海岸線の夜は、陸の夜とは別の生き物だった。
日が沈み切る前から、ダンケルクの浜は鈍く光っていた。砲撃で砕かれた建物の火、車両の残骸に残る火、そして海の向こうで揺れる小さな灯り。最初は漁火の見間違いかと思うほど頼りない。だが、一つ見えれば二つ、二つ見えればその奥にもまた灯りがある。船だ。大きな船だけではない。驚くほど小さな舟まで混じっている。
潮が引いている時間には、浜が長く露出する。兵たちはその暗い砂地へ列を作り、沖の灯りを見ながら立ち尽くす。列は崩れない。崩れないが、進みも遅い。水際まで歩き、止まり、また少し進む。担架が混ざるとさらに遅くなる。そこへ煙幕が張られると、浜と海の境目が消える。見えるのは、白い煙の向こうでときどき明滅する灯りだけだった。
空軍は上から叩いている。昼のうちは特にそうだ。爆弾が落ち、機銃が砂を撫で、海岸線に黒い穴が増える。だが、決定打にならない。天気が崩れ、低い雲が垂れ、煙幕が風に伸びる。視界が切れ、目標が散り、混雑そのものが照準を狂わせる。人が多すぎるのだ。車両、砲、荷、担架、兵、全部が重なっている。上から見れば一つの塊に見える場所でも、地上ではばらばらに動く。
ターニャは、海岸そのものではなく、その手前の集結地を見ていた。浜に着いた連中を全部沈める権限も手段もない。ならば、そこへ届く前の道を切るしかない。
観測所は、前節の丘よりさらに低い、砂丘の切れ目に置かれていた。見晴らしは良くない。だが、海岸へ降りる道路が二本、運河の橋が一つ、町から浜へ出る裏道が三つ見える。それで足りる。見えるものを整理するほうが、見えない沖を眺めるより役に立つ。
風が強い。板札が鳴り、杭に結び付けた布が千切れかける。親衛隊の兵が、昼のうちに打った札をまた打ち直していた。白布の印は夜に見えにくい。板へ替えたのは正解だった。板札の黒い文字は、月が出なくても輪郭だけは分かる。
セレブリャコーフが観測所の狭い机へ地図を広げる。紙の端に砂が溜まり、指で払ってもまた乗る。
「今夜も小舟が増えています。大型船だけではありません。海岸線の沖合に散って、浅瀬まで小型船が寄っています」
「分かっている。海岸線に着く前を削る。浜そのものへこだわるな」
「はい。こちらの指示は、どの部隊へ回しますか」
ターニャは即答した。
「陸軍の交通整理、親衛隊の封鎖班、現地警察の夜間通行係だ。空軍には別紙で優先要望を回せ。砲兵は橋と分岐を優先にして、海岸への直接射撃は後回しだ」
「承知いたしました。交通整理は既存の系統へ追記、封鎖班は二隊追加、夜間通行係は役場経由で回します」
返答が早い。だから助かる。ここで説明を増やす気はなかった。
観測所の下では、海岸から戻ってきた荷車が道を塞ぎかけていた。片輪が深い砂へ落ちている。載っているのは負傷兵ではなく、弾薬箱と毛布、それに空になった水缶だった。戻るつもりで持ち出したのか、あるいは浜まで持って行って不要になったのか、理由はどうでもいい。今は邪魔だ。
護衛の下士官がそれを見て、荷車の持ち主らしい男へ短く命じる。男は首を振り、海の方を指差し、何かをまくし立てた。通訳が追い付き、ようやく話が通る。浜へ水を運ぶ途中だったらしい。だが、今そこへこの荷車を通しても、途中でまた止まる。止まれば道を塞ぐ。
「水缶だけ下ろして人に持たせろ。荷車はここで止める」
ターニャがそう言うと、通訳が慌てて伝える。男は納得していない顔だったが、後ろに並ぶ車列を見て諦めた。荷車から水缶が降ろされ、兵が二本ずつ担いで浜へ走る。荷車そのものは脇へ寄せられ、道が開いた。
小さな判断だ。だが、その小さな判断を延々と繰り返しているうちに、夜が進む。
海の方から、また音が来た。砲声ではない。汽笛でもない。木の船体が波を叩くような、乾いた、奇妙に軽い音。小舟が増えている。大きな港だけでなく、浜からでも人を吸い上げるつもりなのだ。
ターニャは双眼鏡を上げた。煙幕の向こうに灯りが点々とある。灯りは止まらず、左右へずれていく。寄ってきているのではない。浜へ付ける位置を探している。陸から見ると海は広い。だが、あの灯りの数は広さを嘘にする。逃げる道が海しか残っていないと分かった軍隊は、そこへ人も船も押し込む。
