幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第3節 参謀本部の胃痛

 

 

 RSHA本部で整えた「名簿の責任」は、紙の上では綺麗に見えた。紙の上では、だ。紙は輸送しない。紙は車両を占有しない。紙は燃料を食わない。紙は凍らない。紙は沈まない。紙は、参謀本部の胃を痛めない。

 

 北方方面の準備は、兵站に刺さる。移送の名目が何であれ、人が動けば列車枠が要る。治安整理で道路が閉まれば、輸送時間が伸びる。港を使えば海軍の顔色が変わる。空輸などという言葉は、参謀の前では冗談にもならない。

 

 ターニャは、会議の招集文面を見てから、同じ行を二度読んだ。国防軍参謀本部。輸送計画部門。出席者に、名がある。

 

 エーリッヒ・フォン・レルゲン。

 

 階級は中佐。肩書きは参謀本部の実務側に寄っていた。飾りではない。現場の数字を握っている側だ。

 

 (胃が痛い男だ。こういう男が数字を握ると、政治が進みにくくなる。だが、進みにくいのは悪くない。雑な政治は事故を起こす)

 

 会議室は、国防軍の建物らしく整っていた。無駄に豪奢ではない。机は広い。椅子は硬い。壁には地図が掛かり、余計な装飾はない。空気も乾いていた。咳を一つすると、責任まで響きそうな部屋だった。

 

 ターニャは黒服の上着を整え、入室した。護衛の黒服は象徴に過ぎないが、象徴は相手の呼吸を乱す。乱れた呼吸は、余計な言葉を生む。余計な言葉は、議事録に残る。

 

 入口近くで、視線が一瞬止まった。国防軍の士官が、無意識にターニャの服を見た。次に護衛を見た。その後、表情を引き締めた。嫌悪を隠すときの顔だった。

 

 席に着くと、紙が配られた。輸送枠、港湾使用、道路封鎖予定、燃料配分。どれも数字が細かい。数字が細かい場所は、権限が強い。

 

 最後に入ってきた男が、空気の中心を持っていった。背は高くない。姿勢が良い。目が疲れている。疲れている目は、徹夜の目だ。徹夜の目は、現場の目だ。

 

 レルゲン中佐は、名札を確かめるように一度だけターニャを見た。敬語は出さなかった。形だけの挨拶も短い。

 

「親衛隊の視察官が参謀本部に来る理由は、輸送枠の奪い合いか」

 

 会議室の端で、誰かが小さく息を呑んだ。参謀本部で奪い合いという言葉を口にするのは礼儀違反だ。だが、礼儀違反を言える人間は強い。

 

 ターニャは表情を動かさず、資料を机上に揃えた。公的な場では、口調を整える。整えるのは礼儀ではない。刃の角度だ。

 

「奪い合いではありません。輸送計画と治安運用の衝突を、文書で調整しに来ました」

 

 レルゲンは眉をわずかに上げた。皮肉が出る前の反応だった。

 

「文書で、か。輸送は紙では動かない」

 

「承知しています。だからこそ、紙で責任を固定します。現場の裁量が過剰に膨らむのを防ぎます」

 

 レルゲンは椅子に座らず、机の端に立ったまま資料を見た。座らないのは、長居する気がないからだ。長居したくない会議ほど、決裂が早い。

 

「SSの“保護”は、輸送計画を壊す。壊した責任は誰が取る」

 

 言い方が乱暴だった。だが、乱暴な言葉ほど本音が出る。本音は扱いやすい。建前は長引く。

 

 ターニャは一拍置いた。相手の言葉を否定してから始めると、会議が伸びる。伸びる会議は、誰も得をしない。得をするのは、責任から逃げる者だけだ。

 

「輸送が破綻した場合の責任者を、文書で確定します。あなたの要求は理解しました」

 

 レルゲンは「理解した」という言葉に反応した。理解という言葉は、時に相手を怒らせる。理解したと宣言されると、相手は話す余地を奪われた気になる。

 

「理解した? なら答えろ。誰が署名する。親衛隊全国指導者か。国家保安本部か。お前か」

 

 最後の「お前」が強かった。敬意がないというより、距離を取っていた。SSと距離を取るのは、国防軍では自己防衛になる。

 

 ターニャは顔色を変えず、資料の該当箇所を示した。紙で返す。紙で返せば、話が短くなる。

 

