瓦礫の間を走るたびに、靴の底が変な音を立てた。石の欠片を踏む音と、濡れた布を踏む音が混じる。何が濡れているのか考えないようにした。
屋根が落ちた家が続く。壁だけが残り、窓枠が空に向かって口を開けている。煙は細く、遠くの方でまだ上がっていた。風に押されて、煙の匂いがこっちへ来る。焦げた匂いと、鉄が熱い匂いが混ざっていた。
通りの真ん中に馬車が止まっている。馬はもう動かない。縄が切れて、荷台だけが傾いている。荷が散らばり、白い粉が黒い地面に広がっていた。粉に足を取られそうになって、メアリーは小さくよろけた。
後ろで、何かが崩れる音がした。石が落ち、木が折れ、最後に金具が鳴った。振り返る余裕はない。振り返っても、助けられることは何もない。
息が苦しい。走っているからではない。空気が熱を含んで、喉が痛い。涙が出ているのが分かるが、手で拭うと灰が頬に広がるだけだ。
角を曲がった先で、人影が動いた。メアリーは反射で立ち止まり、壁に寄った。指先が震える。握るものがない。握る手だけが余っている。
影は二人だった。男と女。どちらも顔が汚れている。女の腕に小さな子がぶら下がっていて、泣いていない。泣けないのかもしれない。子の目だけが大きく動いていた。
男がメアリーを見て、息を飲んだ。
「生きてるのか」
メアリーは頷こうとして、首がうまく動かない。喉が詰まって声が出ない。
女が、子を抱え直して言った。
「どこから来たの。怪我してる?」
メアリーは腕を見る。自分の腕に赤い線があり、袖が裂けていた。痛みは遅れてくる。今は熱いだけだ。
「……大丈夫。たぶん」
男が周囲を見回し、低い声で言う。
「ここ、もうだめだ。川の方へ行け。橋は落ちてるかもしれんが、道はまだある」
女が続けて言う。
「一人なの。家族は」
家族。言葉が刺さった。返事をするのに時間がかかる。
(いるはずだった。さっきまで、呼べば返事をするはずだった)
メアリーは息を吸って、短く言った。
「分からない」
女はそれ以上聞かなかった。聞けば、答えが出ないことを分かっている顔だった。
遠くで、また音がした。今度は崩れる音ではない。一定の間隔で響く、重い音。地面が小さく揺れる。どこかでまだ動いている。まだ終わっていない。
男が歯を食いしばって言った。
「また来る。早く動け」
女がメアリーの肩を掴んだ。力は強くない。転ばせないための掴み方だった。
「一緒に行こう。ここで立ってたら危ないよ」
メアリーは頷いた。頷くと、涙が落ちた。涙が落ちるだけで、何かが軽くなるわけではない。
三人と子で、倒れた柵の隙間を抜ける。板が軋む。釘が飛び出している。服が引っかかり、メアリーは小さく息を呑んだ。
女が振り返る。
「ゆっくりでいい。急いでも転んだら終わりだよ」
「……うん」
答えた声が自分の声に聞こえなかった。薄くて、遠い。
路地を抜けると、広い空き地に出た。そこには人が集まっていた。集まっているというより、逃げてきた人が立ち尽くしていた。誰も大声を出していない。泣いている人もいるのに、声は小さい。声を出すと壊れるものが増える気がして、みんな喉を押さえている。
地面に座り込む老人がいた。手に何かの布を握りしめている。布は端が焦げていた。老人はそれを見つめているだけだ。
子どもが一人、靴を片方なくしたまま立っている。足が赤い。泣かない。目だけが乾いている。
男が周囲に声をかけた。
「川へ行く。北の道だ。まとまって動こう」
誰かが言った。
「北って……北も燃えてるんじゃないの」
「知らん。でもここにいるよりはましだ」
別の声が続く。
「兵隊は。助けは来ないの」
男は首を横に振った。
「来ない。来ても、今じゃない」
