幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第2節 総統の許可

 

 

 

 回付箱に差し込まれた封筒は、紙の厚みが違った。角が固い。封緘も二重。表の宛名は丁寧で、文字の形が揃いすぎている。

 

 丁寧すぎる文書は、たいてい逃げ道がない。

 

 ターニャは封筒を開ける前に、机上の束を二列に分けた。処理中と未処理。控え用の紙を三枚、左に置く。印鑑皿、署名欄の定規。手順が整っていれば、思考は乱れない。

 

 (手順を守れば、感情は出ない。出ても困るだけだ)

 

 封を切る音は小さい。だが、周囲の音の中では妙に目立った。廊下からは靴音。書類を運ぶ台車の車輪。タイプ音が途切れず、封緘を押しつぶす乾いた音が続く。

 

 セレブリャコーフが、椅子の背を抜けない姿勢のまま近づいた。紙束を抱え、顔色を変えずに、いつも通りの報告を用意している。丁寧で、落ち着いている。焦っていても崩さない。

 

「回付の経路がいつもと違います。これは総統官邸経由です。形式が変わっています」

 

 ターニャは封筒の表紙だけ見て、短く答えた。

 

「形式が変わる時は、中身が汚い」

 

 言葉は簡単でいい。余計な説明は、後で責任の争いを生む。

 

 ターニャは文書を取り出し、最初の一行を読んだ。差出人の肩書き。経路印。押印欄の数。控えの作成指示。どれも整っている。整いすぎている。

 

 内容は「協力要請」だった。言葉は柔らかい。敬語が多い。だが、最後の条項で締め切ってくる。逃げ道がない形だ。

 

 ここで「協力しない」は選べない。選ぶ余地がないように、最初から組んである。

 

 ターニャは紙面をめくり、添付の一覧を見た。どの部署が、何を、どこまで、いつまで。書き方は丁寧だが、責任の欄が薄い。責任者の名前がない。あるのは部署名と「担当」。これでは現場が勝手に解釈できる。

 

 勝手に解釈されると、後でこちらが詰める羽目になる。

 

 セレブリャコーフが、控え用紙を机の端へ滑らせた。

 

「控えの作成指示が入っています。四部です。登録棚用、回付追跡用、当方保存用、そして提出先控えです」

 

 ターニャは頷いた。目は紙から離さない。

 

「四部でいい。だが、こちらの保存用は施錠棚に入れる。担当者名で記録を残せ」

 

「承知いたしました。施錠棚に入れ、出入りの記録を残します」

 

 ターニャは次に、回付経路の印を追った。複数の部署を通っている。途中に「総統官邸」の印がある。そこを通っただけで、意味が変わる。

 

 普通の回付なら、書類は「案件」だ。だが、この印が付くと、書類は「拘束」になる。断れば済む話ではなくなる。断った時点で「命令違反」に見える形が出来上がる。

 

 (名目がきれいだと、拒否の理由もきれいに書けと言われる。きれいな拒否は存在しない)

 

 ターニャは紙の端を揃え、読み進めた。ヒムラーの推薦が裏にあることは、本文には直接は書かれていない。だが、言い回しで分かる。余計な説明がなく、代わりに「正しい順序」が並ぶ。あの人の仕事の形だ。

 

 忠誠は、言葉ではなく、提出物で示す。ターニャはそう決めた。ここで大げさな敬意の言葉を増やせば、逆に軽くなる。整った資料を出す。それが一番の返答になる。

 

 セレブリャコーフが、報告用の下書きを差し出した。内容は整理されているが、方向が危うい。外部の言葉が混じっている。相手に合わせるほど、こちらの首が絞まる。

 

「下書きはここまでです。相手の文言に寄せて、摩擦を減らす形にしています」

 

 ターニャは一読して、首を横に振った。

 

「寄せすぎだ。向こうの言葉は、後でこちらの責任に変わる。こちらは、事実と期限と責任者だけを出す」

 

「承知いたしました。事実と期限と責任者に絞ります」

 

 ターニャは紙の余白に、短い指示を書いた。命令語は軽くしない。制度の言葉で縛る。

 

「責任者一覧は三分類で固定する。治安、輸送、対外折衝。例外は作らない」

 

