幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第11節 英仏の反応

 

 

 書類が増えると、部屋の空気が乾く。

 

 紙が擦れる音が増え、封緘の蝋が減り、インクの匂いが濃くなる。人の出入りが増え、伝令が息を整える暇もなく次の束を抱えて戻ってくる。

 

 ターニャの机には、国外からの通信を元にした報告が積まれていった。内容そのものは、派手ではない。だが、同じ種類の報告が短い間隔で重なる。重なるたびに、添付の指示案が増える。指示案が増えるたびに、関係部署の宛先が増える。

 

 つまり、面倒が増えている。

 

 セレブリャコーフが束の角を揃え、見出しだけを読み上げる。

 

「こちら、海上輸送の扱いに関する注意喚起です。次が、港湾側の警戒強化案。続いて、鉄道の優先順位の見直しです。……同じ類のものが、今朝から四件目です」

 

 ターニャは頷いた。数を聞けば十分だ。中身を読む前に、仕事の性質が見える。

 

 机上の予定表には、期限が並んでいる。昨日まで「来週」で済んでいた欄が、今日になって「今週」に寄せられている。さらに「今週」の中でも、曜日が前へ詰まっている。提出日が早まれば、決裁も早まる。決裁が早まれば、現場は準備を前倒しにするしかない。

 

 ターニャは紙に視線を落としたまま、淡々と言った。

 

「空気が変わった。こちらが動く前から、向こうが身構えている」

 

 セレブリャコーフが、言葉を選んで答える。

 

「はい。通信の頻度が上がっています。表現は控えめですが、準備の量が増えています」

 

 ターニャは、その「量」だけを見ていた。

 

 国外の事情を語る必要はない。必要なのは、ドイツ側が何を増やしているかだ。何を増やしているかは、紙の束と宛先の数で分かる。

 

 港に関する手順書が二種類に割られていた。平時用と、警戒時用。警戒時用のほうが太い。太いのは、手順が増えているからだ。増えているのは、確認が増えているからだ。確認が増えれば、現場は止まる。止まる前提で、止めないための紙が増える。矛盾しているが、それが現実だ。

 

 セレブリャコーフが、控えめに補足した。

 

「港湾側からの問い合わせも増えています。いま変更すると現場が混乱する、という意見もあります」

 

 ターニャはペンを置き、短い指示を書き始めた。言葉は短く、宛先は明確に。理由は一行に切る。

 

 そして顔を上げて、セレブリャコーフへ告げた。

 

「噂の段階で、港の手順を変えろ。後からでは遅い」

 

 セレブリャコーフは一瞬だけ口を結び、すぐに復唱に入った。反論ではなく確認にする。彼の役目は、現場の手間を抱えたまま前に進めることだ。

 

「承知しました。港湾の手順書を警戒時用へ切り替えます。切り替え通知は、港の責任者と、輸送の担当者に同報でよろしいでしょうか」

 

「よし。さらに、鉄道の優先順位表も連動させろ。港の変更だけ先に出ると、輸送側が怒る」

 

「確認します。鉄道側の優先順位表は、どの区分を上げますか」

 

 ターニャは、迷わず答えた。迷っている暇がないからではない。迷いの部分は、紙に押し込んでおけばいい。紙に押し込めば、あとで差し替えられる。

 

「港に紐づく便を一段上げる。対象は三つに限定。例外は作るな。必要になったら、私の署名で増やす」

 

「はい。対象を三つに限定します。例外を出す場合は、あなたの署名を要件にします」

 

 セレブリャコーフの返答は丁寧で、揺れがない。口調が整っていると、周りが落ち着く。周りが落ち着けば、手が止まらない。止まらないことが、今は価値だ。

 

 ターニャは机の端にある別の束へ手を伸ばした。そこには、国外の動きそのものよりも、それに対する社内処理の紙が乗っていた。警戒態勢の強化案、検問の準備、拘束対象の区分整理。治安の名目で回る紙は、戦争の準備より先に増える。

 

 (面倒だ。しかも、分かりやすく面倒だ)

 

 内心の愚痴は、短く済ませる。感情は長く書くと、読み手に伝わり過ぎる。ターニャはそれを嫌う。嫌うが、消えはしない。

 

 伝令係が一人、扉の前で敬礼をした。若い。目の下が薄く青い。寝ていない。

 

「提出物をお預かりします。宛先は港湾の責任者、輸送担当、鉄道の担当、以上でよろしいでしょうか」

 

 セレブリャコーフが答える前に、ターニャが口を挟んだ。ここは対外の形にする。相手が軍属であれ党であれ、伝令係は「外」だ。口調を崩す理由がない。

 

「はい。宛先はその三者です。控えは二部取り、控え番号を読み上げてから出てください」

 

「了解しました。控え番号を読み上げます」

 

 伝令係は束を抱え、控え番号を口に出す。セレブリャコーフが復唱する。復唱が済むと、伝令係はすぐ出ていった。走る音が遠ざかり、すぐ別の足音が近づく。入れ替わりが止まらない。

