幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第12話 黒服の決裁者
第1節 理由の提示


 

 

 音が返らない。

 足を動かした感覚はあるのに、床の手応えが曖昧だった。硬いのか柔らかいのか、判別がつかない。視線を落としても、そこにあるはずの影が成立しない。靴先の輪郭だけが、薄い線で残っている。

 

 ターニャ・デグレチャフは立ち止まり、呼吸の回数を数えた。落ち着けるためではない。体が勝手に怯えを作る前に、数として押さえ込むためだった。

 

 目の前に壁はない。天井もない。左右の距離も測れない。遠近が歪み、遠くにあるはずのものが近く見え、近くにあるはずのものが遠く見える。視界の中心だけが妙に鮮明で、周辺は薄く滲む。

 

 制服は着ている。黒服の襟元は正しい位置にあり、褐色のシャツの胸元も崩れていない。にもかかわらず、布が肌に触れる感覚だけが少し遅れてくる。自分の体に追いついていない。

 

 ターニャは指先で襟をつまみ、わずかに整えた。

 

「……またか」

 

 声が出た。だが返る響きがない。言葉だけが吸われて、消えた。

 

 ここが現実ではないことは分かっている。分かっているのに、脳はいつもの距離感で世界を測ろうとする。測れない。なら、測れない前提で扱うしかない。

 

 背筋を伸ばし、目線を上げた。

 

 そこに“何か”がいる。

 

 人の形ではない。獣でもない。輪郭は固定されず、見ようとした瞬間に細部が崩れる。ただ、いる。存在している。視線を合わせるという行為そのものが、こちらの負けになるような圧があった。

 

 ターニャは目を細める。

 

「存在X」

 

 名を呼んでも、返答が起きた気配はない。返答という仕組みが、この場では不要なのだと示されるだけだった。

 

 それでもターニャは口を動かした。沈黙に追い込まれるのは嫌だった。沈黙は相手の庭であり、こちらの言葉が削られる合図だからだ。

 

「私を呼び出す手続きの根拠を示せ」

 

 言った直後、自分でも分かる。ここには手続きがない。根拠の提示もない。だが、言わなければ始まらない。言葉の形を作って、そこへ押し込むしかない。

 

 存在Xが、ようやく“言葉”を落とした。

 

「根拠は、要らない」

 

 短い。説明がない。拒否でもない。単に、それが当然だと言い切っている。

 

 ターニャは舌打ちを飲み込む。露骨な反応は損だ。損だが、苛立ちは止まらない。

 

「では、目的を言え。呼び出すなら、目的があるはずだ」

 

「目的は、見ることだ」

 

「見る? 何をだ」

 

「お前を」

 

 ターニャは一瞬、間を置いた。

 どこかで、いつもと同じやり取りが始まっている。質問を重ねるほど、こちらの言葉が空回りする。言葉が増えるほど、こちらの負けが積み上がる。

 

 それでも、黙らない。

 

「観察が目的なら、私の業務を妨害する理由にはならない」

 

 言い切るために、息を整える。呼吸がここでは規則通りに働かない。胸が膨らむのが遅い。遅いから、言葉が先に出そうになる。先に出すと、言葉が崩れる。崩れれば相手の思う壺だ。

 

 ターニャは一語ずつ置いた。

 

「私は国家保安本部の業務に従事している。呼び出しは業務妨害だ。妨害に合理性があるなら示せ」

 

 存在Xは答えない。答えないのではなく、答える必要がないという態度を崩さない。

 

「合理性は、お前の道具だ」

 

「道具? 私にとって合理性は――」

 

「面白い」

 

 存在Xの言葉が、そこで切れた。

 面白い。

 その一語が、ターニャの言葉を止めた。

 

 面白い。何が。どこが。誰が判断して。基準は。検証は。

 問いが次々に立つ。だが、どれもここでは意味を持たない。意味を持たないからこそ、嫌だった。

 

 ターニャは唇を引き結び、視線を逸らさないまま言った。

 

