幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第4節 ドクトルの提案

 

 

 

 国家保安本部の会議室は、戦場より静かだった。静かだから安全という話ではない。静かだから、責任の刃がよく通る。

 

 机の上には、北方の住民名簿に関する束が積まれていた。紙の角が揃い、付箋の色が揃い、押印欄の位置まで揃っている。揃っているものほど、誰かが意図的に揃えたものだ。

 

 ターニャは席に着く前に、部屋を一度だけ見回した。壁際に座る参謀本部の連絡将校。党務の代表として顔だけ出している地区指導部の書記。警察側の実務者。そして、親衛隊側の席に、場違いなほど明るい男がいた。

 

 白衣ではない。軍服でもない。だが、雰囲気だけが浮いていた。視線が人ではなく、机上の紙束を遊び道具のように追っている。

 

 アーデルハイト・フォン・シューゲル博士。呼ばれ方は「ドクトル」で統一されるが、その肩書きの曖昧さが、すでに政治の匂いだった。

 

 ターニャが椅子に座ると、部屋の空気が一段だけ硬くなった。彼女の年齢に似つかわしくない沈黙が落ちる。沈黙は、場の主導権を示すには十分だった。

 

「本日の議題は、北方住民に関する行政整理と、それに伴う輸送・治安の調整だ」

 

 ターニャの声は落ち着いていた。公式の口調を崩さない。会議室では、感情を出すより、議事録に残る言葉を出した方が勝つ。

 

「会議の目的は二つ。第一に、名簿の収集経路を固定する。第二に、移送に関する責任者を文書で確定する」

 

 誰も反論しない。反論は、責任を背負う覚悟がある者しかできない。

 

 ドクトルだけが、楽しそうに指を鳴らした。

 

「素晴らしい。話が早い。行政整理が進めば、研究も進む」

 

 場の空気がわずかに動いた。研究。兵器。予算を引き寄せる言葉が、会議室の隅に落ちるだけで、人は勝手に反応する。

 

 参謀本部の連絡将校が眉をひそめ、警察側の実務者が視線を伏せた。党の書記は、話の意味が分からないまま、分かったふりだけをした。

 

 ターニャは、ドクトルを見たまま言った。

 

「研究の話は議題にない。だが、あなたがここにいる以上、何かが議題に入った」

 

 ドクトルは笑った。悪意のない笑いではない。相手が嫌がることを分かっていて、なお踏み込む笑いだった。

 

「議題に入れるべきなんだよ。北方の資源、重水、研究体制。全部が一本の線でつながっている。君らが名簿を集め、移送を整えれば、必要な人材も設備も——」

 

 言葉が速い。息継ぎがない。わざとだ。反論の隙を与えない話し方は、演説家よりも危険だった。

 

 ターニャは、そこで手を挙げた。動作は小さい。だが、会議室全体がその手に従った。

 

「要するに、何が必要で、どこが詰まっていて、誰の決裁が要る」

 

 ドクトルの言葉が止まった。止まったが、表情は崩れない。むしろ嬉しそうだった。

 

「話が早いね」

 

 ドクトルは椅子の背に軽くもたれた。まるで講義の続きでも始めるように、指を一本立てた。

 

「必要なのは三つ。第一に、重水の確保。第二に、研究者の動員。第三に、資材の優先順位。詰まっているのは、全部だ」

 

 参謀本部の連絡将校が口を挟みかけたが、ターニャが先に言った。

 

「分かりやすく言い直せ。重水とは何だ。研究者とは誰だ。資材とは何だ。ここにいる者の半分は、今の言葉を理解していない」

 

 ドクトルは肩をすくめた。

 

「君は親切だな」

 

「親切ではない。誤解が増えると、運用が崩れる」

 

 ターニャは淡々と続けた。

 

「誤解は事故になる。事故は遅延になる。遅延は責任者を呼ぶ。私は責任者を増やす気はない」

 

 ドクトルは笑いを薄くした。わずかに真面目な顔になる。

 

「重水は、研究に必要な材料だ。普通の水とは違う。これがないと、進まない研究がある」

 

 党の書記が、分かったふりで頷いた。分かっていない。

 

