幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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閑話 ターニャの休暇1 後半1

 

 ただ、冷たい朝の風と、明るくなっていく山を見ていた。

 

 山荘へ戻ったのは、朝食が運ばれてくる少し前だった。

 

 テラスから室内へ入ると、暖められた空気が頬へ触れた。外にいた時間は長くない。それでも指先は冷えており、ターニャは居間へ戻るなり両手を擦った。

 

「やはり、上着をお持ちすべきでした」

 

 セレブリャコーフが言った。

 

「寒いとは言っていない」

 

「指が冷えていらっしゃいます」

 

「山の朝なら、この程度だろう」

 

「次回は手袋をお持ちします」

 

 次回が既に確定している。

 

 ターニャは反論しかけ、やめた。セレブリャコーフが一度そう決めれば、明日の朝には手袋が準備される。議論しても結果は変わらない。

 

「薄いものでいい」

 

「はい」

 

 譲歩したつもりだったが、セレブリャコーフは満足そうに頷いた。

 

 制服へ着替えている間に、朝食が届けられた。

 

 卓へ並べられたのは、前日の列車内とは違う料理だった。柔らかく焼いた丸いパン、薄切りのハム、数種類のチーズ、半熟の卵、果物を煮たもの。小さな鍋には温かいオート麦の粥があり、牛乳と蜂蜜を加えられるようになっている。

 

 コーヒーのほかに、香草を使った温かい飲み物も用意されていた。

 

「ずいぶん多いな」

 

 ターニャが言うと、給仕の女性は控えめに微笑んだ。

 

「お好きなものをお選びいただくよう、申し付かっております」

 

「誰からですか」

 

「親衛隊全国指導者個人幕僚部から伺った内容を、山荘側で整えました」

 

 またヒムラーである。

 

 しかも、量を食べさせるというより、選択肢を増やす方向へ修正されている。前夜にターニャが二皿目を断ったことまで、既に反映された可能性があった。

 

「分かりました。ありがとうございます」

 

 給仕が下がる。

 

 ターニャは席に着き、半熟の卵とパンを取った。

 

 卵へ匙を入れると、黄身がゆっくり流れた。軽く塩を振り、焼きたてのパンへ付ける。表面は薄く香ばしく、中は柔らかい。黒パンとは違う、朝向きの軽さがある。

 

 ハムは塩気が強すぎず、脂にも癖がなかった。

 

「少佐、こちらのチーズもおいしいです」

 

 セレブリャコーフが小さく切り分けた白いチーズを示した。

 

「柔らかいものか」

 

「はい。少し酸味があります」

 

 ターニャも取ってみる。

 

 確かに柔らかく、香りは穏やかだった。パンへ塗り、果物の煮たものを少し載せると、甘みと酸味が合う。

 

(なるほど。朝から悪くない)

 

 食事へ意識を向けると、昨夜よりも仕事のことが遠く感じられた。

 

 空腹を満たすためだけではない。

 

 料理ごとの味を比べ、次に何を取るか考える。そうした小さな選択が、普段の食事にはほとんどない。執務中なら、食べやすいものを早く口へ運び、次の予定へ移るだけだ。

 

 今朝は急ぐ必要がなかった。

 

 ターニャは二つ目のパンへ手を伸ばした。

 

 セレブリャコーフが何も言わず、蜂蜜の器を近くへ置く。

 

 その動作があまりに自然だったため、ターニャは一瞬だけ手を止めた。

 

「何だ」

 

「蜂蜜をお使いになるかと思いまして」

 

「そうか」

 

「不要でしたか」

 

「いや、使う」

 

 薄く塗る。

 

 甘すぎない。山荘へ置かれるだけあり、香りが強かった。

 

「少尉」

 

「はい」

 

「お前は、私が何を取るか分かるのか」

 

 セレブリャコーフは少し考えた。

 

「全てではありません。ただ、甘すぎるものは避けられますが、少量の蜂蜜や果物はお好みかと」

 

「観察していたのか」

 

「副官ですので」

 

「食事の好みまで職務に含めるな」

 

