幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第12節 移管の影、次の冬へ

 

 六月二十三日以降の仕事は、戦争が終わった顔をして増えていった。

 

 パリとその周辺では、砲声が前ほど近くない。道路も、避難民の波で完全に埋まっていた数日前に比べれば、いくぶん整って見える。店の看板は戻り始め、役所の玄関には新しい札が掛かり、閉じられていた窓も一部だけは開くようになった。だが、それは平穏が戻ったという意味ではない。平穏の真似が始まっただけだ。

 

 仮の行政庁舎になった建物の前には、毎朝、制服の違う人間が並んだ。国防軍の灰緑。親衛隊の灰色。ターニャと護衛だけが着ている黒。フランス側の警察制服。腕章を巻いた党の連絡員。帽子の形も襟の開きも違う連中が、同じ玄関を使って出入りする。見た目だけで言えば、統一とは程遠い。だが、全員が自分のほうが上だと思って歩いている点だけはよく揃っていた。

 

 建物の中へ入れば、もっと露骨だった。

 

 入口右の旧会計窓口は通行証の更新席に変わっている。左の応接室は押収品の仮置き。大きな会議室は、軍政担当と現地役人の照合作業に使われ、奥の細い部屋は拘束者の予備尋問に回された。廊下にはタイプライターの音が響き、別室ではフランス語とドイツ語がぶつかり、誰かが帳簿を抱えて走る。どの部屋も、終わったふりをする作業で埋まっていた。

 

 役所の看板も、毎日少しずつ掛け替えられていく。昨日までフランス語だけだった札にドイツ語が足され、警察署の表記が増え、受付の窓口名が変わる。看板を変えれば権限も変わった気になる。だが、看板より先に変えるべきものはいつも別にある。誰が許可を出し、誰が拘束を命じ、誰が武器を受け取り、誰がその控えを持つか。そこが曖昧なままなら、玄関の札だけ立派でも意味はない。

 

 ターニャは、朝一番の回付物を机の上へ並べた。移管関係、警察権限整理、武器回収の継続指示、夜間通行の更新、現地協力者名簿の差し替え。紙の厚みだけで言えば、戦闘中より増えている。戦闘は前で終わる。移管は後ろ全部に広がる。

 

 セレブリャコーフが、整えた束をさらに二つ差し出した。

 

「本日分の追加です。パリ市内の第三警察区、南西郊外の憲兵出張所、北方港湾地区の警備整理案です。第三警察区は人員の名簿が二種類あります。郊外の憲兵出張所は、権限の移し替えで揉めています。北方は作業員証の再発行が遅れています」

 

 ターニャは一枚目を開き、署名欄の数を見た。

 

「第三警察区は名簿を一つにまとめるな。古い名簿と新しい名簿を横に並べて照合しろ。違いを消すな」

 

「承知いたしました」

 

「郊外の憲兵出張所は、権限の整理だけ先に切れ。配置転換は後だ。今、人だけ動かすな」

 

「承知いたしました」

 

「北方は作業員証の発行窓口を増やすな。窓口が増えると偽造が楽になる。遅れても一か所だ」

 

「承知いたしました」

 

 セレブリャコーフは短く返し、すぐに書き加えに入る。今の彼女は、復唱というより吸収と返送の中継器に近い。

 

 そこへ、軍政担当の陸軍少将と、党地区指導部から来た連絡役、それに親衛隊側の警察監督官が一緒に入ってきた。並んでいるが、仲がいいわけではない。勝っている時のいがみ合いは、負けている時より表情が柔らかいだけで、本質は変わらない。

 

 陸軍少将は地図の上へ指を置き、開口一番に言った。

 

「行政の移管は、軍政の経路を一本にしなければ回らん。今のままだと党の連絡と警察の照会が別々に役所へ入っている」

 

 党の連絡役は鼻で笑った。

 

「住民感情を無視して机だけ揃えても、町は動きません。地方組織を通さない移管など紙の上だけです」

 

 親衛隊の監督官がそこで口を挟む。

 

