幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第2節 境界線が燃える

 

 夜明けの色が薄くなるころ、車列は国境に近い集結地点へ滑り込んだ。道路脇の畑は踏み荒らされ、轍がいくつも重なっている。車輪が泥を跳ね、車体の下で小石が鳴った。停車する前から、硝煙と湿った土の匂いが混じっていた。

 

 前方に、破壊された障害物が見える。鉄条網が切り裂かれ、木製の柵は半分が倒れたまま転がっている。国境標識の柱が斜めに傾き、赤白の塗装が土で汚れていた。境界線は線として残らず、道として踏み潰されている。

 

 工兵が動いていた。手袋の上からでも分かる太い手で、針金をほどき、爆薬の包みを運び、導火線を整える。口の動きは見えるが声は聞こえない。周囲の兵隊が耳を塞いだ。次の瞬間、空気が押しつぶされる。

 

 鈍い破裂音が腹に響いた。鉄条網が跳ね、土が噴き、煙が低く広がる。爆薬は派手に散らすためではない。通路を作るために使われる。煙が流れる隙間に、工兵が走り込み、残った針金を切り、切断面を外へ曲げる。手順が早い。遅れれば、次の車が詰まる。

 

 ターニャは車外へ出ず、窓越しにそれを見る。護衛がドアに手を添えたが、ターニャは首を振った。

 

「出ない。ここで見える範囲で足りる。少尉、通路の幅を記録しろ。車両区分ごとに通行順を決める」

 

 セレブリャコーフは膝の上の控えに鉛筆を走らせる。言葉は丁寧だが余計な飾りがない。

 

「承知いたしました。幅と時間、停止回数も控えます」

 

 通路の先に、小さな川があった。川幅は狭いが、橋がある。橋梁の欄が地図上で太線になっていた理由が、目で分かる。橋は落ちていない。欄が守られている。橋の手前で兵隊が伏せ、川向こうへ銃口を向けていた。撃っている音は途切れ途切れで、密度が薄い。抵抗が弱いのか、まだ見えないだけか、判断は保留になる。

 

 上空から、別の音が来た。まず重い低音、次に鋭い裂け目。空軍の編隊が通る。影は雲の下で黒く、速度は揃っている。道路の少し先で、白い点が落ちる。遅れて、地面が揺れた。爆発は見えない。煙だけが立つ。狙いは橋ではないらしい。橋の周囲ではなく、道路の曲がり角の先。待ち伏せの位置を潰している。

 

 曳光弾が空へ伸びた。地上の対空砲が応える。線が交差し、また消える。空軍の機体は高度を変えない。地上の砲は撃ち続けるが、撃てること自体が重要なのだと分かる。撃てない地域では、兵隊の顔が変わる。ここはまだ撃てる。

 

 橋の入口に、倒れた荷車があった。布袋が裂けて、白い粉が地面に散っている。粉は踏まれて泥に混じり、道の色が変わった。荷車の持ち主は見えない。逃げたのか、倒れたのか、その区別を今ここで付ける意味は薄い。道は通る。通るための爆薬が、すでに使われた。

 

 車列が進む。工兵が手旗で合図し、通路に車が一台ずつ入る。車輪が鉄条網の切れ端を踏み、金属音が短く鳴る。護衛の車が先に入り、続いてターニャの車が橋へ乗った。

 

 橋板は古い。板の隙間から川面が見える。護衛が視線を左右へ振る。川沿いの木立は暗い。暗いものは撃たれる可能性がある。だから、空軍が先に道路を掃除する。掃除とは、火を撒くことだ。

 

 橋を渡り切ると、路肩に倒れた人影が見えた。軍服ではない。上着の色が違う。顔は見えない。車列は止まらない。止めれば、橋の上に車が固まる。固まれば、橋が目印になる。

 

 道路脇の草むらから、短い銃声が二発。護衛の先導車が急に速度を上げ、後続も間隔を広げた。すぐに別方向から機銃掃射の音が重なり、草むらが揺れる。低空の機体が走ったのだろう。見えなくても、音と結果が揃う。銃声が止まり、草むらの揺れが弱まる。

 