「体調管理には必要です」

 

 また、正論である。

 

 ターニャは蜂蜜を塗ったパンを食べながら、これ以上は追及しなかった。普段から見られていること自体は分かっていた。食事を抜いた回数、コーヒーの量、疲れている時に言葉が短くなること。セレブリャコーフは指摘せずとも覚えている。

 

 それは監視ではない。

 

 少なくとも、国家保安本部の監視とは違う。

 

 自分が動き続けるために必要なものを、黙って拾っている。

 

 その距離感が、ターニャには心地よくもあり、少し落ち着かなかった。

 

「今日は、お前も好きなものを選べ」

 

「いただいております」

 

「副官としてではなく、だ」

 

 セレブリャコーフが目を上げた。

 

「はい」

 

 それだけ答え、今まで取っていなかった甘いパンを一つ選んだ。

 

 表面に砂糖が薄く振られ、中には木の実が入っているらしい。セレブリャコーフは一口食べ、ほんの少しだけ目元を和らげた。

 

 ターニャは見なかったことにした。

 

 出発時刻の少し前、二人は外出用に制服を整えた。

 

 ターニャは黒服のままである。

 

 休暇であっても、町を歩けば誰かに見られる。山荘の客人であり、親衛隊の将校であることを隠す気もなかった。黒服姿の方が、現地側の警護も扱いやすいという判断もある。

 

 ただし、拳銃は上着の内側へ収め、通常より目立たないようにした。

 

 セレブリャコーフも親衛隊の勤務服を着用する。外套は車へ積み、帽子を手に持っている。

 

 玄関前には、大型車が一台だけ待っていた。

 

 前日より車列が減っている。運転手のほか、前席に現地警護担当が一名。後続車は距離を空けて付く予定だという。

 

「自由行動にしては、まだ多いな」

 

 ターニャが低く言う。

 

「昨日よりは少なくなっております」

 

 セレブリャコーフが答えた。

 

「比較の問題か」

 

「はい」

 

 車が山荘を離れる。

 

 朝の道は空いていた。

 

 斜面に沿って下ると、森の間から谷と町が見える。日が上がるにつれて霧が薄くなり、赤い屋根と白い壁がはっきりしてきた。道沿いの牧草地には牛が出ており、首に付けられた鐘が、車の音の隙間から微かに聞こえた。

 

 ターニャは窓を少し開けた。

 

 冷たい空気とともに、草の匂いが入る。

 

「少佐、寒くありませんか」

 

「大丈夫だ」

 

「手袋は車内にあります」

 

「今は不要だ」

 

「承知しました」

 

 先回りされている。

 

 だが、今朝ほど鬱陶しくは感じなかった。必要なら使える場所にある。それだけでよい。

 

 ベルヒテスガーデンの町へ入ると、車は大通りから少し外れた場所で止まった。

 

 ここからは徒歩である。

 

 警護員は一人が数歩後ろ、もう一人は通りの反対側へ位置を取った。私服ではないが、ターニャたちから一定の距離を保ち、明らかな隊列にはしない。

 

 それでも黒服の少佐は目立った。

 

 車を降りた瞬間から、通行人の視線が集まる。

 

 地元の者は制服へ慣れている。オーバーザルツベルクの近くであり、党や親衛隊の関係者が往来する土地でもある。だが、小柄な少女が親衛隊少佐の階級章を付け、黒服姿で歩く光景は別だった。

 

 年配の男が立ち止まり、帽子を取る。

 

 若い女性が連れの腕を引き、小声で何かを言う。

 

 店先にいた少年たちは、露骨に目を丸くした。

 

 ターニャはそれらを無視した。

 

 正確には、視界へ入れた上で反応しない。

 

 観光へ来たのであって、閲兵を受けに来たわけではない。

 

 町並みは山荘から見たものより近く、細部まで分かった。

 

 石造りの建物と、木製の張り出し。窓辺の花。店の看板。通り沿いにはパン屋、肉屋、衣料品店、土産物を扱う小さな店が並んでいる。

 

