幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

87 / 107
第5節 海峡へ

 

 フランス北部へ入ると、進撃の怖さは敵の砲声より先に道路へ出た。

 

 先頭の装甲部隊はもう先へ行っている。見えるのは、その後ろへ置き去りにされたものばかりだった。泥を跳ね上げた燃料車が路肩で止まり、ボンネットを開けたまま冷えている。弾薬を積んだ車両が荷を半分だけ降ろし、誰も戻ってこないまま雨避けの布を被せられていた。歩兵の分隊が道端で地図を広げ、どの町へ向かうのか分からなくなっている。標識は折れ、向きを変え、砲弾か車輪か分からない衝撃で根元から倒れていた。

 

 先へ進んだ部隊は速い。速いが、後ろの人間にはその速さが見えない。見えるのは、道の途中で切れた指示と、途中で置かれた荷だけだ。

 

 ターニャの車列は、そんな道路を縫うように北へ上がっていた。左右には初夏の畑が広がり、その向こうに低い村が点在している。村の入口では、壊れたバリケードがもう片付けられている場所もあれば、丸太と農具がまだ横倒しになったままの場所もあった。抵抗の痕は残る。だが、それが抵抗の継続を意味するとは限らない。昨日まで塞ぐために積んだものが、今日は通行の邪魔になる。それだけの話だ。

 

 前方で、陸軍の二輪伝令が急停止した。砂利が跳ねる。彼はヘルメットを押さえながら車列へ近づき、護衛に短く何かを告げた。護衛がそのままターニャの車へ来る。

 

「前方の交差点、標識が全部倒れています。歩兵が二個中隊ほど、別方向へ流れたようです」

 

「戻せ」

 

「案内役が足りません」

 

「足りないなら、道を一つ潰せ。三本あるから迷う。二本塞いで一本だけ残せ」

 

「了解しました」

 

 護衛が離れると、セレブリャコーフが膝の上の控えへ追記した。

 

「案内役の補充、親衛隊の治安要員から二名回せます。臨時の矢印札も残っています」

 

「矢印札は大きくしろ。歩兵は走りながら読む。細い字だと見落とす」

 

「承知いたしました」

 

 道路の脇を、歩兵の一群がよろよろと進んでいた。陸軍の兵たちだ。背嚢が重く、顔に土がこびり付いている。先頭の下士官だけが地図を持ち、何度も後ろを振り返る。隊列は崩れていないが、方向に確信がない顔だった。先へ出た戦車の速度と、自分たちの足が噛み合っていない。彼らは遅れているのではない。前が遠すぎるのだ。

 

 ターニャは窓を少し開け、その下士官へ声を投げた。

 

「貴官、所属は」

 

「第――失礼、陸軍歩兵です! 前進命令で北西へ向かうよう指示を受けましたが、交差点の標識が――」

 

「北西では広い。次の村の教会を左、運河を越えたら待機だ。そこに案内札を立てる。勝手に脇道へ入るな」

 

「了解しました!」

 

 下士官は顔を引き締め、すぐ後ろへ怒鳴った。兵たちの列が少しだけ締まる。たった一言で足並みが整うこともある。逆に、曖昧な指示一つで半日が消えることもある。

 

 車列はそのまま進んだ。町が一つ落ちるたび、景色は少しずつ変わる。

 

 最初の町では、白旗が役場の窓から出ていた。布はきれいではなく、どこかのシーツを裂いたような形だった。広場の石畳には木箱が散らばり、昨夜までバリケードだったものが今は片側へ寄せられている。鐘の音が一度だけ鳴り、それきり止んだ。歓迎の音ではない。誰かが手を離し忘れたような、短い、濁った音だった。

 

 二つ目の町では、捕虜の列がもうできていた。若い兵もいれば、年のいった予備役らしい顔もいる。武器は道の脇へまとめられ、銃床が揃えられている。その横で黒服の兵が帳簿を持ち、数を読み上げ、別の兵が番号札を付けていく。誰がどの部隊か、今はそこまで細かく見ていない。まずは混ぜないことが先だ。

