第1節 理由の提示
音が返らない。
足を動かした感覚はあるのに、床の手応えが曖昧だった。硬いのか柔らかいのか、判別がつかない。視線を落としても、そこにあるはずの影が成立しない。靴先の輪郭だけが、薄い線で残っている。
ターニャ・デグレチャフは立ち止まり、呼吸の回数を数えた。落ち着けるためではない。体が勝手に怯えを作る前に、数として押さえ込むためだった。
目の前に壁はない。天井もない。左右の距離も測れない。遠近が歪み、遠くにあるはずのものが近く見え、近くにあるはずのものが遠く見える。視界の中心だけが妙に鮮明で、周辺は薄く滲む。
制服は着ている。黒服の襟元は正しい位置にあり、褐色のシャツの胸元も崩れていない。にもかかわらず、布が肌に触れる感覚だけが少し遅れてくる。自分の体に追いついていない。
ターニャは指先で襟をつまみ、わずかに整えた。
「……またか」
声が出た。だが返る響きがない。言葉だけが吸われて、消えた。
ここが現実ではないことは分かっている。分かっているのに、脳はいつもの距離感で世界を測ろうとする。測れない。なら、測れない前提で扱うしかない。
背筋を伸ばし、目線を上げた。
そこに“何か”がいる。
人の形ではない。獣でもない。輪郭は固定されず、見ようとした瞬間に細部が崩れる。ただ、いる。存在している。視線を合わせるという行為そのものが、こちらの負けになるような圧があった。
ターニャは目を細める。
「存在X」
名を呼んでも、返答が起きた気配はない。返答という仕組みが、この場では不要なのだと示されるだけだった。
それでもターニャは口を動かした。沈黙に追い込まれるのは嫌だった。沈黙は相手の庭であり、こちらの言葉が削られる合図だからだ。
「私を呼び出す手続きの根拠を示せ」
言った直後、自分でも分かる。ここには手続きがない。根拠の提示もない。だが、言わなければ始まらない。言葉の形を作って、そこへ押し込むしかない。
存在Xが、ようやく“言葉”を落とした。
「根拠は、要らない」
短い。説明がない。拒否でもない。単に、それが当然だと言い切っている。
ターニャは舌打ちを飲み込む。露骨な反応は損だ。損だが、苛立ちは止まらない。
「では、目的を言え。呼び出すなら、目的があるはずだ」
「目的は、見ることだ」
「見る? 何をだ」
「お前を」
ターニャは一瞬、間を置いた。
どこかで、いつもと同じやり取りが始まっている。質問を重ねるほど、こちらの言葉が空回りする。言葉が増えるほど、こちらの負けが積み上がる。
それでも、黙らない。
「観察が目的なら、私の業務を妨害する理由にはならない」
言い切るために、息を整える。呼吸がここでは規則通りに働かない。胸が膨らむのが遅い。遅いから、言葉が先に出そうになる。先に出すと、言葉が崩れる。崩れれば相手の思う壺だ。
ターニャは一語ずつ置いた。
「私は国家保安本部の業務に従事している。呼び出しは業務妨害だ。妨害に合理性があるなら示せ」
存在Xは答えない。答えないのではなく、答える必要がないという態度を崩さない。
「合理性は、お前の道具だ」
「道具? 私にとって合理性は――」
「面白い」
存在Xの言葉が、そこで切れた。
面白い。
その一語が、ターニャの言葉を止めた。
面白い。何が。どこが。誰が判断して。基準は。検証は。
問いが次々に立つ。だが、どれもここでは意味を持たない。意味を持たないからこそ、嫌だった。
ターニャは唇を引き結び、視線を逸らさないまま言った。
「趣味で人を動かすな。迷惑だ」
「迷惑は、結果の一部だ」
「結果? 何の結果だ」
「制度」
存在Xが言った。短く、確定した音で。
ターニャの背中に冷たいものが走る。
制度。
この言葉が出る瞬間を、待っていたのかもしれない。ターニャの中で、その可能性が浮かんだ。
ターニャはすぐに打ち消す。推測は無駄だ。だが、無駄でも反応は出る。
「制度がどうした」
「お前は、制度を作る」
「私は制度を作らない。私は制度を運用する側だ」
「同じだ」
短い断言。押し返す余地がない断言。
