幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第12節 火種の固定

 

 受領印の付いた紙片が一枚、机の端に残っていた。どこかの誰かが受け取った。どこかの誰かが、受け取った事実を紙に残した。その一点だけで、提出物は「途中で消える可能性」から少し遠ざかる。

 

 ターニャは紙片を控え番号の束へ挟み、角を揃えた。揃える動作は癖になっている。癖は失敗を減らす。失敗は増える紙の中で最も高くつく。

 

 机の上には北方の報告が積み上がっていた。戦況の電文、治安措置の速報、資源確保の経過、輸送の割当の修正案。勝っているはずの戦局が、紙では負けているように見える。負けているのは、現場ではなく手順の整い具合だ。

 

 セレブリャコーフが控えの束を抱え、回付箱の鍵を確かめている。廊下の気配を拾うように、扉の近くにEVAが立っていた。視線は机を見ていないのに、紙の増え方を見ているように感じる。

 

 ターニャは新しい見出し用紙を取り、万年筆の先を揃えた。

 

 「北方治安措置 完了処理(第一群)」

 

 見出しを置いた瞬間、扱う対象が「現場の出来事」から「制度の案件」へ変わる。変わるのは、言葉の種類だ。熱のある言葉は削り、手順の言葉を残す。

 

 (熱を残すな。熱は紙に染みると取れない。取れない熱は、誰かの正義になって戻ってくる)

 

 扉が軽く叩かれた。文書係の叩き方だ。急ぎの時ほど、音が短くなる。

 

「入れ」

 

 入ってきたのは文書係の軍曹だった。紙束を胸に抱え、息を乱していない。乱していないのは訓練だが、紙束の端は少しだけ揃っていない。

 

「少佐、現場からの整理版が届きました。治安措置の報告です。立ち会い者と記録者の欄が埋まっています」

 

 軍曹が紙束を机の中央へ置いた。セレブリャコーフがすぐに角を揃える。ターニャは一番上の紙を手に取り、見出しの行を目でなぞった。

 

 発信元、日付、版番号、押印欄、宛先。最低限が揃っている。最低限が揃っている紙は、扱える。

 

「本文は、現場の言葉が残っていないか」

 

「残っていません。要点に寄せてあります。証拠品の扱いと、拘束者名簿が添付です」

 

「よし。軍曹は控えを文書室へ戻せ。控え番号を付けて保管しろ。あとで照合が入る」

 

「承知しました」

 

 軍曹が一礼し、扉へ向かう。去り際に、ターニャが呼び止めた。

 

「待て。名簿の署名者は誰だ」

 

「現地の指揮官と、記録担当です。二名分あります」

 

「足りないな。治安措置の完了は、現場だけで終わらせない。提出経路の署名者も必要だ。受領窓口を通った印があるなら、それも付けろ」

 

「はい。追加で回付をかけます」

 

「今日中に戻せ。戻らないなら、戻らない理由を紙にしろ」

 

「承知しました」

 

 軍曹が出ていった。扉が閉まると同時に、部屋の静けさが戻る。静けさの中で、紙をめくる音が大きい。

 

 ターニャは添付の拘束者名簿を開いた。名前が並ぶ紙は、いつも同じ重さを持っている。重いのは道徳ではない。後で争点になりやすいという意味で重い。

 

 名簿の中ほどに、見慣れた綴りがあった。

 

 アンソン・スー。

 

 肩書の欄は簡素だった。旧敵軍将校、大佐。拘束日時、拘束場所、立ち会い者、記録者、処分の区分。紙は淡々としている。淡々としているが、欄が埋まるほど、逃げ場が減る。

 

 ターニャは指先で行を押さえ、次の添付を取った。

 

 「処分実施報告(要点)」

 

 実施日時。場所。執行担当。立ち会い者。記録者。証拠品の扱い。遺留品の保管。執行後の確認。最後に署名欄。

 

 これが揃っていれば、現場は「終わった」ことになる。終わったことになれば、次に進める。終わらないことが一番困る。終わらないと、誰かが勝手に続ける。

 

