幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第8節 北の反転、南の再開

 

 ダンケルクの浜に残った砲と車体がまだ数え切れていないうちに、南では次の攻勢が始まっていた。

 

 六月五日の朝、前線の地図はまた書き換えられた。海岸線に寄っていた視線が、今度はフランス本土の内側へ戻る。ソンム川沿いの橋梁、退路に使われる道路、集落の外れにある交差点、鉄道の分岐。国家保安本部(RSHA)から回ってくる添付も、海辺の港湾処理より、河川と道路の名が増えた。

 

 仮設司令部になったのは、県庁だったらしい石造りの建物だった。正面の紋章は外され、壁には新しい地図が掛けられている。廊下には電話線が這い、応接室だった場所に作戦机、会計室だった場所に記録班、広間には回付箱が三つ並んでいた。窓の外では、陸軍の二輪車が絶えず出入りし、そのたびに砂と泥が床へ運ばれる。

 

 空軍は先に飛んでいる。爆撃の要点は単純だ。橋を壊し、道路を切り、渡河の手前を乱す。町そのものを落とすのは陸軍の装甲と歩兵だが、町を見捨てさせる最初の一押しは上から来る。

 

 窓越しに、遠くの空が白く瞬いた。しばらく遅れて、重い音が腹へ届く。砲兵の射撃ではない。空からの爆撃だ。連続しない。狙って落とし、間を空け、また別の橋を叩く。空軍の連絡将校が壁際の机で地図へ印を付けるたび、河を渡る候補は減っていく。

 

 陸軍の装甲縦列は、その減った候補の中でいちばんましな道へ流れ込む。止まりそうな町には正面から噛み付かず、迂回し、橋を拾い、脇道を押し広げて後ろへ回る。都市が落ちると言っても、城門を破るような派手さはない。白布が出る、鐘が一度鳴って止む、バリケードが半分だけ崩れる、捕虜の列が翌朝には町の外まで伸びている。陥落はそういう細い現象の積み重ねだ。

 

 午前のうちに、三つの町の報告が並んだ。

 

 一つ目は、橋の手前に並んでいた荷車が丸ごと放置された町。馬が綱を引いたまま息絶え、農具と寝具が同じ車台に積まれている。住民は町の奥へ引き込み、現地警察だけが役場前に残った。

 

 二つ目は、町外れの教会から白布が出た町。鐘は鳴ったが長くは続かない。広場の酒場にだけ火が入り、裏道の木柵が踏み潰されていた。陸軍はそこを素通りし、親衛隊の治安要員が後から入口を押さえた。

 

 三つ目は、崩れたバリケードの陰に拳銃が二十丁近く隠されていた町。銃は軍のものも民間のものも混じっていて、便乗と抵抗の境が曖昧だった。そういう町が一番面倒だ。

 

 ターニャは報告書の束を前に、視線を一枚ずつ滑らせた。戦況は速い。速いほど、後ろに残るのは戦果より未処理の欄だ。捕虜の仮置き先、夜間通行の札、現地警察の名簿、武器回収の受領印、橋の通行区分。陸軍が前へ出るほど、こちらの仕事は後ろで増える。

 

 扉が開き、セレブリャコーフが新しい束を抱えて入ってきた。袖口に黒い粉が付いている。階下の伝令机を往復したのだろう。

 

「本日分の追加です。ソンム沿いの橋梁、二か所で破壊確認。エーヌ方面は装甲部隊が迂回に成功し、町を正面から潰さずに後ろへ回り始めています。捕虜収容の仮置き先が足りません」

 

 ターニャは束の一番上だけ抜き、署名欄の有無を見た。

 

「仮置き先は学校と倉庫を使え。教会は最後だ。住民を刺激しやすい」

 

「承知いたしました。こちらの指示はどの部隊へ回しますか」

 

「陸軍の交通整理、親衛隊の拘束班、現地役場の記録係だ。順番は付けるな。同時に出せ」

 

「承知いたしました」

 

「町が落ちた直後の武器回収も追加しろ。拳銃と猟銃を分けるな。今は所持の有無だけで足りる」

 

「承知いたしました」

 

 返答は短い。必要な語だけで回る。今の机では、それが一番助かる。

 

 廊下から、別の将校の声が近づいた。陸軍の少佐らしい。入室すると同時に敬礼し、地図へ視線を落とす。

 

