幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第9節〜第12節

 

 

第9節 昇進者リスト

 

 その通達は、何の前触れもなく届けられた。

 

 国家保安本部(RSHA)本部より発信された昇進者リスト。機密等級は“管理局長級限定閲覧”。そのはずだった。

 

 だが、目の前にある書類は、明らかに“別ルート”から到達していた。封筒には局印がなく、差出人欄も空白。けれども、封蝋だけは確かに、国家保安本部総合庁印であった。

 

 文書を前に、ターニャ・デグレチャフ中尉は、しばし沈黙したまま立ち尽くしていた。

 

「……なるほど。見事に、内容が書かれていませんね」

 

 手に取ったままのリストは、たしかに“名簿”の形式を取っていた。

 

 だが、肝心の氏名部分は、丁寧に黒塗りされている。昇進先の部署と等級コードだけが辛うじて判読可能だった。

 

「これが、“公式”というのだから、実に感動的です」

 

 皮肉とも賞賛ともつかない言葉を口にしてから、彼女は補佐官“EVA”に視線を向けた。

 

「EVA。必要な部分だけ確保してください。他は焼却で結構です」

 

 従順な機械のように動く補佐官は、無言で文書を回収し、専用の焼却箱へと投げ込む。紙の端がわずかに焦げ、煙が漂う。

 

 セレブリャコーフ少尉が遠巻きに見守る中、ターニャはふたたび書類の束を手に取った。

 

 その中に、わずかに黒塗りの甘い一枚があった。

 

 そこには――“ターニャ・デグレチャフ、階級:中尉→大尉”の文字。

 

「……ほう」

 

 表情を変えることなく、彼女はその紙片を指先で二つ折りにし、ポケットに収めた。

 

「これはまた、ご丁寧な“栄転”報告ですね。誰にとっての、とは書かれていませんが」

 

 昇進。それは一般的には名誉とされる報せだ。

 

 だが、国家保安本部における“昇進”とは、必ずしも“功績に対する報酬”を意味しない。

 

 それは時に、“沈黙の報奨”であり、“危険区域への片道切符”でもあった。

 

 RSHAがターニャを昇進させる。

 その理由は明記されていない。評価も、根拠も、命令書さえ添えられていない。

 

「まさに、書かれざる命令そのもの。……ですね」

 

 彼女の呟きに、EVAは何も言わず、背後で控え続けた。

 

 紙の燃え尽きる匂いが、執務室に微かに残ったまま、夜は深まっていく。

 

 

 

 

 

第10節 EVAの沈黙

 

 静寂は、ときに言葉以上に多くを物語る。

 

 国家保安本部(RSHA)第Ⅶ局の記録課に籍を置く補佐官“EVA”は、あまりにも正確で、あまりにも無音で、あまりにも従順すぎる存在として、これまで幾度となく注視の対象とされてきた。

 

 だが――そのEVAが、この一週間で二度、予定を外れた行動を取った。

 

 一度目は、直属上司であるターニャ・デグレチャフ中尉の命令を経由せず、独自に記録室内の書類配置を変更したこと。

 二度目は、夜間勤務中に“閉鎖区域”への立ち入りを試みたこと。

 

 いずれも処罰対象には至らなかった。形式上、いずれの行動も“補助業務の一環”と解釈可能だったからである。

 

 しかし、それこそがターニャの警戒を促す決定打となった。

 

「……完璧すぎる行動というのは、意図的な欠陥より厄介ですね」

 

 RSHA本部地下、第Ⅶ局記録課。室温は一定に保たれ、書類の劣化防止のため湿度も自動調整されている。

 その中で、ターニャはEVAの動きを観察していた。

 

 補佐官は黙々と、書類を仕分け、焼却対象を選別し、分類表を更新していく。表情は無く、反応も抑制されている。

 

 まるで自我のない機械のように――いや、それ以上に、

 “観察されることすら想定済みの装置”に見えた。

 

「EVA。貴女は、誰の命令で動いているのですか?」

 

 静かに問いかけられた言葉に、EVAは一瞬だけ手を止めた。

 しかし、すぐに何事もなかったように再開する。

 

「私は、任務の遂行を最優先しています」

 

「質問に対する回答にはなっていませんね。RSHAの命令か、ヒムラーの直接命令か、あるいは……別口の“影”か」

 

 ターニャの声音には、怒りも恐れもなかった。ただ、冷静に、論理の網で相手の曖昧性を捉えようとしていた。

 

