幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第5節

第5節 EVAの沈黙

 

 プシェミシルの薄曇りの空の下、街路には中途半端に破壊された石畳と、未だ修復されぬ教会の尖塔が影を落としていた。秋の冷気は骨の芯まで染みわたり、ここが帝国の制度にとってどれほど不安定な“境界都市”であるかを、ただ歩くだけで思い知らされる。

 

 だが、ターニャ・デグレチャフの視線は、その荒廃には向いていなかった。彼女の目を釘付けにしたのは、RSHA本部から送られてきた一枚の報告書だった。

 

 送り主の欄には、補佐官“EVA”の署名がある。

 

 しかし奇妙なことに、EVA本人はこの街に現れていなかった。随行命令に記載された補佐官の同行欄は空白のまま。到着時刻になっても姿を見せず、無線も沈黙したまま。誰ひとりとして彼女の所在を確認できていない。にもかかわらず、この報告書だけがVII局の文書管理室を経由して届けられていた。

 

 しかも、その中身はさらに不可解だった。

 

「……存在しない視察記録?」

 

 セレブリャコーフ少尉が呆然と呟いた。彼女の手元には、VII局の封印が押された複写文書がある。その紙には、ターニャがまだ実行していないはずの調査行程が克明に書かれていた。

 

「ええ。問題は、記録の詳細が“事実と矛盾していない”点です」

 

 ターニャは淡々と答えた。そこに感情はなかった。ただ、書類の字面と、現実との間に広がる違和感を冷徹に計算しているだけだった。

 

 報告書にはこうある。

《プシェミシル旧市街第三区の視察を実施。住民聴取にて爆発音に関する証言を三件収集。破片の散乱状況を確認。文書保管庫の一部は未損壊》

 

 その行程は、まさにターニャが翌日に予定していた作業と完全に重なっていた。あたかも、未来の記録を誰かが先に記したかのように。

 

「VII局の管理室は“誤送”の可能性を主張していますが……」

 

 セレブリャコーフは紙面を抱えたまま、言葉を探しているようだった。

 

「誤送にしては、内容が整いすぎています。誤送とは本来、形式や宛先が乱れているものですから」

 

「では……」

 

「はい。問題は“誰が記録したか”ではなく、“記録が既に存在していること”そのものです」

 

 ターニャは報告書を机に置き、ペンの先で行間を叩いた。硬質な音が沈黙を強調する。

 

 この時代の帝国において、“記録が存在する”という事実は、それだけで現実と同義だった。署名、押印、登録簿――形式を備えた記録は、たとえ現場の人間が否定しようとも制度の中で効力を発揮する。

 

 つまり、この“存在しない視察記録”も、形式上は正当な報告として流通し得るのだ。

 

「VII局は、我々が確認する前にこの文書を上層に回すつもりでしょうか」

 

「それは当然です。局員たちにとって重要なのは、文書の有効性であって、現実との整合性ではありませんから」

 

 ターニャの声には冷笑が滲んでいた。

 

「彼らは報告の真実性を保証するのではなく、報告という行為自体を保証するのです。……これこそ、制度の病理です」

 

 セレブリャコーフは黙って頷いたが、瞳の奥に不安を隠せなかった。

 ――この記録は、いったい誰が書いたのか。本当にEVAなのか。それとも別の“観測者”が存在するのか。

 

 ターニャは椅子に背を預け、しばし天井を見つめる。

 

 沈黙は、もはやただの空白ではなかった。

 補佐官EVAが姿を見せないその沈黙は、逆説的に「記録」という形で言葉を持って現れていた。

 

 彼女が不在であるにもかかわらず、署名付きの報告書は存在する。

 この矛盾そのものが、RSHAという制度の奥底に潜む歪みを象徴していた。

 

「……セレブリャコーフ、供述文を整理しておけ」

 

「はっ、承知しました」

 

 少尉は反射的に敬礼した。

 ターニャは一拍置き、言葉を改める。

 

「いや、そうだな……自分で読んで判断しておけ。現場感覚は机上の報告より役に立つ」

 

 少尉は一瞬驚いたように目を瞬かせたが、すぐに頷き返す。

 そのわずかなやり取りの中に、距離感の変化が確かにあった。かつての“命令する上官と従う副官”から、“判断を共有する同僚”へ。制度の枠組みの外に、小さな線が引かれつつあった。

 

 外では夕暮れの鐘が鳴り始めていた。

 プシェミシルの街は沈黙している。だが、その沈黙は空虚ではない。記録という形で既に語られている。

 

