幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

88 / 107
第6節 二十八日の二つの報

 

 海が近いと、砲声の鳴り方が変わる。

 

 ダンケルク周縁へ入った初日の夕方、ターニャはそれを耳で知った。陸の奥で聞く砲声は、地面を伝って腹へ落ちる。だが、海辺では音が横へ逃げる。湿った風に押され、砂の上を滑り、煙の向こうで鈍く砕ける。聞こえ方が違うだけで、着弾の厄介さは変わらない。むしろ、海があるせいで逃げ道の形が見えすぎる分だけ、始末が悪かった。

 

 潮の匂いがする。だが、港町の気持ちのよい匂いではない。濡れた砂、燃えた油、火薬、潮で湿った布、そこへ人の汗が混ざる。鼻に残るのは、海そのものより、海へ押し寄せた軍隊の痕だ。

 

 ダンケルクへ向かう道には、敗残の形が散っていた。捨てられた背嚢、ひっくり返った野砲の車輪、泥と砂を被った弾薬箱、途中で折れた担架。英軍のもの、仏軍のもの、判別できないもの。その全部が海岸の方角を向いている。後ろへ下がる列は一本ではない。歩兵の列、車列、担架の列、補給の残りが混じった列。あれだけ押し込んでいるのに、なお流れが止まらない。

 

 車列は、海を見下ろせる低い丘の手前で止められていた。そこから先へ出すには、今のターニャの持つ権限では足りない。砲兵を直接動かす権限も、空軍へ優先を強制する権限もない。だが、後ろの道をどう整理するか、誰をどこで止めるか、どの窓口へ優先の札を差し込むか、その程度ならいくらでも手がある。

 

 ターニャは車を降りると、靴底で砂の感触を確かめた。砂は乾ききっていない。前日までの雨と、潮気と、踏み荒らされた轍のせいで、靴が深く沈む場所と固い場所が交互に来る。歩きづらい。車輪にはもっと悪い。

 

 丘の上の観測所では、陸軍の将校たちが地図の上に身を寄せていた。海岸線、運河、町、道路、砲兵位置。そこへ細い鉛筆で新しい線が足されるたび、海に残された逃げ道が細っていく。だが、細るだけで消えない。海岸へ押し付けられた敵は袋の底に溜まっているはずなのに、底が抜けない。抜けないから、撤収の可能性が消えない。

 

 セレブリャコーフが、潮風でめくれそうになる控えを押さえながら言った。

 

「敵の海岸集結、続いています。砲撃と空襲は入っていますが、海へ向かう流れがまだ切れていません。後背道路の封鎖は不十分です」

 

「不十分なら、こっちで絞る。海へ入る道を全部止める必要はない。絞ればいい。通せる道と、潰す道を分けろ」

 

「承知いたしました。地図上では、三本が特に問題です。東側の運河沿い、西から入る舗装路、それと砂丘の裏を抜ける荷車道です」

 

「荷車道は夜に効く。昼のうちに杭を打て。通行札のない車はそこで返せ」

 

「承知いたしました」

 

 観測所の外では、海の方角から黒煙が斜めに上がっていた。海辺の町は平坦だ。高い建物が少ない。だから煙がよく見える。煙の下では、砲弾が落ち、建物が崩れ、砂が舞い、人が海へ向かっている。双眼鏡で見れば、荷車の列が砂丘の切れ目を抜けるのも見えるし、浜辺の近くで身を伏せる歩兵の群れも見える。

 

 だが、見えているのに終わらない。

 

 ターニャは双眼鏡を下ろし、陸軍の交通将校へ向き直った。

 

「結論から申し上げます。海岸へ入る三本の道は、用途ごとに分けてください。負傷兵の搬送、捕虜移送、補給、この三つを同じ道に乗せないでください」

 

 交通将校は疲れ切った顔で頷いたが、すぐに渋い声を返した。

 

「負傷兵は止められません。捕虜も増えています。補給まで分けろと言われると、人も札も足りない」

 

「足りないなら、札より先に道を減らしてください。三本を三本のまま使うから交差します。二本潰して一本を海岸向け、一本を逆流専用にするだけでも違います」

 

「逆流専用、ですか」

 

「海から戻る車を止めないためです。戻り車が前進路へ突っ込むと、全部が止まります」

 

 交通将校は地図を見下ろし、指で砂丘の裏道をなぞった。

 

「では、ここを戻り用に回します。ただ、道幅が足りない。大型は入れない」

 

