幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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閑話 ターニャの休暇1 前半1

 

 休暇命令は、申請書の形をしていなかった。

 

 親衛隊全国指導者個人幕僚部から届いた封筒には、休養計画、移動経路、宿泊先、護衛構成、現地連絡責任者まで記載されていた。ターニャが署名する欄はある。だが、希望日を書く欄はなかった。

 

 つまり、相談ではない。

 

 決裁済みの命令である。

 

 封筒の一番上には、ヒムラーの署名があった。その下には、総統副官部を経由した承認印まで押されている。

 

 三泊四日。

 

 初日はオーバーザルツベルクへ移動し、総統山荘へ出頭。

 

 二日目以降は、警護区域内および指定された近郊における自由行動を認める。

 

 四日目の午後にベルリンへ帰還。

 

 自由行動という言葉の横には、外出時の護衛人数、連絡時刻、立入禁止区域、緊急時の帰投先が細かく並んでいた。自由とは何かを再考したくなる内容である。

 

(自由行動に別紙が四枚付く時点で、自由ではないだろう)

 

 ターニャは内心でだけ愚痴をこぼし、封筒を閉じた。

 

 拒否はできる。

 

 形式上は。

 

 ただし、拒否理由を書き、ヒムラーへ提出し、総統の気遣いまで辞退することになる。休養が不要である根拠を、最近の勤務記録、移動時間、睡眠状況、食事時刻と照らして説明しなければならない。

 

 勝ち目はない。

 

 とりわけ厄介なのは、休暇そのものが総統の意向を含んでいることだった。

 

 モレルを総統の周辺から切り離すために、ターニャは診療記録、薬品搬入、警護区域、補助医の配置を一つずつ動かした。仕事として必要だった。だが、ヒトラーから見れば、自分の信頼する医師へ正面から異議を差し込みながら、最後には自分の健康管理を整えた少女でもある。

 

 ヒムラーから見れば、それだけではない。

 

 北方、西方、占領行政、研究資材、警察、医療警護。年齢に見合わない量を処理し続ける部下を放置し、執務中に倒れられれば、上官としての管理責任を問われる。

 

 したがって休ませる。

 

 しかも、本人が逃げられない形で。

 

 実に周到だった。

 

「少佐、お荷物はこちらでよろしいでしょうか」

 

 セレブリャコーフが、旅行鞄の留め具を確かめながら尋ねた。

 

「ああ。私物はそれで全部だ」

 

「予備の制服、外套、手袋、夜間用の上着、洗面具、筆記用具を入れてあります」

 

「筆記用具は減らしていい」

 

「一本だけです」

 

「ならいい」

 

 セレブリャコーフは副官として同行する。

 

 休暇に副官が付くこと自体がおかしいという議論は、最初から封じられていた。ヒムラーの説明では、これは親衛隊全国指導者個人幕僚部付将校の休養を兼ねた非公式訪問であり、連絡要員が必要とのことだった。

 

 連絡要員。

 

 便利な言葉である。

 

 実際には、ターニャが休暇先で書類へ手を出し始めた場合に止める人間と、予定どおり食事を取らせる人間が必要なのだろう。

 

 ターニャは黒服の上着へ腕を通した。

 

 休暇でも制服である。

 

 私服の選択肢がなかったわけではない。だが、総統山荘へ出頭する初日に私服を選ぶほど、ターニャは政治的に無邪気ではない。親衛隊の少佐として招かれた以上、まずは親衛隊の少佐として現れるべきだった。

 

 黒服は目立つ。

 

 時代の流れから外れ始めた旧式の意匠であり、ターニャにだけ認められた権威的例外でもある。褐色シャツ、黒いネクタイ、銀の縁取り、帽子の鷲章。小柄な体に合わせて仕立て直されていても、制服が持つ意味まで小さくなるわけではない。

 

 むしろ、幼い外見との不釣り合いが象徴として利用される。

 

 総統と親衛隊長官が気に入った黒服の少女。

 

 若さ、規律、忠誠、知性。

 

 そして、彼らが理想として語る民族の将来。

 

 ターニャ本人がどう思うかとは別に、周囲は勝手に意味を重ねる。

 

「襟元に問題はありません」

 

 セレブリャコーフが一歩引いて確認した。

 

「帽子は車へ乗るまででいいな」

 

「はい。現地到着後、改めて着用いただきます」

 

「分かった」

 

 宿舎を出ると、朝の空気はまだ冷たかった。

 

 ベルリンから南へ向かう移動は、途中まで専用車両を連結した列車を使う。目立たないようにという配慮と、要人として扱うという意図が、見事に矛盾した編成だった。

 

 駅では護衛が先に動き、乗車口の周囲を整理していた。通常の勤務服姿の親衛隊員が二名、秩序警察から連絡要員が一名、鉄道側の責任者が一名。過剰ではない。だが、未成年の少佐が休暇へ向かう人数としては、十分すぎる。

 

 ターニャが乗り込むと、個室には朝食が用意されていた。

 

 黒パン、バター、蜂蜜、薄切りのチーズ、茹で卵、温かいコーヒー。銀色の小さなポットには牛乳も入っている。

 

「移動中に召し上がるよう、指示が出ています」

 

 鉄道側の係官が言った。

 

「誰からですか」

 

「親衛隊全国指導者個人幕僚部からです」

 

 徹底している。

 

