幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第10節 戦局の加速

 

 回付箱の蓋が閉まる音は、いつもより乾いて聞こえた。

 

 机上に積まれた紙束は、ひとつひとつが軽い。だが、軽い紙が増えると、部屋の空気は重くなる。ターニャは椅子に腰を落とし、封緘を切り、薄い用紙を引き抜いた。インクの匂いが残っている。

 

 最上段は、海軍からの港湾運用の報告だった。港の順番が書かれている。次が鉄道の便の割り当て表。さらに燃料配分票。最後に、作戦要旨の追記が短く添えられていた。

 

 デンマーク。処理済み。

 

 短い言葉で終わる報告は、現場の泥の匂いを消す。あえて消す。紙は結果だけを残す。だが、結果が早いほど、次の結果を求める紙が増える。

 

 ターニャは余白に鉛筆を走らせた。港湾の順番が変わっている。貨物の積み替え時間が切り詰められている。鉄道の便も同じだ。便の順番が前倒しになり、夜間運用の欄が増えている。

 

 ノルウェー鎮圧へ。

 

 その一行が、別の紙に載っている。作戦要旨の欄外に、青いスタンプが押されていた。押印の角が擦れている。現場が急いだと分かる。

 

 ターニャは机の端に置いた時計を見た。針は予定より先へ進んでいない。進んでいないのに、提出期限だけが先に来る。回付の速さが、時間の手触りを変えていた。

 

 (勝っているからこそ、失敗の余地が減る。余地が減れば、紙は増える)

 

 扉の外で足音が止まった。規則正しい、軍の靴音ではない。事務官の足だ。紙を抱える音が続き、控え室の椅子が少し鳴った。

 

 セレブリャコーフが入室する。手に書類袋を二つ。片方は紐が新しい。もう片方は濡れた跡が残っている。雪か、雨か。どちらでも同じだ。紙が濡れた事実が重要だった。

 

「少佐、回付です。北方関連がまとまっています。港の順番と、列車の便の変更が同時に来ました」

 

 ターニャは封筒を指で叩いた。

 

「置け。順番を崩さない」

 

「承知しました。上から、海軍の港湾運用、次に鉄道の割当、燃料配分票です。最後に作戦要旨の追記があります」

 

 セレブリャコーフは机の角に揃えて置き、紙端を指先で整えた。整える動作が癖になっている。癖になっている時点で、現場も同じ癖を持ち始めた。

 

 ターニャは燃料配分票を先に取った。数字が並ぶ。戦況の文言より、数字の方が嘘をつきにくい。つくとしても、どこでついたかが残る。

 

 燃料が北へ寄っている。鉄道の便が北へ寄っている。港の順番が北へ寄っている。

 

 そして、西の欄が削られているわけではない。西も走っている。ただし、表の下段に追いやられている。優先順位の問題ではない。単純に、枠が足りない。

 

 扉がまた鳴った。今度は硬い。軍靴だ。ノックの間合いも短い。

 

 ターニャが顔を上げる前に、声が入ってきた。

 

「入るぞ」

 

 レルゲンの声だ。許可を待つ癖がない。現場の癖だ。扉が開き、参謀中佐が立っていた。コートの襟が濡れている。手袋を外しもせず、書類を掴んでいる。

 

「お前のところの回付が早すぎる。輸送が追いつかない」

 

 セレブリャコーフが一歩引いた。机の横へ退く。動きは静かだが、目はレルゲンを見ている。

 

 ターニャは立たない。座ったまま、受領の姿勢だけを作った。視線を紙から外し、相手へ合わせる。

 

「ご指摘を承りました。具体的に、どの輸送が遅延しているのか、便と区間をお示しください。燃料の割当も含めて確認いたします」

 

「北へ寄せすぎだ。鉄道の便が足りない。港の順番も足りない。燃料も足りない。足りないから、遅れる。遅れたら現場は止まる。止まったら、鎮圧だろうが何だろうが、ただの数字遊びになる」

 

 レルゲンは言い切って、紙を机へ置いた。叩きつけはしない。だが置き方に苛立ちが残る。紙が滑り、端が揃わない。

 

