幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第9節 ヒムラーへの報告

 

 

 文書室の机上に、封緘前の封筒が一つ置かれた。サイズは小さい。だが、紙の厚みが違う。封筒の角が立っているだけで、扱う部署の温度が変わる。

 

 セレブリャコーフが手袋の指先で封筒を押さえ、宛名欄の位置を正した。筆圧を弱くし、インクが滲まないようにする。落ち着いた動きだが、速度は落とさない。

 

「差出元の形式は整っています。文言も短いです」

 

 ターニャは椅子に座ったまま、封筒の端だけを見た。宛名の肩書きが、余計な修飾を拒むように簡潔だった。

 

 親衛隊全国指導者からの照会。命令ではない。だから怖い。

 

 命令なら、拒否も延期もできないだけだ。照会は違う。返答の形が、受け手の能力を測る。しかも測った結果は、次の仕事の量に直結する。

 

 ターニャは封筒を開けない。開ける前に、机上の紙束を見直した。先に形を作る。形があれば、文言はそこへ収まる。

 

 机にはすでに、四つの束が並んでいる。

 

 一つ目は責任者一覧。部局名と担当名と、最終署名者。空欄が一つでもあれば、後で誰かが逃げる。

 

 二つ目は進捗表。数字と期日と、遅延理由を短く。言い訳に見えない長さで止める。

 

 三つ目は代替案。現場が止まった場合の迂回。迂回の条件と、影響範囲。希望的観測は入れない。

 

 四つ目は、遅延が出た場合の処分案。脅しに見せない。だが、実際に執行できる形で置く。責任の線を曖昧にすると、事故が増える。

 

 セレブリャコーフが、照会文を取り出した。紙は一枚だけ。余白が広い。余白が広いほど、受け手の返答が問われる。

 

「文言は、次の通りです。“現状の整理と、当該案件の収束見込みを示せ。責任者と期限を付すこと”。以上です」

 

 ターニャは小さく頷いた。

 

「受領した。こちらの提出物で満たせる」

 

 対外の口調ではない。だが、乱暴でもない。室内は実務の場だ。ここで余計な敬語を積むと、逆に焦りが見える。

 

 ターニャはペンを取り、返答の本文を白紙の上に置いた。最初に見出しを作る。見出しが整っていれば、読む側の時間が減る。読む側の時間が減れば、評価は上がる。評価が上がれば、次の仕事が増える。だが、評価が下がるよりはマシだ。

 

 (仕事が増えるのは嫌いだ。だが、雑に扱われるのはもっと嫌いだ)

 

 ターニャは内心の悪態を切り捨て、字を揃えた。線を引く。項目を三つに限定する。多いと読まれない。少ないと疑われる。中間を選ぶ。

 

 セレブリャコーフが控え用の紙を横に置き、同じ順でページを揃えた。角が一度もずれない。これが、この部屋の武器だ。

 

「本文は短くします。添付で示す。本文は、結論と範囲だけにします」

 

「承知しました。添付の順序は、責任者一覧、進捗、代替案、遅延時の対応案、でよろしいでしょうか」

 

「その順でいい。責任者を先に出す。逃げ道を先に潰す」

 

 ターニャは本文の第一行を置いた。丁寧な言い回しを選び、余計な飾りを削る。最上段の相手には、最上段の形式が必要だ。

 

 書き出しは定型になる。定型は安心を与える。安心を与えれば、読まれる。

 

 だが、安心は油断も呼ぶ。だから、安心の中に釘を打つ。

 

 ターニャは文面の中に、敬意の言葉を一度だけ入れた。多用しない。媚びに見える。だが、一度も無いと冷たく見える。線を引け。

 

 セレブリャコーフが目線だけで確認した。ターニャが頷く。そこで初めて、清書に入る。

 

 机の上の時計が進む。秒針は音を立てない。音を立てないから、余計に圧がある。

 

 扉の外の足音は遠い。ここは静かだ。静かだから、紙の擦れる音がよく聞こえる。

 

