幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

92 / 107
第10節 塔に垂れる赤

 

 六月十四日の朝、パリは音を飲み込んだまま待っていた。

 

 前線の都市には、普通、もう少し乱れた気配が残る。砲声の尾、焼けた匂い、逃げ遅れた荷車、どこかでまだ続く短い銃撃。だが、この朝のパリ周縁には、そういう種類の雑音が薄かった。代わりにあったのは、整えられた侵入の音だ。軍靴、車輪、履帯、命令、号令。こちら側の音だけが、遠くまでまっすぐ通る。

 

 郊外の集結地には、陸軍の縦列がすでに並んでいた。灰緑色の列が街路へ伸び、その間に旗が入る。歩兵、二輪車、装甲車、参謀車両、伝令、工兵。順番が崩れていない。崩れていないこと自体が、一つの演出だった。

 

 親衛隊の兵は、その列の中で色が違う。大半は時期に合った制服で揃い、実務に合わせて地味に見える。そこへ、ターニャと護衛の黒服だけが、異物のように線を引く。威圧のために黒いのではない。視界に残るからだ。儀礼の名残を、今も機能として使っている。

 

 車列の前で、右腕が一斉に上がる。号令は短い。何度も繰り返さない。繰り返す必要がないほど、動きが揃っている。靴底が石畳を打ち、金属の留め具が鳴り、エンジンが低く震える。勝者の入城という言葉は軽すぎた。これはもっと官僚的で、もっと計画的な侵入だ。都市へ勝つのではなく、都市の表面を書き換えに行く列だった。

 

 ターニャは車窓からその整列を見ていた。子供の背丈では窓の位置が少し高い。だが、見えれば足りる。見えるものの質が問題なのだ。

 

 先頭が動く。列は急がない。急げば崩れる。今日は崩れること自体が損になる日だ。

 

 広い通りへ入ると、パリはその顔を見せた。建物の高さ、窓の数、通りの奥行き、街路樹の並び。遠近そのものが大きい。軍用車列がそこを真っ直ぐ切る。凱旋門の輪郭が遠くに見え、その手前で旗が揺れる。広場は空いている。空いているが、無人ではない。窓が閉まる。カーテンがわずかに動く。上の階で視線が止まり、すぐに逸れる。人々の表情は見えない。見えなくていい。閉じた窓の数だけで十分だ。

 

 沿道の店は、開いているものと半分だけ閉じているものがある。看板は残り、ガラスは割れていない。つまり、ここは砲で落とした都市ではない。開いたまま渡された都市だ。だからこそ、見せる側は余計に整えたがる。

 

 宣伝写真の班は、すでに配置されていた。車列の前、交差点の角、広場の縁。大きな機材を持つ者、小型の写真機を首から提げる者、記録係、護送の親衛隊兵。誰をどこへ立たせるかで画は変わる。画が変われば、そのまま翌日の見出しが変わる。

 

 ターニャは通りの先を見ながら、小さく息を吐いた。勝利には実利と演出がある。戦局を決めるのは前者だ。だが、政治と統治を決めるのはしばしば後者だ。特に首都ではそうなる。

 

 車列が広場へ差しかかった時、護衛の将校が窓の近くまで身を寄せた。

 

「この先、記録映画班が前へ出ます。通路を一時的に絞ります」

 

「通していい。だが、交差点は塞ぐな。検問の位置も変えるな」

 

「了解しました」

 

「腕章と旗を入れたいなら勝手にやらせろ。ただし、役場と警察署の導線は残せ」

 

「了解しました」

 

 護衛は短く返し、すぐに前の車へ合図を飛ばした。親衛隊の兵が二人、道の中央へ出る。黒服の線が一本入るだけで、周囲の兵も映画班も位置を測り直す。無駄に怒鳴らない。それがこの手の護送では一番効く。

 

 通りを抜けるたび、窓の気配が変わる。ある場所では厚いカーテンがきっちり閉じられ、別の場所ではレースが少しだけ持ち上がる。店の二階で、女が一瞬だけ顔を見せ、すぐに奥へ引っ込んだ。路地の入口には、掃き残しの紙片と、急いで閉めたらしい木箱。撃ち合いの痕ではない。都市の呼吸が止まる前の痕だ。

 

 そして、塔が見えた。

 

 エッフェル塔は、遠くからでも分かる。パリの空へ骨のように立ち、その形だけで周囲を従わせる。勝利の記号ではない。もともとあの都市が自分で持っていた目印だ。だからこそ、そこへ何を垂らすかで意味が変わる。

