幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第6節 アンソン

 

 海からの風が痛かった。手袋の縫い目から冷気が入り、指が鈍る。アンソン大佐は、港の外れに置かれた小さな倉庫の陰で、部下が無線機を叩くのを見ていた。叩けば直るなら助かるが、そういう壊れ方ではない。

 

「どうだ」

 

 兵が顔を上げる。頬が赤く荒れている。

 

「つながりません、大佐。雑音だけです。さっきからずっと」

 

 アンソンは頷いた。怒鳴る理由がない。状況はもう、言葉で変わらない。

 

 倉庫の扉は半分だけ開いていた。中には木箱が積まれている。箱の外側には、読めない字と、かすれた番号。役に立つのは番号ではなく中身だが、箱は封がされている。封を剥がす道具も時間もない。

 

「弾は」

 

 別の兵が、肩から下げた布袋を見せた。

 

「配った分で終わりです、大佐。残りはここにない」

 

 アンソンは箱を見た。海側の岸壁には、昨日まで船がいた。いまはいない。船がいないのは、撤退が終わったからではない。撤退が途中で途切れたからだ。

 

 通りの向こうで、履帯の音がした。遠い。だが近づいている。街の角を曲がるたびに、音が一段大きくなる。

 

「指揮系統は」

 

「連絡が来ません。師団司令部も、港湾司令部も。通信線が切れてます」

 

 アンソンは地図を開いた。紙は湿って端が波打っている。線が読みにくい。だが、読むしかない。救援が来るなら、紙の外から来る。いまは来ない。

 

 港の人影は薄い。民間人が消えたのではない。消える速度が早かった。必要な者だけ先に逃げ、残りは置かれた。置かれた者は、逃げる術を失う。

 

「大佐、上からの命令は……」

 

 若い兵が言いかけて止まった。自分でも分かっているのだ。命令が来ない。来ないなら、来ない前提で動くしかない。

 

 アンソンは視線を倉庫の梁へ向けた。そこに吊られた古いロープが揺れている。風だけではない。誰かが走った揺れだ。部下が焦っているのも、民間人が逃げているのも、全部その揺れと同じだ。

 

 (逃げるだけの戦争は、戦争じゃない。だが、ここに残るのも戦争じゃない)

 

 内心を短く切って、アンソンは言葉を戻した。

 

「命令がないなら、こちらで決める」

 

 兵たちが息を止める。誰かが責任を取る言葉だ。責任を取るのが指揮官の仕事だと、アンソンは知っている。

 

「港は捨てる。ここに残っても囲まれるだけだ」

 

「大佐、船が戻る可能性は――」

 

「ない」

 

 短く答える。希望の話を伸ばすと、足が止まる。

 

「山に入る。道路は使わない。見つかる」

 

 伍長が手を挙げるようにして言った。

 

「大佐、道を外れると装備が……」

 

「装備は軽くする。銃と弾と、食うものだけだ」

 

 倉庫の奥から、乾いた咳が聞こえた。老人だ。港湾で働いていた男が、座り込んでいる。目が合うと、すぐに逸らした。怯えているのではない。諦めている。諦めは、怒りより扱いが難しい。

 

 アンソンは老人に近づき、短く尋ねた。

 

「裏道を知ってるか」

 

 老人は一瞬だけ首を振り、次に小さく頷いた。言葉は出ない。喉が乾いているのだろう。

 

 老人は指を一本だけ立て、倉庫の横の狭い通路を示した。通路の先は、石積みの壁で行き止まりに見える。だが、その壁の一部が不自然に黒い。人が擦った跡だ。

 

「そこか」

 

 老人は頷いた。アンソンは部下に目配せした。

 

「二人、先に見ろ。音を立てるな」

 

「了解」

 

 兵が動く。足音が小さい。小さくても、静かな場所では響く。港は、静かすぎた。

 

 しばらくして、先行した兵が戻ってくる。

 

「大佐、通れます。壁の向こうに階段がある。裏の斜面に出られます」

 

