幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第12節

第12節 誰が記録を残すのか

 

 

 通信局の机は、紙のためにある。木目の上に置かれた書類は、置いた瞬間から“保管物”になり、誰かの責任を呼び寄せる。だからこの部屋の空気は、いつも少しだけ重い。

 

 ターニャは椅子に背を預けず、机の端に肘を置き、報告書の冒頭を読み返していた。文章は簡潔で、余計な形容はない。だが、簡潔であるほど嘘が混じりやすい。嘘というより、抜け落ちる。制度にとって危険なのは、派手な誤報より、静かな空白だ。

 

 机の横に、封筒が二つ並んでいた。ひとつは公式の復帰報告。もうひとつは、EVAが渡した観測資料の写しをまとめたもの。封をすれば、どちらも“記録”として扱える。だが同じ扱いをしていいものではない。

 

 セレブリャコーフが、いつもの距離で控えている。報告書の写しを整え、添付資料の目録を作り、封筒の封蝋を準備していた。丁寧で、正確で、余計な疑問を表に出さない仕事ぶりだ。

 

「復帰報告の本文は、これでよろしいでしょうか」

 

 ターニャは目を上げずに答えた。

 

「結構です。現地の状況、爆発事案、協力者の供述整理、注釈運用、いずれも記載済みです」

 

「添付資料は、通常通り付けますか」

 

 セレブリャコーフの声は落ち着いている。だが質問の芯は鋭い。通常通りなら、観測資料も付けるべきだ。観測資料は、今回の動きを支えた根拠でもある。根拠を付けない報告は、上からは都合のいい抜粋に見える。

 

 ターニャは、もう一度だけ報告書の末尾を眺めた。署名欄は空白のまま。そこに名前を書けば、言葉が責任になる。

 

 彼女は、封筒の二つ目に手を伸ばし、指先で角を揃えた。中身の紙は薄い。だが、薄い紙ほど燃えやすいし、濡れれば読めなくなる。扱いにくい。

 

「EVAの資料は、添付しません」

 

 セレブリャコーフの手が止まった。

 

「……添付しない、ですか」

 

「制度の外で動く記録は、制度の中では扱えません。添付した瞬間に、VII局の机で“処理対象”になります。処理されれば、意味が変わります」

 

「ですが、観測資料は現地運用の根拠でした。根拠がなくなると、報告の説得力が——」

 

「説得力は、制度にとって二番目です。制度が欲しいのは、処理しやすい形です。処理できない資料を添付するのは、こちらが事故を招く」

 

 ターニャは淡々と言い切った。言い切ってしまえば、もう戻れない線を引くことになる。だが、引かないほうが危険だ。今回の件は、書けば書くほど誰かの縄張りに触れる。

 

 セレブリャコーフは、反論を飲み込み、ただ確認する。

 

「では、EVAの資料はどう保管しますか」

 

「私が持ちます。原本は現地観測点に残りました。手元の写しは、こちらで管理する。必要なときにだけ、必要な形に翻訳して出す」

 

「了解しました」

 

 少尉は頷いた。納得した顔ではない。だが理解しようとする顔だ。仕事のために、自分の感情を後ろへ下げる。そういう訓練を受けた者の仕草だった。

 

 ターニャは、二つ目の封筒を引き出しにしまい、鍵を掛けた。鍵を掛ける行為は、制度の言葉よりも確実な意思表示になる。ここにある。だが、今は出さない。

 

 通信局の時計が、乾いた音を立てる。針が進むたびに、報告は古くなる。制度は常に遅れる。観測は遅れない。EVAの紙片が、頭の奥で繰り返された。

 

 扉が軽く叩かれ、連絡係が顔を出した。若い兵で、声が高い。

 

「視察官。ベルリン行きの軍用便が、正午に出ます。封筒はそれまでに——」

 

「間に合わせます」

 

 ターニャは短く答え、署名欄にペンを置いた。筆圧は強くない。線は細い。だがそれでも、彼女の名前は制度の中で重くなる。

 

 署名を終えると、封蝋を押す。乾くまでの数秒が、妙に長い。封をした瞬間、報告書は彼女の手を離れ、誰かの机へ流れていく。

 

 セレブリャコーフが封筒を受け取り、封印の状態を確認する。軍務の手順だ。

 