ターニャは一歩踏み込む。床がないのに、足だけが前へ出た。空間がそれに合わせて歪む。距離が伸びたのか縮んだのか分からない。ただ、こちらが動いたことだけは確かだった。
「同じではない。制度の制定は権限が別だ。権限を無視するな」
「権限も、制度だ」
「……なら、その制度に従え」
言ってしまった。
自分の言葉が、あまりにも普通の応酬になっていると気づく。ここで“従え”は効かない。効かないと分かっているのに、言葉の癖が出た。
存在Xは、淡々と返す。
「従うために、来たのではない」
「なら、何のために来た」
「試すためだ」
「何を試す」
「お前が、どこまで制度で逃げるか」
ターニャは目を細めた。
逃げる。
この言い方が、腹立たしい。制度は逃げではない。逃げではなく、現実を整える枠だ。枠がなければ、現実は個人の気分で壊れる。それを止めるために制度がある。
ターニャは短く息を吐いた。
怒鳴らない。叫ばない。感情を増やすほど、相手の遊び場が広がる。
「制度は逃げではない。社会の維持だ」
「維持」
存在Xが同じ語を繰り返した。
「維持のために、お前は切る」
ターニャの喉がわずかに詰まる。
切る。
具体を言われた。踏み込まれた。踏み込まれたのに、証拠はない。根拠もない。だが、こちらの内部を読まれているような不快感だけが残る。
「私は必要な処理をしているだけだ」
「必要」
「必要だ。例外を減らし、逸脱を減らし、責任線を固定する。そうしないと組織は崩れる」
思わず、制度語彙が出た。
例外抑制。逸脱抑制。責任線。
普段なら、これで相手は黙る。黙るか、条件を出すか、責任者を示すか。いずれにせよ、議論は形になる。
しかし存在Xは、形にならない。
「それが、面白い」
同じ言葉が、また落ちた。
面白い。
ターニャは眉間に力を入れた。
「面白いで済ませるな。お前の“面白い”のために、私は働いているわけではない」
「働いている」
「私は働いている。生きるために。組織の中で、死なないために」
口にしてから、ターニャは少しだけ後悔した。
余計な情報だ。相手に渡す必要はない。だが、抑えが効かなかった。存在Xへの嫌悪が前に出ている。官僚戦の癖が、ここではむしろ足を引っ張っている。
存在Xは、こちらの後悔を気にする様子もなく言った。
「生きるために制度を選ぶ。信じない理性が、枠を作る」
ターニャは、即座に返す。
「信じないのではない。信じる必要がないだけだ。信仰は不要だ。制度は現実で回る」
「回る」
「回る。回しているのは人間だ。神ではない」
存在Xが、少しだけ間を置いた。
その間が、逆に不気味だった。相手が考える必要などないはずだ。考えたふりをするのは、こちらを揺さぶるためだ。
「神ではない」
存在Xが繰り返した。
「なら、神が一度だけ指で押せば、どうなる」
ターニャは口を閉じた。
言い返しが難しいのではない。言い返しの形は作れる。だが、その形がここでは無意味だと、直感が先に告げている。
それでも、言う。
「指で押す行為は介入だ。介入は逸脱だ。逸脱があるなら、抑制する」
「抑制」
「抑制する。制度で――」
「制度で、押し返す」
存在Xが先に言った。
こちらの言葉を奪われた。
ターニャは奥歯を噛む。噛んだ音が返らない。音が返らないことが、余計に苛立ちを増やす。自分の感情の処理さえ、ここでは手応えがない。
ターニャは、できるだけ短く言った。
「お前は何がしたい」
「壊す」
即答だった。
「壊す? 何を」
「お前の枠を」
「枠は、社会のためにある」
「社会は、お前の言い訳だ」
ターニャの指が、無意識に手袋の縫い目をなぞった。
癖だ。現実の手触りを探す癖。ここには現実が薄い。薄いから、手触りにしがみつく。
「言い訳ではない。社会が崩れれば、私は死ぬ」
「死ぬ」
存在Xが、その語を口にした瞬間。
空間が一瞬だけ、冷えた。
温度というより、圧が落ちる。耳が詰まる。目の焦点が揺れる。
ターニャは目を瞬きしない。瞬きした瞬間に、何かを見落とす気がした。
「死ぬなら、信じるか」
「信じない」
「なぜ」