 アンソンは部下を見回した。人数は多くない。顔に疲れが出ている。だが、まだ歩ける。

 

「行くぞ」

 

 通路に入ると、風が弱まった。代わりに、湿った匂いがする。石が冷たい。階段は狭く、足場が悪い。転べば音が出る。音が出れば、追い手が気づく。追い手が気づけば、終わる。

 

 上り切った先は、背の低い木と、ぬかるんだ斜面だった。雪は薄いが、下の土は水を含んでいる。靴が沈む。沈むたびに足が重くなる。

 

「大佐、後ろは」

 

 兵が振り返りたがる。振り返ると止まる。止まると遅れる。

 

「見るな。歩け」

 

 短い命令で切る。命令が長いと、実行が遅れる。

 

 斜面を越えると、小さな林道に出た。林道と言っても、車は通れない。人が通るだけの幅だ。枝が顔に当たる。頬が切れて痛いが、拭く余裕はない。

 

 しばらく進んだところで、無線機を抱えていた兵が息を切らして言った。

 

「大佐、予備電池も冷えてます。復旧は無理です」

 

「分かった。捨てろ」

 

「しかし、大佐――」

 

「捨てろ。重いだけだ」

 

 兵は躊躇ったが、命令に従った。無線機が地面に置かれる。置かれるときの音が、やけに大きく聞こえた。

 

 アンソンは立ち止まらない。立ち止まると、捨てた理由が揺らぐ。

 

 林道の先で、別の兵が小声で言った。

 

「大佐、食料が……」

 

「あとで分ける。いまは歩け」

 

 兵は黙る。黙るのは理解したからではない。言っても変わらないと分かったからだ。

 

 林の奥で、乾いた破裂音が一つ鳴った。銃声ではない。近い木が折れた音だ。だが、その直後に、遠くから別の破裂音が重なった。今度は銃声だった。

 

 アンソンは手を上げ、全員を止めた。止めるのは例外だ。例外にした以上、短く決める。

 

「伏せろ」

 

 兵たちが地面に沈む。ぬかるみが制服に染みる。冷たい。冷たいが、命がある方がましだ。

 

 銃声は続かない。短い。撃った側も急いでいる。狙っていない。追い払うための撃ち方だ。

 

 アンソンは地面の匂いを吸った。湿った土と、汗の匂い。汗が冷えていく。身体が震える。震えを止めるには、動くしかない。

 

 (ここで軍として戻る道は切れた)

 

 内心は短く置く。長くすると、悔しさが混じる。

 

 アンソンは体を起こし、部下に合図した。

 

「散る。列を作るな。十歩ずつ間を空けろ」

 

「大佐、集合地点は」

 

 伍長が聞く。聞くのは正しい。勝手に動くと迷子が出る。迷子が出ると、それも終わる。

 

「この先の尾根だ。木が倒れている場所がある。そこへ集まれ」

 

「了解」

 

 部下が動く。動きはぎこちないが、命令は伝わった。伝わる命令だけが残る。

 

 尾根に着くまで、誰も口を利かなかった。喋ると息が荒くなる。息が荒くなると音が出る。音が出ると見つかる。単純だ。

 

 尾根には倒木があった。言った通りの場所だ。そこに集まった顔は、さっきより少ない。減ったのではない。まだ来ていない。来られなかった者もいるかもしれない。

 

「大佐、二名が戻ってません」

 

 伍長が言う。アンソンは頷く。否定できない。

 

「待たない。今ここで動けなくなる」

 

 伍長が歯を食いしばる。だが反論しない。反論は、希望の形で出る。希望は足を止める。

 

 アンソンは地図をもう一度開いた。紙がさらに濡れている。線がにじむ。だが、見るべき点は一つだ。人が通れ、隠れられる場所。

 

「この先に小屋がある。使えるかは分からん。だが、まずそこへ行く」

 

 兵が頷く。頷き方が遅い。疲れが溜まっている。

 

 アンソンは声を低くして続けた。

 

「ここから先は、軍の動き方では生き残れない」

 

