幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第4節 輸送枠の争奪

 

 

 国家保安本部の廊下は、いつもより人の流れが速かった。足音が増えると、書類の束も増える。増えた束は、必ず誰かの机へ落ちる。

 

 ターニャの机にも落ちた。

 

 薄い封筒が三つ。厚い封筒が一つ。どれも封緘が雑で、急ぎの印が押されている。差出人の肩書はばらばらだが、要旨は一行で揃っていた。

 

 列車。倉庫。人員。現地。

 

 (西の準備を、紙の上で先に動かしている。現場が動き出す前に、数字が先に走っている)

 

 ターニャは受領番号の欄を埋め、回付箱へ入れ替える順番を決める。先に読むべきは、担当者の熱量ではない。押印欄の空白だ。空白が多い紙は、責任を押し付ける紙になる。

 

 背後で椅子が静かに引かれ、セレブリャコーフが机の脇に立った。手には、分厚い表が挟まれている。紙の角を揃えて持つ癖が、いつも通りだ。

 

「本日、国防軍側との折衝が入っています。参謀本部の中佐が来ます」

 

 ターニャは視線を上げずに返す。

 

「レルゲンか」

 

「はい。時間は二十分、場所は第三会議室です。先方は、列車の本数と燃料配分の話を、今日中に形にしたい様子です」

 

 ターニャはペン先で封筒の端を軽く叩く。形にしたい、という言い方は便利だ。便利な言い方は、だいたいこちらへ丸投げする前振りになる。

 

 (今日中に形にしたい。つまり、誰も署名者を出したくない)

 

「資料は」

 

「輸送表、燃料配分票、弾薬の搬入予定、港の積み降ろし予定です。現地の人員移送も一枚入っています」

 

 ターニャはようやく顔を上げた。

 

「机上で話す。現物を置く。口だけの押し付けは切る」

 

「承知いたしました。第三会議室に、表を広げられるよう準備します」

 

 セレブリャコーフが一礼して去ろうとした瞬間、ターニャは短く呼び止めた。

 

「少尉。先方の要求は、言葉で聞くな。紙の欄で聞け」

 

「はい。署名欄と責任欄を先に確認します」

 

 (分かっている。助かる)

 

 ターニャは封筒を一つだけ残し、残りを回付箱へ滑らせた。残した封筒には、薄い紙が一枚だけ入っていた。予告だ。すぐに、もっと重い紙が来る。

 

 時間になり、第三会議室へ向かう。会議室の机には、すでに紙が広げられていた。大判の輸送表が二枚、燃料配分票が一枚、港の荷役予定表が一枚。さらに、弾薬の搬入予定と人員移送の一覧が、小さな表で添えられている。

 

 セレブリャコーフは机の端に立ち、どの紙が何を示すかを、視線だけで分かる配置にしていた。列車の時刻表は上、燃料配分は中央、港の予定は下。縦に並べると、話が自然に「どこが詰まっているか」へ落ちる。

 

 扉が開き、レルゲンが入ってきた。背筋は真っ直ぐで、挨拶が短い。軍の人間らしい短さだ。親衛隊の部屋に入っても、顔色を変えない。変えない代わりに、最初から殴ってくる。

 

「時間がない。列車を増やすなら、何を削る。答えろ」

 

 ターニャは椅子に座ったまま、公式の口調で返した。声の高さも速度も変えない。変える必要がない。

 

「承知しました。影響範囲を文書で確定します。責任者も置きます。まず、どの列車を増やす想定でしょうか」

 

 レルゲンは、机の上の輸送表を指で叩いた。場所は北ではない。西だ。矢印の引き方が荒い。急いで書いたのが分かる。

 

「ここだ。港へ入れる貨物。弾薬と燃料が遅れると、全部が止まる。人員も同じだ。船も列車も埠頭も、同じ口で詰まってる」

 

 ターニャは「埠頭」という単語を拾ったまま、表の下側へ視線を落とす。港湾の荷役予定表だ。荷役の人員配置と、クレーンの稼働時間が書かれている。数字がきれいすぎる。現場の数字ではなく、机上の理想に寄っている。

 

 (紙の上では、クレーンは疲れない。現場は疲れる)

 

 ターニャは、燃料配分票を指先で滑らせ、レルゲン側へ少し寄せた。

 

「中佐。ここにある燃料の配分は、現地の警備車両と、港の機材にも回っています。列車を増やすと、その分が減ります。どちらを削る想定ですか」

 

 レルゲンは一瞬だけ目を細め、即答する。

 