「こちらの前進は順調ですが、町を飛ばしすぎています。後方に孤立した抵抗が残る。親衛隊の掃討を前へ寄せられますか」

 

 ターニャは正面から否定しない。軍相手は結論からだ。

 

「寄せません。代わりに線を引きます。今必要なのは掃討ではなく、町ごとの治安区分です。入口、橋、役場、警察署。この四点を押さえれば、孤立した抵抗は増えにくい」

 

 少佐は不満そうに唇を引いた。

 

「孤立した抵抗が補給車を撃ったらどうします」

 

「撃たれた道を止めてください。町全体へ広げないでください。止めた上で武器回収と夜間通行規制を入れます。面を焼く必要はありません」

 

「それで十分ですか」

 

「十分にしてください。前が速い以上、後ろは全部を潰せません」

 

 少佐は数秒だけ黙り、それから頷いた。

 

「分かりました。橋と入口を優先します」

 

「あと、現地警察を散らしたままにしないでください。制服のまま一か所へ集めてください。所属確認が先です」

 

「了解しました」

 

 話はそれで切れた。議論を長くしている間にも、別の町が落ちる。

 

 昼を回るころには、道路脇の様子がさらに変わった。陸軍の歩兵が迷う。装甲が速すぎるとこうなる。先頭の戦車が進んだ距離と、歩兵の足で稼げる距離が噛み合わない。町の標識は壊れ、道案内に使う住民は逃げ、橋は落ちるか焼けるかしている。後ろの兵から見れば、世界が全部似た村道になる。

 

 窓から外を見ると、四十人ほどの歩兵が交差点で止まっていた。下士官が地図を逆さに持っている。そこへ親衛隊の若い兵が走り込み、板札を杭で打ち直した。矢印の先に黒太字で町名が書かれている。整った字ではない。だが、歩兵はそれを見てすぐに列を動かした。正しい方向へ歩く人間は、撃たなくても役に立つ。

 

 ターニャはその様子を見て、机の端へ新しい指示を書き足した。

 

「案内札を倍に増やせ。交差点ごとに一枚では足りない。曲がった先にも置け」

 

 セレブリャコーフがすぐ追記する。

 

「承知いたしました。板の確保は現地の家具店と学校から回します」

 

「文字は太くしろ。疲れた兵でも読める形にしろ」

 

「承知いたしました」

 

 その時、EVAがいつものように音もなく現れた。扉から入ったのか、廊下の陰から来たのか分からない。手には小さな紙片が三枚。

 

「南。早い」

 

「分かっている」

 

「北。薄い」

 

 ターニャは視線を上げた。

 

「何が薄い」

 

「物資。警備。記録」

 

 必要な語だけで足りる。北方は連合国が撤退へ傾いている。撤退は、解放ではない。空白だ。空白は必ず誰かが埋めに来るし、埋める前に火を付ける者も出る。

 

 ターニャは机の脇に寄せてあった北方の束を引き寄せた。ナルヴィク関係の報告は、ここ数日で文面が変わっている。弾薬や食料の要求より、荷の積み替え、負傷兵の搬出、桟橋の使用順、そんな項目が増えた。撤退の空気は、いつも「何を持って帰るか」の文言から先に出る。

 

 六月六日付の報告には、特にはっきりそれが出ていた。

 

 港にあった箱数が減っている。先に消えるのは医療と通信の荷だ。次に、現地で残しても意味のない人員が減る。負傷兵が先に船へ乗り、通訳が早めに動かされ、護衛が薄くなる。守るものが減るのではない。守る手が減る。

 

 ターニャは北方の地図を開いた。港の入口、防波堤、倉庫街、鉄道の積み込み線、町役場、警察署。連合国が引くなら、そこへ空白が生まれる。空白を歓迎する理由はない。空白には火が入る。倉庫へ放火、線路の破壊、名簿の持ち出し、便乗した略奪。勝手に起きる。

 

「少尉、北方宛ての追加だ。撤退後の空白を前提に組み直す。港の再開手順を祝砲みたいに扱うな。封鎖を解く前に検問を二重にしろ。倉庫は開ける前に封印、鉄道は本数より受領欄を優先、現地警察は武装解除の上で名簿を取り直せ」

 

「承知いたしました。倉庫の封印は番号札と封蝋、どちらを優先しますか」

 