「趣味で人を動かすな。迷惑だ」

 

「迷惑は、結果の一部だ」

 

「結果? 何の結果だ」

 

「制度」

 

 存在Xが言った。短く、確定した音で。

 

 ターニャの背中に冷たいものが走る。

 制度。

 この言葉が出る瞬間を、待っていたのかもしれない。ターニャの中で、その可能性が浮かんだ。

 

 ターニャはすぐに打ち消す。推測は無駄だ。だが、無駄でも反応は出る。

 

「制度がどうした」

 

「お前は、制度を作る」

 

「私は制度を作らない。私は制度を運用する側だ」

 

「同じだ」

 

 短い断言。押し返す余地がない断言。

 ターニャは一歩踏み込む。床がないのに、足だけが前へ出た。空間がそれに合わせて歪む。距離が伸びたのか縮んだのか分からない。ただ、こちらが動いたことだけは確かだった。

 

「同じではない。制度の制定は権限が別だ。権限を無視するな」

 

「権限も、制度だ」

 

「……なら、その制度に従え」

 

 言ってしまった。

 自分の言葉が、あまりにも普通の応酬になっていると気づく。ここで“従え”は効かない。効かないと分かっているのに、言葉の癖が出た。

 

 存在Xは、淡々と返す。

 

「従うために、来たのではない」

 

「なら、何のために来た」

 

「試すためだ」

 

「何を試す」

 

「お前が、どこまで制度で逃げるか」

 

 ターニャは目を細めた。

 逃げる。

 この言い方が、腹立たしい。制度は逃げではない。逃げではなく、現実を整える枠だ。枠がなければ、現実は個人の気分で壊れる。それを止めるために制度がある。

 

 ターニャは短く息を吐いた。

 怒鳴らない。叫ばない。感情を増やすほど、相手の遊び場が広がる。

 

「制度は逃げではない。社会の維持だ」

 

「維持」

 

 存在Xが同じ語を繰り返した。

 

「維持のために、お前は切る」

 

 ターニャの喉がわずかに詰まる。

 切る。

 具体を言われた。踏み込まれた。踏み込まれたのに、証拠はない。根拠もない。だが、こちらの内部を読まれているような不快感だけが残る。

 

「私は必要な処理をしているだけだ」

 

「必要」

 

「必要だ。例外を減らし、逸脱を減らし、責任線を固定する。そうしないと組織は崩れる」

 

 思わず、制度語彙が出た。

 例外抑制。逸脱抑制。責任線。

 普段なら、これで相手は黙る。黙るか、条件を出すか、責任者を示すか。いずれにせよ、議論は形になる。

 

 しかし存在Xは、形にならない。

 

「それが、面白い」

 

 同じ言葉が、また落ちた。

 面白い。

 ターニャは眉間に力を入れた。

 

「面白いで済ませるな。お前の“面白い”のために、私は働いているわけではない」

 

「働いている」

 

「私は働いている。生きるために。組織の中で、死なないために」

 

 口にしてから、ターニャは少しだけ後悔した。

 余計な情報だ。相手に渡す必要はない。だが、抑えが効かなかった。存在Xへの嫌悪が前に出ている。官僚戦の癖が、ここではむしろ足を引っ張っている。

 

 存在Xは、こちらの後悔を気にする様子もなく言った。

 

「生きるために制度を選ぶ。信じない理性が、枠を作る」

 

 ターニャは、即座に返す。

 

「信じないのではない。信じる必要がないだけだ。信仰は不要だ。制度は現実で回る」

 

「回る」

 

「回る。回しているのは人間だ。神ではない」

 

 存在Xが、少しだけ間を置いた。

 その間が、逆に不気味だった。相手が考える必要などないはずだ。考えたふりをするのは、こちらを揺さぶるためだ。

 

「神ではない」

 

 存在Xが繰り返した。

 

「なら、神が一度だけ指で押せば、どうなる」

 

 ターニャは口を閉じた。

 言い返しが難しいのではない。言い返しの形は作れる。だが、その形がここでは無意味だと、直感が先に告げている。

 

