幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第10節

第10節 沈黙される制度

 

 翌朝の通信局三階、記録処理室。

 分厚い綴り紐で束ねられた紙が机の上に山となり、乾いた紙の匂いが部屋の隅に溜まっていた。打鍵音は止み、代わりに鉛筆のこすれる音だけが続く。壁には「保管」「照合」「配布」の矢印。だが、どの矢印の先にも“空欄”がいくつか残っていた。

 

「本日の“無宛先”観測、十七通。昨晩の定時外が二通。照合済みは七通、未照合十通です」

 

 班長が読み上げる声は弱々しく、手元の用紙には未記入の枠が白く残る。

 ターニャ・デグレチャフは机の角に手を置き、束の上から一枚を抜き取った。文は整っている。だが、配布欄が空白のままだ。

 

「——空白が多すぎます」

 

「配布先が特定できません。宛先不明の報告は“参考資料”扱いで保留、というのがこれまでの運用で……」

 

「保留が蓄積すると、制度は沈黙します」

 

 静かな声だった。叱責ではない。だが、誰も反論できない音の硬さがあった。

 

「誤報は訂正できます。沈黙は処理を止めます。止まった処理は、現場の判断を奪います」

 

「……では、どう記しますか」

 

「空白を残さない。沈黙には、想定済みの注釈をつけてください」

 

 班長の視線が上がる。

 

「注釈、とは」

 

「“不確定”を“既知の状態”に置き換えるだけです。具体的に。——たとえば、宛先が不明なら『宛先未決(暫定保全)』。現場の観測が先行して命令が追いついていないなら『命令未配(観測優先運用)』。筆跡の相違があるなら『筆致差(同一文体)』。用語は簡潔に。誰が見ても同じ意味になります」

 

「……新しい様式が必要です」

 

「今、作ります」

 

 ターニャは立ったまま、白紙を手繰り寄せ、鉛筆を走らせた。

 行頭に大きく「沈黙注釈票」と記す。項目は四つ——「種別」「理由」「運用」「再照合日」。余白に、使用例を書き添える。

 

「——『種別:宛先未決』『理由:観測先行』『運用:暫定保全』『再照合日:七日後』。こうです。七日はVII局の夜便二往復ぶん。皆さんが扱える時間単位に揃えます」

 

「配布先は?」

 

「現地視察官に限定。党や宣伝機関への二次配布は“沈黙注釈票”が付く限り停止。これは運用上の壁です。文句は私に」

 

「承知しました」

 

 班長の肩からわずかに力が抜けた。

 誰かが責任を引き受けると分かれば、手は動く。ターニャはその事実をよく知っていた。

 

「セレブリャコーフ」

 

「はい」

 

「様式の清書を頼みます。——書式は君が組め」

 

「了解しました」

 

 少尉はすぐに下書きを受け取り、活版室へ駆ける。

 ターニャは残った束をもう一度めくった。前夜、観測者が置いていった短い文が混じっている。

 

《受領:記録は保全。沈黙は維持》

 

 彼女はその一行へ、赤鉛筆で小さな印を置いた。

 

「——“維持”は運用語だ。読む者が分かる言い方を使っている」

 

 班長が気づき、問う。

 

「観測者は、制度の内側の人間でしょうか」

 

「文体は内側です。だが“名乗らない”ことを選んでいます。——名がない記録は、しばしば最もよく読まれます」

 

「皮肉ですね」

 

「運用です」

 

 短く返し、次の束へと指を移した。

 そこへ、連絡係が慌ただしく顔を出す。

 

「VII局から“記録遅延の照会”が来ています! 灰色地帯の日報に更新がないと!」

 

「更新はあります。注釈に置き換えただけです」

 

「その“注釈”が記録として認められるかは——」

 

「認めさせます。——返電を」

 

 ターニャは受話器を取り、短い文面を口述した。

 

「『本日付、灰色地帯日報は“沈黙注釈票”により更新済み。沈黙は未観測ではなく、観測優先運用の結果。命令未配分は現地裁量で保全』。以上です」

 

 連絡係が走っていく。

 班長は無言で鉛筆を取った。机の上、空白だった枠がひとつずつ「宛先未決(暫定保全)」「筆致差(同一文体)」で埋まっていく。

 