 道路を塞いでいた馬車が、いつの間にか脇へ寄せられていた。馬は倒れている。脚が折れているのが分かる。馬の腹が上下していない。馬車の上に積まれた家財が散らばり、鍋が転がり、布が泥に吸い付いている。布の模様は家庭のものだ。軍のものではない。

 

 ターニャは視線を外へ戻し、地図台ではなく、膝の上の控えを開いた。占領統治の入口で最初に必要なのは、勝利の宣言ではない。通行区分だ。誰を通し、誰を止め、誰を分けるか。その三つが揃わないと、軍も警察も党組織も、互いに押し付け始める。

 

 道路沿いに臨時の関門が見えた。木材で作った柵、砂袋、簡易のバリケード。そこに立つのは陸軍の憲兵と、警察の腕章を付けた人員、それに武装親衛隊の兵隊が混じっている。混じっていること自体が問題の芽だ。混じったまま運用すると、責務が散る。

 

 車列が減速し、関門の手前で止まった。憲兵の士官が近づく。階級章は低い。だが、ここでは彼が止める権限を持つ。

 

「通行目的と、経路の確認を」

 

 ターニャは窓を少し開け、声を整える。外向けの口調は変える。長い応酬はしない。

 

「国家保安本部(RSHA)の随行です。結論として、車列は止めないでください。照会があるなら、こちらの文書で受けます。貴官の側で受領印を付け、控えを残してください」

 

 憲兵の士官が一瞬だけ眉を動かし、すぐに紙へ視線を落とした。紙面に印字された部署名と番号、押印。そこまで揃っていると、現場は逆らいにくい。

 

「了解しました。ですが、避難民が道路を塞いでいます。車列が通ると――」

 

「通行路を二本に分けてください。軍用は右、民間は左。分けたことを記録に残し、通行規程として掲示を出してください。掲示文の責務は、貴官の部署名で受けてください」

 

 憲兵の士官は唇を引き結び、背後を振り返った。現場の人員が足りないのだろう。足りないなら、足りないと紙に書かせる。紙に書けば、後で誰かの責務になる。

 

 セレブリャコーフが控えを差し出す。

 

「こちら、掲示文の雛形です。文言は三類型に限定してあります。通す、止める、分ける。以上です」

 

 憲兵の士官が雛形を受け取り、目を走らせた。短く、具体的で、逃げ道が少ない文言だ。嫌われるが、動く。

 

「分かりました。すぐに掲示を出します」

 

 ターニャは頷き、窓を閉めた。車列が再び動き始める。

 

 関門の脇を通ると、避難民の列が見える。荷物を引く手、抱えられた子ども。泣き声は聞こえるが、言葉は途切れ途切れだ。言葉が整っていない。整っていない言葉は、記録にしづらい。記録にしづらいものは、現場で切り捨てられる。切り捨てられるものが増えると、後で誰かが復讐を選ぶ。

 

 道端に、放置された自転車が倒れている。籠にパンが入っていたのか、紙袋が破れ、中身が泥に溶けている。子どもがそれを見て立ち止まり、母親らしい女性が腕を引いて歩かせた。視線が車列へ向く。恐怖か憎しみか、その判別をここで断言する必要はない。視線が向いた、という事実だけが積み上がる。

 

 道路の先で、また爆発が起きた。今度は見える。遠くの建物の脇で、土煙が噴き、瓦礫が転がった。空軍が道路を掃除している。掃除が終わった道路は進める。掃除が終わらない道路は、止まるか迂回になる。迂回すれば、避難民の列と交差する。交差すれば、関門の規程が必要になる。規程が必要になれば、紙が増える。

 

 車が跳ねて、セレブリャコーフの控えに泥が飛んだ。紙の端が濡れる。インクが滲みかけた。

 

「……申し訳ありません。控えの一部が汚れました」

 

「読める形にしろ。読めないなら書き直せ。番号と押印が残れば足りる」

 

「承知いたしました。乾かして、必要箇所だけ写します」

 

 窓の外で、武装親衛隊の兵隊が道路脇の溝へ身を伏せ、前方へ銃を向けていた。どこを見ているかは分からない。分からないが、手順は見える。道路の左右、橋の前後、民間の流れ、車列の間隔。射撃は最後の工程で、先に配置が決まる。

