幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第9節 開かれた都の前夜

 

 六月に入ってからの進撃は、勝利というより崩落の速度で見えた。

 

 都市は一つずつ落ちていく。だが、それは城門が砕けるような派手な場面ではない。まず道路が埋まり、次に橋が詰まり、最後に役場の窓へ白布が出る。砲声はまだ遠くで鳴っているのに、町の中心ではもう荷車がひっくり返り、家財が道へ溢れ、軍用車両が動けなくなる。敗北は、最初に地図へ現れない。道の上へ現れる。

 

 パリ周縁へ近づくにつれ、それはさらに露骨になった。

 

 主要道の両側に、避難民の列が絶えない。荷馬車、手押し車、自転車、子どもを抱いた女、毛布を背負った男、椅子や鍋を積んだ農家の荷台。人が多いのではない。多すぎる。道路の幅より人の数が勝ち、軍用車両が追い越す余地を失っていた。

 

 陸軍のトラックが何台も列を作り、その脇で装甲車がじりじりと進む。前の荷車をどかしたところで、その先にまた別の荷車がいる。脇へ寄せれば畑へ落ち、畑へ落ちた車を引き上げるために別の車が止まる。止まった列の上に、空軍の爆撃がさらに土を被せる。

 

 空から壊されるのは橋だけではない。交通そのものだ。

 

 交差点の先へ爆弾が落ちれば、そこへ向かっていた何百人もの足が一度に止まる。止まった群れは、後ろから押される。押された群れは脇道へ溢れ、脇道にいた軍の伝令や救護車を潰す。潰れた道を避けて、今度は別の道が混む。砲声で町が落ちる前に、渋滞が機能を奪う。道路が死ねば、軍も行政も一緒に遅れる。そこまで来ると、もう敗北は説明不要だった。

 

 ターニャの車列は、そんな流れを割らず、縫うように進んでいた。無理に押しのければ、後ろで二倍の滞りを生む。だから押しのけない。押しのけないまま、通せる列と止める列を分けていく。

 

 パリの北東、森と畑の間にある小都市の県庁が、その日の臨時拠点になった。建物自体はまだ無事だ。だが、窓の外へ視線を向ければ、広場は避難民で埋まり、噴水の縁にまで荷物が積まれている。馬が水を飲み、子どもが泣き、老女が椅子へ座ったまま目を閉じていた。そこへ陸軍の二輪車が割り込み、伝令が人の隙間を縫って走る。行政の中心が、ただの通過点に変わっている。

 

 セレブリャコーフが地図を広げ、避難路と軍用路を別色でなぞった。

 

「本日分の道路状況です。南下する避難民の流れが予想以上に太く、軍用車両の追い越しが難しくなっています。空軍の爆撃で三か所の分岐が塞がり、代替路へ集中が起きています」

 

「代替路は増やすな。入口を絞れ。分岐が多いと、全員が自分で選び始める」

 

「承知いたしました。避難民の列はどこで切りますか」

 

「橋の手前だ。橋を渡った先で止めるな。戻せなくなる」

 

「承知いたしました」

 

 ターニャは窓際へ歩き、広場を見下ろした。道の真ん中に、家具職人らしい男が作業台を積んだまま立ち尽くしている。横では女が鳥籠を抱え、子どもが布の束にしがみついていた。そこへ救護車が一台、鈍い音を立てながら割り込んでくる。進みたいが進めない。運転手は苛立ち、避難民はそれどころではない。こういう場所へ砲弾が落ちると、被害より先に流れが死ぬ。

 

 遠くで、空が白く光った。続いて、低い爆音。南西の橋梁地帯だろう。空軍がまた交通を叩いたらしい。轟音そのものより、そのあとに来る報告の方が厄介だった。橋が落ちた、道が塞がった、伝令が戻れない、捕虜が滞留した、役場の控えが焼けた。全部が連なって、町一つの敗北を早める。

 

 親衛隊の治安要員は、今や戦車の後ろを掃くより、先に札を打つほうが多かった。夜間通行の規制、武器回収所の設置、役場と警察署の封鎖、拘束者の仮置き先、宣伝部隊の護送路。やることは派手ではない。だが、これが遅れると陥落した町の顔が整わない。