「——誤報より、沈黙の方が危険です。誤報は『訂正』で片がつきます。沈黙は『否認』を呼びます。否認は現場から観測を奪う」

 

 ターニャは独り言のように言い、窓の外へ視線を流した。

 道路の向こう、旧役場の掲示板は相変わらず空白だ。それでも、朝になると人は並ぶ。紙がなくても“読む”。読む者がいる限り、空白は言葉の形をとる。

 

 そこへ、党地区指導部の役人が二人、腕章を揺らして入ってきた。

 眼鏡越しの視線は強く、声は不用意に大きい。

 

「視察官殿。宣伝局より、昨日の映像と“模範秩序”の文案を求められております。空白では困ります。全国へ示す見本なのですから」

 

「勝手ではありません。私は視察官です。現場の運用は観測に従属します」

 

「しかし、国民には分かりやすい形が——」

 

「分かりやすい嘘は不要です。——こちらをご覧ください」

 

 ターニャは“沈黙注釈票”を一枚抜き、役人の前に置いた。

 簡潔な語、短い行。誰が見ても、何が起きているかは分かる。

 役人は目を走らせ、口を開きかけて閉じた。

 

「……“安定”。“未配”。“保全”。ずいぶんと地味な言葉ですな」

 

「派手な言葉は、現場で役に立ちません。——『安定』は判断を遅らせます。『有効』は賛成を強要します。どちらを使うかは、現場が決めます」

 

 役人は肩をすくめた。

 

「宣伝局には、そう伝えましょう。ですが、映像は?」

 

「映像は“無編集”で。——空白は空白のまま示してください」

 

「無編集では……」

 

「編集は嘘に見えます。空白は現実に見えます。選ぶのは簡単です」

 

 役人は視線を逸らし、手を伸ばして注釈票の写しを一枚だけ抜き取った。

 

「……検討します」

 

「検討は不要です。運用です」

 

 扉が閉まると、部屋の空気が少し軽くなった。

 班長が、目線だけで礼を送る。

 

「助かります」

 

「助けてはいません。——次です」

 

 ターニャは別の束から、古い“特別記録簿”の写しを取り出した。

 処刑済と記されていた地元協力者が、生存者として再登場した件。日付の隙間、押印の濃さ、用紙の種類。細部が噛み合わない。

 

「この『処刑済』は、沈黙の別名です。処理が止まった場所に、誰かが印を置いただけ。……注釈票を付け替えましょう」

 

「付け替え、ですか」

 

「『状態:生存照合中』『理由:特記簿との不一致』『運用:現地保全』『再照合日:三日後』。——『処刑済』は“確認済”ではありません。“記入済”です。違います」

 

「はい」

 

 班長の手が早くなる。空白は埋まり、欄外には短い矢印が増えていった。

 そこへ、セレブリャコーフが様式の清書と試し刷りを抱えて戻る。

 

「活版の見本です。項目は四つ、記入例を三つ付けました。欄の幅は、標準紙でも収まるように」

 

「よろしい。——そのまま配って。今日から使います」

 

「了解しました」

 

「それと、少尉」

 

「はい」

 

「“有効”は使わない。——報告の語尾は『安定』『保全』。覚えて」

 

「承知しました」

 

 少尉が部屋を出る背中に、ターニャは短く付け加えた。

 

「やっておけ、セレブリャコーフ」

 

「——はい」

 

 ほんの一拍、少尉の呼吸が緩み、すぐ戻る。

 敬語の壁が少しだけ薄くなったのを、ターニャは言葉にしない。

 

 窓の外で汽笛が鳴り、通信局の廊下に誰かの靴音が響いた。

 ゲシュタポの胸章をつけた取調官が現れ、眉間に皺を寄せて言う。

 

「視察官。昨夜の“無宛先”の件で質問が。発信者不明の報告は『敵性情報』として分類するのが通例です」

 

「分類は後で結構です。今は保全です」

 

「しかし、誰が書いたか分からない記録は信頼できません」

 

「誰が書いたか分かる記録が、いつも正しいとお考えですか」

 

「…………」

 

「信頼は出所ではなく照合で作ります。——ここに照合例があります」

 

 ターニャは、広場での再演、旗竿の根の清掃、配給列の割込なし——観測と一致した箇所に赤印が入った紙を差し出した。

 取調官は目を細め、黙って頷く。

 