 ターニャは清書の途中で、封筒に戻った。封筒の内側にある小さな印。差出元の部署を示す印だ。形式は整っている。整っているからこそ、誰が整えたかが気になる。

 

 (誰が、どの意図で、この形にした。上からの照会は、上だけの意志ではない。下が混ぜることもある)

 

 混ぜる、という発想を切り捨てる。切り捨てないと、疑いだけで時間が消える。いま必要なのは、返答の形だ。

 

 セレブリャコーフが、進捗表の数字を指で追いながら言った。

 

「遅れの芽は、港湾側の手順で残っています。今日回付した草案の修正が、明日正午までに返ってくる想定です」

 

 ターニャは短く返した。

 

「芽は潰す。返ってこない前提の代替案も添付する」

 

「承知しました。代替案の条件は、検査の上限超過と、鉄道枠の再調整、で二案にします」

 

「二案で十分だ。三案にすると、選ばない理由が増える」

 

 セレブリャコーフが頷く。すぐに紙束の並びを変え、代替案のページに付箋を付けた。付箋の色は控えめだ。派手だと、別の目立ち方になる。

 

 ターニャは、遅延時の処分案の紙を引き寄せた。処分という言葉を表に出しすぎると、空気が荒れる。だが、曖昧にすると、誰も動かない。

 

 文言は、執行できる範囲に限定する。過剰に書けば、あとで自分が困る。不足すれば、相手が困る。その困りは、結局こちらへ返ってくる。

 

 (不足は罪だ。過剰も罪だ。罪の中で一番軽いものを選ぶだけだ)

 

 ターニャは表現を整え、責任の線を一本にした。一本にすると折れる。だが、複数にすると逃げる。一本にして、折れないよう補強する。補強は、署名欄と期限でやる。

 

 清書が終わったところで、セレブリャコーフが本文を読み上げた。読み上げは重要だ。目で読むのと、耳で聞くのは違う。耳で聞いて不自然なら、相手に読ませたときも引っかかる。

 

「本文の結論部分です。“ご照会の範囲は充足しております。遅延に繋がる要因は先に切り、責任者と期限は添付の通り固定いたしました”。続けて、必要事項の範囲説明です」

 

 ターニャは一度だけ手を上げて止めた。

 

「“充足”は硬い。だが、相手は硬さを嫌わない。問題は、こちらの意図が曖昧に見えることだ。動詞を変える」

 

「どのようにいたしますか」

 

「“満たしました”にする。短い方が強い」

 

 セレブリャコーフがすぐに直した。修正箇所は控えにも反映する。片方だけ変えると事故になる。

 

「承知しました。“満たしました”に修正します」

 

 ターニャは頷き、次の行へ進めた。

 

 敬意の一文は、既に置いてある。そこは触らない。触ると、余計な温度が出る。温度は一度だけでいい。

 

 添付の見出しも整える。見出しは短く。中身は読みやすく。

 

 セレブリャコーフが添付の表紙を作った。表紙には、添付番号、件名、作成部署、作成日、控え番号。控え番号は重要だ。控え番号があるだけで、「後で消せない」空気が生まれる。

 

 ターニャはその空気を嫌う。だが、必要だ。

 

 (消せないようにする。消せないから、嘘が減る。嘘が減れば事故が減る。嫌いだが必要だ)

 

 内心の整理は短く切り、手を止めない。

 

 次に、署名欄だ。

 

 署名欄の位置は決まっている。本文の末尾、添付表紙の末尾、そして控えの末尾。三つが揃っていれば、後で言い逃れができない。

 

 ターニャは署名欄の下に、部署の印を押す場所を確保した。小さな四角。小さな四角のために、人は胃を痛める。だが、その痛みが必要なときもある。

 

 封筒に入れる順序を確認する。本文、添付表紙、添付一、二、三、四。最後に控え番号をもう一度見せる紙を入れる。見せるだけで、読む側は安心する。安心は、余計な詮索を減らす。

