幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第7節 捕縛と形式

 

 野営地は森の外れに設けられていた。テントの布が風で鳴る。杭を打った金具が小さく震え、金属音が薄く混じる。雪解けの泥が靴底に張り付く。歩くたびに、粘る音がする。

 

 木箱の上に板を渡しただけの机が並び、そこに紙の束が積まれている。紙の角が湿気で丸まり、押さえの重りが置かれていた。ペン先が擦れる音と、スタンプが押される鈍い音が交互に続く。

 

 ターニャは黒服の護衛を最小限にしていた。背後に一人、出入口に一人。道の折れに一人。数は口にしない。必要な場所に置くだけだ。護衛が扉を開けるとき、短い沈黙が挟まる。その沈黙が、ここでは合図になっていた。

 

 (現場は、書類の外側にある。だが、現場を理由に手順を崩すのは別だ)

 

 ターニャは手袋を外し、紙の端を押さえた。指先に紙の湿りが残る。濡れた紙は破れやすい。破れれば控えが減る。控えが減れば、揉める。

 

 前に立っていたのは、現場指揮の親衛隊将校だった。顔色は悪くない。疲れてはいるが、動きに無駄がない。靴の泥を気にする余裕がある者は、まだ崩れていない。

 

「少佐閣下、本日の視察は――」

 

 将校が口を開きかけたところで、遠くから声が上がった。捕縛した者を運び込んだらしい。縄が擦れる音。転倒した靴音。短い怒鳴り声。すぐに収束する。流れが止まらない。

 

 ターニャは将校の言葉を遮らず、ただ先に要点だけ置いた。

 

「視察は形式の確認だ。現場判断はあなたが行う。私は範囲を定める」

 

 将校が一拍置いて頷いた。

 

「了解しました。署名の所在について、確認をいただけますか」

 

 ターニャは机上の紙を指で叩いた。軽い音がした。

 

「捕縛記録、身元確認、尋問記録。最終の処分決定。署名者は分ける。混ぜるな」

 

「署名者は、捕縛記録が分隊長、身元確認が検査係、尋問が私、処分決定が――」

 

 将校がそこで言葉を止めた。止めた理由は明白だった。処分決定の欄が、上に繋がっている。繋がっているが、現場は現場で決めたがる。だが、決めてよい範囲がある。

 

 ターニャは短く返した。

 

「処分決定は、あなたの権限で済む類型だけに限定する。例外は差し戻す。控えを二通作れ。控えの封緘は私の護衛が預かる」

 

 将校が眉を上げたが、反論はしない。反論すると長くなる。長くなれば現場が止まる。

 

「了解です。期限は本日中でよろしいですか」

 

「本日中だ。明朝の回付に間に合わせる。遅れるなら理由を紙に書け。口では受けない」

 

 将校が短く敬礼し、紙の束を抱え直した。抱える動作が慣れている。ここでは銃より紙の方が重い。

 

 捕縛した者たちは、テントの外に列を作らされていた。列は乱れている。だが、乱れはすぐ整えられる。縄を引く音と、木の杭に金具を掛ける音がする。杭に掛けた金具が鳴る。人の腕が引かれ、短い呻きが出る。すぐに黙る。黙らせる手順がある。

 

 ターニャは列の端に立ち、処理の流れを見た。捕縛→身元確認→簡易尋問→書類作成→処分決定。流れは一本ではない。三本に分かれている。どこかが詰まっても止まらないようにしてある。

 

 (止まらない仕組みは、止める理由を奪う)

 

 身元確認の係は、捕縛者の首元から認識票を引き出し、番号を読み上げた。読み上げる声は平坦だ。聞き返しはない。隣の記録係が同じ番号を紙に書く。紙をめくる音が一定の間隔で続く。ペン先が走る。インクが乾く前に紙を重ねないよう、端にずらして置いていた。

 

 捕縛者が名を名乗る。言い淀む者もいる。嘘をつく者もいる。係は表情を変えない。嘘かどうかはここで決めない。決めると詰まる。

 

「名前」

 

「……アンソン」

 

 男の声は低かった。年齢は若くない。顔は汚れ、頬に擦り傷がある。軍人の体つきだが、制服の残りは少ない。だが、目が落ち着いている。怯えではない。

 

 係が続ける。

 

「階級」

 

「大佐」

 

 周囲の親衛隊員の動きが、ほんの少しだけ変わった。足の開きが変わる。縄の握りが強くなる。だが声は変えない。声を変えると、相手に意味を渡す。

 

