長らくお待たせいたしました。
山荘の屋根が木々の向こうに見え始めた。
朝に通った道を車が登っていく。
同じ検問所で止まり、車両番号を確かめられ、遮断棒が上がった。違うのは、ターニャの上着のポケットに小さな木彫りの鷹が入っていることくらいだった。
車が玄関前へ止まる。
先に降りたセレブリャコーフへ続き、ターニャも外へ出た。
「お帰りなさいませ」
迎えた使用人へ、ターニャは軽く頷いた。
「ただいま戻りました」
口にしてから、ほんの少しだけ引っ掛かった。
ただいま。
官庁でも宿舎でも、あまり使わない言葉だった。
使用人は何も気にした様子を見せない。
「夕食までお時間がございます。お部屋でお休みになりますか」
「そうします」
「お飲み物をお持ちいたしましょうか」
「水だけお願いします」
「かしこまりました」
部屋へ戻る。
セレブリャコーフは市場で受け取った木箱を卓へ置いた。
丁寧すぎる置き方だった。
「壊れ物ではないぞ」
「分かっております」
「なら、そこまで慎重に扱わなくてもいい」
「はい」
返事とは裏腹に、扱いは変わらない。
ターニャは自分のポケットから薄紙の包みを出した。
開けば、小さな鷹が現れる。
黒と銀に近い色。
翼を畳み、少し横を向いている。
役には立たない。
執務能力も上がらない。
書類が減るわけでもない。
それでも、ベルリンへ持ち帰ろうと思っている。
窓際の棚へ置いた。
「そこになさるのですね」
「ああ。帰る時に忘れないようにしろ」
「承知しました」
「お前の箱もだ」
「こちらは忘れません」
「そうだろうな」
セレブリャコーフは少しだけ目元を和らげた。
ターニャは長椅子へ腰を下ろした。
今日は歩いた。
町を歩き、船へ乗り、湖畔を進み、山道まで登った。
疲れている。
だが、嫌な疲れではない。
「少尉」
「はい」
「今日は楽しかったか」
セレブリャコーフがターニャを見る。
「はい。とても」
「そうか」
「少佐は」
「ああ」
今度は迷わなかった。
「楽しかった」
「それは、よかったです」
短いやり取りだった。
それで足りた。
少しして水が届き、二人で飲んだ。
窓の外には、夕方へ向かう山がある。
あの向こうに、今日歩いた町がある。
市場がある。
湖がある。
店がある。
教会がある。
船着き場で話した少女も、今頃はどこかへ帰っているだろう。
ターニャはグラスを置いた。
「私は、ああいう生活をほとんど見ていなかったらしい」
「町の生活でしょうか」
「ああ」
ターニャは窓の外へ目を向けた。
「住民という単位では見ていた。人口、職業、徴税、生産、治安。だが、休日に湖へ来る人間としては見ていなかった」
「少佐は、お仕事で住民を見ることの方が多いですから」
「それだけではない」
ターニャは少し考えてから続けた。
「私がそういう見方を選んでいた」
人間を一人ずつ見れば、処理が遅くなる。
だから数字へ変える。
兵員。
労働者。
住民。
損耗。
避難民。
被拘束者。
合理的だった。
これからも必要だ。
だが今日、数字になる前の姿を見た。
「少佐」
「何だ」
「悪いことなのでしょうか」
「いや」
ターニャは首を振った。
「むしろ逆だ」
それ以上を口にする前に、扉が叩かれた。
使用人が入ってくる。
「少佐。総統閣下が、夕食の前に少しお話をなさりたいとのことです」
反射的に仕事を疑った。
「執務でしょうか」
「いいえ。テラスへ、と伺っております」
ならば断る理由はない。
「承知しました」
ターニャは立ち上がった。
「少尉も一緒でよろしいのでしょうか」
「はい。お二人でと」
セレブリャコーフも制服を整える。
ターニャは帽子へ手を伸ばした。
「帽子は必要ないとのことです」
使用人に言われ、手を止めた。
「分かりました」
テラスへ出る。
ヒトラーは既にいた。
隣にはヒムラーもいる。
卓には茶器があるだけで、地図も書類も置かれていなかった。
「総統閣下。お呼びとのことで参りました」
「ああ。来たか」
ヒトラーが振り返る。
「どうだった、デグレチャフ」
「大変よい一日を過ごさせていただきました」
「それでは分からんな」
ヒトラーは椅子を示した。
「何がよかった」
ターニャとセレブリャコーフが席へ着く。
「湖です。船にも乗りました。町では市場へ立ち寄り、昼食もいただきました」
「魚を食べたそうだな」
「はい」
「菓子も気に入ったとか」
そこまで伝わっている。
ターニャはヒムラーを見た。
「私ではない」
先に否定された。
「山荘側から聞いた」
「そうでしたか」
「休ませる対象がきちんと食べているかは確認させる」
「十分にいただいております」
「ならいい」
ヒムラーの返事は短い。
ヒトラーが笑った。
「町では何か買ったかね」
「木彫りの鷹を一つ」
「君が自分でか」
「はい」
「それはいい」
予想以上に嬉しそうだった。
「少尉には、小さな木箱を贈りました」
セレブリャコーフが補足する。
今度はヒムラーがターニャを見る。
「お前が選んだのか」
「はい」
「そうか」
それだけ言って茶へ手を伸ばす。
ヒトラーはしばらく笑っていた。
「ようやく休暇らしくなったな」
「おかげさまで」
「初日は、休むことまで任務のような顔をしていた」
否定できない。
「今も多少は、そのつもりでおります」
「そこは直らんか」
「すぐには難しいかと」
「まあいい」
ヒトラーは茶器へ手を伸ばした。
そこで何かを思い出したように、ターニャを見る。
「ところで、君はワーグナーを聴くかね」
話題の変化が急だった。
「教養として多少は存じております」
「好きではないのか」
「嫌いというわけではございません。ただ、熱心に聴いてきたとは申し上げられません」
「それはいかんな」
叱っている口調ではない。
だが、本気で残念そうだった。
「『ニーベルングの指環』は」
「概要と、いくつかの曲は存じております」
「『ワルキューレ』もか」
「はい」
ヒトラーが少し身を乗り出した。
先ほどまで休暇の様子を尋ねていた時とは、声の張りが違う。
「なら、ベルリンへ戻ったらきちんと聴くといい。ワーグナーを音楽だけだと思ってはいけない」
「音楽だけではない、と」
「そうだ」
ヒトラーは即答した。
「神話があり、血があり、英雄がいる。裏切りも、犠牲も、滅びもある。個人の欲望だけでは終わらん。その後ろに共同体がある」
ターニャは黙って聞いた。
ワーグナーを語るヒトラーは、会議で軍事や外交を語る時とは少し違っていた。
説明というより、自分が当然に知っているものを相手にも見せようとしている。
「私は昔から思っている」
ヒトラーは続けた。
「ワーグナーが分からない者には、我々が国家と民族に何を求めているのかも、最後までは分からん」