 広場には噴水があり、その近くで市場が開かれていた。

 

 野菜、果物、チーズ、燻製肉、蜂蜜。籠や木製品もある。品数はベルリンの市場より少ないが、地元で採れたものが近い距離で並んでいた。

 

 ターニャは、ひとつの店先で足を止めた。

 

 木を削って作られた小さな鳥が並んでいる。羽の形は簡素だが、色が丁寧に塗られていた。

 

「お気になりますか」

 

 セレブリャコーフが尋ねる。

 

「作りが細かい」

 

「お土産にされますか」

 

「誰へだ」

 

「ご自分へ、でもよろしいかと」

 

 その発想はなかった。

 

 土産とは、誰かへ渡すものだと思っていた。自分のために、役に立たない小物を買う。その行為に合理的な説明は付けにくい。

 

 だが、休暇とはそういうものなのかもしれない。

 

 店の主人が二人に気付き、姿勢を正した。

 

「いらっしゃいませ、少佐」

 

 緊張している。

 

 ターニャは、卓上に並んだ鳥を一つ手に取った。小さな木製の鷹だった。翼を畳み、頭だけを横へ向けている。黒と銀に近い色で塗られており、偶然にも自分の制服とよく合った。

 

「これは、この地方で作られたものですか」

 

「はい。近くの職人が一つずつ削っております。同じ形でも、少しずつ顔が違います」

 

 確かに、隣のものと比べると目の位置や嘴の角度が違う。

 

「いくらですか」

 

 主人が金額を言う。

 

 高くはない。

 

 ターニャは財布を出した。

 

 主人は一瞬、受け取ることをためらった。

 

「総統山荘のお客様からは」

 

「商品として買います」

 

 ターニャが言うと、主人はすぐに手を出した。

 

「失礼いたしました」

 

「包んでください」

 

「はい」

 

 薄い紙へ包まれ、紐が掛けられる。

 

 ターニャはそれをセレブリャコーフへ渡そうとして、途中でやめた。自分の上着のポケットへ入れる。

 

「お持ちします」

 

「小さい。自分で持てる」

 

「はい」

 

 セレブリャコーフの声には、わずかに柔らかな響きがあった。

 

「何だ」

 

「いえ。よくお似合いの品だと思いまして」

 

「鳥がか」

 

「はい」

 

「黒いからだろう」

 

「それだけではありません」

 

 セレブリャコーフは詳しく説明しなかった。

 

 ターニャも聞き返さなかった。

 

 市場を抜けた先には、小さな広場があった。

 

 その一角に教会の尖塔が見える。

 

 古い石造りの建物で、町の風景の一部として長くそこにあるらしい。入口の前を数人が行き来し、年配の女性が扉を開けて中へ入っていった。

 

 セレブリャコーフが視線を向ける。

 

「ご覧になりますか」

 

 ターニャは教会と、その周囲を見た。

 

 この地域のカトリック教会は、国家や党との関係が単純ではない。

 

 協調する聖職者もいる。

 

 距離を取る者もいる。

 

 親衛隊の思想は、教会の権威や普遍的な宗教共同体をそのまま歓迎しているわけではない。ヒムラーの周辺では、キリスト教を民族の歴史と競合するものとして見る傾向も強い。

 

 黒服の親衛隊少佐が観光気分で礼拝堂へ入り、敬虔な旅行者のように振る舞うのは不自然だった。

 

 かといって、町の建築として見ることまで避ける必要もない。

 

「外から見るだけにする」

 

「はい」

 

 二人は広場の端へ進んだ。

 

 教会の石壁には、長い年月による色の違いがあった。新しく補修された箇所と、古いまま残された部分。窓には色ガラスが入り、朝の日を受けて淡く光っている。

 

「古いですね」

 

 セレブリャコーフが言った。

 

「ああ。国家が変わっても、建物は残る」

 

「多くの方にとっては、今も大切な場所なのだと思います」

 

「そうだろうな」

 

 宗教は、命令だけでは消えない。

 

