幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第4節 資源の欄

 

 

 紙は嘘をつかない。嘘をつけない形に、最初から作ってある。

 ターニャは回付箱の蓋を指で押さえ、留め金を外した。金具が小さく鳴り、箱の中の空気が動く。

 

 表紙の色が違う束が混じっている。資源。輸送。警備。

 どれも文字は少ない。だが欄が多い。欄が多いのは、逃げ道が多いのではない。責任線を、どこまでも追えるようにしているだけだ。

 

 机の上に三つに分ける。右に港湾。中央に鉄道。左に治安。

 紙の角を揃える音が一定になるまで、ターニャは手を止めない。

 

 背後で扉が閉まり、セレブリャコーフが一歩下がった位置で立つ。

 

「回付です。北方輸送の資料が優先で入っております」

 

「置け。まず港だ」

 

「はい。港湾資料を上にいたします」

 

 最初の一枚は、輸送量の表だった。行は港の名前、列は日付。数字が並ぶ。

 数字の途切れが一か所だけある。そこだけが白い。白い欄は、現場の混乱の形だ。

 

 ターニャは白い欄の右端、注記へ目を走らせた。注記は短い。原因を説明しない。結果だけを書く。

 

 積み出し中止。

 列車枠未達。

 警備未配置。

 

 次の紙は遅延報告だ。報告欄は二行。影響欄が長い。

 影響欄には、工場名が並んでいる。地名と番号が並び、最後に「予定量未達」とある。

 

 ターニャは影響欄で止めた。

 

「この書式、理由欄が短い。短いのはいいが、短すぎると誰も詰まらない」

 

「差し戻しを行いますか」

 

「行う。理由欄は三類型に限定して書かせる。港、鉄道、治安。その他は禁止。その他は責任者名を先に書け」

 

「承知しました。理由欄は港、鉄道、治安の三類型に限定し、該当しない場合は責任者名を先に記入するよう差し戻します」

 

「復唱はそこまででいい。期限も添える」

 

「はい。本日中の期限を明記いたします」

 

 ターニャは別の紙を抜き、決裁欄を確認した。空欄だ。署名欄はある。肩書きだけが印刷されている。

 

「決裁がない。報告だけ回して終わりにする気か」

 

 セレブリャコーフは紙の発信元を確かめ、丁寧に答える。

 

「発信元は港湾管理の担当です。決裁欄は空欄のままです」

 

「担当が書いて、決裁がない。止まったのに、止めた人間がいない。そこが一番危険だ」

 

「決裁者の特定を照会いたしますか」

 

「照会じゃない。差し戻しだ。空欄のまま回付した時点で、責任が発生する。返す」

 

「承知しました。差し戻します」

 

 ターニャはペンを取り、欄外に短く書く。

 決裁者名。責任者名。期限。代替案の有無。代替案がない場合は理由二行で固定。

 紙は増えるが、事故は減る。減らすのは事故で、紙ではない。

 

 (止まるのは輸送だ。だが潰れるのは生産だ。潰れるのは現場で、責任だけが上へ上がる)

 

 内心はそこで切る。長く考えるほど、手が止まる。

 ターニャは次の束に移った。輸送枠の割当表。列車番号と時間、積載量。護衛の有無。

 

 護衛欄が空白の行がある。空白の行が多い。

 

「護衛が未配置の行が続いている。これは誰が出した」

 

「鉄道側の割当表です。護衛欄は“調整中”と注記されております」

 

「調整中は使わせるな。護衛がないなら“なし”と書け。“なし”なら、誰が承認したかを書け」

 

「承知しました。“調整中”の表記は禁止し、護衛がない場合は“なし”と記載し、承認者を明記するよう差し戻します」

 

「いい。次。治安側の手順書を出せ」

 

 セレブリャコーフが左の束を開く。薄い紙が多い。手順の箇条が並ぶ。

 破壊工作警戒。港湾の検問。倉庫の立入。搬入時の照合。

 

 ターニャは手順の内容ではなく、署名欄の位置を見る。署名欄が最後に一つしかない。

 つまり、現場の判断を全部そこへ押し込める作りになっている。

 

「署名欄が一つだ。これだと現場の判断が全部まとめて死ぬ。段階で署名を分けろ。検問、搬入、保管。三つ」

 

「承知しました。検問、搬入、保管の三段階で署名欄を分けます」

 

 セレブリャコーフの声は一定だ。焦りは声に出ない。

 焦りがあるなら、動きが速くなるだけだ。紙を揃える速度が上がっている。

 