 (アンソンは、紙に落ちた。これで終わる。終わらせる。終わらない戦いは、書類の中で永遠になる)

 

 セレブリャコーフが机の端に新しい束を置いた。輸送関係の修正案だ。便の順番を変える話が、別の紙にも滲み出している。

 

「少佐、資源確保の件ですが、代替部材の輸送経路について返信が入りました。列車です。港の予定表はそのままにして、鉄道の割当を一つ動かしてほしいと書いてあります」

 

「返信の署名者は」

 

「現場責任者と、輸送局の当直士官です。受領窓口の印もあります」

 

「よし。なら追送二を仕上げる。枠に入れて、番号を付けろ」

 

「承知しました」

 

 セレブリャコーフが追送二の枠を引き寄せ、返信内容を短く転記し始める。言葉を増やさない。増やせば揉める点が増える。

 

 ターニャは治安措置の完了処理へ戻った。名簿と実施報告を、完了処理の表紙に紐づける。添付番号を付け、控え番号を書き、回付先の一覧へ落とす。

 

 回付先は三つに分けた。治安担当、記録担当、資源担当。混ぜない。混ぜると、誰かが「自分の紙ではない」と言い出す。

 

 扉の外で、靴音が止まった。今度は伝令ではない。止まり方が、躊躇している。

 

「入れ」

 

 入ってきたのは現場から来た下士官だった。汚れが残っている。服の端に土が付いている。机の中の世界とは違う匂いだが、匂いは紙に変換される。

 

「少佐、治安の追加報告です。拘束者の中に、身元が曖昧な者がいました。名前が偽りかもしれません。身分証が不自然に新しく、持ち物も少ないです」

 

「年齢と性別は」

 

「若い女です。十代後半に見えます。髪が金色でした。言葉は普通です。軍人ではないように見えました」

 

 ターニャはペン先を止め、顔を上げた。

 

「拘束はできたのか」

 

「できていません。逃げました。追跡はしましたが、地元の住民が妙に動きました。道案内が嘘だったり、逆方向へ誘導されたりしています」

 

「撃ったか」

 

「撃っていません。混雑していました。民間人が多くて、撃てば揉めます」

 

 下士官が言い訳ではなく事実として述べる。撃てない状況はある。撃てない状況を、撃った後で説明する者が一番厄介だ。

 

「分かった。報告は紙にして提出しろ。今言ったことを、順番に書け。推測は削れ。確認できた事実だけでいい」

 

「はい」

 

「『若い女』では曖昧だ。特徴を書け。身長、服装、同行者の有無、逃走方向。追跡に入った者の名前も残せ」

 

「承知しました」

 

 下士官が一息つき、言い足した。

 

「それと、変な話ですが……追跡中に、こちらの通信が一度切れました。機械の不具合かもしれませんが、周囲の機材は動いていました」

 

 ターニャは視線を落とし、机の端の紙片を見た。通信が切れる。切れた理由が紙に残らない。残らないこと自体が、後で揉める。

 

「その件も紙に書け。切れた時刻と、復旧した時刻。誰が確認したか。通信室の当直名も入れろ」

 

「はい」

 

「戻れ。手順どおりに提出しろ」

 

「了解しました」

 

 下士官が出ていく。扉が閉まった。

 

 セレブリャコーフが顔を上げた。

 

「少佐、今の報告は、未確認の危険として上げますか」

 

「上げる。ただし断定はしない。『逃走者あり』と書く。『組織的支援の疑い』などの言葉は今は要らない。事実だけで足りる」

 

「承知しました。題名はどうしますか」

 

「治安速報の追加だ。『未確認の逃走者に関する報告』にしておけ。短く、扱いやすく」

 

「分かりました」

 

 ターニャはペンを走らせ、治安措置の完了処理の末尾に追記欄を作った。完了処理は完了処理だ。完了を崩さないまま、未完の危険を別枠で抱える。それが制度だ。

 

 追記欄にはこう置く。

 

 「別件:未確認の逃走者あり(詳細は別紙)」

 

 これで、完了と未完が同居する。気持ちは悪いが、現実はいつもそうだ。

 

