幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第3話はナチ党内での組織内政治の回となります。
12節構成予定です。



第3話 灰色の未来に抗う思考
第1節〜第4節


 

第1節 氷点下の真実

 

 ポーランド総督府、クラクフ郊外。

 初冬の寒気が空を鈍色に染め上げるその朝、霜に覆われた麦畑の向こうに、いくつかの瓦礫と焦げた柱が無言の墓標のように佇んでいた。

 

 ここは“処理済み”とされた村落である。

 

 目に見える敵は存在せず、銃声も血の匂いも残ってはいない。

 だが、その静けさこそが、かえって不穏であるということを、経験の浅い保安官たちは理解していなかった。

 

「この集落は、パルチザンとの関係が濃厚であるとの報告を受けております」

 

 声の主は、現地を管轄する保安警察の地区責任者である。

 親衛隊のフィールドグレーの制服――いや、褐色のシャツを着込んだ彼の顔には、寒さではなく恐怖による緊張が張り付いていた。

 

「“関係があった”のではなく、“関係があると報告された”の間違いでしょう?」

 

 ターニャ・デグレチャフ親衛隊中尉は、冷たい声で訂正した。

 彼女は手袋越しに書類を捲りながら、破れた民家の柱に目を走らせる。炭化した梁には、幼い子供の手形が黒く焼き付いていた。

 

 ――滑稽だな。

 

 思考の底で、彼女は呟く。

 これが大ドイツ国の“秩序回復”というやつか。

 

 処理対象となった住民は既にこの世にいない。

 男も女も、老いも若きも、その足取りさえ雪にかき消されていた。

 

 それでも、報告書には「穏便に再編完了」と記されている。

 まるで、数字と文字列で命を“分類”することが正義であるかのように。

 

「SDの地方職員が提出した報告書では、パルチザンの潜伏先と断定されておりました」

 

「そのSD職員は?」

 

「えっ……現在、リヴィウへ転任中です」

 

「なるほど、都合が良い。ではこの資料の矛盾点を三つ、今から指摘します。よろしいですね?」

 

 ターニャは書類を広げ、まるで授業を始める教師のように淡々と語り出す。

 一つ、証言者の氏名が記録されていない。

 二つ、事件当日の天候記録と、報告書にある目撃証言の時間帯が一致していない。

 三つ、現場写真の番号が途中で飛んでおり、撮影者が同一である証左が欠けている。

 

「……以上。これを“正確な情報”と呼ぶには、あまりにもお粗末です」

 

 黙り込んだ保安警察官たちの間に、白い息が不安そうに立ち昇る。

 

「で、私に求められている判断とは、“報告通り”であるか、“報告に不備がある”かの二択ですね?」

 

「で、ですが……!」

 

「“ですが”は禁止です。私に必要なのは事実だけです。貴官の感情や願望は、書類のどこにも反映されませんから」

 

 刹那、ターニャの目が細くなった。

 遠く、崩れかけた納屋の陰から、誰かの気配がする。

 

「……取り囲んで確認を」

 

 静かな命令により、保安官たちが訓練された動きで納屋へ向かう。

 だが、そこにあったのは、衰弱しきった犬と、その隣で凍死したと思しき老婆の亡骸だけだった。

 

 その光景に何を思うか。

 ターニャは何も言わず、ただ「了解」と一言呟いて背を向けた。

 

 そして、あえて記録しない。

 死に損なった者たちの姿は、未来にとって“必要のない情報”であるからだ。

 

 記録されない死は、存在しないに等しい。

 存在しないものは、抹消の対象にすらならない。

 

 それが、この国の冷徹な現実であった。

 

 

 

 

 

第2節 秩序という名の沈黙

 

「誰も殺していない。あくまで“処理”しただけだ」

 

 その言葉を、ターニャは二度読み返した。

 保安官が手渡した報告書の末尾に、鉛筆で走り書きされたその一行。

 そこには、明確な殺意も、罪悪感も、弁明もなかった。

 ただ、感情を排した“処理済み案件”という文字列が、どこまでも空虚に躍っていた。

 

 場所はクラクフ行政区・第14統治管区の地方事務所。

 粗末な暖房と、歪んだ書棚、そして一つの小さな机。

 壁には総督府の地図と、赤い押しピンがいくつも刺さっていた。

 