「大型は入れなくていい。小型車と担架車だけ通せば十分です。大型は手前で止めて、荷だけ移せ」

 

「それを誰がやる」

 

「こちらで治安要員を一部回します。条件があります。海岸へ入れる車両は許可証の色を変えてください。現場で見て分かるように」

 

「色分け用の紙が――」

 

「白布で足ります。数字より色を優先してください」

 

「分かりました」

 

 長い議論をしている暇はない。やることを決め、札を作り、杭を打つ。ダンケルク周縁で必要なのはその程度のことだ。だが、その程度が欠けると、一晩で数千人が抜ける。

 

 ターニャは観測所を出て、丘を下りた。砂に足を取られる。海風が強く、帽子のつばに細かい粒が当たる。護衛が少し後ろを保ち、前を歩く親衛隊の兵がすでに木杭を肩へ担いでいた。黒服が砂丘の上を動くと妙に目立つ。だが、海辺の明るい砂には、その目立ち方がちょうどいい。遠くからでも線が分かる。

 

 海岸へ向かう道路の一つでは、仏軍の捕虜がすでに長い列になっていた。若い兵も、髭を生やした予備役らしい男もいる。足元は砂で歩きにくく、列の速度が落ちる。そこへ負傷兵の担架が割り込むと、途端に止まる。止まった列の脇を、補給車が無理に抜けようとしてさらに詰まる。

 

 ターニャは列の先頭へ行き、拘束班の親衛隊下士官に声をかけた。

 

「列を二つに割れ。歩ける者は左、負傷者は右だ。担架はその後ろに入れるな」

 

「了解しました。ただ、歩ける捕虜が想定より多く、左側が伸びています」

 

「伸びてもいい。海岸への道を塞がない位置で曲げろ。曲げた先へ番号札を立てて、部隊ごとに塊を作れ」

 

「了解しました」

 

 下士官はすぐに部下へ合図し、列の頭を横へ振った。親衛隊の兵が四人、二列の間へ入り、銃口の高さを揃えたまま歩く。誰も怒鳴らない。だが、列は動き直す。あの手際のよさは、いかにも親衛隊らしく見える。だが、格好がいいのではない。処理が速いだけだ。

 

 その少し先では、海岸から戻ってきた小型車が、砂に片輪を取られていた。運転手は英軍の銃撃を恐れているのか、何度も後ろを見ている。彼の後ろには軍医らしい腕章の兵が立ち、担架を押さえながら何かを叫んでいた。現場の言葉は乱れている。聞き取る必要はない。必要なのは、どちらを通すかだ。

 

「医療車を先に通せ。戻り用の道へ押し込め。燃料車は止めろ」

 

 ターニャがそう言うと、そばにいた憲兵が慌てて敬礼し、運転手を怒鳴りつけた。車が向きを変える。その間に、後ろの荷車が少し進む。海辺の整理は、英雄的な決断ではなく、こういう入れ替えの積み重ねだった。

 

 午後の遅い時間、また別の報せが入った。ベルギーの降伏が現実になったのだ。

 

 その報は、演説でも歓声でも来なかった。最初に来たのは捕虜の列だった。道路の奥から、新しい塊がいくつも現れる。ベルギー軍の兵たちが武装解除され、隊ごとにまとめられ、町から町へと押し出されてくる。列が増える。検問が増える。橋の手前で止める人数が倍になる。つまり、処理が増える。

 

 セレブリャコーフが新しい報告束を抱えて駆けてきた。靴に砂と泥が半分ずつ付いている。

 

「ベルギー側、受諾が広がっています。捕虜列が急増しました。検問が足りません。現地警察の扱いも一気に増えています」

 

「捕虜移送の道を一本増やせ。海岸へ向かう道と絶対に交差させるな。検問は数を増やすより位置を変えろ。橋と分岐を押さえろ」

 

「承知いたしました。現地警察は」

 

「制服のまま集めろ。武装解除、名簿、所属確認。この順だ。便乗者と混ぜるな」

 

「承知いたしました」

 

 ベルギー降伏の報が入った瞬間、広場という広場に人が溢れた。武器を置く場所、名簿を取る場所、拘束して一時的に待たせる場所。その全部が足りなくなる。親衛隊の役目はここでも同じだ。前を掃くことではない。線を引くことだ。

 