 誰も言い返さない。否定できないからだ。通信がない。補給がない。命令がない。制服だけが残っている。

 

 アンソンは自分の袖を見た。汚れが染みている。袖章が何を守ってくれるわけでもない。

 

「大佐……」

 

 若い兵が言葉を探す。

 

「これから、どうするんですか」

 

 アンソンは即答しなかった。即答すると、軽くなる。軽い決断で人は死ぬ。だから、短い沈黙を置き、言葉を選ぶ。

 

「抵抗を続ける」

 

 兵の目が揺れる。続けると言えば、勝つと思ってしまう者がいる。勝てない。それは分かっている。だが、やめる理由にはならない。

 

「ただし、形を変える」

 

「形、ですか」

 

「隊列を捨てる。拠点を捨てる。目立つ動きを捨てる。小さく動く」

 

 伍長が口を挟む。

 

「大佐、それは……」

 

「軍じゃない。分かってる」

 

 アンソンは頷いた。自分で言い切る。言い切らないと、誰かが言う。誰かが言えば、責任が散る。散った責任は、最後に弱い者へ落ちる。

 

「ここからは、現場で決める」

 

 その言葉で、空気が変わった。

 命令が上から来ない世界で、命令の代わりに残るものだ。

 

 アンソンは部下を一人ずつ見た。見て、頷く。長い演説はしない。いま必要なのは、理解と同意だけだ。

 

「抵抗は続ける。だが、軍としては終わりだ。ここからはパルチザンとして動く」

 

 誰も笑わない。誰も泣かない。

 ただ、頷いた。短く。

 

 アンソンはその頷きを確認し、地図を畳んだ。紙は濡れても、命令は濡らさない。

 

 ここで決めた。

 軍から、パルチザンへ移る。

 

 

 

 

 尾根から先は、道らしい道がなかった。木の根が露出し、土は水を含んでいる。踏み外せば足首を捻る。捻れば歩けない。歩けない者は置かれる。アンソン大佐は、その単純な計算を頭の中で何度も繰り返しながら、先頭を歩いた。

 

 背中の銃が重い。だが重さはまだ我慢できる。問題は弾だ。弾が軽くなると、心が軽くなる。心が軽くなると油断する。油断すると死ぬ。

 

 (軍を捨てた。捨てた以上、迷う時間はない)

 

 アンソンは呼吸を整え、振り返らずに言った。

 

「伍長。間隔を保て。近いと一緒にやられる」

 

「了解です、大佐」

 

 返事は短い。短い返事が残るのは、まだ統制が生きている証拠だ。統制がなくなると、返事は長くなる。言い訳が混じる。

 

 林の外側で、遠くの音が鳴った。金属が擦れる音。車両が動く音だ。雪の上を履帯が削る音は、森の中でも分かる。

 

「来てるな」

 

 アンソンは独り言に近い声で言った。隣の兵が頷く。頷くだけで十分だ。

 

 小屋に着いたのは、夕方の手前だった。屋根は低い。窓は一つだけ。扉の板が割れて隙間がある。中は寒い。だが風は弱い。雨も入らない。それだけで価値がある。

 

 アンソンは手で制し、部下を外に残した。

 

「二人。中を見ろ。罠があるかもしれん」

 

「了解です、大佐」

 

 兵が入る。靴底が床を鳴らす。音が小さくても、全員が耳を立てる。音が途切れるのが怖いからだ。

 

 数十秒後、兵が戻ってきた。

 

「大佐、何もいません。動物の跡はあります」

 

「入る」

 

 全員を入れない。まず半分だけ入れる。残りは外で見張りだ。アンソンは頭の中で人数の割り振りを切り替える。軍の癖が残っている。残っていていい。生き残る癖なら残していい。

 

 小屋の中は木の匂いがした。湿った薪の匂い。古い衣類の匂い。人が住んでいたが、いまはいない。逃げたのか、連れて行かれたのか。どちらでも、いまは考えない。

 

「火は使うな」

 