ターニャは僅かに首を傾けた。
「国家社会主義も、でしょうか」
「無論だ」
返答に迷いはなかった。
「制度だけを見れば、国家社会主義は役所の仕組みにしか見えん。法律を読み、党の綱領を覚え、組織図を並べても足りない」
ヒトラーは指先で卓を軽く叩いた。
「民族が何を記憶し、何を誇り、何のためなら自分より大きなものへ身を投じるのか。それが分からなければ、国家社会主義も理解できん」
いかにもヒトラーらしい答えだった。
ターニャが制度として扱ってきたものを、彼は感情と物語の側から見ている。
「ですが、総統閣下」
「何だね」
「私は、音楽から政策を決めることはできません」
ヒムラーの視線がターニャへ向いた。
ヒトラーは一瞬黙り、それから笑った。
「君ならそう言うと思った」
「申し訳ございません」
「謝ることではない」
ヒトラーは椅子へ背を預けた。
「君は何でも数字へ戻す」
「数字でなければ、結果を比較できませんので」
「それが君の役目だ。だが、数字だけで人間が動くなら政治はもっと簡単だった」
そこは否定できない。
給与。
食糧。
住居。
治安。
それらは重要だ。
だが、それだけで人間が命を懸けるとは限らない。
旗。
故郷。
家族。
宗教。
名誉。
復讐。
理屈だけでは割り切れないものが、人間を動かすことはある。
「ワーグナーの登場人物は、合理的ではありません」
ターニャが言った。
「そうだ」
ヒトラーが嬉しそうに答える。
「むしろ、私の基準なら避けるべき判断が多いかと」
「だから君には必要なのだ」
「なぜでしょうか」
「君が理解しにくい人間を知るためだ」
返答が早かった。
ターニャは少し黙った。
これは一本取られたかもしれない。
「人間は、損得だけでは動かん」
ヒトラーは言った。
「時には、自分が損をすると知っていても立つ。家族のため、故郷のため、民族のためにな」
「それが合理的かどうかとは別に、ですか」
「そうだ。国家を率いるなら、それを知らねばならん」
ヒムラーがそこで口を挟んだ。
「お前は、人間が合理的に行動することを期待しすぎるところがある」
「否定はいたしません」
「記録と命令で行動は制御できる。だが、忠誠まで帳簿で作れるわけではない」
「承知しております」
「本当に分かっているか」
「少なくとも、以前よりは」
ヒムラーはそれ以上追及しなかった。
ターニャはヒトラーを見る。
「総統閣下は、ワーグナーの何を最も好まれるのでしょうか」
ヒトラーはすぐには答えなかった。
「一つには絞れんな」
珍しく曖昧な返答だった。
「だが、英雄だけを見ているわけではない。ワーグナーでは、個人の行為が個人だけで終わらん。愛も、裏切りも、誓約も、最後には世界そのものへ返ってくる」
そこでヒトラーは山の方へ顔を向けた。
「人間は一人で生きているつもりでも、そうではない」
ターニャは、その言葉だけを受け取った。
ワーグナーから国家社会主義へ至るヒトラーの結論まで受け入れる必要はない。
だが、人間を制度の部品としてだけ見れば取りこぼすものがあるという指摘には、今日一日の経験が重なっていた。
市場で木を削る職人。
湖へ来る家族。
教会へ入った老婦人。
隣で菓子を食べたセレブリャコーフ。
誰も数字だけで生きてはいない。
「少し興味が出ました」
ターニャが言う。
ヒトラーが振り返った。
「ワーグナーにか」
「はい。ただし、総統閣下と同じ感想になる保証はできません」
ヒトラーが声を上げて笑った。
「それでいい。君が私と同じ感想を述べたら、私はまず誰かに命じられたのではないかと疑う」
「では、正直に聴かせていただきます」
「そうしろ」
ヒムラーが静かに茶を飲む。
「感想書の提出までは命じん」
「助かります」
「お前の場合、命じれば十ページは書くだろう」
「必要事項を整理すれば、その程度にはなるかと」
「やはり命じない方がいいな」
今度はヒトラーだけでなく、セレブリャコーフまで口元を緩めた。
ターニャは小さく息を吐いた。
「休暇中に課題を増やさないでいただけるのでしたら幸いです」
「ようやく休暇らしいことを言うようになった」
ヒトラーは満足そうに頷いた。
それからテラスの外へ目を向ける。
「それで、町はどうだった」
今度は、感想を聞いているだけではないように感じた。
ターニャは今日見たものを思い出した。
「穏やかでした」
「穏やか」
「はい。市場で商売をする者がいて、家族連れが歩いていました。教会へ入る者もいました。湖では観光客が食事をしていました」
「戦争中でもな」
「はい」
ヒトラーが頷く。
「それが国家だ」
ターニャは視線を戻した。
「国家、でしょうか」
「そうだ」
ヒトラーは山ではなく、ターニャを見る。
「ベルリンの官庁だけがドイツではない。軍隊だけでもない。今日、君が見てきた者たちもドイツだ」
「はい」
「我々が強くあらねばならない理由でもある」
ヒムラーが茶器を置いた。
「彼らが、自分で自分を守れるわけではない」
「治安と国防という意味でしたら、その通りです」
ターニャが答える。
ヒムラーは少し首を振った。
「それだけではない」
「と申しますと」
「共同体を維持するという意味だ」
声は穏やかだった。
「犯罪者を放置すれば、普通に働く者が損をする。破壊活動を許せば、従っている者が危険になる。国家の内部で好き勝手を許せば、最後に負担を払うのは秩序を守って暮らしている者だ」
いかにもヒムラーらしい。
警察を統合し、監視と記録を広げる人間の答えである。
「だから、国家は線を引く」
「内と外を、でしょうか」
「そうだ。誰を守るのか。誰が共同体へ責任を負うのか。そこを曖昧にすれば国家ではない」
危険な言葉だった。
ヒムラーにとって、その線は単なる国籍では終わらない。
血統。
民族。
政治的忠誠。
健康。
社会的価値。
いくつもの基準が重ねられていく。
そして一度、共同体の外へ置かれれば、保護の範囲も変わる。
ターニャは、その仕組みを知っている。
「線を引くのであれば、基準と記録は必要です」
「お前ならそう言うと思った」
「恣意的に動かせば、必要な人材まで失います」
「だからお前を置いている」
ヒムラーの返答は早かった。
「思想だけで警察を動かせば、私怨を国家命令に混ぜる者が出る。命令を利用する者も出る。誰が決め、誰が実行し、何を根拠にしたかは残させる」
それでヒムラーの思想が穏健になるわけではない。
排除すべき対象そのものについて、彼が疑っているわけでもない。
ただ、自分が正しいと考える政策だからこそ、私的な逸脱を嫌っている。
そこが厄介だった。
狂信だけなら止めやすい。