 

 塔の周辺は、すでに完全に囲われていた。警護は二重。外側は陸軍が広場と通路を押さえ、内側は親衛隊の護衛が人の動きだけを見ている。映画班と写真班はさらにその内側。彼らの前には脚立と機材箱が積まれ、レンズが上を向く。全員が空を見ているわけではない。互いの位置も見ている。旗は一枚の布で終わらない。誰の肩が入るか、どの腕章が写るか、どの車両が画面を割るか。それ全部が先に決まる。

 

 塔の足元では、大きく巻かれた鉤十字旗が準備されていた。布というより、もう壁に近い。持ち上げるだけで兵が何人も要る。風が入れば、人間の力ではきれいに扱えない大きさだ。

 

 ターニャは車を降りた。足元の石が硬い。勝利の朝に似つかわしくないほど、地面は普通だ。空は曇っていない。光は十分で、写真にはちょうどいい。

 

 セレブリャコーフが一歩後ろから続く。

 

「警護配置、完了しています。外周は陸軍、内周は親衛隊、報道は二列、記録班は別です」

 

「いい。塔の下は出入りを一度止めろ。持ち場の交代も後に回せ」

 

「承知いたしました」

 

「通行証の確認は」

 

「映画班、写真班、技術班ともに済んでいます。地方連絡員だけ一名、差し戻しました」

 

「正しい」

 

 塔の下では、鉤十字旗がゆっくり持ち上げられ始めた。最初はただの重たい布だ。だが、途中で風が入る。布が一度だけ膨らみ、次の瞬間、その赤が縦に落ちた。

 

 周囲の空気が変わる。

 

 ざわめきが消えるわけではない。むしろ機材の音は増える。写真機のシャッター、記録班の呼び声、警護の靴音。だが、全員が一度だけ動きを緩めた。見たからだ。効く、と分かる形になったからだ。

 

 赤は遠くからでも見える。鉄の塔に垂れると、都市そのものへ焼印を押したように見える。パリの空がこちらの色で割られる。これ以上ない占領の図だ。戦場でどれだけ前線が動こうと、新聞の一枚に勝てない瞬間がある。その一枚になるための構図だった。

 

 ターニャは塔を見上げた。高い。高いだけではない。大きい都市の中心が、こちらの記号で上書きされる。その露骨さに、思わず笑いたくなるほどの効き方がある。

 

 勝利は数字でも実感できる。捕虜数、残骸の量、橋の占拠、都市の陥落。それらは確かに戦果だ。だが、あの赤い布は別種の快楽を持つ。計算と制度で積み上げた前線の成果が、たった一つの画へ圧縮される。鉄、空、都市、旗。四つが揃った瞬間、戦争が分かりやすくなる。分かりやすさは愚かだ。だが、愚かだからこそ効く。

 

 パリは撃ち抜かれてはいない。壊された中心ではなく、開かれた中心へ入った。だからこそ、視覚の占有が余計に大きい。塔へ垂れた鉤十字旗は、ただの布ではない。今後しばらく、この都市で何が優先され、誰が通り、誰が止められ、誰が頭を下げる側になるかを、一目で決める看板だった。

 

 あれは効く。ひどく効く。

 

 陣営の内側にいる者には、勝利の熱をまとめて一気に飲ませる。外側にいる者には、抵抗の意志そのものへ重しを載せる。理屈より先に目が理解する。理解したものは、言い訳を挟まず心へ落ちる。統治とは結局、どこまで視界を支配できるかでもあるのだと、あの旗はあまりにも率直に示していた。

 

 ターニャの口元に、ごく薄く満足が浮いた。愉快だった。これほど露骨で、これほど安価で、これほど強い記号は滅多にない。砲兵何個大隊分、とまでは言わない。だが、政治的にはそれに近い働きをする。よく考えたものだ、と言うべきか。あるいは、こういう浅薄な構図を必要とするほど人間は単純だ、と笑うべきか。どちらでもいい。効いている事実だけで十分だった。

 

(見事だ。実に見事だ。馬鹿馬鹿しいほど分かりやすく、それでいて否応なく効く)

 