「これが“処理”だと? ならば、私たちは“処理済み”の書類と暮らしているのかもしれませんね」

 

 そう言って、ターニャは鼻先で笑った。

 

 無意味な紙束と数字、それを支える小役人たち。

 死者の名は、紙の上では削除され、記録から消され、そして忘れ去られる。

 だが、現場ではまだ、死者の靴や炭化した箒が地面に転がっているのだ。

 

 部屋の隅で震える末席の文官が、そっと口を開いた。

 

「……この件、SDとの連携不足が原因かと」

 

「言い訳の予防線は要りません。聞かれてもいないのに“原因”を口にする者は、決まって責任逃れを狙っていますから」

 

 ターニャは表情を変えずに応じる。

 すべては予測の範疇。人間は追い詰められると、驚くほど単純な逃避構造を取る。

 

 そして、目の前の書類が語る事実――

 

 “誰も死んでいない”。

 “抹消された記録はない”。

 “この村落は協力的であった”。

 

 それでも、現地では遺体が発見され、建物が焼かれ、住人が消えた。

 

 矛盾を埋める“沈黙”こそが、支配の構造だった。

 抹消とは、死ではなく、存在の否定である。

 

「“死んでいない者”は、“抹消”できません。彼らは、まだ死んでいる途中ですらないのですから」

 

 ターニャのその言葉に、誰も返答できなかった。

 表向きの行政秩序が保たれる裏で、沈黙が日常を侵食していく。

 報告書は整理され、責任は回避され、死者は記憶から除去される。

 

 つまり、秩序とは、沈黙の積み重ねにすぎないのだ。

 

「この文書、破棄するか修正するかはお任せします。ただし、選んだ選択はあなたの責任です。責任が伴わない選択に価値はありませんから」

 

 そして、彼女は何も言わず、記録を取らず、その場を立ち去った。

 

 背後で小さな破れる音が響く。

 紙が燃やされたか、引き裂かれたか――いずれにせよ、それは“存在しなかった事実”となった。

 

 秩序の名のもとに、真実は今日もまた一つ、黙殺されたのである。

 

 

 

 

 

第3節 沈黙の反逆者たち

 

 取調室と名ばかりのバラック小屋は、暖房もなく、外気がそのまま吹き込んでいた。

 冬のクラクフにしては穏やかな陽気だが、粗末な鉄椅子に座らされた青年の震えは止まらない。

 寒さか、恐怖か、あるいは両方か――それすら判断の材料となりうるのが、この職務の厄介なところだ。

 

 ターニャ・デグレチャフ中尉は、書類の束を軽く机に置いた。

 乱雑に綴じられた尋問記録、詰問のメモ、そして付箋のように貼られた「自白」。

 

 それらすべてに、彼女は一瞥すら与えない。

 意味がないのだ。肝心なのは、言葉ではなく、沈黙の“質”なのである。

 

「名は?」

 

「……アンドレイ・ヴィシュニェフスキ」

 

 青年はかすれた声で名乗った。

 訛りはあるが、標準的な発音だった。語彙も稚拙ではない。

 田舎者にしては、ずいぶんと“整って”いる。

 

「なぜ捕らえられた?」

 

「……わからない」

 

 その言葉に、周囲の衛兵たちが顔をしかめた。

 何人かは軽く舌打ちをし、背後で木靴を鳴らした。だが、ターニャは微動だにせず、青年の目を見据える。

 

 “死にたくない”と叫ぶ者の目は、独特の色をしている。

 憐れみを乞う輝きと、逃避の焦燥、そして最後の最後に芽生える諦念。

 それは演技では隠せない。心臓と脳が擦れ合うような、むき出しの本能の色だ。

 

 だが、この青年の目は――違った。

 

 虚無でもない。恐怖でもない。ただ、燃えさしのように、沈んでいる。

 

 怒り? 悲しみ? それとも――。

 

「あなたは“わからない”と言った。だが、それは“何も知らない”という意味か、“知っていても口にしない”という意味か」

 

「……」

 

「黙秘権があるとでも思った? これは軍法会議じゃない。これは、書類が書類として存在するかどうかすら、誰も確認しない場だ。あなたの“存在”すら、ここには記録されていない」

 