 それでも、言う。

 

「指で押す行為は介入だ。介入は逸脱だ。逸脱があるなら、抑制する」

 

「抑制」

 

「抑制する。制度で――」

 

「制度で、押し返す」

 

 存在Xが先に言った。

 こちらの言葉を奪われた。

 

 ターニャは奥歯を噛む。噛んだ音が返らない。音が返らないことが、余計に苛立ちを増やす。自分の感情の処理さえ、ここでは手応えがない。

 

 ターニャは、できるだけ短く言った。

 

「お前は何がしたい」

 

「壊す」

 

 即答だった。

 

「壊す? 何を」

 

「お前の枠を」

 

「枠は、社会のためにある」

 

「社会は、お前の言い訳だ」

 

 ターニャの指が、無意識に手袋の縫い目をなぞった。

 癖だ。現実の手触りを探す癖。ここには現実が薄い。薄いから、手触りにしがみつく。

 

「言い訳ではない。社会が崩れれば、私は死ぬ」

 

「死ぬ」

 

 存在Xが、その語を口にした瞬間。

 空間が一瞬だけ、冷えた。

 温度というより、圧が落ちる。耳が詰まる。目の焦点が揺れる。

 

 ターニャは目を瞬きしない。瞬きした瞬間に、何かを見落とす気がした。

 

「死ぬなら、信じるか」

 

「信じない」

 

「なぜ」

 

「信じても救われないからだ」

 

 ターニャは言い切った。

 言い切ったが、胸の奥が少しだけざわつく。ここで“救い”という言葉を使ったこと自体が癪だった。自分は救いを求める側ではない。求めるのは生存の条件だ。救いではない。

 

 存在Xが、落ち着いた声で言う。

 

「救うために来たのではない」

 

「分かっている」

 

「試すためだ」

 

「それも聞いた」

 

「お前が、どこまで信じないか」

 

 ターニャは吐き捨てるように言いそうになって、飲み込んだ。

 

「信じない。信仰は不要だ。制度で足りる」

 

 存在Xは、短く返す。

 

「だから面白い」

 

 またそれだ。

 ターニャは眉を寄せた。会話が同じ場所を回る。回るたびに、こちらが削られる。

 

 ターニャは方向を変える。

 この相手に倫理や善悪を投げても意味がない。なら、責任で縛る。責任で縛れないなら、権限で縛る。権限で縛れないなら、手続きで縛る。いつもの段階を、順に当てる。

 

「私をここへ呼び出した責任者は誰だ」

 

「私だ」

 

「“私”の名前を示せ」

 

「要らない」

 

「要る。責任線を固定する。固定しなければ、処理ができない」

 

「処理」

 

 存在Xが、また繰り返した。

 

「お前は処理する」

 

「処理する。だから責任者が必要だ」

 

「責任者は、私だ」

 

「なら、責任を取れ。介入の結果について、損害の補填を――」

 

「補填」

 

 存在Xが笑ったのかどうかは分からない。音がない。だが、空気の揺れだけが伝わった。

 

「補填を求めるのか」

 

「当然だ。損害が出る。私の業務が止まる。止まれば、組織が乱れる」

 

「乱れる」

 

 存在Xが淡々と繰り返す。

 

「乱れが、私の好みだ」

 

 ターニャは一瞬、言葉を失った。

 好み。

 この言い方は、あまりにも露骨で、あまりにも軽い。軽いのに、逆らえない重さがある。

 

 ターニャは唇を薄く開き、短く吐いた。

 

「……最低だな」

 

 悪態は短く。余韻を与えない。

 だが、存在Xは動じない。

 

「お前が制度を作る様子が面白い」

 

 ターニャは、その言葉を聞き逃さなかった。

 さっきも似たことを言った。信じない理性が枠を作る。制度を築く。

 存在Xはそれを“面白い”と言う。

 

「制度を作る様子が面白いなら、放っておけ。観察するなら、邪魔はするな」

 

「邪魔は、する」

 

