幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第8節 処刑

 

 

 夜明けの手前は、明るくならないのに物が見える。雪が薄く残った地面が、灯りの代わりになるからだ。足元は硬く、踏むたびに小さく鳴った。硬いのは助かる。泥よりは歩きやすい。

 

 ターニャは現場の端で立ち止まった。護衛の黒服が一人、半歩前に出て、周囲を見た。人数を数えるような動きはしない。視線だけで済ませる。

 

 処刑地点は派手ではなかった。木の柵があるだけだ。背後に斜面があり、斜面の向こうは林。林は風を止める。風が止まると、音がはっきりする。はっきりすると、余計な言葉がいらない。

 

 銃列の準備が進んでいた。銃は冷えている。金属は冷えると固くなる。ボルトを引く音が硬い。兵が動作を繰り返し、指先で確かめる。手袋越しの作業は遅い。遅いが、落とすよりいい。

 

 現場将校が近づいた。声を落として、まず紙を差し出す。

 

「少佐、立ち会い名簿です。ここに署名をお願いします」

 

 ターニャは受け取り、名簿の上から順に目を通した。名前が並ぶ。階級が並ぶ。役割が並ぶ。並びが整っているかどうかだけを見る。整っていないと、現場が乱れる。

 

 (順番が違う。役割の位置が近い)

 

 ターニャは鉛筆で一箇所を小さく丸で囲った。囲うだけで、指示になる。

 

「この二人は離せ。記録係と合図係が近すぎる。後で揉める」

 

 将校が紙を覗き込み、すぐ頷いた。

 

「了解しました。配置を変えます」

 

 将校は部下へ短く手を振る。部下が名簿を持って走る。走る靴音は固い地面に響く。響くが、短い。短い音は邪魔にならない。

 

 ターニャは別の紙束を見た。処分決定票の写し。捕縛時の身元確認票。簡易尋問の記録。押収品一覧。封緘番号。ここまで揃っていれば、現場は動ける。揃っていないなら止める理由になる。

 

 現場将校が続ける。

 

「少佐、合図は私が出します。銃列は下士官がまとめます。記録係は二名。控えも作ります」

 

「控えはどこに置く」

 

「本部回付に一部、現場保管に一部です」

 

 ターニャは首を少しだけ傾けた。答えは悪くないが、まだ弱い。経路が曖昧だと、途中で消える。

 

「回付の経路を口で言うな。紙に書け。誰が受け取って、どこへ運ぶ。時刻も残せ」

 

 将校が小さく息を吸った。負担が増えるのを理解した反応だ。だが、反論はしない。

 

「了解しました。今ここで書きます」

 

 机はない。板が一枚、樽の上に置かれているだけだ。インク壺が揺れないよう、兵が押さえる。押さえる手が冷えて赤い。冷えは目に見える。だから説明はいらない。

 

 ターニャは立ち会い名簿の署名欄にペンを置いた。ペン先が凍りかけている。紙に引っかかる。引っかかると文字が乱れる。乱れると、あとで読みづらい。

 

 (手が遅れる。だが、崩すよりましだ)

 

 ターニャは息を一度だけ整え、署名を終えた。署名が終わると、周囲の動きが一段落する。合図がなくても、紙が合図になる。

 

 護衛が控えめに近づき、耳元で短く言った。

 

「少佐、目撃者の位置を変えます。視線が集まりすぎます」

 

 ターニャは紙から目を離さずに答えた。

 

「変えろ。見える範囲を分けろ。誰が見たかを明確にする」

 

 護衛が離れた。黒服は命令を求めない。必要な言葉だけ拾う。

 

 現場の端で、捕縛者が並べられていた。縄は新しい。結び目が整っている。結び目が整っていると、ほどけにくい。ほどけにくいと、余計な力を使わない。余計な力を使わなければ、声も増えない。

 

 捕縛者の中に、例の男がいた。アンソン大佐。顔に血の跡はない。殴られていないのではない。殴る必要がない扱いをされている。扱いが決まっているからだ。

 

 アンソンは立ったまま、足の位置を変えない。寒さで震えているようには見えない。だが、指先は動かない。動かないのは、動かしても意味がないと知っているからだ。

 

