幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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ちなみに開戦初頭のドイツ本国は本当に穏やかだったようです。
地獄の前触れだったんですかね…


閑話:ターニャの休暇1 前半2

 

 三泊四日の休暇は、ようやく最初の夜へ入った。

 

 そう理解した直後、扉が控えめに叩かれた。

 

 ターニャは外したばかりの上着へ視線を落とした。

 

 休養命令は、どうやら寝台へ入る直前まで何かを運んでくるらしい。

 

「私が出ます」

 

 セレブリャコーフが居間を横切り、扉を開けた。

 

 外にいたのは山荘付きの女性使用人だった。両手で銀色の盆を支え、その後ろには警護担当の親衛隊員が立っている。盆の上には蓋付きのポットと、小さな皿が二枚載っていた。

 

「失礼いたします。総統閣下から、就寝前に温かいものをとのことです」

 

 ターニャは寝室の入口から盆を見た。

 

「夕食は十分にいただきましたが」

 

「承知しております。こちらは温めた牛乳と、蜂蜜を使った小さな焼き菓子です。召し上がる量はお任せするよう伺っております」

 

 強制ではない。

 

 だが、断りにくい。

 

 しかも、ヒムラーではなくヒトラーからだという。総統山荘において、総統の勧めた夜食を不要としてそのまま返すことに、政治上の利点は何もない。

 

(子供扱いが徹底しているな)

 

 少佐として会食へ出し、民族の将来として高官へ紹介し、最後には温めた牛乳を届ける。

 

 扱いの幅が広すぎる。

 

「ありがとうございます。こちらへ置いてください」

 

 ターニャが答えると、使用人は居間の卓へ盆を置いた。

 

「明朝は、七時半からお食事をご用意できます。お部屋で召し上がることも、食堂へお越しいただくことも可能です」

 

「明日の出発は九時です」

 

 セレブリャコーフが言った。

 

「それでは、八時にこちらへお持ちいたしましょうか」

 

 ターニャは一瞬だけ考えた。

 

 食堂へ下りれば、誰かと顔を合わせる可能性がある。ヒトラーやヒムラーが朝から滞在していれば、再び政治の時間へ入るかもしれない。

 

 部屋ならば、少なくとも朝食中まで会談にはならない。

 

「こちらへお願いします」

 

「かしこまりました」

 

 使用人は一礼し、退出した。

 

 扉が閉まると、居間には甘い香りが残った。焼き菓子は夕食のものより小さく、丸い形をしている。表面には砕いた木の実が散らされ、蜂蜜が薄く塗られていた。

 

 セレブリャコーフがポットへ手を伸ばす。

 

「お注ぎします」

 

「頼む」

 

 白い湯気が二つのカップから立つ。

 

 ターニャは椅子へ座り、両手でカップを持った。温めた牛乳へ少量の蜂蜜が入っている。甘さは控えめで、夕食後でも重くない。

 

「少佐、お菓子はいかがなさいますか」

 

「一つを半分にしよう」

 

「はい」

 

 セレブリャコーフが小さな焼き菓子を切り分けた。

 

 口へ入れると、外側は軽く、中はしっとりしていた。木の実の香ばしさがあり、蜂蜜の甘みが遅れて広がる。

 

 夕食のリンゴ菓子とは違う。

 

 華やかではないが、夜に食べるものとしてよくできている。

 

(これも悪くない)

 

 ターニャは牛乳を一口飲んだ。

 

 体の内側が温まる。

 

 列車と車で長く移動し、夕方からはヒトラー、ヒムラー、ハイドリヒを含む高官たちの前で言葉を選び続けた。休暇初日とはいえ、精神的な負荷が軽かったわけではない。

 

 それでも、ベルリンの執務室へ戻る夜とは違う。

 

 机に未処理の束がない。

 

 明朝までに確認すべき命令書もない。

 

 誰かが決裁を待って廊下へ立っていることもない。

 

「少佐」

 

「何だ」

 

「総統閣下のお気遣いは、思っていたより細やかですね」

 

「ああ」

 

 ターニャはカップの表面を見た。

 

「ヒムラー閣下の指示なら、睡眠時間と食事量を管理する意味だと理解できる。総統閣下の場合は、もう少し個人的なものかもしれない」

 

「ご心配なさっているのでしょうか」

 

「少なくとも、自分の前で働いた未成年者が疲れていることを不快には思っているのだろう」

 

