幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第9節〜第12節

第9節 凍結された記録

 

 時計は存在していた。だが、時を刻むことをやめていた。

 

 国家保安本部(RSHA)本部の作戦局が管理する第2資料保管区――そこは、制度が記憶を凍結する場所である。

 

 正式には“保存”と記されるが、実態は“封印”に等しい。廃棄も抹消もされず、ただアクセス権のみが凍結されることで、その情報は組織の中で「なかったこと」にされる。紙は残る。記録も残る。だが、それに触れる資格を与えられない限り、情報は“存在しない”と同義だった。

 

 ターニャ・デグレチャフSS大尉は、その保管区の一角に座る“未分類記録棚”を前に、沈黙のまま立ち尽くしていた。

 

 彼女の指先にあるのは、VII局の情報補佐が提出した回覧文書。だが、文書そのものは空文であり、中身の参照先として指定されたコード番号は、すでに凍結処理がなされた記録群に属していた。

 

(封印されている、か……。だが、封印された記録に関する通知が現存するのは、なぜだ)

 

 形式上の矛盾。それが意味するものは、単なる手続き上の瑕疵ではない。

 むしろ意図的な“痕跡の残留”と見るべきだった。

 

 机上に並べた記録群の中には、作戦名が伏せられたままの戦術提案書や、執筆者名の削除された状況報告、印刷面が半分黒塗りされた通達書が混在していた。いずれもVII局かIV局を通過した形跡を残しつつ、その出所が曖昧にされている。

 

 そしてそのなかに、一つの断片――“クロノス計画”という語句だけが、かすかに残されていた。

 

 それはプロジェクト名か、作戦名称か、あるいは単なる暗号呼称か。

 どの文書にも定義は存在せず、意味を裏打ちする具体的指示もない。

 だが、その語句が幾つかの別個の資料群にまたがって現れる以上、偶然では片付けられない。

 

「……偶然の反復、それこそが構造の兆候」

 

 独り言のように呟いた声は冷たく、だが内心の熱を微かに宿していた。

 

 EVAの行動記録、Dコード通信、密告書、そして凍結された作戦資料。

 すべてが断片的でありながら、どこかで線が交わり始めている。

 

 ターニャは資料を閉じ、手帳に一語だけ書きつける。

 ――クロノス。

 

 それが“未来を計る時計”なのか、“時を断つ刃”なのかはまだ分からない。

 だが、制度が記憶を凍結するならば、その氷を割る道具を手に入れる必要がある。

 

 彼女の瞳は冷徹なままに、次なる扉を見据えていた。

 

 

 

 

 

第10節 EVA、再び

 

 その日、扉は音もなく開いた。

 

 無音の廊下に、誰の足音も響かなかったはずだ。

 だが、それは確かにそこに立っていた。

 

 ターニャ・デグレチャフSS大尉は、まるで亡霊を見るような表情で、目の前の人物を見つめる。

 

「……報告に遅れて申し訳ありません。任務の再開にあたり、準備を整えてまいりました」

 

 その声は、間違いなくEVAのものだった。

 だが、その口調にかつての“緻密さ”がなかった。

 あまりに滑らかで、あまりに自然体で、そしてあまりに“人間的”だった。

 

 EVAは何もなかったかのように、静かに、そして当然のごとくターニャの執務室へと足を踏み入れた。

 ターニャは机から立ち上がらず、ただ視線だけでその存在を追う。

 

(この空気は……おかしい。これは“忠誠”ではない。演技か? それとも――変質か?)

 

 補佐官“EVA”。

 国家保安本部(RSHA)の指導者たるヒムラーが、ターニャへ直接差し向けた存在。

 無表情で、感情を削ぎ落としたようなその人物は、記録の網を駆使し、命令と制度の間を繋ぐ存在であったはずだ。

 

 だが今、そこにいるのは“彼女”だった。

 まるで何かが剥がれ落ちたかのように、柔らかく、微笑すら浮かべていた。

 

「通信網の再接続は完了しております。VII局との連絡回線には依然として断絶が見られますが、IV局の報告に基づけば、それも“再調整”の範囲内とされております」

 

 語りながら、EVAは机の上に次々と資料を並べていく。

 彼女の手付きは相変わらず正確で、無駄がない。

 だが、その報告書に付された分類タグが、かつてと微妙に異なる配列であったことに、ターニャは即座に気づく。

 

(書式が旧型に戻っている……いや、VII局由来の暗黙仕様だ。IV局の影ではない)

 

「この行動の意図は?」

 

 ターニャが問いかけると、EVAは一瞬だけ手を止めた。

 そして、まるで当然であるかのように答える。

 

「命令に従い、報告と接続を再開する。それが今の任務です」

 

 文法的には完璧な返答。

 しかし、それは形式をなぞるだけの“構文”ではなく、どこかに“意志”のようなものをにじませていた。

 

「命令は記録されていないが、受領は確認された……そういう理解でよろしいか?」

 

 EVAは頷いた。

 その頷きすらも、以前のように角度と速度が機械的ではなかった。

 柔らかく、人間的な“曖昧さ”を含んでいた。

 

(これは“再教育”された、ということか? それとも、“制御不能”な域に達した……?)