 ダンケルクへ向かう本線から少し外れた村では、教会前の広場が急ごしらえの仕分け場に変わった。ベルギー軍捕虜、仏軍捕虜、現地警察、住民の通行。広場の四辺に札が立ち、中央には親衛隊の兵が立つ。憲兵が足りない分、黒服が目立つ位置へ入る。

 

 ターニャは役場の机をそのまま借り上げ、そこで順番を決めた。

 

「町の入口は二か所閉じる。南門は捕虜だけ、西門は住民だけだ。軍用車は東の農道を使わせろ」

 

 親衛隊の少尉が即答する。

 

「農道は細いですが、二輪と小型車なら通せます」

 

「それでいい。大型は村へ入れるな。村の中で向きを変えると半日消える」

 

「了解しました」

 

「反乱分子の検挙は」

 

「今のところ二件です。武器隠匿と、捕虜列への煽動です」

 

「列から抜けた瞬間に分けろ。同じ建物へ入れるな。煽動は口が武器だ。盗難と混ぜるな」

 

「了解しました」

 

 ベルギーの兵たちは、仏軍より整った形で出てくる者も多かった。まだ部隊の形を残している。だからこそ処理はしやすい。しやすいが、数が多い。多いだけで広場は埋まる。

 

 村の井戸端に、住民の女たちが集まり、列を遠巻きに見ていた。泣く子どもはいない。むしろ大人のほうが固まっている。沈黙は安堵ではない。何が起きるかを見ているだけだ。

 

 EVAが、広場の端へ音もなく現れた。手には新しい紙片がある。

 

「増加。二倍」

 

「何がだ」

 

「捕虜。検問。未処理」

 

「検問を増やすな。入口を絞れ。未処理は町ごとに切れ」

 

「更新する」

 

 彼女はそれだけ告げて、今度は広場の向こう、武器回収所のほうへ消えた。

 

 夕方近く、ターニャは再びダンケルク周縁の観測所へ戻った。海岸線の地図には、敵が海へ押し寄せる形がさらに濃くなっている。だが、まだ閉じきらない。海は残っている。道路は絞れてきたが、海岸に達する前の流れを全部断てたわけではない。

 

 海辺からは断続的に砲声が届く。砲兵は撃っている。空軍も入っている。けれど、終わるはずの袋がまだ動いている。終わりそうで終わらない。その感じが、潮の匂いより不快だった。

 

 ターニャは地図台の端を指で叩き、海岸へ入る最後の三本を見つめた。ここで海へ寄る道路を、後ろの交通整理でさらに絞れるか。空軍と砲兵へ、どこまで優先の要望を押し込めるか。自分の権限では命令にならない。だが、要望の文書を、交通整理の結果を添えて出すことはできる。現場が今どうなっているかを、書類の形で押し込めば、相手は無視しにくい。

 

「少尉、砲兵と空軍に上げる要望文を作れ。海岸へ入る三本の道、こことここ、それと砂丘裏だ。優先順位を付ける。理由は交通整理の結果を添えろ。感想はいらない」

 

「承知いたしました。『敵集結の分断』『海岸接近路の遮断』『戻り車両の整理確保』の三点でまとめます」

 

「そうだ。あと、夜間通行札の更新も同時に出せ。海岸へ向かう車両は、今夜から白布ではなく板札に変える。風で飛ぶ」

 

「承知いたしました」

 

 セレブリャコーフが書き始める。海辺は風が強い。布札が役に立たないなら板へ替える。それだけの話だ。だが、その一枚が無ければ、海へ向かう車がまた一本増える。

 

 観測所の外、護衛の黒服が杭を削っていた。無駄口はない。海から来る湿った風の中で、木片だけが散る。処理に追われる兵ほど、手を止めると余計なことを考える。だから止めない。

 

 その時だった。

 

 北方からの電文が、まだ机へ届いていないのに、伝令の顔がそれを先に伝えていた。重い報せを持ってくる顔だ。嬉しさも慌てもしない。ただ、嫌なものを口にしなければならない顔だった。

 

 伝令は封筒を差し出しながら、視線だけで机の上の二枚の地図を見た。西の海岸線と、端に寄せてある北方の地図。その両方へ。

 

 ターニャはまだ封を切らない。だが、次に何が来るかは分かった。二十八日の報は、一つでは終わらない。

 

 

 

 封を切った瞬間、潮の匂いが一段不快になった気がした。

 

