勝っているのに、机の上は軽くならなかった。
六月半ばの占領地行政は、前線の華やかさと無縁だった。パリへ旗が垂れ、都市が次々に口を閉ざしても、国家保安本部(RSHA)の前進事務所へ届くのは勝利報より後始末のほうが多い。密告、通報、略奪、報復、失踪、鍵の所在、押収品の受領漏れ、現地警察の再編、役場の印鑑の不足。勝った側の仕事というより、壊れた機械を動かしながら部品の数を数えている感じに近かった。
仮の執務室になっているのは、パリ市内の省庁街から少し外れた行政庁舎だった。玄関の床はよく磨かれていたが、今は泥の跡と靴音で台無しになっている。廊下には電話線が這い、応接室だった場所に地図台、会議室だった場所に回付箱、窓際には押収品台帳の束。壁の向こうではタイプライターが絶えず鳴り、別の部屋では通訳が声を張り上げている。静かな占領などというものは、少なくともここにはなかった。
朝一番で上がってきたのは、略奪の報告だった。パン屋が倉庫から小麦を持ち出されたと訴え、その二十分後には宝石店が裏口の封印が破られたと騒ぎ、その次には現地の自警団が「共産主義者の名簿」を持ってきたと陸軍の憲兵が書き送ってきた。共産主義者という言葉は便利だ。便利すぎて、私怨も、商売敵も、昨日喧嘩した隣人も一緒に詰め込める。
ターニャは報告の束を一枚ずつ捌いた。封印破りは現場確認。小麦の持ち出しは配給台帳と照合。名簿はそのまま受けず、役場の住民台帳と現地警察の控えを取ってから扱う。手順が多いのではない。足りないから増やすのだ。人は勝った瞬間から、勝手に片づいた顔をし始める。だから手順で縛る必要がある。
セレブリャコーフが新しい束を抱えて入ってきた。袖口にインクが付いている。
「北側第三地区、夜間通行違反が七件です。うち三件は軍用車両を名乗っていますが、証票の時刻が古いままでした。現地警察の名簿は再提出済みですが、武器回収票の写しがまだ一件戻っていません」
「軍用を名乗るだけで通すな。証票の色と時刻を見ろ。古いものは全部差し戻せ」
「承知いたしました。武器回収票の写しは」
「回収所を閉めるな。写しが来るまで出庫を止めろ。拳銃一丁でも数がずれたら後で全部が腐る」
「承知いたしました」
彼女は頷いて出ていく。復唱は増やさない。必要な言葉だけ残して動く。今の机では、それが一番ありがたい。
次に入ってきたのは、現地警察監督の親衛隊少尉だった。疲れた顔をしているが、姿勢だけは崩れていない。
「南西区ですが、住民からの密告が急増しています。夜の間に四十七件。内容は武器隠匿、反独落書き、便乗窃盗、それと“隣人が怪しい”が十件ほどです」
「“怪しい”だけは束を分けろ。すぐ扱うな。落書きは現場写真を先に取れ。武器隠匿は現地警察と一緒に入れ。便乗窃盗は拘束班へ回せ」
「承知しました。通報者の保護は」
「保護しなくていい。記録だけ残せ。今は匿名のまま受けるな。署名のある通報から処理しろ」
「承知しました」
少尉が出ていくと、廊下の奥で声が上がった。歓声に近い。だが、現場の兵が上げる種類の声ではない。もっと乾いていて、もっと芝居がかっている。勝利を味わう余裕のある者の声だった。
ターニャは視線を上げた。扉が開き、陸軍の将官と、党の高官らしい男が入ってくる。将官の制服はきっちり整えられ、党高官の上着は仕立ての良さがいやでも目につく。どちらも前線帰りの泥より、儀礼の線をまとっている。
ターニャは即座に姿勢を正し、右腕を上げた。
「ハイル・ヒトラー」
将官も、党高官も応じる。短く、それ以上は引き延ばさない。
「ハイル・ヒトラー」
将官は広げられた地図を見るなり、口元を緩めた。
「もうすぐだ。歴史はきちんと元の場所へ戻る。いや、戻るどころか、ようやく帳尻が合う」
党高官が楽しげに続ける。
「総統閣下はご満足だ。あの客車が、あの森へ戻される。しかも、一九一八年とほとんど同じ配置でだ。フランスにとって、これ以上ない屈辱になる」
コンピエーニュの森。第一次大戦の休戦協定で使われた客車。あれを同じ場所へ置き直すという話は、すでに噂として回っていた。今の二人の顔を見る限り、噂の域は越えたのだろう。これは軍事の必要ではない。政治の儀式だ。だが、政治の儀式としては、たしかによくできている。上の連中がこうして露骨に浮かれるだけの効き目はある。
