ロッテルダムの昼は、空から潰された。
最初に来たのは爆発そのものではない。窓硝子が先に鳴り、建物の骨が低くうなり、次に床が持ち上がるような揺れが来た。車の扉が震え、車内の金具が細かく鳴る。少し遅れて、街のどこかで何枚もの屋根瓦がまとめて崩れ落ちる音が重なった。
ターニャは窓越しに市街を見た。見える範囲は狭い。運河沿いの建物、煉瓦の壁、通りへ張り出した看板、その先に立つ尖塔。その一つが煙に飲まれ、輪郭を失っていく。
上空では爆撃機の編隊がすでに通過し、後ろに残った機体の腹が鈍い光を返していた。低く入った戦闘機が別の通りをかすめ、機銃の線が地上を撫でる。曳光弾が横へ流れ、対空砲火が遅れて追う。空の音は一つではなかった。重い機体の連なり、甲高く切り裂く急降下の気配、遠くへ抜ける回転音。その全部が街の壁にぶつかって、逃げ場のない騒音になっていた。
交差点の角にあった建物が、まるで折れた箱のように崩れた。上からではなく、内側からほどけるように落ちる。粉塵が通りへ吹き、荷馬車の車輪を半分まで隠した。馬が暴れ、綱を引いた男が転ぶ。誰かが何かを叫んでいるが、音は爆音に潰されて、意味にならない。
車列は市街の外縁で停められていた。前へ出すぎれば巻き込まれる。下がりすぎれば、交渉と治安の初動から外れる。危険と仕事の境目に立つのが、この車列の役目だった。
護衛の黒服たちはすでに散っている。誰も大声を出さない。手を上げる角度、肩の向き、進む距離。それだけで意思疎通が通っていた。黒い制服の線が瓦礫の脇を抜けると、それだけで人の流れが少し変わる。迷いが少ない動きは、それだけで視線を奪う。
セレブリャコーフが、窓の外を見ずに報告を続けた。見ていないのではない。見るべきものを絞っている。
「空軍の攻撃範囲、更新分です。南側の橋梁周辺、倉庫街、中心部の一部で被害が集中しています。現地の陸軍は、白旗の動きを確認したと伝えていますが、まだ全面停止には至っていません」
「白旗の位置を正確にしろ。屋上か窓か、誰が掲げているかも書かせろ。曖昧なまま前へ出すな」
「承知いたしました。位置と掲出主体を確認します」
車外で、護衛の下士官が一人、通りの先を覗き込み、すぐに身を引いた。次の瞬間、通りの奥で爆風が膨らんだ。煉瓦片が跳ね、木枠が飛び、布が火を含んで舞う。火の色は一瞬だけ明るい。すぐに黒い煙に変わり、昼の光を削っていく。
ターニャは扉を開けた。護衛がすぐ脇へ付く。地面に降りると、靴の裏に粉塵がざらついた。石畳の目地には、細かな硝子片が詰まっている。踏むたびに軽く鳴る。
熱がある。火に近いからではない。街全体が温まっている。乾いた熱ではなく、煤と湿気が混じった重い熱だ。喉の奥に張り付く。
前方の通りでは、消火隊がホースを引いていた。水は出ている。だが、勢いが足りない。火が勝つ場所では、放水は黒い壁の表面を濡らすだけで終わる。水蒸気が上がり、煙の色が一瞬だけ薄くなり、また黒へ戻る。
運河のそばに、荷車が二台ひっくり返っていた。一台は野菜が散り、一台は家具が崩れている。椅子の脚、鏡台の引き出し、毛布。持ち出した生活が路上にばらまかれ、その上を兵隊が跨いでいく。
ターニャは通りの角で止まり、地図の控えを開いた。現地で必要になるのは、占領宣言の文句ではない。どこに検問を置き、どこを通して、どこで分けるか。その配置だ。焼けた街では人は逃げる。逃げる人間がどの方向へ流れるかで、次に崩れる道が決まる。
陸軍の将校が駆け寄ってきた。肩で息をしている。顔に煤が付いていた。
「中心部で火災が広がっています。市庁舎方面の通信も不安定です。降伏交渉の話は出ていますが、まだ街区ごとに撃ち返してくる地点があります」
ターニャは将校の階級章を一瞥し、要点だけ返した。