女が子を抱え直して、メアリーに小さく尋ねる。
「名前は」
「……メアリー」
「メアリー。歩ける? 足、見せて」
メアリーは靴を見た。靴は泥と灰で黒い。足首が痛い気がする。気がするだけで、確かめるのが怖い。
「たぶん、大丈夫」
女は頷き、無理に笑おうとした。笑えない顔だった。
「じゃあ、離れないで」
人の塊がゆっくり動き始める。誰かが荷物を引きずる音がする。誰かが咳をして、すぐ口を押さえる。空気の匂いがまた変わった。焦げの匂いの奥に、濡れた土の匂いが混じる。どこかで水が流れているのかもしれない。
歩いている途中で、メアリーは倒れた看板を見た。文字が半分焼けていて読めない。昔なら、何の店か分かったはずなのに、今は思い出せない。思い出そうとすると、頭が痛む。
(思い出さない方がいい。今は歩く)
しばらく進むと、道の先に兵がいた。味方か敵か分からない。制服の色も、距離のせいで判別できない。人の塊が止まった。息が詰まる。誰かの手がメアリーの腕に触れた。女だ。
「大丈夫。立って。座らないで」
メアリーは頷いた。目の前が少し揺れる。
兵はこっちを見ていたが、近づいてこなかった。動かない兵は怖い。何をするかが見えないからだ。だが、兵はただ横を向き、別の方向へ歩いていった。靴音だけが遠ざかる。
人の塊がまた動き出す。誰かが小さく息を吐いて、泣きそうな声を押し殺した。
川に近づくにつれて、地面がぬかるむ。雪が踏み荒らされて、水が染み出している。足が冷たい。冷たさが、逆に頭を少しだけはっきりさせた。
橋の手前まで来ると、橋の一部が落ちていた。木材が折れて、川の上に斜めに残っている。流れは速い。水が黒く見える。落ちたら終わりだと、誰にでも分かる。
男が言った。
「ここは渡れない。上流に回る」
誰かが叫びそうになって、声が詰まった。
「上流って……どれだけ歩くんだ」
「歩くしかない」
女がメアリーの手を握った。手袋越しでも温かいとは言えない。でも、手があることが分かる。握られると、倒れない気がした。
「メアリー、息して。浅くならないように」
「……うん」
返事はしたが、息が浅いのは止まらない。胸の奥が硬い。
上流へ向かう道は、森に入っていった。木の枝が低く、顔に当たりそうになる。誰かが枝を払い、子どもがそこを通る。順番が自然にできる。誰も指示していないのに、勝手に整う。整うと少しだけ安全になる。
それが怖かった。人が整うのは、次に壊れる準備みたいに見える。
森の中で、一度だけ立ち止まった。水を飲むためだ。誰かが小さな瓶を回した。瓶の口が欠けていて、唇が切れそうだった。メアリーは少しだけ水を含んだ。水は冷たい。冷たさが喉の痛みを少しだけ散らした。
女が尋ねる。
「どこに向かうつもりだったの」
メアリーは答えが出ない。向かうつもりなんてなかった。ただ、逃げただけだ。
「……分からない」
女は頷いた。責める顔じゃない。むしろ、同じだという顔だった。
「分からなくていいよ。今は、生きる方を選べばいい」
その言葉で、メアリーの胸の硬さが少しだけ動いた。動いて、痛みになった。痛みが来ると、息が止まりそうになる。
メアリーは唇を噛んだ。血の味が少しだけした。
(泣いたら、止まる。止まったら、ここで終わる)
夜になりかけていた。空は暗く、雲が低い。雪が降りそうで降らない。風が冷たい。
森の端に、小さな小屋があった。倉庫みたいな建物だ。壁は古く、隙間から風が入る。それでも、外よりはましだった。
人が中へ入っていく。押し合いはない。入れる人だけが入り、入れない人は壁際に座る。座ると立てなくなるかもしれないのに、座るしかない。