 ターニャは視線を動かさずに、次を刺した。

 

「どこにある」

 

「北方だ。具体名は、ここでは——」

 

「ここで言え。議事録は区分できる。伏せるなら伏せる理由を文書に残せ」

 

 ドクトルが一瞬だけ口を閉じた。政治を知らない男ではない。ただ、政治を軽んじる種類の天才だった。

 

「……ノルウェーだ。工場がある。そこから確保できる」

 

 参謀本部の連絡将校が小さく舌打ちした。輸送の話に直結するからだ。

 

 ターニャは続けた。

 

「研究者とは誰だ」

 

「物理の連中だ。大学にも、研究評議会にも、軍需官庁にも散っている。優秀だが、まとまらない」

 

「まとまらない理由は何だ」

 

「縄張りだよ。予算と名誉と、指揮系統の争い」

 

 ターニャは、そこで少しだけ頷いた。理由が明確なら、制度で潰せる。

 

「資材とは何だ。言い換えろ」

 

「装置、金属、電力、輸送枠。研究室を動かすための全部だ」

 

 ターニャは指先で紙を一枚だけ動かした。議題の束の上に、別の束が重なる。予算の束だ。兵器の言葉が出ると、必ず予算の束が増える。増えるのは紙だけではない。敵も増える。

 

 セレブリャコーフが黙って、その束の端を揃えた。ターニャの指示を待っている。

 

 ターニャは、ドクトルに向けて言葉を固定した。

 

「整理する。あなたの提案は、研究を進めるために、重水の確保と研究者の統制と資材の優先順位が必要だ、という話だ」

 

「そう。完璧だ」

 

「完璧ではない。決裁が抜けている。誰が統制する。誰が責任を負う。誰が署名する」

 

 ドクトルは、そこで一拍置いた。わざとだ。期待させる間だった。

 

「統一すればいい。親衛隊がやる」

 

 会議室の空気が一段、冷たくなった。参謀本部の連絡将校が椅子の脚を鳴らし、警察側の実務者が視線を逸らした。党の書記だけが、話の重さを理解できず、曖昧に笑った。

 

 ターニャは笑わなかった。表情を変えないまま、声だけを少し低くした。

 

「親衛隊がやる、では文書にならない。親衛隊の誰だ。どの部署だ。どの権限だ」

 

 ドクトルは当然のように言う。

 

「研究者を集めて、予算を付けて、工場を動かして——」

 

「順番が違う」

 

 ターニャは遮った。遮り方は短くない。説明を含めて、相手の話の癖を折る。

 

「研究者は集められない。集める前に、研究者が従う指揮系統を定義しろ。予算は付けられない。付ける前に、責任者を確定しろ。工場は動かせない。動かす前に、輸送と治安の条件を固定しろ」

 

 ドクトルの目が少しだけ細くなった。怒りではない。評価だ。

 

「君は、科学者より官僚に向いている」

 

「私は官僚だ。役割を誤解するな」

 

 ターニャは冷たく言った。誤解を放置すると、現場が勝手に動く。勝手に動くと、誰かが後で死ぬ。死ぬ者の数は問題ではない。署名欄が増えるのが問題だ。

 

 セレブリャコーフが小声で言う。

 

「必要であれば、研究体制の図式を別紙にまとめます」

 

「まとめろ。ただし、誰が見ても分かる言葉で書け。学術用語は脚注に落とせ。本文は運用の言葉で統一しろ」

 

「了解しました」

 

 ターニャは会議室の他の者にも視線を配った。ここで科学の話を許すと、議題が溶ける。溶けた議題は、責任者が消える。消えた責任者の穴には、最後に調整官が落ちる。

 

 落ちるのは嫌いではない。だが、落ち方は選ぶ。

 

「結論を出す。研究の話は、今この場では『決裁経路の整理』として扱う」

 

 ドクトルが口を開きかけたが、ターニャは続けた。

 

「あなたの提案は、兵器の夢ではない。予算と輸送と治安を引き寄せる政治だ。政治として扱う。よって、必要なのは研究の正しさではなく、責任の所在だ」

 

