幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第5節〜第8節

 

第5節 神経と諜報の等価交換

 

 クラクフ治安行政本部。かつての市庁舎を改装したその建物は、華やかなゴシック装飾の皮を被った、粛清と監視の暗黒工場である。

 

 石畳を靴音が叩くたびに、ターニャ・デグレチャフ中尉の存在が館内に浸透していく。エレベーターなどという近代的な贅沢はここにはない。階段を登るその小柄な背中に、すれ違う書記官や軍政庁付属の民間技術者らが神経質に背筋を伸ばす。

 

(階級や命令系統よりも、“誰がヒムラーに近いか”が影響力の尺度になっている組織……実に健康的な構造だな)

 

 ターニャは自嘲を飲み込みつつ、応接室に入った。応対に出たのは、党クラクフ地区の組織指導部副官ゲルハルト。そしてもう一人、軍政総督府の民政局から派遣された行政監督官ハイム。いずれも、言葉の端々に地雷を抱えた政治的爆弾のような男たちだ。

 

 この場の空気を一言で表現するなら、“刺すような遠慮”だろう。

 

「……中尉閣下のご到着を、心より歓迎いたします」

 

 そう言って立ち上がる二人の表情は、笑顔というより“圧縮された警戒”に近い。彼らにしてみれば、ターニャはヒムラーの目と耳であり、いつ粛清の報告書を書くか知れたものではないと、そう受け取られているのだ。

 

 これが実に、都合がいい。

 

「閣下は、クラクフの統治状況について特に懸念を抱かれておりまして」

 

 ターニャは書類の束をさりげなく机に置き、無言の圧力を加える。机の脚を伝って冷たい汗が伝うのが、手に取るようにわかる。

 

(――よし、第一段階は完了)

 

 こうした圧迫は、情報を得るための前哨戦である。行政監督官ハイムが手帳を開いた。

 

「……もちろん、地元住民の監視体制、政敵に繋がる知識人の摘発、街頭の標語検閲、党員証の再登録……いずれも厳格に実施しております」

 

 無論、でたらめだ。ターニャの手元にはすでにSDが裏で押収した報告書の控えがあり、そこには不正選定された党員名簿、贈収賄を行った行政官、そして列車で逃亡した協力者の名前が赤くマークされていた。

 

 だが、それをいきなり暴くほど、彼女は愚かでも正義漢でもない。

 

 むしろ――脅威の存在をちらつかせつつ、自らが“問題の解決者”になり得ることを匂わせるのが肝要だった。

 

「……では、明朝、現地の収容所を確認させていただきます。ついでに、党地区支部と民政局の通信記録も、少し拝見したく存じます」

 

 言葉はあくまで丁寧。だが、彼らにとっては“脅し”である。

 

 ゲルハルトの指が痙攣するように椅子の肘掛けを握るのが視界に入った。ハイムは顎を撫で、愛想笑いの形に口元を歪める。

 

(この反応……よし、近くに大きなスキャンダルがある)

 

 嗅覚は正しかった。ターニャはこの数日以内に、それを国家保安本部の内部報告書という形で再構成するつもりだった。ヒムラーに見せる必要はない。むしろ、“使える誰か”に見せるほうが後々役に立つ。

 

 たとえば、カナリス。あるいは、シェレンベルク。

 

(情報は力。だが力は使い方次第で爆薬にもなる)

 

 かつてのサラリーマン時代を思い出す。情報の価値は“知ること”ではなく、“誰に、どう使わせるか”だった。

 

 それはこの時代でも変わらない。

 

 そして何より――彼女が生き延びるための最大の武器でもあった。

 

 

 

 

 

 

 

第6節 哀悼と報告、そして沈黙

 

 鉄条網の向こうには、無音の地獄が広がっていた。

 

 冬の気配をはらんだ冷たい風が吹き抜ける。ポーランド・クラクフ郊外に設けられた第37特別収容施設は、外見こそ臨時の検疫所を装っていたが、内部は明確に“それ”だった。あの忌まわしき用語――「特別処置(Sonderbehandlung)」が、ここでも横行しているのは明らかだった。

 

 親衛隊特務部隊の警備兵たちが、視察の到着に硬直したような礼をとる。ターニャは、あくまで静かにその中を歩いた。

 

「この施設では、主に知識人、ジャーナリスト、神父、教師階級が収容されております」

 