制度を伴う確信は、止めにくい。
「デグレチャフ」
ヒトラーが呼んだ。
「はい」
「今日の町を、守りたいと思ったかね」
突然だった。
ターニャは即答しなかった。
市場。
湖。
店主。
家族。
船着き場で話した少女。
セレブリャコーフ。
それらを順番に思い出す。
「はい」
短く答えた。
「思いました」
ヒトラーは満足そうに頷いた。
「なら、君も少し分かっただろう」
「何をでしょうか」
「なぜ国家が勝たねばならないかだ」
ターニャは眉をわずかに動かした。
「平和が欲しい。家族を守りたい。商売を続けたい。子供を育てたい。誰でも言う」
「はい」
「だが、それを欲しがるだけで手に入るなら、国家も軍隊も必要ない」
ヒトラーの声は穏やかだった。
「前の戦争で、我々は負けた」
指先が卓へ触れる。
「領土を失った。軍を縛られた。賠償を負わされた。外国がドイツの将来へ条件を付けた。国内では失業し、街頭では政治勢力が争った」
ターニャは黙って聞く。
「それでも国民は生きていた」
「はい」
「では、それでよかったのかね」
「よかったとは申し上げません」
「そうだろう」
ヒトラーはすぐに返した。
「敗者にも家は残る。家族も残る。店も開く。だが、国家の明日を決める権利が残るとは限らん」
「主権のお話でしょうか」
「それだけではない」
ヒトラーはターニャを見た。
「生きることと、自分の意思で生きることは違う」
その言葉が耳へ残った。
「外国に許された軍備を持ち、外国に認められた国境の中で暮らし、外国が許す範囲で将来を選ぶ。それで国民が腹を満たしていれば幸福だと言えるかね」
「私は、そうは考えません」
「私もだ」
ヒトラーは頷いた。
「民族には、生き残るだけでなく、自らの運命を決める力が必要だ」
そこまでは理解できる。
問題は、その先だった。
「その力を守るために、戦争が必要になる場合もある、と」
「必要ならする」
「敗北の危険があってもでしょうか」
「敗北を恐れて服従を選ぶなら、最初から国家など持たなければいい」
返答が速い。
「負ければ、さらに多くを失います」
「だから勝つ」
「勝利が保証されていなくても」
「保証など誰がする」
ヒトラーの声が少し強くなった。
「保証がなければ戦わないというなら、強い相手は弱い国へ何でも要求できる。拒めば戦争になるぞ、と言うだけでな」
ターニャは答えなかった。
論理としては成立している。
だが、まだ終わらない。
「総統閣下」
「何だね」
「我々が勝てば、相手国は敗者になります」
「当然だ」
「先ほどのお話では、敗者は自らの将来を決める力を失います」
「そうだ」
躊躇がなかった。
「では、我々が他国へそれを行うことは矛盾しませんか」
セレブリャコーフの手が止まった。
ヒムラーは何も言わない。
ヒトラーだけが、ターニャを見ていた。
「なぜ矛盾する」
「ドイツ人が外国に将来を決められることを拒みながら、相手国にはドイツが条件を付けることになります」
「それの何が矛盾だ」
ターニャは一瞬、言葉を止めた。
ヒトラーは本当に分からないという顔をしている。
「同じ権利を、相手にも認めるのであれば、です」
「認める必要があるのかね」
「……必要がないと」
「私はドイツの指導者だ」
声は静かだった。
「イギリス人のために選ばれたのではない。フランス人のためでも、ポーランド人のためでもない」
「はい」
「ならば、私が第一に守るべきものは何だ」
「ドイツです」
「そうだ」
ヒトラーは僅かに身を乗り出した。
「ドイツ人の自由を守るために、敵の自由を制限する必要があるなら、私はそうする」
ターニャは目を逸らさない。
「相手国民が、それを望まなくても」
「敗者が勝者の条件を望む必要がどこにある」
「幸福でなくても、でしょうか」
そこでヒトラーが止まった。
ほんの僅かな沈黙だった。
「幸福である必要があるかね」
怒鳴らなかった。
笑いもしなかった。
「国家の責任は、まず自国民にある」
「はい」
「ドイツ人の子供が安全に眠れるか、敵国の国民が自分の政府を自由に選べるか。その二つが両立しないなら、私は前者を取る」
「両立する方法がある場合は」
「あるなら使えばいい」
「なければ」
「選ぶ」
「どちらをでしょうか」
「君は今、私に同じことを二度言わせている」
ヒトラーの目が細くなった。
「ドイツだ」
短い答えだった。
「では、敵国の国民は」
「従わせる」
セレブリャコーフが僅かに息を吸った。
ターニャは質問を続けた。
「どこまででしょうか」
「必要なところまでだ」
「政府を変える」
「必要なら」
「軍を制限する」
「当然だ」
「港湾や飛行場を管理する」
「敵が再び我々へ向けて使えないようにな」
「通信を監督する」
「必要ならする」
「警察にも協力を求める」
「敵対組織を放置する理由はない」
答えが一つも詰まらない。
ターニャの頭に、まだ草案でしかない対英管理案が浮かんだ。
王室を残す。
内閣も議会も残す。
だが、外交、軍事、港湾、飛行場、通信には条件を付ける。
外形を残しながら、再戦能力を削る。
合理的な占領政策として、自分も検討している。
ヒトラーの言葉は、その先へ簡単に進めた。
「それでは、国家は残っていても、相手国は自分の将来を自由には決められません」
「そうだ」
「先ほど総統閣下が、敗戦後のドイツについて否定された状態に近くなります」
「だから何だね」
ヒトラーは静かに返した。
「我々は二度と、その側へ立たない」
ターニャは次の問いを選んだ。
「相手が、その状態から抜け出そうとした場合は」
「許さない」
「武力で、でしょうか」
「必要なら」
「そのために相手国民が死んでも」
「我々へ再び銃を向けるなら、それは彼らが選んだ結果だ」
「選択肢そのものを我々が狭めた後でも、ですか」
ヒトラーの指が卓を一度叩いた。
「デグレチャフ。国家間に裁判官はいない」
「はい」
「最後に自国の生存を保証するのは、自国の力だ」
「承知しております」
「ならば、勝者が条件を決めるのは異常ではない。歴史はずっとそうしてきた」
「それを恒久的に続ければ、相手は永遠に敗者になります」
「それでドイツが安全なら、何が問題だ」
声は変わらない。
それが一番まずかった。
「では、主権は」
「我々の安全より上には置かん」
「国民の意思は」
「ドイツの生存より上には置かん」
「彼ら自身が、そう望まなくても」
「君は敗者の希望を気にしすぎる」
ヒトラーは椅子へ背を預けた。
「国家は願望で守れん。力を失った者が、勝った者と同じ条件を要求できると思う方がおかしい」
「では、力が正しさを決めるのでしょうか」
「違う」
そこだけは強く否定した。