ターニャは表情を変えない。
「現地の導線整理も、その前提で進めます。記録班と護送路は分離済みです。検問も追加しています」
将官は満足げに頷いた。
「結構だ。今日は兵にもよい顔をさせてやれ。勝者が勝者らしく見えることにも意味はある」
「承知しました。ただ、略奪と報復の抑止は先に打ちます。画が整っていても、中身が崩れていては後で手間になります」
党高官が肩を揺らして笑った。
「まったく、君はそういうところだけ冷たいな」
「役割です」
それで会話は終わった。二人は満足げな顔のまま出ていった。廊下の向こうでは、また別の高官連中が客車の配置だの、森の見え方だのを楽しげに話している。ドイツにとっては、フランスへの復讐が最も分かりやすい形で完了する瞬間なのだろう。ああいう顔になるのも理解はできる。
だが、その瞬間のために現場へ落ちてくるのは、護送路、警備札、封印票、出入り証の増量である。感動より先に、まず印刷物が増える。
セレブリャコーフが戻ってきて、小さく言った。
「上では、かなり沸いていますね」
「沸くのは勝手だ。こちらは数を合わせる」
「承知いたしました」
彼女は感想をそれ以上伸ばさない。そのほうが早い。
昼前、電話交換台が妙に忙しくなった。優先回線が一つ、二つではなく、まとめて押さえられている。嫌な予感しかしない。こういう時、たいがいは将官の無駄話か、党の見栄が原因だ。
数分後、その予感は形になった。通信兵が扉の外から恐る恐る告げる。
「少佐、ベルリン経由の優先回線です。ドクトルがどうしても、とのことで」
ターニャは顔をしかめた。
「……ドクトル?」
通信兵は小さく縮こまる。
「はい。通信関係の部隊を一つ押さえて回線を開けたと」
ターニャは一度だけ天井を見た。ため息は飲み込まない。わざわざ飲み込むほどの品位は、今の相手に使う必要がない。
受話器を取る。回線の向こうは妙に明るかった。相手が興奮している時の声だ。
「おお、少佐殿! やっと繋がった! いやあ、まことに結構、まことに結構! だが、その結構のただ中だからこそ、未来の礎について語るべきで――」
「……ドクトル?」
ターニャは机に肘をつき、声を低くした。
「まさかその話をするためだけにわざわざ通信関係の部隊を?」
向こうで一拍、楽しげな沈黙があった。
「それほどヒムラー長官はご期待を――」
「呆れてるだけでは?」
ドクトルは愉快そうに笑った。まったく悪びれない。
「厳しいな。しかし聞け。今は南で勝っている。北は取り戻した。だからこそ、あの地域の資源線を今のうちに固める必要がある。鉄鉱石にしろ、重水にしろ、未来を左右するのは派手な凱旋ではなく、地味な確保だ」
ターニャは目を閉じた。言っていること自体は間違っていない。間違っていないのが腹立たしい。
「要件だけ言え。輸送、警備、人員、期限。その四つに落とせ」
「おお、そこへ来るか。よろしい。ではまず輸送だ。港と鉄道の両方を使う。片方が死んでももう片方で動かせる形がいる。警備は、単に兵を置けばよいのではない。技術者と荷役、それに記録係を守る必要がある。人員は専門家を減らすな。彼らは兵士より代えが利かん。期限は、今週中だ。今週を逃すと、勝利に酔った連中が別件で全部を食い潰す」
ターニャはすぐ紙へ書き落とす。
「港と鉄道の二系統維持、技術者と記録係の優先警備、専門家の転用禁止、今週中。それでいいな」
「素晴らしい! 実に話が早い。いやあ、少佐殿のそういうところは、実に頼もしい。重水についてもだ。あれはまだ分かっていない者が多いが、分かっている者には分かっている。小さく見えて、あれは――」
「要件だ、ドクトル」
「む、うむ。輸送は少量、高警備。一般貨物と混ぜるな。警備は見せる兵より、見えない帳簿だ。人員は化学に明るい監督者を一人。期限は、次の月まで待てん」
「監督者の候補名は」
「後で送る。三名いる。だが、一番若いのは駄目だ。口が軽い」
「了解した。送れ」
ドクトルはそこで急に声色を変えた。芝居がかった明るさが少し引く。
「少佐殿、私は夢を語っているつもりはないぞ。今の勝利が永遠ではないと、君も分かっているだろう。だから先に握る。後で欲しがっても遅い」