 (火種は、燃えた後で見つけたくない。見つけた時点で、火事になる。火種の段階で、紙の枠に入れておく)

 

 EVAが低い声で言った。

 

「欠落、都合がいい」

 

「通信が切れた話か」

 

「そう。残らない。残らないのが、都合がいい」

 

 ターニャは手を止め、机の上の通信記録の束を見た。切れたという報告は現場から来る。だが通信室の記録は「何もなかった」ように整うことがある。整いすぎる記録は危ない。

 

「都合がいい欠落は、後で刺さる。刺さる前に、欠落を欠落として残す」

 

 セレブリャコーフが小さく頷く。

 

「欠落として残すには、どの欄に置きますか」

 

「監査の対象として置く。監査は言葉が強いなら、『照合対象』でいい。通信室の当直名と、現場の確認者名を並べる。並べれば、後で話が変わりにくい」

 

「承知しました」

 

 ターニャは完了処理の最後のページを引き寄せた。署名欄が並ぶ。現地指揮官、治安担当、記録担当、受領窓口。揃えば揃うほど、現場は制度の中で閉じる。

 

 ここで、もう一つだけ入れておく必要がある。アンソンの件だ。名簿の中の一行が、ただの一行で終わらないようにする。終わらないのは、感情ではない。敵が「個人」を持った瞬間から、話が変わる。

 

 ターニャは、名簿の該当行に付けた添付番号を確認し、完了処理の本文へ短い一文を加えた。

 

 「拘束者名簿の該当者(旧敵軍将校)については、実施報告の添付番号により処理の完了を確認する」

 

 これで、アンソンは「処理された」ことになる。処理されたことになれば、現場は勝手に続きをしにくい。勝手な続きは、紙の外に出る。

 

 セレブリャコーフが追送二の封筒を封緘し、伝令へ渡す準備をしている。机の上では複数の線が同時に走る。勝っている戦局が、手順として落ち着いていく。

 

 扉がまた叩かれた。今度は軽い。伝令だ。

 

「入れ」

 

 伝令が入る。

 

「少佐、追送一の受領印が戻りました。受領者名と時刻があります」

 

「よし。控えに挟め。回付箱へ入れろ」

 

「はい」

 

 伝令が去る。扉が閉まる。

 

 ターニャは署名欄のページを机の中央へ置いた。ペンの横に印章を置く。押印台の位置を直す。控え番号を書き込む欄を確認する。回付先一覧を最後に置く。

 

 机上の動作が揃うと、紙は「提出物」になる。提出物になれば、動く。動けば、誰かが受け取る。受け取った事実が戻れば、制度は一段だけ強くなる。

 

 (勝利は、兵の前進ではなく、提出物の受領印で確かめることになる。嫌な世界だが、私には都合がいい。都合がいい世界は、誰かに壊されやすい)

 

 ターニャは最後の署名欄に指を置いた。まだ離さない。離せば、完了処理が走る。走れば、火種は紙の枠に入ったまま、次の節へ持ち越される。

 

 指先が紙を押さえたまま、ターニャは呼吸を整えた。

 

 

 

 指先が署名欄の紙を押さえたまま、ターニャは最後に一度だけ欄を見直した。署名者の肩書、日付、時刻、控え番号。欄外の小さな注意書き。余白に書かれた鉛筆の補記。

 

 埋まっているべき場所が埋まっている。空欄が空欄として扱われている。そういう紙だけが、後で説明を減らす。

 

 ターニャは指を離した。離した瞬間に、紙は物ではなく命令になる。

 

 万年筆を取り、署名欄に文字を落とす。名前を書いて、役職を書いて、日付を書いて、押印する。押印台に印章を当てるときの感触が、いつも同じであることだけが救いだった。

 

 セレブリャコーフが控えの束を引き寄せる。控え番号を記し、挟み込み、糸で結び、封筒へ入れる。封筒の口を折り、糊で閉じ、封緘の印を置く。作業は淡々としているが、淡々としているからこそ目が離せない。淡々とした手順は、崩れるときも静かだ。

 

「回付箱へ入れます。伝令には二人付けますか」

 