 家族の習慣、地域の行事、死者の記憶、出生と婚姻。生活の節目に組み込まれている。国家が教義を嫌ったとしても、そこへ正面から手を突っ込めば、統制ではなく摩擦が増える。

 

 親衛隊の思想を教会へ重ねる者がいても、住民全体がすぐに従うとは限らない。

 

(信仰を敵に回す必要はない。少なくとも、戦時中に余計な対立を増やす合理性は薄い)

 

 ターニャは、その程度に考えた。

 

 教会そのものへ敬意を示したわけではない。

 

 だが、そこへ集まる人間と、建物が持つ役割は理解できる。

 

 入口へ向かっていた老婦人がターニャに気付き、少し驚いた顔をした。すぐに姿勢を正し、控えめに右腕を上げる。

 

「ハイル・ヒトラー」

 

「ハイル・ヒトラー」

 

 ターニャは短く返した。

 

 老婦人は一礼し、教会へ入った。

 

 国家への敬礼をしてから、宗教施設へ入る。

 

 その二つは、現場では並んで存在している。

 

 思想家が考えるほど、人間の生活は一枚ではない。

 

 ターニャは教会を背にし、湖へ向かう車へ戻った。

 

 ケーニヒ湖へ近づくにつれ、山はさらに高くなった。

 

 道路は森の中を進み、時折、岩肌が近くに現れる。木々の間から水面が見えたのは、車を降りる少し前だった。

 

 青というより、深い緑に近い。

 

 細長い湖面が山の間へ入り込み、遠くまで続いている。水際には船着場と数軒の建物があり、朝から観光客が集まっていた。

 

 車を降りたターニャは、しばらく湖を見た。

 

 列車から見た川とも違う。

 

 総統山荘から見下ろした谷とも違う。

 

 水面はほとんど波立たず、周囲の山を映している。風が通る場所だけ、色が細かく揺れていた。

 

「これは……」

 

 言葉が途中で止まる。

 

 美しい。

 

 そう言えばいいだけだ。

 

 だが、あまりに単純な感想で、口へ出すのを一瞬ためらった。

 

「とてもきれいですね」

 

 セレブリャコーフが先に言った。

 

「ああ。予想よりも、ずっといい」

 

 ターニャは素直に答えた。

 

 船着場では、現地の係員が待っていた。

 

「デグレチャフ少佐、こちらへどうぞ。次の便へお席を確保しております」

 

「通常の乗客と同じ船ですか」

 

「はい。ただし、後方の一画を空けております」

 

「全部を空ける必要はありません」

 

「承知しております。周囲二列のみです」

 

 十分に特別扱いである。

 

 だが、船を貸し切るよりはましだった。

 

 乗船前、ターニャは救命具の位置を確認した。

 

 反射的な行動である。

 

 船体の状態、乗員数、出入口。

 

 そこまで見たところで、セレブリャコーフと目が合った。

 

「確認されましたね」

 

「安全確認は休暇と別だ」

 

「はい」

 

 否定されなかった。

 

 船は静かに岸を離れた。

 

 電動の船らしく、機関音は大きくない。水を切る音が近く、船尾から細い波が左右へ広がっていく。

 

 ターニャとセレブリャコーフは、後方寄りの窓際に座った。

 

 警護員は離れた席へ位置を取る。周囲の乗客は、明らかに二人を気にしているが、近づいては来ない。

 

 船が湖の中央へ進むと、岸の建物が小さくなった。

 

 山が左右から迫る。

 

 切り立った斜面に森が張り付き、岩肌がところどころ露出している。空は狭く見えるが、圧迫感はなかった。むしろ、湖の上だけが一本の道として開かれているようだった。

 

 ターニャは帽子を外し、膝の上へ置いた。

 

 風が髪を動かす。

 

「帽子をお預かりしますか」

 

「このままでいい」

 

「飛ばされませんか」

 

「押さえている」

 

「はい」

 

 セレブリャコーフも、少しだけ姿勢を崩した。

 

 背もたれへ体を預け、窓の外を見る。普段なら、ターニャより先に警護員の位置や次の予定を確かめるところだ。今はそれを現地側へ任せている。

 