ターニャは受話器を握り直した。相手の言いたいことは分かる。勝っている今だからこそ、未来の交渉材料になるものを押さえるべきだ、という話だ。それを真正面から口にするのは、ドクトルらしい無神経さでもある。
「分かっている。だから聞いている。だが、次からは通信部隊を一つ潰してまで回線を取るな。今は占領地の治安と再編で全部が詰まっている」
「だから、それほどヒムラー長官はご期待を」
「その期待、私ではなく回線に向けていないか?」
ドクトルがまた笑う。
「少なくとも、無関心ではないさ」
「呆れてるだけでは?」
「両方かもしれん」
そこでターニャは、本当に短く息を吐いた。笑っている場合ではない。だが、相手に怒鳴っても燃料は増えないし、回線も戻らない。
「候補名を早く送れ。輸送区分と警備案はこちらで切る。人員の転用禁止は文書にする。期限は今週中。それ以上は延ばさない」
「任せたぞ、少佐殿。ああ、それと――」
「まだあるのか」
「あるとも。鉄鉱石の港湾荷役は、地元の連中を完全に排除するな。排除しすぎると、荷の流れそのものが死ぬ。監視下で使え。嫌だろうが、そこは妥協だ」
ターニャは少しだけ目を細めた。そこも正しい。
「……了解した。監視下で使う。名簿化して、夜間は寄せない」
「結構。では、未来のために働いてくれたまえ」
「切るぞ」
「はは、切ってくれ」
受話器を置く。机の上には、南仏の再攻勢と、北の資源線、それに占領地の治安報告が同じ重さで積まれている。どれも急ぎだ。どれも今すぐには片付かない。
セレブリャコーフが、控えめに尋ねる。
「ドクトルでしたか」
「そうだ。資源線を握れと言ってきた。内容は妥当だ。手段が迷惑なだけで」
「輸送と警備の区分、こちらで書式を作ります」
「作れ。港、鉄道、技術者、記録係。それぞれ欄を分けろ。監督者候補が来たらすぐ差し込む」
「承知いたしました」
ターニャはようやく椅子へ座り直した。勝っているのに、やることが増える。増えるどころか、別の戦後がもう始まっている。略奪を止め、密告を選別し、資源線を守り、勝利の儀式の護送路まで整える。
その全部の向こうで、コンピエーニュの森へ客車が置かれようとしている。上の連中は今ごろ満足げな顔でその配置を見ているのだろう。ドイツにとって、フランスへの復讐が最も甘く感じられる瞬間だ。理解はできる。理解はできるが、その甘さがこちらの机へ落ちてくる頃には、もう紙の重さに変わっている。
廊下で、また別の伝令が走った。休戦署名に関する報が、そろそろ来る。来れば現場の空気はまた変わるだろう。勝利の熱から、固定作業の地獄へ。
その直前まで、机の上にはまだ戦争の形が残っていた。
報せは、歓声より先に時計を止めた。
六月二十二日の午後、コンピエーニュの森から入った電文は短かった。休戦署名、成立。文面は淡々としている。成立時刻、伝達経路、効力発生までの準備事項。勝利の形を決めるには、あまりに乾いていた。だが、その乾いた数行だけで、庁舎の空気は一段変わる。
廊下の向こうでは、将官の声が上がった。今度は抑えていない。復讐だの、一九一八年の清算だの、誰かが嬉しそうに言う。党の高官らしい笑い声も混じる。客車を同じ場所へ戻し、同じ森で、逆の署名をさせる。彼らにとっては、それで長い宿題が終わったのだろう。
ターニャは机の上の電文を裏返した。喜ぶなとは言わない。理解もできる。客車の置き方一つで、政治は何年分もの感情を回収できる。上にいる連中があそこまで満足そうな顔をするのも、理屈では分かる。
だが、こちらへ来るのは別の仕事だった。
休戦は終点ではない。戦線が引かれていた場所から、境界と検問と通行証が湧き出すだけだ。敵が消えるのではない。敵が見えなくなる。見えなくなった相手は、農具を持ち、作業着を着て、荷車の脇に立ち、あるいは役場の裏口から出てくる。処理はむしろ増える。
セレブリャコーフが、成立電文の写しを右手に、別束の控えを左手に持って入ってきた。表情は崩れていない。だが、紙の持ち方が少し固い。
「休戦成立の報、各窓口へ回します。合わせて、検問の区分表も更新が必要です。現場からは、通行区分を『軍用』『行政』『住民』の三つで足りるか、照会が来ています」
「足りない。『軍用』を一つにするな。占領地では鈍すぎる」
「承知いたしました。分け方は」
「軍用、行政、住民、警察、補給、医療、それと拘束移送。七つにしろ」