 随行の将校が説明する声は平板だったが、その目は絶えず彼女の反応をうかがっていた。

 

 無理もない。彼女はヒムラーの小間使いであると同時に、国家保安本部の“青い目”として認識されている。視察とは、ただの記録ではない。時に、粛清の予兆でもある。

 

 ターニャは足を止め、金網越しに収容者たちを見やった。痩せこけた男たちが、割り当てられた粗末な衣服に身を包み、沈黙のまま作業に従事している。目の光を失った者、怒りに濡れた視線を隠さぬ者。だが、声は一切上がらない。沈黙こそが、ここでの最適解なのだ。

 

 そして――ターニャは、ゆっくりと目を伏せた。

 

(……さぁて、ここからが“仕事”だ)

 

「――……」

 

 ターニャの小さな肩が、震えた。

 

 周囲の視線が一斉に集中する。

 

「……こんな……こんな非人道的な……! 同胞を、教育者を、こんな扱いに……!」

 

 そう呟いたその声は、まるで舞台俳優の発声だった。だが、その顔に浮かんだ涙は、本物の水分である。目薬を差すほど下品でもない。だが、感情の演出には十分だった。

 

 将校たちが顔を見合わせる。手帳に何かを走り書く者すらいた。

 

「この件……私はベルリンに報告させていただきます……。総統閣下の、いやヒムラー閣下の名のもとに……!」

 

 ――完璧だ。

 演技としても、政治的意義としても、極めて上出来である。

 

 なにせ、これで彼女は「良識ある党員」「ヒムラーの審問官」「人道的な視察官」という、相反する立場を同時に演じることができたのだ。

 

 そして――それを、影から見ていた者がいた。

 

 収容所の管理棟屋上、遠望用の観測窓からひとりの青年が、彼女の一挙手一投足を観察していた。

 

「……面白い」

 

 親衛隊保安部(SD)、国家保安本部所属。階級は中尉、名はユリウス・バウマン。

 

 彼の目は冷たく、しかし興味に満ちていた。

 

「涙の一滴まで、計算に入ってる顔だ……。あの少女――否、あの獣は、いったいどこまでを見通している?」

 

 ポケットから取り出した備忘録に、彼はたった一文だけを書き加える。

 

ターニャ・デグレチャフ中尉:視察において感情を操作する能力に秀でる。

行動原理は不明瞭。目的不明。だが――極めて危険な知性体。

 鉛筆を倒して閉じた手帳の奥、薄く笑みが浮かぶ。

 

「ハイドリヒ様が面白がるはずだ……いや、シェレンベルク閣下の方が早く目をつけるか?」

 

 ターニャの名前は、この瞬間、内部の“観測対象”リストに加えられたのだった。

 

 

 

 

 

第7節:報告書と、沈黙する亡霊たち

 

 ベルリン、国家保安本部第2会議室。

 

 分厚い防音扉の向こうでは、壁の時計が規律的な時を刻み、空調の唸りすらも吸い込まれるような静寂が支配していた。

 

 テーブル上に広げられた数枚の文書。それはつい数日前、クラクフの第37特別収容施設を視察したターニャ・デグレチャフ中尉による報告書だった。

 

「……視察対象、収容者数約950名。うち政治犯と見られる者、教職者、知識人を含む推定650名。

生活水準は標準を著しく下回り、衛生管理体制にも深刻な問題が……」

 

 音読される内容に、会議室にいた面々の顔には薄いしかめ面が浮かぶ。

 

 だが、それは本質ではない。

 

 この報告書は、単なる行政文書ではない。演出された爆弾だった。形式は正しい。用語は官僚的で冷淡。それでいて――末尾には、感情を込めた一文が記されていた。

 

「我が国が掲げる秩序と清潔の理念は、武器ではなく、行動によって示されねばならぬと信じます。」

 沈黙の後、最初に笑ったのは、金縁の眼鏡を外した男だった。

 

「――芝居がかった文面だ。だが、見事だ」

 

 国家保安本部第IV部部長ラインハルト・ハイドリヒ。陰謀と恐怖の代名詞たるその男は、部下に背を向けたまま文書の束を指先で弾いた。

 

「まるで、感傷を演じる能力までもが昇進査定に含まれているかのようだな。まったく……」

 