 ヒトラーは子供を好む。

 

 自分へ率直な敬意を向け、将来のドイツを象徴する若者を好む。ターニャは、その感情が政治宣伝と無関係ではないことを知っている。

 

 だが、宣伝へ使う価値があるから気遣うのか、気に入っているから象徴へ押し上げるのか、その境界は曖昧だった。

 

「総統閣下にとって、少佐は成果であると同時に、守るべき存在なのかもしれません」

 

 セレブリャコーフが言った。

 

 ターニャは顔を上げた。

 

「私が、か」

 

「はい」

 

「ずいぶんと大きく出たな」

 

「本日のご様子を拝見して、そう感じました」

 

 セレブリャコーフの声は丁寧で、浮ついたところがない。

 

「少佐を軍人として評価されているだけでしたら、休暇中の食事までお気になさらないと思います」

 

「それは確かにそうだが」

 

「ヒムラー閣下も、総統閣下も、少佐を失いたくないのではないでしょうか」

 

 失いたくない。

 

 人材として。

 

 象徴として。

 

 あるいは、一人の子供として。

 

 どこまで含まれているかは分からない。

 

 だが、どれか一つだけではないのだろう。

 

 ターニャは少しだけ視線を逸らした。

 

(困るな)

 

 合理的に評価されることは望ましい。

 

 有能な人材として保護されることも、生存戦略上は歓迎すべきだ。

 

 だが、個人的な愛着まで加わると、関係は計算しにくくなる。

 

 期待へ応える責任が生まれる。

 

 裏切りと判断される範囲も広くなる。

 

 それでも、今夜の温かい牛乳まで政治的な危険物として扱うのは、さすがに不毛だろう。

 

「少なくとも、今は好意として受け取っておく」

 

「はい」

 

「お前も遠慮せず飲め」

 

「ありがとうございます」

 

 セレブリャコーフはカップを両手で包み、静かに口を付けた。

 

 二人とも、しばらく話さなかった。

 

 窓の向こうに山の夜がある。

 

 建物の内部には警備員が立ち、外の道路には検問所がある。それでも、部屋の中だけは穏やかだった。

 

 ターニャは、こういう沈黙を久しく経験していないことに気付いた。

 

 執務中の沈黙には、誰かが次の発言を待っている。

 

 会議中の沈黙には、責任を押しつける相手を探す時間がある。

 

 監視下の沈黙には、聞かれているかもしれないという警戒がある。

 

 今は違う。

 

 セレブリャコーフが隣にいる。

 

 それだけだ。

 

「少尉」

 

「はい」

 

「お前は、この休暇をどう思っている」

 

 セレブリャコーフは少し驚いたように瞬きをした。

 

「私ですか」

 

「ああ。同行を命じられただけで、お前自身の休養については誰も聞いていないだろう」

 

「私は副官ですので」

 

「それは答えになっていない」

 

 セレブリャコーフはカップを卓へ置いた。

 

「正直に申し上げますと、楽しみにしておりました」

 

「そうか」

 

「はい。ベルリンを離れることも、山を見ることも、初めてではありません。ですが、仕事ではなく景色を見るために移動する機会は、ほとんどございませんでした」

 

「私もだ」

 

「明日の湖も楽しみです」

 

 普段の彼女なら、予定や警護条件を先に口へする。

 

 だが今は、楽しみだと先に言った。

 

 ターニャは、それを少し意外に思い、同時に安心した。

 

 セレブリャコーフも人間である。

 

 美しい場所を見れば喜ぶ。

 

 おいしい料理を食べれば表情が和らぐ。

 

 自分の補佐役である前に、一人の若い女性だった。

 

 当然のことなのに、日常の中では忘れがちになる。

 

「なら、明日は副官の仕事を減らす」

 

「ですが、警護側との連絡が」

 

「最低限でいい。予定表は既にある。現地の案内も付く」

 

「少佐の行動記録は必要です」

 

「帰還時刻だけで十分だろう」

 

「ヒムラー閣下から、食事を取られたか確認するようにと」

 

「……そこは仕方がない」

 

「はい」

 

 セレブリャコーフの口元がわずかに緩んだ。

 

 ターニャは目を細める。

 

「笑ったか」

 

「いいえ」

 

「今は笑っていただろう」

 

「少しだけです」

 

「認めるのか」

 