 ターニャはその端を揃えなかった。揃えるのは後でいい。今は内容だ。

 

 置かれた紙は、鉄道の便の遅延報告だった。便名、積載、区間、遅延時間。理由欄には「燃料不足」「機関不調」「停車待ち」が並ぶ。字が雑だ。現場が急いだ。

 

 ターニャは一度だけ頷いた。

 

「現状を理解しました。北方への偏りが原因で、便の順番が詰まり、燃料の供給も遅れている。結果として、鎮圧の予定がずれる。そういう整理でよろしいですね」

 

「それでいい。私はそれを言っている」

 

「では、影響範囲を二つに分けます。第一に、北方の鎮圧計画の期限です。第二に、西方準備の前倒しに伴う、港と鉄道の割当です。どちらも同じ枠を食います」

 

 ターニャは燃料配分票を指で押さえ、鉄道の便の表へ重ねた。重ねると、数字が隠れる。隠れても、全体は見える。言葉はそこから出す。

 

「対応として、今朝の時点で港の順番を海軍と再調整します。鉄道の便は国防軍輸送局の責任者を指定し、便の順番を再提出させます。燃料の割当は、当方で受領した配分票を基に、遅延の出ている区間を優先して書き換えます」

 

 レルゲンが眉を寄せた。

 

「書き換えで増えるわけじゃないだろう」

 

「増えません。増えないから、優先順位を明文化します。便の順番と、燃料の渡し先を、同じ表に揃えます。揃えてから、責任者の署名を取ります」

 

 ターニャは言葉を切り、息を整えた。ここで長く言うと説教になる。必要なのは、相手が次に動ける形だ。

 

「中佐、輸送局の責任者名を、こちらで指定してよろしいですか。異論があるなら、その場で別名をご提示ください。いずれにせよ、本日中に署名入りで提出させます」

 

 レルゲンは口を開きかけて、閉じた。紙を見た。便名と遅延時間の欄が先に目に入ったのだろう。現場の数字は、現場の口を止める。

 

「……指定しろ。だが、期限は守れ。守れないなら、守れないと書け」

 

「承知しました。期限は本日十八時です。守れない場合は、理由と代替案を同じ紙に載せて提出させます」

 

 ターニャはそれで話を終えた。終えたのに、レルゲンは立ち去らない。立ち去らないのは、話の続きを求めているのではない。自分の中の苛立ちを置く場所を探しているだけだ。

 

 セレブリャコーフが一歩前へ出た。声は丁寧のまま、短く挟む。

 

「中佐、輸送局へは、こちらから伝令を出します。便名と区間の控えも添えます」

 

 レルゲンは頷き、扉へ向かった。扉に手をかけたところで、振り返る。

 

「北は勝ってる。だが、勝ってるからって、列車が増えるわけじゃない」

 

「承知しております。だからこそ、表を揃えます」

 

 扉が閉まった。靴音が遠ざかる。遠ざかるほど、部屋の紙音が戻る。紙が擦れる音、封緘が切れる音、鉛筆の先が机に触れる音。

 

 ターニャは机上の紙束を見直した。デンマーク処理済み。ノルウェー鎮圧へ。西方準備。期限前倒し。燃料配分。港の順番。鉄道の便。遅延報告。責任者指定。署名。提出期限。

 

 同じ紙ではない。別々の紙だ。別々の紙が、同じ机に積まれる。

 

 そこへ、さらに回付が来る。控え室の椅子が鳴り、事務官の足音がまた止まる。扉が開き、今度は伝令が無言で書類袋を差し出した。息が白い。外が寒い。

 

 ターニャは袋を受け取った。封が二重になっている。片方は海軍印、片方は党の印。印が重なると、内容が増える。

 

 袋を開けると、港湾予定表の改訂版が入っていた。改訂の理由は一行だけだ。

 

 「西方準備の前倒しに伴い、積載計画を更新」

 

 ターニャは予定表の端を指で押さえ、もう片手で燃料配分票を引き寄せた。表と表を並べると、数字がずれる。ずれの分だけ、人が走る。

 