「信じても救われないからだ」
ターニャは言い切った。
言い切ったが、胸の奥が少しだけざわつく。ここで“救い”という言葉を使ったこと自体が癪だった。自分は救いを求める側ではない。求めるのは生存の条件だ。救いではない。
存在Xが、落ち着いた声で言う。
「救うために来たのではない」
「分かっている」
「試すためだ」
「それも聞いた」
「お前が、どこまで信じないか」
ターニャは吐き捨てるように言いそうになって、飲み込んだ。
「信じない。信仰は不要だ。制度で足りる」
存在Xは、短く返す。
「だから面白い」
またそれだ。
ターニャは眉を寄せた。会話が同じ場所を回る。回るたびに、こちらが削られる。
ターニャは方向を変える。
この相手に倫理や善悪を投げても意味がない。なら、責任で縛る。責任で縛れないなら、権限で縛る。権限で縛れないなら、手続きで縛る。いつもの段階を、順に当てる。
「私をここへ呼び出した責任者は誰だ」
「私だ」
「“私”の名前を示せ」
「要らない」
「要る。責任線を固定する。固定しなければ、処理ができない」
「処理」
存在Xが、また繰り返した。
「お前は処理する」
「処理する。だから責任者が必要だ」
「責任者は、私だ」
「なら、責任を取れ。介入の結果について、損害の補填を――」
「補填」
存在Xが笑ったのかどうかは分からない。音がない。だが、空気の揺れだけが伝わった。
「補填を求めるのか」
「当然だ。損害が出る。私の業務が止まる。止まれば、組織が乱れる」
「乱れる」
存在Xが淡々と繰り返す。
「乱れが、私の好みだ」
ターニャは一瞬、言葉を失った。
好み。
この言い方は、あまりにも露骨で、あまりにも軽い。軽いのに、逆らえない重さがある。
ターニャは唇を薄く開き、短く吐いた。
「……最低だな」
悪態は短く。余韻を与えない。
だが、存在Xは動じない。
「お前が制度を作る様子が面白い」
ターニャは、その言葉を聞き逃さなかった。
さっきも似たことを言った。信じない理性が枠を作る。制度を築く。
存在Xはそれを“面白い”と言う。
「制度を作る様子が面白いなら、放っておけ。観察するなら、邪魔はするな」
「邪魔は、する」
「なぜだ」
「壊すためだ」
ターニャは、すぐに言い返す。
「壊せば、何が得られる」
「結果」
「結果? 何の」
「お前の顔」
ターニャの目が細くなる。
これが、目的の本音か。
こちらの反応を引き出す。こちらを崩す。それが快楽。
ターニャは冷たい声で言った。
「趣味が悪い」
「趣味ではない」
「では何だ」
「規則だ」
ターニャは一瞬、聞き返しそうになって堪えた。
規則。
ここで規則と言うのは、制度の規則ではない。存在X自身の癖を“規則”と呼んでいる。押し付けだ。自分勝手の正当化だ。
「お前の規則は、私の規則ではない」
「だから交差する」
存在Xが言った瞬間、距離感がまた狂った。
近づいたのか、向こうが膨らんだのか分からない。ターニャの視界を、存在Xの輪郭が埋める。
ターニャは動かない。退けば負けだ。
退いたという事実が、相手の成功になる。成功を積ませるわけにはいかない。
「交差は不要だ。私の規則を優先する」
「優先」
存在Xが繰り返す。
「優先順位を作り、例外を抑える。お前はそうやって生きる」
ターニャは低い声で言う。
「生きるために必要だ」
「必要だから面白い」
また同じ地点に戻る。
ターニャは、意識して話を切り替える。相手の“面白い”を相手にさせない。こちらは、条件を固定し、争点を狭める。
「質問を変える。私をここへ呼び出すことで、お前は何を見たい」
「制度ができる瞬間」
「制度は一瞬でできない」
「できる」
「できない。制度は積み上げだ。合意と署名と運用で成り立つ。偶発ではない」
存在Xが、短く言った。
「偶発に見せかけて、壊す」
ターニャの背中に、嫌な理解が刺さる。
偶発に見せかけて、壊す。
つまり、原因を消す。責任線を断つ。誰が壊したか分からない形にする。
ターニャは、言葉を短くした。
「原因を消すつもりか」