 

 ターニャは答えを出さなかった。

 出す必要がなかった。

 重要なのは“任務が遂行される”こと、そして“制度が自己修復を始めた”という兆候に他ならない。

 

「ならば、行動を再開せよ。命令は……既に渡してある」

 

 その命令も、また“空白”である。

 だが、EVAは一礼し、それを理解したかのように頷いた。

 

「了解しました、大尉」

 

 再び“彼女”が執務室を後にするまで、ターニャは一言も発しなかった。

 背後に残されたのは、無音と、封印されたような安堵の空気。

 

 制度の中枢に戻った影は、果たして、同じ影なのか。

 ターニャはその問いに答えようとせず、ただ冷徹に次の書類を手に取った。

 

 命令が存在する限り、疑念は“変数”にすぎなかった。

 

 

 

 

 

第11節 対話なき契約

 

 闇は語らない。国家保安本部(RSHA)本部の地下回廊には、既に“対話”という概念が欠如していた。そこに在るのは命令と記録、承認と否認、そして時折現れる“沈黙の意思疎通”である。

 

 ターニャ・デグレチャフSS大尉は、かつて副官として傍らにいた補佐官“EVA”の姿を見た。

 だが言葉はなかった。

 

 “再会”という語を用いるには、あまりにも静かすぎた。空気すら撓まぬまま、EVAは彼女の元に立ち、命令簿と整理済みの資料綴りを無言で差し出す。

 

 (……帰還ではない。交代だ)

 

 ターニャは思考した。

 復帰とは異なる。これは任務の継続であり、再起動された機構の一部が、何らの詫びもなく接続された、ただそれだけだった。

 

 「報告は?」

 

 問いかけはした。だが、EVAは頷いただけで口を開かない。代わりに渡された紙片には、幾つかの略語と、分類コード、そして不明な署名のみが並んでいた。

 

 (発信元はVII局ではない。IV局か……いや、これはSDの影か)

 

 冷静な推論が、視線の奥で走る。ターニャにとって情報の欠如は、しばしば情報の所在を示す導標となる。

 

 沈黙が続いた。

 その間にターニャは、手渡された書類の端を指でなぞり、紙質と印刷のインク配列から製本地を推定する。EVAの表情は、あの精密機械の如き無表情に戻っていた。

 

 (やはり、彼女は変化している。だが、どこが変わったのかは……未定義)

 

 こうして、命令と実行者は再び一つに戻る。だがそこに必要なのは言葉ではなかった。

 

 契約とは、署名ではなく、制度の文脈において正当化された一連の手続きであり、秩序への従属を選び取る意志の省略形である。

 

 「了解した、制度」

 

 ターニャはそう呟き、EVAに背を向けた。

 彼女の歩みは即座に再開され、背後ではEVAの無言の追従が始まる。

 

 誰が命令したかは問題ではない。

 誰が承認したかも、もはや瑣末事だ。

 

 問題は、動くべき駒が、予定通りに動き出したという事実。

 

 そう、ここに“対話”は存在しない。

 それでも制度は機能する。

 それが、この国の本質である。

 

 

 

 

 

第12節 境界なき忠誠

 

 冷えきった空気の中、RSHA本部の最深部――かつて作戦分析室として用いられたが、今や誰も使わなくなった一室に、ターニャ・デグレチャフSS大尉の姿があった。

 

 蛍光灯の光は、机上の埃を浮かび上がらせながら、壁際に並べられた封印済みの書類棚に影を落とす。

 かつてこの部屋で交わされた命令、報告、分析、議論、それらは今や“保留”という名の下に凍結されていた。

 

 ターニャは一枚の書類を指先でなぞりながら、その隣に立つセレブリャコーフの横顔を見た。

 

「これが……忠誠の帰結ですか?」

 

 彼女の問いは、静かな諦念に満ちていた。

 だが、それは自己放棄の声ではなかった。

 

 セレブリャコーフ――元共和国軍人にして今やRSHAに保留的協力者として“再任”されたこの若き女性の瞳は、冷たさと微かな憧憬を同時に孕んでいた。

 

「境界はもう、存在しません。味方と敵、制度と逸脱、忠誠と裏切り……その間に線を引く術は、もう誰にもない」

 

 ターニャは、何も言わなかった。

 否、言葉を選ばなかったという方が正確かもしれない。

 

 命令に従うのではなく、命令を“選別”し、正当性を再構築すること。

 それが国家保安本部(RSHA)において、忠誠とされていた。

 

 書かれた命令に従う者ではなく、書かれていない命令を読み解き、遂行する者が価値を持つ。

 それは、命令の存在意義すら相対化する、究極の服従であり、同時に危険な自律だった。

 

 セレブリャコーフは、なおも問いかけるように、視線だけをターニャに送る。

 

「私は……どこに忠誠を誓えば良いのですか? 国家ですか、制度ですか、それとも貴女に?」

 

 沈黙が、返答だった。

 だが、それは拒絶ではなく、ある種の“肯定”でもあった。

 

 ターニャ・デグレチャフという存在は、もはや誰かの命令に動く単なる下士官ではない。

 ヒムラーの影として、そして制度の解釈者として、彼女は自らが選ぶ命令に忠を尽くす。

 

 その忠誠に、他者が介在する余地はない。

 なぜなら、それは“解釈の忠誠”――沈黙と逸脱の狭間にのみ成立する、観念的かつ絶対的な従属だからだ。

 

 セレブリャコーフは、やがて小さく頷いた。

 答えがなかったことが、逆にすべてを語っていた。

 

 この国、この組織、この時代において、“対話なき忠誠”こそが唯一の契約であり、

 それは、紙ではなく、行動によりのみ記録される。

 

 ターニャが立ち上がる。

 それに続いてセレブリャコーフも歩き出す。

 

 二人の足音だけが、封印された記録室に残響を刻む。

 

 壁の向こうには、また別の視線があるのかもしれない。

 だが、それすらも、もはや脅威とは思えなかった。

 

 忠誠とは、誰かに誓うものではなく、何を“選ぶ”かということ。

 

 そして、ターニャはすでに選んでいた。

 

 

 




次回は独ソの二重占領地域のお話です

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