「封印、問題ありません。宛先はRSHA本部、受理部署はVII局でよろしいでしょうか」

 

 ターニャは一瞬、目を細めた。VII局は分析と文書の局だ。受理部署としては自然だが、自然な宛先ほど危ない。今回の件は、VII局の印が混じった偽装命令が出た。つまり、VII局の名は盾にも刃にもなる。

 

「宛先はRSHA本部の総合受理。回付先はVII局とIV局、両方に写しを回すように書きなさい」

 

「IV局も、ですか」

 

「ゲシュタポが現地で動いています。関与を切れば反発します。関与させれば、責任も負わせられます。制度は責任の束で動く」

 

 セレブリャコーフは迷いなく宛名を修正した。細い字で、正確に。

 

 ターニャは立ち上がり、外套を羽織る。通信局の窓から見える広場には、住民が今日も集まっていた。声はない。だが同じ方向を見て、同じ時間に動く。誰かの命令ではなく、昨日の“記録”に従っているような動きだった。

 

 彼女は、その光景を見て、胸の奥が冷えるのを感じた。

 

 命令がなくても、人は動く。

 記録が残っていれば、人は再現する。

 

 それは便利で、危険だ。制度が作りたい世界でもある。だが制度自身が制御できなくなった瞬間、それは怪物になる。

 

「少尉。広場の様子、今日の分も記録しておいてください。人数と、滞在時間。掲示の紙の枚数も」

 

「はい、大尉。了解しました」

 

 少尉が即答し、手帳を開く。階級呼称は変わらない。そこが揺れないから、ターニャは一歩だけ距離を詰められる。

 

 通信局の外へ出ると、風が冷たい。軍用便の出発地点は、旧市街の外れにある簡易の集積所だ。そこには党の役人も、軍の将校も、郵便係も混じっている。皆、自分の封筒が目的地へ届くことだけを願っている。届けば責任が移る。届かなければ責任が残る。

 

 集積所の前で、国防軍の将校が腕を組んで待っていた。顔は硬い。彼はターニャを見ると、形式的な敬礼だけをして言った。

 

「視察官殿。送信塔の件は、軍としては不問にしたい。余計な報告が上へ行けば、こちらも説明が面倒だ」

 

 ターニャは目を逸らさず、淡々と返す。

 

「不問にするなら、記録に残すべきです。残さなければ、いつでも蒸し返されます。制度は忘れません。忘れたふりをするだけです」

 

「軍は、記録より現場を——」

 

「現場は記録なしに維持できません。必要な範囲で、貴官の顔が潰れない形に整えます。整えたものを受け入れてください。それが一番安い」

 

 将校は言い返せず、唇を歪めた。安い、という言葉が効いた。軍も予算と労力で動く。体面は高いが、維持費は払いたくない。

 

「……分かった。こちらも協力する。だが、誰があの塔を使っていたのか、軍としては知らない」

 

「結構です。知らないことは、記録できます」

 

 ターニャはそれ以上は言わず、封筒を連絡係に渡した。連絡係は封印を確認し、受領の印を押す。紙に押された印は、それだけで責任が移る。

 

 それを見て、ターニャは一瞬だけ安心する。だがすぐに、別の不安が来る。印は、受領を保証する。内容の扱いは保証しない。VII局が「不存在」と言えば、存在しないことになる。それが制度の力だ。

 

 セレブリャコーフが横で言う。

 

「復帰報告は、これで送れました。あとは帰投準備を——」

 

「帰投準備は進めてください。私は、もう一通だけ出します」

 

 少尉が眉を動かす。

 

「もう一通、ですか。宛先は」

 

「RSHA本部の総合受理ではありません。個人宛です」

 

 ターニャは、懐から小さな封筒を取り出した。白紙のように見えるが、封の内側にだけ短い文がある。内容は簡潔で、伝達事項だけ。余計な説明はない。説明は記録になる。記録は奪われる。

 

「誰宛てでしょうか」

 

 セレブリャコーフの声は丁寧だが、詮索ではない。確認だ。実務の確認。

 

 ターニャは、ほんのわずか間を置いた。口に出すことで、相手の名前が別の意味を持つ可能性がある。だから、言葉を選ぶ。

 