 青年の喉が小さく動いた。唾を飲み込む音が聞こえるほど、沈黙は濃密だった。

 

 やがて、青年は口を開いた。

 

「妹が……消えました。数日前まで生きていたのに、村の記録からも消えた。誰も話題にしない。母は泣きもせず、父は何も言わず……まるで最初から“いなかった”みたいに。俺は……」

 

 言葉が続かない。声が震え、沈黙が再び部屋を支配する。

 

 その瞬間、ターニャは静かに、心の中で確信を持った。

 

(この青年は、“沈黙の反逆者”だ)

 

 武器を取らずとも、体制を批判せずとも、人は反逆できる。

 それは、沈黙の中に確かに息づく、理不尽への違和感、喪失への怒り、そして“記録されない死”への悲哀だ。

 

「この件は保留としましょう。処置は後日、書類で通知します」

 

 ターニャは机の書類に手を触れもせず、ただ背を向けて部屋を出た。

 

 背後で、青年が震える声で何かを言いかけた気がした。

 しかし彼女は立ち止まらなかった。

 

 その言葉が何であれ、すでに“記録”には残らないのだから。

 

 

 

 

 

第4節 書類という名の弾丸

 

 積み重ねられたファイル。机上に広がる報告書と補足覚書。そこに囲まれ、ターニャ・デグレチャフ中尉は沈黙していた。

 

 この空間には、銃声はない。怒声も、血飛沫もない。

 あるのは、紙と、インクと、判子。それだけ。

 

 だがそれらは、必要な時に、銃弾よりも多くの命を奪う。

 

「軍政当局からの再通達、こちらの“対敵勢力区域”再定義の修正案です」

 

 SDの若手将校がファイルを差し出す。

 新しい地図には赤鉛筆で引かれた境界線が記されていた。数日前とは異なる線引きで、明らかに行政官の“失点”を軍が利用し、責任を回避する意図がある。

 

 それに対し、党組織からも抗議文書が届いていた。

 

「“民間人の処分が行き過ぎており、住民の離反を招いている”……」

 

 その記述に、ターニャはわずかに口角を動かした。

 道徳的な懸念などではない。単に、党組織が“自分たちの担当区”に火の粉が降りかかるのを嫌っているだけだ。いつものこと。

 

「面白い。軍は治安の責任を放棄し、行政官は指示の不備を棚に上げ、党は民心を理由に逃げようとする。誰もが“他人の失敗”で済ませたいようですね」

 

 ターニャの声は、乾いた書記の読み上げのように冷静だった。

 会議室に集まる関係各部署の連絡将校たちは、揃って無言になった。

 

 この場に、実際に指揮を執る者はいない。

 全員が“代理”であり、“伝達役”であり、“責任の所在を明確にできない”者たちである。

 つまり、真の決定権者は別にいて、ここにいる彼らは「弾除け」としての役割しか果たさない。

 

 だが、それで十分だ。

 

「では、これをもって再定義区域の指定を行います」

 

 ターニャは一枚の書類を抜き出し、そこにインクを付けたスタンプを押した。

 

 “対敵勢力影響区域”――

 

 その一文が記された書類が、正式に施行されることで、村一帯は即座に軍事的取扱いとなり、住民への通告なく物資制限、居住移動の制限、そして最悪の場合は“制圧”が認可される。

 

 わずか一行の文言が、数百の生活を、合法的に、無音で、破壊する。

 

「本件は、総督府およびRSHA第III局(国内情報局)に写しを。なお、実施担当部局の明記は不要です。どうせ、誰も名乗り出ないでしょうから」

 

 誰もが顔を伏せた。

 責任者を求める者など、この場には一人もいない。

 

 ターニャは最後に、残りの報告書へ視線を落とした。

 

 件の村において、行政指導の名目で配属されていた地方行政官の署名が、どの文書にも存在しない。

 彼は、いま、どこにいるのか?

 記録には“転任”とあったが、連絡先は削除され、居場所も曖昧だ。

 

(……抹消済み、ということね)

 

 記録とは、存在の証明であり、同時に消去の道具でもある。

 それを理解している者だけが、この戦場で生き残れる。

 

 だからこそ――

 

 ターニャは最後の一枚に、何の感情も込めず、インクを落とした。

 

 書類という名の弾丸が、再び放たれたのだった。

 

 

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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