「……保全、ということで」

 

「ありがとうございます。照合が崩れたら、すぐに切ります。その判断も現地でやります」

 

 取調官は敬礼し、下がった。

 班長が、紙束の背を軽く叩きながら呟く。

 

「“敵か味方か”で回してきた書類が、“使えるか使えないか”で並び直す。変な気分です」

 

「変ではありません。——現場はいつも、そうやって動いてきました」

 

 連絡係が再び駆け込む。

 

「VII局、受電! “沈黙注釈票”の暫定運用を了承。様式の写しと、運用例の追加提出を求む——とのことです」

 

「返電。『様式送付、運用例添付。——注釈は現場の沈黙を『見える』に変換するための手段。今後、灰色地帯の全記録に適用』」

 

「承知!」

 

 扉が閉まり、短い安堵が室内をゆっくり巡る。

 ターニャは机に片肘をつき、注釈票の余白に小さく書き込んだ。

 

 ——“沈黙の翻訳”。

 

 誰も読まない小さな言葉。だが、自分の中で手順が固まる。

 

「班長、注釈票は“翻訳”です。原文は沈黙。こちらは意訳。——意訳の責任は現地が持ちます」

 

「はい。——責任の所在、了解です」

 

「もう一つ。注釈票には“再照合日”を必ず書いてください。沈黙は長期保管すると腐ります。腐る前に換気を」

 

「分かりやすい」

 

「分かりやすい言葉を選んでください。皆が同じ意味で使えるように」

 

 そのとき、机上の電話が震えた。

 RSHA本部、VII局の夜番からだった。

 

「こちらVII局——視察官、確認したい。『観測は命令に先行』と、前便の末尾にあります。これは原則か、現地限定の運用か」

 

「現地運用です。——ただし、命令が観測に追いつけない場合は原則に近い意味で扱います」

 

「政治局から横槍が入るかもしれない」

 

「入れば、注釈を付けます」

 

「注釈、とは」

 

「『政治判断介入(観測参照)』。——これは沈黙ではありません。記録です」

 

「……了解。文面の写しを」

 

「本便に同封します」

 

 通話を切ると、セレブリャコーフが活版室から戻ってきた。

 印刷された様式は見やすく、余白が適切に保たれている。書く者の手を止めない紙だ。

 

「見やすい。ありがとう」

 

「恐縮です。——配布を始めます」

 

「頼みます」

 

 少尉が出ていく背を見送りながら、ターニャは胸の奥で一つ、言葉を固定した。

 誤報は訂正すればいい。沈黙は注釈すればいい。

 どちらも“動く側”の手続きだ。動かないのは、最もいけない。

 

 窓の外、昼の光が傾き始める。

 旧役場の掲示板は、まだ紙を掲げない。

 それでも、夕刻の合図とともに人は立ち止まり、同じ方向を向く。

 彼らは命令を待っているのではない。記録を“再演”しているのだ。

 

「……記録の復唱。——注釈票、外にも要りますね」

 

 ターニャは立ち上がり、上衣を正した。

 

「班長、外に掲示できる形の“注釈票”も作ってください。三行で十分です。『本区画は観測優先』『命令は遅行』『秩序は安定』。字は大きく。誰が見ても意味が同じになるように」

 

「了解」

 

「セレブリャコーフ」

 

「はい」

 

「広場へ行く。——見ておけ」

 

「了解しました」

 

 二人は記録処理室を出て、階段を降りた。

 廊下の封蝋の匂いが薄れ、外は冷たい風が渡っている。

 広場は静かで、空白の掲示板が灰色の四角を作っていた。

 昨日と違うのは、掲示板の下の石に、誰かが小さく“点”を打ったことだった。行末から三文字目。あの合図と同じ位置。

 

「……観測者が、見ています」

 

「はい」

 

 ターニャは頷き、懐から小さな紙片を取り出した。

 三行だけ、印刷された“外向け注釈票”。

 『観測優先』『命令遅行』『秩序安定』。

 紙片を掲示板の枠にそっと挟み、指先を離す。

 

「誰が掲げたかは関係ありません。読む者がいれば、記録になります」

 

「大尉」

 

「何でしょう」

 

「これで、現場は“沈黙しない”でしょうか」

 