「一人で足りる。ただし控えは室内に残せ。行き違いが起きた場合は、こちらが先に再発行できるようにしておけ」

 

「承知しました」

 

 セレブリャコーフが封筒を持ち、回付箱を開ける。鍵の音が小さく鳴る。箱の中には別の束が既に入っていた。どれも同じ色の紙で、同じように封緘されている。見分けるのは番号だけだ。

 

 ターニャは机の端に残った名簿を閉じた。アンソンの綴りが見えなくなる。見えなくなるのは良い。見えなくなった後に、また別の形で出てくるのが困る。

 

 扉が軽く叩かれた。今度は文書係ではない。扉の向こうに躊躇がある。

 

「入れ」

 

 入ってきたのは通信係の伍長だった。紙を一枚だけ持っている。紙が一枚だけの時は、内容が重いか、あるいは内容が薄い。薄いのに出してくる時は、どちらかが欠けている。

 

「少佐、通信室の記録です。先ほど現場から報告があった時間帯について、当直が確認しました。切断の記録は……残っていません」

 

 伍長が言い終わる前に、ターニャは紙の見出しを見た。時刻の欄は埋まっている。機器の状態は「正常」。異常の欄は「該当なし」。当直名がある。押印もある。整いすぎている。

 

「当直本人は何と言っている」

 

「機器は正常でした、とだけです。周辺の回線も同様だと」

 

「現場側は切れたと言っている。現場の確認者名は」

 

「下士官二名です。先ほどの報告書に追記される予定です」

 

「予定では弱い。今、この場で紙に落とせ。現場報告の写しが来たら、照合できる形にしておけ」

 

 伍長が一瞬、目を泳がせた。仕事が増えることへの反応だ。だが反論はしない。反論は不要だ。要件は一つだ。

 

「書式はどうしますか」

 

「照合対象として別紙にする。時刻、当直名、機器番号、現場側の確認者名、現場側の報告時刻。欄を揃えろ。推測は書くな。書けないなら空欄として残せ」

 

「承知しました」

 

 伍長が退出する。扉が閉まる。

 

 EVAが扉の近くから動かずに言った。

 

「残っていない。都合がいい」

 

「都合がいい欠落は、後で勝手に意味を持つ」

 

「意味を持たせるのは、人」

 

「だから先に、人の名前を置く。置いた上で、欠落として残す」

 

 EVAは頷きもしない。反応を見せないまま、机の角へ一枚の紙を滑らせた。いつの間に用意したのか分からない。紙は短い。短い紙ほど、刺さる。

 

 見出しはこうだった。

 

 「同型の欠落 増加」

 

 本文は二行だけ。

 

 「治安関連の速報において、通信記録の空欄が複数回観測された」

 「当直名は一致しない」

 

 ターニャは紙を見た。見ただけで、紙の位置を変えない。位置を変えると、机の上の構図が変わる。構図が変わると、判断も変わりやすい。

 

「増加の範囲は」

 

「北方。治安。短い間」

 

「この紙は控えに入れろ。回付は私の判断で後にする。現場が落ち着くまで、動かすべき線は増やさない」

 

「了解」

 

 EVAはそれだけ言った。了解という言葉が不釣り合いに短いが、短いから受け取れる。

 

 セレブリャコーフが回付箱の鍵を閉め、机に戻る。封筒を一つ持ち、封緘の印を確かめている。

 

「治安措置の完了処理は走りました。受領の戻りは、早ければ夕方です」

 

「戻りが遅い場合は、伝令の経路を確認する。確認先の名前も決めておけ」

 

「承知しました。文書室の軍曹と、受領窓口の係員名を控えに入れておきます」

 

「よし」

 

 ターニャは別件の束を引き寄せた。未確認の逃走者に関する報告だ。まだ本文はない。これから来る。来た瞬間に形にできるよう、枠だけ先に作る。

 

 枠の作り方は簡単だ。見出し、日時、場所、確認者、内容、添付、処理方針。最後に「断定しない」というための欄を置く。断定しない欄というのは奇妙だが、必要だ。断定しないことを明示しないと、誰かが断定する。