 

 扉が叩かれ、若い親衛隊の少尉が入ってきた。帽子のつばに埃が積もっている。

 

「報告します。北の町で現地警察の集約は完了しました。武器回収も進んでいます。ただ、今夜から宣伝部隊が通る予定だそうです。広場を空けろと」

 

 ターニャは椅子に座らずに答えた。

 

「広場は空ける。ただし、住民を追い払うな。住民の列は脇へ寄せ、中央だけ通路にしろ。武器回収所は移すな」

 

「承知しました。護送路は」

 

「広場へ入る道を一つだけ残せ。余計な車を混ぜるな。宣伝部隊の護送は親衛隊が受けろ。陸軍の交通整理とぶつけるな」

 

「承知しました」

 

 少尉はすぐに出ていった。説明を求めない兵は助かる。勝利を見せるための準備が始まっている、とターニャはそれで十分に理解した。パリそのものではなく、その手前の町からすでに画角が整えられ始めている。旗をどこへ立てるか、どの広場を通すか、どの部隊を前へ見せるか。その類いの仕事は、戦況が決まる前に動き始める。

 

 だからこそ面倒なのだ。見せる勝利と、処理すべき現実は、たいてい同じ道を取り合う。

 

 セレブリャコーフが新しい控えを差し出した。

 

「宣伝部隊の通過予定、三件です。報道写真班、記録映画班、それと党の地方連絡員が混ざっています」

 

「混ぜるな」

 

「はい」

 

「映画班と写真班は一緒でいい。地方連絡員は別車列だ。勝手に役場へ入れるな。通すなら護送を付けろ」

 

「承知いたしました」

 

「武器回収の途中へ割り込ませるな。絵面より拳銃の数の方が先だ」

 

「承知いたしました」

 

 広場の下では、すでに黒服の兵が白い縄を張っていた。見物の線ではない。通路の線だ。中央を一本空け、その左右に避難民を寄せる。寄せられた人々は不満そうでも、どのみち動くしかない。動く方向を決めるのがこちらの仕事だった。

 

 別の将校が飛び込んできた。今度は陸軍の中尉で、額に汗が光っている。

 

「南の橋が落ちました。爆撃です。避難民が橋の手前で全部止まり、軍用車が橋に近づけません」

 

「橋の手前で避難民を切ってください。歩行は止めず、荷車を脇へ出す。救護車だけ先に通す。砲兵は」

 

「まだ後ろです」

 

「なら、橋そのものの復旧を待つな。仮橋を工兵へ投げろ。あと、住民に渡河の順番を説明する札を出せ」

 

 中尉は苛立った顔のまま頷いた。

 

「そんな札を読んでくれますか」

 

「読まなくても、見える場所に立てれば流れは寄る。言い争う時間を減らせます」

 

「分かりました」

 

 中尉が去る。彼の背中の向こうで、広場の避難民の波がまた少し動いた。波というより、湿った布の塊のような動きだった。引っ張ればずれ、押せば潰れ、放っておけば固まる。

 

 ターニャは、机の端に積まれた夜間通行規制の文案をめくった。六月十一日を過ぎるころから、夜はますます重要になる。撃ち合いが減る分、移動は夜へ逃げる。逃げる移動を放っておけば、武器も煽動者も便乗者も一緒に流れる。

 

「少尉、夜間通行は今日から時刻を一時間早める。二十時で切れ。例外は軍用、医療、消防、それと記録班だけだ」

 

「宣伝部隊は」

 

「例外に入れるな。昼に動かせ」

 

「承知いたしました」

 

「武器回収の札も増やせ。町ごとに一か所では足りない。広場と教会裏、二か所で受けろ」

 

「承知いたしました」

 

 EVAが、いつの間にか部屋の端に立っていた。いつもの無表情のまま、小さな紙片を机へ置く。

 

「南。穴」

 

 ターニャはそれを拾わず、先に聞いた。

 

「どこだ」

 

「治安報告。抜けている」

 

「町か、部隊か」

 

「両方」

 