 ターニャは束の一番下から、別の色の表紙を引き抜いた。

 研究関連。輸送と保管。担当部署の照会が添付。

 

「これか」

 

「はい。研究資材の保管と移送についてです。受け取り側が、責任の明記を求めております」

 

 ターニャは添付の一枚を見る。理由は一行で済ませてある。

 

 責任が不明確。

 

 ターニャはその一行を指で押さえた。

 

「便利な言い方だな。拒否した側は、拒否の責任を取る気がない」

 

「受け取り拒否にも署名欄を設けますか」

 

「設ける。拒否にも手続が要る。拒否の決裁者を固定する。固定できないなら、拒否を無効にする」

 

「承知しました。拒否の決裁者を固定し、固定できない場合は拒否を無効とする手続を添えます」

 

 扉が軽く叩かれ、返事を待たずに開いた。

 ドクトルが入ってくる。歩き方が軽い。紙の山を見て、口元だけで笑った。

 

「相変わらずだね。紙が増えるほど、人は正直になる。嫌なものは嫌だって顔に出る」

 

 ターニャは敬語を使わない。相手が誰でも、要件へ落とす。

 

「雑談は不要だ。受け取りが止まった。どこが詰まってる」

 

「詰まってる? 君は本当にその言い方が好きだな。詰まってるのは人の心だよ。責任が怖い。失敗が怖い。だから受け取りを拒む」

 

「心はいらない。場所と手順と責任者だ。保管場所の候補は」

 

 ドクトルは肩をすくめる。芝居がかる動作だが、言葉は分かる範囲で出す。

 

「二つ。離したい。片方が事故っても、もう片方が動くようにね。君の好きな“保険”だ」

 

「二つでいい。建物の持ち主。鍵の管理者。警備の担当。決裁者。全部、欄に落とす」

 

「欄に落とす、ね。君は世界を欄にしたいのかい」

 

「事故を欄にする。事故を現場に残さない」

 

 セレブリャコーフが、必要な確認だけを短く挟む。

 

「確認です。保管場所は二か所。鍵の管理者を固定。警備担当を明記。決裁者を固定。移送手順に署名欄を段階で設ける、でよろしいでしょうか」

 

「それでいい。期限も付ける。今日中だ」

 

「承知しました。本日中の期限を付けます」

 

 ドクトルは楽しそうに笑い、机の端の紙を指先でつまむように見た。

 

「今日中、今日中。君はいつも今日中だ。若いのに働きすぎだよ。未来のために——」

 

「未来は後でいい。何が要る。どこが詰まる。誰の決裁だ」

 

 ドクトルの口が止まる。止まったまま、続きを言おうとする。

 その瞬間、ターニャのペン先が、資料の“要件”欄へ落ちた。

 

 

 

 

 ペン先が紙に触れた瞬間、空気が変わる。

 話は終わる。終わらせる。欄を埋めることが、会話の結論になる。

 

「保管場所。二か所。候補を出せ。住所と責任者」

 

 ドクトルは口を開きかけ、すぐに閉じた。芝居がかった間を作りたそうに見えるが、ターニャの視線がそれを許さない。

 

「候補は二つだ。港から近い倉庫と、内陸の施設。距離が離れていれば、片方が止まっても片方が残る」

 

「いい。倉庫の鍵は誰が持つ」

 

「鍵は施設側が持つ。だが君は嫌がるだろうね」

 

「嫌がる。鍵は二重にする。施設側と、こちら側。鍵の管理者は名簿で固定。交代は申請制」

 

 セレブリャコーフがメモを取り、必要な確認だけを短く差し込む。

 

「確認です。鍵は二重。施設側とこちら側。管理者は名簿で固定。交代は申請制。よろしいでしょうか」

 

「それでいい」

 

 ドクトルは指を鳴らす真似をして、笑う。

 

「申請制。名簿。君は本当に、紙が好きだ。紙の方が人より信用できるかい」

 

「紙は責任を残す。人は逃げる」

 

「逃げるのも才能だよ。戦争では特にね」

 

「戦争の話はいい。警備は誰が持つ。治安側か、軍か」

 

 ドクトルは肩をすくめる。

 

「どっちでもいい。君が決めればいい」

 

「決めるには責任者が要る。治安側の担当を一人、軍側の連絡を一人。二人の署名が揃わないと移送は開始しない」

 

 セレブリャコーフが紙束から治安側の連絡票を抜き、机の端へ置く。

 

「治安側の連絡票です。担当者の欄が空欄です」

 

「空欄のまま回すな。担当者は今日中に埋めろ。埋まらないなら、上の名前を書け」

 

