幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

47 / 113
第7節 ヒムラーの影

 

 

 国家保安本部の廊下は夜でも明るかった。明るいのは、働いているからではない。消し忘れを許さないからだ。照明は制度の一部で、睡眠は例外だった。

 

 ターニャは自室へ戻る途中、壁際の小机に置かれた封筒を見つけた。誰かが置いたのではない。置かせたのだ。置かせるには権限が要る。権限の匂いは紙から先に来る。

 

 封筒は白かった。白い封筒は余計に目立った。普通の回付なら茶色で十分だった。白は、見落とさせないための色だった。

 

 封筒の左上に、親衛隊全国指導者の印が押されていた。押印の位置が正確すぎた。手癖ではなく作法だ。作法は、人を殺す時に優しく見える。

 

 セレブリャコーフが背後に立った。足音がなかった。規律で歩く人間は、音まで整える。

 

「届いております。差出の印が……」

 

 ターニャは封筒を裏返した。封緘は二重だった。開封痕を残さないための工夫がある。つまり、開けたかどうかを見られる。

 

 ターニャはその場では開けなかった。廊下で封を切るのは愚かだった。誰が見ているかではない。どこで開けたかが、後で記録に残る。記録は場所を選ぶ。

 

 自室の扉を閉め、鍵を掛けた。鍵は安心のためではない。入室記録を一本化するためだ。

 

 机の上に封筒を置いた瞬間、部屋の空気が変わった。紙が一枚増えただけで、責任が増える。

 

 封を切る刃物は使わなかった。刃物は線を残す。ターニャは爪先で封緘の角を起こし、指でゆっくり剥がした。時間はかかった。だが痕は薄い。薄い痕は、相手の想像力に委ねられる。

 

 中身は一枚だった。命令書ではない。問い合わせだった。問い合わせという語は柔らかい。柔らかい語で責めるのが、上位者のやり方だった。

 

 文章は短い。短いほど怖い。

 

「現下の北方関連案件について、現状の整理を求む。各案件の責任所在、遅延の要因、障害の可能性、代替案を併記せよ。なお本件は、指揮系統の混乱を避けるため、各部局の判断を整えた上で提出されたい」

 

 署名はない。署名がないのは、誰の言葉か明白だからだ。明白なものほど、逃げ道がない。

 

 セレブリャコーフが息を呑んだ。彼女は感情を抑える訓練を受けているが、紙の圧力に慣れていない。軍人の恐怖は爆発音に寄るが、官僚の恐怖は沈黙に寄る。

 

「命令ではありませんね」

 

 ターニャは紙を机に置いた。指先で縁を揃える。揃えた時点で、返答の形も決まる。返答の形が決まれば、責任の形も決まる。

 

「命令ではない。だから逃げられない」

 

 セレブリャコーフが顔を上げた。

 

「どのように返答されますか」

 

 ターニャは一瞬だけ考えた。考えたのは内容ではない。形式だ。形式を間違えると、内容が正しくても潰される。

 

「進捗は三段に切る。事実、遅延、対策。担当者は階層で列挙する。個人名を出す。役職名だけでは逃げる」

 

「個人名まで……」

 

「上は問いを投げた。こちらは逃げ道を塞いだ返答を出す。忠誠は演技ではなく、手続で示す」

 

 ターニャは引き出しから紙を出した。罫線入りの用紙と、別の白紙。罫線入りは整えるため、白紙は押し込むためだ。

 

 机の端に赤鉛筆を置く。赤は目立つ。目立つ赤は、後で誰が直したかが分かる。

 

 ターニャはセレブリャコーフへ視線を投げた。命令は軽くしない。軽い命令は誤用される。

 

「少尉、責任者一覧の元資料を出せ。治安、輸送、現地行政、研究連絡。それぞれ窓口の名前と代理を二名まで添付する。代理が不在なら、空白の理由を記録する」

 

「承知しました。直ちに回収します」

 

 セレブリャコーフは小走りにはならなかった。走ると慌てに見える。慌ては責任者の匂いになる。彼女は落ち着いて部屋を出た。

 

 扉が閉まった後、ターニャは問い合わせ文をもう一度読んだ。行間が薄い。薄い行間は、読む側の頭で膨らむ。

 