「査定に含まれていなかったでしょうか?」と、冗談めかして返したのは隣の男、ヴァルター・シェレンベルクだった。

 

 若き情報将校は、報告書を興味深げに眺めながら微笑を浮かべる。

 

「彼女は、合理性という刃をそのまま政治に転用できる珍しい種族です。……むしろ、政治向きでは?」

 

「親衛隊のくせに、だな。いや、親衛隊“だからこそ”か」

 

 ハイドリヒは笑わなかった。ただ、乾いた声で嗤った。

 

「ヒムラーの手駒が、感情を振りかざして政治的主張か……まるで、我々が教育した“愛国詩人”のようじゃないか」

 

「ですが中尉は、ハイドリヒ閣下の予想とは異なる動きをするかと。あの少女、いえ――」

 

 シェレンベルクは一瞬、言葉を切り、言い換えた。

 

「――あの視察官は、“演技と冷徹の境界”を曖昧にするタイプです。善意も悪意も、本気と見せかけ、すべてをカードにできる」

 

「信用に足るという意味か?」

 

「いえ、信用してはならないという意味です」

 

 室内に軽い沈黙が落ちる。

 

 やがて、ハイドリヒは一言だけ呟いた。

 

「……あの女、厄介な“未来の亡霊”になるかもしれんな」

 

 

 

 

 

 同時刻。国家保安本部の別棟にて、当の本人であるターニャ・デグレチャフ中尉は、極めて淡々と書類仕事をこなしていた。

 

 上司からの追及も、同僚からの視線も、すべて織り込み済みだ。

 

 報告書には“演出”を。

 視察には“涙”を。

 そして沈黙には、“思考の音”を。

 

(さて。どこまで通用するか……)

 

 机に置かれたコーヒーカップから立ち上る湯気を見つめながら、ターニャは心の底で問う。

 

 自分の意図がどれだけ読まれ、どれだけ誤読されたのか。

 そのすべてが、“この国の命運”という名の秤に乗っているのだ。

 

 だが、天秤を傾ける者はまだ彼女の名を知らぬ。

 

 それでいい、とターニャは思った。

 

 こちらには時間がある。あちらには、時間がない。

 

 だからこそ、賭けは成立する。

 

 

 

 

 

第8節 情報戦と沈黙の戦場

 

 帝国の喉元に巣食う沈黙の毒蛇どもが、またしても蠢動を始めた。

 

 国家保安本部――その名の響きが示すように、第三帝国の治安維持と反逆摘発の中核を担う巨大な諜報機関である。だが、その実態は幾重にも絡み合った思惑と猜疑、そして暴力と処刑の迷宮であると言ってよい。

 

 中でもその中枢を占めるのが、SD(Sicherheitsdienst)――親衛隊保安部である。

 

 表向きには、SDは親衛隊全国指導者ヒムラーの直轄組織とされている。だが、それは建前だ。現実において、SDの実効支配者は、冷笑と残酷さで知られる“金髪の死神”、ラインハルト・ハイドリヒに他ならない。

 

 彼は沈黙を好み、沈黙の中で敵を屠る。目に見えぬ処刑人として、帝国の咽喉を締め上げているのだ。

 

 ――そのSDの本部に、ターニャ・デグレチャフはいた。

 

 無言で書類を捲り、無言で署名を下す。ハイドリヒの指示ではない。ヒムラーの命令でもない。ただ「空気」を読む。それがすべてだった。

 

「……ゲシュタポとの接触記録、また改竄されています。ベルリンの拠点から直接介入した形跡があります」

 

 薄暗い地下室。黒い制服の若き親衛隊中尉が、口元をわずかに歪めながら報告を上げる。

 

「アプヴェーア(国防軍情報部)側も動いています。東部方面からの亡命者を回収、尋問記録を機密指定しました」

 

「つまり、三つ巴ね」

 

 囁くような声で、ターニャが言う。声に感情はない。ただ冷ややかな知識だけが言葉の背後に潜む。

 

 SD、ゲシュタポ、アプヴェーア――それぞれが「情報」という名の弾丸を撃ち合い、沈黙の戦場で死闘を演じている。

 

 いや、死ぬのは主に「情報提供者」たちであって、戦場の兵士ではない。だからこそ、戦争より陰惨で、より滑稽なのだ。

 

「我々は誰の敵で、誰の味方なのか」

 