「必要な人に届けばいい。届かなければ、それも記録です」

 

 少尉はそれ以上聞かず、ただ頷いた。聞かないことも、時には能力だ。

 

 ターニャは連絡係に封筒を渡し、低い声で指示をした。

 

「これは別便で。受領印はいりません。手渡し。宛先に本人がいなければ、焼却してください」

 

 連絡係が目を丸くする。

 

「焼却、ですか」

 

「命令です。理解でよろしいですね」

 

「……はい。承知しました」

 

 連絡係は震える手で封筒をしまい、深く敬礼した。彼は、今受け取ったものが“記録になってはいけない”種類だと直感している。直感してしまう時点で、制度の外側へ触れている。

 

 作業が終わり、ターニャは馬車代わりの車両へ戻った。市内へ戻る道の途中、広場の群衆が視界に入る。今日は、昨日より少し人数が多い。だが誰も声を出さない。掲示板の前で立ち止まる時間が、目に見えて伸びている。

 

 セレブリャコーフが手帳に記しながら言った。

 

「人数、昨日比で増加。滞在時間も長いです。掲示の紙は……増えています。党の印が押された紙も混ざっています」

 

「党は、沈黙を自分のものにしたい。軍は、沈黙を避けたい。RSHAは、沈黙を記録したい。三者が同じ沈黙を見て、違う目的で動いている。——危険です」

 

「どう処理しますか」

 

 ターニャは即答しない。処理とは、言葉にすることだ。言葉にすれば、誰かの権限に乗る。権限に乗れば、命令が混じる。

 

 彼女は、まず事実だけを拾う。

 

「掲示の紙の写しを取ってください。党の印がある分は特に。写しの写しも作る。原本は奪われる前提です」

 

「了解しました」

 

 セレブリャコーフの返事はいつも通り丁寧で、崩れない。ターニャはその安定を頼りにしながら、同時に怖くもなる。安定しているものほど、制度に吸い込まれやすいからだ。

 

 通信局へ戻ると、机の引き出しにしまった“添付しない封筒”が、鍵の奥で待っていた。ターニャは鍵に手を置き、数秒止まる。開ける必要はない。今はまだ。だが、存在を確かめる必要はある。存在を確かめなければ、存在しないのと同じになる。

 

 彼女は鍵を回し、引き出しを少しだけ開け、封筒の角を確認した。そこにある。それだけでいい。

 

 そのとき、通信局の入口が慌ただしく開き、伝令が駆け込んできた。息が上がっている。顔が青い。紙を握りしめている。

 

「視察官! RSHA本部から、緊急の通達です!」

 

 ターニャは引き出しを閉め、鍵を掛け直した。動きは速いが、乱れない。乱れれば相手に主導権を渡す。

 

「読み上げなさい」

 

 伝令は喉を鳴らし、紙を広げた。封蝋の色はVII局のものだった。嫌な予感が、背中に薄く張り付く。

 

「発信、RSHA第VII局。件名——」

 

 ターニャは、紙の上の件名だけを先に目で追った。そこで、文字が一つだけ異様に冷たく見えた。

 

 不存在。

 

 伝令の声が続く前に、ターニャは一度だけ息を吸った。ここから先は、制度の言葉が現実を上書きする時間になる。

 

 彼女は静かに言った。

 

「……セレブリャコーフ。扉を閉めて。外の音を遮ってください」

 

「はい、大尉。了解しました」

 

 少尉が扉を閉め、鍵を掛ける。室内の空気が、密閉される。

 

 ターニャは伝令に視線を戻した。

 

「続けなさい」

 

 伝令が、震える声で読み上げようとする。

 

 

 

 

 伝令の声は、最初から最後まで途切れなかった。読み上げられた文面は短い。だが、短いほど命令は鋭い。

 

「通達。プシェミシル作戦記録不存在。第七局の保管簿に該当案件は存在せず、当該作戦に関する報告の受理は行わない。現地で作成された関連書類の回付、言及、複写を禁ずる。以後、本件に関する照会があっても、記録不存在として処理せよ。以上」

 

 紙が震えているのは伝令の手だけではない。通信局の空気も、わずかに揺れた。書類が存在しないという宣言は、書類より強い。制度の言葉は、紙を殺す。

 