 記録係が紙に書く。ペンが止まる。次の欄へ移る。

 

「所属」

 

「ノルウェー陸軍」

 

 係が頷き、認識票の刻印を確かめる。刻印は削られている。削っても形は残る。形が残る限り、照合の入口は塞がらない。

 

 ターニャはその一連を見て、将校の肩越しに声を掛けた。

 

「照合の根拠は二つ用意しろ。認識票だけで決めるな。書面があるなら写しを作れ」

 

 将校がすぐに返す。

 

「了解です。押収品の写しを追加します。控えは二通でよろしいですか」

 

「二通だ。原本は封緘し、保管責任者を欄に書け。口頭の引き継ぎは認めない」

 

 将校が頷き、部下へ短く指示した。指示は命令ではなく確認の形で流れる。

 

「押収品の整理は済んだか。写しは取れるか」

 

「はい。紙は足ります」

 

「足りないなら、足りないと書け。後で揉める」

 

 現場の会話は短く、繋ぎは確認だった。怒鳴り声は遠くで一度だけ上がり、すぐ消えた。怒鳴った側が失点になる。ここでは誰もそれを望まない。

 

 簡易尋問のテントは、入口に布が二重に垂らされていた。風を遮るためでもあるが、声を外へ漏らさないためでもある。中へ入ると、椅子が一脚、向かい合わせに二つ。机は狭い。机の上には質問票の紙。紙の角に穴を開け、紐で束ねていた。散らばらない工夫だ。

 

 尋問係が捕縛者を座らせ、腕の縄をほどく。ほどく音がする。ほどくが自由にはしない。椅子の脚に縄を回し、体を固定する。固定する動作が滑らかだ。ここで手間取ると、次が詰まる。

 

「質問は短く。答えも短く。嘘を見抜く場ではない。矛盾を拾う場だ」

 

 ターニャは将校へ言い、将校はすぐに応じた。

 

「承知しました。質問の範囲は、抵抗組織の所在と連絡手段に限定します」

 

「限定を守れ。逸れるなら理由を書け」

 

 ターニャは席を外し、テントの外へ戻った。外の空気は冷たい。靴底の泥が固まり始めている。固まると滑る。滑れば転ぶ。転べば銃が鳴ることがある。ここでは銃が鳴るのは事故でも事件になる。

 

 列の別の端で、書類作成の机が稼働していた。机上の紙束が減り、代わりに封筒が増える。封筒は茶色で、封緘用の糊が塗られている。糊を舐める音が一瞬だけした。すぐに、紙を押さえる指が強くなる。封緘は甘いと剥がれる。剥がれれば改竄を疑われる。

 

 ターニャは封筒の山を見て、護衛へ目線を送った。護衛は無言で一つの封筒を受け取り、懐へ入れる。動作は小さい。周囲に誇示しない。だが、封筒が移動した事実だけが残る。

 

 (形式は武器だ。現場を縛るためではない。現場を守るためだ。守るべきは、あとで責任を問える形だ)

 

 処分決定の机は、他より少し離れた場所に置かれていた。そこでは判を押す音が続く。判は一種類ではない。複数の印があり、押す順番が決まっている。順番が決まっているから早い。早いから止まらない。

 

 現場将校がターニャへ近づき、低い声で言った。

 

「少佐閣下、処分決定の類型について、確認をお願いします。現場で処理できる範囲を明文化したい」

 

 ターニャは頷いた。ここで曖昧にすると、現場は勝手に広げる。広げれば事故が起きる。事故は上に届く。届けば余計な手が入る。

 

「類型は三つに限る。拘束継続、即時移送、現場処理。現場処理は条件を付ける。条件が満たせないなら移送に回せ」

 

「条件は、武器の所持と再犯の可能性でよろしいでしょうか」

 

「それだけでは広い。武器の所持は記録で証明しろ。再犯は推測で書くな。行動で書け」

 

 将校が一拍置き、言葉を選んだ。

 

「行動の記録がなければ、移送に回す、でよろしいですか」

 

「それでいい。移送先の受け入れが詰まるなら、その詰まりを紙にする。詰まりを隠すな」

 

 将校が息を吐き、頷いた。

 

「了解です。控えは二通、封緘は――」

 

「封緘は現場で行い、封緘印の番号を欄に書け。印をどこに保管するかも書け」

 