「原因は、要らない」
「要る。原因がなければ対策ができない」
「対策をさせない」
ターニャは歯を食いしばり、次の言葉を押し出した。
「……お前は、私を困らせたいだけか」
「違う」
「では何だ」
「面白いからだ」
まただ。
ターニャは一瞬、目を閉じたくなった。閉じたくなったが、閉じない。閉じれば、相手に主導権を渡す。
ターニャは、強引に制度へ逃げる。逃げると言われようが、逃げるしかない。ここで感情に乗れば、崩れる。
「私の業務は国家の維持に資する。妨害は国家への敵対だ。敵対行為は排除対象だ」
言い切った直後、ターニャは自分の言葉を嫌悪した。
排除対象。
いつもの語彙だ。だが、ここで使うと滑稽だ。排除できる相手ではない。
存在Xは淡々と言う。
「排除」
そして、短く続けた。
「お前は排除する。お前は分類する。お前は署名する」
ターニャの指先がわずかに震えた。
分類。署名。
自分が実際にやっていること。逃げ場のない具体。
「それが仕事だ」
「仕事」
「そうだ。仕事だ。生きるための仕事だ」
存在Xは、間を置かず言い切った。
「信じない理性が、制度を築く様子が面白い」
最初に言われた言葉が、もう一度、はっきりと落ちた。
今度は繰り返しではない。確定だ。
理由の提示だ。
ターニャの胸の奥が、冷たく固まる。
理由が、これか。
自分が制度を作り、制度で生きようとする。その姿が“面白い”。
そして、制度を偶発に見せかけて壊す。それが存在Xの癖。
ターニャは、反射で言葉を探した。制度語彙で押し返す。責任で縛る。手続きで止める。いつもの手順を当てる。
「なら、規程を定めろ。介入に条件を付けろ。発動の要件を明文化しろ。責任者と期限を――」
言葉が、そこで止まった。
ここに規程はない。
要件もない。
責任者は名を持たない。
期限は存在しない。
ターニャは、初めてはっきりと気づいた。
制度語彙は、ここでは武器にならない。武器にならないどころか、自分がどこへ逃げようとしているかを相手に教えるだけだ。
ターニャは口を閉じた。
叫ばない。
怒鳴らない。
ただ、呼吸だけが一拍、遅れた。
存在Xは、それ以上言葉を足さなかった。
こちらが制度語彙で逃げようとした事実だけを、指でつまむみたいに見ている。答えを出すのではなく、反応を取る。救うでも導くでもない。試すだけだ。
ターニャは顎を引き、呼吸を整えた。
怒りの矛先が定まらない。相手は責任線に乗らない。規程も要件もない。文書もない。署名欄もない。こちらが慣れ親しんだ武器が、まとめて空回りする。
それでも、黙らない。
「面白いから、で済む話ではない」
声は低い。
だが、強くしすぎない。強く言い切れば、相手に“形”を与える。形を与えれば、その形ごと弄ばれる。
存在Xは短く言った。
「済む」
「済まない。私は現実で仕事をしている。現実は紙で動く。人が動く。飯も弾も燃料も、数字と手順で回っている」
「だから面白い」
ターニャは目を細めた。
同じ言葉の繰り返しに見えて、ここで相手が言っているのは、褒めでも評価でもない。ただの観測だ。観測でしかないのに、こちらは不快に揺れる。
ターニャは言葉の形を変えた。
責任者だの補填だのを要求しても意味がない。なら、こちらの被害を最小化する条件を引き出す。引き出せないなら、せめて相手の癖を固定する。
「試すなら、範囲を言え。どこまでだ」
「どこまで」
「そうだ。私は無限の不確実に耐えられない。範囲が分からなければ、制度が崩れる」
存在Xは即答しない。
少し間が空く。だが、その間が“考え”ではないことは分かる。相手は、こちらに間を感じさせているだけだ。
「範囲は、お前が決める」
ターニャは眉を寄せた。
「逃げるな」
「逃げるのは、お前だ」
「私は逃げていない。制度で――」
「制度で逃げる」
またそれだ。
ターニャは、ほんの一瞬だけ舌の裏を噛んだ。痛みは薄い。だが痛みが薄いことが、逆に嫌だった。現実の手応えが少ない。
ターニャは、短い言葉を選んだ。
「……お前は、私の制度を壊すと言った。偶発に見せかけて壊すと言った」