 求められているのは整理ではない。誰のせいかだ。誰のせいかを、こちらの手で指定させる。上位者はその形を好む。自分で決めたくないのではない。自分で決める前に、候補を並べさせたいのだ。

 

 ターニャは白紙に項目を打ち出した。文章ではなく、枠から作る。

 

 上から順に、見出しを書いた。

 

 件名

 概要

 現状

 遅延要因

 責任者

 代替案

 リスク

 決裁事項

 

 余計な飾りは不要だった。飾りは誤読を生む。誤読は事故に繋がる。事故は責任者の首を探す。

 

 ターニャは机上の書類束を引き寄せた。北方関連と印が付いたファイルが三つある。どれも正式な呼称を持っていない。正式な呼称を付けると、文書上で固定される。固定されれば、後で回収できない。

 

 ターニャはファイルの表紙に貼られたラベルを見た。そこに書かれた語が気に入らなかった。

 

「優先」

 

 優先という語は便利だった。便利な語は、責任を薄める。優先と言えば、他を切り捨てた理由になる。だからこそ危ない。

 

 ターニャはラベルを剥がし、別の語に貼り替えた。

 

「照会対象」

 

 照会対象なら、相手が聞いてきたから整理したと言える。自分が勝手に押し出した形にならない。形が重要だった。

 

 机の端で紙が擦れる音がした。気配ではない。音だ。音があるのは、EVAが扉の前に立った時だけだった。彼女は足音を消すことを選ばない。存在を知らせる必要がある時だけ、知らせる。

 

 ターニャは扉へ向けて声を出した。

 

「入れ」

 

 EVAが入室した。表情がない。表情がないのは、感情がないからではない。感情を外へ出さない役割だからだ。

 

 EVAは何も言わず、封筒の控えを机に置いた。控えの封筒は茶色だった。白ではない。控えは隠す。実物は見落とさせない。配分が露骨だった。

 

「受領記録」

 

 EVAの声は短かった。余計な語がない。余計な語がないと、こちらが補う。補うと、勝手な解釈が増える。

 

 ターニャは控えを開けた。受領時刻、搬入者、回付ルート。全てが書かれていた。書かれているのに、書き手の名前がない。誰が書いたかを残さない記録は、記録として半分壊れている。

 

 ターニャは受領記録の末尾に、自分の名前と時刻を追記した。追記は逃げ道を増やすが、追記しないと、自分が受け取ったという事実が他人の手に預けられる。預けるのは危険だった。

 

 EVAは黙って見ていた。視線が重い。重い視線は命令ではない。だが命令より従わせる。

 

 ターニャはEVAに質問しなかった。質問は情報を引き出すが、同時に関係を作る。関係は線になる。線は切りにくい。今は線を増やしたくなかった。

 

 EVAは一歩だけ下がり、静かに言った。

 

「期限は短い」

 

 ターニャは頷いた。期限が短いのは当たり前だ。短くない期限は、上位者が本気ではない。今回は本気だ。

 

 EVAはそのまま出ていった。扉が閉まった後、部屋の静けさが戻った。静けさは安心ではない。静けさは、次の紙が来る前の間だった。

 

 セレブリャコーフが戻ってきた。手には資料が束になっていた。束の端が揃っている。彼女は整えることを自分の役割にしている。

 

「各部門の窓口一覧です。現地行政は二系統あります。党側と行政側で、別の責任者が立っています」

 

 ターニャは束を受け取り、見出しを確認した。名前が多い。多いほど逃げ道が増える。だが少なすぎると、責任が集中して反発を招く。配分の問題だった。

 

「党側の窓口は一名で足りる。行政側は二名。互いに代理を付ける。代理が互いの不在理由を記録する形にしろ」

 

「承知しました。相互記録ですね」

 

「相互記録だ。片側の言い訳は採用しない」

 

 ターニャは一覧の余白に線を引き、分類を書き込んだ。分類は単語で固定する。文章にすると揺れる。

 

 治安

 輸送

 現地行政

 研究連絡

 対外調整

 

 次に、各分類の下に個人名を並べた。個人名の横に役職を書き、役職の横に代理を書き、代理の横に連絡経路を書いた。

 

 連絡経路は重要だった。連絡経路が曖昧だと、伝達が遅れた時に誰のせいかが曖昧になる。曖昧さは事故の温床だった。

 

