幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第7節

第7節 消えた被調査者

 

 曇天の朝、プシェミシルの街は霧の底に沈んでいた。

 冬を待たずに冷気が骨に刺さる。通りの露店はすでに閉ざされ、パンと灯油の匂いだけが薄く残る。

 ターニャ・デグレチャフは、RSHA臨時執務室の窓辺で、前日の照合台帳をめくっていた。

 

 その中に――ありえない記録があった。

 

「……この名は、すでに“処刑済み”のはずです」

 

 ターニャの声は、低く冷たい。

 机の向こうでセレブリャコーフ少尉が頷いた。彼女の手には、VII局の最新報告書がある。

 

 紙面には確かに記されていた。

 《リヴィウ地区特別記録簿:協力者ファイルNo.1148》

 氏名:ミハウ・グラベク

 状況:生存確認/再登録済

 

 その男は、三ヶ月前の“粛清作戦”で銃殺されたはずだった。

 死亡記録は確かにRSHA第IV局(ゲシュタポ局)に提出され、埋葬証明書も添付されている。

 それが――“特別記録簿”の中で、生きて再び現れたのだ。

 

「死者が記録に戻る、ですか……」

 

 セレブリャコーフの声には、明確な戸惑いがあった。

 記録の矛盾は、制度の矛盾。

 どんな命令よりも厄介な“生存”だった。

 

「VII局からの報告は?」

 

「“確認作業中”とのことです。……ただ、“特別記録簿”という文言が、正式な文書ではなく、口頭で伝達されていたようです」

 

「つまり、正式な登録ではない。だが、記録には残っている」

 

「はい。……まるで誰かが、“存在させたい記録”だけを先に書いたように」

 

 ターニャは目を細め、紙を指で叩いた。

 “特別記録簿”。

 RSHAの内部でも、限られた部局しか扱えない領域。

 それは、記録の中でさえ沈黙を許されない場所――“消せない記録”を保管するための台帳だ。

 

 だが、本来そこに“復活者”が載ることなどありえない。

 

「……調査対象の範囲を拡げましょう。VII局の照合記録に加え、IV局の処刑報告書、党地区指導部の“報奨名簿”、それと……」

 

 ターニャは短く間を置いた。

 

「EVAの報告ログを確認します」

 

 セレブリャコーフの手が止まる。

 

「EVA、ですか」

 

「ええ。彼女が観測している範囲に、この“復活”が重なっていれば、偶然ではありません」

 

 EVA――名も階級も、いまだ明かされぬ補佐官。

 彼女の報告書は、紙ではなく“観測”の記録として送られる。

 その形式は、既存の命令文とは異なり、まるで制度の外から覗き込むような文章だった。

 

 ターニャは机の引き出しから、薄灰色の封筒を取り出す。

 封は既に切られており、中には一枚の短い紙片が入っていた。

 電報紙のように、打鍵の跡が残っている。

 

《“観測対象:協力者No.1148、灰色地帯にて目撃”》

 

「……“灰色地帯”?」

 

「はい。おそらくリヴィウ郊外の難民区です。軍も党も直接管理できていない、あの区域」

 

「なら、民間協力者が“生き残る”には、都合が良い」

 

 ターニャは冷静に分析した。

 灰色地帯――法の外にあり、制度の責任が及ばぬ場所。

 制度が存在しないからこそ、制度に“消された者”がそこに逃げ込む。

 

 つまり、記録の外にある生。

 

「……あの男は、どの制度の下でも協力者だったそうです」

 

 セレブリャコーフの声が静かに続いた。

 

「帝国の前では帝国に、共和国のときは共和国に。

 自分の立場を変えながら、生き延びてきたそうです」

 

「典型的な生存者ですね。理念よりも制度に忠実なタイプ」

 

 ターニャは淡々と呟いた。

 その声の中には、軽蔑でも憎悪でもなく、わずかな興味だけがあった。

 

「……ですが、問題はその後です」

 

「?」

 

「彼は、自分を“記録する者の召使い”と名乗ったそうです」

 

 その言葉に、ターニャの指先が止まった。

 “記録する者”――RSHA内部でも限られた者だけが知る概念。

 行政上では存在しないが、VII局の内部用語として密かに流通していた。

 

「“記録する者”とは、観測者に近い存在です。……ですが、召使い?」

 

「はい。自らそう名乗ったそうです。

 『自分は誰の命令にも従わない。ただ、書き手の意志に仕える』と」

 

「……まるで、制度そのものの声ですね」

 