 ターニャは伝令から通達書を受け取り、静かに紙の角を揃えた。封蝋の刻印を見て、発信部署を改めて確認する。第七局。分析と文書の局。

 

 つまり、記録を管理する側が、記録を否定している。

 

 セレブリャコーフが扉の前に立ったまま、視線だけで確認してくる。どうするのか、と。

 

 ターニャは顔を上げずに言った。

 

「伝令。読み上げは終わりですね。受領の印を押して、帰って結構です」

 

「はい、承知しました」

 

 伝令はほっとしたように一礼し、受領の控えを差し出した。ターニャは迷いなく署名し、印を押した。受領だけは否定できない。受領しなければ、命令違反になる。

 

 伝令が去り、扉の鍵が再び静かになる。

 

 ターニャは通達書を机に置いた。上から別の紙を重ねない。見えないふりもしない。否定の言葉を否定すれば、事故になる。

 

 セレブリャコーフが一歩近づいた。

 

「……第七局が、存在しないと宣言しました。復帰報告も、受理されない可能性があります」

 

「可能性ではありません。受理されません。受理しない、と書いてあります」

 

「では、報告はどう扱われますか」

 

「扱われません。存在しない作戦の報告は、制度の中では処理不能です。処理不能は、消されます」

 

 ターニャは淡々と答えた。声の調子はいつも通りだ。だが、机の端に置いた指先だけが、ほんの少しだけ力を入れていた。

 

 セレブリャコーフは言葉を選ぶ。

 

「……関連書類の回付、言及、複写を禁ずる、とあります。こちらが作成した写しも——」

 

「残せません。残せば違反です」

 

 ターニャは言い切ってから、少しだけ間を置いた。

 

 違反だ。だが、違反かどうかを決めるのも制度だ。制度が記録を消すなら、残す側は制度の外へ逃がすしかない。逃がせば、その記録はもはや公文書ではない。ただの紙だ。だが紙でも、読めるなら意味は残る。

 

 ターニャは引き出しの鍵を取り、机の下の小さな金庫を開けた。中には、封筒が一つ。前半でしまった、添付しない封筒だ。

 

 彼女はそれを机の上に出し、封を切らずに置いた。

 

「少尉。ここにある資料は、公式には存在しません。今この瞬間から、存在しないものとして扱います」

 

「はい」

 

「ですが、私の手元では存在します。矛盾に見えますが、これが現実です。制度は矛盾を嫌います。だから矛盾を見つけた者から消しに来ます」

 

 セレブリャコーフの喉が鳴る。

 

「……保管は、危険では」

 

「危険です。だから鍵を二つにします」

 

 ターニャは封筒を金庫に戻し、鍵を掛けた。鍵を一本、セレブリャコーフに渡す。

 

「これは予備です。私が不在のときに、金庫が開いていたら、すぐに閉めてください。中身は見なくていい。見れば、あなたの責任が増えます」

 

「了解しました。ですが、私が鍵を持つと、私にも責任が——」

 

「責任は既にあります。同行した時点で逃げられません。なら、責任を管理します。持たされる責任ではなく、選ぶ責任に変える」

 

 セレブリャコーフは一瞬だけ表情を固くしたが、すぐに敬礼する。

 

「はい。大尉、了解しました」

 

 ターニャはその呼び方に反応しない。階級で呼ぶのは正しい。だが、その正しさが今日だけは冷たく感じた。制度が正しさを盾に記録を殺したからだ。

 

 ターニャは通達書をもう一度読んだ。禁ずる、禁ずる、禁ずる。短い命令が、行間を埋める。埋めることで、空白を作る。残すな、と言いながら、制度は空白を作っている。

 

 ターニャは記録処理班の班長を呼んだ。班長が入室し、姿勢を正す。

 

「視察官殿、何かございましたでしょうか」

 

 ターニャは通達書を見せ、要点だけを告げる。

 

「第七局から、本件は記録不存在として処理せよ、との通達です。ここから先の扱いを決めます」

 

 班長の顔色が変わる。記録処理班にとって「不存在」は最悪だ。仕事が消える。責任だけが残る。

 

「……では、現地で作成した整理票、注釈票、照合票は——」

 

「廃棄です」

 