 

 三つ目の町では、広場の酒場だけが焼けていた。原因は分からない。外壁は残り、窓から黒い煤が垂れている。店の前で、現地の男が両手を上げたまま座らされていた。武器は持っていない。だが、煽ったか、隠したか、どちらかだろう。親衛隊の役目は、ここで追撃することではない。誰を止め、誰を帰し、誰を別室へ入れるか、その線を引くことだった。

 

 ターニャは町へ入るたび、最初に広場を見ない。出入口と橋と教会を見る。人が溜まる場所と、噂が広がる場所と、夜に火が点きやすい場所が分かるからだ。

 

 ある町では、教会の前に手押し車が三台並んでいた。荷を積んだまま誰も引いていない。通りの奥では、現地警察が壁際へ集められ、制服のまま帽子だけ取られている。陸軍の将校が何かを問い、通訳が追いかける。通訳が二人しかいないせいで列が進まない。

 

 ターニャは車を降り、教会前の状況を一瞥した。護衛が左右へ散る。黒服が一人、二人、入口を押さえるだけで住民の動きが鈍る。威圧のためではない。迷う余地が減る。

 

 現地処理をしていた親衛隊の少尉が駆け寄った。

 

「町の武器回収はほぼ終わっています。ただ、夜間通行の扱いで陸軍と話が割れています。橋を閉じたいのですが、彼らは補給を優先したいようで」

 

「橋は閉じる。ただし完全にではない。日没後は軍用の札を持つ車だけ通せ。住民は朝まで止めろ。歩行も止める」

 

「住民の反発が出ます」

 

「出る。だが、夜に動かすと武器も一緒に動く。文句を言う窓口は役場へ一本にしろ。兵に直接言わせるな」

 

「承知しました」

 

 少尉はすぐに部下へ走った。こういう時、親衛隊の兵は動きが速い。格好つけているのではない。命令が短いから速い。

 

 セレブリャコーフが控えを持って横へ来る。

 

「この町、現地警察の名簿が途中で途切れています。書記が逃げたか、持ち出したかもしれません」

 

「役場の机を開けろ。控えが残っている。残っていないなら教会の記録室だ。洗礼簿でも家単位の確認には使える」

 

「承知いたしました。通訳を一人、そちらへ回します」

 

「反乱分子の扱いは分けろ。武器所持、扇動、便乗窃盗。この三つを同じ列にするな」

 

「承知いたしました」

 

 教会の裏手では、若い男が二人拘束されていた。一人は作業着のまま、もう一人は上着の内側へ拳銃を差していたらしい。広場から捕まえた連中と一緒にしていないのは正しい。住民の目の前で全部を一束にすると、誰が何をしたのか曖昧になる。

 

 ターニャは拘束班の兵へ顔を向けた。

 

「武器所持は別室だ。便乗窃盗と混ぜるな。調書の欄も分けろ」

 

「了解しました」

 

 兵はすぐに方向を変え、拘束者の立たせる位置を入れ替えた。小さなことだ。だが、その小さなことが後で役に立つ。

 

 車列がさらに北へ進むにつれ、速度の怖さはもっと露骨になった。道路の脇で、補給車が置き去りになっている。故障ではない。運転手が道を見失ったのだ。路肩へ寄せたあと、案内を探しに行ったのだろう。荷台にはパン箱と缶詰、それに予備の靴が積まれていた。兵站そのものが迷子になっている。

 

 壊れた標識も増える。町名の板が半分だけ残り、矢印は反対を向く。誰かが意図して変えたのか、砲撃で飛んだのかは不明だ。どちらにせよ、その不明が歩兵を迷わせ、補給車を止める。

 

 前方の交差点で、親衛隊の治安要員が杭を打ち込んでいた。白布ではなく、板に墨で町名を書き、矢印を太く引いている。文字は荒いが大きい。読む相手は疲れた兵であり、泥だらけの運転手だ。美しい必要はない。見えれば足りる。