陸軍の砲兵連絡将校が坂を駆け上がってきた。顔が煤で黒い。声は風に飛ばされそうになりながらも、要点だけは崩さない。
「砲兵は橋と分岐を叩いていますが、海岸への流れが止まりません。歩兵が砂丘裏の農道へ散っています。しかも煙幕で狙いが安定しない」
「農道の入口を潰してください。車は通さず、歩兵は左へ折らせる。砲をそちらへ回せますか」
「一門なら動かせます。ただ、海岸正面の要求がまた増えています」
「一門で結構です。海岸を全部叩く必要はありません。人が流れる道を一つでも削れれば違う」
「分かりました。では、農道へ一門振ります」
将校が去ると、セレブリャコーフがすぐに次を確認する。
「こちらの指示は、砲兵連絡と交通整理へ同時に回しますか」
「同時だ。時間をずらすな。交通整理が先でも砲が来ない。砲が先でも道が空かない。今は一緒に動かせ」
「承知いたしました」
言葉が短くなる。自分でも分かる。長く話している余裕がない。報告を聞く時間も、選択肢を広げる時間も惜しい。必要なのは、今の海へ何本の道が通っているか、その数だけだ。
観測所の机には、差し戻しの束が増えていた。ターニャが戻した文書だ。表現が曖昧なもの、受領者名のないもの、時間が抜けたもの。前日までなら、少し雑でも通したかもしれない。だが、今は通せない。曖昧なまま現場へ出すと、必ず「誰が」「いつまで」「どこまで」で揉める。揉めている時間のあいだに、夜の海は人を運ぶ。
セレブリャコーフがまた一枚、文書を差し出した。
「海岸正面の照明規制です。現地の軍医班が、負傷兵の捜索で例外を求めています」
「差し戻せ。例外は班単位ではなく時間帯で切る。二十分、十分休止、また二十分。その形にしろ」
「承知いたしました」
「覆いのない灯りは認めるな。探照灯も勝手に振らせるな」
「承知いたしました」
彼女はすぐに書き直しの欄を作る。差し戻しが増える。だが、増やすしかない。今は一度の雑さが、そのまま海岸の灯りになる。
EVAが、板壁の陰から紙片を置いた。
「増加。灯り。抜け道」
「どこだ」
「砂丘裏。運河沿い。町の裏手」
全部、予想していた場所だった。
「抜け道の入口に兵を立てろ。人数が足りないなら、札だけでも先に置け。見えれば少しは減る」
「更新済み」
「運河沿いは」
「戻り車と混在」
「そこを切る。戻り専用にしろ」
「伝える」
EVAはそのまま階段を下りていった。仕事が速いというより、躊躇がない。要る場所にだけ紙を刺す。その点では、今のターニャより感情が少ない。
海岸線に近い町の裏手では、親衛隊の封鎖班がすでに荷車と倒木を組み、抜け道を塞いでいた。完全な壁ではない。人が這って抜ける余地はある。だが、担架車も荷車も通れない。それで十分だ。歩兵だけなら、浜へ辿り着いても時間がかかる。
その作業の最中、別の問題が起きた。海岸から戻ってきた仏軍捕虜の一部が、砲声に驚いて列を崩しかけたのだ。彼らは逃げたいのではない。ただ、どちらが安全か分からなくなって動いた。だが、列が崩れれば同じだ。
ターニャはすぐに拘束班の少尉を呼んだ。
「列の頭を止めろ。真ん中を締めるな。先頭と最後尾に兵を増やせ。真ん中へ入れると余計に揺れる」
「承知しました。前後を締めます」
「捕虜は町の広場へ戻せ。海岸への道沿いで待たせるな」
「承知しました」
少尉が走り、黒服が前後へ散る。兵が真ん中へ割って入らないのは、こういう時の親衛隊の癖だった。見せるためではない。余計に暴れさせないためだ。
空軍の連絡も入った。だが、内容は期待したほど強くない。雲が低い。煙が厚い。浜へ入る船も小さく、散りすぎている。攻撃は続けるが、一撃で止めるような話ではない。
ターニャは報告の末尾を読み、紙を机へ置いた。怒っても意味がない。天候に怒鳴っても変わらない。
「少尉、空軍への要望文を修正だ。海上そのものではなく、集結地の再優先を求める。夜の海は見失う。浜の手前は見失いにくい」