「言った」
「なら、なぜ私だ。私である必要があるのか」
存在Xは、短く断言した。
「お前は信じない」
「信じないから選ぶ、という理屈か」
「信じない理性は、枠を作る」
「枠は、生きるために必要だ」
「必要だから、面白い」
ターニャは目を逸らさないまま、手袋の指先をきゅっと握った。
怒りを握り潰す動作だ。外に出さないための動作。
「私は、信仰で救われるつもりはない」
「救わない」
「分かっている」
「結果を見たい」
「結果とは何だ。制度が壊れる瞬間か」
「壊れ方」
ターニャは、そこで言葉を止めた。
壊れ方。
壊れることが前提だ。壊れる前提で、壊れ方を楽しむ。性格が悪いという次元ではない。相手の遊びのために、現実が削られる。
ターニャは冷たく言った。
「お前の趣味に付き合う気はない」
「付き合う」
「そうだ。私は拒否する」
「拒否は、できない」
断言。
この断言だけが、ここでは固い。
ターニャは拳をほどき、手のひらを開いた。何かを掴もうとしても掴めない。なら、掴む動作そのものが無駄だ。
言い返しは、制度語彙に戻る。戻るしかない。
だが、さっきの失敗を繰り返さない。制度を振り回すのではなく、制度が通じない現実を、まず受け入れる。その上で、現実へ戻った後にやるべきことを整理する。
ターニャは、目の前の“圧”に向けて言った。
「分かった。お前は規程を出さない。責任線も出さない。なら、私がやる。現実側で、壊れにくい形にする」
存在Xは言った。
「それが見たい」
「なら、邪魔をするな」
「邪魔は、する」
ターニャは口角をわずかに引いた。笑いではない。
嫌悪を、薄く形にしただけだ。
「最悪だな」
存在Xは気にしない。
「壊れる瞬間を、偶発に見せる」
「原因を消す」
「そうだ」
ターニャは、短く吐いた。
「……なら私は、原因が消える前提で冗長化する」
「冗長化」
存在Xが繰り返す。
「手間が増える」
「手間で済むなら安い。事故の方が高い」
思わず口から出た。
自分の癖だ。現実で何度も使ってきた判断の形。
存在Xは、その言葉を面白がるような気配を漂わせた。音はない。だが、空気の揺れだけが小さく動く。
「安い」
「安い。私はそうやって生きる」
「生きる」
「そうだ。生きる。だから、壊すな。少なくとも、私が止まる形は取るな」
「止まる形」
「そうだ。現実の仕事が止まれば、余計な死者が増える。余計な混乱が増える。制度が崩れれば、誰も得をしない」
存在Xは、しばらく黙った。
その沈黙が、こちらの論理を聞いているのかどうかは分からない。分からないが、ターニャは続けた。言葉を増やしすぎない。短く切って、相手の返しを待つ。
「私が制度を作る様子が面白いなら、最低限の条件がある。現実へ戻せ。今すぐだ」
存在Xは、淡々と言った。
「戻る」
「今だ」
「結果を見よう」
その瞬間、空間が滑った。
上下が入れ替わる感覚ではない。むしろ、全部が一度だけ平らになり、次の瞬間に現実が貼り付く。
音が戻った。
紙が擦れる音。ペン先が机に当たる音。遠くでタイプライターが打たれる音。廊下の靴音。封緘の乾きに似た、乾いた擦れ。
鼻にインクの匂いが刺さった。
紙の匂いがする。机の木の匂いがする。革の匂いがする。
現実だ。
ターニャは椅子に座っていた。背もたれが確かな硬さで背中を受ける。机の縁が肘に当たる。そこに影が落ちる。影が落ちることが、いまは妙に安心材料だった。
視線の先には書類の束がある。
赤い鉛筆で引かれた期限。回付印。添付資料の番号。署名欄の空白。
いつもの世界だ。
ターニャは一度、目を閉じた。
閉じるのはここなら損ではない。ここは現実で、損得が計算できる。
そして目を開けた。
呼吸を整える。
手袋を外さずに、ペンを持つ。
机上の束を一枚だけずらし、手元の位置を揃える。
彼女の顔には何も残さない。
残すのは処理だけだ。
扉の外で、気配が止まった。
セレブリャコーフの靴音ではない。軽すぎる。
黒服の護衛が一瞬、廊下の端で止まった気配がした。扉の向こう側で、誰かが通るのを待っている。