 

 EVAが、車列の別の車から合図を送ってきた。護衛が受け取り、紙片がターニャの車へ回される。短いメモだ。字は整いすぎている。

 

「欠落、二件」

 

 それだけ書いてある。何が欠落かは、次の紙が来れば分かる。欠落の指摘が先に来るのは、誰かが記録を落としたという意味だ。落とした記録は、後で埋める者が必要になる。

 

 ターニャは紙片を鞄へ入れ、窓の外を見た。国境地帯の風景が変わっていく。建物の看板の文字が違う。旗は見えない。旗の話は後だ。今は通行路と関門の話が先に来る。

 

 前方の指揮車が止まり、車列が段階的に停車した。護衛が前方で何かを確認している。道路の先が煙で薄くなっている。煙の向こうで、曳光弾が横に走った。地上戦が始まっている。始まっているのに、車列は進む準備をする。進むために、誰かが煙の向こうを片付けている。

 

 セレブリャコーフが無線機のノイズを聞き分け、短く報告した。

 

「空襲の報が、複数まとまり始めています。地点の指定が増えています」

 

 ターニャは頷いた。地図上の印が増える前兆だ。増え始めた瞬間に、経路と優先順位を決めないと、現場は勝手に継ぎ足す。

 

 車列の前方で、地図板が展開された。赤い印を付ける手が忙しく動き始める。印はまだ点で済んでいる。点が線になる前に、こちらが先に線を引く必要がある。

 

 

 

 

 地図板の周囲は、息が詰まるほど狭かった。赤鉛筆の先が走り、印が増える。点が点を呼び、線ができ、線の端にまた点が付く。伝令が紙を差し込み、受け取る手がそれを別の机へ流す。机の上に置かれたままの封筒が、風でわずかに浮いた。誰かが押さえた。

 

 車列はそこからさらに前へ進んだ。前進といっても戦車の後ろに付く形ではない。道路の確保が済んだ経路へ押し流されるだけだ。押し流す力がどこから来るのかは、外を見れば分かる。空だ。

 

 上空の音が途切れない区間では、地上の動きが軽い。兵隊の声が大きい。誘導の手旗も、短く振るだけで通じる。停止線の前で揉める時間が減り、検問の照会も素早い。理由は単純だ。空に味方がいる場所では、待ち伏せを置く側が落ち着かない。

 

 逆に、空が静かな区間に入ると、空気が変わった。兵隊の声が小さくなり、視線が上を向きやすい。道路脇の木立を長く見る。車列の間隔が広がり、停車の回数が増える。落ち着かないのは、敵の姿が見えるからではない。敵が見えないまま撃たれる可能性が残るからだ。

 

 ターニャは、その差を地面で確認した。橋が残っている場所では、通信線が生きていた。野戦電話の線が道路脇を這い、支柱に結ばれている。兵隊が線を跨いで走る。線を切らない。切る余裕がない。余裕がないのに線が残るのは、橋を守る手順が先に通っているからだ。

 

 橋が残っている、という事実だけでは片付かない。橋が残れば、通過する車両が増える。増えれば、道路の管理規程が必要になる。規程がなければ、誰が民間車両を止め、誰が軍用を優先するかで揉める。

 

 ターニャは車内で控えを開いた。視線は紙面と外の往復になる。外は動く。紙は追い付けない。追い付けないのを理由に、紙を後回しにすれば、後回しにされた紙が次の障害になる。

 

 前方に、もう一つの橋が見えた。今度は落ちていた。橋桁が折れ、川面に傾いている。爆破の跡が、木材の割れ目で分かる。煙は薄い。爆破は少し前だ。爆破した側が撤退したのか、抵抗の手段として橋を落としたのか、判断は現場の報告を待つ。

 

 その橋の手前で、兵隊が伏せていた。今度は陸軍の歩兵が多い。彼らは声を出さない。口は動くが、音は低い。護衛の黒服が短く合図し、車列はそこで止まった。

 

 護衛の将校が後部座席へ顔を向ける。

 

「この先、狙撃の可能性があります。迂回路を確認します」

 

「確認だけで終えるな。迂回にするなら、民間の流れも分ける。分ける人員を誰が出すか決めろ」

 