 内心へそう浮かんだ時、少しだけ高揚が胸を持ち上げた。勝っている。前線の数字だけではなく、都市の空までこちらのものになりつつある。戦果を積み上げ、道路を切り、港を締め、橋を落とし、検問を増やし、受領欄を埋め続けた先で、ようやくこういう形になる。あまりに派手で、あまりに俗で、だからこそ、報われたように感じる瞬間がある。

 

 その熱は、本音を言えば心地よかった。

 

 セレブリャコーフが横で静かに確認する。

 

「こちらの写真班、もう一列前へ出しますか」

 

 ターニャは視線を塔から外さずに答えた。

 

「出していい。だが、警護の線は崩すな。画に入るなら入れろ。治安の線を消すな」

 

「承知いたしました」

 

「塔の下の通路も一本だけ残せ。全閉鎖にすると後で詰まる」

 

「承知いたしました」

 

 高揚はそこで終わらせる。塔に垂れた旗は効く。十分に効く。だが、それを見上げ続けていても、通行証は増え、捕虜は動き、略奪の抑止は必要になる。都市は布一枚で支配されない。布一枚で始まるだけだ。

 

 ターニャは塔の足元から視線を落とし、広場の周縁を見回した。報道班の位置、親衛隊の警護、陸軍の外周、車列の待機位置、役場方面へ抜ける通路。次に必要なのは、そこだった。

 

 勝利の熱を、業務の段取りへ戻す。それが今の仕事だった。

 

 

 

 塔に垂れた旗は、風を受けるたびに形を変えた。だが、都市の仕事は布ほど大きくは動かない。むしろ逆だった。目立つものが一つ決まったことで、目立たない処理が一斉に前へ出る。

 

 パリの広場と通りは、もう戦場の顔をしていなかった。砲弾で口を開けた建物も、燃え落ちた街区も、ここでは主役ではない。代わりに増えたのは、机、札、縄、通行証、受領票、検問線だった。

 

 塔の周辺から少し離れた通りでは、すでに親衛隊の治安班と陸軍の憲兵が役割を分けていた。外周は陸軍が受け、交差点の中央と出入口は親衛隊が受ける。兵の立ち方だけで通路が決まる。怒鳴り声より、立つ位置が早い。

 

 ターニャは車列を降り、通行証の確認所へ向かった。石畳は乾いているが、靴底に砂が残っている。凱旋門の方角から伸びる広い通りは見晴らしが良すぎて、逆に気が抜ける。撃ってくる相手がいない場所ほど、列の乱れは自分たちで生む。

 

 通行証の確認所は、カフェのテラスをそのまま使っていた。丸い卓の上に帳簿、番号札、ゴム印、封筒。椅子は壁際へ寄せられ、客席だった場所が待機列になっている。軍用、行政、医療、報道、住民用の仮証。色も大きさも違う。違っていないと、一目で分けられない。

 

 親衛隊の兵は、ここでも目立つ。だが、全員がターニャのような黒服ではない。大半は時期に合った新しい制服で揃い、無駄な飾りを削った実務向けの線になっている。肩から腰へ落ちる輪郭は細く、ブーツはよく磨かれているが、儀礼用の艶ではない。歩くための艶だ。その中で、ターニャと護衛の黒服だけが異物のように切り立つ。黒い上着の開き、褐色のシャツ、締めたベルト、余計な皺のない布地。色の差だけで指揮系統が視界へ浮く。

 

 確認所の前で、地方行政官の一団が止められていた。車から木箱を降ろし、何やら早口で説明している。書類の保全を主張しているらしい。だが、主張したところで、通行証の時刻が切れていれば通らない。

 

 親衛隊の曹長が、ターニャを見つけて一歩下がる。

 

「行政側が市内中央までの通行を求めています。旧証で押し切るつもりのようです」

 

「差し戻せ。旧証は旧証だ。通したら次も来る」

 

「了解しました」

 

 行政官の男が割って入ろうとした。

 

「失礼ですが、これらは重要記録です。今日中に市内へ――」

 

 ターニャは視線だけを向け、声を整える。

 

「記録が重要であることに異論はありません。ですので、更新済みの通行証をお持ちください。現在の区分では、市内中央へ入れるのは医療、消防、指定の行政窓口だけです。こちらで確認後、順番に通します」

 

 男は不服そうに口を開きかけたが、横に積んだ木箱と、通路の先に並ぶ救護車を見て言葉を飲み込んだ。ここで感情をぶつけても、列の前へは出られないと分かったのだろう。

 

 ターニャは曹長へ短く命じる。

 