 ターニャは息を吐き、椅子にもたれた。

 命令と観測の狭間にいる者。

 死んだはずの人間が、制度の“語り手”を自称する。

 この現象そのものが、記録の誤謬を象徴していた。

 

「少尉、彼を直接確認しましょう」

 

「現地へ、ですか?」

 

「はい。……ただし、私ではなく、あなたが行きます」

 

 セレブリャコーフの背筋がわずかに伸びた。

 

「尾行任務、ですね」

 

「ええ。対象の行動を観察し、報告を私に。

 ただし、接触は禁止。あくまで観測のみ」

 

「了解しました」

 

「相手は記録の中で二度生きている。つまり、死んでも制度上はまだ“生きられる”。

 そのような人物に、言葉で対抗するのは危険です」

 

 ターニャは冷静に言い、書類をまとめた。

 それは命令ではなく、観測の指示。

 だがRSHAの内部では、観測の一文すら命令と変わらない。

 

「対象は灰色地帯の南端、“古い蒸留所”跡地付近に潜伏しているとの情報があります」

 

「了解しました」

 

「尾行は単独行動。……少尉、万が一の場合は?」

 

「沈黙を保ちます」

 

 ターニャは短く頷いた。

 それで十分だった。

 

 セレブリャコーフが外套を手に取り、部屋を出る。

 扉が閉まる音と同時に、ターニャは机上の命令書に目を落とした。

 そこには、昨夜自ら作成した“補正報告書”の写しがある。

 

 そして――右上の隅に、新しい鉛筆線が一本。

 昨日のものより細く、浅い線。

 

《観測と記録は、鏡の表と裏》

 

 誰が書いたのかはわからない。

 だが、その筆圧はEVAの報告書のものと酷似していた。

 

「……鏡ですか」

 

 ターニャは小さく呟き、外を見た。

 曇天の下、霧が濃くなっていく。

 灰色地帯の影が、まるで地図の上で滲むように広がっていた。

 

 同じころ、セレブリャコーフは市街地を離れていた。

 車は古い国防軍払い下げのトラック。

 荷台に隠された無線機が、低い音を鳴らしている。

 

 道の両脇には、廃屋と焼けた倉庫が並んでいた。

 灰色地帯――制度の端が擦り切れた場所。

 紙に書かれない者たちが息を潜め、制度の外で生きている。

 

 少尉は首元のマフラーを整えながら、外を見た。

 人影は少なく、犬の遠吠えが響く。

 風が吹くたびに、紙屑が舞い、看板が軋む。

 

「……この中に、“死んだ男”がいる」

 

 呟きは白い息になって消えた。

 彼女の胸の内にあるのは、恐怖よりも観察の意志。

 ターニャの命令は、観測を恐れない者にだけ下される。

 

 彼女は懐から、VII局製の携帯暗号帳を取り出し、短く記す。

 

《行動開始 対象未確認 灰色地帯No.3通り》

 

 無線のキーを二度押す。

 ベルリンまで届くことはない。

 だが、それは「記録が始まった」合図だった。

 

 霧の中、黒い影が動いた。

 男が一人、古い帽子を目深にかぶり、壁際を歩いていく。

 足取りは静かで、しかし迷いがない。

 

 セレブリャコーフは、歩調を合わせて尾行した。

 距離は十五メートル。

 影が路地に入るたび、息を止め、壁に身を寄せる。

 

 やがて男は、古い蒸留所跡地に入った。

 鉄の扉が軋み、重い音を立てて閉まる。

 

 彼女は静かに近づき、壁の隙間から中を覗いた。

 

 内部には、錆びたタンクと木の樽が転がり、中央の作業台の上にランプが一つ。

 その光の下で、男が何かを書いている。

 

 ペンではない。

 釘を削ったような金属棒で、古い紙に線を刻んでいた。

 

「……何を、しているの?」

 

 息を潜め、視線を凝らす。

 男の口がゆっくり動いた。

 その声は、まるで独り言のように、空気を震わせる。

 

「記録は誰かのものではない。……我々は書かれるために存在する」

 

 その瞬間、セレブリャコーフの背に冷たい感覚が走った。

 男は確かに“死んだ者”だ。

 記録にも、写真にも、彼の死は刻まれている。

 なのに――そこに、確かに生きている。

 

 彼女は懐の通信器に手を伸ばした。

 だが、その前に、男がこちらを振り返った。

 

 光が顔を照らす。

 頬に刻まれた銃創。

 処刑時に受けたはずの弾痕が、皮膚の上に残っている。

 だが血は流れていない。

 

「君は……記録する側の人間か」

 