「了解しました」

 

 将校が前へ戻り、無線に短い指示を飛ばした。車列の一部が動き、別方向へ回る準備を始める。

 

 セレブリャコーフが、窓の外の様子を見ながら報告した。

 

「空軍の支援が薄い区間です。上空が静かで、地上の警戒が強くなっています」

 

「静かな空を前提に組む。検問を増やすのではなく、検問の文言を揃える。ばらばらだと、止める理由が増える」

 

「承知いたしました。掲示文の統一案を作ります」

 

 道路脇に、避難民の群れがいた。荷物を抱え、布の束を背負い、手押し車を押している。列が道に滲み、軍用車両の通行線を侵食する。彼らは軍の手順を知らない。知らない者に「規則を守れ」と言っても、守り方が分からない。守り方が分からない状態は、現場の苛立ちを増やす。

 

 ターニャは窓を少し開け、近くの陸軍下士官へ声をかけた。相手は軍人だ。年齢も階級も上ではない。言葉は短くする。

 

「貴官、避難民の列を二本に分けろ。右は軍用、左は民間。通過許可の印を簡易でいいから作れ。印がなければ、後で争う」

 

 下士官は一瞬戸惑い、すぐに頷いた。

 

「了解しました!」

 

 彼は走り、手を振り、周囲の兵隊が動き始めた。縄が引かれ、簡易の通行路が作られる。民間の列が押し返され、泣き声が上がる。泣き声は、今ここでは解決しない。解決しないが、放置すると問題は残る。

 

 EVAが別車両から近づき、護衛の背後に立った。足音が消えている。いつ来たのか、分からない。彼女は紙片を一枚だけ差し出した。

 

「同型。三件」

 

 短い。説明がない。だから、受け取る側が動く。

 

 ターニャは紙片を見て、セレブリャコーフへ渡した。

 

「照合しろ。欠落と同じ束に入れるな。別件として回せ」

 

 EVAは頷かず、ただ一歩下がった。存在を薄くして、また消える。

 

 車列は迂回路へ向かった。迂回路は未舗装で、轍が深い。車輪が泥を掘り、車体が揺れる。揺れは書類に敵だ。書類は揺れに弱い。揺れに弱いものを抱えて戦争をするのが、ここから先の占領の形になる。

 

 そのとき、遠くで機関銃の連射が聞こえた。短い。間がある。大規模な戦闘ではない。小隊規模の撃ち合いだ。音が近づいてくる。撃ち合いがこちらへ寄ってくるのではない。こちらが撃ち合いへ近づいている。

 

 護衛の先導車が止まり、黒服の兵隊が降りた。動きが揃っている。走らない。走ると標的になる。彼らは道路脇へ散り、伏せ、視線を一点に集める。包囲の形が作られていく。角度がずれると、撃ち漏らす。ずれを避けるため、合図が短く繰り返された。

 

 前方に、農家の建物が見えた。低い壁、石造りの納屋、木の扉。窓が小さい。そこから火花が散る。銃口の閃光だ。抵抗しているのは、まとまった部隊ではない。数人だ。だが、数人でも道路を止められる。

 

 黒服の兵隊が、左右から距離を詰める。陸軍の歩兵も後ろに付くが、前へ出ない。前へ出るのは黒服だ。出る理由は勇敢さではない。ここで止める役目を割り当てられているからだ。

 

 護衛の将校が、ターニャの車へ戻り、窓越しに報告した。

 

「抵抗者が数名、納屋に立てこもっています。こちらは包囲を完了します。呼びかけを行い、武装解除させます」

 

「呼びかけの文言を揃えろ。降伏の条件は一つにする。逃げ道を残しすぎると、長引く」

 

「了解しました」

 

 将校は前へ戻り、兵へ合図した。兵の一人が、遮蔽物の影から声を張る。言葉は短い。言語は現地のものではない。だが、意味は伝わる。武器を捨てろ。両手を見せろ。出て来い。撃つな、という条件はない。条件は「従えば生きる」に限られる。

 

 返事はない。代わりに、窓から銃声が一発。弾が土を跳ね、乾いた音が地面を叩いた。黒服の兵隊が散り、壁に貼り付く。即座に反応する。声は出ない。

 