 ターニャは席に着いた。

 

「では、いただきます」

 

 係官が下がり、扉が閉じる。

 

 列車がゆっくり動き始めた。

 

 窓の外で駅舎が流れ、建物の列が後ろへ消えていく。ベルリンの灰色が少しずつ遠ざかる。それでも、ターニャの頭はすぐに仕事から離れなかった。

 

 モレルの薬品記録。

 

 ブラントの補助医配置。

 

 対英戦準備。

 

 南部飛行場の一覧。

 

 占領地の警察協力。

 

 研究資材の統括案。

 

 考えるべきことは残っている。

 

 だが、目の前には朝食がある。

 

 セレブリャコーフが向かいの席へ座り、自分のカップへコーヒーを注いだ。彼女も制服姿だが、黒服ではない。親衛隊少尉として整った勤務服を着用している。

 

「少佐」

 

「何だ」

 

「休暇中は、執務用の控えをお渡ししないよう指示されています」

 

「誰の指示だ」

 

「ヒムラー閣下です」

 

「……そうか」

 

「緊急時を除き、ベルリンからの照会も個人幕僚部で止めるとのことでした」

 

 完全な包囲である。

 

 ターニャは黒パンを一片取り、バターを薄く塗った。

 

「私が現地から問い合わせた場合は」

 

「緊急性を確認するように、と」

 

「誰が確認する」

 

「私です」

 

 セレブリャコーフの返答は丁寧だった。

 

 だが、逃げ道はない。

 

「お前まで敵に回ったか」

 

「休養命令の実行を補佐しております」

 

「言い方がきれいだな」

 

「ありがとうございます」

 

「褒めていない」

 

 セレブリャコーフはわずかに目を伏せた。

 

 笑ったわけではない。

 

 だが、普段より表情が柔らかい。彼女にとっても、ベルリンを離れることは多少の息抜きになるのだろう。

 

 蜂蜜を塗った黒パンは悪くなかった。

 

 硬さはあるが、噛むほど小麦の味が出る。チーズの塩気と合わせれば、朝食として十分に満足できる。コーヒーも濃い。列車内で出るものとしては、予想より良かった。

 

 ターニャは二口目を食べた。

 

(休暇命令へ食事時刻まで付けた連中のことだ。質まで確認している可能性があるな)

 

 考えてみれば恐ろしい。

 

 だが、腹は満たされる。

 

 車窓の景色は、南へ進むにつれて少しずつ変わっていった。

 

 工場と集合住宅の密集が減り、畑が増える。小さな町の駅を通り、教会の尖塔が遠くに見える。途中で列車を乗り換え、さらに南へ向かう頃には、窓の外の緑が濃くなっていた。

 

 ターニャは最初、持参した手帳を開いていた。

 

 だが、書くべき内容はない。

 

 正確には、書いてはいけない。

 

 休暇中の予定は既に別の予定表へまとめられ、今日の欄には移動、総統山荘出頭、会食、宿泊としか書かれていない。空欄を埋めようとしても、仕事を持ち込まない限り増えなかった。

 

 仕方なく手帳を閉じる。

 

 窓の外を見る。

 

 森が流れていた。

 

 規則的に並ぶ木々ではない。地面の起伏に沿って濃淡が変わり、時折、赤い屋根の家が現れる。牛が草地へ出ている。川面が光り、遠くには山の稜線が見え始めていた。

 

 ターニャは、思っていたより長く外を見ていた。

 

「きれいですね」

 

 セレブリャコーフが言った。

 

「ああ」

 

 答えてから、少しだけ自分でも意外に思う。

 

 きれいだ、と認めることに実務上の意味はない。だが、否定する理由もない。ベルリンの石造りの建物と、薄暗い廊下と、書類棚ばかりを見続けてきた目には、遠くまで続く緑が妙に広く感じられた。

 

「明日は、ケーニヒ湖方面の外出も可能と伺っています」

 

「湖か」

 

「はい。天候が良ければ、船にも乗れるそうです」

 

「船」

 

「観光船です」

 

 観光。

 

 聞き慣れない言葉ではない。

 

 ただ、自分の予定へ入ることが少ないだけだ。

 

「警護は」

 

「通常の外出より減らされます。目立たない位置に二名、現地側から一名です」

 

「十分多いな」

 

「はい」

 

 セレブリャコーフも否定しなかった。

 

 午後に入る頃、列車はバイエルンへ入った。

 

 山の姿が近くなり、空気まで違って見える。窓をわずかに開けると、冷たい風に草と土の匂いが混じっていた。

 

 ベルヒテスガーデン近郊の駅では、車が待っていた。

 

 黒塗りの大型車が二台。先導車と、ターニャたちが乗る車。さらに後方へ護衛車両が一台付く。運転手は親衛隊所属で、現地の道路に慣れた男だった。

 

 車は町を抜け、坂道へ入った。

 

 石造りの家々、木製のバルコニー、窓辺に置かれた花。ベルリンとはまるで違う。道沿いでは地元の者たちが車列へ目を向け、制服を認めると姿勢を正す者もいた。

 

 ターニャは帽子をかぶり直した。

 

 黒服の少女将校は、車窓越しでも目立つ。

 

 現地の党組織には来訪予定が伝わっているのだろう。途中の交差点では、地区指導部らしい男たちが待ち、車列へ向かって右腕を掲げた。

 

「ハイル・ヒトラー!」

 