「住民感情より警察権限の整理が先です。現地警察が誰に報告し、誰の命令で拘束するかが曖昧なままでは、党の便宜も軍政の指示も同時に死にます」

 

 三者が同時に正しいことを言っていて、同時に自分の仕事だけを大きく見ている。占領地の朝にふさわしい顔ぶれだった。

 

 ターニャは立ち上がり、右腕を上げた。将官と党の高官に対する形式は必要だ。

 

「ハイル・ヒトラー」

 

 三人とも返礼する。そこから先は感情の話ではなくなる。

 

「結論から申し上げます。移管経路は一本にしません。一本にすると詰まります。軍政、警察、地方連絡、この三つは窓口を分けます。ただし、最終の記録は役所の中央台帳へ一本で集めます」

 

 少将が眉を上げた。

 

「分けるのか」

 

「はい。分けます。今の時期は、全部を一人の机へ集めると遅れます。遅れた分だけ裏口が増えます」

 

 党の連絡役が口を尖らせる。

 

「地方組織の意見はどう反映するのです」

 

「通報と照会の窓口として受けます。ただし、拘束に直結させません。現地警察と台帳照合を挟みます」

 

「それでは即応性が――」

 

「即応性より誤認の方が高い。今はそちらを抑えます」

 

 親衛隊の監督官が、わずかに口元を緩めた。

 

「少佐の案でいいでしょう。少なくとも、現場の兵が三方向から別命令を受ける状況は減ります」

 

 陸軍少将も、結局は頷いた。

 

「よかろう。軍政側は役場中央台帳への記録を引き受ける」

 

 党の連絡役だけが不満そうだったが、反論は飲み込んだ。飲み込んだ理由は、ここで揉めても結局は書類の量が増えるだけだと分かったからだろう。

 

 ターニャは座る前に補足する。

 

「追加で申し上げます。警察権限の整理が終わるまでは、党側の臨時拘束は認めません。現地警察も単独で動かさないでください。親衛隊の監督官か、軍政側の立会いを付けます」

 

 党の連絡役が顔をしかめた。

 

「それでは手が遅い」

 

「遅くても構いません。今は終わったふりをする作業が一番危ない。見た目だけ先に整えると、その下で人が消えます」

 

 部屋が一瞬だけ静かになった。少将はそこで、やや満足げに鼻を鳴らした。

 

「よろしい。君は相変わらず景気の悪いことを言うが、そのくらいでよい」

 

 会談はそれで切れた。誰も完全には満足していない。だからうまくいく。全員が笑顔で席を立つ時のほうが、たいてい後で爆発する。

 

 三人が出ていった後、ターニャは机へ戻り、移管経路の図を書き直した。軍政、警察、地方連絡、中央台帳。線ではなく箱で考える。どこで止め、どこで回し、どこで受けるか。それを紙へ落とせば、少なくとも明日までは人が勝手に夢を見ない。

 

 廊下の向こうでは、別の上官たちが勝利に酔っていた。英本土へ圧をかける話、海の向こうの飛行場、輸送船団、港湾の再整備、空軍の優先配分。まだ確定でもない次の戦争の匂いを、もう酒の肴みたいに口へ乗せている。

 

 ある将官は、窓の外の晴れた空を見ながら高らかに言った。

 

「フランスがこうも早く崩れるなら、次もやりようはある。少なくとも、今までより希望はある。海を挟んでいても、空は遮られん」

 

 別の党高官が、それに笑って応じた。

 

「島国相手でも、勝つ絵は描けるということだな」

 

 それを聞きながら、ターニャは表情を変えない。希望があると言うだけなら簡単だ。港、飛行場、輸送、燃料、護衛、気象、その全部が噛み合って初めて形になる。とはいえ、少しだけ、ドイツが本当に押し切れる可能性を考えたくなる空気があるのも事実だった。少なくとも今は、地図の上で勝っている側の余裕がまだ残っている。

 

(今なら、まだ勝てると思いたくなる)

 

 そう頭に浮かんだ瞬間、ターニャはすぐに視線を書類へ戻した。思いたくなることと、思っていいことは違う。

 