 セレブリャコーフが遠慮がちに言った。

 

「責任者をここまで明示すると、反発が出ます」

 

「出る。だが反発は紙の上で処理できる。反発を口頭で処理すると、記録が残らない。残らない争いは、後で倍になる」

 

 ターニャは次の紙を取り出し、リスクの欄を作った。表ではなく、箇条書きにする。表は見栄えが良いが、読み手の理解に委ねる部分が増える。箇条書きは強制できる。

 

 リスクは四つに絞った。四つ以上は読まれない。読まれないリスクは、書いた側の免罪符にしかならない。

 

 ターニャは声に出して書いた。声に出すのは、自分の誤りを早く見つけるためだ。独り言ではない。検査だ。

 

 輸送枠の不足

 現地協力の不確実

 対外部門の干渉

 記録欠落の増加

 

 最後の一行だけ、ペン先が止まった。記録欠落は、以前から増えている。増え方が均一ではない。均一ではない欠落は、人為の匂いがする。

 

 ターニャはその語を別の語に置き換えた。欠落と書くと、責任がこちらへ戻る。責任を背負うのではない。責任の扱いを設計するのが仕事だった。

 

 ターニャは書き直した。

 

 記録の空白が増える可能性

 

 可能性という語で逃げるつもりはなかった。可能性と書くと、発生した時に「想定していた」と言える。想定していたと言える形にしておけば、次に「なぜ想定で止めなかった」と問われる。だから、次に対策を書く。

 

 ターニャは対策欄に、短く書いた。

 

 空白が出た場合の理由を分類し、担当者を固定する

 

 ここで言葉が被らないように気を付けた。以前使った型に寄せすぎると、同じ癖だと見抜かれる。癖は弱点になる。

 

 セレブリャコーフが資料をめくりながら言った。

 

「進捗は、どの粒度でまとめますか」

 

「作業単位だ。美辞麗句は要らない。やったこと、残っていること、止めている理由。それだけだ」

 

「承知しました。各部門から、実施済みと未実施の境界を確認します」

 

 ターニャはペンを置き、セレブリャコーフを見た。彼女が黙って付いてくるのは、勇気ではない。規律だ。規律は裏切らないが、疲労は溜まる。疲労が溜まると、手続の精度が落ちる。

 

「少尉、休憩を挟め。今から必要なのは速さではない。誤記の少なさだ。誤記が出れば、こちらが疑われる」

 

「はい。五分で戻ります」

 

 セレブリャコーフはきっちり五分で戻った。時計に従う人間は、信用できる。信用できるのは、裏切らないからではない。裏切る時も予告通りに裏切るからだ。

 

 ターニャは進捗報告の本文に取り掛かった。文体は整えすぎない。整えすぎると、作った感が強くなる。だが粗いと、軽く見える。軽く見られたら終わりだ。

 

 冒頭に、結論を置く。先に結論を置くのは、読者の時間を奪わないためではない。読者が勝手に結論を作る前に、こちらが結論を固定するためだ。

 

「北方関連案件は、四系統に分かれて進行中であり、現時点で致命的な遅延は発生していない。ただし、現地協力の確保と輸送枠の配分は相互依存しており、調整の遅れが連鎖する可能性がある」

 

 ターニャは書いてから一行消した。致命的という語が気に入らない。致命的ではない遅れなら許される、と読める。そう読まれるのは嫌だった。

 

 書き直す。

 

「現時点で停止に至る障害は確認されていない。ただし、調整の遅れが連鎖する条件が存在する」

 

 条件という語にした。条件なら、手続で潰せる。条件を潰すのが仕事だ。

 

 次に、責任者一覧を添付する旨を書く。添付という語も嫌いだった。添付は、本文の外に押し出す。本文の外は軽く扱われる。軽く扱われた紙は、後で「見ていない」と言われる。

 

 ターニャは書き方を変えた。

 

「責任所在は別紙にて整理した。別紙は本文の一部として扱うこと」

 

 ターニャは書き終えて、セレブリャコーフへ視線を向けた。

 

「……よし。これで“責任者”は逃げられない」

 