 セレブリャコーフはすぐ復唱した。

 

「治安、輸送、対外折衝の三分類で固定します。例外は作りません」

 

 そのやり取りの間に、扉の外が一度静かになった。足音が止まったのではない。誰かが通り過ぎるのを待っている静けさだ。そういう空気が、たまにこの建物には混ざる。

 

 ターニャは顔を上げない。仕事は机の上にある。外の空気に引っ張られると、判断が遅れる。

 

 その時、ノックが一度だけ鳴った。返事を待たずに扉が開き、補佐官“EVA”が入ってきた。歩幅が小さいのに、足音がしない。挨拶もしない。手元の薄い束だけを机に置く。

 

「欠落が混ざった」

 

 それだけ言って、EVAは視線を上げないまま立っている。説明はない。いつも通りだ。

 

 ターニャは束を手に取った。観測記録。ページ数は少ない。だが印の位置が嫌だ。東部だけではない。西方に関する手続きの線にも、同じ型の欠けが付いている。

 

 (西方まで同じ型が混ざるのは早い。誰かが、同じやり方で手を入れている)

 

 ターニャはEVAに短く問う。質問は短いほどいい。答えも短い前提で組む。

 

「いつからだ」

 

「増えたのは昨日。型は同じ」

 

 ターニャは頷いた。それ以上の説明は求めない。求めても出てこない。出てこない情報に時間を使うのは無駄だ。

 

 EVAは机上の束を置いたまま、すぐに去った。扉が閉まる音だけが残る。

 

 セレブリャコーフが、控え用紙をまとめながら小声で言った。

 

「この記録は、報告に添付しますか」

 

 ターニャは首を振った。即答だった。

 

「添付しない。添付すると、相手が動く。動けば欠けが増える。こちらで処理する形に落とす」

 

「承知いたしました。こちらで処理する形にします。確認ですが、控えの作成手順は増やしますか」

 

 ターニャはペン先を止めずに答えた。

 

「増やす。だが理由は書かない。控えは増やす。経路の記録も増やす。誰が触ったかが見えるようにする」

 

「はい。触れた者が追える形で記録を増やします」

 

 ターニャは文書の末尾を見た。押印欄が多い。控えの作成指示も細かい。ここが「名誉」ではなく「拘束」だと分かる部分だった。

 

 押印が増えれば、責任が増えるのではない。責任の押し付けが増える。控えが増えれば、安全になるのではない。誰かが「控えがない」と言い張る余地が減るだけだ。

 

 だが、その「余地を減らす」ことが、今の自分の仕事だ。

 

 ターニャは机上の紙を整え、回付経路の控えを作る準備に入った。印鑑皿を寄せ、控えの番号を振る。文字を揃える。日付を揃える。署名欄の位置も揃える。揃っていれば、後で揉めない。

 

 (拘束だと分かったなら、こちらも拘束する。相手の自由を減らす。責任の逃げ道を減らす)

 

 セレブリャコーフが、押印の順番を確認した。

 

「押印の順ですが、先に当方の控えを作成してから、提出用に押印する形でよろしいでしょうか」

 

 ターニャは短く答えた。

 

「それでいい。押印のずれは作り直しになる。先に控えを固めろ」

 

「承知いたしました。控えを先に固めます」

 

 紙の山は増える。だが、増えるのは当然だ。制度が重くなるほど、紙は増える。紙が増えれば、処理の速度が求められる。速度を出すには、手順を固定するしかない。

 

 ターニャは次の作業を頭の中で区切った。回付経路の控え作成。責任者一覧の固定。期限表の確定。遅延時の代替案の二案化。そして、ヒムラー宛の進捗報告の整形。

 

 ここまでを、今日中に「整った形」で出す。

 

 (敬意は言葉じゃない。形で見せる。あの人は、それが分かる)

 

 

 

 

 ターニャは机の端に、控えを積む場所を作り直した。さっきまで「処理中」の列にあった紙を、いったん全部どかす。紙の山は高くなるほど崩れやすい。崩れれば手戻りが増え、期限が壊れる。

 

 控えは四部。提出用とは別に、登録棚に入れる分、回付の追跡に使う分、自分の保存分が要る。保存分は施錠棚。触れた者の記録も残す。言い訳を封じるための作業だ。

 