「承知いたしました。道路封鎖の実績も添付します」
「そうしろ。こちらが何を潰したかを書いておけ。相手が次にどこを見るか決めやすい」
「承知いたしました」
夜は深くなるのに、海の灯りは減らない。むしろ増えていく。遠くに一つ、二つと見えていた光が、気付けば帯のようになっている。沖で待つもの、途中で向きを変えるもの、浜へ寄ろうとしているもの。その区別はもう付けにくい。海が動いている。そうとしか言いようがなかった。
観測所の下では、連絡兵が一人倒木へ腰を下ろし、冷えた水筒を逆さにしていた。中身はほとんどない。彼の目は海ではなく、地面を見ている。疲れの質が変わっていた。勝っている時の疲れではない。追い詰めたはずなのに、抜けていくものを見続ける疲れだ。
ターニャは観測所の窓枠に手を置き、海の方を見た。沖合の灯りが、また一つ増えた気がした。気のせいかもしれない。だが、数える気にもならない。もう数より形の問題だ。止まるべきものが、止まらずに流れ続けている。
(止まらない)
言葉にしたのは頭の中だけだった。
その直後、セレブリャコーフが新しい控えを差し出す。
「こちらの指示は、どの部隊へ回しますか」
ターニャは目を海から外さずに答えた。
「陸軍の交通整理、親衛隊の封鎖班、砲兵連絡、港湾監視、全部だ。順番を付けるな。同時に出せ」
「承知いたしました」
「戻り車両の道も閉じ直せ。浜から戻る空車を止めるな。積んで戻る車だけを分けろ」
「承知いたしました」
「負傷兵の搬送は、捜索班と混ぜるな。捜索は捜索、搬送は搬送だ」
「承知いたしました」
彼女の返答は変わらない。だから助かる。助かるが、状況は改善しない。改善しないまま、海の灯りだけが増える。
潮風が強くなった。板札が鳴り、遠くで小舟の音が混じり、煙幕がまた流れてくる。砂丘の切れ目を見張る親衛隊の兵が、灯火規制の札を一枚打ち直した。陸軍の兵が農道へ一門の砲を押し、車輪が砂へ半分埋まる。現場は追っている。だが、夜の海のほうが一枚上手だった。
まだ確信にしたくはない。けれど、撤退はもう偶然ではない。偶然なら一晩で止む。これは止まらない。止めきれない。
その手前で、夜の灯りがまた増えた。
夜の海に増えた灯りは、そのまま減らなかった。
五月二十九日の夜が明けても、浜は空になっていない。煙幕は朝の風で薄くなるが、薄くなった先に残るのは勝利の景色ではなく、まだ並んでいる列だった。英軍、仏軍、判別のつきにくい混成の一団。小舟が寄り、大きな船が沖で待ち、人が水際へ押し出される。空軍が入り、砲兵が叩き、道路封鎖が一つ増えても、その全部が「少し遅らせる」にしかならない。
止まりそうで止まらない。
それが一晩で終わらないと分かった時点で、ターニャは「海岸の撤退を止める」という考え方を捨てた。狙うのは、撤退の流れそのものではない。流れを構成する部品を削ることだ。道路、橋、担架、通訳、夜間照明、戻り車両、空になった荷船へ向かう人の列。全部を少しずつ噛ませる。
六月に入るころには、海岸へ向かう道のうち、車がまともに使えるものはかなり減っていた。親衛隊の封鎖班が置いた倒木、焼けた車体、杭、板札が効いている。だが、敵も馬鹿ではない。昼に潰した道を、夜に歩いて抜ける。荷を捨て、銃だけ持ち、あるいは銃すら置いて砂丘を越える。海が見えている限り、人は歩く。
ターニャはそれでも封鎖を増やした。封鎖そのものが目的ではない。歩かせるなら、歩く列の長さを伸ばし、水際へ届く時刻を後ろへずらす。そうすれば、空軍の好機が一つ増える。砲兵の射線も合いやすくなる。万能ではない。だが、何もしなければ、その分だけ抜ける。
六月四日の少し前、海岸線から一歩引いた補給所で、陸軍の交通将校が声を落として言った。
「結局、抜けていきますな」
ターニャは地図から目を離さずに答えた。
「抜けます。ですが、抜ける速度も量も同じではありません。遅らせれば、そのぶん残骸が増える。捕虜も増える。全部は無理でも、削ることはできます」
将校は苦い顔で笑った。
「削ってこの数ですか」