 班長が息を止める。

 

「すべて、ですか」

 

「すべてです。ですが、廃棄した事実は記録します」

 

 班長が混乱した顔をする。ターニャは落ち着いて説明する。難しい言葉は使わない。手順だけを並べる。

 

「廃棄対象一覧を作り、枚数を数え、焼却に回す。焼却証明は作らない。代わりに、処理日と担当者名だけを残す。内容には触れない。存在しないものの内容を、存在する記録に書かないためです」

 

「……了解しました。処理日と担当者名のみ」

 

「それから、今日からこの通信局内で、プシェミシル作戦という言葉を使わない。呼ぶ必要があるときは『現地案件』で統一します。言葉が残ると、誰かが拾います」

 

 班長は深く頷いた。

 

「承知しました。現地案件として扱い、内容に触れない形で処理します」

 

 班長が去ると、部屋の中が少しだけ静かになった。静かになったのに、安心はない。静かさは命令ではない。静かさは隙だ。隙は誰かの観測点になる。

 

 ターニャは机の端に通達書を置いたまま、便箋を一枚取り出した。返信を書く。返信は必要だ。無視すれば、存在しない作戦を存在させたとして疑われる。疑われれば終わりだ。

 

 彼女は短く書いた。受領した。指示通り処理する。現地案件として処理した。照会があれば記録不存在として応答する。以上。

 

 セレブリャコーフが横で封筒を用意しながら言う。

 

「第七局宛てでよろしいですね」

 

「はい。回付経路は総合受理。個人宛てにはしない」

 

「了解しました」

 

 ターニャは書き終えた便箋を折り、封筒に入れる。封蝋を押す。今日二度目の封印だ。封印が増えるほど、真実は遠くなる。

 

 それでも封をする。封をしなければ、制度の中では存在できない。

 

 机の上には、通達書と返信封筒だけが残った。観測資料は金庫の中だ。存在しないものとして。

 

 ターニャは椅子に座り直し、しばらく何も言わなかった。考えているのは単純なことだ。

 

 誰が、記録を残しているのか。

 

 今回、現地では多くの紙が作られた。供述整理、注釈票、照合票、掲示の写し、住民の動きの一覧。それらは運用のためだった。運用には紙が要る。紙がないと、判断ができない。

 

 だが、制度は紙を残さないことを選んだ。

 

 つまり、制度にとっての運用は、現地ではない。机の上だ。机の上で処理できないものは、存在してはいけない。

 

 セレブリャコーフが低い声で言う。

 

「……大尉。これで、現地の件は終わりになるのでしょうか」

 

 ターニャは即答しなかった。終わり、という言葉は便利だ。だが便利な言葉ほど嘘を混ぜる。

 

 彼女は視線を上げ、短く返した。

 

「終わりにされます」

 

「される、というのは」

 

「私たちが終わらせるのではありません。第七局が終わらせたことにする。終わらせたことにすれば、照会が止まります。止まれば、責任が散ります」

 

「……では、観測点のEVAは」

 

「観測は続きます。命令がなくても、観測は止まりません。むしろ命令が消えたほうが、観測者は動きやすい」

 

 セレブリャコーフの眉がわずかに動く。理解はしているが、納得は難しい顔だ。

 

「大尉は、補佐官を信じているのですか」

 

「信じていません。ですが、利用価値は理解しています」

 

 ターニャは言い切ってから、自分の言葉の硬さに気づく。硬い言葉は、守るために出る。守るべきものがあるとき、人は言葉を硬くする。

 

 彼女は少しだけ語尾を落とした。

 

「……それに、観測者がいるという事実自体が、今は必要です。制度は目を閉じたがります。目を閉じたまま運用すると事故が起きます」

 

「事故、ですか」

 

「はい。命令が遅れ、記録が消える。その状態で現場が動けば、誰も責任を取れません。責任を取れない組織は暴走します」

 

 セレブリャコーフは静かに頷いた。

 

「了解しました。では、こちらは命令通り、現地案件として処理し……金庫は維持する、と」

 

「そうです」

 

 ターニャは机の通達書を手に取り、折り目をつけずに封筒へ入れた。これは公式だ。公式の紙は公式の流れに乗せる。そうしないと、公式の刃がこちらへ向く。

 