 

 EVAが後ろの車から降りてきた。煤も泥も付いていない。逆に不自然なくらい整っている。手には紙片が一枚。

 

「欠落。四件」

 

「何だ」

 

「補給車。案内札。受領印。通訳」

 

 足りない箇所が並ぶ。十分だった。

 

「案内札は追加しろ。受領印がない補給は止める。通訳は役場と拘束班で分ける。補給車はその後だ」

 

「更新する」

 

 EVAは踵を返し、また別の町の入口へ向かった。誰かと長く話さない。そのほうが余計な約束が増えない。

 

 午後の遅い時間、また別の小都市を抜けた。ここは鐘楼のある町だった。鐘は鳴っていない。代わりに、崩れたバリケードの板が風に鳴る。通りの中央に横倒しになったトラムの車体、その脇を歩かされる捕虜の列。商店のシャッターには弾痕が並び、窓辺に白布が三枚見えた。

 

 陥落の形は町ごとに違う。だが、落ちたあとの仕事は似てくる。橋を押さえ、夜間通行を止め、武器を回収し、煽動した連中を拾い、現地警察の名簿を繋ぐ。誰が英雄かを決める前に、誰が夜を越せるかを決める。

 

 セレブリャコーフが地図を広げ、車内の灯りへ寄せた。海峡までの地名が増え、道路の線が北西へ細く伸びている。

 

「先行部隊は、かなり前へ出ています。後方整理が追いついていませんが、地図上では包囲の形が見え始めています」

 

 ターニャはすぐには答えず、地図の上に指を置いた。町、運河、道路、海へ向かう線。まだ輪は閉じていない。だが、閉じる形にはなっている。海へ向かって追い詰められた英仏軍の形が、図の上で薄く見えかけている。

 

「見える、で止めろ。まだ確定にするな。前進報と捕虜数を合わせてからだ」

 

「承知いたしました。報告を待ちます」

 

 車の窓から外を見ると、道端に英軍のものらしい車両が焼けていた。塗装が剥げ、タイヤが潰れ、荷台には毛布が半分だけ残っている。乗っていた人間はもういない。逃げたのか、捕まったのか、倒れたのかは分からない。だが、海へ向かう流れの中で捨てられたことだけは分かる。

 

 前線の先で何が起きているのかを、ここにいる全員が同じ精度で知っているわけではない。知っているのは、速すぎる進撃のあとには、必ず取り残されるものが増えるということだけだ。

 

 ターニャは地図を閉じさせた。

 

「まだ輪は閉じていない。だが、閉じる前提で受け口を増やせ。捕虜、武器、夜間通行、交通整理。この四つを別々に回せ」

 

「承知いたしました」

 

 車列はそのまま北へ進む。町が落ちる。列が伸びる。道に置かれた荷が増える。海岸へ向かう形が、まだ言葉になる前の地図の上で、ゆっくりと整い始めていた。

 

 

 

 海へ向かう線は、紙の上では美しく見えた。

 

 だが、現実の道路はそうではない。泥に沈んだ轍、荷を落とした補給車、進路を見失った歩兵、壊れた橋の手前で詰まる捕虜列。前へ伸びる矢印は一本で済んでも、そこへ流れ込む人間と車は一本では済まない。

 

 その日も、北へ向かう主要道の交差点には、陸軍の装甲車、補給車、野戦炊事車、捕虜移送用の荷台車が入り乱れていた。進んでいるのに、どこかで引っかかる。止まっているのに、後ろはまだ押してくる。海峡へ向かって包囲の輪が狭まるほど、後ろの喉は細くなる。

 

 ターニャは、臨時の交通整理所として徴用した石造りの宿屋の二階から窓の外を見ていた。窓枠は残っているが、硝子は半分しかない。風が入り、紙の端が持ち上がる。通りには陸軍の憲兵が二人、親衛隊の兵が四人、役場から引っ張ってきた書記が一人。少ない。だが、少ないと言っても人数は増えない。ならば線の引き方を変えるしかない。

