幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第8節 胃薬と弾薬

 

 

 北方の準備が進むほど、紙の上の線は太くなった。太くなった線は、現場の線路を占有した。

 

 鉄道の時刻表は飾りではなかった。港の荷役計画も飾りではない。燃料の配分表も同じだった。どれか一つが詰まれば、残りも同時に止まる。止まった時、止まった理由を説明できる者が責任者になる。

 

 ターニャは呼び出しを受けた場所へ向かいながら、会う相手を想像した。呼び出しの文面は短い。短い文面は、余計な事情が添えられないという意味だった。添えられない事情は、口でねじ込まれる。

 

 扉の前で足を止め、帽子の角度を整えた。動作の整いは、相手の怒りを刺激しないための準備だった。

 

 入室すると、空気が乾いていた。机の上に積まれた資料が多い。多い資料は、誰も全体を見られていない証拠だった。壁に貼られた路線図と港の図面の間に、臨時の燃料割当表が挟まっていた。挟まるのは混乱の形だった。

 

 レルゲンが先に来ていた。椅子に深く座らず、背もたれにもたれない。軍規に従う姿勢だが、顔色が良くなかった。右手が時々、腹のあたりへ寄る。寄るだけで押さえない。押さえたら痛みが見えてしまう。

 

 机の端に、小さな白い箱が置かれていた。薬箱だった。

 

 レルゲンはターニャを見るなり、挨拶を省いた。省くのは失礼ではない。余裕がないという宣言だった。

 

「デグレチャフ。君の書類が、現場を詰まらせている」

 

 ターニャは椅子に座らず、まず一礼した。礼は儀礼であり、次に言葉を置くための区切りだった。

 

「状況を確認したい。どの区間が詰まっているのですか」

 

 レルゲンは机を指で叩いた。一定の間隔ではない。一定にならないのは、計算より苛立ちが勝っている時の癖だった。

 

「どの区間もだ。北へ行く列車が増えた。港へ入る列車も増えた。燃料列車も増えた。そこへ君の保護列車が割り込む」

 

 ターニャは言葉を急がなかった。急いで否定すると、相手の怒りの矛先がこちらへ固定される。固定されると、話が終わらない。

 

「保護列車の運行数と、発着の窓を提示して頂けますか」

 

「提示? 今ここで言う。君の“保護列車”のせいで、弾薬が遅れる」

 

 言い切った後、レルゲンは薬箱を掴み、蓋を開けた。手つきが早い。迷いがない。胃薬の扱いだけは、習慣になっている。

 

 ターニャはその動作を見て、余計な言葉を飲み込んだ。哀れみは不要だった。哀れみは相手の自尊を傷つける。自尊が傷つけば、話はさらに拗れる。

 

 セレブリャコーフが後ろに立っていた。背筋が伸びている。手には革の鞄。鞄の口は閉じたままだ。開ける許可を待つ姿勢だった。

 

 ターニャはレルゲンの視線を受け止めたまま、声の高さを変えなかった。

 

「遅延の地点を特定します。弾薬の列車番号と、予定発着、実績を出して下さい」

 

「列車番号? 君は鉄道将校ではないだろう」

 

「記録がなければ、対策が固定できません。固定できない対策は、次の現場で崩れます」

 

 レルゲンは眉を寄せた。嫌悪ではなく、短い焦りだった。焦りの原因は、遅れが起きているのに、誰も責任を取らない現場の構造だ。彼の言葉の荒さは、そこから来ていた。

 

「……分かった。だが時間がない。今遅れているのは、港へ入る弾薬だ。港の荷役が止まっている」

 

「止まっている理由は」

 

「燃料が先だと言い張る者がいる。軍需の優先だと言い張る者がいる。党が横から、別の荷を載せろと口を出す。そこへ君の列車だ」

 

 ターニャは頷いた。状況の説明として十分だった。十分だが、ここから先は感情を整理しないと話が進まない。

 

「確認します。弾薬の遅れは、保護列車が線路を埋めたからではない。港と鉄道の窓が衝突し、荷役と燃料の優先が決まっていないからです」

 

 レルゲンの指が止まった。止まったのは、言い返す準備をしているからだった。

 

「君は責任をずらすのが上手いな」

 