「沈黙は続きます。——ただ、沈黙に『意味』がつきます」

 

 セレブリャコーフは短く頷いた。

 風が紙片を揺らし、すぐに落ち着く。

 広場の人々は声を上げない。だが、目線は確かに紙の位置を通過し、柱の影で立ち止まる時間が少しだけ伸びた。

 

「戻ります。VII局への便を逃すと、意味が薄れます」

 

「了解しました」

 

 二人が踵を返したとき、通信局の屋根の上で誰かが身を低くした気配がした。

 影はすぐに消える。

 ターニャは肩越しにだけ視線を送り、何も言わなかった。

 

「——観測が生きているうちは、制度は沈黙しきれない」

 

 それは自分自身に向けた確信だった。

 彼女は歩幅を保ち、通信局へと戻っていった。

 机の上には、まだ埋めるべき空欄が残っている。

 だが、その空欄はもう“沈黙”ではない。——注釈で囲われた、扱える空白だ。

 

 午後の鐘が鳴り、紙の束が再び動き出した。

 記録は更新される。命令は遅れてでも追いかける。

 “沈黙される制度”に、短い息継ぎが与えられた。

 

 彼女は赤鉛筆を握り直し、次の欄外に小さく印を置いた。

 ——『再照合:三日後』。

 この街の沈黙は、三日後にもう一度、言葉に訳される。

 

 

 

 

 夕方の記録処理室は、紙の擦れる音と、活版の小さな打音だけが続いていた。

 印刷した“沈黙注釈票”は束になり、各机に配られていく。窓の外は曇天のまま、広場の掲示板には午前に掲げた三行の紙片がまだ挟まっている。

 

 連絡係が駆け戻り、肩で息をしながら報告した。

 

「VII局から電信返信。『暫定運用を全区へ展開。併せて、政治局からの“編集要請”は注釈を付して保留可』とのことです」

 

「了解しました。——写しを回してください」

 

 ターニャ・デグレチャフは短く答え、卓上の注釈票に目を落とした。空欄は少ない。班長が粘り強く埋めているのが伝わる。

 

「外の掲示の様子は?」

 

「現時点、静穏。立ち止まる者は増えました。……騒ぎにはなっていません」

 

「よろしい。意味だけが増えれば充分です」

 

 そこへ、通話ベルが鳴る。受話器の向こうはRSHA本部の交換台を経た、SDの監察官だった。声は硬い。

 

「視察官。『無宛先観測』の現地保全、確認した。——だが、外部掲示の三行、“命令遅行”の語は不用意ではないか」

 

「不用意ではありません。現実です」

 

「民心に悪影響が出る」

 

「影響は管理します。注釈で」

 

「……本部としては、“沈黙の維持”を推奨したい」

 

「維持は現地語で“放置”です。——放置は腐敗を呼びます」

 

 監察官はしばし黙り、別の問いを差し込んだ。

 

「『R・ハイドリヒ』名義の文書について、昨夜の件だ。命令は有効か」

 

「局印がVII局でした。発出の経路が不正です。——注釈を付けています」

 

「注釈?」

 

「『署名優先(局印不一致)/命令未配』。配布は止め、照合に回しています」

 

「……あなたは“言葉”で防御するのが巧い」

 

「運用です。——それが現地の仕事です」

 

 通話が切れる。受話器を置く手つきは静かで、指先の力も一定だった。

 

 活版室からセレブリャコーフが戻り、新しく組んだ注釈票の“欄外文例”を差し出す。余白に小さく、使用の注意が印刷されている。

 

「書き手が迷わないように、記入例を増やしました。『政治判断介入(観測参照)』『署名優先(局印不一致)』『宛先未決(暫定保全)』——三種を先頭へ」

 

「助かります。——配備を」

 

「はい」

 

 少尉が部屋を出る。その背に、ターニャはひとことだけ落とした。

 

「見ておけ」

 

「了解」

 

 扉が閉まる間際、少尉の返答から“です・ます”が一拍ぶん抜け、すぐ戻る。距離は、少しずつ詰まっていた。

 

 夕刻の合図が鳴る。外の空気が冷え、広場へ向かう足取りが増える気配がする。

 班長が窓外を一瞥し、そっと告げた。

 

「掲示板の紙片、誰かが上から別紙を重ねました」

 

「内容は?」

 