「警備だ。銃を持った連中が燃料を食う。港を守るのは分かるが、守って物が動かなきゃ意味がない」

 

 セレブリャコーフが視線を落とし、控えにメモを取る。ターニャはレルゲンの返答を否定しない。否定すると感情戦になる。感情戦は長い。長い戦いは紙を増やす。

 

「ご意見は理解しました。ただ、警備を削るなら、誰が責任を持つのかを確定します。削った結果、破壊工作が起きた場合、責任の欄が空白になります」

 

「責任? そんなもの、現場の司令部が取る」

 

 ターニャは首を横に振らない。代わりに、手続に落とす。言葉を短くし、逃げ道を塞ぐ。

 

「現場の司令部、という表現は広すぎます。責任者の氏名と署名欄を、文書に落としてください。できないなら、削減は実施できません」

 

 レルゲンは鼻で笑い、今度は弾薬の搬入予定を指した。

 

「紙遊びに付き合ってる暇はない。弾薬が遅れたら、戦闘が先に死ぬ。誰の署名だろうと、死ぬのは兵だ」

 

 ターニャは、紙の上の「搬入予定」の欄を見せるように指で押さえる。そこには、搬入先の倉庫番号と、担当の階級だけが書かれていた。氏名がない。責任が浮いている。

 

「兵が死ぬからこそ、署名が必要です。ここには担当の階級はありますが、名前がありません。これでは、遅延が起きた時に原因が追えません」

 

 レルゲンは、少しだけ黙る。黙る理由は、ターニャの口調に圧されたからではない。紙の弱点を突かれたからだ。そこに付け入る余地がある。

 

 セレブリャコーフが落ち着いた声で補足する。

 

「搬入予定の作成者が、部署名だけで回しているようです。署名の運用が統一されていません」

 

 レルゲンが言う。

 

「だから急いでる。統一する時間がない」

 

 ターニャは一往復で切る。これ以上の応酬は、言葉の殴り合いになる。必要なのは殴り合いではなく、手続で縛ることだ。

 

「議論はここまでにします。今日中に、責任者名と署名欄を入れた改訂版を提出してください。提出先は私の文書係です。受領番号を付けます」

 

 レルゲンは眉をひそめた。

 

「提出? こっちは今ここで決めたいんだ」

 

 ターニャは机の端の時計へ視線を落とし、時間を盾にする。盾は硬い。硬い盾は、感情を跳ね返す。

 

「決めるための材料が不足しています。署名がない文書では、決めた後に破綻します。破綻した場合、列車も燃料も弾薬も、全部止まります。今日中に出せば、今日中に決裁に回せます」

 

 レルゲンは歯を鳴らすように舌打ちしそうになり、抑えた。軍人の矜持だろう。代わりに、指で輸送表を叩いた。

 

「じゃあ聞く。お前たちの治安任務を減らせば、どれだけ列車が空く」

 

 ターニャは即答しない。数字は正確に出す必要がある。ここで曖昧に答えると、その曖昧さが「削っていい」になる。

 

 (曖昧に答えると、責任欄がこちらに来る)

 

「現時点では確定できません。治安任務には、港と鉄道の結節点、外国人の動きの監視が含まれます。削る場合は、対象と範囲を限定し、削減の責任者を置きます。削減案を二案、文書で出してください」

 

 レルゲンは目を細める。

 

「こっちに案を出せと言うのか」

 

「はい。軍の要求で削るのであれば、軍が削減の責任線を引く必要があります。私が勝手に削るのは越権です」

 

 レルゲンは椅子の背にもたれ、短く吐き捨てた。

 

「面倒だな」

 

 ターニャは面倒という単語を受け流し、最後に締める。締めは期限と提出先だ。

 

「面倒でも、必要です。提出期限は本日中。署名と責任者名は必須です。提出がなければ、現状維持で回します」

 

 レルゲンは立ち上がり、輸送表を一枚だけ掴んで持ち上げた。持ち上げた紙の角が揃っていない。苛立ちが出ている。

 

「分かった。出す。だが、その間にも遅れる。遅れた分は、誰が埋める」

 

 ターニャは一呼吸だけ置いて答える。ここで余計な優しさを混ぜると、後で必ず刺される。

 

「遅延が出るなら、遅延の範囲を文書で確定します。誰が埋めるかも、責任者を置きます。今日の提出に、それも含めてください」

 

 レルゲンはそれ以上言わず、扉へ向かった。会議は終わった。終わらせた。ここから先は紙の時間だ。

 