 セレブリャコーフが、手元の紙を揃えて言った。

 

「控えの番号を振りました。押印の順番も控えに書き込みます。ずれが出ないように、先に確認いたします」

 

 ターニャは短く頷く。

 

「順番は固定だ。途中で変えるな。変えたら理由が発生する」

 

「承知いたしました。固定します」

 

 ターニャは押印欄を見ながら、回付経路の控えを作った。どこを通り、誰が見て、誰が押したか。紙の上に残すのは面倒だが、残しておけば「知らない」は通らない。通らなければ、勝手な判断が減る。

 

 机の端で、印鑑皿が少しだけ滑った。小さな音がしただけで、本人には腹が立つ。

 

 (机が高い。印鑑皿が遠い。今さら気にしても仕方がないが、腹は立つ)

 

 ターニャは皿を手元に寄せ、呼吸を一度整えてから、次の紙へ移った。気分を戻すのも仕事だ。

 

 控えを作り終えたところで、ターニャは別の束を引き寄せる。ヒムラー宛の進捗報告だ。ここからは言葉が要る。だが、言葉は少なくていい。必要なのは、責任者と期限と代替案。それが整っていれば、こちらの姿勢は十分に伝わる。

 

 セレブリャコーフが、用紙を差し出した。本文用と添付一覧用。すでに形式に合わせて罫線が引いてある。

 

「本文の下書きです。敬称の位置と、添付の並びも確認済みです」

 

 ターニャは視線を落とし、下書きを軽く読んでからペンを取った。

 

「丁寧すぎる。こちらは報告だ。余計な飾りは切る」

 

「承知いたしました。飾りは削ります。確認ですが、敬意の言葉は一度だけ入れる方針でよろしいでしょうか」

 

 ターニャは少しだけ間を置き、肯定する。多用はしない。だが、ゼロにもしない。相手が相手だ。礼を欠くのは愚かだし、形を整えるのも忠誠の一部だ。

 

「一度でいい。最初に入れる。あとは実務で見せる」

 

「はい。最初に一度だけ入れます」

 

 ターニャはペン先を揃え、本文を書き始めた。文は短く、要点を先に出す。内輪の実務口調のまま書いてはいけない。文書の口調は、相手に合わせて崩さない。公的な場の形だ。

 

「進捗を報告いたします。日頃のご指導により、当方の準備は所定の形に整いました。責任者を確定し、期限と遅延時の代替案を添付いたします」

 

 敬意の言葉は一度だけ。そこから先は、淡々と続ける。余計な感情を入れない。入れれば、逆に軽くなる。

 

 セレブリャコーフが、すぐに次の添付を並べた。

 

「添付一は、責任者一覧です。三分類で固定しました。治安、輸送、対外折衝です」

 

 ターニャは目を上げずに言う。

 

「分類は崩すな。紙の中で崩れたら、現場でも崩れる」

 

「承知いたしました。崩しません」

 

 添付一には、各分類ごとに「責任者」「代理」「連絡経路」「締切」が書かれている。部署名だけではなく、人名を置いた。人名が置かれていれば、判断が遅れにくい。遅れれば輸送が乱れ、乱れれば作戦が遅れる。遅れれば責任の押し付け合いが始まる。どれも避けたい。

 

 ターニャは添付二へ移る。期限表だ。日付を並べ、締切を赤で囲う。赤は嫌いだが、目に入るならそれでいい。

 

 セレブリャコーフが補足する。

 

「期限表は、提出側と受領側で同じ形式に合わせました。読み違いが出ないようにしています」

 

「いい。読み違いは言い訳になる。言い訳は増やすな」

 

「承知いたしました」

 

 添付三は代替案だ。遅れた時にどうするか。遅れないのが理想だが、理想だけでは進まない。遅延が出た時の逃げ道を、先にこちらが握る。握っていれば、勝手な応急処置で現場が壊れる確率が下がる。

 

 ターニャは代替案の欄を見ながら、言葉を選んだ。抽象は切る。現実の手段だけにする。

 