「遠目に『秩序回復』の四文字だけ」

 

「確認します。——少尉を呼んでください」

 

 ターニャは外套を取り、階段を下りる。

 広場へ出ると、人の間の距離は一定で、目線は同じ方向を向く。掲示板には拙い筆致で「秩序回復」と書かれた紙が重ねて貼られていた。紙の角は新しい糊で湿っている。

 

 セレブリャコーフが並び立つ。

 

「どうしますか」

 

「剥がしません。——注釈を足します」

 

 ターニャは懐から“外向け注釈票”の予備を取り出し、重ね貼りの右下に小さな紙片を差し込んだ。

 三行。『観測優先』『命令遅行』『秩序安定(再照合三日後)』。

 最後の括弧書きだけが、先ほどより増えている。

 

「掲示の変化自体を記録に含めます。——誰かが“秩序回復”と言いたい。それは分かります。ですが、いつ、誰が、何を根拠に言ったか。その“時間”をつける」

 

「“三日後”」

 

「ええ。見る者に、待つ線を渡します」

 

 群衆は声を上げない。だが、紙片の“再照合三日後”に視線が止まり、離れるまでの時間が確かに伸びた。

 

「戻りましょう。記録が先です」

 

「了解しました」

 

 二人が通信局に戻ると、廊下でゲシュタポの取調官と鉢合わせた。彼は封筒を持ち、目つきは固い。封筒の表に「R・ハイドリヒ」の署名影印が大きく印刷されている。

 

「視察官。——本部からの“再指示”です。『民間協力者の記録洗浄』、即時実施」

 

「局印を」

 

「……VII局ではありません。『SD本部』の印です」

 

「照合します」

 

 ターニャは封を切り、文面を読み、すぐに赤鉛筆で欄外に記した。

 『署名優先(局印不一致)』『政治判断介入(観測参照)』『命令未配(現地保全)』。

 その場で注釈票を二枚付し、一枚は封筒へ、一枚は写しとして班長へ渡す。

 

「実施はしません。——観測と照合の後に判断します」

 

「……本部の名義ですよ」

 

「名義で現地は動きません。——運用は記録で決めます」

 

 取調官は数秒だけ睨み、やがて短く頭を下げた。

 

「了解。……照合結果の写しを、私にも」

 

「配布します」

 

 彼が去ると、班長が小声で言う。

 

「“署名”と“印”が武器だった時代は、長くは続きませんね」

 

「ええ。これから使うのは——注釈です」

 

 そこへ、外から駆け足の音。セレブリャコーフが戻り、息を整える。

 

「掲示の前で、党の役人二人が“秩序回復”の紙に別の紙を重ねようとしていました。——『模範行動』と」

 

「止めましたか」

 

「“再照合三日後”を指さして、『掲示の変更は“介入”として注釈される』と伝えたら、手を止めました」

 

「よろしい」

 

 ターニャは頷き、ふと思考を切り替えた。

 

「少尉、注釈票に“介入”の欄を追加します。——『外部掲示変更(介入)』『理由:宣伝・党・その他』『運用:記録残置/再照合日』。書式を増やしましょう」

 

「すぐに」

 

 少尉が活版室へ消える。

 記録処理室では、班長が新しい欄のために版下を空け始めた。

 

「電話です。VII局」

 

「どうぞ」

 

 受話器から、夜番の落ち着いた声がした。

 

「“介入”欄の追加、写しで確認した。——本部の監察官にも回す。『政治判断介入(観測参照)』の表記を、標準語にしたい」

 

「構いません。——“政治介入(観測優先)”に変えます」

 

「助かる。もう一件、『R・ハイドリヒ』名義の件だが、総務から“署名の引用状態が古い”と。最新の書体ではない」

 

「承知。——『筆致差(書体旧式)』を追記します」

 

「君の注釈は嫌がられるが、役に立つ。——続けてくれ」

 

「はい」

 

 通話を切ると、ターニャは注釈票の余白にもうひとつ、小さく書いた。

 ——“剥がされた沈黙は、介入として残す”。

 

 机上に“無宛先”が一通、そっと置かれた。誰が持ってきたのか、誰も見ていない。紙は薄く、においは弱い。

 文は短い。

 

《注釈を読んだ。三日後、広場で》

 