 セレブリャコーフは一瞬だけ固まった。ターニャの口調が少し崩れたのを聞き取ったのだろう。だが彼女は何も言わなかった。彼女の沈黙は、同意ではない。規律の継続だった。

 

「提出経路は、どのように」

 

「正規の回付で出す。ただし写しを二系統で残す。保管は別の棚にする。棚が同じだと、まとめて消える」

 

 セレブリャコーフが頷いた。

 

「写しの保管責任者も記録します」

 

「記録しろ。保管責任が曖昧なら、保管は存在しない」

 

 紙の束が形になっていく。形が整うほど、怖さが増す。これは戦闘準備ではない。処刑準備に近い。だが処刑という語は使わない。使うと感情が入る。感情は制度を汚す。

 

 ターニャは最後に、代替案を二つ書いた。代替案は多く出さない。多い代替案は、決裁者に逃げ道を与える。逃げ道が増えると、責任が薄まる。責任が薄まると、後でこちらが背負う。

 

 代替案は二つ。二つなら選べる。選ぶと決裁者の責任が生まれる。責任が生まれれば、こちらの責任は分担される。

 

 第一案は、現地協力の確保を先に固める案。第二案は、輸送枠を先に確保し、現地は後追いで押し切る案。どちらにも欠点を書いた。欠点を書かない案は、後で刺さる。

 

 書き終えた時、扉が軽く叩かれた。二回。控えめで、しかし無視できない回数だった。

 

 EVAが入ってきた。彼女は机の上の紙束を見た。見るだけで量を測る。

 

「提出は」

 

 ターニャは紙束を揃え、封筒に入れる準備をした。封筒は白ではない。白で出すのは、相手だけが許される。

 

「今から封緘する。控えは別経路で保管する。提出記録は私の名で残す」

 

 EVAは頷いた。頷きが承認なのか、観測なのかは分からない。分からないまま進むのが、この組織の常だった。

 

 ターニャは封筒に紙を入れ、封を閉じた。封緘の位置を正確に合わせる。正確さは美徳ではない。余計な疑いを生まないための処置だ。

 

 セレブリャコーフが控えの封筒を手に取った。

 

「保管経路を分けます。棚の責任者も記録します」

 

「頼む」

 

 ターニャは机の上に残った受領記録を見た。書き手のいない記録。誰かが書いて、誰も書いていない形にした記録。

 

 ターニャは目を細めた。紙の圧とは別の圧が、背中に乗っている気がした。背中に乗る圧は、封筒からではない。組織の中から来る。

 

 ヒムラーの問い合わせは、表向きは整理の要求だった。だが整理は、整理する側の首を並べる作業でもある。

 

 ターニャは提出用封筒をEVAへ渡した。EVAの手は揺れない。揺れない手は、揺れる人間を選別する。

 

 EVAは封筒を受け取って言った。

 

「伝達する」

 

 それだけだった。扉が閉まる。

 

 残ったのは控えと、次に来る視線だった。視線は紙より先に届く。紙より早いものは、だいたい厄介だった。

 

 

 

 

 

 封筒は、出ていった。残ったのは控えと、控えを守るための手続だけだった。

 

 ターニャは机の上を片付けなかった。片付けると、何を作ったかが見えなくなる。見えないものは再現できない。再現できない仕事は、次に同じ圧が来た時に折れる。

 

 控えの束を二つに分け、紙の端へ小さく記号を付けた。記号は暗号ではない。作業工程の印だった。誰が見ても意味が分かる印だけを使う。分からない印は、勝手に解釈される。

 

 扉がもう一度叩かれた。先ほどとは違う音だった。控えめではない。遠慮のない叩き方は、立場の強さを示す。

 

 入ってきたのは、RSHAの職員だった。制服の着崩しがなかった。着崩しのない人間は、命令に忠実で、責任に冷たい。

 

「デグレチャフ。呼び出しだ」

 

 名だけで呼ぶ。階級は付けない。付けないのは親しみではない。形式を外して、言葉の圧を増やすためだ。

 

 ターニャは椅子から立ち上がり、帽子を取り、机の上の紙を一枚も動かさなかった。動かすと、何かを隠した形になる。

 

「どちらの部局だ」

 

「本部だ。上からだ」

 

 上という語だけで、相手が誰かを察せる。察せるのは、ここがそういう組織だからだ。

 