「責任をずらしていません。責任者の定義が曖昧なまま放置されていると言っています。曖昧なら、現場は各自の都合で動きます」

 

 レルゲンは胃薬を口に含み、水で流した。水を飲む音が小さかった。小さい音の方が、こちらにはよく聞こえる。

 

「私の都合ではない。軍規の都合だ。弾薬が遅れれば、前線が困る」

 

「前線が困ることは理解しています。だからこそ、保護列車の目的を確認します」

 

 ターニャは鞄へ視線を送った。合図だけで十分だった。

 

 セレブリャコーフが鞄を開け、書類束と、白紙の用紙、鉛筆を取り出した。白紙は計算用ではない。説明用だった。説明は口だけでは残らない。残すために紙が要る。

 

 ターニャは白紙を机の中央へ置かせた。

 

「中佐。ここに簡単な図を書きます。現場の人間に伝えるための形です」

 

「図で解決するほど、現場は単純ではない」

 

「単純にしないと、現場はさらに複雑になります。複雑なままでは、誰も責任を持てません」

 

 レルゲンは鼻で息を吐いた。反発だが拒否ではない。拒否する元気が残っていない。

 

 ターニャは鉛筆を取り、四角を三つ描いた。線路、港、燃料庫。文字は大きく書いた。小さい文字は、読む者を選ぶ。選ぶ書類は、現場で死ぬ。

 

「鉄道と港と燃料。ここが今の詰まりです」

 

 次に矢印を描いた。矢印は便利だが、矢印の数は増やさない。増やすと説明が長くなる。長い説明は、現場に嫌われる。

 

「弾薬は、鉄道から港へ入り、港で荷役し、船で北へ送ります。燃料も同じ動きをします。違いは、港での扱いと保管です」

 

 レルゲンが腕を組んだ。腕を組むのは、話を聞く体勢の一つだ。怒りで机を叩くのとは違う。

 

「それで、君の列車はどこに入る」

 

「ここです」

 

 ターニャは鉄道の四角から、別の小さな四角へ線を引いた。

 

「保護列車は、鉄道の枠の中で動きます。港へ直接入れない。港へ入れると、荷役の枠を奪うからです。だから、港の荷役と衝突しない窓を選んで運行している」

 

 レルゲンが即座に返した。

 

「衝突している。現に遅れている」

 

「遅れているのは港の荷役です。保護列車は港へ入らない。衝突が起きているのは、鉄道の窓の方です。鉄道の窓が、燃料列車と軍需列車で埋まり、そこへ党の追加が入り、最後に保護列車が見える形で上に乗った」

 

 ターニャは言葉を切った。ここで長く話すと、相手が反論のための材料を拾い始める。拾わせない。こちらは次の質問へ移る。

 

「中佐。鉄道の窓の管理者は誰ですか」

 

「鉄道輸送司令部だ。だが現場は、港湾司令部と燃料局と、軍需の窓口と、党が入り乱れている」

 

「つまり、窓の最終決裁が一本化されていない」

 

 レルゲンは黙った。黙るのは肯定の一種だった。

 

 ターニャは図の横に、簡単な表を描いた。列は三つ。優先順位、必要量、期限。これ以上増やさない。

 

「弾薬の必要量と期限を、ここに書きます。燃料も同様に書きます。党の追加は、最後に書きます。保護列車は、ここに書く」

 

 レルゲンが眉を上げた。

 

「党の追加を最後に書く? 君は党を刺激する気か」

 

「刺激しません。分類します。分類して、扱いを固定します。固定しないと、現場が恣意で動きます」

 

 レルゲンが口を開きかけたが、すぐに閉じた。胃のあたりへ手が行く。痛みが戻っている。

 

 ターニャは声の調子を変えず、続けた。

 

「今の遅れは、弾薬が負けたのではない。弾薬の期限が、窓の決裁に反映されていない。期限を反映させる書式がない」

 

「書式で戦争を動かす気か」

 

「書式がなければ、誰も戦争を動かせません。動かした者が責任者になります。責任者になりたくない者は、動かさない」

 

 レルゲンは短く笑った。笑いではない。喉から出る乾いた音だった。

 

「君の言い方は、腹に来る」

 

「腹に来るのは結構です。腹が動くなら、動かせます。動かせる者が、窓の責任を取れます」

 