「交渉地点と交戦地点を分けてください。同じ道へ流すな。白旗が出ている通りへ、銃を持った連中を混ぜると止まらなくなる」
「それは分かっていますが、人手が――」
「不足しているなら、通りを減らしてください。四本守れないなら二本に絞る。絞ったことを記録に残し、誰が閉鎖を決めたか書いてください」
将校は口を結び、すぐに頷いた。
「了解しました。通りを絞ります」
「拘束先は」
「まだ確保中です」
「先に確保してください。捕まえた後で置き場を探すと散ります。学校か倉庫、壁と出入口が少ない建物を押さえろ。受領する部隊名も付けろ」
「了解しました」
将校が去ると、別の方向から数発の銃声が走った。今度は散発的ではない。短い連射と、間を置いた単発。建物の角を挟んで小競り合いが起きている。黒服の兵隊が二人、低く走って路地へ消えた。続いて陸軍の兵が壁沿いに移動する。撃ち合いは長く続かない。火力の差がある。だが、長く続かないから処理が楽という話でもない。短い交戦ほど、その直後の拘束と識別が面倒になる。
煙がさらに厚くなった。日が高いはずなのに、街の色が鈍る。看板の文字が読めず、建物の輪郭が途中で切れる。遠くの尖塔はもう見えない。代わりに、火の粉だけが風に乗ってくる。
EVAがいつの間にか背後に立っていた。帽子のつばの影で表情が消えている。手には小さな紙片。
「増えている」
ターニャは受け取る。
「何だ」
「未確認。拘束。行方不明」
必要な単語だけで足りる。市街戦と空襲が重なると、まず数が狂う。狂った数をそのまま流せば、後で全部が揉める。
「行方不明は分けろ。死亡と混ぜるな。拘束も民間と武装者で束を別にしろ」
「更新する」
EVAはそれだけ言って離れた。足元の硝子片もほとんど鳴らさない。
通りの向こうで、火を避けていた住民たちが一斉にしゃがんだ。上空を機体が横切ったのだ。次の投下は来なかった。だが、来なかったことが安堵には繋がらない。誰もすぐには立たない。少し待ち、別の音が近づかないのを確かめてから、ようやく荷物を抱え直す。
その動きの遅さに、ターニャは降伏の気配を見た。抵抗の意志が消えたわけではない。都市全体が疲弊し、銃より先に身を守る動きへ寄っている。これが広がると、突然、銃声が減る。減った瞬間に統治が始まる。だから面倒なのだ。戦闘が終われば終わるほど、仕事が増える。
前線連絡の机が、通りの半壊した建物の一階へ移された。窓枠がなく、布が垂れているだけの部屋だ。中では電話機が二台、野戦地図が一枚、インク瓶が一つ。十分ではないが、足りないと言っても始まらない。
セレブリャコーフが机の端へ控えを並べた。周囲の粉塵で紙がすぐ灰色になる。
「拘束先の候補、三か所です。小学校、港の倉庫、教会裏の集会所。小学校は出入口が二つ、倉庫は広いですが火の粉が来ます。集会所は狭いですが管理しやすいです」
「武装者は集会所、民間の一時留め置きは学校だ。倉庫は荷の識別と押収品に回せ。受領先は分けろ」
「承知いたしました。部屋ごとに割り振ります」
「臨時の検問線は三本で足りる。港へ向かう道、橋、広場の入口。そこだけ押さえろ。他は封鎖札だけ出して、無理に人を置くな」
「承知いたしました」
外から、誰かがオランダ語で叫んだ。すぐに別の声が応じる。怒鳴り合いではない。方向を確かめている声だ。そのあと、銃声が二発だけ鳴って、静かになった。
ターニャは将校用の双眼鏡を受け取り、街の奥を見た。煙の切れ目に、白い布が二か所見える。窓から突き出され、風に弱く揺れている。もう一つは屋上だ。布が小さい。白旗と言い切るには心許ない。洗濯物の可能性もある。だから記録が要る。
「少尉、白布の位置を図に落とせ。交渉の経路に入れるのは、確認後だ。勝手に安全地帯にするな」
「承知いたしました。観測者を付けます」