 将校が礼をして去った。去ると同時に、別の捕縛者が運び込まれる。流れが切れない。切れないように人が動いている。

 

 その捕縛者の中に、先ほどの男がいた。縄で縛られ、歩かされている。背中は真っ直ぐだ。痛みはあるはずだが、表に出さない。目線は低いまま、周囲を見ている。

 

 護送の親衛隊員が言った。

 

「頭を上げるな。歩け」

 

 男は返事をしない。返事をしないのは反抗ではない。返事をしても得がないと知っている。

 

 ターニャは、その歩き方を見た。慣れた歩き方だ。軍人の歩き方。だが、軍の列ではない。縄の列だ。形式が変わると、人の立ち方も変わる。

 

 (大佐……か。ここまで上が現場に残るほど、崩れている)

 

 ターニャは思考を切り、紙へ戻した。現場は見た。次は、形式を整えて持ち帰る番だ。

 

 将校が再び近づき、紙を差し出した。

 

「少佐閣下、処分決定票です。署名欄の配置だけ確認ください。現場で混ざっていました」

 

 ターニャは紙を受け取り、指で欄を追った。署名欄が近すぎる。近いと、誰が押したかが曖昧になる。曖昧になると責任が逃げる。

 

「署名欄を分けろ。決裁者の欄と、作成者の欄を離す。作成者の欄は末尾だ。先に書くな」

 

「了解です。作り直します」

 

「作り直したら、旧票は破棄せず封緘して残せ。破棄理由を書け。あとで問われる」

 

 将校が頷き、踵を返す。踵の音が泥に吸われ、鈍く消える。

 

 列の端では、捕縛者が順番を待たされていた。縄が擦れる。衣服の金具が鳴る。誰かが咳をし、すぐに押さえ込む音がする。押さえ込むのは口ではない。肩だ。肩で押さえると声が止まる。声が止まると、処理は続く。

 

 ターニャは書類の束を閉じ、鞄へ入れた。革がきしむ音がした。鞄の重さが増える。重いのは正常だ。軽い鞄は、抜けがある。

 

 (抜けは必ず、現場より後で問題になる)

 

 護衛が一歩前に出て、道を空ける。現場の列が、わずかに静まる。静まり方が不自然ではない。誰も声を上げない。誰も見ない。だが、視線だけが動く。見るのは事故になる。だから見ないふりをする。

 

 縄を引かれた男が、列の中で足を止めた。止めたが、止めたままではいられない。背中が押される。男は一歩進む。だが、その一瞬だけ、首の角度が変わる。目線が上がりかける。

 

 ターニャは、それを見た。見られる前に、紙へ視線を落とした。形式の視察官は、現場の捕縛者と目を合わせない。目を合わせると、余計な意味が生まれる。

 

 男の視線が、いま――上がろうとしていた。

 

 

 

 

 縄を引かれた男の視線が上がりかけた、その瞬間だった。

 

 護送の親衛隊員が男の肩を押し、列を詰めた。男は半歩だけ姿勢を崩し、すぐに戻す。戻し方が早い。痛みを飲み込む癖が身についている。

 

 ターニャは鞄の留め具を押さえ、革の口を閉じた。金具が小さく鳴る。鳴った音は、すぐ別の音に埋もれる。ペン先が走る音。紙をめくる音。スタンプが押される鈍い音。野営地の中では、銃声よりもそれが目立っていた。

 

 (意味を渡すな。形式に戻せ)

 

 ターニャは歩幅を変えず、処分決定の机へ向かった。机の周りは他より狭く、置かれている紙も少ない。少ないから、早い。早いから、迷いが入りにくい。

 

 現場将校が、その机の横で待っていた。顔に泥の筋がついている。拭く暇がないのではない。拭く暇はあるが、拭いても戻る場所が同じだと知っている顔だった。

 

「少佐、処分決定票の作り直しが終わりました。署名欄を離しました」

 

 ターニャは紙を受け取り、欄の並びを目で追う。作成者、確認者、決裁者、保管責任者。順番が乱れていない。欄の余白がある。余白があると、後で追記ができる。追記は便利だが、便利すぎると嘘の入り口になる。

 

「余白は狭めろ。追記欄は別に設けろ。追記するなら、日付と理由を書け」

 

「了解しました。追記欄を作ります。保管責任者は私の名でよろしいですか」

 

「よい。ただし保管場所も書け。移動させたら、移動先と移動理由を書け」

 