 セレブリャコーフが静かに息を吐いた。表情は崩さないが、会議の緊張は確かにあった。

 

「中佐は、今日中に出すと言いました。ですが、署名者が逃げる可能性があります。部署名だけで回すかもしれません」

 

 ターニャは椅子から立ち、机上の表を一枚ずつ揃え直した。揃える動作は、思考の整理でもある。

 

「逃げるなら、受領だけして止める。署名がないなら動かさない。例外は作らない」

 

「承知いたしました。受領番号を付け、署名欄の欠落を指摘した上で差し戻します」

 

「差し戻し票は短く。理由は一行でいい。相手に言い訳の余地を与えるな」

 

「はい。『署名者不在につき決裁不可』で統一します」

 

 ターニャは燃料配分票を見下ろす。数字が並ぶ紙は冷たい。だが、冷たいから信用できる。信用できる数字だけを扱えばいい。問題は、数字の周りに湧いてくる言葉だ。言葉は熱い。熱い言葉は、責任を溶かす。

 

 (熱い言葉は嫌いだ。責任を曖昧にする)

 

 セレブリャコーフが、会議中のメモを見せる。レルゲンの要望は簡単にまとめられている。

 

 列車を増やす。警備を削る。遅延を減らす。

 

 ターニャはメモの余白に、短く書き足した。

 

 責任者。署名。期限。

 

 この三つが入って初めて「要望」は「決裁対象」になる。入らないなら、ただの愚痴だ。愚痴を聞く仕事ではない。

 

 会議室を出て、文書室へ向かう。廊下の途中で、文書係が近づいてきた。手にしているのは、薄い紙だが、内容は重い。

 

「先ほどの会議の件で、参謀本部から電話がありました。『口頭で先に動かしてほしい』とのことです。署名は後で出す、と」

 

 ターニャは足を止め、文書係を見下ろした。体が小さいせいで、見下ろすというより見上げに近いが、視線は鋭くする。

 

「口頭は記録に残したか」

 

「はい。受領番号を付け、発信元、担当者名、時刻を記録しました」

 

「いい。返答は簡単だ。署名が出るまで動かない。動かすなら誰が署名するか、今この場で確定させろ」

 

「承知しました」

 

 文書係が去ると、セレブリャコーフが小声で言う。

 

「急ぎの口頭指示は、こちらに責任を押し付ける形になりやすいです」

 

「分かっている」

 

 ターニャは歩きながら、頭の中で次の文書の形を作る。相手が「急ぎ」を盾にするなら、こちらは「記録」を盾にする。盾は硬く、感情を受けない。

 

 (急ぎは免罪符にならない。急ぎこそ記録が要る)

 

 文書室に入り、机上に新しい起案用紙を置く。題名は短くする。余計な美辞麗句はいらない。目的は、列車を増やすことではない。列車を増やすことで起きる影響を、誰が背負うかを決めることだ。

 

 ターニャはペンを走らせる。

 

 影響範囲。削減対象。責任者。

 

 順番はこの三つでいい。これ以上の項目を増やすと、読む人間が逃げる。逃げると、また口頭になる。口頭は嫌だ。

 

 (書いてあるのに読まれないなら、それは書いてないのと同じだ)

 

 セレブリャコーフが、机の横に表を並べ直す。輸送表、燃料配分票、弾薬の予定、人員移送。港の予定表は最後に置いた。あれは数字が綺麗すぎる。綺麗すぎる紙は、最後に確認する方がいい。先に見ると、現実感が狂う。

 

「大尉、起案の形はどうしますか」

 

 ターニャはペンを止めずに答える。対内の口調だ。短く、制度語彙で切る。

 

「名目を三つに限定する。列車の増便、警備の削減、遅延の責任。これ以外は別紙。別紙には署名欄を増やす」

 

「承知いたしました。本文は三項目に限定し、別紙は署名欄と責任欄を必須にします」

 

「相手が『現場が取る』と言い出したら、現場の責任者名を出させろ。出せないなら、現状維持で回す」

 

「はい。現地司令部、という表現は使わせず、責任者名に落とします」

 

 ターニャは一瞬だけ、胸の奥に小さな苛立ちを感じた。机の高さではない。紙が増えることへの苛立ちだ。紙は戦場だが、紙が増えるほど、戦場が広がる。

 

 (やることが増える。時間は増えない。最悪だ)

 

 だが、苛立ちは表に出さない。出した瞬間、相手は「感情的だ」と言い出す。感情的だと言われたら、また紙が増える。

 