「輸送が遅延した場合は、優先順位を二段階に分け、緊急分を先に通します。治安側の動員が不足した場合は、近隣の部隊から当面の応援を回し、代わりに対象範囲を一時的に縮小します。対外折衝に遅れが出た場合は、現地の調整役を一名増やし、文書の窓口を一本化します」

 

 セレブリャコーフが復唱する。

 

「輸送は優先順位を二段階。治安は応援と対象範囲の一時縮小。対外折衝は調整役を一名増員し、窓口を一本化。以上でよろしいでしょうか」

 

「それでいい。余計な理屈は入れるな。方法だけ出せ」

 

「承知いたしました」

 

 ターニャは本文の最後に、締めの一文を置く。媚びない。だが、責任を避ける書き方もしない。

 

「以上、当方は定められた範囲で責務を遂行いたします。必要な追加指示がございましたら、文書で賜りますようお願い申し上げます」

 

 これで、紙の上の形は整った。次は、これを「回す」作業だ。回すためには、回付経路の確認と、控えの登録が要る。紙を整えたところで、経路が乱れれば意味がない。

 

 セレブリャコーフが、別の小さな束を差し出した。EVAが置いていった観測記録の控えだ。

 

「こちらは施錠棚に入れます。出入りの記録も作りました。関連する文書と紐づける番号も付けます」

 

 ターニャは一瞬だけ視線をそこへ向けた。本文には混ぜない。混ぜれば相手が動く。動けば欠けが増える。その判断は変わらない。

 

「それでいい。紐づけは内部だけでやれ。外へ出す番号は増やすな」

 

「承知いたしました。内部の番号だけで管理します」

 

 ターニャは署名欄に目を落とし、ペンを置いた。署名は短く、迷いなく。迷いが線に出ると、無駄に見える。無駄に見えるのは損だ。

 

 (信仰ではない。だが、ここでは同じ働きをする。形を守れば、生き残る確率が上がる)

 

 封筒を用意し、添付を順番通りに入れる。控えの束を別にして、登録棚用を括る。回付追跡用は、経路印が見えるように表紙を上にする。保存分は封をして、セレブリャコーフに渡す。

 

「施錠棚へ。鍵の管理はお前がやれ。記録は欠かすな」

 

 言い方は少しだけ砕けている。だが雑ではない。命令は制度の言葉で固定する。

 

「承知いたしました。私が管理し、記録を残します」

 

 ターニャは提出用の封筒に封緘を押し、乾きを待つ間に机上を片付けた。次に来る紙のために場所を空ける。仕事は終わらない。終わらないなら、終わらせる順番を作るだけだ。

 

 廊下の足音が近づき、止まった。書類の受け渡し係が来たのだろう。ノックが二回。ターニャは立ち上がり、扉の前まで封筒を運ぶ。

 

 扉を開けると、係の男が形式通りに敬礼し、受領簿を差し出した。

 

「受領いたします。控え番号を確認いたします」

 

 ターニャは受領簿の欄を指でなぞり、番号を確認する。間違いがあれば、その場で止める。止めなければ、後で混乱が増える。

 

「番号は合っている。経路はこの順だ。途中で変えるな」

 

「承知いたしました。経路は固定します」

 

 封筒が持ち去られる。たったそれだけの動きが、何百人の予定を拘束する。拘束するからこそ、形を整えた。形が整っていれば、動きは読みやすい。

 

 扉が閉まったあと、ターニャは机へ戻る。椅子に座る前に、指先を一度だけ握り直す。疲労がたまると、動作が雑になる。雑になれば、押印がずれ、控えがずれ、言い逃れの余地が増える。

 

 (休む暇はない。だが、手順を崩すほど忙しくなるのは本末転倒だ)

 

 セレブリャコーフが小さく咳払いをして、次の束を示した。

 

「次の回付です。さきほどの件に関連して、追加の書面が来ています。期限が短いです」

 

 ターニャは目だけで束を見た。短い期限。追加の書面。そういうものは、だいたい中身が重い。

 

「机に置け。分類は同じだ。まず期限で切る」

 

「承知いたしました。期限順に並べます」

 

 ターニャは紙の端を揃え、次の戦場へ手を伸ばした。形を整えることが、唯一の防具だ。防具があるなら、前へ進むしかない。

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