 将校が頷き、部下へ手を振る。部下が控えの束を抱え直した。紙束が擦れる音がして、角が一枚だけ折れる。折れた角は、あとで揉める角だ。

 

 ターニャは折れた角を指で押さえ、平らにした。湿気で柔らかい紙は、すぐ形が変わる。

 

「控えの角は揃えろ。揃わないなら、束の管理が甘いと見られる」

 

「承知しました」

 

 将校は声を荒げない。荒げる必要がない。ここにいる者たちは、手順で勝つことを知っている。

 

 列の方で、男が再び歩かされた。縄が椅子の脚に回され、簡易尋問のテントへ入る。入口の布が揺れ、すぐ閉じる。閉じる音はしない。布は音を立てないから便利だ。便利なものほど、後で汚れる。

 

 ターニャは尋問の外に立ち、内側の声を聞いた。聞き取れない程度の声量。だが、短い単語が断続的に漏れる。地名。人数。武器。連絡。嘘を混ぜるにも、余計な言葉が少ない。

 

 尋問係が言う。

 

「食料はどこで取った」

 

 男の声が返る。

 

「村だ」

 

「村の名は」

 

「言わない」

 

「言わないなら、そう書く。もう一つ聞く。連絡はどう取った」

 

「走った」

 

「誰に」

 

「部下だ」

 

 言葉が短い。短いが、名詞だけで終わらない。最低限の動きがある。走った、取った、言わない。そういう返しは、軍の匂いがする。

 

 尋問係が椅子を引く音がして、紙をめくる。

 

「最後だ。まだ軍だと思っているか」

 

 男は間を置いた。間が長い。長いが、逃げている間ではない。言葉を選ぶ間だ。

 

「軍は終わった。だから、止められない」

 

 その返しに、尋問係のペンが一瞬だけ止まった。止まったが、すぐ動く。書いておけば、止まる必要がない。

 

 ターニャは入口の布を押さえ、尋問係にだけ聞こえる程度の声で言った。

 

「質問はそこで切れ。余計な言葉を引き出すな。矛盾だけ拾え」

 

 布の向こうで、尋問係が短く答えた。

 

「了解しました」

 

 男の縄が再び締め直される音がした。締め直す音は、締める音とは違う。締め直すときは、相手が抵抗しなかった証拠でもある。

 

 テントから男が出てきた。顔に汗が浮いている。寒いのに汗が出るのは、体が緊張しているからだ。だが、目は落ち着いたままだった。

 

 男は列に戻される。その導線の先に、処分決定の机がある。そこに近づけば、決める者が誰かが見える。

 

 決める者は、銃を持っていない。判を持っている。そこが現場の矛盾であり、現場の真実だった。

 

 ターニャは机に戻り、処分決定票を束の上に置いた。上に置けば、次の処理が始まる。下に置けば、止まる。止まれば、誰かが勝手に動く。

 

 (止める理由は与えるな。止まらない形にする)

 

 現場将校が、処分決定票の束を差し出した。声を潜める。

 

「少佐、現場で決めてよい範囲の案件です。武器の押収品は写しを付けました」

 

 ターニャは紙を受け取り、押収品の写しに目を落とす。銃の型、弾の数、刃物、無線機の部品。紙の上で並ぶと、どれも同じに見える。だが、同じに見えるように書けていることが重要だ。書き方が揺れると、あとで疑われる。

 

 ターニャは印を一つ押し、日付を記す。印を押す音は小さい。だが、周囲の呼吸がわずかに揃う。印は合図になる。

 

 列の中で、男がその音を聞いた。聞いたが、顔は動かない。目だけが動く。目は机の上の紙を追い、印を追い、署名欄を追う。

 

 男は視線を下げたまま、口を開いた。声は低い。だが、はっきりしていた。

 

「それは、おまえが決めるのか」

 

 護送の親衛隊員が反射的に縄を引いた。縄が男の腕に食い込み、男の肩がわずかに沈む。それでも男は目を逸らさない。逸らさないのは勇気ではない。逸らす理由がないだけだ。

 

 現場将校が一歩前に出た。短い怒気が混じる。

 

「黙れ」

 

 ターニャは将校の声を止めた。ここで怒鳴ると、男が得をする。得をすると、言葉が増える。

 

「待て。質問は記録できる」

 

 ターニャは男へ視線を上げた。男の目が、初めて正面から刺さる。刺さるが、刺さり方が違う。子供を見る目ではない。机を見る目だ。署名欄を見る目だ。

 

