幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第9節〜第12節

 

第9節 アプヴェーアとの接触

 

 クラクフの夜は、黒よりも灰が支配していた。

 

 深夜、灯火管制下の市街地において、明かりを許された建物など、総督府か軍司令部くらいのものだ。だが例外も存在する。たとえば、国防軍の外郭施設、あるいは“国家の必要”という名目で運用される親衛隊の臨時詰所など。

 

 その夜、ターニャ・デグレチャフが足を運んだのは、クラクフ旧市街にひっそりと佇む、今は使われなくなった織物会館の地下室であった。

 

 外見は放棄された倉庫。だが、内部では沈黙の交渉が始まろうとしていた。

 

「遅かったな、デグレチャフ中尉殿。まさか護衛もなしとは」

 

 待っていたのは、灰色の野戦服を纏う一人の将校。胸章に輝く鷲と剣――彼が国防軍情報部、すなわちアプヴェーアの密使である証だった。

 

 灯りは抑えられ、会話すらも耳打ちのような音量で交わされる。互いに椅子へも座らぬまま、静かに睨み合いが続く。

 

「必要な場面では、沈黙が最大の護衛になりますので」

 

 そう応じたターニャの声は静かで、だが微かに皮肉が滲む。

 

「あなた方こそ、国家保安本部を“恐怖機関”と呼びながら、その情報が必要なのは変わらないと見える」

 

 将校は苦笑し、わずかに肩をすくめた。

 

「恐怖と必要性は、紙一重でな。我々は“軍人”であるがゆえに、常に合理性を求める」

 

「合理性、ですか。それは素晴らしい。しかしアプヴェーアが撒いた“種”の数々が、こちらの耕地に芽を出しているとあっては、放っておけません」

 

「お互い様だろう。SDもゲシュタポも、植民地の土壌に対する配慮が足りん」

 

 舌鋒は鋭く、だが互いに声を荒らげることはない。これは情報戦であり、外交戦であり、なによりも――抑制された“内戦”の一端である。

 

 国家保安本部と国防軍情報部。どちらも“国家の裏面”を担う存在でありながら、信頼関係は皆無。むしろ、同じ地図を異なるペンで塗り替えようとする者同士の、果てなき綱引きであった。

 

「目的を述べましょう。アプヴェーアがこの夜、私に会いたがった理由は?」

 

 その一言に、将校の目が僅かに細くなる。

 

「クラクフ北東、リヴィウ近郊におけるパルチザン動向。そして、君たちが“沈黙”と呼ぶ作戦の真意についてだ」

 

「ならば交換条件を。国家保安本部も、あなた方の“隠蔽”に興味がある。とりわけ、クラクフ=リヴィウ間の鉄道貨物、その実態に」

 

 一瞬の間を置き、将校は息を吐いた。

 

「情報とは言葉の毒薬だな。飲むのも渡すのも、いずれにせよ中毒になる」

 

「その通り。だからこそ、管理者が必要なのです」

 

 やり取りは短く、だが本質的だった。

 

 机の上に置かれた封筒が一枚、そしてターニャの手帳が一冊、静かに交換される。どちらも正規の経路を通ることはない。だが、それこそがドイツの“現実”であった。

 

 沈黙のまま数秒。

 

 やがて将校がひとつ頷くと、まるで何事もなかったかのように踵を返す。

 

「この会合はなかった」

 

「同感です。記録にも、記憶にも、残るべきではない」

 

 そしてその場に、再び灰が降り積もる。

 

 ターニャ・デグレチャフは誰よりも冷静に、だが誰よりも真剣に、その灰の色を見つめていた。

 

 

 

 

 

第10節 未来への担保

 

 それは、ベルリンから風に乗って届いた“幻影”であった。

 

 新型兵器――その言葉は、科学の名を借りた呪術にも等しい。量子力学の新理論、重水の再濃縮、そして臨界点に至る中性子の連鎖反応。

 それらが意味するのは、戦争の終焉か、文明の終末か。

 

「……ほんとうに、火薬で済んでいた時代が懐かしい」

 

 小さく皮肉めいた独白を洩らし、ターニャ・デグレチャフは書類の束を卓上に並べ直した。

 記された内容は抽象的で、実験段階の進捗報告にすら届いていない。

 だが、その文面の裏側には、焦燥と野心、そして底知れぬ企図が蠢いていた。

 