「力は、正しさを実現できるかを決める」
ターニャは黙った。
ヒトラーは続けた。
「正しいと信じるものがあっても、それを守る力がなければ奪われる。民族も同じだ」
「ですから、ドイツは強くなければならない」
「そうだ」
「どこまで強くなれば十分でしょうか」
「敵がドイツの将来を脅かせなくなるまでだ」
「その敵とは」
「ドイツの将来を妨げる者だ」
答えが円を描いた。
敵がいるから強くなる。
強くなることを妨げる者は敵になる。
そして敵がいなくなるまで止まらない。
「その判断は、誰がいたしますか」
「我々だ」
即答だった。
「相手には判断させないのでしょうか」
「なぜドイツの安全を敵に決めさせる」
ヒトラーは本気でそう言っている。
「デグレチャフ。君は今日、町を見てきたのだろう」
「はい」
「あの子供たちが大人になった時、再び外国から条件を付けられるドイツを渡したいか」
「いいえ」
「私は絶対に渡さん」
声が低くなる。
「彼らが生きる場所を守る。仕事を守る。家族を守る。文化を守る。誇りを守る。そのために必要なら国境の外まで手を伸ばす」
ヒトラーの手が山の向こうを示した。
「敵が遠くへ退けば、そこまで行く。海の向こうから来るなら海を越えて届く力を持つ。東から来るなら東へ備える」
「終わりがありません」
ターニャは思わず言った。
ヒムラーがターニャを見る。
だがヒトラーは怒らなかった。
「ある」
「どこでしょうか」
「ドイツが安全になった時だ」
「完全な安全は存在しません」
ヒトラーの表情が止まった。
ターニャは続ける。
「国家が存在する限り、潜在的な敵はなくなりません。軍事力を持つ国も、経済力を持つ国も、将来敵対する可能性は残ります」
「だから備える」
「その全てを脅威と判断すれば、戦争は終わりません」
「終わらせるために負けろと言うのか」
「申し上げておりません」
「なら勝てばいい」
簡単に返ってきた。
「次の敵が現れた場合は」
「また勝つ」
「その次も」
「勝つ」
「永遠に、でしょうか」
ヒトラーはターニャを見た。
「民族が生きる限り、闘争が消えると思うかね」
答えは出ていた。
「……いいえ」
「ならば、勝ち続けるしかない」
静かな断言だった。
ターニャの背中を、山の冷気とは違うものが通った。
敗北したくない。
国民を守りたい。
自分たちの未来を自分たちで決めたい。
そこまでは理解できる。
そのために勝つ。
勝ったなら相手へ条件を付ける。
相手が反発すれば抑える。
新しい脅威が生まれれば、また勝つ。
終点がない。
ヒトラー自身には、それが矛盾ではない。
「総統閣下」
「何だ」
「それでは、ドイツ国民はいつ幸福になるのでしょうか」
初めて、ヒトラーが少し長く黙った。
「勝利の中でだ」
「戦争が続いていても」
「戦争だけを見ればそうなる」
ヒトラーは山の下へ目を向けた。
「あの町を見ろ。戦争中でも人は食事をし、働き、子供を育てている」
「はい」
「国家が外で戦うから、中でそれができる」
ターニャは返さない。
「平和とは、戦争が存在しないことではない」
ヒトラーは言った。
「自分たちの生活を、敵の意思で壊されないことだ」
そこまで言って、ターニャへ視線を戻す。
「そのためなら、敵の平和を壊すことを私はためらわん」
セレブリャコーフが動かなかった。
ヒムラーも黙っている。
ヒトラーは茶へ手を伸ばした。
「それが指導者の責任だ」
あまりにも自然に言った。
ターニャはそこで質問を止めた。
もう十分だった。
「親衛隊も同じだ」
ヒムラーが口を開いた。
「全ての人間を同じように守る組織ではない」
ターニャは彼を見る。
「我々には、守るべき共同体がある。そのために危険なものを取り除く。敵が外にいるなら軍が戦う。内側へ入れば警察と保安機関が処理する」
「民族共同体を優先する、と」
「当然だ」
ヒムラーは迷わない。
「国家が誰に対しても同じ責任を負うなどという考えでは、最後に誰も守れなくなる」
そこでヒムラーは、山の下へ視線を移した。
今日、ターニャたちが歩いた町がある方角だった。
「お前が今日会った者たちも同じだ」
「町の住民でしょうか」
「そうだ」
ヒムラーは茶器へ触れた。
「市場の商人も、湖へ来ていた家族も、子供も、我々の側にいる限りは守る」
最後の一言だけが引っ掛かった。
「我々の側にいる限り、ですか」
「ああ」
ヒムラーは何でもないことのように答えた。
「仮に、お前が今日話した少女が、身分を偽って匿われていたユダヤ人だったとする」
セレブリャコーフの顔から、先ほどまで残っていた柔らかさが消えた。
ターニャは黙って続きを待つ。
「どうする」
「身元を照会します」
「その結果、事実だった」
「保護した者も調べます」
「家族が承知の上で匿っていた」
「関係者として扱います」
ヒムラーが頷いた。
「そうだ」
声は変わらない。
「少女は拘束する。匿った家族も拘束する。誰が身分証明を用意したか、誰が食料を渡したか、誰が知っていて黙っていたかを調べる」
湖の方から風が上がってきた。
卓上のナプキンが僅かに動く。
「ただの子供でも、でしょうか」
セレブリャコーフだった。
ヒムラーが彼女を見る。
「年齢が事実を変えるのか」
「……いいえ」
「なら変わらん」
それで終わった。
声を荒らげる必要すらないらしい。
ターニャはヒムラーの横顔を見る。
そこには怒りも興奮もない。
処理すべき案件の分類を説明しているだけだった。
「では別の場合だ」
ヒムラーが続けた。
「その少女が敵国のために情報を運んでいたらどうする」
「内容と接触先を確認します」
「ドイツ軍の配置を伝えていた」
「防諜案件です」
「捕まえようとした警察官へ銃を向けた」
ターニャは一拍だけ置いた。
「制圧します」
「射殺してもか」
「他に止める方法がなければ」
「そうだ」
ヒムラーは頷いた。
「子供だから敵ではない、などという規則はない」
セレブリャコーフの指が膝の上で僅かに縮んだ。
ヒムラーは気づいているのかいないのか、そのまま話す。
「収容所へ送るべき者は送る。尋問すべき者は尋問する。武器を持って抵抗するなら、その場で止める」
止める。
便利な言葉だった。
その結果が死体であっても、文章の上では一語で済む。
「それが老人でも、女でも、子供でもだ」
ヒムラーはターニャを見る。
「親衛隊員が相手を見て手を止めれば、その迷いを敵は利用する」
「はい」
「私はそれを許さん」
断言だった。
「守る対象を決めた以上、その外側にいる者へ同じ責任は負えない」
先ほどヒトラーが語ったものと、形が似ている。
総統閣下は国家の外側を切った。
ヒムラー閣下は共同体の外側を切る。