 

 セレブリャコーフが、封緘用の道具を並べた。糊、封緘印、紐。余計な装飾はしない。だが、手を抜いた印象も出さない。

 

 ターニャは一枚だけ、添付の責任者一覧を見直した。名前が並ぶ。並ぶだけで、空気が重い。責任者一覧は、紙の上の網だ。網があれば、逃げる者を捕まえられる。捕まえられると分かれば、逃げる前に動く者が増える。

 

 (逃げるな。逃げるなら、最初から署名するな)

 

 ターニャは視線を戻し、封筒の口を整えた。紙が角で引っかからないように、束の端を揃える。揃えたところで、ふと気づく。ここまで整ったものを差し出すと、相手は次も同じ水準を求める。

 

 求められたら、断れない。断れない仕事が増える。

 

 だが、逆に言えば、この水準を出せる相手として扱われる。扱われ方が変わる。扱われ方が変われば、仕事の落ち方も変わる。落ちる場所を選べる余地が増える。

 

 ターニャはそこまで考えて、切った。余計だ。いまは提出の一手前だ。

 

「少尉。控えを保管庫へ回せ。閲覧権限は最小でいい。閲覧者名を残す」

 

「承知しました。閲覧者名簿も付けます」

 

「付けるのは後でいい。今は控え番号と保管場所だけ確定しろ」

 

「はい。保管場所を先に固定します」

 

 セレブリャコーフが控えを封筒に入れず、別のファイルに収めた。ファイルの背に番号を書く。番号の書き方も定型だ。定型は味方だ。定型がある限り、改ざんは目立つ。

 

 ターニャは封緘の前に、もう一度本文の最後だけを読んだ。結論、範囲、添付の案内。敬意の一文は一回だけ。余計な感情は無い。これでいい。

 

 封緘印を押す。押した瞬間、紙はもう紙ではない。手続きになり、命令に近づく。

 

 ターニャはその感覚が嫌いだ。だが、嫌いだからこそ、手を止めない。止めたら飲まれる。

 

 封筒の表面に、宛名を整える。肩書きは省かない。誤記は論外だ。文字の間隔は詰めすぎない。詰めすぎると、焦りが見える。

 

 セレブリャコーフが差出元の欄を指した。

 

「差出元の表記は、“国家保安本部付調整官”でよろしいでしょうか」

 

 ターニャは少しだけ間を置いた。

 

 この表記は中立に見える。中立に見せる必要がある。だが、宛先だけは外せない。

 

「それでいい。所属はそこに置く。宛先は変えない」

 

「承知しました」

 

 封筒が完成した。たった一通。だが、この一通が、部屋の空気を変える。

 

 見出し、添付、署名欄、控え番号。すべてが揃っている。揃っているから、返ってくるものも重くなる。

 

 ターニャは封筒を机上に置いたまま、指先で一度だけ角を揃えた。

 

 整いすぎた形式は、恐怖になる。

 

 そして、その恐怖は、命令よりも静かに効いてくる。

 

 

 

 封緘印が乾くまでの時間は短い。だが、その短さが落ち着かない。乾く前に触れれば滲み、滲めば「急いだ」ことが見える。急いだことが見えれば、相手は理由を探す。

 

 ターニャは封筒から手を離し、机上の別の紙束へ視線を移した。提出物は一通で終わらない。一通を成立させるための周辺が要る。

 

 発送の記録、受領の控え、閲覧権限の指定、保管番号、回付の経路。

 

 この辺りが曖昧だと、内容そのものより先に、内部で揉める。揉めれば、時間が消える。時間が消えれば、現場が勝手に動く。

 

 (経路を二重にした。手間は増えるが、事故は減る。嫌いだが必要だ)

 

 セレブリャコーフが静かに封筒の横へ、もう一枚の薄い用紙を置いた。送達票だ。宛先、差出元、件名、添付枚数、控え番号、保管場所。空欄がない。

 