 男の声は低く、笑っていた。

 

「なら、よく見ておけ。私は、まだ“書かれている”」

 

 その言葉に、セレブリャコーフの手が震えた。

 

 彼女は理解した。

 ――この男は、“記録の中で死ねなかった”のだ。

 

 彼の存在そのものが、制度の誤謬。

 書かれた死を拒み、観測の外で再び立ち上がった記録。

 

 ターニャの言葉が脳裏を過ぎる。

 

 “制度が命令を書くのではない。制度は、命令を書かせるのです。”

 

 男は、ゆっくりと顔を上げた。

 目の奥には、沈黙と光が同居していた。

 

「どの制度の下でも、私は協力者だった。

 だが今は――“記録そのもの”の召使いだ」

 

 言葉が終わると同時に、ランプが消えた。

 闇の中で、金属の擦れる音が響く。

 

 セレブリャコーフは通信器を強く握った。

 震えを抑えながら、短く報告する。

 

《対象確認。言語的異常あり。……記録が、彼を生かしている》

 

 報告を終えると、静寂だけが戻った。

 彼女は、暗闇の奥で、男の気配が消えるのを感じた。

 

 死者が生き、制度が沈黙する。

 それが、この“灰色地帯”の真実だった。

 

 そしてその夜。

 ターニャの机の上に、新たな紙片が置かれていた。

 誰が置いたのかはわからない。

 

 だが、文字は明らかにEVAの筆跡だった。

 

《観測対象No.1148、消失。

 観測と記録、ついに同位に。》

 

 ターニャは紙を握り、目を閉じた。

 観測が記録と同位になる――それは、制度が“沈黙を失う”瞬間だった。

 

 

 

 夜更け。

 灰色地帯の外縁部、廃線となった操車場の片隅で、風が鉄骨を鳴らしていた。

 セレブリャコーフ少尉は、古い遮断機の影に身を隠し、無線機のスイッチを入れた。

 電源は入る。だが、応答はない。

 

 ターニャへの通信は途絶したままだった。

 雑音の向こうで、時折“何かの呼吸音”が混ざる。

 それが人間のものなのか、無線の揺らぎなのかさえ判別できない。

 

 彼女は息を殺し、記録帳を開いた。

 書くのではない。“観測する”ために。

 そのページの端には、ターニャの筆跡で短く書かれた言葉があった。

 

《沈黙は報告と同価である》

 

 少尉はそれを読み返し、胸の奥に小さく刻むように頷いた。

 そして、再び目を上げる。

 

 霧の向こうに、人影が見えた。

 あの男――ミハウ・グラベク。

 昼間と同じ外套、同じ帽子。だが歩き方が違う。まるで、誰かを案内しているかのように。

 

 彼の後ろには、もう一つ影があった。

 細身で、背が高い。顔までは見えないが、女のようにも見えた。

 セレブリャコーフは息を詰め、視線を低くして尾行を再開した。

 

 踏みしめる瓦礫の音が、心臓の鼓動と重なる。

 灯りはない。

 あるのは、ランプの光が途切れ途切れに揺れるだけだった。

 

 やがて二人は、廃墟の中に消えた。

 そこは、かつて製靴工場だった建物。壁の一部が崩れ、屋根からは夜風が吹き込んでいる。

 

 セレブリャコーフは、破れた壁の隙間から中を覗き込んだ。

 男と、その“女”が対面している。

 ランプの光に照らされたその横顔――

 

 彼女は、息を呑んだ。

 

 その顔を、彼女は知っていた。

 

 ――EVA。

 

 報告上でしか存在しないはずの、補佐官EVAがそこにいた。

 冷ややかな瞳。整った口元。

 黒い手袋を外し、男の差し出した紙を静かに受け取っている。

 

「記録は、戻しました」

 

 男――ミハウの声が震えていた。

 だが、恐怖ではない。何かに従う者の、安心した声音。

 

「あなたが言った通り、“処刑記録”は灰色地帯に移しました。

 これで、私はもう二度と死なない」

 

「いいえ。あなたは、もう“書かれない”。それだけのことです」

 

 EVAの声は、凍りついた水のように静かだった。

 

「記録に生きることは、死ぬより長い。……それが、あなたの報いです」

 

「それでも、私は存在している!」

 

 男の叫びが、廃墟に反響する。

 EVAは微動だにせず、ただ冷たく見つめていた。

 

「存在は記録されなければ、制度には届かない。

 あなたのような存在は、ただの“記録の残響”よ」

 

「ならば――記録する者を殺せば、私は自由になれるか!」

 

