幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

74 / 109
第5節 現場視察の名目

 

 

 夜明け前の机上は、昼より静かだ。音が減ると、紙の擦れる音だけが残る。封緘の糊が乾く気配まで、はっきり分かる。

 

 ターニャは鞄を開け、底板の角に指を当てた。革がきしみ、手のひらに重さが返る。軽い鞄は信用しない。軽いのは、抜けがあるときだ。

 

 机の上には、移動のための書面が並ぶ。経路、控え、封緘、伝令。順番がある。署名欄がある。そこに名前が落ちていない限り、移動はただの散歩になる。

 

 扉の外で、靴音が止まった。控えめに叩かれる。

 

「入れ」

 

 セレブリャコーフが入室する。背筋は崩れない。手元の紙を見て、必要なことだけを拾う。

 

「本日の移動準備は、こちらの段取りでよろしいでしょうか。経路は二系統、控えを一通、封緘は二重。伝令は二名、片方は控えで待機です」

 

 ターニャは顔を上げずに返す。

 

「いい。経路は現地で変更できる形にしておけ。変更は口頭で済ませるな。変更票を作る」

 

「承知しました。変更票を用意し、変更時は記録と署名を残します」

 

「封緘は誰が触る」

 

「私が触ります。控えは別封筒にして、控え担当が持ちます」

 

「控え担当の名前を固定しろ。途中で替えるな。替えるなら申請を挟め」

 

「承知しました」

 

 言葉が短くて済む。余計な説明を挟む必要がない。こういう時だけは、組織が人の形をして見える。

 

 ターニャは紙束の端を揃え直し、上から二枚を指で弾いた。封筒の宛名は、外部向けの体裁を保っている。中身は違う。紙が現場へ行く理由は、紙では足りなくなったからだ。

 

 (机の上で整うなら、誰も移動しない)

 

 内心はそこで切る。感想は仕事を増やすだけだ。

 

「視察の名目は二つ。治安の整合確認と、輸送の進捗確認。どちらか一方に寄せるな。両方だ」

 

「承知しました。どちらかに寄せると、突かれますので」

 

「突く奴がいるなら、突ける形で置いてやる。文書と規程で返す」

 

 セレブリャコーフは頷き、机の端に薄い封筒を置いた。

 

「こちら、連絡経路の一覧です。関係部署への回付先を、規程に合わせて整理しました」

 

「よくやった。回付は順番が命だ。順番を崩すと、口実になる」

 

「はい」

 

 ターニャは封筒を手に取らず、視線だけで確認した。封緘の角がきれいだ。雑な封緘は、雑な仕事の印になる。

 

「護衛は最小限でいい。数を言うな。配置で示せ。扉、廊下、階段。要所で止める」

 

「承知しました。出入口で一度、階段の折れで一度、乗車時に一度。数は明言しません」

 

「それでいい」

 

 会話が仕事の速度を落とさない範囲で終わる。ターニャは立ち上がり、鞄の取っ手を握った。革が鳴る。小さな音が、準備の終わりを知らせる。

 

 扉の向こうが動いた。黒い影が一つ、先に廊下へ出る。扉が開くまでの一拍が短い。手順として馴染んでいる。

 

 ターニャは机の上を最後に見回し、残す紙と持つ紙を分けた。残す紙は鍵のかかる引き出しへ入れる。鍵は二重。鍵の所在は名簿で固定。そこが崩れると、全部が崩れる。

 

「出る」

 

「はい」

 

 廊下に出ると、空気が少し冷たい。建物の奥はいつも同じ温度に保たれているはずだが、移動の前は体が勝手に温度差を探す。

 

 足音は三つに分かれる。先に行く影、隣に付く影、少し後ろで間を取る影。数を数える必要はない。配置で分かる。

 

 曲がり角で、一人が止まった。視線だけが先へ伸びる。何も起きない。だが、その「何も起きない」を作るために、止まる。

 

 ターニャは歩幅を変えない。歩幅を変えると、周囲が余計に反応する。

 

 途中の扉が一つ開き、職員が顔を出しかけて引っ込んだ。目が合ったのではない。合いそうになっただけだ。

 

 (見られている。誰に、とは決めない)

 

 決めた瞬間に、言葉が先走る。言葉が先走ると、規程を外れる。規程を外れた言い分は、後で折られる。

 

 階段の前で短い停止が入る。黒服が一人、先に降りる。踊り場で一度止まる。次に行けることを確認してから、進む。数は語らない。手順だけが増える。

 

 車寄せへ出ると、朝の光が薄い。空が白いまま、色が付いていない。寒さが残る地域へ向かう準備としては、ちょうどいい。

 

 車の扉が開く。開くまでの沈黙が短い。余計な演出がない。

 

 ターニャは乗り込み、鞄を膝の上に置いた。鞄の重さが、仕事の重さに直結する。重いほど安心するのは、趣味が悪い。だが、軽いよりはましだ。

 

 車が動き出す前に、窓の外で一つ、影が近づいた。足音がしない。歩き方が雑ではない。

 