違うのは規模だけだった。
ヒムラーがターニャへ向き直る。
「お前にはできるか」
問いは短かった。
「何を、でしょうか」
「命令だ」
ヒムラーは言った。
「相手が子供でも拘束する。必要なら収容所へ送る。敵の工作員なら処理する。お前に笑いかけた人間でもだ」
セレブリャコーフがターニャを見る。
「今日一日、一緒に食事をした相手でも」
ヒムラーは続ける。
「昨日まで知人だった者でも」
さらに一拍置いた。
「身内でもだ」
ターニャはヒムラーを見返した。
試されている。
思想への共感を尋ねているのではない。
命令系統の末端で感情を優先するか。
そこを見ている。
ならば回答は簡単だった。
ターニャは口元を僅かに上げた。
「そこまで信用していただけているとは、光栄です」
セレブリャコーフの視線が止まる。
「ご命令でしたら、喜んで親でも処理いたしましょう。お望みとあらば、その場で射殺もいといません」
笑顔のまま言った。
自分でも、ずいぶんな回答だと思う。
親衛隊への忠誠を測るなら、これ以上分かりやすい答えもない。
半分は皮肉だった。
残り半分は、命令というものを突き詰めれば本当にそこへ行き着くという確認である。
ヒムラーは笑わなかった。
「それでいい」
普通に答えた。
ターニャの笑みが僅かに固まった。
(そこは少しくらい引いてくれてもいいだろう)
ヒムラーは本気だった。
ターニャの皮肉を、忠誠の表明としてそのまま受け取っている。
「ただし」
ヒムラーが続ける。
「命令が本物かは確認しろ」
今度はターニャが瞬きをした。
「はい」
「誰が命じたか。権限はあるか。対象は合っているか。根拠は何か。そこを飛ばして身内を撃つ者は忠実なのではない。ただの馬鹿だ」
「……承知しました」
「私が求めているのは馬鹿ではない」
ヒムラーは茶を一口飲んだ。
「必要な時に躊躇せず、必要でない時には撃たない者だ」
それは一見すると、ひどくまともな要求だった。
だから余計に始末が悪い。
誰を収容所へ送り、誰を射殺し得る対象とするのか。
その前提だけが狂っている。
その後ろには、確認、権限、記録、命令系統という整った手続が並んでいる。
狂気が規則を破っているのではない。
規則になっている。
「ヒムラー閣下」
ターニャが言う。
「では、私が命令の根拠を確認した結果、不適切だと判断した場合は」
「止めろ」
即答だった。
「上官命令でもでしょうか」
「権限外ならな。私の名を勝手に使う者がいれば拘束しろ」
「閣下ご自身の命令でしたら」
ヒムラーの手が止まった。
「記録を残せ」
「異議も」
「根拠を添えろ」
「それでも命令が維持された場合は」
「実行しろ」
そこにも迷いはない。
「それが親衛隊だ」
ターニャは黙った。
なるほど。
実に分かりやすい。
命令を確認する。
権限を確認する。
記録を残す。
異議も許される。
だが、最後に正式な命令として残ったなら実行する。
対象が誰であろうと。
少女であろうと。
家族であろうと。
昨日まで笑って話していた相手であろうと。
手順が正しければ、最後まで進む。
ターニャが普段求めている制度の明確さが、ここでは別の形を取っていた。
手続があるから止まるのではない。
手続があるから、止まらずに済む。
「少尉」
ヒムラーが突然セレブリャコーフを見る。
「はい」
返事は崩れなかった。
「お前はどうだ」
一瞬だけ間があった。
「ご命令には従います」
「質問への答えになっていない」
セレブリャコーフの背筋が伸びる。
ターニャは口を挟まなかった。
「……迷うと思います」
やがてセレブリャコーフは答えた。
ヒムラーは怒らない。
「そうか」
「申し訳ございません」
「謝る必要はない」
意外な返答だった。
「迷わないと言って、実際には動けない者の方が困る」
ヒムラーはターニャへ視線を戻した。
「だから人間を見る」
そして再びセレブリャコーフへ向く。
「自分がどこで止まるかを知っておけ。知らない者は、必要な時に崩れる」
「はい」
セレブリャコーフは答えた。
声は普段と変わらない。
だが、膝の上に置かれた手だけは、まだ少し硬い。
ターニャには分かった。
セレブリャコーフは、まだこちら側まで来ていない。
それでいい。
むしろ、その方がいいのかもしれない。
総統閣下は、自国を守るためなら敵国の平和を壊せる。
ヒムラー閣下は、共同体を守るためなら昨日まで町にいた少女を対象へ変えられる。
そして自分は、親でも処理すると笑顔で答えられた。
誰も怒鳴っていない。
誰も血を見て喜んでいない。
誰も自分を狂っているとは思っていない。
ヒトラーは国家を語る。
ヒムラーは秩序を語る。
ターニャは命令と合理性を語る。
セレブリャコーフだけが、一歩遅れてその会話を受け止めている。
おそらく、外から見ればその一歩の方が正常なのだ。
だが、この席では違った。
迷わないことが能力になる。
命令を最後まで通せることが信用になる。
殺すかどうかですら、感情ではなく権限と条件の問題になる。
(なるほど)
ターニャは自分の先ほどの笑顔を思い返した。
(これが親衛隊か)
黒服を着ているだけではない。
命令された時に、相手の顔より先に命令の正当性を確認する。
正当なら進む。
不当なら止める。
それを冷静さと呼ぶ。
恐ろしいほど、よくできていた。
そして自分は、その仕組みに適応しすぎている。
「デグレチャフ」
ヒトラーが呼んだ。
「はい」
「君は面白いな」
「何がでしょうか」
「町を守りたいと言い、その町の少女でも命令次第では撃てると言う」
ターニャは一瞬だけ言葉を選んだ。
「矛盾はしておりません」
「ほう」
「守る対象と、排除する必要がある対象が同一人物であるとは限りません。問題は、その判断が正しいかどうかです」
「だから記録か」
ヒムラーが言う。
「はい」
「やはり、お前はそこへ戻るな」
「私には、それしかございませんので」
ヒトラーが小さく笑った。
「それでいい。私は君に演説家になれとは言っていない」
そこで少し間を置く。
「ただし、何のために数字を見るのかは忘れるな」
「はい」
「今日見た町を思い出せ」
ヒトラーは山の下を示した。
「私はあれを守る。そのためなら敵の町を壊す」
ターニャはヒトラーを見る。
彼は言葉を取り消さなかった。
「ドイツ人の未来は、ドイツ人が決める。敵ではない」
その言葉が、妙なところへ引っ掛かった。
ドイツ人の未来は、ドイツ人が決める。
他者に決めさせない。
その一点だけを抜き出せば、ターニャには嫌というほど覚えがあった。
国でも民族でもない。
もっと小さい。
たった一人の人生の話だ。
(存在X……)
胸の奥に、古い苛立ちが戻った。