 叫びとともに、男は腰の短銃を抜いた。

 引き金が弾ける音。

 火花が閃き、銃声が建物を震わせた。

 

 だが弾丸は、EVAの背後をすり抜け、鉄骨に当たって弾かれた。

 EVAは一歩も動かない。

 

「記録は殺せないわ。……書くのはいつだって、人間だから」

 

 次の瞬間、閃光が走った。

 EVAの手の中に、小型の信号弾が灯る。

 白い光が一瞬で廃墟を包み、セレブリャコーフの視界も焼いた。

 

 光が収まったとき――

 男も、EVAも、そこにはいなかった。

 

 残っていたのは、一枚の紙だけ。

 焼け焦げた紙の断片が、床に落ちている。

 セレブリャコーフは慎重に拾い上げた。

 

 そこには、焦げ跡の中にわずかに読める文字があった。

 

《被調査者No.1148 記録削除完了》

 

「……削除、完了……?」

 

 呟いた声は、震えていた。

 彼女はすぐに無線機を取り出し、再び通信を試みた。

 ノイズの中から、かすかな音が混ざる。

 

 ――ターニャの声だった。

 

「……報告を」

 

「対象、消失しました。……EVAが介入。記録が削除されました」

 

「EVA、ですか」

 

「はい。確実に。……生きた姿を確認しました」

 

 短い沈黙。

 ノイズが続く。

 やがて、ターニャの声が低く返ってきた。

 

「……観測と実行が重なったのですね」

 

「ええ。……もはや区別できません」

 

「では、その記録を提出してください。

 報告書の表題は“存在削除”ではなく、“記録移動”とすること。……いいですね?」

 

「了解しました」

 

 通信が途切れた。

 セレブリャコーフは拳を握りしめ、暗闇の中でゆっくり息を吐いた。

 自分の中で、何かが崩れていくのを感じた。

 

 “観測”と“記録”。

 その境界が、もうどこにも存在しない。

 

 ターニャの言葉が思い出される。

 

 ――沈黙は報告と同価である。

 

 彼女は静かにペンを取り、記録帳に書いた。

 

《観測終了。対象消失。EVA、記録外にて行動。

 ……沈黙、報告に等し。》

 

 紙にインクが滲み、文字が消えていく。

 まるで、それ自体が拒絶されているようだった。

 

 ***

 

 同時刻、RSHA臨時執務室。

 ターニャは報告を受け、書類を閉じた。

 外では、夜明け前の鐘が鳴っている。

 

「“記録削除完了”……ですか」

 

 彼女は低く呟いた。

 その言葉は、どこか他人事のようだった。

 

 机の上には、灰色の紙片が一枚。

 EVAからの報告書。

 いや、“報告”と呼べるのかも怪しい。

 

《観測完了。

 制度は沈黙を選択。》

 

 たったそれだけ。

 

 ターニャは長い沈黙のあと、ゆっくりと呟いた。

 

「……制度が沈黙を選ぶ、か」

 

 彼女はペンを取り、VII局宛の報告書に追記した。

 

《備考:被調査者No.1148に関する全記録、VII局より回収。

 観測者EVAによる現場判断を確認。

 ——制度は沈黙を採択。》

 

 署名を終えた瞬間、インクが光を反射した。

 そのわずかな輝きの中に、ターニャは自分の影を見た。

 

 記録する者と、記録される者。

 命令する者と、実行する者。

 そして観測者。

 

 それらすべてが、いまこの瞬間、同じ線の上に立っている。

 

「……沈黙を選ぶのは、恐怖ではない。

 記録に“終わり”を与えられないからだ」

 

 彼女は呟き、報告書を閉じた。

 その手は冷たく、しかし微かに震えていた。

 

 窓の外では、霧が晴れかけている。

 街の屋根が、ぼんやりと夜明けの光を反射していた。

 

 その光の中で、ターニャはふと立ち止まり、窓辺に目をやる。

 曇ったガラスの表面に、文字のようなものが浮かんでいた。

 指でなぞると、薄い跡が現れる。

 

《観測と記録、同位に》

 

 EVAの筆跡だった。

 

 ターニャは小さく笑った。

 それは皮肉でも、恐怖でもなかった。

 ただ――“理解”だった。

 

「……書かれざるものは、まだ生きているのですね」

 

 その言葉を最後に、彼女は静かに背を向けた。

 灰色の朝が、ゆっくりと街を包み込んでいく。

 

 その中で、制度はまた新しい命令を生み出す。

 沈黙のまま。

 観測のまま。

 そして、記録のまま。

 

 

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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