 

 扉がまた叩かれた。今度は先ほどの下士官だ。息が少し上がっている。紙を二枚持っている。二枚の紙があるということは、事実と補足が分かれている。

 

「少佐、先ほどの件、紙にしました。これが事実の報告で、こっちは追跡に入った者の名簿です。特徴はできるだけ書きました」

 

 下士官が差し出す紙をセレブリャコーフが受け取り、机へ置く。角を揃える。ターニャは見出しと欄を確認した。時刻がある。場所がある。逃走方向がある。服装の記述がある。同行者の有無は「不明」。それは許容できる空欄だ。

 

 そして最後の欄にこうある。

 

 「追跡中、短時間の通信不通を確認(原因不明)。同時刻、周辺機材は稼働」

 

「よく書けた。推測が少ない」

 

 下士官が少しだけ肩の力を抜いた。褒めたのではない。褒めると仕事が崩れる。だが、良い紙は良いと言うべきだ。良い紙が増えれば、悪い紙が浮く。

 

「この報告は、治安速報の別件として扱う。お前の上官にも回す。追跡に入った者の名簿は、控えとしてこちらで保管する。現場では同じ名簿を使うな。名簿が増えると、名前が食い違う」

 

「分かりました」

 

「次に同じ件が出たら、同じ言葉を使うな。今回は『未確認の逃走者』で良い。次は『逃走者の続報』に変えろ。違う紙として扱う」

 

「はい」

 

 下士官が出ていく。扉が閉まる。

 

 ターニャは報告書の本文を読み、必要な部分に赤鉛筆で印を付けた。印は少ない。印が多いと、指示が多くなる。指示が多いと、実行が遅れる。遅れると燃える。

 

 「未確認の逃走者」――その語を、紙の枠に入れたまま置く。枠に入れれば、報告は上がる。上がれば、誰かが「敵」を作りたがる。敵を作りたがる者が一番危ない。敵が作られれば、現場が勝手に動く。

 

 ターニャは処理方針の欄に、短い文章を置いた。

 

 「現時点では事実の集積に留める。断定を避け、続報を待つ。追跡の実行は現場指揮官の判断によるが、民間人の混乱を拡大させない」

 

 この文は長い。長いが必要だ。短くすると、誰かが短い言葉だけを取り出す。取り出された短い言葉は、現場にとって都合の良い命令に化ける。

 

 セレブリャコーフが控え番号を書き込む欄を示した。

 

「この別件、回付先は治安担当と記録担当で良いですか。資源担当にも共有しますか」

 

「今は要らない。資源は資源で紙が飽和している。余計な線を増やすな。治安と記録だけで回す。受領窓口を一つ挟む」

 

「承知しました」

 

 ターニャはEVAの紙を見た。欠落が増加している。欠落は治安だけではない。治安で増えるなら、資源でも増える。資源で増えれば、戦局に触れる。戦局に触れれば、誰かが勝手に解釈する。

 

 ターニャは机の引き出しから、薄いファイルを一つ出した。表紙には「照合」とだけ書いてある。中身はまだ薄い。薄いまま保つのが目標だ。厚くなるのは、失敗が増えた証拠になる。

 

 EVAの紙をファイルの一番上に入れる。別件の通信不通の報告も、同じファイルへ入れる。どちらも「欠落」の側に置く。欠落は欠落として管理する。管理しない欠落は、後で「なかったこと」になってしまう。

 

 (なかったことにされるのが一番嫌いだ。なかったことにされると、手順が意味を失う)

 

 机の上が少しだけ空く。空いた場所へ、ターニャは最後の締めの紙を置いた。治安措置の完了処理の「回付確認票」だ。回付した事実を残す紙。受領の戻りを待つ紙。

 

 受領が戻れば、完了の線が太くなる。戻らなければ、線が細いまま残る。細い線は切れやすい。切れた線を、誰かが別の線で繋ごうとする。別の線は、たいてい汚い。

 

 扉が開き、通信係の伍長が戻ってきた。今度は紙が三枚ある。三枚あるということは、欠落を欠落として残せたか、あるいは欠落を埋めようとして余計な説明が増えたか。

 