 扉が軽く叩かれる。運転席ではない、横の窓だ。外から近づいてきた者がいる。護衛が動いたが、止まる。止めたのは、ターニャではない。止めたというより、動く必要がないと判断しただけだ。

 

 窓の外に、EVAが立っていた。相変わらず表情が薄い。必要な形だけが揃っている。

 

 ターニャは窓を少し下げた。風が一筋入る。車内の空気が変わる。

 

「用件」

 

 EVAは封筒を一つ、差し出した。封緘は単純で、余計な印がない。中身の重さだけが伝わる。

 

「欠落」

 

 それだけ言って、EVAは指先で封筒の角を叩いた。二回。意味を説明しない叩き方だ。

 

「欠落の型か」

 

「同型」

 

「どこで出た」

 

 EVAは首を少しだけ傾けた。答えるが、説明はしない。

 

「経路」

 

「どの経路」

 

「二つ」

 

 短い。短いまま、必要な情報だけが刺さる。

 ターニャは封筒を受け取り、封緘の上から指でなぞった。糊の乾きは十分。急いで封をした形ではない。

 

「現場の前か、後か」

 

「前」

 

「分かった。処理する」

 

 EVAは頷かない。礼もしない。そこに感情がないわけではない。だが、見せない。見せないことが役割になっている。

 

 EVAは一歩下がり、車から離れた。離れ方が静かだ。残ったのは封筒だけだ。

 

 ターニャは窓を上げ、封筒を鞄へ入れた。鞄の中で封筒が紙束に触れ、乾いた音がする。

 

 (欠落が同じ形なら、偶然ではない。だが断定もしない)

 

 断定は紙に任せる。断定した言葉は、次の会議で切り刻まれる。

 ターニャは手帳を開き、移動の段取りの余白に、短い指示を書き足した。

 

 承認二重化。経路分散。伝令分散。封緘の取り扱い固定。控えの保管場所変更。

 言葉は短く、欄に落ちる形にする。

 

 車が動く。エンジンの振動が足元から伝わる。現場へ行く名目は整っている。紙の方も整っている。整っているほど、現場は荒れる。

 

 ターニャは顔を上げずに、次の処理へ戻った。

 

 

 

 

 車内は揺れが少ない。揺れが少ないほど、紙に集中できる。ターニャは膝の上の鞄から、先ほどの封筒を取り出した。封緘を切る刃は使わない。爪で端を探り、糊を剥がす。雑に開けた跡は、あとで責任の形になる。

 

 中身は一枚ではない。薄い報告が数枚、そして短い付箋が一つ。付箋の字は少ない。場所の名前と、時間の幅。そこに「同型」とだけ添えてある。

 

 (並列で扱う。原因を一つに決めない)

 

 ターニャは紙束を、三つに分けるように指で折り目を付けた。存在X。内部。敵国。

 どれも断定しない。ただ、同じ処理で潰せる部分だけを拾う。

 

 対策は推理ではない。手続きだ。

 承認を二重にする。経路を分ける。伝令を分ける。控えを分ける。封緘の触れる人間を固定する。

 どれも面倒だが、面倒を嫌がるほど事故は増える。

 

 車が一度止まり、扉の外で短い足音が交差した。伝令が二人になったのかもしれない。数は数えない。止まる場所が一つ増えただけだ。

 

 ターニャは窓の外を見ずに、手帳へ書き足す。

 

 「承認:一次/二次」

 「経路:本線/控え」

 「伝令:主/副」

 「封緘:担当固定」

 「控え:別保管」

 

 この書き方なら、誰が見ても同じ意味に落ちる。余計な解釈が入らない。

 

 (紙は正直だ。読む側の嘘も残る)

 

 内心はそこで止める。言葉が伸びると、感情が混じる。混じった感情は、あとで切れ味が落ちる。

 

 車が再び走り出す。

 ターニャは封筒を鞄へ戻し、別の束を開いた。視察の名目に付随する回付だ。治安の整合確認。輸送の進捗確認。どちらも逃げ道があるようで、逃げ道にならない言葉を選んである。

 

 少し時間を置いて、控えめな咳払いがした。後席ではない。前でもない。間に立つ位置の声だ。

 

「少佐。確認がございます」

 

 セレブリャコーフの声は落ち着いている。焦りはない。ただ、早い。仕事量が増えるときの早さだ。

 

「言え」

 

「承認を二重にすると、回付の時間が伸びます。経路の分散も加えると、現場側の受け取りが遅れる恐れがございます。どちらを優先する形にしますか」

 

 質問は押し付けではなく確認だ。

 ターニャは即答する。

 

「遅れていい。受け取りが遅れても、処理が壊れるよりはましだ。期限を動かす。期限変更は文書でやれ」

 

「承知しました。期限変更の書面を先に用意します」

 

「経路分散は、現場の混乱を避けるために受け取り役を固定する。名前を置け」

 

「承知しました。受け取り役の固定、代替が必要な場合の申請も添えます」

 

「伝令は二名。片方は控え。控えは口を出すな。運ぶだけだ」

 