 ターニャは、アンソンの顔を見ないようにした。顔を見れば、余計な情報が入る。ここで必要なのは顔ではない。票と署名と経路だ。

 

 現場将校が紙を見ながら報告する。

 

「少佐、目撃者は三列に分けました。前列は銃列の後ろ。二列目は少し離します。三列目は林側に置きます。記録係は二列目です」

 

「よい。二列目の距離はどれくらいだ」

 

「五十歩ほどです。音と動きは見えます。細部は見えません」

 

 ターニャは頷いた。細部が見えない方がいい。細部は噂を増やす。噂は手続を汚す。手続が汚れると、後で余計な処理が増える。

 

「噂が出ても、記録で潰せる形にしておけ。報告は誰に上げる」

 

 将校がすぐ答える。

 

「治安担当の連絡官を通し、本部の担当宛てに上げます。控えは現場保管で七日。七日後に回収します」

 

 ターニャは短く首を振った。

 

「七日は長い。三日にしろ。現場に置く時間が長いと、抜かれる」

 

 将校の目が一瞬だけ動いた。恐怖ではない。現場の現実を理解した目だ。

 

「了解しました。三日で回収します。回収担当は私が指定し、受領の署名を取ります」

 

「それでいい」

 

 ターニャは紙束を整え、鞄の口を閉じた。金具がまた小さく鳴る。その音は現場の中で目立たない。目立たないのが望ましい。

 

 銃列の下士官が、兵を並べ直していた。足の幅、銃の角度、合図の確認。合図は声でなくてもよい。手の動きで済むなら、声は少ない方がいい。

 

 下士官が現場将校へ言う。

 

「合図は腕で出します。風が強いと声が流れます」

 

 現場将校が頷く。

 

「分かった。腕で行け。銃列は揃えろ。勝手に撃つな」

 

 下士官が返す。

 

「了解しました」

 

 ターニャはそのやり取りを聞きながら、目撃者の列へ目を向けた。民間人はいない。軍人と親衛隊員だけだ。現場の中に余計な顔がない。余計な顔がないのは、記録の形が整う。

 

 (余計な顔がない。だから余計な説明もいらない)

 

 現場将校がターニャの横に立ち、声をさらに落とした。

 

「少佐、捕縛者の中に、身元が曖昧な者が一名います。票は移送に回す形にしますか」

 

 ターニャは即答した。

 

「移送に回せ。ここで決めるな。移送先の受領と照合結果を記録に残せ」

 

「了解しました。移送票を作ります」

 

 ターニャは一つだけ釘を刺す。

 

「移送を理由に消すな。移送は移送として残せ」

 

 将校が一瞬だけ目を伏せ、頷いた。

 

「承知しました」

 

 手順が進む。捕縛者の列が、処刑地点へ誘導される。縄が鳴る。靴が鳴る。誰も叫ばない。叫ぶ理由がない。叫んでも変わらないと理解している空気だ。

 

 アンソンも歩かされる。歩幅は乱れない。縄に引かれても、体の軸を崩さない。崩さないことで、最後まで軍の形を保つ。

 

 ターニャはアンソンを見ないまま、立ち会い名簿の控えを一枚抜き、封筒に入れた。封筒の封緘番号を確認し、番号を票に書き足す。番号は武器より強い。武器は壊れるが、番号は残る。

 

 現場将校が合図係へ声を掛けた。

 

「合図の確認をする。腕だ。上げて、止めて、下ろす。下ろしたら撃つ」

 

 合図係が頷き、腕を上げる動作を一度見せる。兵がそれを目で追う。追うだけで十分だ。声を重ねる必要はない。

 

 ターニャは目撃者の列へ向き直った。目撃者の整理は今のうちにやる。撃ったあとにやると、混乱が混じる。

 

「目撃者の名前と位置を、今ここで確定します。移動は止めてください。移動した者がいるなら、位置の変更も記録します」

 

 将校がすぐに返す。

 

「了解しました。移動は止めます。記録係、位置を写せ」

 

 記録係が紙を持ち、列の端から順に確認する。確認は短い声で済む。階級と名前だけ。余計な肩書は言わない。

 

 記録係が一人ずつ言う。

 

「親衛隊曹長、ここ」

 