 誰かが薪を見て目を輝かせたが、アンソンは切った。火は目立つ。煙は見える。匂いは嗅がれる。暖かさは命を買わない。

 

 兵が水筒を回し始めた。回すたびに音が出る。アンソンはそれを見て、声を低くした。

 

「飲むのは一口ずつだ。残りは夜だ」

 

 不満げな顔は出ない。ただ、目の奥が荒れる。飢えは顔に出る前に目に出る。

 

 外の見張りが戻ってきた。息が白い。

 

「大佐、足跡が増えてます。人じゃありません。犬です」

 

 アンソンは頷いた。犬が来るなら、人も来る。犬だけが来ることはない。

 

「時間がないな」

 

 伍長が口を開く。

 

「大佐、移動しますか」

 

「夜のうちに出る」

 

 アンソンは地図を取り出した。濡れているが、乾いた角を探して指で押さえる。

 

「ここから北へ行く。谷を避ける。谷は追い詰められる」

 

「了解です」

 

 部下が頷く。だが、頷きに疲れが混じる。疲れが混じると、次の一歩が遅れる。

 

 アンソンは少しだけ声を強くした。

 

「遅れるな。遅れたら終わりだ」

 

 言葉が荒くなる。だが必要だ。ここで優しくすると、部下は止まる。

 

 夜になった。暗い。暗いが、月が薄く地面を照らす。雪がない場所は黒い。雪がある場所は白い。白い場所は目立つ。だから白い場所を避ける。単純だが、単純なことほど守れない。

 

 小屋を出るとき、アンソンは扉を閉めた。閉める音が出ないように、板を押さえる。指が痛いが離さない。痛い程度で済むなら安い。

 

 林を抜けると、小さな谷筋に出た。谷は避けると言った。だが、谷筋を横切るだけなら許容だ。横切らないと、先へ行けない。戦場はいつも、嫌な選択の連続だ。

 

 そのとき、遠くで短い叫び声がした。人の声。すぐに途切れた。

 

 部下が凍る。足が止まりかける。

 

 アンソンは手を上げた。止めない。止めると全員が死ぬ。

 

「走るな。歩け。音を出すな」

 

 伍長が小声で言う。

 

「大佐、味方の可能性は」

 

「ない」

 

 アンソンは切った。味方なら、あんな声は出さない。声が出るのは、押さえつけられたときだ。

 

 谷筋を渡り切ったところで、犬の鳴き声が聞こえた。近い。鼻を鳴らす音まで聞こえる。犬は迷わない。迷わないから怖い。

 

 アンソンは身を低くし、木の陰へ部下を寄せた。

 

「動くな」

 

 犬の足音が来る。雪を踏む音と、土を踏む音が混じる。人の足音もある。重い。装備が重い。数が多い。

 

 アンソンは目だけで周囲を見た。木の影の向こうに、灰色の服が動く。軍服ではない。黒や灰の混ざった、揃えた服。装備は統一されている。歩き方が慣れている。

 

 (親衛隊だ)

 

 内心でだけ断定する。口に出すと、部下の呼吸が変わる。呼吸が変わると音が出る。

 

 犬がすぐそばを通った。アンソンは銃を構えない。撃てば当たる距離だ。だが撃った瞬間に終わる。犬を倒しても、人が来る。

 

 犬は立ち止まった。鼻を地面に近づける。アンソンは歯を食いしばった。部下の一人が小さく震えた。震えると布が擦れる。擦れる音が出る。

 

 アンソンは手を伸ばし、震える兵の腕を押さえた。握るのではなく、押さえる。握ると震えが伝わる。押さえると止まる。

 

 犬が鼻を上げた。空気を嗅いでいる。アンソンは息を止めた。息を止めても匂いは止まらないが、動きは止まる。

 

 数秒。長い数秒。

 

 犬が別方向へ向いた。人間が短く指示を出す声が聞こえた。言葉は分からないが、口調で分かる。雑ではない。手順の声だ。

 

 追跡班は谷筋を下へ移動していった。犬の鳴き声が遠ざかる。

 