 ターニャは窓の外を見やり、心の中で冷徹に結論づけた。

 ――制度は沈黙すら翻訳し、記録に変える。

 EVAの沈黙も、例外ではない。

 

 プシェミシル駐屯地の臨時執務室は、黄昏の光に照らされながらも冷えきっていた。石造りの壁に吊るされたランプが揺らめき、書類の山に不吉な影を落とす。机の上にはVII局から届いた「EVA名義の報告書」が置かれている。ページをめくるたびに、制度の亀裂が音を立てて広がるのを感じさせた。

 

 セレブリャコーフ少尉が不安げに声を漏らした。

 

「……もし、この報告書が偽造だった場合、誰が得をするのでしょう」

 

「偽造かどうかは問題ではありません」

 

 ターニャは即答した。その声音には冷ややかな確信があった。

 

「制度は“記録の存在”だけを評価する。誰が書いたか、そこに何が書かれているかは二義的です。……重要なのは、形式が揃っているか否か。それだけです」

 

「形式が、現実よりも……」

 

「そうです。だからこそ、誰かが沈黙を破って文字にした瞬間、それは現実に変わる。――たとえ観測者が存在しなくても、です」

 

 ターニャの指先が机を叩いた。乾いた音が、制度そのものの虚しさを刻むように響いた。

 

 セレブリャコーフは唇を引き結び、視線を落とした。

 ――では、EVAは本当にここにいないのか? もし彼女が“観測者”でなければ、この報告書は何を意味するのか。

 

 ターニャはそれを口にしなかった。ただ冷静に紙束を閉じ、言葉を継いだ。

 

「VII局は、これを既に上層へ回したはずです。つまり、制度上は“我々が視察を終えた”ことになっている。……これで明日の調査は、制度的には二重の存在となるわけです」

 

「二重……」

 

「そう。現実の視察と、記録上の視察。両方が並立する。――そして制度は、二つの間に矛盾を見つけると、必ず“正統な方”を選ぶ」

 

「では……どちらが正統に?」

 

「言うまでもありません。文書の方です」

 

 その断言は重く、少尉の胸を圧迫した。現場で汗を流し、瓦礫の匂いを嗅ぎ、住民の震える声を聞いたとしても、それらは“書かれなければ存在しない”のだ。記録され、署名され、押印された紙片の方が優先される――それがこの帝国の現実だった。

 

 外では、遠くで鐘が鳴り、夜警の兵が掛け声を交わしている。街は一見平穏に見える。しかし、この静けさすら報告書に記されなければ「存在しない事実」となる。

 

「……大尉、もし明日の調査でこの報告と異なる結果が出たら?」

 

「その時は、我々が“誤認した”ことになるでしょう。制度は自分を否定しませんから」

 

 ターニャは皮肉を込めて口角をわずかに歪めた。

 ――沈黙よりも危険なのは、記録の方だ。記録は沈黙を翻訳し、存在しないものに存在を与える。制度はそれを信じ、現実を塗り替える。

 

「……EVAは、なぜ姿を現さないのでしょう」

 

 セレブリャコーフがようやく問いを口にした。沈黙の補佐官は、依然として影すら見せない。その不在は、報告書という存在によって逆に強調されていた。

 

「理由は推測にすぎませんが……」

 

 ターニャは椅子に深く腰掛け、視線を逸らさずに言った。

 

「彼女は沈黙そのものを命令として行使しているのかもしれません。――不在という形で、制度を試している」

 

「試す……?」

 

「はい。記録は存在する。しかし、観測者は沈黙している。制度はどちらを優先するか――それを測っているのです」

 

 セレブリャコーフは息を呑み、やがて小さく頷いた。

 ターニャはその横顔を見て、言葉を少し崩した。

 

「……まあ、実際のところは誰にも分からん。だが、制度は必ず結果を出す。お前も明日、身をもって知ることになる」

 

 少尉は一瞬驚いたようにターニャを見たが、すぐに表情を引き締めた。

 敬語の壁が、またひとつ薄くなった瞬間だった。

 

 執務室に沈黙が落ちる。油煙の匂いが鼻をつき、書類の紙の擦れる音が耳を満たす。言葉は交わされないが、その沈黙すら制度は翻訳し、記録として保存していくだろう。

 

 ターニャは窓の外を見やり、遠い鐘の音に耳を澄ませた。

 

 ――沈黙は記録に勝てるのか。

 その問いは、彼女自身の中でまだ答えを持たなかった。だが確かに芽生えていたのは、“書かれざるもの”への恐れと、かすかな敬意だった。

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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