「海がある以上、そうなります。だから、海へ届く前の整理しかありません」
議論はそれで終わった。互いに、今さら気休めがいらないことだけは分かっている。
六月四日までに、浜と道路に残ったものははっきりしていた。放棄された車両は数百では足りない。道の脇、砂浜の縁、町の広場、運河沿い、至る所に車体が残る。砲は百を超える数で並び、牽引車を失ったまま口を海へ向けている。弾薬箱は開かれたものと閉じたものが混じり、毛布、靴、担架、水缶、電話線、折れた自転車まで散らばっていた。破棄された装備の量だけ見れば、大勝に見える。だが、人は違う。こちらが得た捕虜は多い。多いが、偏っている。後衛、負傷兵、混乱から取り残された歩兵、港へ辿り着けなかった者たちだ。中核の相当数は海を渡っている。
数で言えば、捕虜も数万単位だ。残された車両と砲も、数え直しが必要なほど多い。だが、海の向こうへ抜けた兵員も同じく数十万単位の気配がある。ここで「勝った」「負けた」を言うのは、子どもの遊びだ。結果はもっといやらしい。物は奪った。人は抜けた。その両方が並んでいる。
観測所に戻ると、机の上には西の報告束と北の報告束が二つに分かれて置かれていた。セレブリャコーフが、それぞれの控えへ付箋を挟んでいる。
「西側は、撤退の終息を六月四日付で整理できます。捕虜数はまだ変動がありますが、主な流れは止まりました。北方は、撤収の気配が出ています。ナルヴィクで物資が減り、負傷兵が先に動いています」
「北を先に見る」
「承知いたしました」
彼女が北方の束を差し出す。紙の匂いが違う。潮より冷たい地方の紙は、なぜか乾いて見える。
差し込みは短かった。
ナルヴィクの町は、まだ連合国側の手にあった。だが、占領した側の空気ではない。倉庫の前に積まれていた箱が減り、負傷兵を乗せた車が先に出ていく。桟橋の近くでは、補給の並び方が変わっている。前へ積むためではなく、いつでも載せ替えられるように寄せている並びだ。撤退の匂いは、命令書の文言より荷の置き方に出る。
メアリーはその町にいた。父を探しに来たのに、見つかるものが先に見つかる。血の跡、引きずられた木箱、壊れた扉、誰かが一度座って、そのまま立たなくなった椅子。港の空気は冷たい。海の匂いはあるのに、安心できるものが何もない。
「すみません、ここでアンスン……アンソンを見ませんでしたか。背の高い人で、軍人で……」
メアリーが尋ねる相手は、漁師のような老人だった。老人はメアリーの顔を見て、すぐには答えない。娘だと分かったのだろう。だから答えにくい。
「名前は聞いた。あんたの父親かい」
「はい。たぶん、ここへ来たはずで」
「来たよ。何人かで山のほうへ回ったって話だ。けど、帰ってはこなかった」
「帰って……こなかったって、それだけですか」
老人は視線を海へ逃がし、それから低く続けた。
「黒い服の連中に捕まったって聞いた。港じゃなくて、町の外だ。パルチザン扱いだったそうだ」
メアリーは喉の奥で息が引っかかった。パルチザン。軍人への言葉ではない。撃っていい側へ押し込む言葉だ。
「それ、誰から聞いたんですか」
「見たやつがいた。うちの甥だ。もう船で南へ出たが、出る前に言ってた。妙に小さい将校がいたって。子どもみたいなのに、みんなその顔色を見てたと」
メアリーの手が少し強く握られる。もう何度か聞いた話だ。黒服の子ども。小さいのに命令を通す。名前も一度ではない。
「名前は」
「そこまでは知らん。けど、変な噂がある。ターニャとか、そんな音だったか」
その名を聞いた瞬間、胸の奥で何かが動いた。父を奪ったのは国家だ。軍だ。戦争だ。それは分かっている。けれど、名前があると、憎しみは形を持つ。
(また、その名前)
メアリーはすぐに泣かなかった。泣くには寒すぎたし、ここでは誰も優しくしてくれない。代わりに、指先が冷える。視界の端で、桟橋の上を負傷兵が運ばれていく。先に出るのは怪我人だ。残るのは後回しにされるもの。撤退の気配が、町のあちこちから滲んでいる。
別の女が、小さな包みを抱えたまま声をかけてきた。
「あんた、その人を探してるの」