 (勝っているのに、紙が増える。増える紙が、勝ちを追い立てる)

 

 

 

 

 袋を閉じる前に、ターニャは封の糊の乾き具合を指先で確かめた。乾いていない。提出が早い。早い提出は、次の提出を呼ぶ。

 

 机の端に港湾予定表の改訂版を置き、燃料配分票と鉄道の便の表を並べた。三枚の表は、同じ日に作られていない。同じ日に作られていないのに、同じ日に効力を持つ。そこにずれが生まれる。

 

 ずれを埋めるのは人だ。

 

 ターニャは回付箱から薄いバインダーを引き抜いた。表紙には、短い題名が印字されている。

 

 北方戦局 統合処理票。

 

 言葉は硬いが、用途は単純だ。紙を一枚にまとめる。まとめることで、誰が何をいつまでにやるかを散らさない。散らさないことで、遅延の言い訳を減らす。

 

 ターニャは処理票を開き、鉛筆で欄を埋め始めた。

 

 戦局。デンマーク処理済み。ノルウェー鎮圧へ移行。海軍の港の順番更新。鉄道の便の再配列。燃料配分の一部再調整。

 

 資源。鉄鉱石。重水。いずれも北方の紙の中に入ってくる。別の部署の仕事でも、紙の束は同じ机に積まれる。積まれた以上、切り離せない。

 

 治安。掃討。拘束。収容。処刑。現場は現場で進む。進んだ結果は紙で戻ってくる。紙で戻ってくる以上、報告の形式を揃えないと、次の処理が遅れる。

 

 (紙を揃えるのは勝つためではない。負けないためだ)

 

 扉が軽く叩かれた。控えめな音だが、間が短い。急ぎの用件だと分かる。

 

「入れ」

 

 セレブリャコーフが入室した。手に持つのは、先ほどより薄い封筒だった。薄い封筒は、内容が軽いのではない。読む側の判断が重くなる。

 

「港の順番の改訂、海軍側の担当が署名を渋っています。西方準備の欄が増えて、北へ回す枠が減ると言っています」

 

 ターニャは処理票から目を上げた。

 

「渋る理由は聞いたか」

 

「はい。海軍は、港の順番を変えるなら、鉄道の便の表も同じ版で出せと言っています。海に積んでも、陸が詰まったら港が止まると言いました」

 

「正しい。だから同じ版で出す。今ある便の表は版が古い。輸送局に再提出させる。港の順番は仮でいい。仮のまま回して、署名を取ってから最終版に差し替える」

 

「仮の順番で回した場合、現場が混乱しないでしょうか」

 

 ターニャは燃料配分票の端を軽く押さえた。紙が動かないようにする動作が、言葉の代わりになる。

 

「混乱する。だから混乱の形を先に決める。仮版には赤で仮と書け。差し替えの期限を書け。差し替えの責任者も書け」

 

「分かりました。差し替えの期限は本日十八時でよろしいですか」

 

「それでいい。海軍の担当には、仮版の扱いを文にして渡せ。口約束は残らない」

 

 セレブリャコーフは頷き、封筒を机の角に置いた。角を揃えようとして、途中で手を止める。揃えるのは後でいいと判断したのだろう。

 

「もう一つ、北方の治安関係です。掃討の報告が来ています。現場の書式がばらばらで、読みやすくありません」

 

 ターニャは短く息を吐いた。読みやすくない紙は、現場が不誠実なのではない。現場に時間がない。それでも、形式は整えないといけない。

 

「書式を統一する。現場の紙は、今後この処理票にぶら下げる。必要事項だけ抜き出して一枚にまとめろ。現場の文はそのまま残していい。要点を抜けなく拾えばいい」

 

「要点は、拘束人数、収容先、処分の手順、立ち会い者、報告経路でよろしいですね」

 

「それでいい。あと、目撃者。現場の目撃者は整理しておけ。噂は遅れて広がる。広がってから潰すと人手が余計に要る」

 