「両方だ。封蝋だけでは足跡が残らない。番号札だけでは途中で差し替えられる」

 

「承知いたしました」

 

「港の入口もそのまま開けるな。入口の鎖を外す前に、外側と内側に別々の検問を置け。船員と荷役を一つの列にするな」

 

「承知いたしました」

 

 陸軍の少佐は、南の地図を見ながらそのやり取りを聞いていたらしい。少し呆れた顔で言った。

 

「西だけでも手一杯でしょうに、北まで触るのですか」

 

「触らないと後で面倒になります。撤退は整列ではありません。抜けた後の港は、むしろ荒れます」

 

 少佐は肩をすくめた。

 

「海の向こうも大変だ」

 

「海の向こうではありません。次の机の上です」

 

 少佐はそれ以上言わなかった。言っても仕方がないと悟ったのだろう。

 

 南では、再攻勢がじわじわではなく、はっきりと戻っていた。六月五日からの圧は、一日ごとに重くなる。空軍が橋を叩き、陸軍の装甲が脇から入り、町が落ちる。都市名を一つずつ挙げるより、伝令の増え方のほうが分かりやすい。出ていく二輪車が増え、戻る伝令が息を切らし、地図の上の未処理欄だけが太くなる。

 

 とある町では、役場の窓へ白布が出た三時間後には、もう武器回収の札が玄関に打たれていた。別の町では、橋梁破壊で本隊が遅れたため、親衛隊の治安要員だけが先に入り、警察署の鍵を先に受け取っていた。さらに別の町では、装甲車が正面を避けて迂回したせいで、街の広場だけが一日遅れて落ちた。その結果、広場の商人たちが逃げ損ね、武器回収と住民整理が同時に押し寄せた。

 

 どの町でも、親衛隊の仕事は同じだった。検問、夜間通行、武器回収、煽った連中の拾い上げ。戦車が町を抜けた後の地面に、線を引くことだ。

 

 夕方、セレブリャコーフがまた地図を持って近づいた。

 

「北方の補充です。連合国側、港湾周辺の物資を減らし始めています。外へ出る車列は負傷兵優先。町の外れの検問は一つ消えています」

 

「一つ消えたなら、その分だけ別の入口が緩くなる。検問を増やせ」

 

「承知いたしました。港の入口の封鎖が外れる前提で組みますか」

 

 ターニャは一度だけ考え、すぐに答えた。

 

「外れる前提でいい。だが、開いた瞬間に通すな。外の封鎖がなくなるなら、中の検問を増やす。町へ入る人間を減らせ」

 

「承知いたしました。入口は二重、倉庫街は三重で切ります」

 

「線路も見張れ。港より先に壊される」

 

「承知いたしました」

 

 EVAが横から、もう一枚紙片を出した。

 

「空白。近い」

 

 ターニャは頷きもしない。頷くまでもなく、その通りだからだ。

 

 南の再攻勢は止まらない。北は引いている。だが、北が静かになるわけではない。むしろ逆だ。撤退で空いた場所ほど、後で騒ぐ。

 

 日が落ちる直前、北方からもう一通入った。港の外側にあった封鎖が、一部解除に向かっている。外から見れば、港が開くように見える報せだ。だが、ターニャの目にはそう見えなかった。入口の封鎖が外れれば、代わりに中を締めなければならない。それだけの話だ。

 

 机の上には、南の落ちていく都市と、北の開きかけた港が並んでいる。片方は押し潰す仕事、片方は空白を潰す仕事。種類は違う。だが、必要なのはどちらも同じだった。

 

 誰を通し、誰を止め、どこで数えるか。

 

 ナルヴィクの再占領は、もう祝う話ではなくなっていた。港の入口が開く前に、町の中へ何本の検問を打つか。その準備が、現実の先頭に出始めていた。

 

 

 

 その準備は、六月八日の朝に現実へ変わった。

 

 南ではまだフランス本土への再攻勢が続いている。空軍は橋を潰し、陸軍の装甲部隊は迂回し、後ろでは親衛隊の治安要員が町ごとの入口へ線を引く。前進の報は一時間ごとに机へ積まれた。だが、その机の端には、同じ時刻に北方の港湾図も広がっている。

 