小屋の中で、誰かがマッチを擦った。小さな火が一瞬灯るが、すぐ消した。明かりは危険だ。見つかるからだ。ここでは、暗い方が安全になる。
メアリーは壁にもたれた。木の冷たさが背中に来る。背中が冷えると、腕の傷が痛みを増す。今まで感じていなかった痛みが、一気に来た。
(痛い。痛いのは、生きているからだ)
自分でそう言って、納得しようとした。納得できない。
女が、子を抱いたまま、メアリーの隣に座った。
「メアリー、これ。布だけど、巻いた方がいい」
女は自分の持っていた布を裂いて、メアリーの腕に巻いてくれた。布は清潔ではない。それでも、巻くと血が止まりやすくなる。
「ありがとう」
声が震えた。女は首を横に振る。
「いいの。みんな、今は誰かにしてもらわないと無理だよ」
小屋の奥で、誰かが小声で祈り始めた。言葉ははっきりしない。宗教の言葉かどうかも分からない。ただ、助けて、という音だけが聞こえた。
その音を聞いた瞬間、メアリーの胸が沈んだ。沈んで、底に触れた。
(助けて。誰でもいい。お願いだから)
自分の中で言葉が浮かぶ。口に出すのは怖い。口に出したら、何かが決まってしまう気がした。
外で、遠い音がした。森の外のどこかで、また崩れる音がした。火がまだ残っているのかもしれない。遠いのに、体が硬くなる。
メアリーは両手を重ねた。指が冷たくて、うまく重ならない。重ね直す。ようやく形になる。
(神さま。お願い。私を……)
言葉が続かない。何を願えばいいのか分からない。家族を返して、なんて言えない。返るはずがないからだ。じゃあ、助けて、と言うしかない。でも、助けてと言うと、助かった後の責任が怖い。
メアリーは唇を動かし、短く言った。
「……お願いします」
声は小屋の中のざわめきに溶けた。誰も気づかない。気づかれなくていい。これは、自分の中の言葉だ。
そのとき、胸の奥が、ふっと軽くなった気がした。
軽い。軽いだけで、温かいわけではない。救われたわけでもない。ただ、何かが一枚だけずれたような感覚がある。
外の音が、少しだけ遠くに感じた。遠くに感じるのに、耳はよく聞こえる。矛盾した感覚だ。
メアリーは顔を上げた。
暗い小屋の中で、今まで見えていなかったものが見える気がした。人の顔の向き。出入口の隙間。外の風の流れ。足音の方向。
(……何か、変だ)
その変さを言葉にする前に、メアリーは息を止めた。止めた息の先で、視界の輪郭が変わりかけているのが分かった。
小屋の暗さは変わらないのに、輪郭だけが先に立った。出入口の隙間から入る風が、少しだけ強くなった。誰かが外を歩いたような、雪を踏む音が遠くで混じった。
メアリーは息を抑えたまま耳を澄ませた。耳の奥が変に冴える。冴えているのに、落ち着くわけではない。身体の芯だけが冷たくなる。
(今のは何。私が勝手にそう思っただけ? でも、変だ。さっきまで聞こえなかった音が、聞こえる)
女が小声で言った。
「どうしたの。顔、白いよ」
メアリーは首を振った。説明できない。説明しようとすると、言葉がほどけて逃げていく。
「……外、誰かいるかもしれない」
男が小屋の入り口へ寄った。背を丸め、影のまま隙間を覗く。しばらく動かず、戻ってきた。
「見えない。だが、風が変だ。火の匂いがまた来る」
小屋の中で、誰かが身じろぎした。子どもが小さく咳をして、すぐ口を塞がれた。誰も怒らない。ただ、その動作だけが怖いくらい素早かった。
メアリーは膝を抱えた。腕の布が少しずつ湿っていく。痛みは鈍く、熱は残っている。
外の音がまたした。今度ははっきり、靴音だった。近い。雪を踏む音が二つ、三つ。止まる。何かが金属に触れた音が一回だけした。
女が息を止める。
男が唇だけで言った。
「動くな」