 セレブリャコーフが戻り、紙を見て息を整える。

 

「……EVAでしょうか」

 

「分かりません。——ただ、“読む者”がいるのは確かです」

 

「三日後までに、何を整えますか」

 

「読めるものを増やします。——沈黙を『見える』に置き換える」

 

 ターニャは立ち、配布用の封筒を三つ取った。

 

「ひとつはVII局。もうひとつは通信局の主任。最後は——党の役人へ」

 

「党へ、ですか」

 

「はい。“介入”の欄は、彼らに最も必要です」

 

 配布が進む間、記録処理室では静かな訓練が始まった。

 班長が新人に向かって、注釈の書き方を繰り返し説明する。

 

「“分からない”と書いてはいけない。“宛先未決”と書く。『ない』は溜まる。『未決』は動く」

 

「“様子見”は?」

 

「“再照合日”に置き換える。——日付は武器だ」

 

 言葉は簡単で、意味は固定されていく。

 紙の束は形を変え、空白は注釈に置き換わり、沈黙は“扱える状態”になっていく。

 

 夜になる。

 広場は昼より静かだが、人は完全には消えない。掲示の前で立ち止まり、同じ方向を見て、同じ時間を過ごす。

 ターニャは窓からそれを見て、ひとつだけ確認の言葉を落とした。

 

「——“沈黙の規律”。記録になれば、秩序は保てます」

 

 セレブリャコーフが傍らで頷く。

 

「はい」

 

「少尉」

 

「はい」

 

「明朝から、注釈票の日次集計を。『宛先未決』『政治介入』『命令未配』——三種の件数を折衝用に見える化します」

 

「承知しました」

 

「あとひとつ」

 

「はい」

 

「VII局向けに、“現地通達 第九号”を作る。——文案を口述します」

 

 少尉がノートを開く。

 ターニャは、ゆっくりと、短く区切って話した。

 

「『一、灰色地帯では“観測優先”。“命令遅行”を標準とする。二、沈黙は“注釈”に変換。空白は残さない。三、外部掲示の変更は“介入”として記録。四、再照合日は必ず記す。五、政治的要請は“政治介入(観測優先)”へ分類。』以上です」

 

「記しました」

 

「見直してください。——余計な形容詞は外す」

 

「はい」

 

 仕上がった文は無駄がなく、読むだけで運用の形が浮かぶ。

 ターニャは署名し、封をして、蝋を落とした。蝋の匂いが淡く立つ。

 

 そのとき、受信機が一度だけ短く鳴った。定時外の打鍵。

 紙帯はわずかに進み、ひとことだけ吐き出す。

 

《理解した。——沈黙に注釈》

 

 ターニャは紙を押さえ、目を細めた。

 

「少尉、写しを」

 

「はい」

 

「——“読む者”は、こちらの言葉を受け取っています」

 

「三日後、広場で」

 

「ええ。そこで“再照合”です」

 

 ターニャは外套を取り、机の上に赤鉛筆を置いた。

 窓の外、霧は薄くなり、広場の掲示の紙がわずかに光る。

 “観測優先”“命令遅行”“秩序安定(再照合三日後)”。

 その三行が、この街の“読み方”を決めていた。

 

「班長、日次の集計は朝一番で。各所へ同じ書式で回してください」

 

「了解」

 

「連絡係、VII局へ夜便。——今日の“沈黙”は、注釈に置き換え済みと伝えて」

 

「承知!」

 

 セレブリャコーフが最後に確認する。

 

「今夜はどうしますか」

 

「見張りは最小でいい。——観測は続く。介入があれば、注釈で残す」

 

「了解しました」

 

「休んでください。——明日も“翻訳”です」

 

「はい」

 

 二人は通信局を出た。

 夜風は冷たいが、歩幅は崩れない。

 ターニャは広場の方へ一度だけ目をやり、短く呟いた。

 

「空白を残すな。沈黙には、想定済みの注釈をつけろ」

 

 それは命令ではなく、作業の確認だった。

 街は静かにそれを受け取り、三日後へと進む。

 

 遠くで汽笛が鳴り、活版室の機械が小さく唸る。

 紙は積まれ、語は整い、空欄は秩序へ変換される。

 制度が完全に沈黙することは、今夜はない。

 “読む者”がいる限り、記録は続くからだ。

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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