 ナルヴィクの港口から外側の封鎖が外れた、という報せが入ったのは午前の早い時間だった。勝った側の文句ではなかった。鎖を外し、見張りを置き換え、内側の検問を増やす。そういう項目が先に並ぶ。港が戻るとは、要するにまた数え直しが始まるということだ。

 

 ターニャは北方の地図を手前へ引き寄せた。防波堤、埠頭、倉庫街、鉄道の積み込み線、港湾事務所。南の地図と違い、北は線が少ない。少ないから、一つ切れるだけで全部が緩む。

 

「少尉、再占領の扱いを修正する。港の外側は再開、内側は閉鎖継続だ。埠頭に入る人間を三類型に分けろ。海軍の荷役、陸軍の警備、民間の港湾作業員。それ以外は門前で止める」

 

「承知いたしました。作業員は身分確認の後、通行札を色分けします」

 

「色だけでは足りない。番号も振れ。札の写しは港湾事務所と警察署に一部ずつ置け」

 

「承知いたしました」

 

「倉庫は開けるな。先に封印だ。封印番号、受領者名、立会人名、この三つを揃えてから中へ入れ」

 

「承知いたしました」

 

 セレブリャコーフは机の端で文案を書き換え、別の紙へ清書を始める。線の細い字だが、急いでも潰れない。港の再開手順、倉庫封印、線路警備、夜間巡察。項目が多い。だが、多いままで出すと現地は読む前に嫌がる。だから、要点だけを先頭へ寄せる。

 

 北方からの追電は、そこへ別の臭いを足した。

 

 再占領そのものに大きな戦闘はない。だが、静かでもない。夜間発砲が二件。倉庫街で放火未遂が一件。鉄道の分岐器に破壊工作の痕跡が一件。祝砲の代わりに増えたのは、拘束者の欄だった。

 

 ターニャはその一文へ鉛筆を止めた。放火未遂。線路破壊。予想どおりだ。撤退する側は、持っていけないものを壊す。残る側は、どさくさで焼く。住民の怨恨も、便乗した窃盗も、同じ火に混ざる。

 

「少尉、拘束者の扱いも分けろ。港湾作業員、便乗者、残留した兵。三つを同じ建物へ入れるな」

 

「承知いたしました。仮拘束先は」

 

「港湾警察の留置室を先に使え。溢れたら学校だ。倉庫は使うな。証拠も荷も一緒に消える」

 

「承知いたしました」

 

 EVAが、扉の横から紙片を置いた。

 

「北。火。線路」

 

「分かっている」

 

「まだ、ある」

 

「どこだ」

 

「山側。見張り薄い」

 

 ナルヴィクの地図で山側の線は短い。だが、短いまま放っておくと、夜の一発で港へ届く。倉庫放火未遂が一度あったなら、二度目もある。港へ戻った側は、勝利の顔より先に火の番を置くべきだ。

 

「山側の見張りを増やせ。陸軍の警備班だけにするな。港湾の外周へ親衛隊を混ぜろ。見張り塔が足りないなら、木材置き場を使え」

 

「更新する」

 

 EVAはそれだけ言って、別の紙束へ移った。

 

 南では、同じ時間にまた別の都市が落ちていた。電話の向こうで、橋梁の破壊成功、装甲迂回、町の陥落、捕虜数増加。現実は休ませてくれない。ダンケルクのあとも終わらなかったように、ナルヴィクが戻っても終わらない。

 

 正午前、北方の現地連絡士官が電話へ出た。受話器の向こうで風が鳴っている。声の後ろに、港のざわつきが混じる。

 

「埠頭一番から三番まで再確保しました。倉庫は封印中です。ただ、二番倉庫裏で昨夜、火薬が見つかっています。点火前でしたが、仕掛けは雑ではありません」

 

 ターニャは即座に返した。

 

「処理班を分けてください。火薬の回収と、倉庫の荷の確認を同じ班へやらせないでください。証拠が消えます。あと、立会人の署名を今のうちに取ってください。後から『見ていない』が出ます」

 

「分かりました。線路のほうも怪しい。レールの継ぎ目を一本いじられていました」

 

「列車を止めてください。一本でも通すな。確認が済むまで貨車を動かさないでください」

 

「港の荷が溜まります」

 

「溜めてください。脱線よりましです」

 

 相手は短く「了解」と答えた。北の現場は、こういう時だけ素直だ。目の前に線路があるからだろう。南の将校は距離で揉めるが、北の港は一本のレールが切れれば全員が同じ損をする。