「少佐、照合対象の別紙です。時刻、当直名、機器番号を書きました。現場側の確認者名は、先ほどの報告書と一致しています。現場側の報告時刻も入れました」

 

 ターニャは紙を受け取り、欄を見た。空欄が空欄のまま残っている。推測で埋めていない。よい。

 

「当直本人の署名はあるか」

 

「あります」

 

「押印も」

 

「あります」

 

「よし。これで扱える。通信室には、同様の案件が出たら同じ書式で出すよう伝えろ。書式が揃えば、嘘が揃う前に見える」

 

 伍長が一瞬、言葉に詰まったが、すぐに頷いた。

 

「承知しました」

 

 伍長が出ていく。

 

 ターニャは照合ファイルへ紙を入れ、閉じた。閉じると、紙が机から消える。消えるが、存在は残る。残る形があるだけで、後の手が打てる。

 

 セレブリャコーフが小さく息を吐いた。

 

「書式が揃うと、少し安心します」

 

「安心は要らない。手が打てる状態を保てば十分だ」

 

「承知しました」

 

 ターニャは回付確認票に署名を入れ、押印を置いた。回付確認票は地味だが、これがないと「送った」と「受け取っていない」が延々と続く。続く喧嘩は、戦局より長い。

 

 回付箱の鍵が鳴る。伝令が出ていく気配がする。廊下の靴音が遠ざかる。

 

 部屋の中に残るのは、控えの束と、照合ファイルと、未確認の別件の枠だけだ。火は、まだ燃えていない。燃えていない火は、厄介だ。燃えていないから軽く扱われる。軽く扱われるから、燃えやすい。

 

 ターニャは最後に机の上を見渡した。治安の完了。アンソンの記録。未確認の逃走者。欠落の増加。どれも別の線だが、同じ机に乗っている。

 

 同じ机に乗っている限り、処理できる。机から落ちた瞬間に、現場の噂になる。噂になったものは、紙に戻しにくい。

 

 ターニャは回付確認票の最後の署名欄に指を置いた。離せば、これも走る。走れば、ひとまず今日の線は整う。整った瞬間に、別の欠落が増えることはよくある。

 

 EVAが短く言った。

 

「見られている」

 

「承知している。だから形を残す」

 

 ターニャは指を離し、紙を閉じた。閉じた紙の束を控え番号の列へ戻す。

 

 その動作の途中で、ほんの一瞬だけ、胸の奥が軽くなる感覚があった。整った。整えた。整っている限り、誰かの独断を遅らせられる。

 

 (今のは快感だ。気のせいだ。快感として扱うと、判断が歪む。私は、歪みを嫌う)

 

 ターニャは椅子から降り、机の前に立った。小さな体で机を見上げる。机が高いことが腹立たしいが、腹立たしさは紙に変えない。紙に変えると、誰かの主張になる。

 

 回付箱の鍵が戻り、セレブリャコーフが報告した。

 

「回付箱は閉じました。控えは文書室へ運びます。照合ファイルはここに残しますか」

 

「残す。鍵付きの引き出しに入れろ。出すのは私の判断でいい」

 

「承知しました」

 

 セレブリャコーフが引き出しを開け、ファイルを入れる。鍵を回す。鍵の音が小さく鳴る。

 

 部屋の空気が少しだけ落ち着いた。落ち着くのは危険だ。落ち着くと、見落とす。見落とすのは、たいてい欠落の側だ。

 

 ターニャは腕時計を見た。次の回付の時間だ。次の提出物が来るまでの短い隙間。隙間は、考える時間ではない。準備する時間だ。

 

 ターニャは机の上に新しい紙を置き、見出しだけを書いた。

 

 「次回:照合対象の増減確認」

 

 書き終えると同時に、ペンを置く。

 

 (始まった。壊れるなら、担当者の名を残す。存在Xの介入は、手順で潰す)

 




次回から世界大戦本格化する予定です。
今更ですが並行世界的なイメージのため若干時系列など史実とズレがあります。

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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