 車内から返礼する必要はない。

 

 だが、ターニャは窓の向こうへ短く視線を返した。

 

 彼らの顔には好奇心と期待がある。

 

 黒服の少女。

 

 総統と親衛隊長官が認めた若い将校。

 

 北方と西方の勝利に関与し、国家保安本部で働く存在。

 

 噂は、事実より先に育つ。

 

 車がさらに高度を上げると、谷が眼下へ広がった。

 

 遠くの山には雪が残り、斜面の森は深い緑に覆われている。雲の影が山肌をゆっくり動く。空気はベルリンより明らかに澄んでいた。

 

 総統山荘の警備区域へ入る前に、最初の検問があった。

 

 ここから先は、親衛隊の警備員が増える。道路脇の建物、遮断機、通行確認。車両番号と搭乗者名は既に登録済みだが、それでも形式は省かれない。

 

 ターニャはその手順を見て、少しだけ安心した。

 

 信頼と警護手順は分ける。

 

 自分がモレルへ言ったことと同じだ。

 

 総統に招かれた者であっても、車列の確認は行う。そこに例外を作らない方がよい。

 

 検問を抜け、しばらく進むと、山荘が見えた。

 

 広い斜面に建つ大きな建物。山の景色へ開かれた窓。周囲には警備のための施設や、随行者用の建物もある。外から見れば山中の別荘だが、近づくほど、単なる私的な住居ではないと分かる。

 

 ここも一つの政治中枢である。

 

 総統が休み、食事をし、映画を見て、側近と話し、国家の方針を決める場所。

 

 執務室の机がなくても、命令は生まれる。

 

 車が正面へ着くと、係官が扉を開けた。

 

 ターニャは降車し、帽子の位置を整えた。セレブリャコーフも続く。

 

 玄関前では、総統副官部の将校と、親衛隊側の連絡担当が待っていた。

 

「デグレチャフ少佐、セレブリャコーフ少尉。ようこそオーバーザルツベルクへ」

 

「お迎えいただき、ありがとうございます」

 

 ターニャは公式の口調で答えた。

 

「総統閣下は現在、短い会談中です。先にお部屋へご案内いたします。夕刻にお目通り、その後、会食となります」

 

「承知しました」

 

 玄関へ入る。

 

 山荘の中は、ベルリンの官庁とはまったく違った。

 

 木材を多く使った内装。広い窓。厚い絨毯。重々しさはあるが、圧迫感は少ない。廊下には絵画や家具が置かれ、政治施設というより上流階級の私邸に近い。

 

 それでも、随所に警備員がいる。

 

 扉の位置、階段、窓、廊下の角。目立たないように立っているが、配置には意味がある。ターニャは反射的に人数と距離を数えかけ、途中でやめた。

 

(休暇だ)

 

 自分へ言い聞かせる。

 

 部屋は二つ用意されていた。

 

 ターニャ用の寝室と、隣にセレブリャコーフの部屋。小さな居間を共有し、窓からは山々が見える。ベッドには白い布が張られ、机の上には花瓶と果物籠が置かれていた。

 

 果物籠の横には、小さなカードがある。

 

 総統閣下ならびに親衛隊全国指導者より、休養を願って。

 

 簡潔だ。

 

 だが、二人の名が並んでいる。

 

 セレブリャコーフがカードを見た。

 

「総統閣下からも、お気遣いいただいているのですね」

 

「ああ」

 

 ターニャはカードを置いた。

 

 落ち着かない。

 

 単なる上官の配慮なら処理できる。休養命令として受け取り、必要な日数を消化し、戻ればいい。

 

 だが、総統からの気遣いという形になると、政治的な意味が増える。

 

 ヒトラーは、自分を見ている。

 

 有能な少女将校として。

 

 ヒムラーが育てた黒服の成果として。

 

 そしておそらく、彼自身が好む「ドイツ民族の未来」を体現する存在として。

 

 そこへ応えることは、仕事の一部だ。

 

 同時に、利用されることでもある。

 

 ターニャは窓へ近づいた。

 

 山の景色は、そんな政治的な計算とは無関係に広がっていた。青い空、遠い峰、谷を覆う森。窓を開けると、冷たい空気が部屋へ入る。

 

 セレブリャコーフも隣へ来た。

 

「良い眺めです」

 

「そうだな」

 

「少し休まれますか」

 

「夕刻まで、どのくらいある」

 

「二時間ほどです」

 

 二時間。

 

 仕事がない。

 

 会談の準備も、提出物の確認も、移動経路の再点検も必要ない。

 

 ターニャは机を見た。

 

 書類がない。

 

 果物籠だけだ。

 

「少佐」

 

「何だ」

 

「リンゴをいただきますか」

 

 セレブリャコーフが、ごく自然に尋ねた。

 

 ターニャは少し考えた。

 

「一つだけ」

 

「はい」

 

 リンゴは赤く、手に持つと少し冷たかった。

 

 ナイフで切り分け、二人で食べる。甘みと酸味がはっきりしている。ベルリンで配給されるものより、明らかに状態がよい。

 

「おいしいな」

 

「はい」

 

 それだけの会話だった。

 

 だが、ターニャは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。

 

 窓の外を見ながら果物を食べる。

 

 誰にも急かされない。

 

 電話も鳴らない。

 

 回付箱も来ない。

 

 不自然なくらい、静かだった。

 