 

 階下で、電話が鈍く鳴った。一本ではない。二本続けて鳴る。嫌な鳴り方だった。良い報告は、たいてい一度で終わる。二度続くのは、誰かが同じ内容を別経路で押し込もうとしている時だ。

 

 セレブリャコーフが受話器を取り、短く返答し、内容を紙へ落とす。顔色は変えない。だが、鉛筆の動きが少し早い。

 

「アラス方面です。反撃に出た部隊がいます。こちらの先行部隊が一部で押し返され、通信が乱れています」

 

「戦車か」

 

「はい。装甲車両を伴っています。地点の指定が重なっていて、正確な輪郭はまだ取れていません」

 

 ターニャは階下へ降りた。木の階段がきしむ。宿屋の床には泥が持ち込まれ、靴跡が何層にも重なっていた。地図台の上には海峡沿いの道路、町、運河、橋。そこへ新しい印が加わり始めている。赤い印ではない。黒い鉛筆で丸く囲まれた、まだ意味を決めきれない印だ。

 

 反撃の報は、勝っている時ほど効く。押している最中に横腹を殴られると、前へ出ていた分だけ後ろが揺れる。揺れは恐怖へ変わる。恐怖は噂を生む。噂は命令より速い。

 

 宿屋の外で、遠くの砲声が聞こえた。アラスはここから離れている。だが、音だけで距離を測る者は多い。遠い砲声でも、近くで聞いた気になる。砲声が近いと思えば、勝手に止まる車が出る。止まれば、そこから後ろが動けなくなる。

 

 別の電話が鳴った。今度は陸軍の連絡将校だ。受話器越しでも息が荒い。

 

「こちらは一部で車列が折り返しかけています! 前から戻ってくる車が出て、後ろとぶつかっています!」

 

 ターニャは受話器を受け取り、間を置かずに返した。

 

「折り返しを止めてください。戻る車は本線に乗せず、脇道へ逃がしてください。交差点ごとに誘導員を一人置き、戻り車両と前進車両を分けてください」

 

「人が足りません!」

 

「足りないなら、捕虜移送班の予備を一時的に回してください。捕虜は待たせても構いません。前進路が詰まるほうが被害が大きいです」

 

「分かりました!」

 

 受話器を置いた瞬間、別の兵が駆け込んできた。黒服の兵ではない。陸軍の若い伝令だった。帽子を脇へ抱え、目を剥いている。

 

「道路北側で戦車が燃えています! こちらの車両です! それを見て、後ろの歩兵が勝手に畑へ散りました!」

 

「どの部隊だ」

 

「確認中です!」

 

「確認中では遅い。畑へ散った歩兵を道路へ戻せ。銃を持ったまま横へ広がると、住民も混ざる。混ざったら見分けが面倒になる」

 

「了解しました!」

 

 伝令は敬礼も途中のまま飛び出していった。

 

 ターニャは地図台の横で、新しい控えを開いた。今必要なのは、穴を塞ぐ補助線だった。前が揺れた時、崩れるのは前そのものではない。交差点、捕虜列、負傷兵の搬送、補給の順番。そこへ補助線を一本ずつ足す。

 

「少尉、予備拘束班を出せ。捕虜の本移送は止めるな。ただし本線から外す。広場と学校と倉庫、三か所に分けて待たせろ。列を道路へ出すな」

 

「承知いたしました」

 

「交通遮断も追加する。橋の手前、運河沿い、町の西口。ここへ親衛隊を立てろ。戻ってくる車両は一度全部止める」

 

「承知いたしました。停止後の確認項目は」

 

「部隊、目的、損傷の有無。その三つで足りる。長く聞くな」

 

「承知いたしました」

 

「捕虜移送は、補給から完全に離せ。今から混ぜるな。燃料車の後ろに捕虜車を並べるな」

 