 ターニャは淡々と書き続ける。

 

 提出期限。本日中。

 

 受領番号。必須。

 

 署名。必須。

 

 責任者名。必須。

 

 この四つが揃えば、相手は逃げにくい。逃げるなら、逃げたことが記録に残る。記録が残れば、次の場で潰せる。

 

 セレブリャコーフが小さく確認する。

 

「中佐の要求を『理解した』という文言は入れますか」

 

 ターニャは一拍置き、言葉を選んだ。余計な善意は入れないが、角を立てすぎるのも得策ではない。対外は公式だ。公式は冷たく見えても構わない。だが、反発を無駄に増やす必要はない。

 

「入れる。ただし、要求の受理と範囲の確認までだ。実施の約束にはしない」

 

「承知いたしました。『要求は受領した。影響範囲を確認し、責任者を確定する』の形で入れます」

 

「それでいい」

 

 机の上の紙が、少しだけ整理された。まだ足りない。だが、足りないのが普通だ。足りないまま、次へ進むしかない。

 

 扉がノックされる。文書係が顔を出した。

 

「参謀本部から、追加で一枚届きました。署名はまだですが、案として、削減対象の候補が書かれています」

 

 ターニャは紙を受け取り、目を走らせた。候補は三つ。警備車両の稼働、港の機材稼働、現地の巡回。どれも削れば、別の場所が燃える。

 

 (燃える場所を選べと言われている。なら、燃やした責任者を選ばせる)

 

 ターニャは紙をセレブリャコーフへ渡した。

 

「少尉。ここ、候補の下に署名欄を作れ。誰が選ぶかを固定する。選んだ者が、結果を背負う」

 

「承知いたしました。候補ごとに責任者欄を作り、選択した案に署名を入れる形にします」

 

「それでいい。あと、遅延が出た時の報告手順も短く書け。報告の窓口を一つにする」

 

「はい。窓口を固定し、受領番号で追える形にします」

 

 ターニャは起案用紙の末尾に、短い一文を足した。

 

 「口頭の先行実施は認めない」

 

 これで、相手がどれだけ急いでも、逃げ道は減る。急ぎは、こちらの責任を増やす言い訳にならない。

 

 ペン先を置き、ターニャは机上の表をもう一度見渡した。数字は冷たい。だが、冷たい数字の方が、まだ話が通る。

 

 (レルゲンは厄介だが、数字で殴ってくる。数字で殴ってくる相手は、制度で受け止められる)

 

 ここまでが前半だ。次は、相手がどの方向へ傾くかを見極める。監視して利用するのか、押し付けて逃げるのか。どちらにせよ、ターニャがやることは同じだ。

 

 責任線を引く。

 

 その線を、紙の上に残す。

 

 

 

 

 夕方が近づくにつれ、文書室の空気が乾いていった。インクの匂いが強くなるのは、紙が増えた証拠だ。ターニャの机には、起案用紙の束が二段になって積まれている。片方は提出待ち。もう片方は差し戻し待ちだ。

 

 差し戻し待ちが多いのは、相手が怠けているからではない。責任者の欄を埋めたがらないだけだ。

 

 セレブリャコーフが、受領番号の一覧を手元で整えた。書式の角が揃うと、見る側の気持ちが落ち着く。落ち着くと、余計な口論が減る。副官のこういう癖は、ターニャにとって助けだった。

 

「参謀本部から、改訂版が届きました。署名欄が埋まっています。ただ、削減案の責任者欄が一つだけ空いています」

 

 ターニャは顔を上げず、紙を差し出すよう指先を動かした。

 

「空いている欄は、どこだ」

 

「現地の巡回回数を減らす案です。署名者が避けた形になっています」

 

 ターニャは紙を受け取り、空白の欄を見つめた。空白は正直だ。ここに失敗の責任が落ちるのを、誰も引き受けたくない。だから空白になる。

 

 (……空白は嫌いだ。責任が溶ける。溶けた責任は、必ずこちらに張り付く)

 

 ターニャはペンで空白欄を軽く囲み、付箋を貼った。付箋には短い文だけを書く。余計な丁寧語は要らない。

 

 署名者不在。決裁不可。

 

 セレブリャコーフが落ち着いた声で続ける。

 

「他の二案は署名者がいます。警備車両の稼働を抑える案と、埠頭の機材稼働を減らす案です。どちらも、責任者は補給担当の中佐になっています」

 