 参謀本部の連絡将校が、わずかに顔を上げた。そこだけは理解できる。

 

 ドクトルは、楽しそうに頷いた。

 

「いいね。やっと同じ言語になった」

 

 ターニャは、その言い方を気に入らなかったが、否定はしない。気に入るかどうかは、制度に関係ない。

 

「次に確認する。重水の確保は、輸送枠と治安整理に刺さる。研究者の統制は、党と軍需官庁の縄張りに刺さる。資材の優先順位は、参謀本部の計画に刺さる」

 

 ここで刺さるのは、理屈ではない。利害だ。利害が刺さると、人は本気になる。

 

「よって、あなたの提案を進めるなら、反対者の署名欄を先に作る。拒否するなら拒否の記録を残す。曖昧な同意は認めない」

 

 ドクトルが軽く拍手しそうな顔をしたが、さすがにやらない。空気は読める。

 

 ターニャは、最後にもう一度、ドクトルへ確認した。

 

「あなたが欲しいのは、研究の成功か。それとも、研究の名で動く予算か」

 

 質問は短くない。だが、言葉は平易だった。誰でも理解できる形に落としている。

 

 ドクトルは一瞬だけ黙った。黙ってから、にやりとした。

 

「両方だよ。成功すれば最高だ。成功しなくても、体制は残る。体制が残れば、次の試行ができる」

 

 危険な答えだった。成功より、体制を重んじる者は、失敗を罪だと思わない。罪だと思わない失敗は、人を巻き込む。

 

 ターニャは頷いた。頷き方は、肯定ではない。確認だ。

 

 (なるほど。失敗を恐れない科学者は、戦場の砲より厄介だ。だが、制度で囲えば計算できる。計算できるなら、怖くない。怖いのは、計算を踏み潰す偶然の顔だ)

 

 ターニャは息を吐き、議事録の担当へ視線を向けた。

 

「ここまでを記録しろ。ドクトルの提案は『研究体制の決裁経路整理』として起案する。次回は、関係者の署名欄を含めた草案を出す」

 

 会議室の者たちが動き出した。紙が動く。紙が動けば、人が動く。人が動けば、現場が動く。

 

 そして現場が動けば、参謀本部が黙っていない。

 

 ターニャは、参謀本部の連絡将校の表情を一瞬だけ見た。拒絶の前兆がある。反射的な嫌悪がある。だが、それだけでは終わらない種類の目だ。次の会議で、参謀本部の本体が出てくる。

 

 ターニャは席を立たずに、セレブリャコーフへ低い声で言った。

 

「少尉。草案は二種類用意しろ。参謀本部が拒否しても破綻しない案と、拒否した事実が残る案だ。どちらも署名欄を逃げにくい配置にしろ」

 

「了解しました。条件の固定と、拒否記録の手順も併記します」

 

「よし」

 

 ドクトルが、楽しそうに椅子の背を鳴らした。

 

「君は面白い。敵にしたくないね」

 

 ターニャは顔を向けずに返した。

 

「敵か味方かは、文書で決まる」

 

 会議室に小さな笑いが落ちた。笑ったのは誰か。党の書記だろう。状況が分かっていない笑いだった。

 

 ターニャはその笑いを無視した。分かっていない者は、制度で縛るしかない。

 

 紙が片付けられていく。だが、提案だけは片付かない。提案は予算を呼び、予算は権限争いを呼ぶ。そして権限争いは、いつも最後に調整官の机へ来る。

 

 ターニャは内心で小さく舌打ちした。口には出さない。

 

 (やはり来た。兵器の言葉は、血より先に予算を吸う。だが、吸わせるなら形を作る。形があれば、潰せる。潰せるなら、こちらの勝ちだ)

 

 

 

 

 

 会議室の扉が二度、叩かれた。

 

 返事を待たずに開き、空気が一瞬だけ変わった。軍の匂いが入る。整った靴音、肩章の角度、視線の置き方。親衛隊の席に座る者が持ち込む緊張とは、種類が違う。

 

 エーリッヒ・フォン・レルゲン中佐が入ってきた。随員を一人だけ連れている。表情は硬い。視線はまず、壁際の黒服に触れた。象徴の存在が、言葉の前に釘を刺す。

 