 「核反応」という言葉は、まだ科学者と特務局の限られた者のみが口にする呪文である。

 だが確かに、どこかで誰かが、神の火を再現しようとしている。

 

 問題は、それがいつ実用段階に至るかだ。そして、その時までにこの国家が存続しているか――それである。

 

(……現状では、可能性に過ぎない。だが、可能性とは、時に一個師団にも勝る武器だ)

 

 ターニャの視線が一枚の報告書に落ちる。

 送付元は「国家保安本部・科学技術監察局」。差出人の名はない。だがこの文体、この暗喩、そしてこの“機密度”――

 “彼”だろう。すなわち、ハイドリヒの名代たる男。シェレンベルクの筆致にしては冷たすぎる。おそらく、もっと奥にいる人間の手による。

 

 書類にはこうあった。

 

 《Eプロジェクト、進捗第3段階に移行。ユトレヒト経由の研究者輸送計画進行中。

 必要資源:重水、ウラン鉱、絶縁構造を有する研究施設》

 

 冗談のように具体的だが、実行性は不明。資源の大半はスカンジナビアかチェコ、あるいはバルカンに偏在しており、占領政策の綻びがあれば、すぐに立ち消えとなる構想である。

 

(……重水か。ならばノルウェーの“工場”も視野に入るな)

 

 思考の隅に、ノルウェーの“ヴェモルク重水工場”が浮かぶ。占領対象としては地味だが、後の戦略価値を考えれば早期確保が妥当であろう。

 

 だが――と、ターニャは息を吐く。

 

 この話題に関しては、連合国側も静かに反応している。

 スイスとポルトガルの外交チャネルに、微かな“傍受”が見られた。英国情報部が目を光らせているのは明白であり、アメリカのOSSも既に反応を始めたという噂が流れている。

 公式には沈黙、だが水面下では強い関心を示している。

 

 むしろ問題は国内だった。

 

 軍部――特に伝統派の国防軍将校たちは、「このような理論兵器に実用性はない」と一蹴している。

 党幹部の中には、「ドイツ的精神の勝利に科学など不要」と公言する者すらいた。

 皮肉にも、もっとも現実的な視点をもっていたのは親衛隊上層部――いや、“あの男”ヒムラーであった。

 

(……彼は、妄想と現実の境界を自在に行き来する。だが、だからこそ現実を掴んでしまう時もある)

 

 不気味な存在である。計画を妄信するようでいて、必要とあらばあっさりと切り捨てる冷酷さも持ち合わせる。

 ヒムラーの期待がターニャに向けられた瞬間から、彼女はもはや“消耗品”ではなくなった。――同時に、逃げ場も失ったのだ。

 

 だが。

 

 それでも。

 

(……この国家が敗北するとしても、私はその敗北に呑まれる気はない)

 

 ターニャは椅子を立ち、書類を整えながら、ふと窓外を見遣った。クラクフの空は鉛のように重く、どこまでも灰色だ。

 だが、灰は冷たいだけではない。火が通った後の証でもある。

 ならば、いずれ来る“火”に備えて、種火を保っておく価値はある。

 

 ――敗北する未来がある。

 ――だが、負けない未来も、同様に存在する。

 

 だからこそ、情報を握る。

 その価値を使い、秩序の崩壊が始まる前に、別の“秩序”へと歩み出す準備を整えておくのだ。

 

 それが、“担保”である。

 

 未来を取引するための、沈黙の担保である。

 

 

 

 

 

第11節 喉元の刃

 

 ベルリンへと送られる定期報告書。その末尾に、ターニャ・デグレチャフの署名が踊る。

 

 内容は至極真っ当――表向きは、粛清の進行状況、政敵の動向、国防軍との連携調整、そして新兵器計画に関する風聞を、冷静かつ官僚的な文体でまとめたものだった。

 

 だが、それはあくまで“表面”の話だ。

 

 彼女の言葉の選び方には、ほのかにアイロニーの香りが漂っていた。たとえば、「灰色地帯の安定化」なる表現。実態としては強制移送と沈黙作戦が進行中であるにもかかわらず、あえてそう書く。