ノックが入った。控えめで、規則的な二回。
ターニャは即答しない。
一拍置いてから、短く言う。
「入れ」
扉が開き、セレブリャコーフが入ってくる。丁寧に扉を閉め、書類束を抱えたまま歩幅を揃えて近づいた。制服の所作が整っている。乱れていない。こちらが乱れている余地を消してくれる動きだ。
「失礼いたします。先ほどの回付束、確認が済みました」
ターニャは目線を上げず、机上の赤印を見たまま言った。
「要点」
「はい。西方協力に関する資料が一式です。治安、輸送、対外折衝の三系統に分かれております」
ターニャは頷いた。
その三分類は、昨日の自分が決めた形だ。形が残っている。現実が残っている。
存在Xの介入があったとしても、形が残ること自体が、いまは救いではなく武器になる。
ターニャはペン先で、署名欄の空白を一度だけ叩いた。
「期限は」
「本日中の一次提出が求められています。明朝までに控えの整備も必要です」
「遅延は許されない」
「はい。承知しております」
セレブリャコーフは、そこで一拍置いた。
いつもなら、次の文が続く間。だが、続けずに、確認の形を取る。
「一点、確認してもよろしいでしょうか」
「言え」
「……大尉、本日はお顔色が少し――」
セレブリャコーフは言葉を切った。
言い切らない。踏み込みすぎない。懸念は懸念として置いて、判断は上官に渡す。彼女の役割だ。
ターニャは視線を上げ、淡々と言った。
「問題ない。眠いだけだ」
「承知しました。念のため、予定されていた休憩は――」
ターニャは、そこで手を上げた。
休憩という語が、耳に刺さった。
存在Xの場で言われた“面白い”と結びつきそうになる。結びつくのが嫌で、遮る。
「休憩の話は後だ。資料を置け」
「はい」
セレブリャコーフが机の端へ資料を揃えて置く。紙が擦れる音が、現実の音として心地よい。紙が乾いている。インクが滲んでいない。封緘の糊が均一だ。誰かが雑に扱っていないことが分かる。
ターニャは、その整いを見て、口元を動かしかけて止めた。
褒める必要はない。褒めなくても、この少尉はやる。
だが、やらせ続けるために、必要な言葉はある。
「……助かる」
短い。
セレブリャコーフが少しだけ目を丸くし、すぐに平常に戻した。
「ありがとうございます。続けます」
ターニャは書類を一枚取り、視線を走らせる。
紙の上の戦場だ。
作戦要旨、回付経路、添付資料の一覧。
そして、彼女の頭の隅で、さっきの言葉が小さく残る。
全角一字下げの内心が、短く落ちた。
(理由は分かった。だから従う、とはならない)
ターニャはペンを置き、指先で紙の端を揃えた。
揃える。
揃えることで、余計なものを削る。
余計なものを削ることで、制度を守る。
扉の外で、また別の靴音が止まった。今度は重い。参謀本部の靴音に近い。
だが、まだ入室の手続きはない。今日は回付が先だ。
ターニャはセレブリャコーフに言う。
「三系統、まず治安から。文言は固く。善意の単語は削れ。現場が好きに膨らませる余地を消す」
「はい。語彙を揃え、矛盾が出ないよう整えます」
「対外向けの説明文は短く。余計な背景は書くな。扱いの重さは、添付で出せ」
「承知しました。添付資料の順も調整します」
ターニャは頷き、紙の束を一度だけ持ち上げた。
重みがある。
現実の重みだ。
そして最後に、もう一度だけ内心が短く走る。
(あれは規則破壊の様式だ。偶然の顔をして入ってくる)
ターニャは、ペン先を紙へ落とした。
署名欄ではない。まだだ。
まずは文言を整える。責任者を確定する。期限を置く。
仕事に戻る。
それしかない。
次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)
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イギリス戦方面
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帝国内政(モレル関連)