 ターニャは視線だけで燃えやすい方を選んだ。巡回を減らす案が空白になっている時点で、そちらは使えない。使うなら、こちらが署名者を探して走ることになる。走った瞬間に負けだ。

 

「巡回の案は差し戻し。署名者名を入れさせる。入らないなら採用しない」

 

「承知いたしました。差し戻し票は一行で統一します」

 

 セレブリャコーフは差し戻し票の用紙を取り出し、受領番号を写し始めた。手が速い。丁寧さが落ちない速さだ。

 

 ターニャは改訂版の本文を読み、必要な箇所だけ赤鉛筆で印を付ける。文章は最低限だ。余計な修飾がない。やっと実務の紙になってきた。

 

 だが、まだ足りない。削減した結果、何が起きたときに、どこへ報告が上がるのかが曖昧だ。曖昧な報告経路は、現場に丸投げするのと同じになる。

 

 ターニャは余白に短く書き足した。

 

 報告窓口は一つ。受領番号で追跡。記録係を固定。

 

「少尉。報告の窓口をこちらに一本化する。現場に複数の宛先を作らせるな」

 

「はい。宛先を一本にして、番号で追える形にします。追加の通知先は、原則として作らない形でよろしいでしょうか」

 

「よろしい。例外が必要なら、例外の理由と署名者をセットにする」

 

「承知いたしました」

 

 扉がノックされる。文書係が顔を出し、控えめに言った。

 

「レルゲン中佐が、十分だけ時間が取れるとのことです。今、こちらへ向かっています」

 

 ターニャはペン先を置いた。十分で足りる。足りなければ、足りない理由を紙に落とせばいい。

 

「通せ」

 

 数分後、レルゲンが入ってきた。さっきよりも、少しだけ落ち着いた顔をしている。怒りが消えたのではない。整理されただけだ。整理されると、話が進む。

 

「出した。署名も入れた。これでいいだろ」

 

 ターニャは立ち上がらず、机の上に示した。ここからは、紙の確認だ。感情の確認ではない。

 

「受領します。欠落がないか確認します」

 

 レルゲンは苛立ちを隠さず言う。

 

「確認だの受領だの、言葉遊びはいい。列車の本数を増やす。そこだけ決めろ」

 

 ターニャは公式の口調で、短く切る。結論から入れ、手続へ戻す。

 

「決裁は可能です。ただし、削減案の一つに責任者がいません。このままでは採用できません」

 

「空白? どこだ」

 

 ターニャは付箋を貼った欄を指で押さえた。説明は最小でいい。相手が自分で気づく形が一番早い。

 

「巡回の回数を減らす案です。責任者が空欄です」

 

 レルゲンは一瞬だけ視線を逸らし、すぐ戻した。

 

「現場が調整する」

 

 ターニャはそこで切る。余計な説教はしない。空欄のままなら動かない。それだけだ。

 

「現場、という言葉では決裁できません。氏名が必要です。出せないなら、その案は使いません」

 

 レルゲンは机を指先で軽く叩いた。叩く場所は、輸送表の端ではなく、責任者欄の近くだ。もう理解している。

 

「分かった。なら二案で回せ」

 

「承知しました。二案で回し、巡回の案は差し戻します」

 

 レルゲンは首を傾け、今度は別の方向から刺してきた。

 

「お前たちの治安任務は、どこまで削る。こっちは列車を通すために、余計な動きを減らしたい」

 

 ターニャはすぐ答えない。削る、という言葉は危険だ。削ると、必ず「削れた分だけ別の仕事をしろ」と言われる。別の仕事をしろと言われた時点で、責任線が崩れる。

 

 (減らす、という言い方が一番危ない。勝手に拡大解釈される)

 

「削減は、対象と範囲を限定した場合のみ可能です。埠頭と鉄道の結節点は外せません。外すなら、破壊工作が起きた場合の責任者を軍側で置いてください」

 

 レルゲンは鼻で笑う。

 

「責任、責任か。お前はそれしか言わないな」

 

 ターニャは表情を変えずに返す。責任を言い続けるのは、趣味ではない。生存の手段だ。

 

「責任がないと、決裁ができません。決裁がないと、列車も物資も動きません」

 

 レルゲンは視線を落とし、机上の数字を追った。数字で話す人間は、最後には数字を見る。

 

「じゃあこうだ。お前たちは監視を減らせ。外国人の動きを追うのは分かるが、全部追うな。優先順位を付けろ」

 