 夕刻前、係官が迎えに来た。

 

 ターニャは再び制服を整え、帽子をかぶる。休暇ではあるが、総統との対面である。襟元も手袋も、普段と同じ基準で確認した。

 

 案内されたのは、大きな窓のある広間だった。

 

 ヒトラーは窓の近くに立っていた。

 

 遠くの山を背にし、淡い色の上着を着ている。ベルリンの執務室で見る姿より、わずかに力が抜けて見えた。だが、ターニャたちが入ると、すぐに視線が向いた。

 

 ヒムラーもいた。

 

 勤務服姿で、ヒトラーより一歩引いた位置に立っている。ほかに数名の側近がいたが、広間そのものは大きすぎず、非公式な面会の空気を保っていた。

 

 ターニャとセレブリャコーフは姿勢を正し、右腕を掲げた。

 

「ハイル・ヒトラー!」

 

「ハイル・ヒトラー」

 

 ヒトラーが返礼する。

 

 ターニャは一歩進んだ。

 

「総統閣下。このたびは、休養の機会を賜り、ありがとうございます。デグレチャフ少佐、ただいま到着いたしました」

 

 自分を上官へ名乗る時は、デグレチャフである。

 

 ヒトラーはターニャを見下ろし、少し笑った。

 

「休暇の報告まで軍務のようにする必要はない」

 

「失礼いたしました」

 

「いや。君らしい」

 

 ヒトラーの視線が、ターニャの黒服をなぞる。

 

「休みの日も黒い制服か」

 

「本日は、総統閣下へお目通りする予定でございましたので」

 

「ヒムラーが喜ぶ」

 

 ヒムラーが口元へ控えめな笑みを浮かべた。

 

「黒服は、この者によく合います」

 

「よく目立つ」

 

「目立つだけの成果を上げております」

 

 ヒトラーは、もう一度ターニャを見た。

 

 見た目を確かめる視線ではない。

 

 自分の前に立つ存在へ、意味を与えようとする目だった。

 

「君を見ていると、ドイツ人の未来というものが分かりやすく見える」

 

 広間の空気が少し変わる。

 

 ターニャは表情を崩さない。

 

「身に余るお言葉でございます」

 

「小さい。若い。だが、判断は大人より速い。命令を理解し、実行し、必要なら上官へも意見を言う」

 

 ヒトラーはヒムラーへ顔を向けた。

 

「こういう人間が増えるなら、次の世代は心配ない」

 

「教育、健康、選抜、その全てを国家が正しく導けば、成果は現れます」

 

 ヒムラーの返答には、確信があった。

 

「デグレチャフは偶然ではありません。ドイツ民族が持つ可能性を、規律と教育で引き出した一例です」

 

 実際には、ターニャの中身は彼らが想像するような純粋培養の成果ではない。

 

 だが、それを説明するわけにはいかない。

 

 存在Xを含め、説明すべきでないものが多すぎる。

 

 ターニャは黙って受け止めた。

 

 ヒトラーが続ける。

 

「民族の質を高めることを残酷だと言う者がいる。だが、病気を放置し、無能を増やし、優れた者へ同じ扱いを強いる方が、よほど残酷だ」

 

 それはナチスの優生思想そのものだった。

 

 ヒムラーも否定しない。

 

「国家は、次の世代に責任を持たねばなりません。家庭だけへ任せるには、民族全体の問題は大きすぎます」

 

 ターニャは、慎重に言葉を選んだ。

 

「健康、教育、適性を国家が把握し、必要な支援と配置を行う合理性は理解しております」

 

 ヒトラーの目がわずかに明るくなる。

 

「そうだろう」

 

「ただし、評価の誤りは人材の損失となります。選抜を行うのであれば、基準と記録、再確認の経路が必要かと存じます」

 

 ヒムラーがターニャを見る。

 

 反対ではない。

 

 無条件の賛成でもない。

 

 ターニャは思想を手順へ落とした。

 

 ヒトラーは少し笑った。

 

「君は、何でも記録へ戻す」

 

「誤りを修正できる状態が必要と考えます」

 

「悪くない。優れた血があっても、見抜けなければ意味がない」

 

 ヒトラーの中では、ターニャの留保も優生思想の精密化として受け取られたらしい。

 

 それでいい。

 

 少なくとも、今は。

 

「君には休んでもらいたい」

 

 ヒトラーが話題を変えた。

 

「ヒムラーから、君は仕事を止めないと聞いた」

 

 ターニャはヒムラーを見た。

 

 ヒムラーは動じない。

 

「必要な報告を申し上げただけだ」

 

「総統閣下。デグレチャフは、休養命令を出さなければ、空いた時間へ別の案件を入れます」

 

「そこまでか」

 

「はい」

 

 ヒトラーが楽しそうに笑った。

 

「では、今回は命令だ。三日間は休め。山を見ろ。食事をしろ。湖へ行ってもいい。君が戻るまでドイツは倒れん」

 

「承知いたしました」

 

 ターニャは頭を下げた。

 

 拒否の余地は完全に消えた。

 

 だが、不思議と不快ではなかった。

 

 総統が自分の休養へ言及し、ヒムラーがその必要性を説明する。政治的な意図はある。象徴としての利用もある。

 

 それでも、気遣いが存在しないわけではない。

 

 少なくとも、結果として自分は山の空気を吸い、良いリンゴを食べ、数日間は書類から離れられる。

 

