。

 

 だが、媚びる言葉を並べるより、今のヒトラーにはこちらの方が通る。

 

「私は、忠誠とは命令に従うことだと思っている」

 

「はい」

 

「違うと言うのか」

 

「命令を正確に実行するため、必要な事実を先にお伝えすることも含まれると考えております」

 

「私が聞きたくない事実でも?」

 

「はい」

 

 ヒトラーの口元が、ほんの少し動いた。

 

 笑みではない。

 

 不快でもない。

 

 何かを確かめた者の顔だった。

 

「君は、私を恐れているか」

 

 また、その問いだった。

 

 前より近い。

 

 他に誰もいない。

 

 ターニャは、喉の奥が乾くのを感じた。

 

「はい」

 

 今度は、正直に答えた。

 

 ヒトラーの眉が上がる。

 

「先ほどは、恐れを理由に報告を曲げる方が怖いと言った」

 

「恐れていないとは申し上げておりません」

 

「では、なぜ逆らえる」

 

「逆らっているつもりはございません」

 

「私が嫌がることを言う」

 

「必要なご報告です」

 

「同じことだ」

 

「私にとっては違います」

 

 ヒトラーは、しばらく黙っていた。

 

 それから、窓の方へ歩いた。

 

 背を向ける。

 

「人は、私の前で二つに分かれる」

 

 独り言のような声だった。

 

「恐れて黙る者と、気に入られようとして話しすぎる者だ」

 

 ターニャは返さない。

 

「君は、恐れているのに黙らない。気に入られようともしていない」

 

「任務を終えることを優先しております」

 

「それが気に入らん」

 

 ヒトラーは振り返った。

 

 顔には笑みがある。

 

 先ほどの言葉と表情が一致しない。

 

「そして、面白い」

 

 ターニャは、礼を取った。

 

「恐れ入ります」

 

「英国の案も、モレルの案も、君は同じ顔で話す」

 

「どちらもドイツの戦争指導に関わります」

 

「人間の顔ではないな」

 

 ヒトラーは、静かに笑った。

 

「兵士でも、役人でも、医者でもない。自分がどこにいるか分かっているのか」

 

「親衛隊少佐として、命じられた位置におります」

 

「それでは足りん」

 

 ヒトラーの声が、急に硬くなる。

 

「君は、自分が何者なのかを聞かれている」

 

 ターニャは答えを探した。

 

 転生者。

 

 未来を知る者。

 

 帝国を破滅させる形を知りながら、その帝国の制服を着ている者。

 

 どれも言えない。

 

 言うべきでもない。

 

「国家の命令を、実行可能な形へ直す者でございます」

 

 選んだ答えは、それだった。

 

 ヒトラーの笑みが消えた。

 

 目だけが、ターニャを見据える。

 

「命令を直す?」

 

「失礼いたしました。命令の目的を損なわず、実施手順へ落とすという意味でございます」

 

「いや」

 

 ヒトラーは、ゆっくり首を振った。

 

「最初の言葉の方が正しい」

 

 ターニャの背に、冷たいものが走る。

 

 ヒトラーは、近づかない。

 

 だが、声だけが距離を詰める。

 

「命令は、人間の口から出る。完全ではない。現場へ届くまでに、形を与える者が必要だ」

 

 穏やかな口調だった。

 

「君は、それをしている」

 

「恐れ入ります」

 

「だから、危険でもある」

 

 ターニャは黙った。

 

「命令を形にする者は、命令を変えることもできる」

 

「私一人では決裁できないよう、手順を分けております」

 

「そこでも自分を縛るのか」

 

「必要でございます」

 

「自分を信用していない?」

 

「一名へ預けないという原則です」

 

 ヒトラーは、低く笑った。

 

「本当に徹底している」

 

 その声音には、感心と警戒が混じっていた。

 

「よい。君はヒムラーの下で働け」

 

 ターニャは、わずかに目を上げた。

 

「はい」

 

「だが、私へ上げるべきものを、ヒムラーの机で止めるな」

 

 命令だった。

 

「承知いたしました」

 

「英国の講和案も、私へ持ってこい」

 

「ヒムラー閣下の決裁を経て提出いたします」

 

「それでよい」

 

 ヒトラーは、机へ戻った。

 

 説明票を持ち上げる。

 

「モレルの件もだ。異常があれば、隠すな」

 

「はい」

 

「彼を追い出すための異常を探すな」

 

「そのようなことはいたしません」

 

「ブラントにも言え」

 

「承知いたしました」

 

「そして」

 

 ヒトラーは、そこで一度言葉を止めた。

 

 ターニャを見る。

 

 先ほどまでの問い詰める目ではない。

 

 人を引き込む時の目だった。

 

 この人物の言葉を、自分だけが聞いていると思わせる目。

 

「イギリスを倒したあと、君が言った帝国の使い方を見せろ」

 

 声は静かだった。

 

 それでも、命令というより未来を預けられたように聞こえる。

 

 大勢の人間が、この感覚に魅了されたのだろう。

 

 総統が自分を見た。

 

 自分の能力を認めた。

 

 自分へ、歴史の続きを任せた。

 

 その錯覚は、勲章より重い。

 

 ターニャは、それが錯覚だと知っている。

 

 知っていても、胸の奥にわずかな熱が生まれる。

 

 だからこそ、この男は危険だった。

 

「全力を尽くします」

 

 それ以外の返答はなかった。

 

 ヒトラーは満足したように頷く。

 

「よい。行け」

 

「失礼いたします」

 

 ターニャは、最上段の礼を取った。

 

 背を向ける。

 

 扉までの距離が、入室した時より長く感じられた。

 

 手を伸ばす前に、背後から最後の声が届く。

 

「デグレチャフ」

 

 ターニャは振り返った。

 

「はい」

 

 ヒトラーは、既にイギリス南部の地図へ目を落としていた。

 

「私が間違えると思った時も、今日のように話せ」

 

 ターニャは、息を止めそうになった。

 

 命令なのか。

 

 試しているのか。

 

 将来、同じことを言えば本当に許されるのか。

 

 分からない。

 

 ヒトラー自身にも、その時まで分からないのかもしれない。

 

 それでも、今は答えなければならない。

 

「承知いたしました」

 

 ヒトラーは、もうこちらを見なかった。

 

 地図の上で、指がイギリス南部の飛行場をなぞっている。

 

 ターニャは扉を開けた。

 

 廊下にはヒムラーが待っていた。

 

 セレブリャコーフとEVAも、その後ろにいる。

 

 ヒムラーは、ターニャの顔を一度見ただけで、何も尋ねなかった。

 

「戻るぞ」

 

「はい」

 

 四人は歩き始めた。

 

 廊下の先には、今夜中に作る運用案が待っている。

 

 そのさらに先には、イギリス講和後の主権管理案がある。

 

 ターニャは、閉じた扉を振り返らなかった。

 

 総統から与えられた言葉は、許可ではない。

 

 免責でもない。

 

 間違いを指摘しろと言いながら、実際に指摘した時、同じ顔で受け入れる保証はどこにもなかった。

 

 それでも、命令として残った。

 

 モレルの薬瓶へ最初の制限がかかった日、ターニャ自身にも、別の細い鎖が結ばれていた。

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。