 説明はない。だが、十分だった。陥落した町の数に対して、治安報告が足りない。つまり、どこかで線を引く前に前が進みすぎている。治安の空白は、撃ち合いが終わったあとに効いてくる。

 

「少尉、陥落済みの町を再点検しろ。役場、警察署、武器回収所、この三つの報告が揃ってない場所を洗え」

 

「承知いたしました。報告の抜けは、親衛隊側だけでなく現地役場も当たります」

 

「当たれ。役場の書記が逃げているなら、教会の記録室を使え。税台帳でも家は拾える」

 

「承知いたしました」

 

 EVAは、会話が終わるともう別の壁際へ移っていた。音がない。だから不気味だ。だが、今は役に立つ不気味さだった。

 

 午後の遅い時間、車列はさらにパリへ寄った。だが、前線らしい前線は見えない。町は落ち、道路は埋まり、避難民だけが増えていく。車窓から見えるのは、敗走というより、都市機能が剥がれていく形だった。郵便車が放置され、バスが途中で捨てられ、病院の寝具が荷台に積まれたまま道端へ置かれている。砲声が近くなくても、これだけで十分だ。

 

 ある町では、駅前広場がそのまま避難民の野営地になっていた。切符売り場の窓へ毛布が掛けられ、時計は止まり、ホームへ向かう通路で炊き出しが始まっている。そこへ空軍の爆撃が線路脇へ入ったせいで、駅前の流れまで全部が崩れた。誰が兵で誰が住民か、一目では分からない。敗北はこういう混色になる。

 

 ターニャは駅前の混雑を見て、護衛に短く命じた。

 

「ここは今夜、駅を閉じろ。線路と広場を切れ。避難民は広場に残し、軍用だけ裏口へ回せ」

 

 護衛は頷き、陸軍の憲兵へ伝えに走る。親衛隊が直接全部を仕切る必要はない。線だけ決めれば、あとは動く連中が動く。

 

 夕方になると、パリの名が会話の端に増えた。まだ命令書で断言されているわけではない。だが、伝令たちはもう「都」「市内」「橋」「開放」という語を使い始めている。銃で落とすのではなく、開いたまま入る可能性が現場に漏れ始めていた。

 

 ターニャはそれを声に出して確認しない。必要なのは気分ではなく準備だ。

 

 宣伝部隊の護送路は増える。夜間通行の規制も増やす必要がある。市街へ入る前に武器回収所を前倒しで置くべきだし、検問の看板も今までより文言を揃えなければならない。撃ち合いが減るほど、見せる勝利の手順が前へ出る。

 

 セレブリャコーフが最後の束を整えながら言った。

 

「現場でも、銃声の減り方が話題になっています。まだ確定ではありませんが、空気が変わっています」

 

 ターニャは窓の外、避難民で膨れた道路を見た。砲声はまだある。だが、前の町々と同じ形で崩れていくなら、次に来るのは撃つより立たせる仕事だ。

 

「空気は放っておけ。先に看板を増やせ」

 

「承知いたしました」

 

 パリがどう扱われるか、その言葉が正式な形になる少し前から、現場の道路はもうそれを知っていた。銃が減れば、人の流れが変わる。人の流れが変われば、親衛隊の札と線がもっと増える。

 

 その準備だけは、すでに始まっていた。

 

 

 

 六月十三日の朝、パリ周縁の空気は、これまでのどの前線とも違っていた。

 

 砲声が消えたわけではない。遠くではまだ鳴る。空軍も飛ぶ。橋を落とす音も、道路を裂く音もある。だが、目前の道には撃つべき相手がいない。いないのに、仕事は減らない。むしろ増えていた。

 

 車列が都市へ近づくほど、避難民の波は少しずつ薄くなる。逃げきったのか、もう出る力がないのか、その判別はつかない。代わりに増えるのは、止められた車と、確認を待つ人間と、書類を持って列に並ぶ連中だった。検問所だけが異様に忙しい。

 

 パリへ通じる主要道の一つでは、朝から車が二列に分けられていた。左は軍用、右は行政と医療、中央は閉鎖。中央を閉じている理由は単純だ。誰もが中央へ入りたがるからだ。広い道ほど、無秩序が集まる。ならば最初から一本殺した方がいい。