 レルゲンが椅子から少し前へ出た。前へ出るのは、こちらの図を見ようとしたからだ。見ようとした瞬間、話は前進する。

 

「……具体的に言え。どうすれば弾薬が遅れない」

 

 ターニャは待っていた言葉を、短く返した。

 

「窓を分けます。鉄道の窓を、弾薬と燃料で衝突させない。港の荷役も、弾薬用の枠を固定する。固定できない場合は、固定できない理由を記録し、代替の窓を即日提示する」

 

 レルゲンが即座に噛み付いた。

 

「そんな理想論を言っている場合ではない」

 

「理想論ではありません。運用の最低線です。最低線がない運用は、必ず崩れます」

 

 ターニャは図の中の矢印を一本消し、代わりに小さな円を描いた。円には「保護」とだけ書いた。

 

「保護列車は、弾薬を遅らせるためではない。弾薬を守るための保護です。弾薬が途中で消えれば、遅れどころでは済まない」

 

 レルゲンの目が細くなった。疑いの目だ。親衛隊の言葉は、彼の中で常に疑いから始まる。

 

「消える? 誰が弾薬を消す」

 

「誰でもです。横流し、紛失、誤配、積み替えの事故。現場の混乱は、事故を装った消失を作ります」

 

 レルゲンが机を軽く叩いた。今度は一回だけだった。

 

「それは軍警の仕事だろう」

 

「軍警が全ての列車に付き添えません。軍警を増やすなら、その輸送枠も必要になります。現実にできるのは、保護対象を絞り、保護の窓を決め、記録を残すことです」

 

 レルゲンは薬箱を見た。薬箱を見るのは、弱さの確認だった。確認した後、彼はその弱さを隠すように背筋を伸ばした。

 

「私の弾薬を、君の保護で守ると言うのか」

 

「中佐の弾薬を守ります。だから、保護列車は弾薬の運用の中に入ります。別枠にするから、邪魔になります。中に入れれば、優先順位と期限の表に載せられる」

 

 レルゲンは口を閉じたまま、図を見た。図を見ている間は、怒鳴らない。図は盾になった。

 

 ターニャはその間に、次の一手を置いた。相手の怒りを利用する一手だ。

 

「中佐。今この場で、弾薬の優先枠を決めて下さい。港の荷役枠も、決裁者の名で固定して下さい。私の側は、保護列車をその枠の下に入れます。入れる以上、保護列車の遅延は私の責任になります」

 

 レルゲンが顔を上げた。驚きの表情は出さない。だが目の動きが止まった。

 

「君が責任を取る? 親衛隊が?」

 

「記録の上で、責任の所在を明確にします。責任が明確なら、現場が勝手に触れない。触れるなら、触れた者の名が残ります」

 

 レルゲンは短く息を吐いた。苛立ちが、別の形へ移った。計算へ移った。

 

「……私の側も責任を背負う。窓を固定した以上、現場が回せないと言い訳する余地が減る」

 

「減らして下さい。言い訳が残る運用は、遅れを許容します」

 

 セレブリャコーフが静かに口を挟んだ。丁寧語は崩れない。彼女の口調は、会議の温度を下げる。

 

「中佐。弾薬の列車番号と到着予定を、こちらで整理いたします。港の荷役枠の候補も、表に落とします」

 

 レルゲンはセレブリャコーフを一瞬見た。彼女は目を逸らさない。逸らさないのは、補佐官としての意志だった。

 

「……頼む」

 

 言葉が短い。短い言葉は、譲歩の形だった。

 

 ターニャはセレブリャコーフへ、少しだけ口調を落とした。

 

「少尉。弾薬の窓を三つに分けろ。到着、荷役、出港。それぞれの決裁者の欄を作れ。空欄は作るな」

 

「承知しました」

 

 ターニャは再びレルゲンへ向き直った。対外の口調へ戻す。切り替えが遅いと、相手に付け入る隙ができる。

 

「中佐。港湾司令部の担当者を、この場に呼べますか。電話でも構いません。決裁者の名を確定します」

 

「港の連中は、今は怒鳴り合っている」

 

「怒鳴り合いの間に、弾薬が滞ります。弾薬が滞れば、前線が困ります。中佐が困る」

 