「なぜだ」

 

「壊すためだ」

 

 ターニャは、すぐに言い返す。

 

「壊せば、何が得られる」

 

「結果」

 

「結果? 何の」

 

「お前の顔」

 

 ターニャの目が細くなる。

 これが、目的の本音か。

 こちらの反応を引き出す。こちらを崩す。それが快楽。

 

 ターニャは冷たい声で言った。

 

「趣味が悪い」

 

「趣味ではない」

 

「では何だ」

 

「規則だ」

 

 ターニャは一瞬、聞き返しそうになって堪えた。

 規則。

 ここで規則と言うのは、制度の規則ではない。存在X自身の癖を“規則”と呼んでいる。押し付けだ。自分勝手の正当化だ。

 

「お前の規則は、私の規則ではない」

 

「だから交差する」

 

 存在Xが言った瞬間、距離感がまた狂った。

 近づいたのか、向こうが膨らんだのか分からない。ターニャの視界を、存在Xの輪郭が埋める。

 

 ターニャは動かない。退けば負けだ。

 退いたという事実が、相手の成功になる。成功を積ませるわけにはいかない。

 

「交差は不要だ。私の規則を優先する」

 

「優先」

 

 存在Xが繰り返す。

 

「優先順位を作り、例外を抑える。お前はそうやって生きる」

 

 ターニャは低い声で言う。

 

「生きるために必要だ」

 

「必要だから面白い」

 

 また同じ地点に戻る。

 ターニャは、意識して話を切り替える。相手の“面白い”を相手にさせない。こちらは、条件を固定し、争点を狭める。

 

「質問を変える。私をここへ呼び出すことで、お前は何を見たい」

 

「制度ができる瞬間」

 

「制度は一瞬でできない」

 

「できる」

 

「できない。制度は積み上げだ。合意と署名と運用で成り立つ。偶発ではない」

 

 存在Xが、短く言った。

 

「偶発に見せかけて、壊す」

 

 ターニャの背中に、嫌な理解が刺さる。

 偶発に見せかけて、壊す。

 つまり、原因を消す。責任線を断つ。誰が壊したか分からない形にする。

 

 ターニャは、言葉を短くした。

 

「原因を消すつもりか」

 

「原因は、要らない」

 

「要る。原因がなければ対策ができない」

 

「対策をさせない」

 

 ターニャは歯を食いしばり、次の言葉を押し出した。

 

「……お前は、私を困らせたいだけか」

 

「違う」

 

「では何だ」

 

「面白いからだ」

 

 まただ。

 ターニャは一瞬、目を閉じたくなった。閉じたくなったが、閉じない。閉じれば、相手に主導権を渡す。

 

 ターニャは、強引に制度へ逃げる。逃げると言われようが、逃げるしかない。ここで感情に乗れば、崩れる。

 

「私の業務は国家の維持に資する。妨害は国家への敵対だ。敵対行為は排除対象だ」

 

 言い切った直後、ターニャは自分の言葉を嫌悪した。

 排除対象。

 いつもの語彙だ。だが、ここで使うと滑稽だ。排除できる相手ではない。

 

 存在Xは淡々と言う。

 

「排除」

 

 そして、短く続けた。

 

「お前は排除する。お前は分類する。お前は署名する」

 

 ターニャの指先がわずかに震えた。

 分類。署名。

 自分が実際にやっていること。逃げ場のない具体。

 

「それが仕事だ」

 

「仕事」

 

「そうだ。仕事だ。生きるための仕事だ」

 

 存在Xは、間を置かず言い切った。

 

「信じない理性が、制度を築く様子が面白い」

 

 最初に言われた言葉が、もう一度、はっきりと落ちた。

 今度は繰り返しではない。確定だ。

 理由の提示だ。

 

 ターニャの胸の奥が、冷たく固まる。

 理由が、これか。

 自分が制度を作り、制度で生きようとする。その姿が“面白い”。

 そして、制度を偶発に見せかけて壊す。それが存在Xの癖。

 