 レルゲンは椅子に座る前に言った。

 

「聞いた。研究だと」

 

 敬語はない。確認ではなく、牽制だった。

 

 ターニャは席を立たない。立つのは、主導権を譲る動作になる。

 

「状況を共有します。議題は研究そのものではなく、決裁経路と調整手順です」

 

 会話の敬語は、公式の形で固定した。相手が軍でも党でも同じだ。感情を混ぜると、記録が乱れる。

 

 ドクトルが嬉しそうに割り込んだ。

 

「中佐、ちょうど良かった。君の輸送が要る。北方の工場、研究室の設備、人員の移動。全部が一本につながる」

 

 レルゲンはドクトルを見ない。ターニャを見た。

 

「輸送は、計画で動く。思いつきでは動かない」

 

 ドクトルは笑った。

 

「思いつきではないよ。国の勝敗がかかる」

 

 ターニャは、そこで短く切った。

 

「ドクトル。言い方を変えろ。勝敗ではなく、必要物と障害と決裁者で述べろ」

 

 ドクトルは肩をすくめた。だが不満はない。むしろ楽しそうだった。

 

「いい。必要物は、材料と設備と人だ。障害は、ばらけた指揮と、予算の奪い合いと、輸送枠だ。決裁者は……多すぎる」

 

 ターニャは頷いた。言い換えができたなら、文書に落とせる。

 

 机上には、名簿の束に加えて、薄い紙が一枚、置かれていた。シューゲルが持ち込んだ資料だった。そこには複数の人名が並んでいた。

 

 ハイゼンベルク。研究の中心に近い男の名だ。他にも、大学や研究所の名が散っている。軍需官庁、国の研究評議会、各省の委員会。どれも管轄を主張できる立場だった。

 

 ターニャは紙を指で押さえた。

 

「この名簿が示しているのは、研究者が散らばっている事実です。散らばっているなら、作業は分散したままになる」

 

 ドクトルが言った。

 

「なら、まとめる。散っているなら集める。統一すればいい。親衛隊がやる」

 

 その一言で、椅子の脚が鳴った。レルゲンが体を前に出した音だ。

 

「軍の兵器をSSが管轄する? 冗談じゃない」

 

 声は低い。怒鳴りではない。軍規の言葉だ。許可の範囲が決まっている者の拒絶だった。

 

 ドクトルは面白そうに口角を上げた。

 

「管轄という言葉が嫌いなら、別の言い方にする。中心に立つだけだ」

 

「同じだ」

 

 レルゲンは一語で切った。軍の会議でよくある切り方だ。長い説明は、譲歩の入口になる。

 

 ターニャは、その応酬を一往復で止めた。議論を続ければ、誰も責任を引き受けなくなる。

 

「論点を整理します。中佐は、指揮系統と兵站の統一が崩れることを警戒している。ドクトルは、研究の統制がないことで停滞していると判断している」

 

 ターニャは紙を一枚引き寄せた。白紙ではない。枠だけが印刷された用紙だった。項目と署名欄と期限欄がある。中身はまだ空だ。

 

「解決策は単純です。作業の実施者を一つに集めない。各組織の仕事は各組織に残す。ただし、責任の窓口は一つに固定する」

 

 レルゲンが眉をひそめた。

 

「窓口?」

 

「記録と決裁の入口です。誰が承認したか、誰が拒否したか、いつまでに返したか。それを一箇所で管理する。実施は分散したまま、責任票だけは集める」

 

 ドクトルが手を叩きそうになり、途中で止めた。

 

「なるほど。つまり、実務の手は縛らず、紙の首輪だけを付ける」

 

 言い方が軽い。だが意味は合っていた。

 

 レルゲンは不機嫌そうに言った。

 

「紙で首輪を付けるのは好きだが、輸送枠にまで口を出されるのは困る」

 

 軍の言葉に戻った。輸送枠。兵站。規律。嫌悪の方向がはっきりしている。

 

 ターニャは即答した。

 

「輸送枠の変更は、参謀本部の承認を要件に固定します。承認がない変更は、無効として記録する」

 