 レルゲンが唇を噛んだ。怒りが戻りかけたが、胃が先に反応した。腹へ手が行き、すぐに離れる。その動きは、意地の動きだった。

 

「……分かった。呼ぶ」

 

 レルゲンは机上の電話を取った。短い指示を出す。言葉は荒いが、要点は外さない。彼の実務の強さがそこにあった。

 

 電話の向こうで何かが叫ばれたらしく、レルゲンの眉がさらに寄った。彼は受話器を強く握り、短く言い切った。

 

「今すぐだ。遅れの説明は後で聞く。今は決裁の名を寄こせ」

 

 受話器を置いた時、机の上の紙が少し揺れた。揺れは、苛立ちの残りだった。

 

 ターニャは揺れが収まるのを待ち、図の横にもう一つの小さな欄を書いた。欄には「例外」とだけ書いた。

 

「例外を許すなら、例外の条件を書きます」

 

 レルゲンが皮肉の声で言った。

 

「例外がなければ回らないのが現場だ」

 

「例外があるなら、例外の理由を書きます。理由が書けない例外は、ただの都合です」

 

 レルゲンは笑わなかった。否定もしない。受け入れに近い沈黙だった。

 

 電話が鳴った。レルゲンが受話器を取る。今度は相手が静かだった。静かになるのは、命令が通った時の音だ。

 

 短い会話の後、レルゲンは受話器を置き、メモに名前を書いた。書いた後、ターニャへ押し出す。

 

「港の担当だ。肩書きは書いてある。これで満足か」

 

「満足ではありません。これで固定できます」

 

 ターニャは名前を見て、セレブリャコーフの表へ指を置いた。

 

「少尉。荷役枠の決裁者欄に、この名を入れろ。期限も入れろ。期限が空欄なら、現場は明日へ逃げる」

 

「承知しました」

 

 レルゲンが目を閉じた。短い。長く閉じない。長く閉じると、弱さが出る。

 

「……君のやり方は、胃に悪い」

 

 ターニャは言葉を選び、表情を変えなかった。

 

「胃に悪い運用が、現場をさらに悪くします。中佐の胃が先に壊れます」

 

「君は他人の胃を心配するのか」

 

「中佐が倒れると、輸送の責任者が空きます。空きは混乱を呼びます。混乱は遅れを増やします。遅れは弾薬に出ます」

 

 レルゲンは一瞬だけ、口元を歪めた。笑いの形に近いが、笑いではない。諦めに近い表情だった。

 

「……なるほどな。私を労わっているのではなく、弾薬を労わっている」

 

「弾薬が届けば、戦況が安定します。安定すれば、余計な犠牲が減ります」

 

 レルゲンの目が動いた。犠牲という語に反応したのではない。戦況という語に反応した。彼は軍人だ。戦況が動けば、胃も動く。

 

「その言い方なら、まだ聞ける」

 

 ターニャは図の矢印を指でなぞった。口で説明を繰り返さない。同じ説明は、相手の怒りを戻す。

 

「結論を固定します。弾薬の枠を優先として設定する。保護列車は、その枠の下に入れる。港の荷役枠は決裁者名で固定する。例外は理由を記録する」

 

 レルゲンが即座に言った。

 

「その代わり、保護の名目で枠を増やすな。増やせば今度は燃料が死ぬ。燃料が死ねば、全部死ぬ」

 

「増やしません。条件を明文化します。保護対象の範囲も固定します」

 

「固定、固定……君は固定が好きだな」

 

「好きではありません。固定しないと、誰も責任を取らない」

 

 レルゲンは机の端の胃薬を見た。見て、少しだけ肩の力を落とした。

 

「……続けろ。君の図を、現場へ落とす形にしろ。私の部下が読めるように」

 

「読める形にします。短い文で、誤用できない形に落とします」

 

 セレブリャコーフが表を差し出した。弾薬の列車番号、到着時刻、港の荷役枠、出港予定。欄は埋まっている。空欄がないのが強い。

 

 レルゲンは表を見て、指で一箇所を叩いた。今度は怒りではない。確認の叩き方だった。

 

「この列車は、遅れたらどうする」

 

「代替の窓を用意します。代替がないなら、遅延理由を記録し、決裁者の署名を取ります」

 

「署名を取る時間があるか」

 

「署名を取らないなら、責任者は誰ですか」

 