 湖の途中で、船員が甲板へ出た。

 

 乗客へ短い説明をした後、山へ向かって金管楽器を吹く。澄んだ音が湖の上を進み、岩壁へ当たって返ってきた。

 

 一度。

 

 少し遅れて、もう一度。

 

 さらに遠くから、薄い響きが続く。

 

 乗客たちが静かになる。

 

 ターニャも聞いた。

 

 砲声の反響とは違う。

 

 命令を伝える信号でもない。

 

 ただ、音が山の間を往復する。

 

「不思議ですね」

 

 セレブリャコーフが小声で言った。

 

「ああ」

 

「何度も返ってきます」

 

「山の形が音を残すんだろう」

 

「はい」

 

 理屈は分かる。

 

 それでも、聞く価値は理屈とは別にあった。

 

 音が消えるまで、ターニャは黙っていた。

 

 船がさらに進む。

 

 時折、湖岸に小さな建物が見えた。漁に使う小屋、船着場、緑の中へ埋もれた家。遠くの斜面には雪が残っている。

 

 ターニャは窓枠へ肘を置きかけ、制服の袖が擦れることに気付いて姿勢を戻した。

 

 セレブリャコーフがその動きを見ている。

 

「少佐」

 

「何だ」

 

「今日は、制服へ皺が付いてもよろしいのではないでしょうか」

 

「戻ってから直すのはお前だろう」

 

「その程度でしたら、問題ありません」

 

「自分の仕事を増やすな」

 

「休暇を楽しんでいただく方が優先です」

 

 ターニャは少しだけ眉を寄せた。

 

「ヒムラー閣下の指示か」

 

「私の判断です」

 

 珍しい答えだった。

 

 上官の命令でも、副官としての形式でもない。

 

 セレブリャコーフ自身の判断。

 

 ターニャは、もう一度窓の外を見た。

 

 それから、背もたれへ体を預けた。

 

 制服へ多少の皺は付くだろう。

 

 だが、セレブリャコーフが問題ないと言うなら、問題ない。

 

「これでいいか」

 

「はい」

 

「満足そうだな」

 

「そう見えますか」

 

「ああ」

 

 セレブリャコーフはわずかに目を伏せた。

 

「少佐が休まれていると、安心いたします」

 

 ターニャは返答に困った。

 

 休ませることが任務だから、ではない。

 

 安心する、と言った。

 

 そこには副官以上の感情があるように聞こえる。だが、それを友情や親愛と簡単な言葉で括れば、今の距離を壊す気がした。

 

 ターニャは正面を向いたまま言った。

 

「お前も休め。私だけでは命令の半分しか達成していない」

 

 セレブリャコーフが顔を上げた。

 

「私も、ですか」

 

「同行者を疲れさせて戻れば、ヒムラー閣下に説明が付かない」

 

「それは、命令上の理由でしょうか」

 

 少しだけ問い返された。

 

 ターニャは横目で彼女を見る。

 

 セレブリャコーフの表情は真面目だった。

 

 試しているわけではない。

 

 ただ、答えを待っている。

 

「それだけではない」

 

 ターニャは言った。

 

「お前が疲れていると、私が困る」

 

 言ってから、少し直接的すぎたかと思った。

 

 だが、セレブリャコーフは笑わなかった。

 

「承知しました」

 

 いつもの返答だった。

 

 ただ、声は普段より少し柔らかかった。

 

 二人は、それ以上話さなかった。

 

 船の窓から風が入り、制服の袖を揺らす。

 

 ターニャは山と水面を見続けた。

 

 仕事のことを考えない時間は、思ったより退屈ではない。

 

 景色は変わる。

 

 光も変わる。

 

 船の位置が少し動くだけで、山の重なり方が違って見える。

 

 そこへ意味を求めなくても、見ていられた。

 

 湖の奥にある船着場で下船すると、周囲は最初の港より静かだった。

 

 小さな建物と、湖畔の道。少し離れた場所に食事を取れる店がある。観光客はいるが、町ほど多くない。

 