「送達票です。受領印欄は二つにしました。窓口用と、控え用です」

 

 ターニャは頷いた。二つあるだけで、紙は武器になる。受け取った側が「受け取っていない」と言えなくなる。

 

「よろしい。窓口は文書課で通す。控えは保管庫へ直行させろ」

 

「承知しました。保管庫の閲覧権限は、あなたと私、それから補佐官のみにいたしますか」

 

 ターニャは一瞬だけ指を止めた。補佐官――EVA。沈黙のまま、欠落と一致だけで刺してくる観測者だ。味方ではある。だが、近すぎる味方は、こちらの手を縛ることもある。

 

 それでも、今回だけは外せない。宛先へ確実に届く形を作るには、一本では細い。

 

「補佐官は入れる。閲覧は一回ごとに記録しろ。名前と時刻を残せ」

 

「承知しました。記録票も作成します」

 

 セレブリャコーフが紙を揃え直した瞬間、扉が控えめに叩かれた。返事を待たず、扉が少しだけ開く。顔だけが覗き、すぐに引く。

 

 RSHAの職員だ。制服の色が少し違う。新制服へ移行した連中の中に、まだ肩の力が抜けていない者がいる。制服が変わると、態度も変わる。逆もある。

 

「入れ」

 

 ターニャの声は短い。呼び入れるだけで、余計な温度を出さない。

 

 職員が一歩だけ中へ入り、敬礼は最小限に止めた。目が封筒へ向く。封筒の存在は目立つ。意図しなくても。

 

「文書課より連絡です。本日分の回付に、外部宛の送達があると。控え番号を確認したいとのことです」

 

 ターニャは机上の控え票を指先で押さえた。外部宛という言い方が雑だ。ここで雑に扱われると、内容に触れられる。

 

「控え番号は送達票に記載済みです。文書課には番号だけ渡してください。中身に触れる必要はありません」

 

 口調は公式だ。短く、結論を先に置く。必要な語彙だけを使う。

 

 職員の眉が僅かに動いた。反論するほどの材料はない。だが、納得もしていない。

 

「……承知しました。ただ、回付の種別が」

 

「種別はRSHA案件として処理します。文書課の手順に従わせてください。責任者は私が持ちます」

 

 責任を置く。置けば、相手は黙る。責任を持ちたがる者は少ない。

 

 職員が引き下がり、扉が閉まった。閉まる音は軽い。軽い音ほど不穏だ。軽い扉の先で、人は軽く噂をする。

 

 セレブリャコーフが小声で言った。

 

「嗅ぎつけています。回付の種別を確認するだけでも、余計な目が増えます」

 

「増える。だから先に固定する」

 

 ターニャは送達票の種別欄に、短い言葉を入れた。過剰に具体的にしない。だが曖昧にもさせない。

 

 “RSHA付随処理”。それだけで、文書課は勝手に深掘りしない。深掘りするなら、署名の欄が増える。署名の欄が増えるのは、文書課も嫌う。

 

 ターニャは封筒を手に取らず、封筒の横へもう一つの薄い封筒を置いた。こちらは控えではない。添付の要点だけを抜き出した短い概要と、責任者一覧の縮約版。誰が見ても一読で分かる形だ。

 

 この薄い封筒は、別経路で流す。正式な回付とは別に、宛先へ確実に届くための道だ。

 

 その作業を「露骨」に見せてはいけない。露骨に見せれば、RSHAの実務支配側が面白がる。面白がれば、余計な検査が増える。

 

「少尉。この薄い方は、補佐官経由で届けろ。内容は要点だけだ。あちらで本文と照合できる」

 

「承知しました。補佐官に渡す際の控えは残しますか」

 

「残す。ただし、保管は別番号にする。関連付けは、こちらの手元だけで足りる」

 

 セレブリャコーフが復唱し、手早く控え番号を二つ用意した。番号が増える。増えるだけで、管理は面倒になる。だが、面倒があるから、勝手に触られにくい。

 