 セレブリャコーフが一瞬だけ眉を動かしたが、すぐに戻した。

 

「承知しました。目撃者の扱いは、治安部隊に確認して進めます」

 

「確認で終わらせるな。確認した結果、誰が処理するかも決めろ」

 

「分かりました。責任者を立てて、署名を取ります」

 

 ターニャは頷いた。言葉が続くと、同じ論点を回すことになる。必要なのは動きだ。

 

「行け。海軍と輸送局を繋げ。治安報告の要点も抜け。夕方までに私の机へ戻せ」

 

「承知しました」

 

 セレブリャコーフが出ていく。扉が閉まる。静けさが戻る。静けさは長く続かない。紙がある限り、音は戻る。

 

 ターニャは処理票の欄をさらに埋めた。港の順番は仮版で回す。便の表は新版を本日中に提出。燃料配分は遅延区間を優先して再配列。治安報告は要点を一枚に整理し、目撃者の扱いを添える。

 

 その一枚に、資源の欄も入れる。

 

 鉄鉱石の輸送表が別の封筒に入っている。港名、積載量、出港予定。そこに、重水の欄が小さく付いている。重水は、量が少ない。だが扱いが難しい。難しい物は、少量でも遅延が許されない。

 

 扉が再び叩かれた。今度は音が短い。二回だけ。入室する側が、長居しないと決めている叩き方だ。

 

 EVAが入ってきた。相変わらず、手に持つのは薄い紙束だった。薄い紙束は、内容が少ないのではない。言葉が少ない。

 

 EVAは机に紙を置き、視線を上げないまま言った。

 

「欠落が増えた。同じ形で」

 

 ターニャは処理票から目を上げ、紙束の一番上を見た。書類の端が揃っていない。揃えていないのではない。揃える時間がないのだ。

 

「どの欠落だ」

 

「治安報告。立ち会い者の欄が空く。毎回、同じ位置」

 

 ターニャは紙を一枚めくった。確かに同じ欄が空いている。空いているのは偶然ではない。偶然にしては形が揃いすぎる。

 

「現場が書くのを避けているのか」

 

 EVAは肩を小さく動かした。肯定にも否定にも取れる。EVAは断定をしない。断定をしない代わりに、形だけを置く。

 

「空白が残る。後で埋まると、版が変わる」

 

 ターニャは鉛筆を置いた。空白が残る紙は、後で揉める。揉めるのは現場ではない。机の上だ。机の上で揉めると、現場が止まる。

 

 (空白は嫌いだ。空白は、他人の都合が入り込む余地になる)

 

「分かった。立ち会い者の欄は空白を認めない。書けないなら、書けない理由を同じ欄に書かせる。署名も取る」

 

 EVAは短く頷いた。紙束から一枚だけ抜き、机の端に置く。

 

「この型も」

 

 置かれた紙は、資源関係の控えだった。重水の輸送予定表。欄外に手書きの追記がある。小さい字で、変更点だけが書かれていた。

 

 「積載方法変更。搬出時刻変更。警備手順追加」

 

 ターニャは追記を指でなぞった。変更が増えるのは、危険が増えた証拠だ。危険が増えると、手順が増える。手順が増えると、紙が増える。

 

「警備手順の追加は誰が決めた」

 

 EVAは少しだけ間を置いた。

 

「現場。指示は上から来た」

 

「上は誰だ」

 

 EVAは答えない。答えない代わりに、紙の端を指で押さえた。そこに押印がある。薄い印だが、形は分かる。

 

 親衛隊の治安部隊の印。

 

 ターニャは目を細めた。治安部隊が勝手に動くこと自体は珍しくない。珍しくないからこそ、紙に残して縛る必要がある。

 

「分かった。警備手順は現場に任せない。手順を文にして提出させる。変更の理由も書かせる」

 

 EVAはそれ以上言わなかった。紙を置き、立ち位置を変えずに立っている。監視のように見えるが、監視ではない。観測だ。観測は、記録を増やす。

 

 ターニャは処理票の資源欄に手を伸ばし、重水の項目に線を引いた。線を引くと、項目が浮き上がる。浮き上がった項目は、後で消せない。

 