最初から話の通じる相手ではなかった。
信仰を要求し、従属を求め、こちらが拒めば条件そのものを変えてくる。
安全を選ぼうとすれば安全を遠ざける。
合理性を積み上げれば、その前提へ手を入れる。
ターニャが欲しかったものは、ひどく単純だった。
自分の人生を自分で決めること。
働き、対価を得て、危険を避け、できるだけ穏当に生きる。
それだけだった。
存在Xは、それを認めなかった。
信じろ。
従え。
受け入れろ。
形を変えて突きつけられてきた要求の根は、そこにある。
だから抗った。
生き延びるためでもある。
自由でいるためでもある。
何より、自分の意思決定を理不尽な何かへ明け渡したくなかった。
そして今、総統閣下は国家について似た言葉を使っている。
自分たちの未来を、自分たちで決める。
個人なら自由と呼ぶ。
国家なら主権と呼ぶ。
規模は違う。
だが、出発点だけなら理解できてしまう。
(なるほど。嫌になるほど分かりやすい)
だからこそ、その先まで同意するわけにはいかなかった。
自分が支配されたくないからといって、他者を支配してよいことにはならない。
存在Xに選択を奪われることを嫌ってきた自分が、国家という巨大な側へ回った途端、同じことを当然として扱う。
それでは立場が入れ替わっただけだ。
総統閣下の言う通り、戦争に勝てば条件を決める側になる。
現実として否定する気はない。
だが、できることと、どこまでやるかは別だった。
先ほどの問いへの答えは、もう聞いている。
どこで止まるのか。
ドイツが安全になった時。
完全な安全など存在しない。
ならば、止まる場所も存在しない。
それが総統閣下自身の口から出た。
「ヒムラー閣下」
「何だ」
「一つ、お願いがございます」
「言え」
「私が今後、守るためという理由だけで損失を正当化し始めた場合は、止めてください」
ヒムラーがターニャを見た。
ヒトラーも黙っている。
「妙なことを言うな」
「本日、少し分かりました」
「何をだ」
「守りたいものがある人間ほど、犠牲を正当化しやすいということです」
ヒムラーはすぐには答えなかった。
「だから数字を見るのではないのか」
やがて返ってきた。
「はい」
「お前は今まで通りやれ」
「今まで通り、ですか」
「損失を出せ。期限を出せ。責任者を出せ。誰かが『必要だ』と言ったら、何に必要なのかを書かせろ」
ヒムラーの声は淡々としている。
「思想は方向を決める。だが、実行するのは人間だ。人間は間違える」
ターニャは僅かに目を細めた。
「閣下も、でしょうか」
セレブリャコーフが息を止めた。
ヒムラーは数秒、何も言わなかった。
「だから記録を残す」
それだけだった。
ターニャは頭を下げた。
「承知しました」
それで十分だった。
彼が自分の思想を疑うとは思わない。
だが、自分の組織が誤る可能性までは否定していない。
そこには手を入れられる。
ヒトラーが茶器を置いた。
「ずいぶん難しい話になったな」
「申し訳ございません」
「私が始めた」
ヒトラーは笑った。
「休暇中の子供へ国家を語らせるのは、私の方が悪い」
「私は少佐です」
「知っている」
「子供扱いは」
「それも知っている」
返されてしまった。
ヒムラーが口を挟む。
「諦めろ。少なくともここでは、お前の階級だけを見る者はいない」
「閣下まで」
「事実だ」
セレブリャコーフが視線を下げた。
笑っているように見える。
「少尉」
「はい」
「何も言っていないな」
「はい」
「ならいい」
ヒトラーが声を上げて笑った。
つい先ほど、敵国の平和を壊すことをためらわないと言った人間と同じ声だった。
ヒムラーも、少女を収容所へ送り得る話をした直後に、何事もなかったように茶を飲んでいる。
そしてターニャ自身も、親を撃てと言われれば撃つと笑顔で答えた。
その中で、セレブリャコーフだけが一度、迷うと口にした。
誰が正常なのか。
少なくとも、この席で答えを出すのは難しかった。
「デグレチャフ」
「はい」
「今日、休ませてよかったかね」
今度の問いには、考える時間はいらなかった。
「はい」
ターニャは答えた。
「来てよかったと思っております」
ヒトラーの笑いが止まる。
「そうか」
「命令でなければ、来なかったと思います」
「だろうな」
「ですので……ありがとうございました」
ターニャは頭を下げた。
「総統閣下」
次にヒムラーを見る。
「ヒムラー閣下にも、お礼を申し上げます」
「私は命令を出しただけだ」
「それでもです」
ヒムラーは眼鏡の位置を直した。
「なら、受け取っておく」
ヒトラーは何も言わず、しばらくターニャを見ていた。
やがて立ち上がる。
「夕食にしよう」
「はい」
「今日はもう国家の話は禁止だ」
「承知しました」
「イギリスもだ」
「はい」
「ソ連もだ」
「承知しております」
ヒトラーは歩き出しかけて、振り返った。
「それから明日も休め」
「御意」
「今度は楽しむことを任務にするなよ」
ターニャは返答に詰まった。
「……善処いたします」
「それがもう仕事の言葉だ」
ヒトラーがまた笑った。
夕食は前夜より小さな席だった。
政治の話は出なかった。
ヒトラーは山の天候を話し、ヒムラーは近隣の農場について触れた。
セレブリャコーフが湖で聞いた反響音を話す。
ターニャは魚料理を褒めた。
ただ食べる。
それだけの時間だった。
だが、ターニャには前夜と同じには見えなかった。
目の前にいる二人は、国家の最高部にいる。
一人は国を動かす。
一人は巨大な警察と親衛隊組織を束ねる。
命令によって人を生かしも殺しもする。
その二人が今は食事をしている。
総統閣下は山を好み、ワーグナーを語り、ドイツ人が自国を誇れることを望む。
そして、その生活を守るためなら敵の平和を壊すと、穏やかな声で言える。
ヒムラー閣下は秩序を望む。
その秩序の外へ置いた人間なら、年齢も昨日までの関係も判断を変える理由にはしない。
しかも、誤った命令や私怨による処理は嫌う。
確認しろ。
記録しろ。
権限を確かめろ。
その上で正式な命令なら実行しろ。
恐ろしいのは、そこだった。
狂気が手続を失っているのではない。
手続を得ている。
そして自分も、その言葉をほとんど違和感なく理解できた。
親でも処理する。
その場で撃つ。
口にした時には皮肉が混じっていた。
だが、命令が正規のものであり、対象と根拠が確認されていたなら、自分は本当にどうするだろう。
答えを出すのは簡単ではなかった。
それでも、セレブリャコーフより長く迷う自信はない。
そこまで考えて、ターニャは目の前の料理へ視線を戻した。
危険だ。
その認識は、休暇前より強くなっていた。
同時に、以前ほど遠い人間にも見えなかった。