 午前の後半、電話が鳴った。北方の治安報告ではない。内部の保安回線だ。セレブリャコーフが受け、数語だけ聞いてから受話器を押さえた。

 

「少佐、北方からです。若年女性一名に関する報告が、三件続けて入りました。出所は異なりますが、記述が少し似ています」

 

 ターニャは顔を上げた。

 

「読め」

 

 セレブリャコーフは紙をめくる。

 

「『若い娘。北方から流入。支援組織の連絡役に近い動きあり』。二件目は『女、年若し。港湾地区から内陸へ移動。負傷兵搬送の列に混じっていた可能性』。三件目は『北方由来と思われる若年者、食料支援の名目で接触を重ねる』です。名前は一件だけ。メアリー、あるいはそれに近い音とあります」

 

 ターニャは黙って聞いた。これは逮捕名簿ではない。兆候の束だ。だからこそ扱いが難しい。

 

「一件にまとめるな。出所ごとに別で持て。場所だけ重ねろ」

 

「承知いたしました」

 

「支援組織のほうを先に洗え。若い娘は後だ。人より先に受け皿を見ろ」

 

「承知いたしました」

 

 メアリーの名を長く引っ張る価値はない。まだ個人として確定していないし、確定させるには薄い。だが、北方由来、若年、支援組織合流。その断片が増えている。増えているなら、次は名前ではなく導線を拾うべきだ。

 

 EVAが、その話を聞き終わるのを待っていたかのように、扉の横へ現れた。今日も表情はほとんど動かない。

 

「北、残る」

 

「何がだ」

 

「若い。移る。消えない」

 

 短い。だが、これで十分だ。散発的な報告ではなく、流れとして残り始めている。

 

「食料支援の連中を洗え。搬送列、教会、港、そこだけ見ろ」

 

 EVAは頷かない。

 

「更新する」

 

 それで終わりだった。

 

 午後へ入るころ、役所の看板替えがまた一つ進んだ。フランス語の下へ、新しい表記が追加される。警察権限の窓口も変わり、受付の制服も混ざる。開襟の親衛隊制服、陸軍の詰襟、フランス警察の古い形。勝っているのに統一されない光景は、むしろ占領地らしい。秩序とは、最初から同じ色になることではない。違う色を並べたまま、まず動かなくすることだ。

 

 ターニャは窓際へ歩き、下の広場を見た。役所の看板が替わる。警察の腕章が増える。軍政の札が横に足される。住民は遠くから見るだけで、近づかない。誰もが終わったふりに付き合い始めている。だからこそ危ない。

 

 終わったふりをする作業は、いつも終わっていないものを隠す。

 

 ターニャは視線を戻し、北方由来の報告束をもう一度机の端へ揃えた。その端に、次の回付物が置かれる。南部行政権限に関する文面らしい。日付だけが先に見えた。七月十日。まだ正式な一行として読む段階ではない。

 

 そこへ滑り込む前に、処理しなければならないものが、まだ山ほど残っていた。

 

 

 

 七月に近づくにつれて、占領地の机には戦況図より押印欄のほうが増えた。

 

 役所の玄関に掛かる看板は、もう何度目か分からない付け替えを終えていた。フランス語の上へドイツ語が重なり、受付札が増え、警察窓口の位置が動く。建物の中を歩けば、制服の違いがそのまま権限の違いに見える。灰緑の陸軍軍政担当、親衛隊の勤務服、秩序警察の出向将校、国家保安本部の連絡員、党の地方連絡役、それに旧来のフランス警察。勝っている側の庁舎なのに、色も襟も帽子も揃わない。揃わないまま、全員が自分の判子を一番上に置きたがっていた。

 

 朝の会議室では、その欲がすぐ形になる。

 

 長机の片側に軍政担当の大佐が座り、向かいに党地区指導部の連絡役、その横に秩序警察の監督官、さらに端へ国家保安本部から来たSDの連絡員。全員が勝者の側にいる。にもかかわらず、話は最初から噛みつくように始まった。

 

「南部の行政窓口は軍政が一本で受けるべきです」

 

 軍政担当がそう言うと、党の連絡役が即座に首を振る。

 