メアリーは頷くしかない。頷いた瞬間、胸がきゅっと縮んだ。叫びたいのに、声は出ない。
次の瞬間、靴音は離れていった。小屋の前を通り過ぎるだけだったのか、誰かが外を見回しているだけだったのか。確かめる勇気はない。
男が、しばらくしてから息を吐いた。
「……行った。今夜は寝られん」
女が子の頭を撫でる。子は目を閉じない。閉じたら戻れないとでも思っているみたいに。
メアリーの喉が乾いた。水を飲みたい。でも、動くのが怖い。怖いのに、さっきより自分が少しだけ周りを見ていることに気づいた。怖さの中に、変な整理が混じる。
(あの祈りのあと、何かが変わった。助けられたって言いたくない。でも、同じままでもない)
夜が明ける前に、小屋の外がわずかに青くなった。人は動き出す。誰も合図しないのに、荷物をまとめる音が増え、子どもを抱き直す動きが揃う。誰かが割れた板を踏んで、嫌な音がして、みんなが一瞬止まる。止まって、また動く。
森を抜けると、小さな集落の外れに出た。家は残っているが、窓は割れ、屋根の一部が焦げている。煙は上がっていない。もう燃え尽きたのだと分かる。
門の前で、年配の男がこちらを見た。手に鍬を持っている。兵ではない。だが、目つきが固い。
「お前たち、どこから来た」
男が前に出て、短く答えた。
「南からだ。街が焼けた。橋が落ちてる」
年配の男は眉を寄せた。鍬を持つ手に力が入る。
「南が……そうか」
女が言った。
「水を分けてもらえませんか。子どもが」
年配の男は視線を子に落として、短く頷いた。
「裏だ。井戸がある。声は出すな」
裏庭の井戸は凍っていない。桶が縄に繋がれ、ぎしりと音を立てた。水が上がる音が妙に大きい。静かな場所ほど、音が目立つ。
メアリーは両手で水を受けて飲んだ。冷たさが胸まで落ちる。
年配の男が、低い声で言った。
「……兵が通っていった。今朝方だ。親衛隊だと思う。黒いのが混じってた」
男が眉を上げた。
「黒いの?」
「制服だ。普通の野戦服じゃない。目立つ。子どももいた」
その言葉で、メアリーの指が止まった。桶の縁に水滴が落ちる。落ちる音が一回だけ聞こえた。
女が不安そうに言う。
「子どもって……そんなのも連れてくるの」
年配の男は肩をすくめた。
「連れてくるっていうか、あれは連れていかれてる顔じゃなかった。周りの兵が、先に動いてた。あの子が止まると、みんなも止まるみたいだった」
メアリーは喉の奥が詰まった。何かが胸に沈む。沈んで、動く。
(子どもが、止まれって言ったの? そんなの、ありえるの? でも、あの祈りのあと、私はこういう話を聞く)
男が尋ねた。
「親衛隊がここに何をしに来た」
「分からん。だが、昨日の夜、川向こうで銃声がした。長くはなかった。すぐ終わった」
女が口元を押さえた。
「……処刑?」
年配の男は言い切らない。ただ、目を逸らした。逸らす動作が答えだった。
そこへ、別の住民が顔を出した。若い男だ。頬がこけている。息が早い。
「おい、また聞いた。南の道で捕まった連中が、朝にまとめて撃たれたって」
年配の男が睨む。
「声が大きい」
若い男は肩をすくめ、声を落とした。
「すまん。でも、聞いたんだ。見たやつがいる。黒い制服の子どもが、紙を見て頷いてたって。紙だぞ。銃じゃない」
男が顔をしかめる。
「紙を見て……頷く?」
「そう。そいつが言うには、指揮してたのは現場の将校だけど、最後はあの子が見てたって。合図の前に、紙を確認してたって」
メアリーは息を吸った。吐けなかった。胸の中で言葉が渦を巻く。
(紙で決まった。銃口の向きより先に、紙の方で決まってた。あの子が見てたのは、ただの報告じゃない。最後の判断だ)