「運用基準の責任者は現場の実施部隊です。照合基準の責任者はRSHAです。提出基準の責任者は提出機関です。輸送枠の調整責任は参謀本部です。ただし、衝突時の裁定権限は会議体で固定します。裁定の署名欄を作り、署名者を限定します」

 

 レルゲンは資料を睨んだ。睨むのは、相手の言葉ではなく、相手の設計を見ている時だ。設計を見る人間は面倒だが、話が通じる。

 

「会議体だと? 責任が散る」

 

「散りません。署名欄を分けます。誰が何に署名したかを分離します。分離すれば、逃げ道が塞がります」

 

 レルゲンは短く息を吐いた。ため息を吐けるのは、相手の言い分を理解した時だ。納得したとは限らない。

 

「親衛隊は、いつも紙の話だな」

 

「紙は嘘をつけます。ただし、嘘をついた者の名前が残ります」

 

 ターニャの声は平らだった。平らな声は、感情を混ぜない。感情を混ぜると、相手が言葉尻に逃げる。

 

 会議室の参謀たちが視線を交わした。誰も口を挟まない。挟めないのだ。輸送は現実で、治安は政治だ。現実と政治の間で喧嘩を始めると、最後に責任だけが落ちてくる。

 

 レルゲンは机に手をつき、輸送枠の一覧を指で叩いた。

 

「北方方面の枠は、既に詰まっている。海軍の都合もある。燃料も余っていない。そこへ“行政整理”で人を動かすなら、枠を出す代わりに条件が要る」

 

 ターニャは頷いた。条件が出るのは健全だ。条件がない協力は、後で裏切りに変わる。

 

「条件を提示してください」

 

「治安コストを最小化しろ。道路封鎖は最小。検問は必要な地点だけ。現場が勝手に車列を止めるのは禁止だ。止めた車列が一つ遅れれば、全体がずれる」

 

 レルゲンは言葉を切った。説明が具体的だ。具体的な要求は落とし込みやすい。

 

 ターニャは資料にペンを走らせた。書くのは、相手に見せるためではない。自分の判断を固定するためだ。固定しない判断は、後で揺れる。

 

「了解しました。治安運用の禁止事項と例外要件を明文化します。封鎖の定義を固定し、現場が拡大解釈できない形にします」

 

 レルゲンは「明文化」という言葉にだけ小さく反応した。参謀は明文化が好きではない。明文化は責任を運ぶからだ。だが、責任を運ぶからこそ意味がある。

 

「現場が拡大解釈しない? 親衛隊の現場が?」

 

 皮肉が混じった。だが、皮肉が混じるのは議論が進んだ証拠だ。最初から拒絶するなら皮肉すら出ない。出るのは扉の音だけだ。

 

 ターニャは視線を外さず答えた。

 

「現場の暴走は、制度の設計ミスです。設計ミスを放置する気はありません」

 

 レルゲンは少しだけ口角を歪めた。笑いではない。苦味だ。

 

「お前は、親衛隊の中でも変な奴だな」

 

 ターニャは反応しなかった。変だと言われるのは悪くない。変だと思われるなら、相手は慎重になる。慎重な相手は計算できる。

 

 (いい。嫌われるのは想定内だ。嫌われた方が、相手は雑に動かない。雑に動かないなら、こちらの設計が通る)

 

 セレブリャコーフが控えの席で資料を揃えていた。彼女は一言も挟まない。必要な時だけ動く。その姿勢は、この場で唯一の礼儀だった。

 

 ターニャは一枚、追加の文書を出した。輸送計画と治安運用の衝突時の手順だ。裁定者の署名欄がある。署名欄は多くない。多い署名欄は責任を薄める。薄まった責任は現場の血で濃くなる。

 

「衝突時の裁定手順です。裁定者を二名に限定します。参謀本部から一名、RSHAから一名。双方の署名がない裁定は無効とします」

 

 レルゲンは紙を受け取らず、目だけで読んだ。受け取らないのは警戒だ。受け取った瞬間に、持った者の責任になる。

 

「参謀本部側の裁定者は誰だ」

 

「あなたが指定してください」

 

「私か」

 

「あなたが最も適任です。輸送の実務と責任を握っています」

 

 レルゲンは鼻で笑った。

 

「お前は平然と爆弾を置く」

 

「爆弾ではありません。手順です。手順がなければ、現場が爆発します」

 