理解不能な理由だけで動いているわけではない。
出発点には、人間が理解できるものがある。
敗北したくない。
家族を守りたい。
秩序を保ちたい。
自分たちの未来を自分たちで決めたい。
問題は、そこから何を許すかだった。
夕食を終え、部屋へ戻る。
セレブリャコーフが扉を閉めた。
「少佐」
「何だ」
「総統閣下へ、かなり踏み込まれましたね」
「敗者について聞いたところか」
「はい」
「聞いておきたかった」
ターニャは上着の留め具へ手を掛けた。
「答えも聞けた」
「どのようにお考えになりましたか」
ターニャは少し考える。
「怖いな」
セレブリャコーフが黙る。
「総統閣下が、ですか」
「ああ」
ターニャは率直に答えた。
「だが、以前とは少し違う意味でだ」
上着を脱ぐ。
「以前は、何をするかが怖かった。今は、なぜ止まれないのかが少し分かった」
「止まれない」
「ああ」
ターニャは上着を椅子へ掛けた。
「敗北を避けるために勝つ。勝った状態を守るために、次の脅威を抑える。脅威が残れば、また勝つ」
「終わりませんね」
「完全な安全を条件にすればな」
セレブリャコーフは何も言わない。
「ヒムラー閣下の方は、もっと単純だった」
「単純、でしょうか」
「線を引く。内側は守る。外側は必要なら処理する」
ターニャはセレブリャコーフを見る。
「お前は、さっき迷うと言ったな」
「はい」
「正直でよかったと思う」
「ですが、親衛隊員としては」
「ヒムラー閣下も責めなかっただろう」
「はい」
「自分がどこで止まるか分からない者の方が危険だ。あれは正しい」
セレブリャコーフの表情は晴れない。
「少佐は、本当にできますか」
何を、とは聞かなかった。
必要もない。
「親を撃つ話か」
「はい」
ターニャは少し考えた。
「命令が正規で、対象に誤りがなく、必要性も確認できたなら――できると答えるべきだろうな」
「答えるべき、ですか」
「ああ」
ターニャは長椅子へ座った。
「実際にその場になった時、人間が宣言通り動ける保証はない」
セレブリャコーフが黙って聞く。
「だからヒムラー閣下は、お前の答えを否定しなかったんだろう。迷わないと言って止まる者より、自分が迷うと知っている者の方が扱いやすい」
「少佐も、迷われますか」
「人間だからな」
そこで一度言葉を切る。
「だが、迷ったことを理由に命令を消すつもりもない」
セレブリャコーフの手が僅かに動いた。
それだけで十分だった。
この辺りが境目なのだろう。
セレブリャコーフは、命令へ従える。
危険な場所にもついてくる。
必要なら人を撃つこともできる。
それでも、今日笑いかけてきた少女と、処理対象という言葉の間にまだ距離がある。
ターニャには、その距離がかなり短い。
それを成長と呼ぶべきか、適応と呼ぶべきかは分からなかった。
「少尉」
「はい」
「そのままでいろ」
「……はい」
「私まで迷わなくなった時、お前まで同じでは困る」
セレブリャコーフが顔を上げた。
「それは、ご命令でしょうか」
ターニャは少しだけ笑った。
「頼みだ」
「承知しました」
それ以上は言わなかった。
ターニャは窓際の棚へ近づいた。
小さな鷹が置いてある。
「総統閣下は、この国を守りたいと思っている。ヒムラー閣下も、自分が共同体だと考えるものを守ろうとしている」
「はい」
「そして私にも、残したいものができた」
木彫りの鷹を手のひらで転がす。
「今日、お前が怪我をしたら嫌だと思った。町が焼かれるのも嫌だ。あの店がなくなるのも、湖へ家族が来られなくなるのも嫌だと思う」
セレブリャコーフは静かに聞いている。
「それを守るためなら、私は兵を動かす。金も使う。必要なら誰かを危険へ出す」
「軍人ですから」
「そうだ」
そこで一度言葉を切る。
「だからこそ、どこまでなら許されるのかを数えなければならない」
セレブリャコーフは答えなかった。
「一人か。十人か。百人か。町一つか。敵国なら数えなくていいのか」
「……難しいです」
「ああ」
ターニャは鷹を棚へ戻した。
「守りたいという気持ちだけで決めれば、どこまでも行ける」
存在Xを思い出す。
あれは人間の損得を数えない。
こちらの生活も、希望も、積み上げた計画も、試すためなら条件として使う。
それを理不尽だと呼んできた。
ならば、自分が力を持った時だけ同じ振る舞いを合理性と呼ぶわけにはいかない。
「逆に、数字だけなら、守る理由が消える」
セレブリャコーフが頷いた。
「両方を見る、ということでしょうか」
「そうするしかない」
ターニャは長椅子へ戻った。
「何を残したいかを決めなければ、何が損失なのかも決まらない」
命。
土地。
時間。
生産。
自由。
主権。
家族。
どれを重く見るかで答えは変わる。
「今日見たものを残したい」
ターニャは言った。
「市場も、湖も、何でもない食事もだ」
セレブリャコーフが僅かに目を見開く。
「だからといって、何でも犠牲にする気はない」
「はい」
「守るために必要な損失は計算する。代案も探す。撤退条件も決める。それでも払う価値があるなら払う」
以前なら、損失が少ない案を選ぶこと自体が合理的だった。
今は、その前に一つ増えた。
「何のための計算かを、先に決める」
「少佐らしいと思います」
「そうか」
「はい」
「なら、これでいい」
しばらく静かになった。
セレブリャコーフが卓上の木箱を見る。
「少佐」
「何だ」
「私は、今日こちらをいただけて嬉しかったです」
「ああ」
「合理的な理由はありません」
ターニャは彼女を見る。
「そうだな」
「ですが、嬉しかったことは変わりません」
「ああ」
それで十分だった。
国家の利益にはならない。
戦争にも勝てない。
だが、価値はある。
それを認めることは、合理性を捨てることではなかった。
翌朝。
朝食を終えた二人は、山荘の庭へ出た。
特別な予定は入れなかった。
セレブリャコーフが山荘の書棚で見つけた植物の本を一冊持っている。
昨日、湖畔で見た花の名前を探すためだった。
整えられた道を歩く。
花壇の向こうでは警護員が立っている。
山荘の中には既に車が入り、側近たちが動いていた。
国家の仕事は止まっていない。
二人は木製の長椅子へ座った。
「少佐」
「何だ」
「昨日のお話を、まだ考えていらっしゃいますか」
「少しな」
ターニャは山を見る。
「総統閣下を以前より理解できたと思う」
「はい」
「同時に、以前より警戒する理由も分かった」
セレブリャコーフは黙って続きを待つ。
「敗北したくない。国民の生活を守りたい。自国の将来を外国へ決められたくない。そこまでは分かる」
「はい」
「だが、そこから相手の将来はこちらが決めるところまで進める」