 北方からの報は短い。短いが、余計に悪い。ナルヴィク、一時奪還。現地の連合軍、港湾地帯を押さえる。周辺の整理は継続中。要旨だけを抜けば、それで終わる。だが、その短さの裏に積まれているものは、短くない。港、鉱石、北への船、治安、撤退し損ねた残党、動揺した現地協力者、そして必ず増える照会と責任の押し付け合い。全部が一緒に来る。

 

 ターニャは封書を閉じず、北方の地図を机の端へ引き寄せた。西の海岸線と北方の港が、同じ机の上に並ぶ。二十八日という日付だけが共通で、中身は最悪な組み合わせだった。

 

 セレブリャコーフが、ターニャの手元へ視線を落とした。

 

「北方ですか」

 

「ナルヴィクを一時的に取り返された。終わった話ではない」

 

「現地の治安線が薄くなります」

 

「薄くなる、では済まない。港の内側だけ押さえても意味がない。倉庫、桟橋、鉄道の積み出し、それと記録班の控えを守らないと、後で何も残らない」

 

「承知いたしました。北方宛てに追加の指示を切ります」

 

 ダンケルクの砲声は止まっていない。海岸へ向かう敵もまだ動いている。その最中に、北方の港が刺さってくる。戦局の地図は広い。だが、処理する机は一つしかない。

 

 ターニャは北方の地図へ指を置いた。ナルヴィクの港、その周辺、鉄道、鉱石の流れ。ドクトルが口うるさく言っていた資源の欄が頭に浮かぶ。重水まで今ここで持ち出す必要はない。けれど、北方がぐらつけば、後で面倒になるものが多すぎる。

 

「少尉、北方宛ての文面を作れ。港湾警備の重点を三つに絞る。埠頭、倉庫、鉄道積み込み口だ。現地警察と協力者名簿は別束で保全。焼ける前に写しを取らせろ」

 

「承知いたしました。治安要員の再配置も付けますか」

 

「付けろ。ただし増援要求の形にするな。今それを出すと、西の連中が噛みつく。現有戦力の再配分、で通せ」

 

「承知いたしました」

 

「あと、鉱石の積み出し記録を止めるな。数字が切れると、後から全部が曖昧になる」

 

「承知いたしました。港湾台帳の保全も追記します」

 

 EVAが机の反対側へ立った。彼女は北方の報を一度見ただけで、別の紙片を置いた。

 

「北。港。記録」

 

「分かっている」

 

「消える前に」

 

「写しを取らせる」

 

「以上」

 

 EVAはそれだけ残して、今度は西の海岸線側へ歩いた。二つの戦域を、彼女は言葉ではなく立ち位置で分ける。

 

 ターニャは机の上の北方地図を畳みかけた。今ここで北へ飛べるわけではない。飛べない以上、守るべきものを文書で先に決めるしかない。誰が港を押さえ、誰が倉庫を押さえ、誰が記録を持つか。その欄を空けたままにすれば、現地の混乱がそのまま結果になる。

 

(北もまだ終わっていない。西も終わらせるな)

 

 内心はそれだけだった。感情の整理に使う時間はない。目の前の海岸線は、今も逃げる余地を残している。

 

 ダンケルク周縁へ視線を戻す。海岸へ寄る道路は、夕方の光の中で細く白く見えた。そこへ荷車、徒歩、軍用車両、担架、全部が吸われていく。海そのものを塞ぐ権限はない。艦砲をどうこうできる立場でもない。だが、陸から海へ寄る脚を折ることはできる。全部は無理でも、何本かは潰せる。

 

 ターニャは海岸線の地図へ鉛筆で三本の線を引いた。

 

「少尉、道路封鎖の追加案だ。海岸へ入る道をさらに二本閉じる。東の運河沿いと、教会裏から抜ける農道だ。残すのは中央の一系統だけにする」

 

 セレブリャコーフがすぐに聞き返す。

 

「中央へ集中します。詰まりませんか」

 

「詰まる。だが、広く散らばるより絞ったほうが撃ちやすい。整理もしやすい」

 

「承知いたしました。封鎖用の資材は」

 

「杭、荷車、焼けた車体、何でも使え。見て分かる障害物にしろ。夜に兵が迷わない形で置け」

 

「承知いたしました」

 

 丘の下では、親衛隊の兵がもう動き始めている。板札を抱え、木杭を担ぎ、道の分岐へ走る。海岸へ向かう者を脅すのではない。行ける道と行けない道を、目で分からせる。夜になれば、判断の遅れがそのまま列の停止へ変わる。