 会議室の空気が少しだけ緩んだ。笑いではない。緩みだ。緩みが出ると、話が前に進む。

 

 レルゲンはようやく椅子に座った。座ったという事実だけで、決裂の可能性が下がった。座って話す男は、切るより先に使い道を考える。

 

 ターニャは、その変化を見逃さなかった。

 

 (座った。つまり、検討する。検討する相手は価値がある。怒鳴って出ていく相手より、ずっと扱いやすい)

 

 机上の時計が進む。会議はまだ続く。だが、続く方向が決まった会議は、作業になる。作業なら勝てる。勝てる作業は、少しだけ楽しい。

 

 ターニャは、その楽しさを一瞬だけ認めてから、すぐに捨てた。楽しさに浸ると、判断が鈍る。判断が鈍れば、紙が汚れる。

 

 レルゲンは視線を上げ、低い声で言った。

 

「条件はもう一つだ。輸送枠を出す代わりに、治安側の名目を固定しろ。“保護”だの“整理”だの、便利な言葉を現場に渡すな。現場が暴れれば、輸送が止まる。止まれば前線が死ぬ」

 

 ターニャは頷いた。

 

「名目を三類型に限定します。用途を固定し、例外要件を明文化します。現場が勝手に増やす余地は残しません」

 

 レルゲンは短く頷いた。まだ信用していない。だが、条件は成立した。

 

 会議室の参謀たちが、ようやくペンを動かし始めた。議事録係が紙を取り替える。紙が増える。増えた紙が、列車の枠より先に現実を動かす。

 

 ターニャは資料の端に小さく印を付けた。次に詰めるべき点が見えた。輸送枠の出し方ではない。輸送枠を出した後、誰が事故を起こすかだ。

 

 事故は、いつも善意の顔をしている。善意は最も危険だ。善意は文書の外で動くからだ。

 

 ターニャは口を開いた。

 

「中佐。輸送枠の供出条件を、文書で確定したい。議事録では足りません。別紙で作ります」

 

 レルゲンは眉を寄せたが、拒絶はしなかった。

 

「好きにしろ。ただし、余計な理屈は要らない。数字と期限と責任者だけ書け」

 

 ターニャは頷いた。余計な理屈は、政治家が好きだ。参謀は数字が好きだ。好きなものを出せば、相手は動く。

 

 ターニャはセレブリャコーフへ視線を投げた。短い合図だった。

 

 セレブリャコーフは静かに立ち、必要な用紙を取り出した。彼女の動きに迷いはない。迷いがない人間は強い。強い部下は、上司の胃を助ける。

 

 会議の空気が、少しずつ作業に変わっていった。だが、作業に変わるほど、レルゲンの目は冷たくなった。冷たさは警戒だ。警戒は、相手がこちらを危険物として扱い始めた合図だった。

 

 

 

 

 会議は合意に向けて進んでいるようで、実際には「誰が責任を背負うか」の押し付け合いだった。参謀本部の空気は、戦場の土より乾いていた。数字と期限だけが呼吸を許される。煙草の匂いが残る机の上に、輸送枠の表と治安報告の束が並び、紙の端が揃いすぎていた。

 

 レルゲン中佐は、椅子の背に深くもたれない。目の前の資料を見ているふりで、ずっとターニャを見ていた。視線の切り替えが早い。相手を「人」ではなく「危険物」として扱う種類の目だった。

 

 セレブリャコーフは端でメモを取り続けた。言葉を拾い、署名欄の位置を確認し、必要なときだけ小さく紙を差し出す。彼女の指先は震えていない。緊張していないのではなく、軍務として処理しているだけだった。

 

「条件を追加する」

 

 レルゲンが言った。声の高さは変えない。だが、言葉だけが少し硬くなる。

 

「治安整理の範囲を文書で限定しろ。現場が勝手に拡大できる書き方は却下だ」

 

 ターニャは即答しなかった。沈黙を作って相手の語尾を落ち着かせる。焦りを見せれば、相手の条件が増える。

 

「承知しました。治安整理の運用を三類型に限定し、適用条件を明文化します」

 

 言葉は丁寧だったが、甘さはない。要求を飲むのではなく、飲んだ形にして拘束する言い方だった。

 

「三類型?」

 

「輸送計画に影響が出ない形にします。第一は住民登録の整理。第二は労務動員の名目による移送。第三は治安上の隔離ですが、第三は適用条件を厳しく固定します」

 