 ターニャは心の中で、小さく価値を認めた。相手が「全部やれ」ではなく「優先順位を付けろ」と言った。つまり、監視して利用する方向に傾き始めている。押し付けて逃げるだけの相手ではない。

 

 (厄介だが、使える。数字を読む。優先順位を理解する。話が通る相手だ)

 

 ターニャは短く頷き、条件に落とす。

 

「優先順位は出します。ただし、優先順位の変更は文書で残します。口頭で増減させません。担当の責任者も固定します」

 

「固定、ね。誰にする」

 

 ターニャは迷わない。迷うと、相手が勝手に決める。決めさせると、こちらに押し付けが来る。

 

「こちらの実務責任者は、私が置きます。現地の実行責任者は、軍と現地行政で一名ずつ出してください。氏名で。部署名では不可です」

 

 レルゲンは眉をひそめたが、否定はしなかった。代わりに、短く言った。

 

「出す。だが、時間がない」

 

 ターニャは即座に期限を置く。期限は相手の言い訳を減らす。

 

「本日中です。提出がない場合は、現状維持で回します。列車の増便は二案で先に決裁へ回します」

 

 レルゲンは一瞬だけ笑った。楽しそうではない。苦い笑いだ。

 

「脅しが上手いな」

 

「脅しではありません。手続です」

 

 これ以上の応酬は不要だ。ターニャは一往復で会話を終える。あとは紙が勝手に相手を縛る。

 

 レルゲンが去った後、セレブリャコーフが小さく息を吐いた。

 

「中佐は、こちらの監視任務を『使う』方向に回しました。押し付けよりは、形になります」

 

 ターニャはペンを取り、決裁に回す順番を決める。決裁は、速さが正義ではない。壊れない順番が正義だ。

 

「壊れにくい。だから厄介だ」

 

「はい。ただ、署名者を出す点は、先ほどより進みました」

 

「進んだなら、こちらも線を引く。現場に丸投げはさせない」

 

 セレブリャコーフは頷き、差し戻し票の控えを整えた。

 

「巡回案は差し戻しでよろしいですね。『責任者欄未記入につき採用不可』で統一します」

 

「それでいい」

 

 ターニャは印鑑を取り、起案用紙の角に押す。印鑑の感触が固い。固いのは好きだ。固いものは、形を変えない。

 

 だが、印鑑が固いのは単に材質の問題で、好みの問題ではない。ターニャは内心で短く悪態をつき、すぐに合理へ戻った。

 

 (硬い。腹が立つ。今それどころではない)

 

 決裁の束が回付箱へ入る。受領番号が並ぶ。署名欄が埋まる。空白が減る。減った分だけ、現場の暴走が減る。暴走が減れば、余計な追加任務が減る。

 

 ターニャは紙の束を見下ろし、最後に短く結論を出した。

 

 (列車を増やすかどうかではない。増やした結果の責任を、紙の上で先に決める。それだけだ)

 

 セレブリャコーフが、窓口一本化の通知文案を差し出す。短い。分かりやすい。余計な飾りがない。実務の言葉だ。

 

「窓口固定の通知です。宛先を一本にし、受領番号で追える形にしました。追加の通知先は、原則作りません。例外は署名者付きで申請、という形です」

 

 ターニャは一度だけ目を通し、ペンで端的に指示する。対内の短い口調だが、乱暴にはしない。

 

「その形で確定。文言は固定して回す。次の差し戻しにも使える」

 

「承知いたしました。統一文として登録します」

 

 机の上から、余計な紙が一枚減った。代わりに、決裁に回った紙が増えた。増えた方がいい。動くからだ。動けば、責任が形になる。

 

 扉の外で足音が止まり、文書係が顔を覗かせた。

 

「現地行政から、責任者名が来ました。署名は、明朝になるそうです」

 

 ターニャは視線を動かさず、即答した。

 

「氏名があるなら受領する。署名がないなら決裁には回さない。明朝、期限を切って出させる」

 

「承知しました」

 

 ターニャは回付箱へ最後の束を入れ、机上を整えた。整えるのは、几帳面だからではない。次の戦場を作るためだ。乱れた机は、判断を遅らせる。

 

 そして、判断が遅れると、誰かが勝手に動く。

 

 勝手に動く現場ほど、後で面倒になるものはない。

 

 ターニャは椅子に深く座り直し、短く息を吐いた。

 

 (監視して利用する相手は、面倒だ。だが、押し付けて逃げる相手よりは、まだマシだ)

 

 紙の上で線を引いた。あとは、その線を踏ませないだけだ。

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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