 

 ターニャは、次の紙に目を通した。短い引用が挟まっている。国外の政治の空気を示すための抜粋だ。文章は短いが、扱いが重い。紙の右上に、太い線で「注意」とだけ書かれている。

 

 そこに、人名があった。

 

 チェンバレン。

 

 チャーチル。

 

 説明はない。説明など要らない、という置き方だ。名前が出るだけで、担当者の手が慎重になる。慎重になると、回付が遅れる。遅れが出ると、さらに紙が増える。

 

 ターニャは、そこを切った。ここで政治談義を始めたら終わらない。必要なのは、処理の手順だ。

 

「この引用は添付だけにしろ。本文に書くな。本文に書くと、余計な照会が増える」

 

 セレブリャコーフが、すぐに頷いた。

 

「承知しました。引用は添付に留めます。本文は手続と期限のみでまとめます」

 

 ターニャは予定表に視線を落とした。港の手順書の切り替えは、今日中。鉄道の優先順位表の差し替えも、今日中。検問の準備案は、明日の午前。拘束対象の区分整理は、明日の終業まで。

 

 期限が押している。押しているのに、紙は増える。増える紙を減らすには、最初から形を作ってしまうしかない。

 

 ターニャは、紙の上で判断を先に済ませていく。現場に押し付けるのではない。現場が動ける形に落とす。そのために必要な欄を増やし、責任者を固定し、期限を前に寄せる。

 

 そして気づく。自分が、もうその計算に慣れていることに。

 

 (嫌だな。こういうのに慣れるのは)

 

 愚痴は一瞬で切り、すぐ次の束へ移る。止まると、また遅れる。遅れれば、現場の誰かが徹夜する。徹夜した手が鈍れば、事故が起きる。事故は、手間より高い。

 

 机の上の紙は、まだ減らない。

 

 だが、順番は決めた。

 

 港の手順。鉄道の優先。警戒態勢。検問準備。

 

 それらが一つの流れになるように、紙の並びを整えていく。

 

 

 

 

 紙の束は、種類が変わっていった。

 

 港と鉄道の手順を整えた直後から、今度は「治安」の名目で回る書類が増える。検問の配置、拘束の手順、移送の経路、留置の名簿、押収品の保管。いずれも、言葉だけは穏当だ。だが、宛先の部署が増え、控えの部数が増え、署名欄が増える。

 

 増え方が、戦時のそれだった。

 

 セレブリャコーフが机の脇に新しい箱を置いた。箱の中には、薄い封筒が何枚も入っている。封筒の表には、同じ書式で番号が振られている。

 

「こちら、治安案件の一括です。検問、拘束、移送、輸送の協力要請。……それぞれ別件として来ていますが、内容はつながっています」

 

 ターニャは、封筒を一枚だけ抜き取って開いた。本文を読むより先に、添付の一覧を見る。担当部署、責任者、期限。そこだけで、目的が分かる。

 

 この種の紙は、現場を守るためのものではない。現場を縛るためのものだ。縛れば事故は減るが、手も止まる。止まれば遅れる。遅れれば、遅れを埋めるために、別の紙が出てくる。

 

 つまり、紙が仕事を生む。

 

 ターニャは、封筒を閉じたまま言った。声は落ち着いているが、言葉は短い。

 

「分けるな。束にする。ここから先は、治安と輸送を別扱いにすると破綻する」

 

 セレブリャコーフは頷き、確認を入れる。

 

「一括で回しますか。扱いは、どの名目に寄せますか」

 

「現場が動ける名目だ。検問を主にして、拘束は付属。移送は輸送の用語で書け。余計な言葉は削る」

 

「承知しました。検問を主として文面を組みます。拘束は付属扱いにし、移送は輸送側の言葉に合わせます」

 

 ターニャは、机の上に紙を広げ直した。すでに港と鉄道の優先順位を触っている以上、治安案件を別の流れにすると、現場が混乱する。混乱すれば、誰かが独断で動く。独断が出れば、押さえ込みにさらに紙が要る。

 

 だから、最初から一つの束にしてしまう。

 

 治安の顔をしていても、やっていることは戦争だ。検問は砲台の代わりで、拘束は捕虜の処理で、移送は補給だ。言い換えれば、街の中に戦場ができる。しかも、銃声のない形で。

 

 ターニャは、机上の白紙に線を引いた。項目を四つに分ける。

 

 検問。拘束。移送。輸送協力。

 

 それぞれに責任者欄を置き、署名欄を置き、期限欄を置く。書式を先に決めれば、紙の流れを一本にできる。現場の判断を奪うのではない。現場の判断が暴れないように枠を作る。

 

 セレブリャコーフが、視線を落として口を開いた。懸念を「確認」の形にする。

 

「……手順が増えます。現場の負担が大きくなりますが、よろしいでしょうか」

 

 ターニャは、返答を短く切った。対内の口調だ。丁寧さは残しつつ、文の形を落とす。

 