女が震える声で言った。
「それ、誰なの。名前は」
若い男は首を振る。
「知らない。親衛隊の少佐だって言ってた。周りがそう呼んでたらしい。顔は子どもだ。目だけが大人みたいだったって」
メアリーの背中が冷えた。目だけが大人。そんな言い方をする人は、だいたい何かを誇張する。誇張だと分かっている。それでも、心が勝手に掴まれる。
(少佐。子ども。黒い制服。紙。頷いた。合図の前。全部つながる。つながってしまう)
男が年配の男へ聞く。
「その話、広まってるのか」
「広まる。こういう話は広まる。止めようがない」
年配の男は水の桶を戻しながら言った。
「だが、口にするな。口にすると、次はお前の番になる」
女が子を抱きしめ、黙って頷いた。子は小さく震えた。
集落の家の端で、少しだけ休ませてもらえることになった。住民は冷たいが、追い返しはしない。誰もが余裕を失っている。余裕がないのに、助ける手だけが残っている。
メアリーは土間の隅に座った。足の裏が痛い。靴の中が湿っている。指先が冷たい。
若い男が、炊き出しの薄いスープを渡してきた。湯気が弱い。匂いも弱い。それでも、口に入ると身体が少しだけ戻る。
「……あんた、南から来たんだよな」
メアリーは頷いた。
「街は……どうだった」
答えが出ない。どうだった、なんて言葉にできる状態じゃない。
「……燃えてた。走った。人がたくさん、倒れてた」
若い男は目を閉じた。目を閉じて、すぐ開けた。
「そうか」
沈黙が落ちた。沈黙は重いのに、今のメアリーには必要だった。言葉が多いと壊れる。
若い男が、小さく言った。
「黒い子どもの話、変だと思うよな。でも、見たやつがいる。嘘でも、噂でも、俺たちはそれに引っ張られる。敵が誰か分からないと、怖くて動けないから」
メアリーはスープの器を見た。木の器の縁が欠けている。その欠けた場所に指を当てる。痛いほどではない。
(敵が誰か分からないと怖い。だから、誰か一人に集まる。国家じゃない。軍でもない。名前のある人に集まる)
女が、子を寝かせながら言った。
「でも、子どもなんでしょう。そんな子に……」
言葉が途切れた。続きを言えば、現実になってしまうからだ。
若い男が首を振る。
「子どもでも関係ない。あっちは親衛隊だ。あっちが決めてるなら、子どもでも決める」
男が唸るように言った。
「親衛隊の少佐、か……そんなのが前に出てくる時点で、もう変だな」
メアリーは顔を上げた。少しだけ口を開いた。
「……その人の名前、聞いた人はいないの」
若い男は首を振る。
「呼ばれてたのは階級だけだ。少佐って。あとは……誰かが、耳にしたって話で、名前が出た」
「名前?」
若い男は目を伏せた。声をさらに落とす。
「ターニャ……だったかな。苗字まで聞いたってやつもいる。デグレ……チャフ? 変な響きだ」
メアリーは器を落としそうになった。両手で押さえ、ぎりぎりで止めた。
(名前が出た。名前が出たら、もう逃げられない。敵が形になる。形になると、私の中で勝手に決まる)
女が恐る恐る言う。
「その名前、本当なの」
若い男は肩をすくめた。
「分からない。でも、噂ってそういうもんだ。明日には別の言い方になるかもしれない。けど、今はそれが残ってる」
外で風が鳴った。屋根の板が小さく震えた。遠くで犬が吠えた。吠えて、すぐ黙った。
メアリーは息を吐いた。吐いた息が白い。白い息が、すぐ消える。
(さっきの祈り、届いたの? 助けてくれたの? 違う。助けたんじゃない。私に、見えるものを変えただけだ。怖いものを、よりはっきり怖くしただけだ)
その夜、集落の人たちは外に火を焚かなかった。明かりは敵を呼ぶ。だから暗いまま眠る。眠れない人は、壁に背を預けて目だけ閉じる。