「承知しました」

 

 復唱は最小限だ。必要な部分だけで止まる。

 ターニャはそれでいいと思った。余計な一言で、会話が増えるのが一番まずい。

 

 車は建物の裏手へ入った。出入口は表ではない。表を使わないのは誇示ではない。手順が増えただけだ。

 扉の前で、黒服が先に止まり、周囲を見てから開ける。開くまでの沈黙が、ほんの少しだけ長い。

 

 ターニャは降りる。鞄の取っ手が手に食い込む。重い。ちょうどいい。

 廊下に入ると、空気が乾いている。紙の保管には向いているが、人間には向いていない。

 

 案内の職員が一瞬、目を上げかけて下げた。目を合わせないのが礼儀になっている。礼儀が増えるほど、裏の観察も増える。

 

 ターニャは足を止めず、視線も止めない。

 止めると、相手に余計な言い分を渡す。

 

 小部屋に入る。机が一つ、椅子が二つ。壁際に書類箱。

 ここは会議室ではない。決裁の途中で立ち寄るための場所だ。人が長居しないように作られている。だからこそ安全だ。

 

 扉が閉まる前に、黒服が一人、廊下側で止まった。残りは中へ入らない。数を見せない。だが手順は増えている。

 

「少佐、こちらが本日の回付です」

 

 セレブリャコーフが束を差し出す。ターニャは受け取り、机に置いた。束の角が揃っている。印が揃っている。ここで崩れると、そのまま現場へ崩れる。

 

「承認欄はどうした」

 

「一次は私が通します。二次は少佐の署名の後、別経路で回します」

 

「二次は誰が受ける」

 

「固定にします。代替は申請を挟みます」

 

「いい」

 

 短い。短くていい。

 ターニャは一枚だけ抜き、鉛筆で線を引いた。経路の分散が混乱を生む場所を、先に潰す。

 

 書類の文言は丁寧すぎない。外向けの飾りは削ってある。読む側が読み間違えない程度に整える。

 整えるのは美徳ではない。事故防止だ。

 

 (内部か敵国か、存在Xか。どれでも起きる事故は同じ形で来る)

 

 内心は短く置く。

 事故の形を先に潰せば、原因が何であれ被害は減る。

 

 ターニャは署名を入れ、日付を入れ、期限を入れた。

 そして、期限変更の欄も最初から作った。変更は例外だが、例外が起きるなら手続を先に準備しておく。

 

 扉が軽く叩かれた。

 ターニャが返事をするより先に、外の黒服が小さく答える。声は低く、内容は短い。扉は開かない。伝言だけが入る。

 動線が一つ増えた。それだけだ。

 

「少佐。現地側から、護衛の通行手順について確認が入っています。表の出入口を使わない場合、通行許可の表示はどの形式にしますか」

 

「表示は統一する。例外を作るな。形式は規程のまま。経路だけ変える」

 

「承知しました。規程の表示形式を維持し、経路変更票のみ添付します」

 

「そうしろ」

 

 会話は終わる。

 ターニャは書類の束を閉じ、封筒へ戻した。封緘は二重。触れる担当は固定。控えは別封筒。

 

 作業の途中で、ふと、背中の皮膚が冷たくなる感覚があった。誰かに見られている、と言うほど派手ではない。ただ、見える範囲に余計な空白がある。

 

 ターニャは顔を上げずに、机の端へ手を伸ばし、規程集の薄い冊子を開いた。

 該当箇所に付箋を貼り直す。

 誰に見られても、返すのは文書と規程。それ以外は出さない。

 

 (断定しない。返す準備だけを増やす)

 

 そこまでで、内心を切る。

 

「少佐、移動の段取りに関して一点だけ」

 

 セレブリャコーフが再び口を開く。今度は早さが少し落ちている。自分の手間が増えたのを理解している速度だ。

 

「言え」

 

「伝令を分けると、控え側の待機時間が増えます。現場での受け取りが遅れた場合、控えが戻るまで次の回付が止まる恐れがございます。控えの戻りを待たずに次へ進む形にしますか」

 

 ターニャは紙束を一つ叩き、結論だけを落とす。

 

「控えは戻らなくていい。控えは控えのまま、別の控えへ引き継げ。引き継ぎは紙で残す。口頭は禁止」

 

「承知しました。引き継ぎ票を作成します」

 

「期限は動かす。だが責任者は動かすな。責任者が動いたら、その時点で差し戻しだ」

 

「承知しました」

 

 ターニャは立ち上がり、鞄を持った。

 小部屋を出る。廊下の黒服が動く。階段の折れで一人が止まり、次の折れで別の一人が止まる。数は語られない。だが、手順が増えている。

 

 視察へ向かうための準備は整った。

 欠落の原因が何であれ、手続きの冗長化で被害は減る。

 そして、減らせる被害を減らすのが、今の仕事だ。

 

 ターニャは歩幅を変えずに進む。

 返す言葉は短く、返す形は文書で固定する。

 現場へ出る名目は、もう揺れない。

 

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。