 

 次に必要なのは、砲兵と空軍だった。自分に直接動かす権限はない。だが、交通整理の結果と地図を添えた優先要望なら押し込める。海岸線の遮断がどの道へ効くか、船へ寄る前の集結地をどこで叩くべきか、その材料を渡せば、無視しにくくなる。

 

 ターニャは観測所の外にいた陸軍の砲兵連絡将校を呼んだ。相手は大尉。顔は日に焼け、目だけが妙に冷静だった。

 

「砲兵への優先要望を出します。海岸線そのものではなく、その手前を叩いてください。ここ、ここ、それとこの運河橋です。敵を浜へ散らすより、集まる前を切ったほうが効きます」

 

 大尉は地図を覗き込み、すぐに顔を上げた。

 

「理屈は分かります。ただ、今は海岸の目標が多すぎる。浜の集結地、車列、積み込み地点、全部から要望が来ています」

 

「承知しています。ですので、こちらは理由を添えます。道路封鎖と合わせて撃てば、戻り車両と徒歩の列が海へ届く前に割れます。海岸に着いてからでは遅い」

 

 大尉は口元だけで苦い笑いを作った。

 

「遅い、ですか。そちらも急いでいるな」

 

「急がない理由がありません。撃つなら、道の喉元です」

 

「優先に回す努力はします。ただ、砲兵は足が遅い。位置替えに時間が要る」

 

「時刻をください。何時までに砲が向くか、それだけで構いません」

 

「早くて二十一時。遅ければ夜半を回ります」

 

「結構です。二十一時で文書を切ります」

 

 話はそれで終えた。砲兵の足が遅いことは、怒っても変わらない。

 

 次は空軍だ。連絡窓口を通じて優先要望を回すしかない。飛行場の都合も、天候も、戦隊の回し方も、こちらでは触れない。だが、海岸へ入る前の道路を示し、夜間に照明を落とさせ、必要なら逆に狙いを浮かせる。そのくらいの提案はできる。

 

 セレブリャコーフが要望文の下書きを差し出す。

 

「空軍向けです。『海岸接近路の分断』『夜間移動車列の発見補助』『集結地への断続攻撃』でまとめました」

 

「いい。断続にしろ。連続にすると現場が合わせられない」

 

「承知いたしました」

 

「夜間照明の件も書け。こちらは海岸へ向かう道の民間灯火を全部落とす。逆に、封鎖線の内側には必要最小限の照明を残す。撃つ側が困るほど暗くするな」

 

「承知いたしました。照明規制の札も更新します」

 

 夜間照明は細かいが効く。全部暗くすれば敵も味方も迷う。残す場所と消す場所を分ければ、道の形だけはこちらが握れる。海岸へ向かう車を闇へ放り込み、こちらの射線にかからない通路だけを灯す。それだけで違う。

 

 観測所の下では、護衛の黒服が灯火規制の板札を並べていた。白地に黒字で、消灯、軍用のみ、停車禁止。派手ではない。だが、板札は風で飛ばない。

 

 その時、海の方角で一段重い砲声が響いた。艦砲かもしれない。海辺の空気が揺れ、観測所の窓枠がかすかに鳴る。浜へ近い陸軍の将校が階段を駆け上がってきた。

 

「海岸線の一部で照明が勝手に焚かれています! 負傷兵を探すためだと現場は言っていますが、このままだと敵の集結地まで見えてしまう!」

 

 ターニャは即答した。

 

「照明は消させてください。負傷兵の捜索は後ろで受けます。海岸線そのものを明るくするな。探照灯も勝手に振るな」

 

 将校は苛立ちを隠さなかった。

 

「現場が納得しません。負傷兵を見捨てるのか、と」

 

「見捨てません。捜索班を分けます。海岸線の捜索は二人一組、三十分ごとに交代。持つ灯りは覆いを付けてください。ずっと焚きっぱなしにするな」

 

「そこまで細かく現場が守るかどうか――」

 

「守らせてください。守らないなら、次は船が寄ります」

 

 将校は一瞬だけ黙り、それから渋々頷いた。

 

「分かりました。捜索班を分けます」

 

 そう、ここが問題だった。海岸を締め上げるための指示は出せる。けれど、現場はその一つ一つに別の事情を抱えている。負傷兵を探したい。担架を通したい。照明がないと歩けない。命令系統も割れる。陸軍、空軍、港湾、治安、全部が自分の都合を持つ。その抵抗をゼロにはできない。