 レルゲンはそこで口角を動かした。笑いではない。警戒の確認だった。

 

「隔離を入れるのか。親衛隊が好きな言葉だ」

 

 ターニャは目を逸らさない。言い返すより、文書で刺す方が早い。

 

「好みではありません。運用上、例外を想定しないと現場が破綻します。ただし、例外は増やしません。条件を狭くします」

 

 セレブリャコーフが紙を一枚差し込んだ。輸送枠の表に添える別紙の雛形だった。署名欄が三つある。参謀本部、治安担当、そしてRSHA。

 

 レルゲンはそれを見て、短く鼻で息を吐いた。

 

「サインが多いな」

 

「多い方が逃げにくいからです」

 

 ターニャは淡々と言った。自分の言葉が少し鋭くなっているのを自覚したが、止めなかった。ここは内部の実務ではない。国防軍の参謀本部相手だ。公式口調のまま、刃だけを研ぐ。

 

「参謀本部は輸送枠を出す。ただし、途中で列車が止まったら責任を取らせる。誰の責任だ」

 

「原因ごとに分けます。輸送側の遅延は参謀本部。治安上の停止命令はRSHA。現地行政の不手際は占領地行政官。党組織の横槍は党地区指導部。そう書きます」

 

 会議室の端にいた参謀将校が小さく眉を動かした。党の責任を文書に書くのは、面倒を増やす行為だったからだ。だが、ターニャは面倒を避けない。面倒を紙に固定することが仕事だった。

 

「党がサインすると思うか」

 

「拒否するなら、拒否した事実を記録します。記録があれば運用を止める根拠になります」

 

 レルゲンが頷いた。ほんの少しだけだ。理解ではなく、評価に近い。

 

「お前は……危険だな」

 

 言い方は雑だった。敬語はない。敵意が混じっているが、感情的ではない。評価としての危険だった。

 

 ターニャは笑わなかった。笑えば、相手の判断が揺れる。揺れると、計算が崩れる。

 

「危険でなければ、調整はできません」

 

 一瞬、会議室の空気が止まった。参謀本部の人間は、危険物を嫌う。だが、危険物が必要な場面があることも知っている。

 

 レルゲンは指を一本立てた。

 

「だから監視する。参謀本部は、RSHAの治安整理に監視官を付ける。輸送の現場に、こっちの将校を置く」

 

 露骨だった。だが、ターニャは拒否しない。監視は相互にするものだ。監視されるなら、監視する権利も同時に取りにいく。

 

「了解しました。監視官の権限範囲を文書で限定してください。輸送の判断に介入するのか、治安の判断に介入するのか、どちらかに固定します」

 

「口が減らないな」

 

「減らすと事故が増えます」

 

 ターニャは視線を資料へ戻した。列車の本数、補給の優先順位、車両の割り当て。紙の上では整っている。現場では崩れる。崩れたときに責任が浮くように、先に楔を打つ。

 

 セレブリャコーフが小声で確認する。

 

「監視官の氏名は、その場で確定しますか」

 

「今は枠だけ作れ。氏名は後で入れ替えが起きる」

 

「了解しました」

 

 レルゲンがそれを聞いて、短く笑った。今度は、少しだけ人間の笑いに近い。

 

「入れ替えが起きる、か。親衛隊の仕事は、いつもそうだな」

 

 ターニャは返事をしない。余計な会話は契約を曖昧にする。

 

 会議の終盤、参謀本部側が最後の条件を投げた。治安コストの最小化。輸送枠を出す以上、駅や道路の封鎖で列車が止まるのは許容しないという要求だった。

 

「現地で騒ぎを起こすな。撃つな。火をつけるな。輸送が止まる」

 

 レルゲンが言った。命令ではないが、圧力だった。

 

 ターニャはゆっくり頷いた。

 

「武力行使の条件を固定します。必要最小限に限定し、報告経路を一本化します。現場が勝手に判断できない形に落とします」

 

「できるのか」

 

「やります。できないなら、作戦を止める理由が増えます。参謀本部はそれを望みませんね」

 

 レルゲンが黙った。望まない。だから合意する。合意したなら、紙で縛る。

 

 議事録の最終頁が回ってくる。署名欄が並ぶ。参謀本部の印、RSHAの印、そして「関係各位」の空白。空白が多いほど、後で揉める。揉めるなら、揉める材料を先に固定する。

 