 ターニャは、反射で言葉を探した。制度語彙で押し返す。責任で縛る。手続きで止める。いつもの手順を当てる。

 

「なら、規程を定めろ。介入に条件を付けろ。発動の要件を明文化しろ。責任者と期限を――」

 

 言葉が、そこで止まった。

 

 ここに規程はない。

 要件もない。

 責任者は名を持たない。

 期限は存在しない。

 

 ターニャは、初めてはっきりと気づいた。

 制度語彙は、ここでは武器にならない。武器にならないどころか、自分がどこへ逃げようとしているかを相手に教えるだけだ。

 

 ターニャは口を閉じた。

 叫ばない。

 怒鳴らない。

 

 ただ、呼吸だけが一拍、遅れた。

 

 

 

 

 存在Xは、それ以上言葉を足さなかった。

 こちらが制度語彙で逃げようとした事実だけを、指でつまむみたいに見ている。答えを出すのではなく、反応を取る。救うでも導くでもない。試すだけだ。

 

 ターニャは顎を引き、呼吸を整えた。

 怒りの矛先が定まらない。相手は責任線に乗らない。規程も要件もない。文書もない。署名欄もない。こちらが慣れ親しんだ武器が、まとめて空回りする。

 

 それでも、黙らない。

 

「面白いから、で済む話ではない」

 

 声は低い。

 だが、強くしすぎない。強く言い切れば、相手に“形”を与える。形を与えれば、その形ごと弄ばれる。

 

 存在Xは短く言った。

 

「済む」

 

「済まない。私は現実で仕事をしている。現実は紙で動く。人が動く。飯も弾も燃料も、数字と手順で回っている」

 

「だから面白い」

 

 ターニャは目を細めた。

 同じ言葉の繰り返しに見えて、ここで相手が言っているのは、褒めでも評価でもない。ただの観測だ。観測でしかないのに、こちらは不快に揺れる。

 

 ターニャは言葉の形を変えた。

 責任者だの補填だのを要求しても意味がない。なら、こちらの被害を最小化する条件を引き出す。引き出せないなら、せめて相手の癖を固定する。

 

「試すなら、範囲を言え。どこまでだ」

 

「どこまで」

 

「そうだ。私は無限の不確実に耐えられない。範囲が分からなければ、制度が崩れる」

 

 存在Xは即答しない。

 少し間が空く。だが、その間が“考え”ではないことは分かる。相手は、こちらに間を感じさせているだけだ。

 

「範囲は、お前が決める」

 

 ターニャは眉を寄せた。

 

「逃げるな」

 

「逃げるのは、お前だ」

 

「私は逃げていない。制度で――」

 

「制度で逃げる」

 

 またそれだ。

 ターニャは、ほんの一瞬だけ舌の裏を噛んだ。痛みは薄い。だが痛みが薄いことが、逆に嫌だった。現実の手応えが少ない。

 

 ターニャは、短い言葉を選んだ。

 

「……お前は、私の制度を壊すと言った。偶発に見せかけて壊すと言った」

 

「言った」

 

「なら、なぜ私だ。私である必要があるのか」

 

 存在Xは、短く断言した。

 

「お前は信じない」

 

「信じないから選ぶ、という理屈か」

 

「信じない理性は、枠を作る」

 

「枠は、生きるために必要だ」

 

「必要だから、面白い」

 

 ターニャは目を逸らさないまま、手袋の指先をきゅっと握った。

 怒りを握り潰す動作だ。外に出さないための動作。

 

「私は、信仰で救われるつもりはない」

 

「救わない」

 

「分かっている」

 

「結果を見たい」

 

「結果とは何だ。制度が壊れる瞬間か」

 

「壊れ方」

 

 ターニャは、そこで言葉を止めた。

 壊れ方。

 壊れることが前提だ。壊れる前提で、壊れ方を楽しむ。性格が悪いという次元ではない。相手の遊びのために、現実が削られる。

 

 ターニャは冷たく言った。

 

「お前の趣味に付き合う気はない」

 

「付き合う」

 