 利益はある。

 

 ならば受け取るべきだ。

 

 夕食までの短い時間、広間の窓辺で山の説明を受けた。

 

 ヒトラーはオーバーザルツベルクの景色を好んでいた。山の名前、谷の位置、天候による見え方。政治の話をしている時とは違い、言葉に個人的な好みが混じる。

 

「晴れた朝がいい。雲が低い日は、山が近く見える」

 

「明日は晴れる予報です」

 

 ヒムラーが言った。

 

「では、湖へ行くとよい。町も見ておけ。ベルリンばかりでは、ドイツを知ったことにならん」

 

「ありがとうございます」

 

 ヒトラーの言葉は、観光を命じているようでもあった。

 

 ターニャは、少しだけ可笑しく思った。

 

 総統命令による観光。

 

 これほど拒否しにくい余暇も珍しい。

 

 会食の部屋へ入る頃には、ほかの出席者も集まり始めていた。

 

 ハイドリヒ。

 

 国家保安本部の実務を握る男は、いつもの冷たい表情を崩していない。休暇の席へ来ても、目だけは相手の価値を測っている。

 

 ゲシュタポ長官ミュラー。

 

 内務官僚として法令に強いシュトゥッカート。

 

 党官房からボルマン。

 

 医療側からカール・ブラント。

 

 外務省との連絡に関わる官僚も一名いた。

 

 後に別の場所で同じ机を囲む者たちが、まだ別々の案件と役職を抱えたまま、総統山荘の夕食へ集まっている。

 

 ターニャは、その顔ぶれを見て理解した。

 

 これは単なる歓迎会食ではない。

 

 総統とヒムラーが、ターニャを高官たちの前へ置く場でもある。

 

 今後、占領行政、警察協力、人員移送、反独組織の監視、対英講和後の主権管理を進めるなら、彼らとの接点は増える。

 

 ならば、友好とまではいかなくても、少なくとも話の通る相手として認識させる価値はある。

 

 食卓は大きかった。

 

 だが、公式晩餐ほど距離は遠くない。ヒトラーを中心に席が決められ、ターニャはヒムラーとハイドリヒに近い位置へ置かれた。セレブリャコーフは少し後ろの席だが、会話へ入れる距離にいる。

 

 最初に出されたのは、澄んだ野菜のスープだった。

 

 香草の香りがあり、細かく切った根菜が入っている。塩味は強すぎず、移動後の胃に優しい。

 

 ヒトラーの料理は肉を避けたものが中心だった。

 

 一方、客には別の皿も用意されている。

 

 山川で取れたマスの燻製。

 

 豚肉のロースト。

 

 ジャガイモの団子。

 

 赤キャベツの煮込み。

 

 香ばしく焼いたプレッツェル。

 

 ターニャの前には、食べやすい量へ調整した皿が置かれた。子供扱いをされているようで少し癪だが、量としては丁度いい。

 

 マスは脂が乗り、燻製の香りが穏やかだった。

 

 レモンを少し絞ると、塩味が引き締まる。

 

 ジャガイモの団子は柔らかく、肉のソースをよく吸う。赤キャベツには甘酸っぱさがあり、重い料理の合間に食べると口が軽くなった。

 

(うまい)

 

 素直な感想だった。

 

 食事へ集中することに罪悪感を持つ必要はない。

 

 これは休養命令の一部である。

 

 むしろ残す方が命令違反だ。

 

 ターニャはローストをもう一切れ口へ運んだ。

 

 セレブリャコーフも、普段よりゆっくり食べている。目が合うと、わずかに頷いた。

 

 おいしい。

 

 言葉にしなくても分かる。

 

 会話は、最初こそ戦況と休暇の話から始まった。

 

「フランスは崩れた」

 

 ヒトラーが言う。

 

「だが、イギリス人はまだ、自分たちが勝者の側へ戻れると思っている」

 

 ボルマンがすぐに応じた。

 

「島国の傲慢です。大陸を犠牲にし、自分たちは海の向こうから条件を付ける」

 

「民主主義は責任の所在を消す」

 

 シュトゥッカートが、法令の話をする時と同じ落ち着いた声で言った。

 

「議会、内閣、王室、官僚。誰もが決めたと言い、同時に誰も自分が決めたとは言わない。敗北しても、制度の後ろへ隠れます」

 

 ターニャはスープの匙を置いた。

 

「責任経路が複数ある制度は、決定が遅れる一方で、失敗時に責任を分散させやすい面がございます」

 

 シュトゥッカートがターニャを見る。

 

「少佐も、民主主義をそのように見るか」

 

「戦時の指揮制度としては、欠点が大きいと考えます。ただし、複数の経路を完全に消せば、一つの誤判断を止められなくなります」

 

「だから記録と再確認か」

 

「はい。決定者を一人へ絞ることと、確認経路を一つにすることは別です」

 

 ヒトラーが、満足そうに頷いた。

 

「最後に決める者は一人でよい。だが、決める前に正しい情報が上がらなければならん」

 

 ターニャは頭を下げた。

 

「その通りでございます」

 

 ハイドリヒは黙って聞いていた。

 

 彼の視線は、以前と変わらない。

 

 評価している。

 

 同時に、測りかねている。

 

 ターニャがヒムラーへ忠実なのか。

 

 総統へ直接忠誠を向けているのか。

 