護衛の兵が外で列を作り始めていた。住民を追い立てているのではない。通りの左右へ寄せ、中央を空けている。中央が空けば、伝令が走れる。担架も通る。担架が通れる道は、そのまま拘束者の搬送路にもなる。
焦げた木の匂いの中に、別の匂いが混じった。油だ。倉庫街のどこかで燃料がやられたらしい。黒煙が急に太くなり、風向きが変わる。空がさらに低くなる。昼なのに夕方のような色になる。
陸軍の別の将校が現れた。今度は少し落ち着いている。交渉担当の腕章を付けていた。
「市内の一部で交渉の意思が示されています。全面の保証はできませんが、少なくとも中心部では撃ち合いが弱まる可能性があります」
ターニャは即答した。
「弱まるなら、その前提で検問線を組みます。条件は一つです。交渉地点へ武器を持った者を近づけないでください。捕虜と民間人も分けて動かしてください」
「承知しました。ただ、現地警察がまだ残っています。彼らをどう扱うかで――」
「制服のまま集めてください。武装解除の上で、名簿を取る。ばらしたまま残すと、誰が警官で誰が便乗者か分からなくなる」
将校は少しだけ目を細めたが、反論はしなかった。
「了解しました。名簿化します」
「名簿は二部にしてください。こちらへも控えを回してください」
「分かりました」
その将校が去った直後、街の音が変わった。爆撃の連なりが離れたのではない。地上の銃声が、はっきりと減った。通りの角ごとに鳴っていた単発が、間を空けるようになる。機関銃の短い掃射も、遠い場所だけに偏っていく。
誰かが勝ったと叫ぶ空気ではない。むしろ逆だ。耳が空いたことで、人の息づかいが戻る。泣く声が聞こえ、咳が聞こえ、燃える梁が折れる音まで拾えるようになる。銃が止み始める瞬間は、静かになるのではない。別の音が前へ出る。
ターニャはその変化を確認すると、地図の余白へ鉛筆を走らせた。広場、橋、港、学校、集会所。人を溜める場所と流す場所を先に決める。勝敗の確認は後でいい。街が沈黙したあとのほうが、事故は増える。
外では、護衛の黒服たちが通りの中央から少しだけ位置を変えた。銃口の向きが、撃つための角度から、見張るための角度へ移っていく。陸軍の兵も同じだった。どこに立てば道が分かれるか、どこなら担架と捕虜を混ぜずに済むか。彼らの足が、そのまま新しい線を引いていく。
セレブリャコーフが、控えを一枚差し出した。
「検問線の仮配置です。港口、中央橋、広場の東端。拘束先の振り分けも追記しました」
「広場の東端は一つ奥へ下げろ。瓦礫で視界が悪い。見えない場所に列を作るな」
「承知いたしました。位置を修正します」
ターニャは鉛筆で一点を消し、別の角へ印を付けた。そこなら運河沿いの通りが見える。逃げる人間と、荷を抱えた人間と、武器を隠した人間の動きが見分けやすい。
EVAが再び現れ、今度は紙ではなく小さな帳面を置いた。表紙が煤で黒くなっている。
「これ。更新分」
中には名前が並んでいた。拘束者、警官、役場の担当、通訳。まだ途中の帳面だ。だが、途中でもあるのとないのとでは違う。
「通訳は二人しかいないのか」
「今は」
「増やせ。子どもを使うな。誤訳で揉める」
「回す」
そのやり取りの最中にも、街の銃声はさらに減っていく。代わりに、火の音が大きくなった。焼けた梁が落ち、瓦が滑り、どこかで蒸気が噴く。街全体が、まだ壊れる途中にある。
陸軍の伝令が駆け込み、帽子を押さえながら言った。
「一部で降伏の条件受諾が現実になりつつあります。全面停止ではありませんが、中心部から順に抵抗が弱まっています」
「“つつある”では足りません。止んだ通りと、まだ撃ってくる通りを分けて報告してください。混ぜると検問線が崩れます」
「了解しました。通り単位で回します」
伝令が走り去る。ターニャは窓のない壁の向こう、煙に鈍った街の空を見上げた。昼が暗い。だが、爆撃の衝撃だけで曇っているわけではない。これから沈黙が落ちる。その沈黙の下で、人を止め、分け、数える仕事が始まる。