 レルゲンは署名の前に、吐き捨てるように言った。

 

「親衛隊が人を資源と呼ぶのは嫌いだ」

 

 参謀本部の将校たちが黙る。嫌悪は共有されているが、口に出すと政治になる。政治になると、参謀本部は巻き込まれる。

 

 ターニャは一拍置いた。感情を挟む余地を消してから、公式の言葉だけを出す。

 

「資源ではありません。行政対象です」

 

 言い方は丁寧だった。内容は冷たい。レルゲンはそれで十分だと理解した顔をした。倫理の議論はしない。制度の枠だけ作る。そういう相手だと確定した。

 

 (賢い。賢い敵は価値がある。愚かは事故を呼ぶが、賢さは予測できる。……そして、紙の上で殴り合える相手は、戦場より安全だ。存在Xだけが、その安全を平然と汚す)

 

 内心で小さく喜びが跳ねたが、ターニャはすぐに押し潰した。楽しいと思った時点で、油断の芽になる。油断は死ぬ。死ねば、働けない。

 

 会議が終わり、廊下に出た瞬間、参謀本部の空気が少し変わった。冷たさが減るのではない。背中に刺さる視線の種類が変わる。今までは拒絶だった。これからは監視だ。

 

 セレブリャコーフが歩調を合わせる。

 

「輸送枠は確保できました。ですが、監視官の配置は、こちらの動きが読まれやすくなります」

 

「読まれていい。読む側が賢いなら、こちらも賢く動ける」

 

「はい」

 

 ターニャは立ち止まらずに言葉を続けた。

 

「少尉。治安整理の三類型を文書に落とせ。例外は増やすな。署名欄は逃げ道を消す配置にしろ」

 

「了解しました」

 

「それと、党地区指導部の責任欄を必ず作れ。拒否された場合の記録方法も添えろ」

 

「了解しました。拒否の記録は、受領印と日付、担当者名まで固定します」

 

「よし」

 

 短く肯定すると、セレブリャコーフの目がわずかに柔らかくなった。褒められたと思ったのではない。仕事の手応えが確認できた顔だった。

 

 廊下の角を曲がる手前で、ターニャは背後の気配に気づいた。参謀本部の将校が一人、距離を置いて付いてくる。露骨ではない。だが隠しもしない。監視官の候補だろう。

 

 ターニャは歩調を変えない。監視されるなら、監視に慣れた顔で歩く。慣れた者が強い。

 

 コーヒーの匂いが遠くから流れてきた。参謀本部の給湯室の前を通る。湯気の気配だけで、頭の中の計算が少し整う。未成年の身体は、こういう小さな報酬で働かせるしかない。

 

 ターニャはちらりと横目で給湯室を見た。取る時間はない。だが、取る理由は作れる。制度は理由で動く。

 

「少尉。戻ったら、書類を起案してからコーヒーを淹れろ。今のうちに飲む分を確保する」

 

「了解しました。濃さはいつも通りでよろしいですか」

 

「余計な気遣いは要らない。いつも通りでいい」

 

 言い方は冷たい。だが、セレブリャコーフは小さく頷いた。いつも通りが一番安全だと理解している。

 

 そのまま二人は歩き続けた。参謀本部の廊下は長い。長い廊下は、逃げ道が少ない。逃げ道が少ない場所ほど、紙の上で決めた線が効く。

 

 ターニャは自分の手元の書類束を確かめた。署名が揃えば、輸送枠は動く。動けば、北方の名簿も動く。動けば、人も動く。人が動けば、必ず誰かが「偶然」を持ち込む。

 

 ターニャは眉を動かさないまま、次の作業を頭の中で並べた。監視官の権限固定、党の拒否記録、治安整理の三類型、そして欠番の扱い。

 

 欠番は嫌いだった。空白は想像を呼ぶ。想像は勝手に増殖する。増殖したものは、制度で潰すのに手間がかかる。

 

 手間がかかる仕事は嫌いではない。むしろ、手間がかかるほど自分の価値は上がる。

 

 ただし、存在Xが絡む仕事だけは別だった。あれは手間ではない。汚れだ。拭いても、また付く。しかも、偶然の顔をして。

 

 ターニャは歩きながら、心の中で一度だけ吐き捨てた。

 

 (また来るな。来るなら、来た瞬間に潰す。紙で。制度で。例外を増やさず、逃げ道を塞いで)

 

 

 

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