 

 あるいは、「行政的責任の再定義」という一節。これは、党地区指導部の一部が“名簿から抹消された”ことを婉曲に表したものだった。

 

 ヒムラーの側近として、彼女が報告書に何を書けば良いかを知らぬはずもない。しかし同時に、国家保安本部の中枢――ラインハルト・ハイドリヒの読みを試すように、文の裏に刃を忍ばせる。

 

 まさに、喉元へと突きつけられた言葉の刃である。

 

 筆を置いたターニャは、一度深く息を吐くと、書類の束を封筒に収める。その手際は機械的で、だがどこか重苦しい空気を帯びていた。

 

 ふと、窓の外に視線をやる。クラクフの冬は長く、灰色の空はますます重く沈んでいく。煙突から昇る煙が、空と地をつなぐ一本の境界線のように、ゆっくりと揺れていた。

 

「この国がどこへ向かうかは……知っている」

 

 誰に聞かせるでもなく呟いた言葉は、報告書には決して記されることのない、彼女自身の本音だった。

 

 沈黙こそが安全だと信じられていたこの国で、ターニャ・デグレチャフという少女だけは、黙して語らず、それでも世界の全てを見据えていた。

 

 

 

 

 

第12節 声なき叫び

 

 クラクフ旧市街、その最奥に位置するユダヤ人街――いや、“旧ユダヤ人街”と呼ぶべき区域には、今や住民の声も生活の臭いも存在しなかった。

 

 あるのは、沈黙と監視。そして、しばしば記録される“異常なし”という報告のみ。

 

 冬の風が吹き抜ける石畳を、数名のSD隊員が無言で巡回していく。その足取りは訓練された兵士のものではなく、命令された事務作業を機械的にこなす官吏のそれに近い。

 

 国家保安本部の作戦名は「沈黙作戦」――その名のとおり、対象地域を“静粛化”することが目的だった。

 

 戸籍台帳は訂正された。住民票は焼却された。証明書は押印前に廃棄され、家族写真は壁から剥がされ、焚かれた。

 

 行政上、そこに人間がいた痕跡は、すべて「整合性の欠如」として処理された。

 

 ある者は“言語の不一致”により、ある者は“忠誠の曖昧性”により、そしてある者は、単に“名簿に重複があった”という理由で、――抹消された。

 

 いや、正確には“記録上の存在”を抹消されただけだ。現実において彼らがどのような最期を迎えたか、その情報は、報告書の空欄と、血痕のない廊下だけが物語っていた。

 

 ターニャ・デグレチャフは、その報告書を手にしたまま、窓辺に立ち尽くしていた。

 

 記載された命令は、すでに署名も捺印も済んでいる。彼女が押す必要すらない。だが、最終的な承認者である“国家保安本部調整官”の名前が、そこに活字で印刷されているのが皮肉だった。

 

「……部隊単位で、更迭。党員は、印ひとつで抹消」

 

 誰にも聞かれることのない声で呟いたその一文は、法の執行ではなく、“書類による粛清”そのものだった。

 

 かつて、暴力は爆音を伴い、刃は血と叫びを撒き散らした。だが今や、殺意はタイプライターの鍵盤に宿り、粛清は机上の命令で完遂する。

 

 その無音の恐怖を、ターニャは誰よりも深く知っていた。

 

 窓の外――どこかの路地から、爆竹か、それとも誰かの手榴弾か、乾いた破裂音が一つだけ響いた。

 

 街は反応しなかった。警報も、騒ぎも起きない。ただ、通りを歩いていた一人の親衛隊員が足を止めて、何事もなかったように再び歩き出す。それだけ。

 

 静寂の中に潜む異常を、街は“学習”していたのだ。

 

 背後の机には、飲みかけのコーヒーが残されていた。蒸気はすでに消え、底には黒い澱が沈んでいる。

 

 ターニャは報告書を閉じ、何も言わず、そのコーヒーカップに視線を落とした。

 

 沈黙は、秩序を守る盾であり、時として喉元を裂く刃ともなる。

 

 ――声なき叫びは、どこへ向かうのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




以上で第3話完となります。
次回は国家保安本部のお話の予定です。

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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