「増える。だが、今は増やす。事故の後始末よりは軽い」

 

 セレブリャコーフは、そこで反論をやめた。必要な確認だけを追加する。

 

「承知しました。現場向けの説明は短くします。署名欄と期限だけ強調してよろしいでしょうか」

 

「それでいい。説明を足すな。読まれない」

 

 書類を回すための書類が増えるのは、最悪だ。ターニャはそれを知っている。だから、必要な欄だけを残す。文章は短く、指示ははっきり。責任者と期限が目に入れば、現場は動く。動けば、紙は減る。

 

 減らなければ、また増える。

 

 ターニャは、ペン先を止めずに書き続けた。署名欄の下に、控え番号欄。控え番号の下に、提出先。提出先の下に、差し戻し先。差し戻し先の下に、差し戻し理由は一行だけ。

 

 机の端で、伝令係が控え番号を復唱する声が聞こえた。別の部屋では封緘の音が鳴り、誰かが封筒を束ねる。人の動きが、書類の流れと同じ速度になっていく。

 

 それが正常だと、誰もが思い始める。

 

 ターニャは、その「慣れ」を嫌った。慣れた瞬間に、危険が見えなくなる。

 

 (慣れるな。慣れたら終わりだ)

 

 内心で切り捨て、すぐに次へ移る。嫌悪を長く握るほど暇ではない。

 

 そのとき、机の端に、薄い紙片が置かれた。

 

 セレブリャコーフではない。伝令係でもない。音がしなかった。置いた人物は、部屋の隅に立っていた。補佐官“EVA”だ。いつ来たのか、誰も気づかない。気づかないまま、仕事だけが進む。

 

 紙片には、短い文字だけが書かれている。

 

「見られている」

 

 ターニャは、視線を上げずに返した。言葉を余計に足さない。足せば、相手に材料を渡す。

 

「分かっている」

 

 EVAは、それ以上何も言わなかった。頷きもない。部屋の空気が少しだけ冷えた気がした。気のせいではない。こういう短い報告は、理由がなくても重い。

 

 ターニャは、紙片を控えの束に挟んだ。後で参照できる位置だ。机の中央には置かない。中央に置けば、誰かの目に入る。目に入れば、噂になる。噂になれば、紙が増える。

 

 セレブリャコーフが、声を落として尋ねる。丁寧語は崩さない。だが、緊張が混ざる。

 

「……追加の宛先は、増やしますか」

 

 ターニャは一拍だけ置いた。計算が勝手に走る。その走りを、自分が嫌うのも分かっている。それでも止められない。

 

 増やせば安全は上がるが、遅れる。遅れれば現場が荒れる。荒れれば独断が増える。独断が増えれば、さらに紙が必要になる。

 

 そして、見られている。

 

 外か、内か。あるいは、もっと嫌なものか。

 

 全角一字下げで、内心が走る。

 

 (敵国か、内部か、存在Xか。全部でも驚かない。面倒だ)

 

 ターニャは、内心を閉じたまま、表の口で答えた。ここは対内だが、軽くはしない。指示は制度の言葉で固める。

 

「宛先は増やさない。増やすなら、責任欄を増やす。先に責任者を一人決める。そこへ集める形にする」

 

 セレブリャコーフが即座に復唱する。

 

「承知しました。宛先の拡大はせず、責任者を一人に固定します。そこへ集約する形で整えます」

 

「よし。責任者候補を二案。提出は今日中。理由は一行でいい」

 

「はい。本日中に二案出します。理由は一行で添えます」

 

 ターニャは、またペンを走らせた。検問の配置表に、輸送の優先順位表を重ねる。拘束の手順書に、移送の経路図を添付する。別件として回ってきたものを、一つの束にまとめ直す。

 

 まとめれば、処理は速くなる。速くなれば、現場は迷わない。迷わなければ、事故が減る。

 

 ただし、代償がある。

 

 現場は疲れる。手戻りが増える。確認が増える。署名が増える。紙が増える。増えた紙を運ぶ人が疲れる。疲れた手が鈍れば、また事故が起きる。

 

 循環だ。

 

 ターニャは、そこを断ち切るために、書式を作り直している。自分の仕事は、戦場で銃を持つことではない。戦場が暴れない形を、先に紙で作ることだ。

 

 それが今夜も続く。続くと分かっているのに、頭の計算だけは止まらない。

 

 ターニャは、自分がそれを嫌っていることも、同時に理解していた。

 

 嫌っても、やるしかない。

 

 机の上の束を、もう一度揃え直す。角が揃うと、少しだけ気が落ち着く。その落ち着きが、また仕事を進める。

 

 セレブリャコーフが、次の封筒を手に取った。

 

「次の束、回します。控え番号を付け直してもよろしいでしょうか」

 

「付け直せ。混ざった番号は事故の元だ」

 

「承知しました。番号を整理し、控えを二部取り直します」

 

 紙が擦れる音が、また増えた。

 

 そして、増える音の中で、ターニャは淡々と署名欄を埋めていった。

 

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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