そして、そのほうが厄介だった。
銃声は、突然なくならなかった。
まず通りの奥で続いていた短い連射が途切れ、次に橋の向こうから返ってきていた単発が止まり、最後にどこかの屋根の上で粘っていた狙撃の音が消えた。静かになったわけではない。火の回る音、煉瓦が崩れる音、担架の脚が石畳を叩く音、泣き疲れた子どものしゃくり上げ。それまで埋もれていたものが前へ出ただけだった。
ロッテルダムの街は、煙の色で時間を失っていた。昼のはずだが、光が濁っている。運河の水面も灰色に曇り、焼けた梁が落ちた場所では油が薄く広がっていた。風が吹くたび、焦げた匂いが通りを横切る。紙の焼ける匂い、布の焦げる匂い、塗料の溶ける匂いが混ざる。どれも軽くない。
ターニャは半壊した建物の一階から外へ出た。足元の石は乾いた場所と濡れた場所が入り交じり、瓦礫の上を踏むたびに違う音がした。硝子片はもう珍しくない。靴底で砕け、粉になり、煤と混ざっていく。
広場の奥で、捕虜が整列させられていた。オランダ軍の兵たちだ。武器はすでに脇へ積まれ、銃身の向きが全部同じ方向へ揃えられている。揃っているだけで、場が締まる。乱雑に積まれていない。回収する側が迷わず、数える側も迷わない。
黒服の兵たちが、その列の左右を歩く。速いが、走らない。誰かが叫ぶ前に動き、銃口の高さが揃い、視線の流れる先まで同じだ。見せつけるために整っているのではない。整っていないと、後で揉める。揉める前に形を決める動きだった。
陸軍の将校が一人、ターニャに近づいた。顔に疲れはあるが、声は持ち直している。戦闘の終わりが見えた人間の声だ。
「中心部は、ほぼ止みました。まだ散発的な発砲はありますが、組織的な抵抗は崩れています。オランダ側の受諾も現実になりました」
ターニャは広場を見たまま答えた。
「承知しました。では、今日のうちに線を引きます。捕虜、現地警察、民間の避難民、この三つを混ぜないでください。橋と広場と港口、検問はそのまま維持します」
「捕虜の移送先は」
「広場の列は一時留め置きにしてください。本移送は夜に回す。今動かすと、街の流れとぶつかります。受け取る部隊名も先に書いてください」
「分かりました」
将校はすぐに離れた。余計な感想を付けないのは助かる。勝った負けたを話している時間はない。
広場の反対側では、現地警察が集められていた。制服のまま並ばされ、拳銃だけ外されている者もいれば、警棒まで没収された者もいる。扱いがまちまちだと後で面倒になる。ターニャはその列へ視線を向けた。
「少尉、現地警察の扱いを統一しろ。制服で集めて、名簿、武装解除、所属確認。この順で流せ。誰が受け取るかも欄を作れ」
「承知いたしました。通訳を付けて処理を早めます」
「通訳は足りているか」
「まだ不足しています。役場経由で追加を求めています」
「子どもは使うな。年寄りも無理に引っ張るな。意味を取り違えると、後で全部が崩れる」
「承知いたしました」
セレブリャコーフは控えを抱えたまま、通訳候補の一覧へ印を付けていく。煤で黒くなった指先が紙の端を押さえ、鉛筆の先が止まらない。彼女の足元には、写しを終えた帳票が順に重ねられていた。現場で汚れた紙ほど、整理がいる。
通りの向こうで、宣伝中隊の将校らしい男が、写真機を担いだ兵に指図していた。旗を持つ兵の位置を動かし、腕章の見え方を直し、画角の端に瓦礫を入れる入れないで揉めている。わざとらしいほど分かりやすい構図だ。秩序が戻ったように撮りたいのだろう。
その男がこちらへ歩いてきた。
「こちらの広場、写真記録に使います。通行線を少し寄せられますか。旗が入ると見栄えが――」
ターニャは相手の言葉を最後まで待たない。