 EVAはそれに応えず、書類を束ねて金属製の保管箱に収める。そして、形式的な言葉を返す。

 

「全ての命令は、記録に基づいて処理されております」

 

「その“記録”が改竄されていないと、誰が証明するのです?」

 

 短い沈黙。

 だが、この“沈黙”こそが、EVAという存在の最大の情報だった。

 

 彼女は、明確に“何か”を隠していた。

 しかも、それが発覚してもなお、処分や追及を避けられる自信を持っている。

 ――それはつまり、背後に“絶対的な保護者”が存在していることの証左である。

 

「……どうやら、私の認識を改める必要がありそうです」

 

 ターニャは軽く椅子にもたれ、机上の報告書に目を移す。

 

 そこには、新たな指令系統の整理案と、“EVA”の所属区分についての曖昧な文言が並んでいた。

 

『補佐官“EVA”の任用については、RSHA本部長官の裁量により暫定的に継続する。配置換は未定』

 

 ……すなわち、ラインハルト・ハイドリヒの影。

 

 “金髪の死神”の手の内にある存在だ。

 

「なるほど。優秀な道具には、時として鋭すぎる刃が宿る……というわけですか」

 

 軽く吐き捨てるような独白。

 

 その横で、EVAは一切動じることなく、次の書類束を手に取っていた。

 

 まるでそれが、自らの意志ではなく、“もっと別の何か”に従った自動運動であるかのように。

 

 この沈黙こそが――最も雄弁で、最も危険な返答であった。

 

 

 

 

 

第11節 再配置命令

 

 親衛隊の封蝋がされた紙封筒は、異様なまでに軽かった。

 

 だがターニャ・デグレチャフ中尉は、それを手にした瞬間、重さを感じた。物理ではなく、構造の問題として。

 

 RSHA本部の第VII局、かつて“灰の監視者”と揶揄された記録管理部門において、命令というのは常に書式化されていた。配属、昇進、転任、処分──そのすべてが、定型の文書によって運用され、紙と印影によって“実在性”を得る。

 

 しかし、目の前の封筒に封入されていた文書には、任地の記載がなかった。

 

 いや、形式上の“命令書”は確かに存在している。文面もある。使用されている書式は、RSHA本部でも最新の電子文書転写式だ。印影も、確かに押されている。

 

 ──だが、命令の本文が、あからさまに曖昧だった。

 

  《本命令は親衛隊全国指導者閣下の裁可を受けたものである。対象人員は“再配置のための準備を開始”し、期日及び場所の通達は追って連絡される。なお本命令の実施においては、全記録を別送として処理のこと》

 

 再配置。

 

 その単語だけが赤で打ち出され、他の記述は実質的に“白紙”に等しい。

 

 そして、最下部には赤いスタンプで「命令承認済」とだけ記されていた。

 

 それは、命令というにはあまりに空虚であり、同時に“空白ゆえの全権”を示す強制力でもあった。

 

 ターニャは薄く口元を歪める。

 

「命令なき命令。さすがRSHA。いつもながら、感心します」

 

 手元で一枚の紙が震えた。補佐官“EVA”によって差し出された、別の写しである。

 

 そこには、RSHAの内部通知文が添えられていた。

 

 ──「再配置対象:調整官、デグレチャフ中尉。特別区分E-1に指定。移動経路はVII局で管理、処理報告は後送」──

 

 ターニャは眉をひそめる。

 

「特別区分E-1……なるほど。これでは、私はもはや“戦術単位”ではなく“現象”として分類されているわけですか」

 

 EVAは答えない。ただ、静かに紙束を整える動作だけで応じた。

 

 その背後では、窓の外にRSHA本部の塔が、黒く、不吉にそびえている。

 

 まるで“彼女も再配置された”かのように。

 

 あるいは、それはターニャへの無言の通告だったのかもしれない。──「次は、お前だ」と。

 

 国家保安本部(RSHA)において、沈黙は命令に勝る。記されぬ文書、送られぬ命令、そして現れぬ補佐官。それらの全てが、ひとつの意志を示す。

 

 ターニャは書類束の端を軽く指で弾いた。

 

 印刷されていない紙面、記名されぬ命令、それでも赤く染まった“承認”の印影だけが、奇妙な重量を持っていた。まるで、そこに書かれるはずだった“内容そのもの”を、物理的に押しつぶしているかのように。

 

「“次の任地”とは、つまり“次の役割”に等しい。そして“次の役割”とは……」

 