 扉が再び開いた。今度は叩きがない。入ってきたのはEVAだった。足音がしない。制服の布が擦れる音すら小さい。存在感の出し方が違う。

 

 EVAは封筒を見て、一言だけ言った。

 

「見られている」

 

 理由は言わない。いつも通りだ。

 

 ターニャは顔色を変えずに頷いた。理由を聞けば、会話が長くなる。長くなると、部屋に余計な音が残る。

 

「どこだ」

 

「文書課。二人。型が同じ」

 

 EVAの言葉は断片だが、十分だった。「型が同じ」というのは、動きが似ているという意味だ。誰かの指示で動いている。そういう匂い。

 

 (予想通りだ。だから二つにした。一本だと折られる)

 

 ターニャは内心を短く切り、口を開いた。ここからは対EVAでも短く済ませる。会話を増やすと、隙になる。

 

「薄い方を頼む。宛先は長官の机だ。途中で止められたら、受領印を取って戻せ」

 

 EVAは頷くだけで、薄い封筒を受け取った。指先が一瞬だけ止まり、封筒の角を整える。整え方が、セレブリャコーフと同じだ。ヒムラー派の癖が、こういうところに出る。

 

 EVAが去る前に、もう一言落とした。

 

「欠落が増えた」

 

 ターニャは眉を動かさない。欠落。第9話から続く、記録の空白。それが増えているという意味だ。

 

「場所」

 

「輸送」

 

 EVAはそれ以上言わずに出て行った。

 

 輸送。レルゲンが噛みついてくる領域だ。ここで欠落が増えるなら、現場か、文書課か、あるいはその両方だ。いずれにせよ、いまは宛先への提出を優先する。

 

 ターニャは封筒を一通だけ手に取った。厚い方。正式な方だ。これを正規の窓口で流し、受領の形を残す。

 

「少尉。文書課へ行く。同行は要らない。控えの手順だけ回せ」

 

「承知しました。控えは保管庫へ。閲覧記録票は私が作成し、あなたへ提出します」

 

「よろしい」

 

 ターニャは椅子から降りた。子どもの体格のせいで、椅子から降りる動作が少しだけ面倒だ。だが、ここで苛立ちを見せるのは損だ。

 

 (忌々しい高さの机め。腹が立つ。今それどころじゃない)

 

 内心を刺し、すぐに切る。歩幅を一定にし、封筒を胸の高さで持つ。握りしめない。緊張が見える。

 

 廊下に出ると、視線が刺さった。制服の色で視線が変わるわけではない。封筒と肩書きで変わる。ターニャの後ろに護衛がいなくても、政治の匂いは付く。

 

 文書課の窓口は、いつも通り混んでいた。紙が集まる場所は、いつも忙しい。忙しい場所ほど、噂が早い。

 

 窓口の係が、ターニャの手元の封筒を見て、姿勢を正した。過剰な敬礼はしないが、声の調子が変わる。

 

「受領手続きでしょうか」

 

「送達の手続きです。宛先は記載の通り。添付枚数は表紙の通り。控え番号も記載しています」

 

 ターニャは淡々と告げ、送達票を差し出した。係は票だけを取り、封筒には触れない。触れれば責任が発生する。係は責任を嫌う。だから、こちらが責任を持つと言えば、手続きだけ進む。

 

 係が受領印を押し、控え用の欄にも同じ印を押した。印影が揃う。揃った印影は、後で効く。

 

「控えは、こちらで保管されますか」

 

「保管庫へ。閲覧権限は指定済みです。指定者以外の閲覧は不可。必要なら、私の署名を取ってください」

 

 口調は丁寧だが、柔らかくはない。規定と手順で縛る。

 

 係が一瞬だけ迷い、頷いた。

 

「承知しました。手続きとして記録します」

 

 ターニャは控えを受け取り、胸の高さで揃えた。折らない。折ると急いだ印象が出る。

 