「休暇中ですので」

 

 ヒトラーの言葉を使われた。

 

 ターニャは反論をやめ、残っていた牛乳を飲んだ。

 

「便利な言葉だな」

 

「はい」

 

 カップが空になる頃には、移動の疲れが一気に表へ出始めていた。

 

 瞼が少し重い。

 

 肩から力が抜ける。

 

 体が、仕事を続ける必要がないと判断し始めたらしい。

 

 ターニャは立ち上がり、寝室へ入った。

 

 制服の上着は既に脱いでいる。ネクタイを外し、褐色シャツの襟元を緩める。普段なら、ここで翌日の提出物を一度確認する。机へ向かい、朝一番の予定を書き、必要な連絡を副官へ伝える。

 

 今夜は、その必要がない。

 

 セレブリャコーフが旅行鞄から夜間用の上着を取り出した。

 

「こちらへ置きます」

 

「ありがとう」

 

 その返答に、セレブリャコーフが一瞬だけ手を止めた。

 

 ターニャも、自分の言葉が普段より柔らかかったことに気付く。

 

 だが、訂正する理由はなかった。

 

「少尉」

 

「はい」

 

「今日の会食だが、疲れたか」

 

「緊張はいたしました」

 

「だろうな」

 

「ですが、ミュラー長官やシュトゥッカート次官のお話を直接伺えたのは、今後の実務に役立つと思います」

 

「結局、仕事へ戻るのか」

 

「少佐も同じかと」

 

「否定はしない」

 

 二人の間へ、短い笑いが落ちた。

 

 声を立てるほどではない。

 

 だが、確かに笑っていた。

 

 ターニャはベッドの端へ座り、靴を脱いだ。

 

 絨毯越しに伝わる床の感触が柔らかい。寝台も、宿舎のものより厚みがある。白い枕は二つ用意され、掛け布団は軽そうだった。

 

「少佐、入浴のご用意もできるそうです」

 

「今からか」

 

「はい。隣の浴室を使えます」

 

 ターニャは時計を見た。

 

 普段なら、入浴は必要な衛生処理として短く済ませる。だが、山荘では湯を十分に使えるらしい。

 

「お前が先に入れ」

 

「よろしいのですか」

 

「ああ。私は少し座っている」

 

「それでは、お先に失礼いたします」

 

 セレブリャコーフが隣室へ戻り、しばらくして浴室の扉が閉まる音がした。

 

 一人になる。

 

 ターニャは寝台へ背を預けた。

 

 目の前の壁には、小さな風景画が掛かっている。山道を歩く人々と、遠くの農家。政治的な標語も、軍事地図も、総統の肖像もない。

 

 本当に客室なのだ。

 

 休むための部屋である。

 

 ターニャは天井を見た。

 

(私は、どれほど休んでいなかった?)

 

 日数を数えようとして、やめた。

 

 休暇らしい休暇は記憶にない。

 

 休息時間ならあった。

 

 移動日もあった。

 

 体調不良で早く上がった日もある。

 

 だが、それらは休暇ではない。次に働くための補修だった。

 

 今回は違う。

 

 三泊四日、仕事をするなと命じられた。

 

 景色を見ろ。

 

 食事をしろ。

 

 楽しめ。

 

 総統命令である。

 

 ここまで明確に言われれば、従わない方が不忠になる。

 

(ならば、徹底して従うべきだな)

 

 理屈は成立した。

 

 休むことへ罪悪感を持つ必要はない。

 

 これは上官の命令であり、組織が設定した人材維持のための処置だ。

 

 合理的に考えれば、四日間で疲労を減らし、帰還後の判断精度を上げる方が国家の利益になる。

 

 だから休む。

 

 おいしいものも食べる。

 

 景色も見る。

 

 セレブリャコーフにも休ませる。

 

 ターニャは目を閉じた。

 

 数分だけ、そのままにするつもりだった。

 

 気付けば、浴室から戻ったセレブリャコーフが寝室の入口に立っていた。

 

「少佐」

 

 ターニャは目を開けた。

 

「……眠っていたか」

 

「少しだけ」

 

「そうか」

 

「お疲れでしたら、このままお休みになりますか」

 

「いや。風呂には入る」

 

 立ち上がると、思っていたより体が重かった。

 

 制服を着ている間は気付かなかった疲労が、上着を脱いだ途端に全部戻ってきたようだった。

 