 言葉を区切り、彼女はふと視線を天井へと泳がせた。

 

 ──“沈黙の中で動く者”という役割。

 

 それが意味するのは、もはや組織の命令を待つ立場ではなく、“組織そのものの延長”として自律的に行動せよ、という暗黙の指示だった。

 

 作戦名も、予算コードも、配属地名も存在しない。

 

 あるのは“お前が動いたことが正解となる”という、恐るべき逆転構造。

 

「……なるほど。これでは“反抗”する術すら存在しませんね」

 

 かすかに口元を歪め、ターニャは立ち上がった。

 

 机上には、紅茶のカップと“命令なき命令”が並んでいた。

 

 この国では、命令とは書かれぬことで正当化され、沈黙とは従順と同義となる。

 

 そして、それを読み解く者こそが、“忠誠”を超えた存在となる。

 

 ターニャ・デグレチャフは、静かに書類を懐へと収めた。

 

 ──再配置。それは、国家保安本部という怪物が、次なる段階へと進化しようとしている徴候であった。

 

 ならば、自らもまた“適応”しなければならない。

 

 変化は常に、沈黙のうちに訪れるのだから。

 

 

 

 

 

第12節 沈黙の中枢へ

 

 列車の音も、無線の交信も、今や遠い幻のようだった。

 

 RSHA本部の塔、その黒く沈黙する建造物の中で、セレブリャコーフ少尉は“留置”という名の曖昧な立場に置かれていた。

 

 尋問ではなく、拘束でもない。

 だが自由も、そこには存在しない。

 

 「協力者」としての処遇──それはあくまで便宜上の言い回しにすぎず、実態は“監視対象”に限りなく近い。

 

 セレブリャコーフは無言で机に向かっていた。供されたのは、劣悪とはいえない程度の書類仕事。だが彼女に求められているのは、報告ではなく“存在すること”そのものだった。

 

 RSHAは記録を信奉し、同時に“記録される者”を制御する。沈黙の中枢たるこの機関にとって、彼女のような存在は、“声を発する前に記録される対象”であり、同時に“必要なら消去可能な余白”でもある。

 

 ──そして、ターニャはその事実を誰よりも理解していた。

 

 再配置命令が下りた直後、彼女は必要最低限の荷物だけを携え、RSHA本部の通路を静かに進んでいた。

 

 足音は吸音材に沈み、照明は常夜灯のような暗さで設計されている。

 誰も声を発さない。誰も目を合わせない。

 

 国家保安本部とは、情報を操る組織ではない。

 “沈黙を組織化した機関”なのである。

 

 補佐官“EVA”の姿は、朝から確認されていなかった。

 彼女がどこにいるのか、なぜ消えたのか、それを問うこと自体が“越権”とされるこの場所で、ターニャはその不在をひとつの「肯定」として受け止める。

 

 ──「EVAは、すでに別の命令下に入った」

 

 誰からの指示か。どこへ向かったのか。

 そうした情報はすべて、“共有されないことで共有される”。

 

 ターニャは、RSHA本部の中枢階層──旧帝国の中央省庁の設計図を改変した、異様に静謐な回廊を抜けて、新たな書類室に入った。

 

 そこでは、新しい任務への概要すら提示されていない。

 あるのは、承認印と、未記入の転属票、そして鍵付きの資料ケースだけ。

 

 だが、ターニャにとっては十分だった。

 

 ──記されない命令は、すでに実行段階に入っている。

 

「了解しました。では、こちら側も沈黙の準備を始めましょう」

 

 静かに呟きながら、彼女は新たな資料の鍵を懐に収めた。

 

 セレブリャコーフはまだ、この中枢に留め置かれている。

 だがそれも、いずれ“配置”という名の転送がなされるだろう。

 

 必要ならば──ではない。

 

 ターニャはすでに判断を下していた。

 

 この国では“命令”よりも“意志”が先行する。

 

 そして、セレブリャコーフは彼女の命令を最も正確に実行できる“補佐官”である。

 

 それゆえに、ターニャは密かに書類の裏面にひとつの“記号”を記した。

 

 それは、命令でも記録でもない。だが、RSHA内部の者であれば意味を読み取れる──

 

 ──「再任」の合図であった。

 

 この国家において、「必要」とは命令よりも先に訪れる。

 そして“必要”とされた者だけが、沈黙の中枢で生き延びる権利を得る。

 

 

 

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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