 窓口を離れると、背後で小さな囁き声がした。内容は聞き取れない。聞き取れないからこそ、余計な意味が乗る。

 

 ターニャは足を止めない。足を止めると、視線が集まる。視線が集まると、仕事が増える。

 

 廊下の角を曲がったところで、別の職員が立っていた。顔が硬い。制服は新式。胸元の整え方が、規律を主張している。

 

「調整官。少々、確認を」

 

 ターニャは立ち止まり、目だけで相手を測った。確認、という言葉が便利に使われている。便利な言葉ほど危険だ。

 

「要件を」

 

「先ほどの送達の件です。宛先が……通常の回付と異なります」

 

 異なる、と言った。つまり、気にしている。気にしているのは個人の興味ではない。指示がある。

 

 ターニャは一歩も引かず、公式口調で返した。

 

「当該件は、RSHA付随処理として分類しています。文書課の手順に沿って受領印も取得済みです。これ以上の確認が必要なら、あなたの署名で照会文を作成してください。責任者欄を空にしたままでは進められません」

 

 相手の顔が僅かに強張った。署名を求められると、人は黙る。責任者欄を増やしたくないからだ。

 

「……いえ、そこまでは」

 

「では手続きは完了です。控え番号も残っています。必要があれば、正式な手順で来てください」

 

 ターニャはそれだけ言って歩き出した。背中に視線が残る。残るだけならいい。触れられる前に、形を固めてある。

 

 部屋へ戻ると、セレブリャコーフが控えの整理を終えていた。保管庫への搬入票、閲覧記録票、そして控え番号の一覧。紙が増えている。

 

「保管庫へ回しました。閲覧権限は指定通りです。補佐官が受領した薄い封筒についても、控え番号は別枠にしました」

 

「よろしい。文書課の反応は」

 

「番号の確認が一度ありました。中身には触れられていません。ただ、窓口の係が周囲を気にしていました」

 

 ターニャは頷いた。周囲を気にするのは、手順より噂の方が怖いからだ。

 

 机上に、EVAからの短い紙片が置かれていた。いつの間に。紙片には二行だけ。

 

 受領印。机上。

 

 それだけだ。薄い封筒は届いた。宛先は外れていない。

 

 ターニャは紙片を指先で押さえ、燃やすべきかを一瞬考えた。だが、燃やすと「燃やした」という痕跡が残る。残るなら、残る形で管理した方がいい。

 

 (残す。残すから支配できる。消すと、誰かに消される)

 

 ターニャは紙片を控えファイルの一番奥へ差し込み、控え番号の関連付けを自分の手元のメモだけに残した。第三者が見ても分からない。だが、自分は辿れる。これでいい。

 

 セレブリャコーフが、少しだけ声を落とした。

 

「長官の机に届いたとなると、次の動きが早くなります。RSHA側の視線も、さらに強くなります」

 

「強くなる。だから、こちらは中立の形を維持する」

 

「中立、ですか」

 

「所属はRSHAだ。処理もRSHAの手順で通す。成果の行き先だけは外さない。それだけだ」

 

 言葉は短い。だが、形は複雑だ。複雑さを言葉で説明すると壊れる。だから、紙でやる。

 

 ターニャは机の上の進捗表を閉じ、次の束へ手を伸ばした。輸送の欠落。EVAが刺していった場所だ。ここは放置できない。

 

 それでも、いまこの瞬間に一つだけ確かなことがある。

 

 提出物は届いた。受領印も取った。控えも残した。責任者一覧も添付した。逃げ道は減った。

 

 減った逃げ道の分だけ、現場は動く。動けば、別の歪みが出る。歪みが出れば、また紙で潰す。

 

 ターニャはペンを握り直した。握りしめない。淡々と持つ。淡々と持って、淡々と刺す。それが、この戦場で生き残る方法だ。

 

 (嫌いだが、慣れるしかない。慣れたら終わりだ。終わらない程度に、速くやる)

 

 内心を短く切り、ターニャは次の紙に見出しを置いた。

 

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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