「住民の照会まで軍へ集めたら遅すぎます。地方組織を通した方が早い」

 

 秩序警察の監督官が冷たく言う。

 

「早いかどうかではありません。警察権限の所在が曖昧なまま処理を増やすと、拘束の責任が消えます」

 

 SDの連絡員は資料の端を叩いた。

 

「責任より先に情報が散ります。照会票が三系統で動けば、同じ名前が別人になる」

 

 どれも正しい。だから面倒だった。

 

 ターニャは最後まで待たず、机の中央へ新しい整理表を置いた。

 

「窓口は分けます。軍政、警察、地方連絡、この三つです。ただし、最終記録は中央台帳へ一本で戻します。通報、照会、拘束、移送、それぞれ書式を変えてください。今のまま全部を同じ紙で回すのが一番まずい」

 

 軍政担当の大佐が眉をひそめる。

 

「紙が増えます」

 

「増やしてください。今はその方が安い」

 

 党の連絡役が肩をすくめた。

 

「また面倒なことを言う」

 

「面倒を先に払うか、後で払うかの違いです。私は前で払います」

 

 秩序警察の監督官が、そこで小さく笑った。

 

「親衛隊らしい答えだな」

 

「そちらも同じでしょう」

 

 SDの連絡員は笑わなかった。だが、整理表を自分の前へ引き寄せ、書式欄を眺める。気に入らない時ほど、あの手合いは紙へ触る。

 

 会議はそこで終わらない。誰が署名を一番上へ置くか、誰の控えをどこへ残すか、どの判子を本票へ押すか、細部でまた揉める。勝っている側の喧嘩は、血が出ない代わりに印肉が乾くのが早かった。

 

 ターニャは会議を切り上げるタイミングだけを見ていた。十分揉めたら終わらせる。全員が少しずつ不満を残した状態が一番動く。

 

「本日のところはここまでにします。軍政は中央台帳、警察は拘束と移送、地方連絡は住民照会に限定してください。越えた分は差し戻します」

 

 大佐が口を開く前に、ターニャは続けた。

 

「差し戻しは私の名で結構です。責任者欄もそのように」

 

 それでようやく、全員が席を立った。

 

 廊下へ出ると、別の熱がある。休戦が済んでからも、上の連中は勝利を飲み込み切れていない。パリの話、客車の話、その次の話。海の向こうの飛行場をいつまで叩けるか、港をどう締めるか、船を出すのか出さないのか。まだ決まっていないことまで、決まったような顔で話す。

 

 ある将官は、地図の前で葉巻を振りながら言った。

 

「フランスがこれだけ早く折れたんだ。海の向こうも、空から削り続ければ黙る可能性はある。少なくとも、今までよりは現実味がある」

 

 党の高官が愉快そうに笑う。

 

「民心というやつも、勝者の側へ寄るさ。港が止まり、飛行場が焼ければ、島国だって息切れする」

 

 別の陸軍将校は慎重だった。

 

「空だけで十分かどうかは別問題でしょう。輸送となると話が違う」

 

 そこへ親衛隊本部からの査察官が、勝ち誇った声で割り込む。

 

「話が違うにせよ、勝てる空気はある。今の帝国にはそれが一番大事だ」

 

 勝てる空気。雑な言葉だ。だが、誰も笑わない程度には、この時点のドイツにはそれがあった。少なくとも、勝てると信じて予定表を引く余地はある。そう思わせる勢いがまだ残っていた。

 

 ターニャはその輪を横目に、執務室へ戻った。勝てる空気は紙を軽くしない。むしろ次の検討票を厚くする。

 

 机の上では、セレブリャコーフが新しい束を分けていた。南部行政権限移譲に関する文書、北方港湾地区の追加整理、治安報告、それに対外検討票。対外検討票の表題だけで、厄介さが分かる。

 

「少佐、七月十日付の文面です。南部行政権限の付与に関する一行が正式に入ります。窓口整理の更新も必要です」

 

 ターニャは文書を受け取り、該当箇所だけを読んだ。長い説明はない。何月何日、どの権限を、どこへ移すか。それだけだ。歴史的な節目という言い方もできるのだろう。だが、現場に落ちる形は驚くほど味気ない。