 部下が息を吐いた。吐く息が白くなる。白い息は夜でも見える。だが、いまはもう遅い。追跡班は去った。

 

 アンソンは小声で言った。

 

「いまのうちに動く」

 

「了解です、大佐」

 

 伍長が頷く。顔が青い。寒さではない。恐怖だ。

 

 移動を続けるうちに、森の中で別の影を見つけた。木の根元に人が倒れている。近づくと、制服の切れ端が見えた。自分たちの国のものだ。顔は見ない。顔を見ると、足が止まる。

 

 伍長が唇を噛む。

 

「大佐……」

 

「行くぞ」

 

 アンソンは言った。冷たい言葉だ。だが、ここで止まれば同じになる。死者を増やすだけだ。

 

 夜明け前、遠くの村の明かりが見えた。明かりは危険だが、人がいる証拠でもある。人がいるなら食料がある。衣類がある。情報がある。

 

 アンソンは村に近づかない。近づくなら、まず見張る。まず見る。見るのが先だ。

 

 木陰から村を覗くと、道の入り口に検問がある。兵が立っている。服装は同じ。犬もいる。犬の影が動く。検問は固定ではない。交代している。つまり、ここはもう抑えられている。

 

「大佐、入れませんね」

 

 伍長が言った。分かりきっていることを言うのは、確認だ。確認は必要だ。

 

「入らない。外側で拾う」

 

 アンソンは村の裏側を指差した。

 

「畑の端。納屋がある。そこなら見張りが薄い」

 

「了解です」

 

 部下が動く。動きは遅い。疲れている。だが、止まってはいない。止まっていないなら、まだ使える。

 

 畑の端で、老人が一人、雪を掘っていた。農具は粗末だ。だが、動きは淡々としている。恐怖で固まっていない。恐怖を飲み込んで動いている。

 

 アンソンは距離を保ったまま、低い声で言った。

 

「食べ物を分けてほしい」

 

 老人は振り返り、アンソンの服を見た。次に、ing(識別章)を見る。最後に顔を見る。目が細い。疑っている。

 

「軍人か」

 

「そうだ」

 

「もう負けたのにか」

 

 老人の言葉は簡単だった。刺さるが、飾りがない。

 

「負けた。だが終わってない」

 

 アンソンも簡単に返した。ここで美談を言うと、老人は閉じる。現実の言葉がいる。

 

 老人は土の中から小さな袋を取り出し、投げた。袋は軽い。だが、匂いがする。干した魚か、硬いパンか。どちらでもいい。命の匂いだ。

 

「これだけだ。見つかったら、俺も終わる」

 

「分かってる」

 

 アンソンは袋を拾い、礼を言わなかった。礼を言うと、老人が罪悪感を持つ。罪悪感は次を止める。

 

 部下に袋を回す。回すときも音を出さない。皆が黙って噛む。噛む音が小屋の中より大きく聞こえる。空腹は音を増幅する。

 

 移動を再開する直前、老人が小声で言った。

 

「最近、黒い服の子供が来た」

 

 アンソンは止まりかけた。だが止まらない。歩きながら聞く。

 

「子供?」

 

「背が低い。帽子をかぶってた。周りが妙に静かだった」

 

 老人は言葉を選ぶ。選ぶのは怖いからだ。怖いなら、真実に近い。

 

「どこで見た」

 

「村の外れの道。数人が先に道を開けてた。子供が真ん中だ。歩き方が、子供じゃなかった」

 

 アンソンは息を吐いた。子供が前に出る軍隊は、まともではない。まともではないから、止まらない。止まらないから怖い。

 

 (決裁者が現場に出るのか。現場を見せるためか。脅すためか)

 

 アンソンは自分の内心を短く切り、言葉にしない。推測を部下に与えると、部下は勝手に恐れる。恐れが増えると、足が止まる。

 

「大佐、どうしますか」

 

 伍長が聞く。聞き方がいつもより慎重だ。

 

「避ける」

 

 アンソンは即答した。

 