 レルゲンは口を閉じた。答えがない沈黙ではない。答えが決まっている沈黙だった。

 

「……分かった。そこは君の勝ちだ」

 

 ターニャは一礼した。勝ったと言わない。勝ったと口に出すと、相手は次に勝ち返そうとする。

 

「では、これを基準に運用します。中佐の側の通達文案も作ります。短い文で、手順を限定します」

 

 レルゲンが眉をひそめた。

 

「通達まで君が作るのか」

 

「誤解が入る余地を減らします。誤解が入れば、現場は『聞いていない』と言います。聞いていないと言われると、また遅れます」

 

 レルゲンは椅子の背に少しだけ体を預けた。預けた後、すぐに戻した。癖のような動きだった。胃の位置を変えている。

 

「……君は本当に、戦争を紙でやる」

 

「紙がなければ、現場が勝手にやります。勝手にやった結果が、今の詰まりです」

 

 レルゲンは何も言わなかった。だが、視線は図に戻った。図を見続ける者は、少なくとも話を捨てていない。

 

 ターニャは最後に、図の下へ太い線を一本引いた。太い線は結論の印だ。余計な装飾ではない。

 

「この線より下は、現場で変えない。変える場合は、記録と署名が必要です」

 

 レルゲンが短く言った。

 

「……よし。とりあえず、今日の弾薬は動かす」

 

 ターニャは頷いた。今日動けば、明日の議論ができる。動かないと、明日は責任追及だけになる。

 

 レルゲンは胃薬の箱を閉じ、制服の内側へしまった。隠したのではない。持ち歩くべき装備として戻した動きだった。

 

 ターニャは図と表を揃え、セレブリャコーフへ渡した。

 

「少尉。これを写し、提出経路を分けろ。軍の正式分と、こちらの控え。控えは改変できない形で残せ」

 

「承知しました」

 

 ターニャはレルゲンへ視線を戻し、公式の口調で締めた。

 

「中佐。こちらの保護は、弾薬のための保護として運用します。実績が出たら、次の窓も固定できます」

 

 レルゲンは答えた。短い。だが最初より、棘が少ない。

 

「実績を出せ。口だけなら、私の胃が先に終わる」

 

 ターニャは表情を変えずに頷いた。ここで笑うと、挑発になる。

 

 会議室の外へ出ると、廊下の空気が少しだけ冷たかった。冷たさは落ち着きを作る。落ち着きは、次の作業の速度を上げる。

 

 ターニャは歩きながら、頭の中で期限を並べた。今日の弾薬、明日の燃料、港の荷役、鉄道の窓。どれも一本でも切れれば、また詰まる。

 

 詰まりは敵ではない。詰まりは現場の自然な結果だ。敵は、詰まりを放置して責任を消す行為だった。

 

 彼女はその行為を許さない形に、紙を整えるつもりだった。

 

 

 

 

 ターニャは廊下を曲がり、仮設の執務室へ戻った。窓の外は灰色だった。晴れか曇りかではなく、仕事の色だった。

 

 机に着くなり、セレブリャコーフが先に紙を揃えた。先ほどの図、弾薬の表、港の決裁者名のメモ。端がずれていない。ずれないことが、彼女の規律だった。

 

「少尉。写しは二系統だ。軍の経路と、こちらの控え。控えは改変できない形で封緘しろ」

 

「承知しました」

 

 ターニャは椅子に深く座らなかった。深く座ると、考えが遅れる。遅れは遅延を呼ぶ。

 

 扉がノックされた。党の連絡係だった。胸の前で書類を抱え、目だけが忙しい。

 

「……港の枠について、党の要望が」

 

 ターニャは返事を急がず、要望という語を聞き流した。要望は、断られると怒る。だが、書式で潰せる。

 

「要望の文書はありますか」

 

「口頭です。急ぎで」

 

「口頭は運用に載せられない。文書化して提出しろ。提出先と期限も併記しろ」

 

 連絡係は顔をしかめた。だが反論はしない。反論すると、責任の名が出るからだ。

 

「……分かりました」

 

「提出先はここだ。港の枠の変更は、決裁者名と理由が必要だ。理由が書けないなら、要望はただの希望だ」

 

 連絡係が去ると、室内は元に戻った。戻るとは、余計な音が消えるという意味だった。

 