「国防軍中尉、ここ」

 

「親衛隊伍長、ここ」

 

 言葉が乾いている。乾いているのは正常だ。湿った言葉は残る。

 

 ターニャは銃列へ目を戻した。兵が銃の安全装置を確かめる。確かめる指が僅かに震える。震えるのは寒さだけではない。だが、説明はしない。説明しなくても震えは見える。

 

 捕縛者が柵の前に立たされる。背後に斜面。逃げ道はない。逃げ道がないと、動きが減る。動きが減ると、手順が滑る。

 

 アンソンが列の端に置かれた。端に置くのは都合がいい。都合がいいからこそ、意味が出る。意味が出ると噂になる。噂になる前に、紙で潰す必要がある。

 

 (意味を増やすな。並びは理由を持たせない)

 

 ターニャは現場将校へ視線を送った。将校は理解し、軽く頷く。

 

「配置はこれで終わりだ。変更はしない」

 

 合図係が位置につく。銃列の下士官が小さく手を上げ、兵の姿勢を揃える。銃口が揃う。揃うと、空気が変わる。変わるが、誰も言葉にしない。

 

 ターニャは鞄を持ち替えた。革の取っ手が冷たい。冷たいのは現実だ。現実の冷たさは、判断を短くする。

 

 (止めない。止める理由がない。手順は整っている)

 

 現場将校が最後の確認をする。

 

「銃列、準備はいいか」

 

 下士官が答える。

 

「問題ありません」

 

 現場将校が目撃者側へ目を向ける。

 

「目撃者、動くな。記録係、準備はいいか」

 

 記録係が答える。

 

「はい。書けます」

 

 現場将校がターニャへ視線を向ける。許可を求める視線だ。許可を求める形にしておけば、後で勝手に動いたと言われない。

 

 ターニャは短く頷き、公式の口調で言った。

 

「進めてください。報告は先ほどの経路で上げてください」

 

「了解しました」

 

 現場将校が一歩前に出る。合図係が腕を上げる位置につく。銃列の兵が呼吸を止めるように見える。実際に止めているかどうかは分からない。だが、胸の上下が小さくなる。

 

 捕縛者の中で、アンソンが一度だけ目を動かした。銃列ではない。合図係でもない。机でもない。ターニャの位置を確かめるような動きだった。

 

 ターニャはアンソンと目を合わせない。合わせれば、そこに意味が生まれる。意味が生まれれば、敵が育つ。

 

 合図係の腕がゆっくり上がる。上がる腕は迷わない。迷わない動作は、現場を静かにする。静かになると、紙の音が聞こえる。記録係のペン先が紙を擦る音が小さく鳴った。

 

 銃口が前を向き、合図を待つ。

 

 その直前の静けさだけが、長く感じられた。

 

 

 

 

 合図係の腕が止まった。

 

 銃列の先の空気が固まる。吐く息が白く出るのに、誰も大きく吸わない。手袋の指先が、引き金の形に沿っている。

 

 現場将校が短く言った。

 

「撃て」

 

 合図係の腕が下りる。

 

 発砲音が続いた。雪が薄い地面に音が跳ね、林に当たって戻ってくる。銃口の炎は短く、すぐ消える。煙も長く残らない。風がないから、音だけが残る。

 

 ターニャは瞬きを一度だけした。まぶたが乾く。乾いているのは寒さのせいだ。

 

 捕縛者の列が崩れた。前に倒れる者と、膝から落ちる者がいる。縄が引かれ、体が引っかかる。助け起こす手は出ない。予定されていない動きだからだ。

 

 銃列の下士官が声を落とす。

 

「止め。銃口を下げろ。装填はそのまま。勝手に前へ出るな」

 

 兵は銃口を下げた。足は動かさない。動かすと、線が乱れる。線が乱れると、誰が何をしたかが曖昧になる。

 

 現場将校が記録係へ言う。

 

「時刻を書け。合図の動きも書け。撃った人数も書け」

 

 記録係が頷き、ペンを走らせる。紙の上でペン先が擦れる音は、発砲音の後だと妙に大きく聞こえた。

 

 ターニャは銃列を見たまま、現場将校に指示する。

 