「EVA、これを誰に回した」

 

「回していない。あなたに渡す」

 

「よし。それでいい。外へは私が出す」

 

 EVAは小さく頷き、扉へ向かった。扉を開ける前に一度だけ振り返る。

 

「欠落は、増えると早い」

 

 それだけ言って出ていった。扉が閉まる。部屋に残るのは紙と鉛筆の音だけだ。

 

 ターニャは処理票を机の中央に置き直した。戦局、治安、資源。三つの欄を並べる。並べたまま動かす。動かすために、次の欄が必要になる。

 

 担当者。期限。署名。

 

 ターニャは鉛筆で担当者欄に名前を書き始めた。輸送局の責任者。海軍港湾担当。治安部隊の現場責任者。資源輸送の担当部署。重水の警備手順の作成者。どれも、今この部屋にいない。いない者の名を紙に載せるのは、呼び出すためだ。

 

 次に、期限。

 

 本日十八時。明日正午。二日後の朝。期限は短く切る。短く切ると、文句が増える。文句が増える前に、署名欄を先に置く。

 

 扉が開いた。セレブリャコーフが戻ってきた。頬が少し赤い。外に出たのだろう。書類袋が増えている。紐が付いたもの、付いていないもの、封が二重のもの。紙の種類が増えるほど、まとめる側の仕事が増える。

 

「海軍の担当、仮版の扱いなら回すと言いました。差し替えの期限と差し替え担当の署名が条件です」

 

「条件は飲む。署名は誰がする」

 

「海軍側は担当の少佐が署名します。輸送局側は、今呼び出していますが、責任者が来るのが遅れています」

 

 ターニャは処理票の担当者欄を指で叩いた。

 

「遅れている理由は」

 

「便の遅延報告が増えて、現場の問い合わせが止まらないと言っています。電話口で怒鳴られているとも言いました」

 

「怒鳴られているのは理由にならない。来ないなら、代理を立てさせろ。代理の署名で仮版を回す。正式版は責任者の署名に差し替える」

 

「代理の階級が低い場合、輸送局が後で覆すかもしれません」

 

「覆すなら覆していい。覆した記録を残す。覆した結果、遅れが出たら、その紙ごと上へ回す」

 

 セレブリャコーフは頷き、紙束の上から治安報告の要点整理を出した。ページは一枚にまとまっている。拘束人数、収容先、処分の手順、立ち会い者、目撃者、報告経路。立ち会い者の欄が空いている。EVAが言った通りだ。

 

「立ち会い者の欄が埋まりません。現場が名前を書くのを避けています」

 

「避けるなら、理由を書かせろ。空白は残すな」

 

「理由は、現場の指揮官が不在で、代行者が判断を渋っていると書いてあります」

 

「渋るのも理由にならない。代行者の名前を出せ。代行者が署名できないなら、上の者を出せ。出てこないなら、そのまま欠落として上へ回す」

 

「上へ回す先は、国家保安本部(RSHA)のどこにしますか」

 

「治安部隊の監督課だ。宛先は明記しろ。私が送ったと分かる形で出す」

 

 セレブリャコーフが書類の端を整え、筆記具を取った。書く手が速い。速いが雑ではない。現場に出るときの手だ。

 

「処理票の添付として、この要点整理をぶら下げます。署名欄も作ります」

 

「作れ。立ち会い者の欄も、署名欄の上に置け。空白が目立つ位置に置く」

 

「分かりました。空白を隠せない形にします」

 

 ターニャは頷いた。言葉の繰り返しになる前に終わらせる。

 

「資源の方はどうだ」

 

「鉄鉱石の輸送表は更新されています。港の順番に合わせて積載が変わっています。重水の輸送予定も来ましたが、警備手順が追加されています」

 

 セレブリャコーフは重水の控えを差し出した。EVAが置いたのと同じ型だ。追記の字も似ている。現場が同じ形で動いている。

 

「警備手順の作成者は」

 

「治安部隊の現場責任者の署名があります。ただ、上からの指示と書いてあり、発信元が空欄です」

 