 男はもう一度、言葉を置いた。

 

「誰が責任を持つ。おまえか。あの将校か」

 

 ターニャは答えを短く整えた。丁寧語を崩さない。感情を混ぜない。

 

「処分は規程に従います。現場の判断は現場将校が行い、私は手続の形を整えます。あなたの扱いは票に記し、署名が残る形にします」

 

 男の眉がわずかに動いた。納得ではない。理解だ。理解は、敵になる入口でもある。

 

 男はさらに一言だけ足した。

 

「子供に、こんな席を渡す国か」

 

 ターニャは、そこで切った。応酬は一往復で十分だ。二往復目からは、言葉が残る。言葉が残ると、別の者が使う。

 

「質問は記録します。以上です。次の処理へ戻ります」

 

 ターニャは視線を紙へ落とし、次の票を手に取った。男の言葉を拾い上げない。拾い上げると、そこに意味が増える。

 

 現場将校が男を睨み、護送の親衛隊員が列を進めた。縄が擦れる音が遠ざかる。男は歩かされながら、机の位置を見た。位置だけを見る。顔は見ない。顔を見れば、感情が混じる。男は感情で動かない。

 

 ターニャは票の束をめくり、押印を続けた。印が重なる。重なれば、個人の揺れは薄れる。薄れたところで、制度は強くなる。

 

 (個人の揺れは、紙に残さない)

 

 その後、処理はさらに滑らかになった。捕縛者が列へ戻され、身元確認が終わり、簡易尋問が終わり、書類が作られ、処分票が回る。回る速度が上がるほど、現場の音は整う。靴音が揃い、紙をめくる間隔が揃い、金具が鳴る回数が減る。慣れは、整然とした残酷さを生む。

 

 ターニャは、処理の途中で一度だけ机から離れ、封緘の机へ向かった。封筒の山が増えている。封緘が甘いと、後で剥がされる。剥がされれば、手順が疑われる。疑われれば、別の部署が口を出す。口を出されれば、現場は止まる。

 

 ターニャは封筒を一つ取り、糊の乾き具合を指で確かめた。乾ききっていない。乾ききっていない封緘は、指で押すと跡が残る。跡が残れば、触れた者が分かる。分かるのは良いが、ここでは余計な痕跡になる。

 

「封緘は乾くまで重ねるな。乾かす場所を作れ」

 

 封緘係の兵が頷く。

 

「はい。棚を増やします」

 

 ターニャは頷き返し、そこで別の声が飛んだ。別の将校が近づいてくる。顔つきが硬い。緊張ではなく、言葉の癖が硬い。こういう者は、余計な敬称を付けたがる。

 

「少佐閣下、本部への回付経路について――」

 

 ターニャはそこで、言葉を切り替えた。丁寧に、だが短く。

 

「その呼び方は要らない。少佐でいい。現場で余計な言葉を増やすな」

 

 将校が一瞬だけ口を閉じた。閉じたが、反論はしない。

 

「……了解しました、少佐。回付は誰に渡せば確実でしょうか」

 

「現場の伝令を一人に絞るな。二系統に分けろ。片方は控えだ。渡した時刻と受領者の署名を残せ」

 

「承知しました。控えの伝令は、護衛が預かりますか」

 

「預からない。あなたが選べ。選んだなら、その理由を紙に書け」

 

 将校が頷き、去る。去り際の靴音が泥に沈む。泥が深い。深いほど遅れる。遅れれば、現場は焦る。焦れば、書き方が乱れる。

 

 ターニャは封緘の机を離れ、再び処分決定の机へ戻った。戻る途中、捕縛者の列が見える。列の中に、あの男がいる。男はもう騒がない。騒ぐ必要がないと判断したのだろう。だが、目は動いている。目は、黒服の護衛の配置も見ている。扉の前の一人、道の折れの一人、ターニャの背後の一人。

 

 黒服は数を誇示しない。だが、記憶には残る。残り方が厄介だ。黒服は、説明が不要な印になる。

 

 (印は便利だが、敵にも便利だ)

 

 処分決定の机では、別の案件が進んでいた。捕縛者の中に、武器を持っていなかった者が混じっている。抵抗者ではない可能性がある。可能性があるからこそ、扱いが面倒になる。面倒な案件ほど、現場は乱れやすい。

 

 現場将校が言う。

 

「少佐、この者は武器を持っていません。村人の可能性があります。現場で決めるには不安があります」

 