「承知しました。本日中に担当者欄を埋め、埋まらない場合は上位責任者名を記入するよう差し戻します」

 

「復唱は最小でいい。動け」

 

「はい」

 

 セレブリャコーフは一礼し、扉へ向かった。扉を開ける前に、足を止める。

 

「少佐、移送の開始日を——」

 

 呼びかけが自然に変わっている。第2節での扱いがここへ滲む。

 ターニャはそこを拾わない。拾えば会話が余計に伸びる。

 

「開始日は決裁が揃ってからだ。暫定で三日後。遅延の理由が出たら、その理由も欄に落とす」

 

「承知しました」

 

 扉が閉まる。

 ドクトルとターニャだけが残る。机の上の欄は、まだ埋まっていない。

 

 ドクトルは椅子に腰を預けず、立ったまま話を続けようとする。

 

「二か所に分けるだけじゃ足りない。君は“守る”という言葉を嫌うが——」

 

「嫌う。守るじゃない。事故を減らす。事故の種類を分ける」

 

「いいね。言い換えは好きだ。じゃあ、事故を分けるには人が要る。人員が足りないと、結局は——」

 

「人員は治安、輸送、施設に分ける。三つの責任者を固定する。固定できない部署は、手順を削ってでも事故の種類を減らせ」

 

 ドクトルが薄く笑う。

 

「削るのか。君はいつも“増やす”と思っていた」

 

「紙は増やす。手順は削る。現場が動けない手順は事故を増やすだけだ」

 

 ドクトルは、やっと納得したように頷く。納得ではなく、面白がっているだけかもしれない。

 ターニャは推測をしない。推測は欄を埋めない。

 

「施設側の責任者は誰だ。名前が出ないなら、候補を三つ出せ。こちらで決める」

 

「候補は出せる。だが、君が嫌う政治が混じるよ。誰を選んでも、誰かが怒る」

 

「怒りは報告で受ける。決裁者は私だ。怒るなら署名欄へ来い」

 

 ドクトルは笑い、帽子を軽く持ち上げる仕草をした。

 

「君は子供なのに、怖いことを言う」

 

「怖いなら欄を埋めろ」

 

 ドクトルは小さく息を吐き、紙に目を落とした。

 

「候補は三名。倉庫の主任、施設の管理者、治安側の連絡官。誰も完璧じゃない」

 

「完璧はいらない。逃げない名前が要る」

 

 ドクトルが、言葉を足そうとする。夢を語りたがる癖が、口元に出る。

 ターニャは先に切る。

 

「資材の移送は、港から直接やらない。中継を一回挟む。中継地点は監視の目が届く場所にする。搬入、保管、搬出。三段階で署名。事故はどこで起きたかが分かる形にする」

 

「監視、ね。君は監視が好きだ」

 

「好きじゃない。必要だ。監視がないと、事故の責任が霧になる」

 

 (霧にしたい連中がいる。だから欄が空になる)

 

 ターニャは内心を短く切り、すぐ現実へ戻る。ペンを置かない。

 

「中継地点はどこだ。候補を出せ。輸送の距離。警備の手当。鍵の二重化。全部、欄へ」

 

「候補は港の外れと、内陸の駅前だ。駅前は人目がある。港の外れは人目がない」

 

「人目は信用しない。だが人目は抑止になる。駅前を第一候補。港の外れは予備。予備は予備で、鍵と警備を増やす」

 

 ドクトルは手を広げ、降参のように笑う。

 

「分かった。君の勝ちだ。君が全部、欄に落とすならね」

 

「勝ち負けはどうでもいい。動くかどうかだ」

 

 ドクトルは一歩下がり、扉へ向かう。

 

「君は面白い。私は好きだよ。君が嫌がる言い方をすると——」

 

「言うな」

 

 ドクトルは笑い、言いかけた言葉を飲み込んだ。代わりに短く残す。

 

「じゃあ、書類を回しておく。責任者の名前も添える」

 

「添えるだけじゃ足りない。署名欄へ落とせ」

 

「分かった分かった。君の言う通りにするよ」

 

 ドクトルは扉を開け、振り返らずに出て行った。

 残ったのは紙の匂いと、欄の空白だけだ。

 

 ターニャは空白を一つずつ潰していく。

 治安、輸送、施設。人員。鍵。警備。中継。期限。代替案。遅延時の手当。

 

 机の上の紙は増える。だが、事故が減る形に揃っていく。

 それが唯一の安心だった。

 

 (役に立つ。危険だ。両方を同じ欄で扱う)

 

 ターニャは内心を短く置き、署名欄の位置を揃え直した。

 

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  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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