 昼食まで少し時間があったため、二人は湖岸を歩くことにした。

 

 道は平坦で、木立の間を水際に沿って続いている。鳥の声と、岸へ寄せる小さな波の音が聞こえた。

 

 護衛員は後方へ距離を取っている。

 

 ターニャは歩調を落とした。

 

 普段の移動なら、目的地へ最短で向かう。いまは到着時刻まで余裕があり、早く着く理由もない。

 

 道端には小さな花が咲いていた。

 

 白と黄色。

 

 名前は分からない。

 

 セレブリャコーフが屈み、一つを近くで見る。

 

「見たことはありますが、名前までは分かりません」

 

「私もだ」

 

「調べますか」

 

「休暇が終わってからでいい」

 

 ターニャが答えると、セレブリャコーフが立ち上がった。

 

「はい」

 

 そのまま忘れても問題ない。

 

 知識として残らなくても、今ここで見たこと自体に価値がある。

 

 そう考えられるようになったことが、ターニャには少し不思議だった。

 

 昼食の店は、木造の大きな建物だった。

 

 外には花を植えた箱が並び、湖を見渡せる場所に食事席が設けられている。ただし、制服姿の二人が人目へ晒されすぎないよう、屋内の窓際が確保されていた。

 

 店主が自ら出迎えた。

 

「ようこそお越しくださいました。少佐、少尉」

 

「お世話になります」

 

 ターニャは公式の口調で返した。

 

「本日の料理ですが、湖のマスを使ったものと、白ソーセージをご用意できます。ほかにも牛肉の煮込みがございます」

 

 朝の予定では二択だったが、増えている。

 

「マスは、昨日とは違う料理ですか」

 

「はい。昨日お召し上がりになったものは燻製と伺っております。本日はバターで焼き、香草とジャガイモを添えます」

 

 食事内容まで伝わっている。

 

 総統山荘と現地側の連絡は、妙なところで細かい。

 

「では、マスをお願いします」

 

「私は白ソーセージをお願いいたします」

 

 セレブリャコーフが続けた。

 

「承知いたしました」

 

 異なる料理を選んだのは意図的だろう。

 

 おそらく、互いに少しずつ味を見るつもりである。

 

 ターニャは指摘しなかった。

 

 最初に、温かいスープが出された。

 

 昨日の澄んだ野菜スープとは違い、ジャガイモを潰した濃いものだった。玉葱と香草の味があり、細く切った燻製肉が少量入っている。

 

 口当たりは滑らかで、湖上の風に当たった体が温まる。

 

「これはいいな」

 

「はい。外を歩いた後には、特に」

 

 セレブリャコーフも満足そうだった。

 

 続いて、籠に入ったパンと、塩気のあるバターが置かれる。パンは表面が硬く、中に種が入っていた。

 

 主料理のマスは、一尾を開いて焼いたものだった。

 

 皮は香ばしく、身は白く柔らかい。溶かしたバターへ香草とレモンが加えられ、魚の味を邪魔しない程度の酸味がある。添えられたジャガイモは表面を軽く焼かれ、外側だけが少し固い。

 

 ターニャは一口食べた。

 

(昨日の燻製より、こちらの方が好みだな)

 

 脂の味が分かりやすく、身も温かい。

 

「少佐、いかがですか」

 

「うまい。そちらは」

 

 白ソーセージは、湯の入った器に二本置かれていた。皮を外し、甘いマスタードを付けて食べる。セレブリャコーフは一切れを小皿へ取り、ターニャの方へ差し出した。

 

「少し召し上がりますか」

 

「もらおう」

 

 ターニャもマスの身を少し分けた。

 

 白ソーセージは想像より柔らかく、香草の匂いがある。燻製ソーセージのような強さはない。甘いマスタードを付けると、味がはっきりした。

 

「悪くない」

 

「マスも、とてもおいしいです」

 

「なら、選択は正解だったな」

 

「はい」

 

 副官と上官が料理を交換している。

 