「目撃者を動かすな。今ここで名前と位置を確認し直す。見た者と見ていない者を分ける」

 

「了解しました。すぐやります」

 

 将校が目撃者へ手を振る。目撃者の列に小さなざわめきが走るが、すぐ止まる。命令ではなく、手順として止められているからだ。

 

 捕縛者の列の端にいたアンソンは、倒れていなかった。膝をついた形で止まっている。縄が引かれ、上半身が少し前に落ちている。顔は下を向いたままだ。

 

 介助に出る兵はいない。代わりに、確認係が二人、ゆっくり近づく。銃は持たない。手袋をした手に、短い棒と紙を持っている。生きているかどうかを確かめるための道具だ。余計な言葉を使わないための道具でもある。

 

 現場将校がターニャへ言う。

 

「少佐、確認に入ります」

 

「進めてください。確認係の名前も記録に入れてください」

 

 ターニャは声を平らに保った。丁寧にする必要はない。相手は下だ。だが、雑にすると現場が雑になる。

 

 確認係が捕縛者の一人に棒を当て、反応を見た。反応はない。次へ移る。棒が当たる音は軽い。軽いから、余計に冷たく聞こえる。

 

 アンソンのところで、確認係が一度だけ止まった。棒を当てる手が少し遅れる。

 

 アンソンが顔を上げた。目が開いている。完全に立ち上がれないが、意識は残っている。残っているのは、運が悪いのではない。銃列が乱れたのでもない。手順の中で起きる範囲だ。

 

 アンソンの視線が、銃列ではなく、現場の端にいるターニャへ滑った。

 

 誰かが小さく言いかけて、飲み込んだ。声が出る前に止められると、音が空気の中で折れる。

 

 アンソンは唇を動かした。声は大きくない。それでも届く。風がないからだ。

 

「そこの……。命令の紙に、名前があるのは、お前か」

 

 問いは短いが、意味ははっきりしている。子供の外見を見ているのではない。紙の位置を見ている。そこにいる者が、手順の終点だと理解している。

 

 現場将校が動こうとしたが、ターニャが先に言った。声は落ち着いている。公式の場で使う形に寄せる。ただし、敬語は最低限だ。

 

「ここは現場だ。質問は受けない。記録の扱いは、所定の経路で処理する」

 

 アンソンの口角が僅かに動いた。笑いではない。納得の形だ。意味が通った、というだけの顔だ。

 

「そうか。なら……忘れない。お前の位置を、忘れない」

 

 アンソンはそこで息を吐いた。吐いた白い息が、口元に残る。次の息が入らない。確認係が棒を当て、首を見た。目を閉じる動きはない。目は開いたまま、少しだけ焦点が落ちた。

 

 ターニャは一歩も動かなかった。動けば、やり取りが大きくなる。大きくなると、噂が膨らむ。噂が膨らむと、手順の外に広がる。

 

 (名前ではない。位置だ。理解が早い)

 

 現場将校がすぐに声を落とした。

 

「少佐、今の発言は記録に入れますか」

 

「入れない。現場の言葉は増やすな。必要なのは、処分の事実と確認の結果だ」

 

「了解しました」

 

 将校は記録係へ向き直る。

 

「今の確認結果だけ書け。余計な言葉は書くな」

 

 記録係が短く頷いた。

 

 確認係が次の手順に移る。死体の識別。身元確認票と照合し、番号をつける。番号札は紙ではなく薄い金具だ。濡れても破れない。紐で結ぶ動きが、寒さで遅い。

 

 ターニャは将校に確認を重ねた。

 

「遺留品は、一覧を二通作ったか」

 

「はい。押収品一覧は二通。現場保管分と本部回付分です」

 

「封緘番号は一致しているか」

 

「一致しています。ここで確認できます」

 

 将校が封筒を差し出す。ターニャは番号を目で追い、控えの票と照合した。数字が揃う。揃えば、次へ進める。

 

 目撃者の列で、誰かが咳をした。咳は短く、すぐ止まる。寒い現場では咳は出る。出ても、説明する必要はない。

 

 現場将校が目撃者側の確認を終える。

 

「少佐、目撃者の位置、全員確認しました。移動はありません。署名も取れます」

 