 次の瞬間、低い唸りが頭上を走った。空軍の機体が低空で入る。機銃掃射が一瞬だけ納屋の前を撫で、瓦が跳ね、木片が飛ぶ。撃つのは長くない。長く撃てば、誤射が増える。短く撃ち、地上が動く余地を作る。

 

 黒服の兵隊が一気に距離を詰めた。扉の脇に二人、裏手に二人、窓の死角に一人。包囲の形が完成し、次に拘束の工程へ移る。

 

 扉の近くで、もう一度呼びかけが入る。

 

「武器を捨てろ。今出れば死なない」

 

 今度は扉が少しだけ開き、手が出た。手は震えている。銃は見えない。次に出てきたのは若い男だった。制服ではない。狩猟服のような上着。彼は両手を上げ、足元を見ながら出てくる。続いてもう一人、年上の男。彼は片腕を押さえている。血が袖を濡らしている。

 

 黒服の兵隊は走り寄らない。距離を詰める。銃口を向けたまま、短い指示で地面へ伏せさせる。伏せた瞬間、別の兵が腕を取る。拘束具がかかる。抵抗が弱ければ、処理は早い。早いほど、次の仕事へ移れる。

 

 武器は納屋の中からまとめて回収された。猟銃、拳銃、弾薬箱。規格が揃っていない。軍の装備ではない。だが、撃てるなら脅威になる。回収は「数」と「種類」を控えて終わる。控えがなければ、後で消える。

 

 セレブリャコーフが車外へ出て、護衛と短く言葉を交わし、戻ってきた。彼女の手には回収品の一覧がある。紙は泥で汚れていた。文字が滲み、端が折れている。

 

「申し訳ありません。泥で、控えの一部が読み取りにくくなっています」

 

「読み取れる形に戻せ。必要箇所だけでもいい。武器の数と拘束者の人数が欠けると、後で揉める」

 

「承知いたしました。写しを作ります」

 

 ターニャは窓の外を見た。拘束された者たちは、道路脇へ分離されている。民間の避難民と混ぜない。混ぜれば、誰が抵抗者か分からなくなる。分ければ、分けた責務が発生する。責務は、書類に落ちる。落ちた責務を誰が引き受けるかで、占領の初動が決まる。

 

 護衛の将校が戻り、次の工程を報告する。

 

「拘束者は二名。負傷者一名。武器は回収しました。身元確認のため、現地の役場に照会します」

 

「照会の経路を一つにしろ。役場と警察と軍で別々に回すな。窓口は役場の記録係でいい。受領印を必ず取れ」

 

「了解しました。受領印を取ります」

 

 ターニャは車内の鞄から封筒を出し、権限欄を確認した。ここで出す必要はない。だが、必要になった瞬間に出せなければ、現場が勝手に判断する。勝手な判断は、整っていない記録を生む。

 

 遠くで、別の爆発があった。今度は空ではなく地上の音だ。橋を落とすためか、障害物を除去するためか。どちらでも、爆薬の用途は同じだ。道を変える。

 

 車列が再び動く。迂回路を抜け、舗装路へ戻る。上空に機影が見えた。味方機が旋回し、また去る。機影が見えると、地上の兵隊が顔を上げる。顔が上がる間は、彼らは少しだけ楽になる。楽になる時間は短い。

 

 道路脇に、電線が垂れていた。切れている。通信線だ。切れた線は、地上の判断を遅らせる。遅れは渋滞になる。渋滞は衝突を呼ぶ。衝突は敵の弾より先に起きることがある。

 

 ターニャは車内で無線機へ短く指示した。

 

「通信線の切断地点を控えろ。復旧の担当を決めて、今ここで書け。後回しにするな」

 

 返答が入る。声は若い。

 

「了解。復旧班を一個出します。陸軍の工兵に依頼します」

 

「依頼の文書を先に作れ。口頭だけで渡すと、後で『聞いていない』が出る」

 

「了解しました。文書を回します」

 

 セレブリャコーフが、控えに追記しながら言った。

 

「地図上の印が増えています。空襲の報告がまとまって入り、地点が線に変わり始めています」

 