 

 EVAが、今度は少し速い足取りで戻ってきた。珍しいことだ。紙片を置く手もいつもより高い位置から落ちる。

 

「割れている」

 

「どこだ」

 

「照明。砲兵。港」

 

「港は何だ」

 

「船を想定。準備不足」

 

 ターニャは眉を寄せた。港といっても、ダンケルクの港そのものではない。周辺の小さな船着き場や、運河の接続部まで含めた話だろう。敵が大きな港だけを使うとは限らない。小舟でも人は運べる。

 

「少尉、海岸線だけ見るな。小さな船着き場も塞げ。岸壁への道路を閉じろ。舟を寄せる場所は砂浜だけじゃない」

 

「承知いたしました。港湾図を引き直します」

 

「地元の漁船も押さえろ。全部を沈める必要はない。夜間に出せないようにしておけ」

 

「承知いたしました。現地警察と港湾係を引っ張ります」

 

 その指示が出るころには、空はもう暗くなり始めていた。二十八日の報は二つ来た。ベルギー降伏で処理が膨らみ、ナルヴィク奪還で背中が冷える。その両方を抱えたまま、ダンケルクはまだ終わらない。

 

 海岸の方から、また重い音が来た。今度は続けて三発。砂がどこかで跳ねている。そこへ、戻ってきた連絡車が新しい混乱を運んできた。

 

 運転手は泥と砂を被り、息を切らしていた。

 

「中央道路の封鎖、完全にはできません! 陸軍の一部が『補給優先』で杭を抜かせています! 空軍の要望車も同じ道を使いたがって、現場が揉めています!」

 

 ターニャは舌打ちを飲み込み、地図へ視線を落とした。予想の範囲内ではある。だが、面倒だ。

 

「封鎖は完全にしなくていい。時間帯で切れ。今から二時間、中央道路は補給と砲兵だけだ。空軍の連絡車は東の農道へ逃がせ。杭を抜くな、札を変えろ」

 

 運転手は一瞬だけ理解できない顔をしたが、セレブリャコーフがすぐ補足した。

 

「中央道路は二十二時まで補給と砲兵のみ、です。空軍連絡車は東農道。封鎖資材はそのまま、札だけ差し替えます」

 

「はい、了解しました!」

 

 連絡車が飛び出していく。要するに、完全に止められないなら、誰を通すかだけを刻めばいい。全部をやろうとすると現場が壊れる。

 

 ターニャは机の端で、新しい要望文へ追加を書き込んだ。夜間照明の区分、道路封鎖の時間帯、港湾の小舟拘束、砲兵優先の区間。手が止まらない。止めれば、その間に誰かが別の判断をする。

 

(万能ではない。だから追い込む)

 

 頭に浮かぶのはその言葉だった。全部を自分の思い通りにできる立場ではない。ならば、命令系統の隙間へ文書を差し込み、優先を刻み、現場の抵抗を一つずつ削るしかない。

 

 海岸の闇は濃くなる。灯火規制の札が打たれ、親衛隊の兵が砂丘の切れ目に立ち、戻り車両を脇へ振る。陸軍の兵は怒鳴り、担架が通り、砲兵は遅れ、空軍への要望は飛び、北方では港が揺れている。

 

 その全部が同じ日の机に重なっていた。

 

 セレブリャコーフが、最後の板札案を差し出す。

 

「夜間用です。『海岸方面、許可車両のみ』『灯火禁止』『負傷兵搬送路』の三種です」

 

「いい。字をもっと太くしろ。月明かりで読む」

 

「承知いたしました」

 

 EVAは窓の外を見たまま、低く言った。

 

「北も、西も、終わっていない」

 

 ターニャは返事をしなかった。その通りだからだ。返事の代わりに、北方宛ての文書へ署名し、海岸線の優先要望へ時刻を入れた。

 

 二十八日は、勝っているのに楽にならない日だった。ベルギーが崩れ、ダンケルクの袋が締まり、ナルヴィクが刺し返してくる。地図は広がり、机は狭い。

 

 それでも、やることは変わらない。

 

 道を閉じる。灯りを分ける。港を押さえる。砲を寄せる。記録を残す。現場の抵抗を一つずつ潰し、追いつかない部分をせめて見える形にする。

 

 海へ逃げる道は、まだ残っていた。だからこそ、今夜の指示を増やす意味があった。

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。