 廊下を歩く間、ターニャは呼び出しの理由を二つに絞った。絞ったのは安心のためではない。判断に迷わないためだ。

 

 一つは、問い合わせへの返答が早すぎたこと。早すぎる返答は、余計な準備があったと疑われる。

 

 もう一つは、責任者を明示したこと。明示は上位者にとって便利だが、RSHA内部では敵を作る。敵を作ると、紙の上で刺される。

 

 部屋に通されると、空気が違った。机が大きい。椅子が硬い。書類棚が整いすぎている。整いすぎた部屋は、人の温度を切り捨てた場所だった。

 

 ターニャの前に座っていたのは、実務を握る側の人間だった。顔は覚えにくい。覚えにくい顔は、意図的に作られる。名前は名乗らなかった。名乗らないのも意図だった。

 

「北方の件だ。お前の返答が、上へ行った」

 

 ターニャは頷いた。驚いたふりはしない。驚きは弱点になる。

 

「照会があった。整理して提出した」

 

「整理の形が良すぎる。誰の手で作った」

 

「私の手だ」

 

 相手の目が細くなった。否定しないと、逆に疑われる。ここでは、答えた方が早い。

 

「お前は、誰に売り込んでいる」

 

 質問は単純だった。単純な質問ほど、答えを間違えると終わる。

 

 ターニャは言葉を選んだ。誠実さではない。記録に残った時に矛盾しない言葉だ。

 

「RSHAの業務として処理している。照会は上から来た。返答は組織の責任で出した」

 

 相手は机を指で叩いた。音が規則的だった。規則的な音は、苛立ちを抑えるための作業だ。

 

「上という言い方をするな。誰だ」

 

 ここで名前を出すと、こちらが線を引く。線を引いた瞬間、反対側が敵になる。

 

 ターニャは線を引かなかった。線を引くのは上がやることだ。こちらの仕事は、線を引く材料を整えて差し出すだけだった。

 

「照会の差出は、親衛隊全国指導者の系統だ。だが、北方関連の対外調整は、RSHAの調整課題として扱える。提出書式は、RSHAの形式で統一している」

 

 相手は黙った。沈黙は承認ではない。沈黙は計算だ。計算が終わるまで、こちらは余計な言葉を足さない。

 

 数秒後、相手は低い声で言った。

 

「お前の作った一覧は便利だ。だが便利すぎると、誰かの首が飛ぶ。首が飛ぶ時、飛ばした側も巻き込まれる」

 

 ターニャは頷いた。首という語は下品だが、ここでは通じる。

 

「だから、責任者に代理を付けた。代理に記録を付けた。人が消える形にはしていない。消えるなら、記録ごと残る」

 

「お前は慎重だな」

 

「慎重でないと、仕事が継続できない」

 

 相手は鼻で笑った。笑いではない。呼気だった。

 

「お前は、上へ直接、形の良い紙を投げるな。RSHAの中を通せ。通した形で、出す」

 

 圧が来た。命令ではなく、釘だった。釘は抜くと傷が残る。刺したまま、別の方向へ曲げるのが無難だった。

 

「了解した。以後は、提出経路を整理する。写しの扱いも統一する」

 

「統一という言葉は軽い。統一は失敗すると崩れる。規定に落とせ」

 

 ターニャは即座に言い換えた。

 

「提出経路を二類型に固定し、例外を増やさない形にする。規定案を作る」

 

 相手は頷いた。頷きは許可だった。許可が出たなら、こちらは次へ進める。

 

「もう一つ。北方と新兵器の話が混ざっている。混ざると、余計な耳が増える」

 

「混ぜたつもりはない。だが、同じ紙束に並ぶなら、読む側が結び付ける」

 

「読む側の頭を信用するな。頭は都合で結び付ける」

 

 ターニャは同意した。都合で結び付けるのが政治だ。政治を相手にするなら、紙はもっと冷たく作る必要がある。

 

「研究連絡は、別紙に落とす。北方の進捗は、治安と輸送と行政に限定して報告する。研究は、別の窓口で扱う」

 

 相手の視線が少し緩んだ。緩むのは、こちらが危険物を分離したからだ。

 

「よし。戻れ。規定案を明日までに出せ」

 