「そうだ。私は拒否する」

 

「拒否は、できない」

 

 断言。

 この断言だけが、ここでは固い。

 ターニャは拳をほどき、手のひらを開いた。何かを掴もうとしても掴めない。なら、掴む動作そのものが無駄だ。

 

 言い返しは、制度語彙に戻る。戻るしかない。

 だが、さっきの失敗を繰り返さない。制度を振り回すのではなく、制度が通じない現実を、まず受け入れる。その上で、現実へ戻った後にやるべきことを整理する。

 

 ターニャは、目の前の“圧”に向けて言った。

 

「分かった。お前は規程を出さない。責任線も出さない。なら、私がやる。現実側で、壊れにくい形にする」

 

 存在Xは言った。

 

「それが見たい」

 

「なら、邪魔をするな」

 

「邪魔は、する」

 

 ターニャは口角をわずかに引いた。笑いではない。

 嫌悪を、薄く形にしただけだ。

 

「最悪だな」

 

 存在Xは気にしない。

 

「壊れる瞬間を、偶発に見せる」

 

「原因を消す」

 

「そうだ」

 

 ターニャは、短く吐いた。

 

「……なら私は、原因が消える前提で冗長化する」

 

「冗長化」

 

 存在Xが繰り返す。

 

「手間が増える」

 

「手間で済むなら安い。事故の方が高い」

 

 思わず口から出た。

 自分の癖だ。現実で何度も使ってきた判断の形。

 存在Xは、その言葉を面白がるような気配を漂わせた。音はない。だが、空気の揺れだけが小さく動く。

 

「安い」

 

「安い。私はそうやって生きる」

 

「生きる」

 

「そうだ。生きる。だから、壊すな。少なくとも、私が止まる形は取るな」

 

「止まる形」

 

「そうだ。現実の仕事が止まれば、余計な死者が増える。余計な混乱が増える。制度が崩れれば、誰も得をしない」

 

 存在Xは、しばらく黙った。

 その沈黙が、こちらの論理を聞いているのかどうかは分からない。分からないが、ターニャは続けた。言葉を増やしすぎない。短く切って、相手の返しを待つ。

 

「私が制度を作る様子が面白いなら、最低限の条件がある。現実へ戻せ。今すぐだ」

 

 存在Xは、淡々と言った。

 

「戻る」

 

「今だ」

 

「結果を見よう」

 

 その瞬間、空間が滑った。

 上下が入れ替わる感覚ではない。むしろ、全部が一度だけ平らになり、次の瞬間に現実が貼り付く。

 

 音が戻った。

 紙が擦れる音。ペン先が机に当たる音。遠くでタイプライターが打たれる音。廊下の靴音。封緘の乾きに似た、乾いた擦れ。

 

 鼻にインクの匂いが刺さった。

 紙の匂いがする。机の木の匂いがする。革の匂いがする。

 現実だ。

 

 ターニャは椅子に座っていた。背もたれが確かな硬さで背中を受ける。机の縁が肘に当たる。そこに影が落ちる。影が落ちることが、いまは妙に安心材料だった。

 

 視線の先には書類の束がある。

 赤い鉛筆で引かれた期限。回付印。添付資料の番号。署名欄の空白。

 いつもの世界だ。

 

 ターニャは一度、目を閉じた。

 閉じるのはここなら損ではない。ここは現実で、損得が計算できる。

 

 そして目を開けた。

 

 呼吸を整える。

 手袋を外さずに、ペンを持つ。

 机上の束を一枚だけずらし、手元の位置を揃える。

 

 彼女の顔には何も残さない。

 残すのは処理だけだ。

 

 扉の外で、気配が止まった。

 セレブリャコーフの靴音ではない。軽すぎる。

 黒服の護衛が一瞬、廊下の端で止まった気配がした。扉の向こう側で、誰かが通るのを待っている。

 

 ノックが入った。控えめで、規則的な二回。

 

 ターニャは即答しない。

 一拍置いてから、短く言う。

 

「入れ」

 