 国家という抽象へ従っているのか。

 

 あるいは、自分自身の生存と権限を守るために、全てを使っているのか。

 

 ハイドリヒは、おそらくまだ答えを出していない。

 

 ターニャも、答えを与える気はない。

 

 会話は共産主義へ移った。

 

「ボリシェヴィキは、人間から家族と財産と信仰を奪う」

 

 ヒムラーの声は、演説というより確信を述べるものだった。

 

「民族を階級へ分解し、国家を国際革命の材料に変える。あれを東から入れれば、ドイツは内側から腐る」

 

 ミュラーが続ける。

 

「共産主義者は、組織へ潜ることを恐れません。労働組合、新聞、大学、工場。表面では合法的な要求を掲げ、裏で国家の命令系統を切ります」

 

「彼らの強みは、不満を拾うことです」

 

 ターニャは言った。

 

「生活上の不安、失業、敗戦、格差。原因が異なっていても、一つの敵へまとめる。その動員方法は強力です」

 

 ヒムラーが視線を向ける。

 

「理解を示すのか」

 

「手法の理解と、目的への賛同は別でございます。敵の強みを無視する方が危険です」

 

「よい答えだ」

 

 ヒトラーが先に言った。

 

「敵を馬鹿だと思う者ほど、敵に負ける」

 

 ターニャは黙って頭を下げた。

 

 共産主義が脅威であることは理解できる。

 

 国際革命。

 

 私有財産の制限。

 

 政治警察。

 

 計画経済。

 

 党による統制。

 

 ナチスが嫌悪する理由には、思想的な対立だけでなく、同じ大衆動員の市場を奪い合う競合としての面もある。

 

 民主主義も同じだ。

 

 自由と議会を掲げながら、植民地と階級差を抱える。意思決定は遅い。だが、制度に余白があるため、失敗しても全体が一度で折れにくい。

 

 どちらも単純ではない。

 

 ターニャは、思想を善悪だけで見る気はなかった。

 

 重要なのは、何が人間を動かし、何が国家を強くし、どこで制度が腐るかだ。

 

 やがて、会話はユダヤ人問題へ入った。

 

 ボルマンが、占領地における財産管理の不統一を批判した。

 

「地方ごとに扱いが違います。財産の凍結、企業の移管、居住制限。官庁がそれぞれ別の命令を出せば、ユダヤ人だけでなく、ドイツ人企業まで混乱する」

 

「法令の一本化が必要です」

 

 シュトゥッカートが言う。

 

「人種規定、国籍、財産、雇用、移住。別々に処理すれば、必ず隙間ができます」

 

 ヒムラーは静かに答えた。

 

「隙間を残すな。ユダヤ人は、法と商取引と国境の隙間を利用してきた。ドイツ民族が自分の土地と経済を取り戻すには、例外を減らさねばならん」

 

 会話の内容は、現代的な価値観から見れば明確に差別と迫害である。

 

 だが、この席にいる者たちは、それを国家再編と民族防衛の言葉で語る。

 

 ターニャは、その内側にいる。

 

 感情で反発し、席を立つ選択肢はない。

 

 かといって、熱狂的に同調する必要もない。

 

「規定を運用する場合、対象定義と財産処理を分けるべきかと存じます」

 

 ターニャは言った。

 

 シュトゥッカートが顔を向ける。

 

「理由は」

 

「対象認定を行う機関と、財産移管を受ける機関が同一ですと、認定を広げる動機が生じます。国家が回収する範囲、企業へ渡す範囲、保留する範囲を先に区別しなければ、現場が利益目的で対象を増やします」

 

 ミュラーの目がわずかに動いた。

 

 ヒムラーも黙って聞いている。

 

「少佐は、政策自体へ異論があるのか」

 

 ボルマンの問いは、探るようだった。

 

「国家が民族構成、治安、資産移動を管理する権限は理解しております」

 

 ターニャは公式の口調を崩さない。

 

「ただし、現場の恣意で対象が増減する状態は統制ではございません。政策を実行するのであれば、対象、担当、記録、異議処理を確定させるべきです」

 

 ヒムラーの口元に、薄い微笑が浮かんだ。

 

「だから私は、この者を使う」

 

 ボルマンが黙る。

 

 ヒムラーは続けた。

 

「思想を語る者は多い。命令を出したがる者も多い。だが、命令が現場で別のものへ変わることを理解する者は少ない」

 

 ヒトラーもターニャを見ていた。

 

「君は、ユダヤ人をどう見る」

 

 正面から来た。

 

 食卓の視線が集まる。

 

 ターニャは一呼吸だけ置いた。

 

「民族や宗教の共同体が、国家内部で独自の結びつきと利益経路を持つ場合、国家との競合が起こり得ると考えます」

 

 ヒトラーは黙っている。

 

「ユダヤ人共同体に限らず、国家命令より内部の結束を優先する集団は、戦時において監視対象となります。ただし、脅威の有無は具体的な行為、資金、連絡、組織への関与で確かめる必要がございます」

 

「血だけでは足りないと言うのか」

 

「血統規定は、行政上の分類を統一する役割を持ちます。ですが、治安上の危険度まで同一とは限りません。警察が動く場合は、行為の記録が必要です」

 

 ヒトラーは、しばらくターニャを見た。

 

 ターニャは視線を逸らさない。

 