ターニャは短く息を吐いた。
「私には、そこに線がある」
「総統閣下には」
「別の場所にある」
ヒムラー閣下も同じだった。
秩序を守る。
共同体を守る。
そのために対象を分類する。
外側へ置いた人間は、必要なら拘束し、収容し、殺す。
しかも彼は、私怨で殺すことを認めない。
命令を確認させる。
根拠を残させる。
権限を照合させる。
異議まで記録させる。
その上で実行する。
だから恐ろしい。
怒りに任せた暴力なら、怒りが収まれば止まることもある。
制度は違う。
担当者が変わっても続く。
書類が回り、署名され、期限が入り、次の担当へ渡される。
誰か一人が残酷だから進むのではない。
全員が自分の役割を果たすから進む。
ターニャは膝の上の本へ目を落とした。
「私は、外側へ出された人数を数える」
セレブリャコーフがターニャを見る。
「結果を見る。誰かが必要な犠牲だと言えば、何に必要なのか書かせる。誰が決めたかも残す」
「いつもの少佐ですね」
「ああ」
ターニャは頷いた。
「結局、そこへ戻った」
「ですが、理由は少し変わったのではないでしょうか」
その通りだった。
以前は、制度を壊さないためだった。
組織の暴走を防ぐためだった。
自分が巻き込まれないためでもあった。
今は、もう一つある。
「そうだな」
ターニャは言った。
「残したいものができた」
セレブリャコーフは何も尋ねなかった。
その必要もなかった。
目の前にある。
朝の山。
花壇。
何も起きていない町。
隣にいる人間。
国家と、それが衝突する日が来るかもしれない。
その時、自分が何を選ぶかは分からない。
国家が崩れれば、この平穏も壊れる。
だから国家は必要だ。
だが、国家のためという言葉だけで、この平穏を使い潰すことも違う。
そしてターニャは、国家より先に、自分の選択を奪おうとした存在を知っている。
(存在X……)
あれとの確執を始めた時から、一つだけ変わっていない。
自分の人生は自分で決める。
他者が勝手に意味を与え、試練を置き、従うまで条件を変えることを受け入れない。
そのために足掻いてきた。
ならば今度は、自分が力を持つ側へ回ったからという理由で、同じことを他人へしてよいとは思えなかった。
総統閣下の国家観を理解できたのも、そこだった。
自分の未来を他者へ決められたくない。
その感覚そのものは、ターニャにもある。
だが、理解できることと、同じ結論へ進むことは別だ。
自分の選択を守るために、相手の選択を無制限に奪う。
そこへ進めば、存在Xへ向けてきた反発まで、自分で否定することになる。
(それは御免だ)
存在Xは規則の外から手を伸ばす。
ならば、自分は規則を作る。
記録を残す。
異議を差し込める場所を残す。
誰が決めたのか分かるようにする。
自分の判断だけを例外にもしたくない。
それでも命令を出さなければならない時は来る。
誰かを危険へ送り、何かを切り捨てる日も来る。
その時は数字を見る。
犠牲を数える。
代案を探す。
誰が利益を得るかを見る。
誰が失うかを見る。
そして最後は、自分で選ぶ。
国家がそう命じたからだけではなく。
存在Xがそう仕向けたからでもなく。
合理的という言葉だけでもなく。
何を残すための判断なのかを、自分で決める。
「本を見ませんか」
セレブリャコーフが言った。
「ああ」
ターニャは植物の本を開いた。
山の植物が、簡単な図と説明で並んでいる。
「昨日の花は」
「この辺りでしょうか」
「違うな。葉の形が違う」
「では、次でしょうか」
ページをめくる。
違う。
もう一枚。
また違う。
ターニャは急がなかった。
見つからなくても困らない。
山荘の窓の向こうでは、総統閣下が側近から書類を受け取っていた。
別の場所では、ヒムラー閣下が誰かと話している。
昨日と同じ二人である。
危険な人間であることも変わらない。
だが、もう肩書と将来の危険だけで測れる相手ではなかった。
総統閣下は敗北を恐れている。
だから勝利を求める。
そして勝利の後にも安全を求める。
安全が完全にならない以上、次の勝利を求め続ける。
ヒムラー閣下は崩壊を恐れている。
だから秩序を求める。
その秩序から外れた者を排除することにも迷わない。
どちらも、守るという言葉から始まる。
そして、守るという言葉だけでは止まらない。
自分も例外ではない。
命令なら親でも撃つ。
昨日、自分は笑ってそう答えた。
半分は皮肉だった。
それでも、ヒムラー閣下が本気で受け取れる程度には、自分は既にこの組織の論理を身につけている。
セレブリャコーフは、まだ迷うと言えた。
その差を忘れない方がいい。
(覚えておこう)
理解する。
利用する。
必要なら止める。
そして、自分まで同じ理屈へ飲まれないよう記録する。
「少佐」
「何だ」
「こちらではありませんか」
セレブリャコーフが一つを指した。
ターニャは図と説明を見比べる。
「……似ているな」
「昨日のものも、中央が黄色でした」
「ああ。おそらくこれだ」
「見つかりましたね」
「そうだな」
それだけのことだった。
だが、少し嬉しかった。
ターニャは本を閉じなかった。
隣の植物を見る。
また知らない花が載っている。
今度は調べる理由すらない。
それでも読んだ。
セレブリャコーフも隣から覗いている。
紙が静かに擦れる。
車が一台、山荘へ入ってくる音がした。
ターニャは窓を見なかった。
誰が来たのか。
何の書類を持ってきたのか。
今は知らなくていい。
ベルリンへ戻れば、また黒服を着て机へ向かう。
同じように数字を求める。
責任者を決める。
期限を切る。
曖昧な命令を止める。
外から見れば、何も変わらないだろう。
それでよかった。
変わったのは、数字の先に何を見るかだけである。
ターニャは次のページをめくった。
守りたいものがある。
だからこそ、守るという言葉を疑う。
そして、自分の生を誰かに決めさせないために抗ってきた以上、他人の生を数字だけで消してよいとも思わない。
もっとも、必要と判断した時に引き金を引けないほど善良でもない。
その矛盾ごと抱えて、数字を数える。
今の自分には、それくらいがちょうどよかった。
最後に、
本作は二次創作ではありますが、
原作で長く帝国軍を支えてきたルーデルドルフ閣下の退場に、
作者として心より哀悼の意を表します。
多くを語るより、最後は帝国軍人らしく。
「ルーデルドルフ閣下の長年にわたる軍務と献身に、最大限の敬意を。――敬礼」
次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)
-
イギリス戦方面
-
帝国内政(モレル関連)