 扉が開き、セレブリャコーフが入ってくる。丁寧に扉を閉め、書類束を抱えたまま歩幅を揃えて近づいた。制服の所作が整っている。乱れていない。こちらが乱れている余地を消してくれる動きだ。

 

「失礼いたします。先ほどの回付束、確認が済みました」

 

 ターニャは目線を上げず、机上の赤印を見たまま言った。

 

「要点」

 

「はい。西方協力に関する資料が一式です。治安、輸送、対外折衝の三系統に分かれております」

 

 ターニャは頷いた。

 その三分類は、昨日の自分が決めた形だ。形が残っている。現実が残っている。

 存在Xの介入があったとしても、形が残ること自体が、いまは救いではなく武器になる。

 

 ターニャはペン先で、署名欄の空白を一度だけ叩いた。

 

「期限は」

 

「本日中の一次提出が求められています。明朝までに控えの整備も必要です」

 

「遅延は許されない」

 

「はい。承知しております」

 

 セレブリャコーフは、そこで一拍置いた。

 いつもなら、次の文が続く間。だが、続けずに、確認の形を取る。

 

「一点、確認してもよろしいでしょうか」

 

「言え」

 

「……大尉、本日はお顔色が少し――」

 

 セレブリャコーフは言葉を切った。

 言い切らない。踏み込みすぎない。懸念は懸念として置いて、判断は上官に渡す。彼女の役割だ。

 

 ターニャは視線を上げ、淡々と言った。

 

「問題ない。眠いだけだ」

 

「承知しました。念のため、予定されていた休憩は――」

 

 ターニャは、そこで手を上げた。

 休憩という語が、耳に刺さった。

 存在Xの場で言われた“面白い”と結びつきそうになる。結びつくのが嫌で、遮る。

 

「休憩の話は後だ。資料を置け」

 

「はい」

 

 セレブリャコーフが机の端へ資料を揃えて置く。紙が擦れる音が、現実の音として心地よい。紙が乾いている。インクが滲んでいない。封緘の糊が均一だ。誰かが雑に扱っていないことが分かる。

 

 ターニャは、その整いを見て、口元を動かしかけて止めた。

 褒める必要はない。褒めなくても、この少尉はやる。

 だが、やらせ続けるために、必要な言葉はある。

 

「……助かる」

 

 短い。

 セレブリャコーフが少しだけ目を丸くし、すぐに平常に戻した。

 

「ありがとうございます。続けます」

 

 ターニャは書類を一枚取り、視線を走らせる。

 紙の上の戦場だ。

 作戦要旨、回付経路、添付資料の一覧。

 そして、彼女の頭の隅で、さっきの言葉が小さく残る。

 

 全角一字下げの内心が、短く落ちた。

 

 (理由は分かった。だから従う、とはならない)

 

 ターニャはペンを置き、指先で紙の端を揃えた。

 揃える。

 揃えることで、余計なものを削る。

 余計なものを削ることで、制度を守る。

 

 扉の外で、また別の靴音が止まった。今度は重い。参謀本部の靴音に近い。

 だが、まだ入室の手続きはない。今日は回付が先だ。

 

 ターニャはセレブリャコーフに言う。

 

「三系統、まず治安から。文言は固く。善意の単語は削れ。現場が好きに膨らませる余地を消す」

 

「はい。語彙を揃え、矛盾が出ないよう整えます」

 

「対外向けの説明文は短く。余計な背景は書くな。扱いの重さは、添付で出せ」

 

「承知しました。添付資料の順も調整します」

 

 ターニャは頷き、紙の束を一度だけ持ち上げた。

 重みがある。

 現実の重みだ。

 

 そして最後に、もう一度だけ内心が短く走る。

 

 (あれは規則破壊の様式だ。偶然の顔をして入ってくる)

 

 ターニャは、ペン先を紙へ落とした。

 署名欄ではない。まだだ。

 まずは文言を整える。責任者を確定する。期限を置く。

 

 仕事に戻る。

 それしかない。

 

 

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