 ターニャは紙を一枚取り、短い通達案を書き始めた。言葉は短く、例外を狭く、責任者の欄を大きくする。現場が読みやすい文章は、現場を縛る。

 

 セレブリャコーフが横でタイプを打つ。鍵盤の音は一定だった。一定の音は、余計な感情を消す。

 

「少尉。港の担当へ連絡。弾薬枠の固定は今日からだ。今夜の便で確認の署名を取れ。明日に回すな」

 

「承知しました。鉄道側の窓は、輸送司令部の決裁が必要です。担当者名は把握しています」

 

「名は書け。名が書けるなら、逃げられない」

 

 ターニャはそこで手を止めた。紙の上に残ったインクが乾く前に、頭の中のもう一枚を見た。北方の準備は、弾薬だけでは動かない。燃料、船腹、補給、そして人の流れ。人の流れは最も厄介だった。理由が立派で、実態が汚い。

 

 扉が再びノックされた。今度はレルゲンだった。来るとは思っていたが、早い。早さは、胃が許さないという合図だった。

 

 レルゲンは帽子を脱がずに入ってきた。礼を省く。省くのは、こちらを信用したわけではない。時間がない。

 

「通達はできたか」

 

 ターニャは立って迎え、机上の紙を示した。

 

「文案は作成済みです。弾薬枠、港荷役枠、代替窓の提示条件、遅延時の記録手順。短くまとめています」

 

 レルゲンは紙を奪うように取り、目だけで追った。軍人の読み方だった。細部より、命令として通るかどうかを見る。

 

「……余計な飾りがない。よし。だが一つ」

 

「何ですか」

 

「保護列車の件だ。現場の連中は、あれを嫌う。君たちの仕事を嫌う」

 

「嫌われる理由は理解しています。嫌われる運用でも、必要なら載せます。載せるなら、弾薬の枠の下に入れます」

 

 レルゲンは鼻で息を吐いた。だが、すぐに言い返さない。代わりに、薬箱を取り出して指で弄った。弄るが飲まない。飲むほどではない、という自分への言い訳だった。

 

「君は、現場の敵だと思われている」

 

「敵かどうかは評価の問題です。私は運用を固定し、責任の所在を明確にします」

 

「相変わらず腹が立つ言い方だな」

 

 ターニャは淡々と返した。

 

「腹が立つなら、運用が刺さっています。刺さらない運用は、誰も守りません」

 

 レルゲンは一瞬だけ口を歪めた。笑いではない。諦めと納得の間だった。

 

「……必要悪、というやつか」

 

 ターニャはその言葉を拾わなかった。拾うと、議論が倫理へ寄る。倫理は結論を遅らせる。遅らせれば、弾薬が遅れる。

 

「中佐。現場の反発は予測しています。だから、保護の範囲を明文化します。範囲外の列車は保護名目で走らせない。勝手な運用はできない形にします」

 

 レルゲンは紙を机に置き、指で一行を叩いた。確認の叩き方だ。

 

「この『遅延理由の記録』、誰が書く」

 

「遅延を起こした枠の決裁者です。決裁者が不在なら、代理の名と理由を記録します。空欄を許しません」

 

「空欄を許さない、か」

 

「空欄は責任の穴です。穴は都合で埋まります」

 

 レルゲンは薬箱をしまい、視線を上げた。視線の角度が少し変わった。最初の会議のような敵意ではない。計算が混ざっている。

 

「君のやり方なら、弾薬は動く。そこは認める」

 

「ありがとうございます」

 

 ターニャは礼を言ったが、声は冷えたままだった。温度を上げると、相手は情で動けと勘違いする。情で動くと、次に崩れる。

 

 レルゲンは短く首を振った。

 

「礼は要らん。条件がある」

 

「条件を聞きます」

 

 レルゲンは一拍置いた。言葉の前に、胃の位置を探るように息を吸った。

 

「SSが戦争を延ばすなら、私は君を許さない」

 

 室内の空気が少し重くなった。セレブリャコーフの手が止まらないのが、逆に目立つ。彼女は聞いているが、表情を変えない。

 

 ターニャは即答しなかった。即答すると、強がりに聞こえる。強がりは軍人の反感を買う。

 

 十分な間を置いて、公式の口調で返した。

 