「見つけても追うな。追ったら死ぬ」

 

「了解です」

 

 伍長が頷いた。分かる言葉だけが残る。いま必要なのはそれだ。

 

 森へ戻ると、空が明るくなってきた。明るいのは危険だ。だが、ずっと夜では動けない。夜に動いて、昼に隠れる。それがパルチザンの基本だ。アンソンはその基本を、今になって身体に刻み直していた。

 

 その日の昼、岩陰に潜んでいると、遠くから銃声が聞こえた。断続的ではない。短い。すぐに終わる。掃討だ。撃ち合いではない。処理の音だ。

 

 部下の一人が唇を震わせた。

 

「大佐……あれは」

 

「見るな」

 

 アンソンは言った。見ると止まる。止まると、ここにも来る。

 

 夕方、別の避難者と合流した。制服は違う。武器も揃っていない。だが、目が同じだ。逃げ切れないと分かった者の目だ。

 

 その中の男が言った。

 

「大佐か。噂は聞いてる。まだ抵抗するらしいな」

 

「抵抗はする」

 

「勝てないぞ」

 

 男は笑わない。確認の声だ。

 

「勝つためじゃない。止められないからやる」

 

 アンソンはそれだけ言った。男は黙って頷いた。

 

 避難者はもう一つ、噂を持っていた。

 

「黒い服の子供だ。誰かが言ってた。命令の紙に、その子供の署名があるって」

 

 アンソンは顔を上げた。署名。紙。現場と紙が繋がる。

 

「見たのか」

 

「見ちゃいない。だが、見たってやつがいた。黒い服の連中が、紙を持って動く。紙を見せるだけで、村が静かになる」

 

 男は肩をすくめた。

 

「銃を向けるより早いらしい」

 

 アンソンは口を閉じた。理解した。紙で人を殺す仕組みがある。紙があるなら、決裁者がいる。決裁者がいるなら、敵は「部隊」ではなく「個人」に収束する。

 

 (敵は装備じゃない。手順だ。手順を作る人間がいる)

 

 アンソンは内心を短く置き、すぐに現実へ戻した。

 

「その噂は広げるな」

 

「大佐?」

 

「広げると、敵も聞く。敵が聞けば、餌にされる」

 

 男は頷いた。説明は要らない。単純な言葉で十分だ。

 

 夜になり、全員が小さな窪みに身を寄せた。火は使わない。濡れた布を絞り、靴の中の水を捨てる。捨ててもまた入る。だが捨てないよりはましだ。

 

 アンソンは一人だけ離れて座り、森の音を聞いた。風の音。枝の擦れる音。遠くの車両音。どれも、敵が近い証拠になり得る。

 

 (親衛隊の掃討は止まらない。止まらないなら、こちらも止まれない)

 

 アンソンは目を閉じずに、命令をまとめた。

 

「明け方に動く。二組に分ける。会う場所は決めない。会えたら会う」

 

 伍長が眉を寄せた。

 

「大佐、会う場所がないと……」

 

「場所を決めると、そこを潰される」

 

 アンソンは短く返した。正しいのは分かっている。分かっていても怖い。怖いが、必要だ。

 

「合図だけ決める。木に二本線を刻む。見たら、同じ方向へ行け」

 

「了解です、大佐」

 

 夜の沈黙の中で、返事が小さく響いた。

 

 遠くで犬の声がした。まだ遠い。だが、遠いだけだ。いずれ近づく。近づくまでに、こちらが動かなければならない。

 

 アンソンは立ち上がり、最後に全員を見た。人数はさらに減っている。減ったのは現実だ。だが、残った者だけでも動く。

 

「生き残れ。生き残って、次をやれ」

 

 言葉は単純だった。

 複雑な言葉は、寒さの中で役に立たない。

 

 そしてアンソンは、噂の「黒服の子供」を頭の片隅に置いた。

 まだ会わない。まだ撃たない。だが、敵の形が見えた。決裁者の匂いがした。

 

 それだけで、抵抗の方向が一つ定まった。

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

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