 

 親衛隊の兵が、路上へ立てた板札の前で通行札を確かめている。黒服はこういう時に目立つ。静かに立っているだけで、列の角度が変わる。陸軍の憲兵はその横で怒鳴り、役場から借り出した書記が、車種と行き先を帳簿へ写していた。忙しいのは兵だけではない。むしろ銃を持たない人間の手のほうが止まらない。

 

 ターニャは検問所の脇に立ち、流れを見た。砲火がない代わりに、疑わしい静けさがある。撃ってこない。白旗もまだ見えない。なのに、都市へ入る準備だけがきれいに進んでいる。この手の静けさは、しばしば弾より面倒だった。

 

 前の車列で、黒塗りの乗用車が止められていた。助手席には地方行政官らしい男、後部座席には女と書類箱。行き先はパリ市内。理由は「記録保全」。理由だけ見れば立派だ。だが、こういう連中は全員が自分の仕事を最優先だと思っている。

 

 親衛隊の下士官が窓越しに問い、男が早口で答え、通訳が追いかける。通行札の色は合っている。だが、時刻の欄が古い。昨夜まで有効だった札だ。

 

「止めろ」

 

 ターニャが言うと、下士官がすぐに頷いた。

 

「理由は記録へ残せ。差し戻しにしろ。急ぎなら、新しい札を役場で取り直させる」

 

「了解しました」

 

 男が食い下がろうとした。ターニャはそちらへ顔を向ける。対外の声に切り替える。

 

「恐れ入りますが、その通行札では本日分として扱えません。役場の窓口で時刻と受領印を更新してください。更新後、医療車両と同列で通します」

 

 男は何か言いかけ、結局、黙って唇を噛んだ。怒鳴っても道は開かないと分かったのだろう。車は脇へ寄せられ、後続の救護車が前へ出た。

 

 検問所の向こうには、都市へ入る前に武器を預けさせる簡易の回収所が設けられていた。鉄の箱、木箱、番号札、受領票。銃、拳銃、刃物、発煙筒。住民から出るものは少ない。だが、地方警備隊の残りや、勝手に便乗した連中が混ざると、数が狂う。狂った数は後で面倒を増やす。

 

 セレブリャコーフが地図と控えを持って、検問所の端へ来た。

 

「市内へ入る通路ですが、北側の二本は軍用のみ、西側は宣伝部隊と記録班、南側は医療と消防に振り分けています。武器回収所の列が少し長くなっています」

 

「列を伸ばせ。入口に溜めるな。橋の手前で二度曲げろ。人目に付く場所で止めると焦る」

 

「承知いたしました。宣伝部隊の護送は予定通りに動かしますか」

 

「動かす。だが、武器回収の列と交差させるな。画を作る連中に拳銃の箱を踏ませるな」

 

「承知いたしました」

 

 セレブリャコーフは淡々としていた。焦りがないわけではない。だが、声へは出ない。そうでなければ、こんな場所で使えない。

 

 パリ周縁の町々は、不自然なほど静かだった。道路は埋まっている。荷物も山のようにある。検問所は目が回るほど忙しい。なのに銃声だけが遠い。遠くの橋梁を叩く音はあっても、目の前で撃ち合う相手がいない。撃つ相手がいない静けさは、勝利の静けさとは違う。都市が自分で息を殺しているような静けさだ。

 

 午後、前進する陸軍の車列と入れ替わるように、宣伝部隊の車が到着した。映画機材を積んだ車、旗を積んだ車、腕章を整えた連絡員。彼らは皆、撃ち合いが終わった場所を好む。撃ち合いの直後ではなく、秩序が戻ったように見える時刻を選んで来る。

 

 ターニャはその先頭車を見て、護衛の将校へ言った。

 

「広場へ入れるのは一台ずつだ。まとめて入れるな。先に検問を通せ」

 

「了解しました」

 

「旗の位置は勝手に決めさせるな。警察署と役場の導線を塞ぐと邪魔だ」

 

「了解しました」

 

 将校が走り、黒服の兵が先頭車の進路を変えた。映画班は不満そうにしていたが、従うしかない。今はまだ、誰の道でもない。誰かのものにするために、先に線を引いているだけだ。