 誰かが問うた言葉に、誰も答えない。答えてはいけないのだ。なぜなら、次の粛清がどの組織から来るかは分からぬから。

 

 そんな沈黙の渦中で、ターニャは己の立ち位置を静かに見極める。

 

 ――私はヒムラーの影だ。

 

 それを言葉にすることはない。だが、誰よりも彼の好み、彼の忌避、彼の計算と暴力の使い方を熟知している。そしてそれを、演じることができる。

 

 そう、“影”とは何よりも忠実な鏡像である。忠実であるように見える鏡像、であればなおよし。

 

 国家保安本部、すなわちRSHA(Reichssicherheitshauptamt)。その巨大な官僚機構は、七つの局から成り立っていた。

 

 ゲシュタポこと秘密国家警察局(IV局)、SD本体である親衛隊保安部(III局)、そして外事諜報・防諜の任にあたるV局。彼らは名目上「協調的」に機能するはずであったが、現実は滑稽でしかない。

 

 同床異夢。いや、同室背中撃ち。帝国の安全保障という高尚な大義を掲げながら、行われているのは予算と権限の奪い合いに他ならなかった。

 

 中でも頭痛の種は、国防軍情報部(アプヴェーア)との干渉戦だ。

 

 古典的な貴族主義と軍人の誇りをこじらせた彼らは、制服の色ひとつで憤慨し、報告書の一文で発砲を辞さぬ。親衛隊を嫌う彼らの視線は、まるで便所の便器を見るがごとく冷たい。

 

 しかし。

 

 冷笑を湛えた目で、「ごくろうさま」と言えることこそ、親衛隊の真骨頂である。

 

 ターニャ・デグレチャフは、そう心得ていた。

 

 机上には、数通の密封封筒。うち一つには、占領地からの密告報告書。もう一つには、アプヴェーアから回された尋問記録の写し。そして最後の封筒には、“匿名の反体制者”から送られた反ヒムラー声明。

 

 この情報のいずれが真実で、いずれが偽装か。あるいは、そのどれもが二重三重のミスリードである可能性を考慮しなければならない。

 

「処理は?」

 

「報告書は……第一線には回しておりません。貴官の裁量に一任を、と」

 

「ならば、“棚上げ”しておきなさい。適切な時機に“再評価”されることになるでしょう」

 

 それが何を意味するか、報告係の下士官はすぐに悟った。

 

 “棚上げ”とは、冷蔵庫である。すなわち、腐るのを待つ保留。

 “再評価”とは、必要になったときだけ取り出して利用する詐術。

 

 国家保安本部とは、嘘を保管する冷蔵庫であり、真実を分割管理する焼却炉である。

 

「それと、件のSS=アウシュトリヒの捜査報告……例のコリャーク支隊について、ヒムラー長官から直接言及がありました」

 

 その名を聞いた瞬間、ターニャは一瞬だけ眼差しを細めた。が、即座に平静を取り戻す。

 

「――了解しました。“整備”を行いましょう」

 

 それは粛清の婉曲表現であり、再教育を意味する政治用語でもある。だが実態はもっと単純明快だ。“口を閉じさせろ”という命令に他ならない。

 

 報告者が退出すると、室内に静寂が訪れた。

 

 ターニャは、しばしの間、誰もいない部屋に視線を彷徨わせる。

 

 いずれこの部屋を去る日が来る。

 

 ヒムラーの“影”として生きることは、すなわち光が当たれば消える存在であることを意味する。

 

 だが、その日が来る前に――

 

 この狂った機構から“出し抜く術”を、確実に掴まねばならない。

 

 核兵器、ロケット技術、心理戦、そして亡命ルート。

 

 掌中に一つでもあれば、交渉は可能だ。どの陣営にとっても、“戦争の鍵”とは、正義や理想ではない。利便性と確実な成果である。

 

「……この沈黙の戦場で、先に声を上げるのは“敗者”だ」

 

 呟くようにターニャは言った。誰にでもなく、誰のためでもなく。ただ、それは彼女自身の“生存戦略”の確認にすぎなかった。

 

 

 

 

 

 

 




あなたはヒムラー派?ハイドリヒ派?ヒトラー派?


※誤字があれば随時修正していきます。
クラクフをクラカウ、コーカサスをカウカシェン…
悩んだ結果、日本人にも馴染み深い方にしました。
映画の字幕もクラクフですもんね泣

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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