「行政の箱は仮置きに回せ。通行証が揃うまで封印しろ。受領票は二部だ」

 

「了解しました」

 

 曹長が振り返ると、二人の兵がすぐ木箱へ番号札を付けた。動作が速い。押収ではない。保全だ。だが、見た目の差はあまりない。大事なのは、誰が何番を受け取ったかが残ることだ。

 

 通りの反対側では、武器回収所が動いていた。開いたままの劇場の玄関を使い、赤いビロードの残るロビーに銃が並んでいる。猟銃、拳銃、軍用の小銃、古い軍刀、警棒。住民が出すもの、警察が出すもの、取り残された兵が置いていくもの。全部を一緒にすると後で揉める。だから入口の時点で札を分ける。

 

 セレブリャコーフが横へ来て、控えを差し出した。

 

「武器回収所、二か所で動いています。ただ、北の橋側は市内へ戻ろうとする住民が多く、列が膨らんでいます。検問の線を一つ増やしたほうがよさそうです」

 

「増やせ。橋の手前で一度曲げろ。橋を渡ってから止めるな」

 

「承知いたしました。橋の東側は宣伝部隊の護送路とも重なります」

 

「重ねるな。宣伝は昼の線、住民は夕方の線に分けろ。時間で切れ」

 

「承知いたしました」

 

 セレブリャコーフが離れる。彼女は焦っても声を荒げない。だから報告の輪郭が崩れない。

 

 ターニャは通りの先へ歩いた。エッフェル塔から離れれば、都市の熱は少し落ち着く。代わりに、処理の量がよく見える。捕虜移送、通行証の更新、橋の封鎖、略奪の抑止、燃料の再配分、役場の封印確認。華やかな画の裏側は、やはり面倒な束の山だった。

 

 略奪の抑止も、その一つだ。

 

 ある通りでは、高級衣料店のショーウィンドウへ、すでに小石が二つ投げられていた。割れてはいない。だが、放っておけば割れる。割れれば、最初の一人が入り、二人目が続き、三人目からは誰が何を盗ったか分からなくなる。

 

 親衛隊の下士官が現場を押さえていた。通りの左右に二人ずつ、店舗前に一人、道の中央に一人。銃口を見せつけるのではない。立つ位置だけで「ここはまだ誰の物でもない」と示している。

 

「状況は」

 

「小石が二つ、窓枠に傷が一つです。まだ中へは入られていません。現地警察へ引き渡す前に封鎖線を張っています」

 

「正しい。ガラスが割れてからでは遅い。店主は」

 

「まだ来ていません」

 

「来るまで封印だ。封印票は入口と裏口、両方に貼れ」

 

「了解しました」

 

 下士官は振り返るだけで部下に通じる。兵が白い紙票を貼り、蝋を押す。手順が揃っている。そういう動きは、やはり目を引いた。残酷だからではない。迷わないからだ。

 

 通りを抜ける途中、護衛が少しだけ動きを変えた。ターニャの背後を囲む位置が狭まり、前の一人が右へずれる。何かと思えば、通りの角に大きな看板が出ていたのだ。広告用の張り出しが低く、子供の身長にはむしろ見えにくい角度で掛かっている。背の高い大人は下を見下ろせば済むが、ターニャには上辺しか見えない。

 

 彼女は足を止め、少しだけ顎を上げた。書いてある文字が半分しか入らない。

 

 護衛の一人が無言で一歩左へずれ、セレブリャコーフも気づいて控えめに横を指した。

 

「こちらですと見やすいかと」

 

 ターニャは眉を寄せる。

 

「余計な気遣いは要らない」

 

 そう言いながらも、結局その場所へ半歩動いた。今度は看板の全体が見える。店名、通り名、矢印。必要な情報は拾えた。

 

 セレブリャコーフは、それ以上何も言わない。

 

「……はい」

 

 それで終わる。護衛も顔色一つ変えない。見たことを見なかったことにする訓練は、実に行き届いていた。

 

 ターニャは看板から視線を外し、何事もなかったように通りを進む。通りの先では、宣伝写真班が再び位置取りで揉めていた。旗をもう少し左へ、車列を半歩下げろ、腕章が隠れる、背景に塔を入れたい。聞いているだけで面倒だ。

 

 だが、その面倒も都市の占領には必要になる。見せる勝利は、処理の速さだけでは伝わらない。伝わらないから、ああいう連中が必要になる。

 