「承知いたしました」

 

 セレブリャコーフは言い終わる前から書いている。控えの字が少し潰れる。急いでいる証拠だ。だが、読める範囲で収まっている。

 

 EVAが、いつものように音もなく部屋の隅へ現れた。手には折り畳まれた紙片が二枚。

 

「揺れ。三点」

 

「どこだ」

 

「道路。通信。捕虜」

 

「通信は」

 

「重複。遅延」

 

 十分だった。通信が重複し、遅れ、同じ報告が別の形で来ている。つまり、今は誰も全体を見ていない。

 

「重複報告は別束にしろ。最初の到着時刻だけ残して、後は参照へ回せ。捕虜の揺れは」

 

「列が長い。町に残る」

 

「では町ごとに受領先を切れ。まとめるな」

 

「了解」

 

 EVAはそれだけ言い、今度は窓の外へ立ち位置を変えた。交差点と宿屋の入口が両方見える位置だった。

 

 アラスの反撃は、ここでは景色として見えない。だが、その影は次々と届いた。損傷した装甲車が泥を引きずって戻る。履帯の一部が外れ、片側が沈み込み、砲塔の脇を煤で黒くしている。後ろの車列がそれを避けて道を外れる。外れた先の畑には、折れた菜の列と踏まれた泥だけが残る。

 

 しばらくして、さらに悪いものが来た。炎上した戦車の車体が牽引されて通ったのだ。砲塔の周りが焼け、鋼板が青黒く変色している。焼けた油の匂いが風に乗って広がる。それを見た歩兵の顔から、さっきまでの勢いが抜けた。勝っているはずなのに、燃える味方の戦車は分かりやすく怖い。

 

 宿屋の前で、憲兵が二人、勝手に後退しようとした荷車を止めていた。荷車には負傷兵が三人、毛布を被せられて積まれている。御者は顔面蒼白だった。

 

「前は危ない! 戻らないと死ぬ!」

 

 彼はフランス語でわめいているらしく、憲兵には半分も通じていない。通じないまま押し問答になるのが最悪だ。

 

 ターニャは通訳を呼び、階下へ出た。

 

「戻すな。負傷兵は南側の教会へ入れろ。そこを一時搬送先にする。馬車は町の東口から抜けさせろ。本線に戻すな」

 

 通訳が追いかけるように訳す。御者はなおも首を振ったが、教会の位置を示されると、ようやく荷車の向きを変えた。こういう時、人は安全より分かる方向へ動く。分かる方向を示せば、従うこともある。

 

 その直後、別の報告が入る。今度は捕虜列だ。道路の脇へ待機させていた英仏兵の一団が、砲声を聞いてざわつき、列が崩れかけたという。

 

「だから混ぜるなと言った」

 

 ターニャは低く吐き、地図の横へ新しい札を置いた。

 

「予備拘束班をもう一隊出せ。捕虜列の前後に一つずつ置け。銃口を向け続ける必要はない。見える位置に立たせろ。列が目で締まる」

 

「承知いたしました」

 

 セレブリャコーフが控えを差し出す。

 

「学校と倉庫の間に空き地があります。そこへ捕虜車を一時的に寄せられます」

 

「寄せろ。ただし歩兵とは分けろ。歩兵の休止列と混ぜるな」

 

「承知いたしました」

 

 窓の外では、親衛隊の兵がすでに動いていた。四人一組で交差点へ出て、道路の左右に立ち、戻り車両を一度全部止める。無言で腕を上げる。止まる。次に短く指を振る。脇道へ逃がす。動きに淀みがない。迷いのなさだけが目に付く。格好よく見えるのは、そのせいだ。衣装のせいではない。

 

 午後遅く、ようやく通信の混乱が少し落ち着いたころ、陸軍の車が一台、宿屋の前へ滑り込んだ。泥を跳ね上げ、扉が勢いよく開く。降りてきたのは、見慣れた顔だった。レルゲン中佐である。

 