 普段の食事なら、考えられないわけではない。だが、今ほど自然には行わないだろう。執務中の食卓では、ターニャが食べる速度へセレブリャコーフが合わせ、必要な連絡を挟む。

 

 今日は連絡がない。

 

 料理の感想しかない。

 

 それが妙に新鮮だった。

 

 店の窓から湖が見える。

 

 時折、船が通り、水面へ細い航跡を残す。遠くの山には雲が掛かり始めていたが、雨の気配はない。

 

「帰りは、同じ船ですか」

 

 ターニャが尋ねる。

 

「はい。ただ、途中の船着場で一度降りることも可能です」

 

「何がある」

 

「湖を見下ろせる短い道があるそうです。坂はございますが、歩ける範囲とのことです」

 

「時間は」

 

「予定へ入れても、帰還時刻には余裕があります」

 

 セレブリャコーフは既に把握している。

 

 しかし、決定を先にしてはいない。

 

 ターニャが選ぶのを待っている。

 

「行こう」

 

「はい」

 

 即座に返事が来た。

 

 やはり彼女も行きたかったのだろう。

 

 食後のデザートには、カイザーシュマーレンが出された。

 

 厚めに焼いた生地を小さく切り分け、表面に粉砂糖を振ったものだ。横には酸味のある果物のソースが添えられている。

 

 前夜のリンゴ菓子とはまったく違う。

 

 温かい生地は柔らかく、縁だけが少し香ばしい。果物のソースを付けると、粉砂糖の甘さが重くならない。

 

 ターニャは一口食べ、次に何も付けずに食べた。

 

 どちらも良い。

 

「お好きですか」

 

 セレブリャコーフが尋ねる。

 

「ああ。これは持ち帰れるのか」

 

 言ってから、ターニャは自分で少し驚いた。

 

 持ち帰る。

 

 つまり、後でもう一度食べたいと思っている。

 

 店主は、そばで控えていた給仕から話を聞き、すぐに寄ってきた。

 

「焼きたてが一番ですが、生地の作り方を山荘の料理人へお伝えすることはできます」

 

「そこまでしなくていい」

 

「総統山荘からも、少佐のお好みを伺うよう申し付かっております」

 

 また包囲されている。

 

 ターニャは一瞬だけ迷った。

 

 ここで遠慮を貫く必要があるだろうか。

 

 総統閣下は楽しめと命じた。

 

 ヒムラー閣下は食事を取らせるよう指示した。

 

 店側は好みを伝えるよう求められている。

 

 ならば、正確な回答を返すべきである。

 

「では、可能であればお願いします」

 

「喜んで」

 

 店主は満足そうに下がった。

 

 セレブリャコーフが、匙を持ったまま言う。

 

「ベルリンへ戻られてからも、召し上がれますね」

 

「休暇の料理を執務室へ持ち込むことになるな」

 

「休憩時間に召し上がればよろしいかと」

 

「お前が時間を確保するのか」

 

「必要でしたら」

 

「必要と判断しそうだな」

 

「はい」

 

 セレブリャコーフは真面目に頷いた。

 

 ターニャは呆れながらも、否定しなかった。

 

 食事を終え、店を出る。

 

 外の空気は朝より暖かくなっていた。

 

 制服の上着を着たままでも暑すぎない。湖からの風があり、歩けば丁度よかった。

 

 船へ戻る前、店の前で数人の家族連れとすれ違った。

 

 子供がターニャを見て、母親へ何かを尋ねる。母親は慌てて子供の肩を押さえ、道を空けた。

 

 ターニャは通り過ぎようとした。

 

 だが、少年が声を上げた。

 

「本当に少佐なの?」

 

 母親の顔色が変わった。

 

「失礼いたしました」

 

 少年の口を塞ごうとする。

 

 ターニャは足を止めた。

 

「そうだ」

 

 少年が目を輝かせる。

 

「戦ったの?」

 

 質問は単純だった。

 

 何と戦ったのか。

 

 どこで戦ったのか。

 

 軍人であるなら、子供にとっては銃や戦車を使ったかという意味だろう。

 

 ターニャは一瞬だけ考えた。

 