 彼女は政策へ道徳的な反対を述べてはいない。

 

 同時に、血統だけで捜査や処罰を動かすことにも賛同していない。

 

 国家の人種政策と、警察の治安処理を分けた。

 

 ヒトラーは、やがて椅子へ背を預けた。

 

「君は冷たいな」

 

「職務上、区別が必要でございます」

 

「冷たいが、使える」

 

 それは評価だった。

 

 ターニャは頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

 ハイドリヒはまだ見ている。

 

 おそらく、さらに測りかねている。

 

 思想家ではない。

 

 人道主義者でもない。

 

 熱狂的な党員でもない。

 

 しかし、国家の民族政策を正面から否定せず、運用の精度を上げる方向へ話を変える。

 

 何を信じているのか。

 

 ハイドリヒには、そこが見えない。

 

 見えない相手は危険だ。

 

 だが、使える相手でもある。

 

 食事が進み、卓上の空気は少しずつ柔らかくなった。

 

 デザートには、温かいリンゴの焼き菓子が出た。

 

 薄い生地の中に、甘く煮たリンゴと干し葡萄、香辛料が入っている。横には温かいバニラソースと、少量の生クリームが添えられていた。

 

 ターニャは一口食べた。

 

 生地は表面が軽く、内側のリンゴは柔らかい。シナモンの香りがあり、酸味と甘さが丁度よく重なる。

 

(これは、かなり良い)

 

 政治も思想も、いったん脇へ置きたくなる味だった。

 

 ターニャはもう一口食べた。

 

 ヒトラーがそれに気付いた。

 

「気に入ったか」

 

「はい。大変おいしゅうございます」

 

「子供は甘いものを食べるべきだ」

 

 その言い方に、ターニャは少しだけ困った。

 

 少佐として扱われた直後に、子供としてデザートを勧められる。

 

 この落差には慣れない。

 

 ヒムラーも穏やかに言った。

 

「もう一皿用意させよう」

 

「いえ、十分でございます」

 

「休暇中だ」

 

「量として十分です」

 

 ターニャが条件を切ると、ヒムラーはそれ以上勧めなかった。

 

 セレブリャコーフもデザートを気に入ったらしく、普段より少しゆっくり匙を動かしている。

 

 ミュラーが、珍しく柔らかな声で言った。

 

「少尉も、甘いものがお好きですか」

 

「はい。機会があればいただきます」

 

「ベルリンでは、こうはいかん」

 

「そうですね」

 

 短い会話だった。

 

 だが、会食の目的としては十分だ。

 

 顔と声を覚える。

 

 相手が何を好み、どこで言葉を切り、誰の発言へ反応するかを見る。

 

 友好とは、必ずしも親しげに笑うことではない。

 

 次に同じ書類を扱う時、相手の考え方を予測できる程度でいい。

 

 食後、ヒトラーは広間へ場所を移した。

 

 大きな窓の外には、夕暮れの山があった。空の色が薄い青から橙へ変わり、峰の輪郭が黒くなる。

 

 コーヒーが出された。

 

 ターニャの前には、濃すぎないものが置かれる。未成年への配慮なのか、夜の睡眠を考えたのか。どちらにせよ、香りは良い。

 

 ヒトラーは窓辺に立った。

 

「ここへ来ると、ベルリンの連中が小さく見える」

 

 ボルマンが笑った。

 

「山の上からでは、官僚の机も見えません」

 

「見えなくても増える」

 

 ターニャが思わず言うと、ヒトラーが振り返った。

 

 一瞬、場が静まる。

 

 だが、ヒトラーは笑った。

 

「そうだ。君が言うなら間違いない」

 

 ヒムラーもわずかに口元を緩めた。

 

 ターニャは頭を下げる。

 

「失礼いたしました」

 

「構わん。休暇中だ」

 

 また、その言葉である。

 

 休暇中。

 

 何をどこまで許されるのか分からない。

 

 だが、少なくとも少しの軽口は許されるらしい。

 

 ハイドリヒが、窓の近くでターニャへ声を掛けた。

 

「少佐」

 

「はい」

 

「君は、今日の話をどこまで理解している」

 

 曖昧な問いだった。

 

 ターニャは、ハイドリヒへ向き直る。

 

「どの話でしょうか」

 

「全部だ」

 

「範囲が広すぎます」

 

「民族、国家、共産主義、民主主義、ユダヤ人。君は反対をせず、完全にも乗らない」

 

 周囲の会話は続いている。

 

 だが、近くにいる者には聞こえる声量だった。

 

「理解できる部分と、職務上分けるべき部分がございます」

 

「思想を信じていないのか」

 

「思想が人を動かす力は信じています」

 

「内容ではなく、力か」

 

「内容を軽んじてはおりません。ただし、理念が正しくても、運用が崩れれば結果は別のものになります」

 

 ハイドリヒの目が細くなる。

 

「君は、いつも結果へ戻る」

 

「はい」

 

「総統の思想にもか」

 

「総統閣下のご意思を実現するために、結果を確認します」

 

 逃げではない。

 

 忠誠の言葉でもある。

 

 同時に、思想の無条件な信奉を避ける答えでもある。

 

 ハイドリヒは、しばらく黙った。

 

「やはり、測りにくいな」

 

 ターニャは少しだけ首を傾けた。

 

「何がでしょうか」

 

「君だ」

 

「職務上の問題がございますか」

 