「父です」
「黒服にやられたって聞いたなら、たぶん……もう帰ってこないよ」
「でも、確かじゃないんですよね」
「確かじゃないよ。誰も見てないからね。でも、ここで名前が残る人は少ない。残るのは噂だけだよ」
メアリーは唇を噛み、頷きも否定もしなかった。国家に対する怒りは、まだ消えていない。けれど、国家は広すぎる。掴めない。そこへ、ターニャという音だけが何度も刺さる。黒服の子ども。決裁する側にいる子ども。その像だけが、少しずつ輪郭を持ち始めていた。
桟橋で、誰かが「急げ」と叫ぶ。木箱が運ばれ、負傷兵が先に載せられる。撤退はまだ始まったと明言されていない。だが、町の空気はもう隠していない。荷が減り、人が選ばれ、後ろに残るものが決まっていく。
メアリーは最後にもう一度だけ老人へ聞いた。
「その人、本当に小さい子だったんですか」
「子どもに見えたそうだ。けど、子どもじゃなかったとも言ってた。嫌な目をしてたってさ」
それで十分だった。確信ではない。だが、嫌になるほど近い。
北の束を閉じると、潮の匂いがまた戻ってきた。西へ視線を戻せば、ダンケルクはもう終わりに近い。六月四日。撤退は切れた。浜に残るのは、遅れた者と壊れたもの、それに処理の済んでいない数字だ。
ターニャは海岸線の報告へ目を落とした。車両の放棄数、砲の残置、捕虜数、海岸付近の残骸、港湾設備の損壊。どれも大きい。だが、その文言のどこにも「勝利し損ねた」とは書かない。そういう感想は要らない。必要なのは、閉じ切れなかった部分がどこか、それが次に何を生むかだ。
陸軍の将校が一人、結果の確認に来ていた。彼は報告束を前にして、言葉を選んでいる顔をした。
「撤退は、ほぼ完了と見ていいでしょう」
「そう見て結構です」
「取り逃がした数は」
「海の向こうへ抜けた数のほうが、ここに残した捕虜より多いと考えてください。装備の放棄は大きい。兵は抜けた。その整理で十分です」
将校は頷いた。欲しいのは慰めではない。現実の形だけだ。
「今後は」
「残骸処理、捕虜の振り分け、港湾の再確認です。海岸沿いの小舟も拾ってください。漁船の類いを残すな」
「承知しました」
会話はそこで終わる。敗北宣言もなければ、勝利の言葉もない。浜に残ったものを処理するだけだ。
夕方、風の当たる場所に置かれたコーヒー缶から、ターニャは一口だけ口をつけた。ぬるい。舌に温度が残らない。潮の匂いまで混じっている。
「温いのは嫌いだ」
それだけ言って、缶を脇の箱へ置いた。セレブリャコーフは何も答えず、新しい控えを前へ出す。
「捕虜の偏りですが、後衛と負傷兵が多く、英軍の一部中核は抜けたと見てよさそうです。車両の残骸は、海岸と道路を合わせて数百単位では収まりません。再集計が必要です」
「再集計しろ。海岸と内陸を分けろ。混ぜると、何をどこで取りこぼしたか分からなくなる」
「承知いたしました」
「港の小舟も別欄だ。船は船で数えろ」
「承知いたしました」
EVAが最後に、短い紙片を置いた。
「西。終了。北。継続」
ターニャはそれを見て、紙片を二つに分けた。西の束は閉じる。北の束は机の上に残す。
六月四日の西は、片付いた。完全ではない。取り逃がしは大きい。だが、戦場としての形は一度終わった。
北は違う。まだ終わらない。港が揺れ、噂が残り、名前が刺さり始めている。
ターニャはダンケルクの報告束を閉じ、ナルヴィクの地図を引き寄せた。海峡の砂と北の港は遠い。だが、同じ海の上で繋がっている。西で抜けた兵はまた出てくる。北で残した火種もまた戻る。
目の前の敗残と、遠くの港のぐらつき。その両方を見たうえで、次へ進むしかなかった。
次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)
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イギリス戦方面
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帝国内政(モレル関連)