「通行線は動かしません。撮るなら、今ある配置で撮ってください。画に入れたいなら、邪魔にならない位置へ旗を立ててください。捕虜の列と搬送路は崩さないでください」
男は一瞬だけ口を閉じた。反論したかったのだろうが、今の広場を見れば難しい。担架が通り、武器の確認が続き、捕虜の列が少しずつ詰められている。見栄えのために動かしてよいものは少ない。
「……承知しました。では、端に回します」
「腕章が見える位置はそちらで決めてください。ただし、検問札は隠すな。あとで誰がどこを押さえていたか残らなくなる」
「分かりました」
男は去った。旗が画角に入れば喜ぶのだろうが、ターニャの関心は別にある。焼けた街で厄介なのは、よく見えるものではない。橋の先、倉庫の奥、役場の控え室、そういう場所に溜まる未処理の束だ。
EVAが物陰から現れ、小さな封筒を差し出した。封筒は煤で汚れているが、封はきれいだ。
「これ。追加分」
中には短い一覧が入っていた。拘束者数の修正、行方不明者の追記、焼失した役場文書の範囲。数字はまだ動く。だからこそ、今の数字として一度止める必要がある。
「役場文書、どこまで焼けた」
「戸籍、一部。警察控え、欠落。徴用名簿、半分」
「半分で止まっているなら拾える。灰の中でも探せ。今日のうちに回収班を出せ」
「回している」
EVAは短く答え、そのまま広場の脇へ移った。立つ位置が絶妙だった。目立たない。だが、全部が見える。
ターニャは一度だけ空を見た。まだ灰色だ。空襲のあとの空は晴れない。煙が薄くなっても、街の上には何かが残る。だが、機影はもう近くない。空が静かな今のうちに、後ろを固める。
広場の端では、捕虜たちの列が前へ動き始めていた。黒服の兵が一人ずつ間隔を見て、押しすぎず、緩めすぎずに歩かせる。迷いがない。脅して速くしているのではない。遅れたら詰まると分かっている動きだ。
その姿を見て、近くにいた陸軍の軍曹が小さく言った。
「親衛隊の連中、こういう時だけはきれいに揃いますな」
ターニャは視線を広場から外さずに返した。
「こういう時こそ揃わないと困る。数が狂うと、夜まで残る」
軍曹は苦笑いのようなものを浮かべ、すぐに持ち場へ戻った。
通りの奥から、荷馬車が二台運ばれてきた。積まれているのは布をかけた遺体ではない。回収した武器と弾薬、警察署から出した帳簿、それに役場の焼け残りの箱だ。箱の角が焦げている。焦げても読めるものはある。読めるうちに拾わなければ、灰になる。
ターニャはその荷を見て、広場ではなく倉庫街のほうへ顎を向けた。
「少尉、押収品の置き場を変えろ。ここに積むな。広場は人間を流す場所だ。物を溜めるな」
「承知いたしました。港の倉庫へ寄せます」
「倉庫の担当名も先に入れろ。置いたままにすると消える」
「承知いたしました」
時間が進むにつれ、街の音は変わり続けた。最初は火災と崩落の音が強く、次に命令の声が増え、夕方に近づくと車輪の音と靴音が目立つようになった。戦闘が終わると、人は歩く。歩く人間が増えれば、止める場所が要る。
ターニャは広場から外れ、半壊した倉庫の陰に設けられた休憩場所へ向かった。休憩場所といっても、壁が一面残っているだけだ。風は防げる。座る木箱がある。それで十分だった。
セレブリャコーフが、携行食の袋から乾パンと缶詰を出した。缶の表面が煤で少し黒い。ラベルは半分剥がれている。
「食べられるうちに、どうぞ。次の報告がまとまるまで、少しだけ時間があります」
「少しでいい」
乾パンは固い。噛めば味はあるが、喜ぶ類いのものではない。ターニャは缶を持ち上げ、缶切りを当てた。だが、手袋が邪魔をする。滑る。刃がきちんと噛まず、金属の縁をなぞるだけで進まない。
もう一度やっても、同じだった。缶が小さいうえ、煤で表面が滑る。苛立つほどではない。時間が惜しいだけだ。
セレブリャコーフが静かに手を差し出した。