 ターニャは一礼し、部屋を出た。礼は従属ではない。礼は記録のための動作だ。礼をしないと、礼をしなかった記録が作られる。

 

 廊下を歩きながら、ターニャは整理した。RSHAの実務側は、北方を好きに扱わせない。だが、親衛隊全国指導者の系統は、北方の案件を自分の手元に置きたい。双方の欲が衝突する。

 

 衝突を止める方法は一つだった。表向きはRSHAの仕事として処理し、成果だけが別の経路で届くようにする。届くように、ではない。届いた形にする。

 

 ターニャは自室へ戻ると、控えの束を開き、提出経路の欄を作った。欄を作るだけで、次に何を書くかが決まる。

 

 セレブリャコーフが待っていた。立って待っていた。座って待つと、待っていた証拠が曖昧になる。立って待つのは、彼女なりの手続だった。

 

「お戻りになりましたか」

 

 ターニャは短く頷いた。

 

「本部から釘が来た。提出経路を固定する」

 

「釘、ですか」

 

 セレブリャコーフの声がわずかに揺れた。だが丁寧語は崩れない。崩れないのが彼女の強さだった。

 

「紙の出来が良すぎると疑われる。以後はRSHAの中を通す形にする。規定案を作る」

 

「規定案の骨子は、どのように」

 

 ターニャは机に紙を置き、項目を三つに分けた。三つ以上に増やさない。増えると読む側が逃げる。

 

「提出経路は二類型。通常回付と、機密回付。機密回付は受領記録を必須にする。写しは別棚。保管責任者を固定。代理も固定」

 

「代理も、ですか」

 

「代理が動かないと、記録が空く。空いた場所は、誰かが好きに埋める」

 

 セレブリャコーフは頷いた。

 

「写しの棚は、どこに」

 

「ここではない。別の部屋だ。保管責任者は、私の名で置く。だが鍵は私だけが持たない。鍵を分ける」

 

「分ける、ということは」

 

「二人が揃わないと開かない形にする。片方だけで開くと、片方だけで消せる」

 

 セレブリャコーフは理解した。彼女は理解が早い。理解が早い人間は危険でもある。だが、今は必要だった。

 

 ターニャは机の端に、もう一枚の紙を出した。提出経路の規定案とは別の紙だ。別の紙は、別の目的のために使う。

 

 その紙の見出しに、短く書いた。

 

 「参考送付」

 

 セレブリャコーフが目を細めた。

 

「これは……」

 

「内容は同じだ。だが、扱いが違う。RSHAの提出は正規の経路で通す。参考送付は、閲覧用だ。決裁は求めない」

 

「閲覧用、という形で」

 

「形を変える。形を変えれば、受け取った側の責任も変わる。責任が軽いと、相手は受け取りやすい」

 

 セレブリャコーフは一瞬迷った。彼女は規律の人間だ。規律は、抜け道を嫌う。だがこれは抜け道ではない。線の引き方だった。

 

「差出は、どなたの名義で」

 

 ターニャは少しだけ間を置いた。名義を言うのは危険だ。名義は線を引く。だが、ここで曖昧にすると、彼女の手が止まる。

 

「私の名で出す。ただし、照会に対する整理資料の写しとしてだ。『参考』の扱いに限定する。本文に判断を書かない」

 

「判断を書かない、というのは」

 

「推奨を入れない。評価語も入れない。事実と、手続と、責任者だけだ。読む側が勝手に欲しがる結論は、与えない」

 

 セレブリャコーフは静かに息を吐いた。

 

「理解しました。事実資料として送付します」

 

 ターニャは頷いた。ここまで来れば、二つの経路が作れる。作れるだけでは足りない。互いが矛盾しない形にする。

 

 ターニャは机上の控えを見た。そこには、輸送の枠、治安の連絡、現地行政の窓口が並んでいる。研究連絡も混ざっている。混ざったままだと、読む側の頭が勝手に繋ぐ。

 

 ターニャは研究連絡の部分だけを切り分けた。切り分けると言っても、紙を破らない。破ると痕が残る。痕は余計な疑いになる。

 

 切り分けは、写しの作り方で行う。研究連絡を含む版と、含まない版。二つを作る。どちらも嘘ではない。どちらも同じ事実の並べ替えだ。

 