「線にするなら、こちらが先に区分を作る。道路、橋、関門。三つを分けて処理する。混ぜると、誰も進めない」

 

「承知いたしました。区分表を作成します」

 

 車列は占領地の入口に近づいた。看板の言葉が変わり、街の家並みが低くなる。窓が閉まり、カーテンが揺れる。人は出てこない。出てこないのが正しいのか、出てこられないのかは分からない。だが、出てこない町ほど、後で噂が増える。

 

 EVAが再び現れ、紙片を差し出した。

 

「増加している」

 

 ターニャは受け取り、視線を上げずに言った。

 

「何が増えている」

 

 EVAは一拍だけ置いた。

 

「照会。回付。未処理」

 

 それだけ言い、また後ろへ退いた。説明はない。説明がないから、こちらが動く。

 

 ターニャはセレブリャコーフへ命じた。

 

「未処理の束を分けろ。現地で止めるものと、ベルリンへ戻すものを切り分ける。現地で止める束は、担当名を必ず付ける」

 

「承知いたしました。担当名の欄を作り、空白を許しません」

 

「空白を残すな。空白は逃げ道になる」

 

 短い言葉が増える。自分の声が短いのは、落ち着いているからではない。余計なものを入れる余裕が消えているからだ。

 

(何でこうなる)

 

 内心はそれだけで終わった。視線はすぐに紙へ戻る。

 

 夕方が近づく。空の色が鈍くなり、機影が減る。空軍の音が薄くなると、地上の表情がまた変わる。検問の手が止まりやすくなる。止める理由が増える。増えた理由を、紙が追い付けない。

 

 ターニャは車内で、関門の掲示文の写しを見た。文言が揃っている場所は、まだ進む。文言が揃っていない場所は、止まる。止まるのは敵の銃撃ではない。照会と混乱だ。

 

 車列が臨時の指揮所に入る。建物は学校のような造りで、机が並び、黒板が残っている。黒板には、消し残しの数字が薄く残っていた。そこへ新しい地図が掛けられ、釘が打たれ、紙が貼られる。戦争は、場所を選ばない。選ばないが、手順は同じだ。

 

 護衛の将校が入ってきて、拘束者の処理に関する書類束を差し出した。

 

「拘束者の身元照会、役場経由で受領印を取りました。警察側が別経路で回そうとしましたが、止めています」

 

「止めた記録を残せ。後で『止められた』と言い出す。止めた理由を文言にしておけ」

 

「了解しました。理由を追記します」

 

 セレブリャコーフが、泥で汚れた控えの写しを差し出した。文字は読みやすく整っている。

 

「写し、完了しました。武器は四点、弾薬箱一つ、拘束者二名。負傷者一名は応急処置後、分離保管です」

 

「分離先の担当名を入れろ。病院に投げるな。投げるなら受け取った署名を取れ」

 

「承知いたしました。署名を取ります」

 

 外で、また銃声が響いた。遠い。小さい。今日一日で聞き慣れる種類の音になってしまう。聞き慣れた音ほど危険だ。聞き慣れた瞬間、警戒が落ちる。

 

 ターニャは窓の外を見た。空は暗くなり始めている。暗くなれば、また別の手順が始まる。夜間の通行規程、照明管制、検問の増設。増設は簡単だ。維持が難しい。

 

 机の上に、EVAが置いた紙片がもう一枚増えていた。いつ置かれたか分からない。紙片には短く書かれている。

 

「偶然ではない」

 

 ターニャはそれを見て、紙片を裏返し、束に混ぜない場所へ置いた。混ぜた瞬間、意味が薄れる。

 

 占領地の入口は開いた。開いた入口から入るのは兵隊だけではない。避難民の流れ、噂、怨恨、照会、未処理の束。境界線は地図から消えない。だが、地面ではもう役に立たない。役に立つのは、誰を通し、誰を止め、誰を分けたかの記録だ。

 

 ターニャは封筒を閉じ、次の束を手に取った。ここで止まれば、後から追い付けない。追い付けないものが増えれば、戦争は自分の形で膨らむ。膨らむのを抑えるには、形を決めるしかない。形は、紙の上でしか決まらない。

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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