「署名は今取るな。落ち着いてから取れ。手が震える状態で書かせると、読めない字が増える」

 

「了解しました。少し時間を置きます」

 

 ターニャは視線を現場全体に走らせた。騒ぎはない。叫びもない。銃列も崩れていない。必要な沈黙が保たれている。

 

 そのとき、銃列の端で一人の兵が小さく動いた。銃のボルトが戻らないのか、指先で叩く。叩いても戻らない。通常なら、ここで声を出す。声を出さないのは、下士官が視線で止めたからだ。

 

 兵がもう一度叩いた。

 

 その瞬間、ボルトが勝手に滑るように戻った。力を入れた動きではない。引っかかりが消えたような戻り方だ。音が軽い。軽すぎる。

 

 ターニャの目が、ほんの少しだけ細くなる。

 

 (規則が変わる。あの手口だ)

 

 ターニャはそれ以上見なかった。見れば、意識がそちらへ引かれる。引かれると、現場の手順が遅れる。遅れは現場の乱れになる。

 

 現場将校が確認を続ける。

 

「少佐、搬出の手配に入ります。橇を二台。担架も二枚。林側の道を使います」

 

「道を一本に絞るな。片方が詰まったら止まる。二系統にしろ。時間も書け」

 

「了解しました。二系統で動かします。時刻も残します」

 

 ターニャはうなずき、最後に一点だけ言った。

 

「本部へ上げる報告は、現場の言葉を削れ。数字と署名だけで足りる。余計な形容は入れるな」

 

「承知しました」

 

 現場が動き出す。死体を運ぶ足音。橇の金具が鳴る音。紐を締める音。木が擦れる音。どれも大きくない。だが、止まらない。止まらない動きは、現場を終わらせる。

 

 ターニャは現場の端に移った。そこに小さな板机が置かれ、封筒と控えがまとめられている。インク壺の蓋が閉まっているのを確認する。蓋が開いていると凍る。凍ると書けない。書けないと、現場が止まる。

 

 セレブリャコーフが近づき、紙束を胸に抱えて言った。

 

「少佐、控えの整理が終わりました。回付用は封緘しました。現場保管分は、三日後の回収担当を明記しました」

 

「分かった。回収担当の署名は取ったか」

 

「はい。本人に書かせました。字も読めます」

 

 ターニャは短く頷いた。

 

「よい。次は目撃者の署名だ。落ち着いた順に取れ。急ぐな」

 

「了解しました」

 

 セレブリャコーフが一歩下がり、声を少し落とす。

 

「少佐、現場将校が呼び方について確認したいようです。先ほど、周囲で『閣下』が出かけました」

 

 ターニャは眉を動かさずに答えた。

 

「不要だ。ここでは階級で足りる。少佐で統一しろ。余計な呼び方は、噂の材料になる」

 

「承知しました。現場へ伝えます」

 

 セレブリャコーフが離れ、現場将校へ短く伝える。将校は頷き、すぐに周囲へ同じ指示を回した。言葉が短く伝わるのは、紙と同じだ。

 

 死体の搬出が終わる。林の奥へ消えていく橇の影が、雪の白さに紛れる。紛れるのは自然だ。自然に見えるほど、手順が滑っている。

 

 ターニャは最後に現場将校へ確認した。

 

「この現場の報告を上げるのは誰だ」

 

「私が上げます。署名も私です」

 

「よい。期限は明日の正午まで。遅れるなら理由と代替を付けろ」

 

「了解しました。遅れません」

 

 ターニャは紙を閉じ、鞄の金具を留めた。金具の音が小さく鳴る。現場が終わった音だ。

 

 アンソンの最後の視線が、脳裏に残ろうとする。残ろうとするのは、意味があったからだ。意味を持たせれば、敵は簡単に個人になる。

 

 (嫌だ。ああいう手口は嫌だ)

 

 嫌悪は短く置いて、切り捨てた。長く引きずるのは損だ。損は嫌いだ。

 

 ターニャは現場から離れた。背後で紙がめくられる音が続く。筆記の音も続く。手順は終わっていない。終わるのは、報告が上がって封緘が開かれたあとだ。

 

 雪の硬い地面を踏む音だけが、一定の間隔で続いた。

 

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