 セレブリャコーフが言った。

 

「研究連絡を外した版を、参考送付に回すのですね」

 

「そうだ。読む側が結び付ける材料を減らす。材料が減っても、必要な事実は残す。残すべきは、治安と輸送と行政の責任だ」

 

「では、研究側は」

 

「研究側は、別の窓口へ送る。必要な人間だけが読む形にする。読ませる人数が増えるほど、噂が増える」

 

 セレブリャコーフが紙を揃え始めた。揃える手が迷わない。迷わないのは、やることが明確だからだ。明確にしたのは、ターニャの仕事だった。

 

 ターニャは椅子に座り、短い内心をまとめた。

 

 (二重配線。美しい。だが整いすぎると、そこを踏まれる。存在X。偶然の顔で紙を汚す癖を、そろそろ改めろ)

 

 内心を切り上げ、ターニャは規定案の本文を書き始めた。規定案は読みやすくしない。誤用されにくくする。読みやすさは、誤用の入口になる。

 

 ただし、日本語は難しくしない。難しい日本語は、現場が勝手に短くする。短くされた文言は、別の意味になる。

 

 ターニャは短い文で刻んだ。

 

 提出経路は二類型に限定する。

 機密回付は受領記録を必須とする。

 写しの保管責任者を固定する。

 保管は別棚とし、鍵を分割する。

 例外は、例外として理由を記録する。

 

 セレブリャコーフが顔を上げた。

 

「例外の理由は、どこに記録しますか」

 

「機密回付の受領記録に付ける。受領記録は、誰が見ても追える形にする。追えない記録は、存在しないのと同じだ」

 

「承知しました」

 

 その時、扉の外で足音が止まった。止まった足音は、入室をためらう音だった。ためらうのは、内容を知っているからだ。

 

 ノックが一回。短い。

 

 EVAが入ってきた。彼女は紙束を見た。見るだけで理解する。理解したことを、言わない。

 

「閲覧された」

 

 短い報告だった。誰が、とは言わない。言わないことで、こちらに想像を強いる。

 

 ターニャは想像を拒否した。想像は余計な感情を呼ぶ。感情は手続を鈍らせる。

 

「返答は」

 

「求められない」

 

 求められないのが一番怖い。求められないのは満足か、保留か、別の準備か。だが、どれでも手続は同じだった。

 

 ターニャはEVAへ規定案の紙を示した。

 

「提出経路の規定を作った。RSHAの中へ回す。受領記録の書式も合わせる」

 

 EVAは一度だけ頷いた。頷きは許可に見えるが、許可ではない。観測の継続だった。

 

「続けろ」

 

 それだけ言って、EVAは出ていった。扉が閉まる。

 

 セレブリャコーフの指先が止まった。彼女は何か言いかけたが、言葉を飲み込んだ。飲み込むのは賢い。言うと記録になる。記録になると、敵が拾う。

 

 ターニャはペンを走らせ続けた。規定案の末尾に、提出期限を書いた。期限は短い。短い期限は、周囲を動かす。

 

 最後に、規定案の責任者欄に自分の名を書いた。責任者欄に名を書けば、逃げられない。逃げられない形にするのが、ターニャのやり方だった。

 

 セレブリャコーフが小さく言った。

 

「ご自身の名で、よろしいのですか」

 

「よい。誰かの名にすると、その誰かが壊れる。壊れた後に残るのは、結局こちらだ。なら最初からこちらで受ける」

 

「……承知しました」

 

 ターニャは紙束を揃え、封筒に入れた。封筒は茶色だった。白は使わない。白は、上にしか許されない。

 

 机の上には、参考送付の控えが残った。控えが残るのは、次の手続のためだ。

 

 ターニャは灯りを落とさなかった。灯りは制度の一部だ。消すのは眠る時だけだが、眠るのは例外だった。

 

 紙の形は整った。整った形は、次に壊されやすい。だから、壊れた時の理由まで書いておく必要がある。

 

 ターニャは椅子から立ち、扉へ向かった。外へ出るのではない。提出箱へ入れるためだ。提出箱に入れれば、提出した記録が作られる。記録が作られれば、次の問いに答えられる。

 

 答えられる形にしておく。それが、ヒムラーの影の下で生き残るための最低条件だった。

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。