「今は、命令書や報告書と戦っている」

 

 少年は分からない顔をした。

 

 母親も反応に困っている。

 

 セレブリャコーフが少しだけ横を向いた。笑いを隠したらしい。

 

「紙と戦うの?」

 

「そうだ。放っておくと増える」

 

 少年は真剣な顔で頷いた。

 

「大変だね」

 

「ああ。大変だ」

 

 母親が深く頭を下げる。

 

「寛大なお言葉をありがとうございます」

 

「構いません。良い休暇を」

 

 自分が言う側になるとは思わなかった。

 

 家族が去った後、ターニャは歩き出す。

 

「笑ったな」

 

「少しだけです」

 

「報告書と戦う、は事実だ」

 

「はい。ですが、お子様へ説明されるとは思いませんでした」

 

「銃で何人撃ったかと説明するよりはましだろう」

 

「その通りです」

 

 二人は船着場へ向かった。

 

 観光客の中に混じって歩く。

 

 完全に混ざることはできない。

 

 制服がある。

 

 階級章がある。

 

 護衛がいる。

 

 人々は道を空ける。

 

 それでも、ベルリンの官庁にいる時より、自分と一般の生活の距離が近かった。

 

 家族で湖へ来る者。

 

 市場で品を売る者。

 

 教会へ入る者。

 

 料理を作る者。

 

 木の鳥を削る職人。

 

 国家や民族という言葉を大きく語る時、その中身は結局、こうした人々である。

 

 ヒトラー閣下も、ヒムラー閣下も、彼らをドイツ民族として語る。

 

 ターニャは、もっと実務的に見る。

 

 徴税対象。

 

 労働力。

 

 兵員。

 

 生産者。

 

 消費者。

 

 警察が守り、時に監視する住民。

 

 だが、今日一日だけは、それ以外の見方もできた。

 

 休日を楽しむ人々。

 

 子供へ甘い菓子を買う親。

 

 景色を見て笑う者。

 

 料理を褒められ、嬉しそうにする店主。

 

 国家が守るべきものは、抽象的な血統や領土だけではない。

 

 こうした日常が続く状態そのものでもある。

 

(未来を守る、というのは、こういうものを残すことでもあるのだろうな)

 

 少し前のドクトルの言葉が、頭の隅へ浮かんだ。

 

 兵器は、味方を帰すための道具でもある。

 

 あの変人なら、この湖を見ても研究の話を始めるだろう。音の反響、船の推進、山岳輸送。どれか一つへ食いつき、休暇を研究計画へ変える。

 

 ターニャは、思わず小さく息を吐いた。

 

「どうされましたか」

 

 セレブリャコーフが尋ねる。

 

「ドクトルを連れてこなくて正解だったと思っただけだ」

 

「研究のお話を始められそうですね」

 

「ああ。湖の音響から兵器へ話しが飛ぶ」

 

「あり得ると思います」

 

 二人の認識は一致した。

 

 船が岸へ着く。

 

 次に向かうのは、湖を見下ろす短い道である。

 

 山荘へ戻るまで、まだ時間はある。

 

 ターニャは帽子の位置を整え、船へ乗り込んだ。

 

 仕事の顔を完全に置いてきたわけではない。

 

 未来への懸念も消えていない。

 

 だが、今日の景色と料理を、任務の付属物として処理する気もなくなっていた。

 

 湖は美しかった。

 

 料理はうまかった。

 

 町を歩くのも悪くない。

 

 セレブリャコーフが隣にいることも、普段より自然に感じられる。

 

 それらは、何かの役に立たなくてもよい。

 

 少なくとも、休暇の間だけは。

 

 船が岸を離れる。

 

 午後の光が水面へ細かく散り、山の影が少しずつ位置を変えていった。

 




すいません、別作品のプロット、執筆などで忙しく(あと、本業も汗)、ちょっとだけ今までより更新の速度が落ちるかもですが、第二次世界大戦の仮想戦記を書きたいと思っているので自分の学習のためにも、書き続けますのでよろしくお願い致します。

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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