「失礼します。角度を少し変えたほうが開きます」
彼女は缶切りを受け取り、手首をほんの少し返した。金属がきちんと噛み、一定の音を立てて回っていく。開いた蓋の端を押さえ、切り口で手を傷つけないように横へ折った。動作に迷いがない。
「どうぞ」
ターニャは缶を受け取った。中身は肉の煮込みらしい。油が表面で固まりかけている。
「次は手袋を用意しろ。滑る」
「承知いたしました。作業用の薄手も入れておきます」
それで十分だった。礼を重ねる必要はない。必要なのは、次に同じ手間を減らすことだ。
乾パンを噛む。缶の中身は塩が強い。温かくはないが、胃に落ちれば仕事は続けられる。広場の向こうでは、まだ列が動いている。食事をしている間にも、誰かが数を読み、誰かが名簿を書き、誰かが瓦礫の下から帳簿を引き抜く。
EVAがまた現れた。今度は食事を邪魔しない距離で止まり、短く言った。
「写真。増える」
「好きに撮らせろ。ただし、通行線を崩すな」
「指示済み」
「役場は」
「一階、使える。二階、危険」
「一階に記録班を入れろ。警察控えと分ける」
「了解」
EVAは去った。必要なことだけが残る。
休憩場所の外を、担架が二つ通った。どちらも急ぎではない。急ぎなら走る。走っていないということは、間に合う見込みがあるか、もう急いでも変わらないかのどちらかだ。
ターニャは乾パンを一枚食べ切り、水筒の口を開けた。水はぬるい。だが、喉の煤を流すには足りる。
遠くで、宣伝中隊の写真機がまたシャッターを切った。旗が風に上がり、腕章が画面へ収まり、黒服の列が広場の端を横切る。整った構図だ。だが、その画の外で、役場の一階に机が運ばれ、通訳が座り、焼け残りの帳簿が並び始めている。統治の難所は、たいてい画にならない。
食事を終えたターニャは立ち上がり、手袋の先についた油を布で拭った。布もすぐに黒くなる。今日一日で、何枚の布が駄目になるのか分からない。分からないが、補充の欄はあとで作る。
広場へ戻る途中、焼けた路面の上を捕虜の列がゆっくり進んでいた。彼らの靴音は揃っていない。揃っているのは、左右を歩く黒服の兵の歩幅だ。その差が、そのまま勝敗の形になっていた。
陸軍の将校が再び近づき、今度は紙を差し出した。降伏受諾に関する現地連絡の控えだ。署名欄が埋まっている。
「こちら、現地で取れた分です。まだ全部ではありませんが、中心部の扱いはこれで進められます」
ターニャは紙を受け取り、署名と時間を見た。
「十分です。では、今夜の扱いを決めます。外出禁止の文言を出してください。時間を短く書くな。日没基準だと揉める。時刻で書いてください」
「了解しました。何時にしますか」
「二十時から五時。医療搬送、消防、役場記録班だけ例外。例外の札は三種類に絞ってください」
「分かりました」
「広場の捕虜列は夜までに整理してください。残るなら、列ではなく建物へ移す。路上に置くな」
「了解しました」
将校が離れる。ターニャは控えの余白へ、時刻と例外区分を書き込んだ。必要なことは増える。増えたものを順に処理していけば、街は動く。動く街は管理できる。止まった街は腐る。
夕方の光は、まだ煙に濁っていた。ロッテルダムの一日は終わっていない。火も残っている。泣き声も、崩落の音も、まだある。だが、銃は減った。減ったぶんだけ、書かなければならないことが増えた。
ターニャはその事実を、広場の上を流れる黒い煙より先に見ていた。
次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)
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イギリス戦方面
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帝国内政(モレル関連)