 ターニャは票を見た。押収品の欄が空白だ。空白は危険だ。空白は、後で好きに書ける。

 

「武器がないなら、移送に回せ。移送先で照合しろ。現場で決めるな」

 

「移送先が詰まっています。受け入れが追いついていません」

 

 ターニャはそこで、紙に戻した。現実は現実として受け止める。だが、現実を理由に手順を崩さない。

 

「詰まりは票に書け。詰まりの理由も書け。誰が詰まりを解消するかも書け。口で済ませるな」

 

 将校が息を吐いた。怒りではない。負担だ。負担は書けば分割できる。

 

「了解しました。詰まりの責任者は補給担当に回します」

 

「回すなら、期限を付けろ。期限がないなら、解消しない」

 

 将校が頷き、部下へ向き直る。

 

「補給担当に票を回す。受領の署名を取れ。期限は明朝だ」

 

 部下が「はい」と答え、走る。走る靴音が泥を叩く。泥が跳ねる。跳ねた泥は制服に付く。制服に付いた泥は、後で落とす。落とす時間があるなら、まだ持つ。

 

 列の端で、あの男が小さく息を吐いた。聞こえるほどではない。だが、肩の上下が僅かに見える。男は理解している。ここで勝てないのではない。止められないと理解している。

 

 ターニャは、その理解が危険だと判断した。理解は、敵を具体にする。敵が具体になると、追ってくる。

 

 (追ってくる敵は、思想より手続を狙う)

 

 処理が進むにつれ、外が暗くなった。灯りが増える。灯りが増えると影が濃くなる。影が濃くなると、見落としが増える。見落としが増えると、書類が増える。書類が増えると、手順が必要になる。

 

 ターニャは灯りの位置を見て、護衛へ短く指示した。

 

「灯りを一つ、机の手元へ寄せろ。影で署名が読めなくなる」

 

 護衛が無言で灯りを動かす。金具が鳴り、火が揺れる。揺れが収まると、机上の影が薄くなる。薄くなるだけで、処理は早くなる。

 

 その小さな改善が、現場の速度を戻した。戻れば、余計な言葉が減る。減れば、事故も減る。

 

 捕縛者の列は、別の場所へ移され始めた。移送組と、現場処理組と、拘束継続組に分けられる。分ける動作が滑らかだ。滑らかだから、誰も止めない。止めないから、さらに滑らかになる。

 

 ターニャは最後の票に印を押し、鞄の中に控えを収めた。革がきしむ音がまたした。重さが増えた。重いのは正常だ。

 

 現場将校が近づき、声を落として言った。

 

「少佐、先ほどの大佐です。質問を記録しました。名前と階級を票に入れました。処理は規程通りで進めます」

 

「よい。質問の文言はそのまま残せ。言い換えるな。言い換えると、別の意味が入る」

 

「了解しました」

 

 将校は礼をし、去る。去った先で、部下へ指示を出す声が聞こえる。短い言葉。確認の言葉。命令の言葉は少ない。命令は、乱れたときにしか要らない。

 

 ターニャは野営地の端へ歩いた。足元の泥が冷えて硬くなり、滑りやすい。護衛が一歩前に出て、足場を確かめる。確かめる音はしない。確かめる動作だけがある。

 

 捕縛者の列の向こうで、あの男が一度だけ立ち止まった。縄が引かれ、すぐ動く。だが、動く前に男は目を動かした。机の位置、灯りの位置、黒服の配置。最後に、ターニャの鞄。

 

 鞄を見るのは、銃を見るのと同じだ。あの鞄の中に、紙がある。紙に署名がある。署名があるから、敵が作れる。

 

 ターニャは視線を逸らさなかった。逸らす必要がない。だが、そこに何の意味も渡さないよう、表情を変えない。

 

 (あの男は、私を顔で覚えない。席で覚える。紙で覚える。黒服で覚える)

 

 ターニャは鞄の留め具を指で押さえ、歩き出した。戻るべき場所は、机だ。机に戻れば、形式が残る。形式が残れば、現場は動く。

 

 そして、現場が動き続ける限り、止める者は少ない。

 

 野営地の灯りの外で、風が木々を揺らした。枝が擦れる音がする。擦れる音は、紙をめくる音に似ていた。似ているだけだ。だが、似ている音ほど、人は間違える。

 

 ターニャはその音を聞き、鞄の重さを確かめ、足を止めずに進んだ。

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

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