「記録するだけか」

 

「記録する。記録は後で効く。無効の記録が積み上がれば、勝手な運用は止まる」

 

 ターニャは言い切った。脅しではない。制度の設計としての説明だ。

 

 レルゲンは鼻で笑った。

 

「勝手な運用を止めたいなら、現場を締めろ。紙の山では止まらない」

 

「現場を締める権限は、あなたの側にある。私は、締める権限が発動されたかを残す」

 

 ターニャは、相手の役割に戻した。ここで軍の仕事を奪う言い方をすれば、軍は反射で拒絶する。拒絶した瞬間、協力が切れる。

 

 ドクトルが口を挟んだ。

 

「それで研究は進むのかい。窓口を作るだけでは遅い」

 

 ターニャは、ドクトルの目を見たまま言った。

 

「遅くならないように、期限を入れる。返答期限を越えた組織は、拒否と同じ扱いで記録する。曖昧な沈黙を許さない」

 

 会議室が静かになった。拒否と同じ扱い。つまり、沈黙が逃げ道にならない。

 

 レルゲンが口の端を歪めた。

 

「そのやり方は、嫌いではない」

 

 褒め言葉ではない。軍の世界では、嫌いではないは合格点だ。

 

 ターニャは淡々と続けた。

 

「次に、研究者の統制です。散らばっている研究者を一箇所に集める案は、争いを増やす。よって、集めない。各研究者は所属のまま働く。その代わり、連絡と優先順位の決裁を一本化する」

 

 ドクトルが不満そうに言った。

 

「一本化するなら、結局、中心が要る」

 

「中心は、作業の中心ではない。決裁の中心です」

 

 言葉の差は小さい。だが機能は違う。作業の中心は人と設備を奪う。決裁の中心は拒否の署名を集める。

 

 ターニャは用紙の枠を指で叩いた。

 

「この紙の枠でやる。項目は三つに限定する。必要物、障害、必要な承認。説明は短文に固定する。学術用語は禁止。誰が読んでも同じ理解になる文言にする」

 

 セレブリャコーフがすぐにメモを取った。手が速い。言葉遣いは崩れない。

 

「了解しました。用語の置き換え表も添付します」

 

「添付しろ。ただし本文は平易に統一する。添付は補助に留めろ」

 

 ドクトルが笑った。

 

「君は、研究者を子ども扱いするのが上手い」

 

「子ども扱いではない。誤用防止です」

 

 ターニャは言い直した。感情に寄せると、議事録が崩れる。

 

 レルゲンは腕を組んだまま言った。

 

「で、誰がその紙を集める。どこが窓口だ」

 

 核心が来た。ここで「親衛隊が」と言えば、即座に破綻する。だが、窓口が空白なら、制度は成立しない。

 

 ターニャは答えを固定した。

 

「国家保安本部が受付を担う。窓口は一箇所にする。受付は記録業務であり、研究と輸送の指揮ではない。実施主体の権限は侵さない」

 

 レルゲンの目が細くなった。

 

「国家保安本部が受け取る時点で、介入の入口になる」

 

「入口は必要です。入口がなければ、誰も責任を負わない。介入を防ぎたいなら、介入の条件を条文化する。条件なしの介入は無効と記録する」

 

 ターニャは手元の紙をもう一枚出した。条文の骨格だけが書かれている。

 

「介入条件は三つに限定します。治安上の危険、機密漏えいの疑い、輸送の妨害。これ以外の理由での介入は、許可しない文言に固定する」

 

 ドクトルが首を傾げた。

 

「研究の遅れは?」

 

「遅れは介入理由にならない。遅れは実施主体の責任です。責任者の名前を記録する。責任者が困るなら、動く」

 

 レルゲンが短く笑った。乾いた笑いだ。

 

「実に官僚だな」

 

 ターニャは否定しない。

 

「官僚の仕事です」

 

 会議の空気が、少しだけ落ち着いた。争点は残っている。だが、争点が紙に押し込まれた。紙に押し込めば、殴り合いは署名欄の上で起きる。机の上の殴り合いは、銃声より管理しやすい。

 

 ドクトルが言った。

 