 準備は整った。あとは帰投だ。

 

 翌朝、ターニャとセレブリャコーフは車両に乗り、ベルリンへ向かう便に合流した。車内は静かだ。軍人が多い。余計な話をしない空気がある。だが沈黙は落ち着きではなく、保身の形にもなる。

 

 車窓の外で、境界の街が遠ざかる。広場に集まっていた住民は、もう見えない。だが、見えなくなったからといって、消えたわけではない。記録が不存在でも、人はそこにいる。

 

 ターニャは膝の上の鞄に手を置いた。金庫の鍵は別にある。だが鍵の重さは指先に残る。存在しない記録を持つというのは、存在しない罪を持つのと似ている。似ているからこそ危険だ。

 

 セレブリャコーフが、声を抑えて尋ねる。

 

「……大尉。第七局が記録不存在とした理由は、何だとお考えですか」

 

 ターニャは窓から視線を外さずに答える。

 

「理由はいくつも作れます。だから、理由を当てることに意味はありません。意味があるのは、誰が得をしたかです」

 

「誰が得を」

 

「責任を消した者です。責任を消した者は、次の命令を出せます」

 

 セレブリャコーフは一瞬、息を止めた。命令を出せる者は強い。命令を消せる者は、もっと強い。

 

 ターニャは続ける。

 

「今回の件は、命令が希釈され、誤りが混じり、署名と局印がずれました。そこへ観測者が外で動いた。つまり、制度の中と外が分離した。分離した状態は、上から見ると不都合です。不都合は消されます」

 

「消される前に、残せたものは」

 

「紙としては残せます。ですが、制度の中では残りません。だから私は、添付しなかった」

 

 セレブリャコーフは、小さく頷く。

 

「……理解しました」

 

 しばらく沈黙が続いた。車両の揺れと、車輪の音だけがある。

 

 ターニャは、その沈黙に慣れているはずだった。沈黙は彼女にとって、情報の欠落ではなく、余計な情報が入らない状態でもある。

 

 だが今回は違う。

 

 沈黙が増えるほど、制度の中が見えなくなる。見えないものは、危険だ。見えないものが動いているなら、なお危険だ。

 

 ターニャは、自分の中に小さな感覚が芽生えているのを認めた。恐れだ。感情の恐れではない。運用者としての恐れだ。書かれないものに、名前が付けられない。名前が付けられないものは、処理できない。処理できないものは、いつかこちらを処理する。

 

 ベルリンに到着し、RSHA本部の黒い影が視界に入るころ、ターニャはセレブリャコーフにだけ短く言った。

 

「少尉。今日から、プシェミシルという地名は、私の前では使わなくていい。必要なら、私が言います」

 

「はい。了解しました」

 

「それと、鍵は持っておけ。忘れるな」

 

「はい、大尉。確実に携行します」

 

 建物の前で一度立ち止まり、ターニャは正面を見た。ここは制度の中心だ。中心は安全ではない。中心ほど、記録の刃が多い。

 

 彼女は歩き出す。制服の布が擦れる音が、小さく耳に残る。

 

 復帰報告は、受理されないかもしれない。受理されても、どこかで消えるかもしれない。だが、受理された事実だけは残る。残るなら、そこから逆算できる。

 

 誰が記録を残すのか。

 

 制度が残すのではない。机が残すのでもない。局が残すのでもない。

 

 残すのは、残すと決めた者だけだ。

 

 ターニャは、自分がその側に立ってしまったことを理解していた。望んでではない。運用の結果だ。だが結果は、意志より重い。

 

 RSHA本部の廊下を歩きながら、彼女は最後に一つだけ確認する。

 

 沈黙は、終わりではない。

 沈黙は、観測の継続だ。

 

 そして制度は、観測に勝てない。

 

 だからこそ、彼女は今日も紙を整え、封をし、必要なものだけを残す。残すという行為そのものが、誰かの刃を引き寄せるとしても。

 

 通達は「不存在」と言った。

 

 だが、存在しないものが動いた事実は、消せない。

 

 誰にも語られず、どこにも書かれず、ただ観測されるままに。

 それが終わりの形になってしまうのなら、実行者はせめて、次の観測点を探すしかなかった。

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

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