 ターニャは紙を受け取った。空欄は嫌いだ。空欄は勝手に埋められる。

 

「発信元を埋めさせろ。埋められないなら、空欄のまま提出させろ。ただし、その空欄の理由を欄外に書かせろ」

 

「分かりました。現場へ戻します」

 

「戻すな。現場へは写しを送れ。原本はここに置け。戻した時点で版が変わる」

 

 セレブリャコーフが一瞬だけ迷い、すぐに頷いた。

 

「承知しました。写しを作って送ります。原本はここに残します」

 

 ターニャは処理票の上に、治安の要点整理、資源の控え、港の仮版、燃料配分票、便の表を重ねた。重ねると見えなくなる。見えなくなるから、処理票の一枚に必要事項だけを書き写す。

 

 紙は増える。増える紙の中で、重要な欄だけを見える形にしないといけない。

 

 ターニャは処理票の下段に新しい欄を引いた。

 

 「三項目 並列処理」

 

 戦局の加速。治安の手順。資源の確保。どれも別の部署が動く。別の部署が動くのに、同じ期限が絡む。同じ期限が絡むなら、同じ紙で縛る。

 

 (勝っているのに、手が足りない。手が足りないなら、紙で手を増やすしかない)

 

 扉が再び開いた。今度は伝令が息を整えながら入ってきた。頬が赤い。雪の粒が肩に付いている。手に持つのは、封緘された細長い封筒だ。電文の写しだろう。

 

「少佐、国防軍輸送局からです。責任者が来られないので、代理が署名した仮版を先に回すと書いてあります」

 

 ターニャは封筒を受け取り、封を切った。中の紙には、確かに代理の署名がある。署名の横に「暫定」と手書きで添えられている。暫定と書けば、暫定になる。だが暫定が長引くと、暫定が常態になる。

 

 ターニャは処理票に鉛筆で期限を書き足した。

 

 「正式版 明日正午まで」

 

 そして担当者欄に、責任者名の空欄を残し、赤鉛筆で丸を付けた。丸は、戻ってこいという印だ。

 

 伝令が控え、セレブリャコーフが机の横で待つ。待つ時間も仕事の一部だ。待つ者がいると、紙は動く。

 

「海軍には仮版を回せ。輸送局の代理の署名も添える。差し替え期限も書き込め」

 

「分かりました。差し替え期限は明日正午で書きます」

 

「治安の要点整理も同じ束にする。戦局、治安、資源を分けて回すな。回付の順番を一つに揃えろ」

 

「はい。束にして回します。宛先は、海軍、輸送局、治安部隊監督課、資源輸送担当でよろしいですか」

 

「それでいい。最後に私の控えを残せ。控えは改訂のたびに版番号を振れ」

 

 セレブリャコーフはすぐに動いた。書類袋を開き、紙を揃え、紐を通す。封緘の音が小さく鳴る。伝令が受け取る準備をする。

 

 ターニャは机上に残った処理票を見下ろした。一枚の紙に、戦局の加速が乗る。治安の手順が乗る。資源の確保が乗る。乗せた以上、どれか一つだけを後回しにはできない。

 

 勝っている。勝っているから、期限が前へ来る。期限が前へ来るから、空白が許されない。空白が許されないから、署名が必要になる。署名が増えると、紙が増える。

 

 そして紙が増える。

 

 ターニャは鉛筆を置き、処理票の最後に短い一文を書いた。

 

 「欠落は許容しない。欠落するなら理由を残す」

 

 (存在しない欄は、誰かが作る。作られる前に、こちらが形を決める)

 

 扉の外で伝令の足音が走り、廊下の空気が一度だけ揺れた。回付が動く。動いた回付は、次の回付を呼ぶ。

 

 ターニャは机の端に残った港湾予定表の改訂版をもう一度見た。西方準備の欄が増えている。北方の欄も増えている。増えているのに、紙は一枚しか増えない。だから、机の上で紙が増える。

 

 勝っているのに、書類が増える感覚が、頂点に近づいていた。

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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