「今のところはない」

 

「では、結果でご判断ください」

 

 ハイドリヒの口元が、ほんのわずかに動いた。

 

「そう返すと思った」

 

「恐れ入ります」

 

 会話はそれで終わった。

 

 だが、関係は少し変わった。

 

 ハイドリヒは、ターニャを理解したわけではない。

 

 理解できないことを確認した。

 

 それでも、結果で話す相手だとは認めた。

 

 今後の実務において、それは十分な前進だった。

 

 夜が深くなる前に、会食は解散となった。

 

 ヒトラーは最後にターニャへ言った。

 

「明日は自由にしてよい。湖へ行け。町を歩け。制服のままでも構わんが、仕事の顔は置いていけ」

 

「努力いたします」

 

「努力ではない。楽しめ」

 

 命令が追加された。

 

「承知いたしました」

 

 ヒムラーも続ける。

 

「連絡は夜の一度だけでよい。何かあれば、こちらから呼ぶ」

 

「はい」

 

「こちらから呼ばなければ、考えるな」

 

 そこまで言われると、ターニャも反論できない。

 

 広間を出て、用意された部屋へ戻る。

 

 廊下は静かだった。

 

 セレブリャコーフが隣を歩く。

 

「少佐」

 

「何だ」

 

「今日は、少し楽しまれていましたね」

 

「そう見えたか」

 

「はい。デザートの時に」

 

 見られていた。

 

「お前も食べていただろう」

 

「はい。とてもおいしかったです」

 

「なら同じだ」

 

「そうですね」

 

 二人は部屋へ入った。

 

 外套を脱ぎ、帽子を置く。ターニャは窓へ向かった。外は暗い。だが、山の輪郭だけは月明かりで見える。谷には小さな灯りが点在していた。

 

 窓を少し開ける。

 

 夜の空気は冷たい。

 

 遠くで、何かの虫が鳴いている。

 

 ベルリンの夜とは違う。

 

 車両も、人の声も、タイプライターの音もない。

 

 ターニャは窓枠へ手を置いた。

 

(休む、か)

 

 仕事をしない。

 

 未来を考えない。

 

 少なくとも、今夜だけは。

 

 だが、完全に考えないことは難しい。

 

 今日の会話が残っている。

 

 優生思想。

 

 民族。

 

 ユダヤ人。

 

 共産主義。

 

 民主主義。

 

 彼らは、全てを一つの世界観へ繋げている。民族の生存を中心に置き、敵と味方を分け、国家が人間を選び、育て、配置し、排除する。

 

 その思想には、強い統一性がある。

 

 だから人を動かす。

 

 同時に、誤りを止める余白が少ない。

 

 分類を間違えれば、人材を捨てる。

 

 敵の定義を広げれば、国家が自分の手足を切る。

 

 命令が思想の純度を競い始めれば、現場の事実が消える。

 

 ターニャは、それを理解している。

 

 それでも、彼らが恐れるものも理解できる。

 

 革命。

 

 内乱。

 

 敗戦。

 

 経済支配。

 

 議会の停滞。

 

 共同体の分裂。

 

 大戦の中で国家が崩れる恐怖。

 

 彼らは、第一次大戦後の混乱から答えを作った。

 

 その答えが危険であることと、問いそのものが偽物であることは同じではない。

 

(理解はできる)

 

 賛美とは違う。

 

 拒絶とも違う。

 

 理解した上で、使えるものを使い、危険なものへ手順を入れる。

 

 それが、自分の仕事だ。

 

 ただし、今夜は仕事をするなと言われている。

 

 ターニャは窓を閉めた。

 

「少尉」

 

「はい」

 

「明日の湖だが」

 

「はい」

 

「船の時刻を確認しておいてくれ」

 

 セレブリャコーフが少しだけ笑った。

 

「既に確認しております」

 

「そうか」

 

「朝は九時に出発できます。途中で町を歩き、昼食は湖の近くで取る予定です」

 

「料理は」

 

「マス料理か、白ソーセージを選べるそうです。デザートもございます」

 

「デザート」

 

「はい」

 

 ターニャは一瞬だけ考えた。

 

「では、予定どおりでいい」

 

「承知しました」

 

 セレブリャコーフはそれ以上何も言わなかった。

 

 だが、声には少しだけ楽しそうな響きがあった。

 

 ターニャも否定しなかった。

 

 明日は湖を見る。

 

 町を歩く。

 

 ドイツ料理を食べる。

 

 制服姿ではある。

 

 護衛もいる。

 

 連絡時刻も決められている。

 

 完全な自由ではない。

 

 それでも、ベルリンの机からは遠い。

 

 ターニャはベッドの脇へ座り、黒い上着のボタンを外した。

 

 肩が軽くなる。

 

 今日は、かなり食べた。

 

 良い景色も見た。

 

 総統とヒムラーの気遣いを受け、高官たちと話し、ハイドリヒには相変わらず測りかねるという顔をされた。

 

 政治的には濃い一日だった。

 

 だが、休暇としても悪くない。

 

 少なくとも、リンゴの焼き菓子は本当にうまかった。

 

(明日も、同じ程度には食べてもいいだろう)

 

 誰に許可を求めるでもない内心だった。

 

 それだけで、少し気分がよかった。

 

 山荘の夜は静かに深くなっていく。

 

 三泊四日の休暇は、ようやく最初の夜へ入った。

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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