 浴室には、大きな白い浴槽があった。

 

 湯気が満ち、石鹸と香草の匂いがする。壁際には清潔な布と、厚手のタオルが畳まれていた。

 

 ターニャは湯へ入った。

 

 温かさが足先から広がる。

 

 肩まで沈むと、思わず息が漏れた。

 

 誰もいない。

 

 会議もない。

 

 報告もない。

 

 ただ、湯が温かい。

 

(これは、確かに悪くない)

 

 すぐに上がるつもりだった。

 

 だが、湯の温度が心地よく、予定より長く浸かった。窓の外は暗く、浴室には湯がわずかに動く音しかない。

 

 ターニャは腕を縁へ置き、今日の出来事を思い返した。

 

 ヒトラーから見た自分。

 

 ヒムラーから見た自分。

 

 ハイドリヒから見た自分。

 

 それぞれが違う。

 

 総統は、民族の未来を象徴する少女として見る。

 

 ヒムラーは、親衛隊が生み出した成果であり、今後さらに使うべき部下として見る。

 

 ハイドリヒは、忠誠の向きが判別しにくい危険な実務家として見る。

 

 誰の理解も、完全には正しくない。

 

 だが、誰の理解も、完全に外れてはいない。

 

 ターニャは、彼らが見たいものを壊さない。

 

 同時に、自分の生存へ必要な範囲を守る。

 

 これまでと同じだ。

 

 ただし、今日はその計算から一度降りてもよい。

 

 少なくとも、湯の中にいる間だけは。

 

 ターニャは目を閉じ、温かさへ身を預けた。

 

 浴室を出ると、寝室には夜着が用意されていた。軍用のものではなく、柔らかな布地で仕立てられた簡素な寝間着だった。

 

 色は白に近い。

 

 黒服を脱いだ後では、ひどく頼りなく見える。

 

 ターニャは袖へ腕を通した。

 

 鏡へ映る姿は、親衛隊少佐には見えない。

 

 ただの小柄な少女である。

 

 それが妙に落ち着かなかった。

 

 帽子もない。

 

 階級章もない。

 

 武装もない。

 

 黒い上着もない。

 

 だが、その姿を見ている者は自分だけだった。

 

(誰に見せるわけでもない)

 

 ターニャは鏡から離れた。

 

 居間へ戻ると、セレブリャコーフも夜着に着替えていた。髪を整え、翌朝使う制服を椅子へ掛けている。

 

「少佐、明日の上着はこちらでよろしいでしょうか」

 

「ああ」

 

「黒服は皺が付かないよう、別に掛けてあります」

 

「助かる」

 

 セレブリャコーフが振り向いた。

 

「少佐」

 

「何だ」

 

「夜着も、お似合いです」

 

 ターニャは無言になった。

 

「それは、どういう意味だ」

 

「そのままの意味です」

 

「制服よりか」

 

「比較はしておりません」

 

「そうか」

 

 追及するほどの話でもない。

 

 だが、妙に気恥ずかしい。

 

 ターニャは寝室へ戻り、掛け布団をめくった。

 

「もう寝る」

 

「はい。おやすみなさいませ」

 

「おやすみ」

 

 灯りを落とす。

 

 窓の外から月明かりが薄く入る。

 

 寝台は柔らかく、掛け布団は軽い。普段の宿舎より静かすぎて、最初はかえって耳が落ち着かなかった。

 

 遠くに立つ警備員の靴音。

 

 風が窓枠へ触れる音。

 

 建物がわずかに軋む音。

 

 それだけだった。

 

 ターニャは横向きになった。

 

(明日は湖だ)

 

 任務ではない。

 

 視察でもない。

 

 警護配置の確認でもない。

 

 観光である。

 

 昼食にはマス料理か白ソーセージ。

 

 デザートもある。

 

 そう考えると、少しだけ明日が楽しみになった。

 

 未来を憂う気持ちは消えない。

 

 イギリスは残っている。

 

 東にはソ連がいる。

 

 制度は歪み、権力は膨張し、存在Xはいつまた規則を壊すか分からない。

 

 だが、それらは今夜の寝台へ持ち込まなくてもよい。

 

 明日の朝になっても、世界はある。

 

 自分が数時間眠った程度で、歴史が勝手に終わることもない。

 

 ヒトラーの言葉どおり、ドイツは一晩では倒れない。

 