「それで、予算はどうする。材料と設備は金が要る。各省が渋るぞ」

 

 ターニャは、そこで初めて視線を横に滑らせた。党の書記を見た。党の男は、ようやく自分が関係者だと理解した顔になった。

 

「予算は、あなたの得意分野でしょう」

 

 ドクトルが笑う。

 

「得意だとも。言葉一つで紙が増える」

 

 危険な笑いだった。だが今は利用できる。

 

 ターニャは淡々と言った。

 

「予算の要求は、提出書式を統一する。各組織が勝手な書式で出した場合は、受理しない。受理しない事実を記録する」

 

 党の書記が慌てて口を開いた。

 

「待て。受理しない、などと——党の——」

 

 レルゲンが横目で睨んだ。軍規の視線だった。党の言葉が兵站に触れることを嫌っている。

 

 ターニャは党の書記に、公式の口調を崩さず言った。

 

「受理は窓口の権限です。党の関与が必要なら、党が責任者を指名してください。指名がない関与は、扱えません」

 

 党の書記は口を閉じた。責任者を指名する覚悟がない。

 

 ターニャはそのまま会議を戻した。

 

「期限を設定します。各組織は三日以内に、必要物と障害と承認者を提出する。提出がない場合は、拒否として記録する。拒否した組織は、後で要求が出ても優先順位を上げない」

 

 ドクトルが目を輝かせた。

 

「いい。脅しが効く」

 

「脅しではない。手順です」

 

 レルゲンが顎を少しだけ上げた。

 

「輸送枠の追加要求は、参謀本部の承認が前提だな」

 

「その文言も入れる。あなたの側の承認がなければ、輸送の変更は発生しない」

 

 レルゲンは一度だけ頷いた。合意だ。ただし条件付きだ。条件付き合意は、紙にしないと消える。

 

 ターニャは、セレブリャコーフを見た。

 

「少尉。草案の締め切りを設定しろ。署名欄は、拒否の署名も含める。提出期限と返却期限を別に作れ。提出だけして放置する逃げ道を潰す」

 

「了解しました。拒否理由の欄も短文に限定します」

 

「よし」

 

 EVAが会議室の隅で、無言のまま資料を一枚、ターニャの側へ滑らせた。手が静かだった。紙の端だけが動く。

 

 そこには、名簿の束とは別の案件番号が書かれていた。数字の並びが、嫌な型をしている。偶然を装う時の並び方だ。

 

 ターニャは表情を動かさず、その紙を束の下に挟んだ。今この場で触れると、議題が壊れる。壊した責任が、こちらに落ちる。

 

 レルゲンが立ち上がった。

 

「今日の合意は、これでいい。だが覚えておけ。兵站は理屈で動かない。車両も線路も、数字の通りには増えない」

 

 ターニャは即答した。短く、公式の形で。

 

「理解しています。だからこそ、変更の責任者を固定します」

 

 ドクトルが立ち上がり、妙に上機嫌で言った。

 

「面白くなってきた。やっと回り始める」

 

 ターニャは、その言い方だけは訂正しなかった。訂正しても利益がない。

 

 会議室の者が順に出ていく。党の書記は最後まで落ち着かないまま、誰にも視線を合わせず去った。警察側の実務者は、紙の束を抱えたまま、ため息を飲み込む顔をしていた。

 

 残ったのは、ターニャとセレブリャコーフとEVAだけだった。

 

 セレブリャコーフが小声で言った。

 

「中佐は、窓口の存在自体を嫌っております。ただ、条件が固定されるなら飲む、という姿勢でした」

 

「嫌っている方が計算できる。曖昧な協力は裏切る」

 

 ターニャは束の角を揃えた。紙の角が揃うと、気分が少しだけ整う。戦況が整ったと錯覚できるからだ。

 

 EVAは何も言わない。ただ、さきほど滑らせた紙の上に、指先を一度だけ置いた。置いて、離した。それだけだった。

 

 ターニャは視線だけを落とした。型がある。偶然の顔をした妨害の型だ。

 

 (存在X。お前は奇跡で殴る。私は書類で殴る。どちらが長く残るか、確かめてやる)

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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