 

 廊下へ戻ると、県庁の一室がそのまま差し戻し室のようになっていた。夜間通行の更新待ち、宣伝部隊の護送路確認、武器回収の受領票、現地警察の再名簿化。机の上へ重なる文書の種類が、前線らしくない。それでも、これが前線の続きだった。

 

 陸軍の若い中尉が、手にした地図を丸めたまま入ってくる。

 

「撃ち合いがないぶん、こっちの仕事が増えています。検問で全部止まる」

 

「止めるべきものを止めているなら問題ありません。全部を通すほうが後で詰みます」

 

「市内へ逃げ込みたい住民が増えています。追い返すべきですか」

 

「追い返すな。市外に溜めるな。流すなら通路を決めろ。東の農道から入れて、中央へ寄せるな」

 

「市内で混乱しませんか」

 

「混乱はします。ですが、外で膨らむより中で分けたほうがまだ扱えます」

 

「了解しました」

 

 中尉が去る。ここでの会話も長引かない。長くしても、道路は広がらない。

 

 夕方、空は鉛のように曇り、都市の輪郭だけが遠くに沈んで見えた。パリそのものはまだ目の前ではない。だが、そこへ通じる橋と道路は、もう「前線」より「入口」に近かった。入口は撃つより数える場所になる。だからこそ怖い。数え損ねたものは、後で別の顔をして戻る。

 

 EVAが、いつものように足音もなく現れた。手には紙片ではなく、薄い台帳の切れ端を持っている。彼女は机の上へそれを置き、ターニャの横ではなく斜め後ろに立った。

 

「抜け方、同じ」

 

 ターニャは切れ端へ目を落とした。治安報告の欄だ。三つの町。役場の記録係がいない。現地警察の再名簿が途中で切れている。武器回収所の受領欄だけが空白。町も担当者も違う。だが、欠けている場所が同じだった。

 

「どこまで拾った」

 

「三件。まだある」

 

「理由は」

 

「書かれていない」

 

 EVAはそれだけ言った。説明はしない。感想もない。だが、嫌な形だけは十分に伝わる。

 

 セレブリャコーフが横から切れ端を覗き、少しだけ眉を寄せた。

 

「役場、警察、回収所。抜けている場所が同じです」

 

「ええ。偶然ならいいが、偶然では困る」

 

 ターニャは台帳の切れ端を指先で揃え、元の束とは別の場所へ置いた。

 

「少尉、該当した町を再点検しろ。役場記録係の所在、警察の再名簿、武器回収票。この三つを今日中に洗え」

 

「承知いたしました。どの部隊へ回しますか」

 

「親衛隊の治安班、現地警察の監督係、役場の控え確認。順にするな。全部へ一度に出せ」

 

「承知いたしました」

 

「再点検だと伝えるな。通常確認の名目で入れ」

 

「承知いたしました」

 

 EVAはまだ動かない。紙の上に指を置いたまま、視線だけを窓の外へ向ける。都市の方角だ。

 

「穴、寄っている」

 

「そうだな」

 

「以上」

 

 それで彼女は離れた。残ったのは、妙に静かな部屋と、切り離された三枚の控えだけだった。

 

 夕暮れがさらに深まる。外の検問所では、灯火規制の札が打ち替えられている。銃を向ける相手はいない。だが、検問を通る人数は増え続ける。夜間通行の欄を埋める書記の手も止まらない。静かなのに、忙しい。忙しいのに、どこか薄い。撃ち合いの緊張とは別の気味悪さが、廊下にも机にも残っていた。

 

 ターニャは最後の文書へ署名を入れ、別室へ回す束と、手元に残す束を分けた。パリはまだ見えていない。だが、パリ前夜の仕事はもう始まっている。見せる勝利の用意、武器回収の導線、宣伝部隊の護送、夜間通行の規制。そこへ、治安報告の同じ抜け方が重なる。

 

 撃つ相手がいないのに、忙しさだけが増す。そういう夜は、たいてい後で面倒を残す。

 

 窓の外では、銃声の代わりに検問の呼び止める声だけが続いていた。

 

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