 ターニャは目を閉じた。

 

 眠りは、思っていたより早く来た。

 

 夢を見たかどうかも覚えていない。

 

 翌朝、窓の隙間から入った光で目を覚ました時、時計はまだ七時前だった。

 

 普段なら、既に起きている時間である。

 

 だが、体は軽かった。

 

 頭の内側に、起床直後から押し寄せる案件の列がない。

 

 ターニャは寝台の上で、一度だけ深く息を吸った。

 

 山の朝の空気は、夜より冷たく、乾いていた。

 

 窓の外を見る。

 

 峰の向こうから日が差し、谷に残った薄い霧がゆっくり動いている。森の色は夜より明るく、遠くの草地には朝露が光っていた。

 

 昨日と同じ山である。

 

 だが、朝の光の中では別の場所に見える。

 

 ターニャは、しばらく寝台から動かなかった。

 

 急ぐ必要がない。

 

 誰も扉を叩かない。

 

 七時前に起きたからといって、その時間を仕事へ換える義務もない。

 

(なるほど)

 

 これが休暇か。

 

 何かをしなくても、時間がそのまま残っている。

 

 初めて理解した気がした。

 

 隣室から、ごく小さな物音がした。

 

 セレブリャコーフも起きたらしい。

 

 ターニャは寝台を降り、窓を少しだけ開いた。

 

 冷たい風が頬へ触れる。

 

 鳥の声が聞こえた。

 

 ベルリンでは、窓を開ければ車両と人の声が入る。

 

 ここでは、森の音が入る。

 

「少佐、おはようございます」

 

 居間からセレブリャコーフの声がした。

 

「おはよう」

 

 ターニャは窓辺に立ったまま答えた。

 

「よくお休みになれましたか」

 

「ああ。思ったより」

 

「それはよかったです」

 

 セレブリャコーフが居間へ姿を見せる。既に髪を整えているが、まだ制服には着替えていない。

 

「朝食まで一時間ほどあります」

 

「そうか」

 

「その間、どうなさいますか」

 

 普段なら、予定を前倒しする。

 

 何かを確認する。

 

 使える時間を埋める。

 

 だが今は、窓の外に朝の山がある。

 

「少し外を歩く」

 

「警護へ連絡いたします」

 

「敷地内だけだ」

 

「それでも必要です」

 

「分かった」

 

 完全な自由ではない。

 

 だが、それでもよかった。

 

 ターニャは黒服ではなく、簡素な上着を夜着の上へ羽織った。帽子も階級章もない。山荘の敷地内で、朝の空気を吸うだけなら、それで十分だった。

 

 数分後、二人は裏手の小さなテラスへ出た。

 

 護衛は遠くに一名だけ立っている。

 

 敷石は朝露で少し濡れ、庭の草木には水滴が残っていた。テラスの先からは、谷と山並みが一度に見える。

 

 ターニャは手すりへ近づいた。

 

 風が髪を揺らす。

 

 黒服を着ていないため、体がいつもより軽い。

 

 セレブリャコーフが隣へ立った。

 

「寒くありませんか」

 

「少しだけだ」

 

「上着をお持ちしましょうか」

 

「いや。この程度ならいい」

 

 二人は並んで山を見た。

 

 会話はない。

 

 必要もなかった。

 

 やがて、下の道を一台の車がゆっくり上ってくるのが見えた。朝から誰かが山荘へ来るのだろう。政治は既に動き始めている。

 

 だが、ターニャは車両番号を読もうとしなかった。

 

 誰が乗っているかも考えなかった。

 

 見送るだけにした。

 

「少佐」

 

「何だ」

 

「今、確認なさいませんでしたね」

 

 セレブリャコーフには気付かれていた。

 

「ああ」

 

「休まれていますね」

 

「そうらしい」

 

 ターニャは自分でも少し笑った。

 

 大きくではない。

 

 口元がわずかに緩んだだけだ。

 

 セレブリャコーフも静かに微笑んだ。

 

 朝日が山の斜面へ広がっていく。

 

 一日目の夜が終わり、三泊四日の二日目が始まろうとしている。

 

 だが、湖へ向かう前のこの短い時間だけは、まだどの予定にも属していなかった。

 

 ターニャは、その空白を埋めようとはしなかった。

 

 ただ、冷たい朝の風と、明るくなっていく山を見ていた。

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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