 ターニャは写真班の責任者へ声をかけた。

 

「車列をこれ以上寄せないでください。通行証の窓口が死にます」

 

 責任者らしい男が振り返る。高価そうな写真機を首にかけたままだ。

 

「構図が狭くなるのですが」

 

「狭くしてください。広げると検問と重なります」

 

「塔が入りにくい」

 

「塔はもう撮れているでしょう」

 

 男は一瞬だけ黙り、肩をすくめた。

 

「……確かに。では、こちらを少し詰めます」

 

「お願いします。警護の線は跨がないでください」

 

「承知しました」

 

 こういうやり取りが、今日は異様に多い。撃ち合いの代わりに、構図と導線で揉める。勝っている都市の仕事らしいと言えばそうだが、やはり気味が悪い。

 

 夕刻が近づくと、パリ周縁の静けさはさらに濃くなった。銃声はほとんど聞こえない。遠くでエンジンが鳴り、橋の方から検問の呼び止める声が繰り返し届く。車列はある。人も多い。忙しい。だが、前線の匂いが薄い。その薄さが、逆に神経を苛立たせた。

 

 県庁へ戻ると、差し戻しの文書がまた増えていた。通行証の更新漏れ、封印票の署名抜け、武器回収所の受領番号の欠番。どれも小さい。小さいが、こういう日にこそ増える。都市が撃たれないまま渡されると、人は手続きを軽く見る。その軽さが治安報告の穴になる。

 

 セレブリャコーフが、新しい束を持って現れた。

 

「北橋、東門、西側の役場通り。この三か所で報告の揃い方が遅れています。通行証の控えは来ていますが、武器回収票だけがありません」

 

「回収所は」

 

「開いています。ですが、記録係が入れ替わったようです」

 

「名を拾え。誰がいつから座っているか分からない机は使うな」

 

「承知いたしました」

 

 その時、EVAが扉ではなく、窓際の影から現れた。薄い紙片ではなく、今度は小さな綴じた束を持っている。綴じ紐が新しい。つまり、今この場でまとめたものだ。

 

 彼女は机へそれを置き、短く言った。

 

「形が揃う」

 

 ターニャは束を開いた。三つの地区、五つの報告、七つの欠落。内容は違う。だが、抜けている場所が近い。治安班の交代時刻、現地警察の再名簿、武器回収の最終確認。その三つだけが、どこでも痩せている。

 

「何件だ」

 

「今は、五件」

 

「増えているのか」

 

「寄っている」

 

 EVAはそこで止めた。充分だった。件数の多さより、寄り方が悪い。同じ種類の抜けが、違う場所で繰り返される。偶然の可能性はある。だが、偶然と片付けるには癖が揃いすぎている。

 

 ターニャは束の頁を戻し、机の端へ分けた。

 

「少尉、該当地区を洗い直す。記録係の交代時間、現地警察の残り人数、武器回収の受領者。この三つだ。今日中に揃わなければ、明朝の入城路へ影響する」

 

「承知いたしました。どの名目で入りますか」

 

「通常確認だ。再点検と書くな」

 

「承知いたしました」

 

 EVAはまだ立っている。視線は束ではなく、窓の外だ。都市のほうを見ている。

 

「同じ穴が、別の紙にも出る」

 

 前の言葉より少し長い。だが、それで十分だった。

 

「どの紙だ」

 

「通行。封印。人員」

 

「なるほど」

 

 ターニャはそれだけ返した。ここで説明を求めても、EVAはしない。しないし、それでいい。穴の形だけ分かれば、次に見るべき欄が絞れる。

 

 窓の外では、通行証を確認される車列がまだ続いている。銃を撃つ相手がいない。なのに、処理はどんどん増える。パリの前夜は、派手な前線ではなく、抜けた欄の数で神経を削る夜だった。

 

 ターニャは束を閉じ、署名の要る文書と手元に残す文書を分けた。塔の旗はもう掲がった。画は撮られた。次に来るのは、都市そのものの受け取りだ。その受け取りの前に、同じ形の穴が増える。偶然にしては整いすぎている。

 

 EVAが最後にもう一度だけ言う。

 

「まだ、増える」

 

 ターニャは返事をせず、武器回収票の欠番へ赤鉛筆で印を付けた。明日の入城は、華やかに見えるだろう。だが、その足元には、すでに治安報告の穴が開き始めている。

 

 それが分かっただけでも、今夜は十分に嫌な夜だった。

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。