メアリーも横になったが、目が閉じない。閉じると、燃える街が浮かぶ。浮かぶと、喉が詰まる。
女が、隣で小さく囁いた。
「メアリー、寝な。倒れちゃうよ」
「……眠れない」
「眠れないなら、目だけでも休めな」
メアリーは頷いた。頷いて、目を閉じようとした。閉じる直前に、またあの感覚が来た。胸の奥がふっと軽くなる。軽くなるのに、温かくない。
外の風の向きが分かる。扉の隙間がどこにあるか分かる。人が寝返りを打つ音が、どの位置から聞こえたか分かる。
(嫌だ。こんなの、嫌だ。普通でいたいのに。普通の女の子でいたいのに)
目を閉じると、名前が浮かぶ。ターニャ。ターニャ・デグレチャフ。誰かが適当に作った噂かもしれない。けれど、一度浮かんだ名前は、指に刺さった棘みたいに取れない。
翌朝、集落の外れに、別の人影が来た。二人。どちらも住民の服に見えるが、歩き方が違う。周りを見る目が忙しい。荷物が軽い。身軽な人の動きだ。
年配の男が短く話し、二人を家の中へ入れた。メアリーたちはその場に呼ばれた。
入ってきた一人が、男に言った。
「南の避難者か」
男が頷く。
「そうだ」
もう一人が、メアリーを見た。まっすぐ見て、すぐ目を逸らした。観察し終えた目の動きだった。
「ここに長く置けない。親衛隊が回ってる。移すなら今日だ」
女が言った。
「どこへ」
「西の村まで。そこで一度、名前を変える。荷物も減らす。置いていけるものは置く」
女は子を抱き直した。子は眠そうな目をしている。少しだけ安心しているのが分かった。
メアリーはその会話を聞きながら、口を開いた。
「……あなたたちは、何なの」
二人は顔を見合わせた。最初の男が答える。
「助ける側になりたいだけだ。今はそれでいい」
その言葉は優しくない。けれど、現実に合っている。メアリーは頷いた。
移動の準備が始まる。食べ物は少しだけ。水は皮袋。余計な布は捨てる。捨てると寒い。でも、持てない。
出発の直前、若い男がメアリーのそばに来た。小さな紙切れを渡した。汚れた紙だ。鉛筆の字が薄い。
「……これ、俺が聞いた名前だ。たぶん間違ってる。でも、お前が聞いたなら、持ってた方がいい」
メアリーは紙を受け取った。紙の端が折れている。字はこう書いてあった。
ターニャ・デグレチャフ
メアリーは紙を握りしめ、胸の内側へ押し込むように服の中へ入れた。
(これで終わりだ。国家が敵じゃない。戦争が敵じゃない。私の中で、あの名前が敵になる。怖い。でも、怖いままじゃ動けない。だから、あの名前に向かう)
森へ入る前に、メアリーは一度だけ振り返った。集落は静かだ。誰も手を振らない。振れば目立つ。見送る気持ちはあっても、形にしない。それがこの世界の安全だった。
歩き出すと、足の痛みが戻った。冷えも戻った。普通の感覚が戻る。それでも、胸の奥にだけ、さっきの軽さが残っている。軽さは助けじゃない。助けではないのに、次に進めてしまう。
メアリーは前を見た。森の奥は暗い。暗いのに、道の形は分かる気がした。分かる気がするだけで、確かなものではない。確かではないから、余計に怖い。
それでも、歩いた。
紙の上の名前が、身体の中で小さく鳴っていた。鳴って、消えないまま、次の場所へ連れていく。
次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)
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イギリス戦方面
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帝国内政(モレル関連)