 彼は帽子のつばを軽く払い、宿屋へ入るなり言った。

 

「貴様のところはまだ回っているようだな。こちらは数字が悪い。燃料が前へ届く前に道路で食われている。戻り車両も増えた。このままだと、押している先頭より後ろが先に息切れする」

 

 ターニャは机を挟んで向き直る。ここでは敬語だ。余計な熱もいらない。

 

「ご指摘の通りです。ですので、補給の責任者を一点に寄せました。待機地は伐採地からさらに二か所追加しています。代替ルートは東側の農道を小型車両専用に切ります。時刻は二十一時までに運用開始します」

 

 レルゲンはすぐに紙をめくった。

 

「農道は幅が足りん。燃料車は無理だ」

 

「燃料車は本線で維持します。農道へ回すのは伝令、通訳、書記、それに軽傷者の搬送だけです。本線の喉を少しでも空けたい」

 

「捕虜はどうする」

 

「移送を分離しました。町ごとの学校、倉庫、教会へ一時的に切っています。軍用補給の列と交差させません。受領先も別にしています」

 

「誰が責任を持つ」

 

「町ごとに親衛隊の担当名を入れます。そちらには名簿の控えを回します」

 

 レルゲンは一瞬だけ黙り、視線を上げた。

 

「では、農道の入口を誰が押さえる」

 

「親衛隊が押さえます。違反車両は脇へ外し、許可証確認後に戻します。今夜中に板札も増やします」

 

「分かった。そこで止めろ。議論している暇はない」

 

「承知しました。二十一時までに運用を始めます」

 

 それで会話は終わった。互いに相手の性格は分かっている。数字で刺してきたら、こちらは担当と時刻で返す。それ以上は長引かせない。

 

 レルゲンは去り際に窓の外を見て、燃えた装甲車の残骸を一瞥した。

 

「勝っている時のほうが、数字は荒れる」

 

「はい。今は特にです」

 

「だろうな」

 

 それだけ言って、彼はまた泥の中へ戻っていった。

 

 日が傾き始めると、交差点の影が長くなる。ターニャは地図台から目を離さず、宿屋の前を歩いた。通りの先、橋、東口の教会、西口の倉庫。頭の中で線を引き直しながら進む。靴の先は石畳ではなく、崩れた段差へ向かっていた。

 

 危うく踏み外す前に、横から腕が支えられた。護衛の一人だ。無言だった。驚くほど自然に、体勢だけを戻す。音も立てない。

 

 ターニャは顔色一つ変えず、前を向いたまま言った。

 

「見なかったことにしろ」

 

 護衛は何も言わない。そのまま一歩下がった。

 

 セレブリャコーフだけが、控えを抱えたまま小さく答えた。

 

「はい」

 

 それで終わった。誰も笑わない。笑っている暇はないし、笑うほどの出来事でもない。だが、護衛が支えなければ、段差で転んでいた。それは事実だ。

 

 EVAが少し離れた位置に立っていたが、何も言わなかった。帳面に視線を落としている。たぶん書いた。だが、口にはしない。

 

 夕暮れの色が濃くなるころ、地図台の上の形がようやく整い始めた。海峡へ逃げる線、そこへ押し寄せる包囲の線、途中で揺れたアラスの脇。それでも穴は開かなかった。危うく緩みかけた箇所へ、補助線を入れたからだ。交通遮断、予備拘束班、捕虜移送の分離、農道への分流。どれも派手ではない。だが、一つでも欠けていたら、後ろから崩れていた。

 

 ターニャは最後の控えへ目を通した。道路の整理、捕虜数、受領先、夜間通行の札。海岸へ追い込まれつつある英仏軍の形は、もう図として読める。まだ閉じ切ってはいない。だが、海へ押し付けられているのは見える。

 

 外では、夜間の通行札を打つ音が始まっていた。木槌が板を叩く。単純な音だ。その単純な音が、明日の混乱を少しだけ減らす。今はそれで足りた。

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。