「承知いたしました」
「時間帯も切れ。日没基準は使うな。時計で切る」
「承知いたしました」
セレブリャコーフはすぐに書き換えへ入る。休戦成立の知らせを受けた瞬間から、現場の空気は勝利ではなく配置表になる。どの窓口がどこまで受けるか。通行札の色をどう分けるか。どの橋を誰が押さえるか。華やかさはそこまでだった。
廊下の向こうで、また歓声が上がった。誰かが「フランスは屈した」と大きく言い、別の誰かが「ついに帳尻が合った」と応じる。だが、執務室の中ではタイプ音しか増えない。
ターニャは新しい区分表の余白へ、もう一列足した。休戦後の占領地で厄介なのは、敵兵より私刑だ。村で誰かが密告し、別の誰かが報復し、それを止めに入った現地警察が逆に巻き込まれる。軍が勝った時ほど、住民同士の古い勘定が表へ出る。
「少尉、通報の受付も切り替える。匿名は受けるが、そのまま拘束に回すな。検問で止めて、分離して、聞いて、移す。順番を崩すな」
「承知いたしました。尋問先は」
「現地警察署を使うな。先に色が付いている。学校か役場裏の倉庫を押さえろ」
「承知いたしました」
ターニャは机の端へ、別の紙を引き寄せた。戦記のように短く、工程だけを書き出す。
検問。分離。拘束。尋問。移送。
この順を崩した瞬間、現場は勝手に簡略化する。検問を省き、分離を省き、いきなり殴る。あるいは、その逆だ。誰も止めずに流し、後で名前だけ拾おうとする。だから、順番だけは文書へ落として先に配る必要がある。
その時、若い親衛隊の下士官が、現場からの報告を持って入ってきた。まだ土が付いた靴のままだ。
「西郊外の村で、住民同士の私刑未遂がありました。元警官だという男を広場へ引っ張り出し、殴ろうとしたようです。検問の兵が止めました」
「どこで止めた」
「村の入口です。荷車の列に混ざっていたので、先に分けました」
「正しい。元警官はどこへ入れた」
「教会裏の集会所です」
「そこから動かすな。通報者と近づけるな。現地警察にもすぐ触らせるな」
「了解しました」
「私刑を仕掛けた連中は」
「四名拘束です。武器は棒と包丁だけでした」
「包丁でも十分だ。四名は別室にしろ。元警官と壁一枚でも挟むな」
「了解しました」
下士官は一礼して去った。こういう報告が増える。休戦成立の瞬間から、撃ち合いではなく人間関係が火を吹く。
EVAが、扉の陰から現れた。いつも通り音がない。手には三枚の紙片。
「増え方、変わる」
ターニャは一枚受け取る。
「何がだ」
「通報。私刑。失踪」
次の一枚。
「武器。少ない」
三枚目。
「人。多い」
十分だった。銃は減る。だが、消える人間は増える。休戦後の敵は制服を脱ぐ。制服を脱げば、こちらの札だけでは拾えない。
「少尉、失踪届を治安報告と別にするな。通報と並べろ。別束にすると、誰も照合しない」
「承知いたしました」
「武器の数だけで安心するな。人の数を見ろ。通報の対象と失踪者名を横で比べろ」
「承知いたしました」
EVAは頷きもしない。ただ机の端へ紙片を並べたまま、窓際へ下がった。
午後遅く、休戦成立の実感が現場へ滲み始めた。撃ち合いが減る。代わりに検問所の列が伸びる。通行証の更新窓口へ人が押しかけ、現地警察の再編名簿へ名前が増え、略奪を訴える店主が何人も来る。誰もが、自分の案件が最優先だと言う。戦場では砲声が順番を決めるが、占領地では窓口の札が順番を決める。
ターニャは、前進事務所から少し離れた広場へ出た。そこで今まさに、戦後ではなく占領後の手順が試されている。
広場の四隅に、親衛隊の兵が一人ずつ立つ。黒ではない、時期相応の制服だ。灰色の線が石畳へ落ちる。中央では、陸軍の憲兵が通行証を確認し、右手の建物では武器回収、左手の教会裏では拘束者の分離が始まっている。人の流れは多い。だが、流れの向きは決まっていた。
検問。
入口で止める。荷車を止める。歩行者を止める。証票を見る。ない者は脇へ出す。
分離。
軍人と住民、住民と通報対象、通報対象と便乗者。並ばせる場所を変えるだけで、場の熱が少し落ちる。
拘束。
手を後ろに回させる。紐で十分な時は紐。金具が必要なら金具。人数より順番が大事だ。
尋問。
広場ではやらない。壁のある部屋へ入れる。話を聞く順番も、通報者からではなく、まず身元からだ。