 

 セレブリャコーフが電話の要点を書き終えると、別の盆を机へ置いた。湯気が薄く上がっている。缶のスープと黒パン、少量の肉。それ以上でも以下でもない、現場の飯だ。

 

「温かいものを用意しました」

 

 ターニャは目線を紙から外さず、盆を引き寄せた。湯気があるだけで助かる。味を期待する段階ではない。

 

「今はそれでいい」

 

「はい」

 

 会話はそれで終わる。スープは薄いが、冷えていない。黒パンは固いままだが、指先が痛くなるほどではない。勝っているのに休めない、という感想に価値はない。休めないのだから食べるだけだ。

 

 口へ運びながら、ターニャは南と北の文書を交互に見た。南では橋が落ち、北では封鎖が外れる。南では町が次々に陥落し、北では倉庫の封印番号が増える。戦争は前へ進んでいるのに、机の上では後始末しか増えない。

 

 廊下で足音が速まった。護衛が扉を開け、若い連絡兵を通す。息が上がっている。

 

「北方から追加です。再占領後の港で、拘束者がさらに増えています。夜間発砲のあと、民間作業員を装った連中が三名、線路脇で確保されました」

 

「武器は」

 

「拳銃二丁と工具です。レールの継ぎ目に触った形跡があります」

 

「工具持ちは便乗者と混ぜるな。工作班として別に扱え。作業員の名簿と照合しろ。どこで札を取ったかも洗え」

 

「了解しました」

 

 連絡兵が出ていくと、セレブリャコーフがすぐに補足する。

 

「港の通行札、偽造か流用の可能性があります。番号の飛びも一件あります」

 

「札の発行窓口を一つにしろ。港湾事務所と警察署、両方で出すな。今の時点で二つあると、流用が止まらない」

 

「承知いたしました。旧札は今夜で無効にします」

 

「無効化の時刻も書け。日没では揉める。時計で切れ」

 

「承知いたしました」

 

 外では南の再攻勢がさらに進み、窓の外を陸軍の二輪車が何度も通る。泥の量が増えている。前線が動いている証拠だ。ターニャは地図の南側へ目を落とした。ソンムを越え、都市が落ち、迂回が決まり、後方の整理が必要になる。だが、その一方で北の港は今まさに開きかけた場所を締め直している。前進と再占領は、言葉だけなら景気がいい。実際は、封蝋と杭と受領印の山だ。

 

 午後遅く、北方からの報告に新しい一行が加わった。

 

 埠頭の再開、一次完了。倉庫封印、七棟。鉄道の破壊未遂、二件目確認。夜間巡察中の発砲、負傷軽微。拘束者累計、前日比増。

 

 ターニャはその数字を見て、祝砲の話がどこにも入っていないことに安堵した。現実を見ている連中は、ここで浮かれない。浮かれる暇がないからだ。

 

 EVAがまた紙片を置く。

 

「増えている」

 

「何がだ」

 

「拘束。署名。未回収」

 

 未回収は倉庫の中か、港の外か、その両方だろう。北方は港を取り戻しただけでは終わらない。残っている小火と壊されかけた線を拾い切るまで、再占領は書類上でしか完成しない。

 

「未回収の荷は番号を振れ。拾った順に並べるな。場所ごとに束を分けろ」

 

「了解」

 

 EVAは去った。

 

 南の報告束がまた増える。フランス本土の再攻勢は順調だ。順調すぎるくらいだ。だからこそ、北で空白を放置できない。前が勝っている時ほど、後ろの失火が目立つ。

 

 日が落ちるころ、セレブリャコーフが最後の盆を片付けながら小さく言った。

 

「北方の再占領、形としては戻りました」

 

「形だけならな」

 

「はい。まだ、かなり残っています」

 

「残っているものを潰す。港は明日からだ」

 

 温かいスープの名残は、もう器の底にしかない。飯は毎日似たような味だ。勝っていても、負けていても、現場の味は変わらない。

 

 窓の外では、夜の車列が南へ、北へ、それぞれ別の速度で動いていた。南は前進のために、北は締め直しのために。どちらも止まらない。

 

 ターニャは北方の港湾図へ新しい検問線を書き足した。入口の鎖は外れた。代わりに、町の中へ線が増える。再占領は終点ではない。次の未処理の始まりだった。

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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