「延ばしません。終わらせます。短く、確実に」

 

 レルゲンの眉がわずかに動いた。意外そうな顔をするのは彼の流儀ではない。だが、目の焦点が一瞬だけ揺れた。

 

 ターニャは続けない。続けると、理想論に見える。彼女が出すべきは、手続と記録と責任の話だけだった。

 

 レルゲンは低い声で言った。

 

「言ったな。紙に残しておけ。君の言葉は、後で証拠になる」

 

「残します。通達の末尾に、運用目的を記載します。文言は曖昧にしません」

 

「曖昧にしない……それも君の癖だ」

 

「癖ではありません。必要条件です」

 

 レルゲンは黙り、紙をもう一度見た。最後に小さく頷いた。

 

「いい。動かせ。港と鉄道は、私が殴る」

 

「殴るなら、順番を間違えないで下さい。先に港の荷役枠、次に鉄道の窓です。逆にすると、現場が『港のせい』で逃げます」

 

 レルゲンが眉をつり上げた。

 

「君は軍に指図する気か」

 

「指図ではありません。順序の提案です。記録の上で説明できる順序です」

 

 レルゲンは舌打ちを飲み込み、代わりに短く言った。

 

「……分かった。順序は守る」

 

 レルゲンが去ると、ターニャは椅子に座った。深くは座らない。だが肩の力は少しだけ抜けた。

 

 セレブリャコーフが静かに聞いた。

 

「先ほどの文言、通達に入れますか」

 

「入れる。ただし、軍の通達ではなく、こちらの控えに残す。軍の紙に載せると、余計な解釈が増える」

 

「承知しました。控えは封緘して保管します」

 

 ターニャは一枚、別の紙を引いた。誰にも見せないメモだ。そこには戦況の数字ではなく、反応の名を書いた。誰がどこで抵抗し、誰が沈黙したか。沈黙は情報だった。怒りよりも価値が高いことがある。

 

 彼女はペンを置き、指で机を軽く叩いた。机を叩くのは自分の癖ではない。意識して止めた。レルゲンの癖に引きずられると、思考が荒くなる。

 

 セレブリャコーフが通達の清書を差し出した。文字は揃い、余白が適切だった。余白は運用の余地ではない。読みやすさの余白だ。

 

「署名欄は大きめにしました。決裁者の肩書きも併記しています」

 

「良い。現場が誤魔化せない」

 

 ターニャは紙の束を二つに分け、赤い紐で括った。紐は象徴だ。これが通れば、今日の弾薬が動く。

 

 その時、胸の奥で小さな計算が動いた。弾薬が動けば、北方の準備が一つ進む。準備が進めば、彼女の価値も更新される。価値が更新されれば、交渉の材料が増える。

 

 だが、それを口に出す場ではない。口に出せば、紙が汚れる。

 

 (終わらせた後のことは、別の計算だ。今は、終わらせるための記録と責任だけを積む)

 

 セレブリャコーフが次の予定を告げた。

 

「港の担当者は、今夜こちらへ来るとのことです。署名を取り次第、鉄道輸送司令部へ回します」

 

「今夜中に終わらせろ。明日に回すと、また党が口を挟む」

 

「承知しました」

 

 ターニャは立ち上がり、上着の皺を指で整えた。整えるのは見栄ではない。会う相手が多いほど、外見の乱れが余計な感情を呼ぶ。余計な感情は、余計な言葉を生む。余計な言葉は、余計な責任を作る。

 

 扉の外に出る直前、彼女は一瞬だけ立ち止まった。廊下の先から、電話のベルが何度も鳴る音が聞こえた。止まらないベルは、現場がまだ詰まっている証拠だった。

 

 それでも、先ほどよりは形がある。決裁者名、期限、枠。形があれば、殴れる。殴る先が定まれば、遅れは減る。

 

 レルゲンが言った「許さない」は、脅しではない。軍規の宣言だ。宣言が紙の上に乗るなら、彼は動く。動くなら、弾薬は動く。

 

 ターニャは歩き出した。歩幅は一定だった。一定の歩幅は、感情を隠すのに役立つ。

 

 そして彼女は、次の署名欄に置く言葉を選び始めた。短く、逃げ道を消し、現場が勝手に解釈できない形にする。それが、この戦場で一番効く弾だった。

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
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