移送。
村外れの学校、役場裏の倉庫、あるいは現地警察署ではなく、こちらで押さえた別棟へ回す。近すぎる場所へは置かない。
工程は短い。短いが、崩すとすぐに泥になる。
広場の端では、四人の男が並ばされていた。農具を持っていたというだけで連れてこられたわけではない。私刑に加わり、元警官の家を荒らそうとしたらしい。顔は勝ち誇っていない。むしろ不満そうだ。自分たちが正義だと思っている顔をしている。その手合いが一番扱いにくい。
親衛隊の曹長が敬礼し、報告する。
「私刑未遂四名、身元確認済み二名、残り二名は役場台帳照合待ちです」
「元警官は」
「別棟で拘束しています。通報した側とも接触していません」
「よし。四名は二組に分けろ。顔見知り同士を一緒にするな」
「了解しました」
曹長が兵へ合図する。二人ずつに分け、間へ兵を入れる。単純だ。だが、単純な処理ほど効く。
ターニャは広場を見回した。勝った後の裂け目は、こうして増える。敵兵が減るのではない。誰が敵か分からなくなる。制服の数は減っても、疑いの数は減らない。
その時、後ろから通信兵が駆けてきた。靴音がやけに軽い。戦況の報ではないと分かる。
「休戦成立の正式文面、全地区に流れ始めました。現地の役場が勝手に閉めようとしているところがあります」
ターニャは即座に答える。
「閉めさせるな。役場は閉めるな。窓口を減らせ。閉めると全部が裏口へ回る」
「了解しました」
「閉めた役場は一覧で拾え。夜のうちに開け直せ」
「了解しました」
通信兵が去る。休戦は、役場にとっても「終わった」と勘違いしやすい合図になる。だから閉める。閉めた瞬間に裏口が生まれる。裏口が生まれれば、記録は消える。記録が消えれば、次に残るのは噂だけだ。
戻った執務室では、セレブリャコーフが新しい配布表を整えていた。表題は短い。通行区分、治安処理、役場窓口、資源線保全。余計な修辞はない。
「配布順、どうしますか」
「役場、現地警察、親衛隊の治安班、それに陸軍の交通整理。優先は役場だ。窓口が閉まると全部が崩れる」
「承知いたしました」
「資源線のほうは」
「ドクトルの候補名、二名まで来ています。警備区分と輸送計画に差し込み可能です」
「後で見る。今は南西区の私刑未遂を先に潰す」
「承知いたしました」
机の上へ積まれた束の中に、休戦成立の正式文面があった。紙としては軽い。意味としては重い。だが、ターニャが先に手を伸ばしたのは、その隣の治安処理票だった。
窓の外は、もう薄暗い。灯火規制の札が打ち直され、検問所のランプに覆いがかけられる。銃を撃つ敵は減る。見えない敵は増える。そういう夜へ入っていく。
ターニャはペン先を止め、ほんの一瞬だけ視線を落とした。
(有利に進められる。……ただし、今だけだ)
その考えは、すぐ紙の束に押し潰された。今だけ。そこに異論はない。今は勝っている。上は浮かれ、前は進み、客車は森へ置かれ、フランスは署名した。だが、その有利は、窓口が開いている間だけのものだ。敵が見えなくなった瞬間から、手順を持つ側が優位になる。逆に言えば、手順を崩した側から負ける。
ターニャは顔を上げた。
「少尉、南西区の件をもう一度。検問から移送までの時間を全部拾え。どこで滞ったかを見たい」
「承知いたしました」
「それと、役場の窓口閉鎖一覧も今夜中に揃えろ」
「承知いたしました」
「資源線の警備表は、その後だ。候補名は欄だけ埋めて待て」
「承知いたしました」
セレブリャコーフが去る。廊下では、また別の伝令が走る。上の階ではまだ誰かが休戦の話で笑っている。下の階では、誰かが略奪の届けを怒鳴っている。どちらも同じ建物の中だ。
休戦の署名は終わった。だが、占領の手はそこから本気で増える。検問、分離、拘束、尋問、移送。役場、警察、倉庫、橋、港。勝った側の仕事は、ここからが本番だった。
次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)
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イギリス戦方面
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帝国内政(モレル関連)