 

「中央台帳の表記を変えろ。南部は『直接受領』から『照会経由』へ移す。ただし、治安案件だけは例外でこちらへ残せ」

 

「承知いたしました」

 

「役所の看板替えは後でいい。警察権限の書式だけ先に更新しろ」

 

「承知いたしました」

 

「旧様式は回収しろ。残すと古い札で通ろうとする」

 

「承知いたしました」

 

 権限付与は、こうして一行で机へ滑り込む。誰かにとっては国家の再編だ。だが、こちらにとっては窓口と書式の入れ替えでしかない。政治解説をする暇があるなら、旧様式の束を焼いた方が早い。

 

 昼過ぎ、ターニャは南部行政との境目に近い地方庁舎へ出向いた。視察というより、移管の確認だ。

 

 玄関には、古いフランス語の看板と、新しく貼られたドイツ語の札が並んでいる。その横で、旧警察の制服と新しい監督側の制服が同じ廊下を歩く。開襟の親衛隊勤務服、詰襟の陸軍、古い紺の警察服。色が混ざりすぎて、初見の人間には誰が誰の上なのか分かりにくい。分かりにくいから、余計に肩で威張る。

 

 受付の前で、軍政担当の少佐と党の地方役員が言い合っていた。

 

「住民台帳は先にこちらへ寄越せと言っているでしょう」

 

「台帳だけ抜くと照会が止まる。地方委員会の控えを取ってからです」

 

「控えを取っていたら二日消える」

 

「二日で済むなら安いでしょう。役場を空にする気ですか」

 

 ターニャはその間へ割って入った。

 

「台帳の原本は動かすな。控えを二部作れ。一部は軍政、一部は地方窓口、原本は役場へ残せ」

 

 軍政担当の少佐が顔をしかめる。

 

「時間がかかります」

 

「かかってください。原本を歩かせるな。消えた時に一番面倒です」

 

 党の役員が、わずかに勝ち誇った顔になる。鬱陶しい。

 

「聞きましたか。やはり原本は――」

 

「喜ぶな。控えを取る人員はそちらが出せ」

 

 その一言で、党の役員の顔が曇る。ちょうどいい。

 

 庁舎の中では、移管が進んだように見えて、実際は治安側の導線だけがやっと通り始めていた。拘束者の預かり先、通報の受け口、現地警察の再名簿、武器回収所の管理票。こういうものだけは、終わったふりに付き合ってはいけない。付き合うと、見えなくなった敵がそこへ溜まる。

 

 帰庁後、北方由来の治安報告がまた一枚増えた。内容は短い。

 

 若年女性。北方経由。支援組織と接触。名前不確定。

 

 もう一枚。

 

 港湾地区の旧搬送経路と一致。食料支援の名目あり。

 

 メアリーという名は出ていない。出ていないが、断片が寄り始めているのは分かる。ターニャはその束を別にした。

 

「少尉、北方由来の報告は一件にまとめるな。場所、時間、接触先だけ並べろ。人名は後だ」

 

「承知いたしました」

 

「支援組織の受け口を洗え。教会、食料配分、医療搬送。この三つだ」

 

「承知いたしました」

 

 EVAが、いつものように短く言った。

 

「薄い。けど、残る」

 

「どこにだ」

 

「人のあいだ」

 

 それで十分だった。記録に濃く出ないものほど、後で火種になる。

 

 夕方、レルゲンが来た。珍しく自分で来たのは、数字を直接刺したい時だ。

 

 軍政担当や党の連絡役が勝利に酔っている部屋を、彼は嫌そうな顔で通り抜けてきた。制服はきちんとしているが、目だけが休んでいない。

 

「勝ったせいで次の話が早すぎる」

 

 挨拶代わりの一言だった。ターニャは席を勧めずに応じる。

 

「何が増えていますか」

 

「補給の検討票だ。海の向こうを削る案と、東を前倒しで見る案が、同じ机に積まれている。両方を真面目にやる数字ではない。鉄道、燃料、予備車両、全部が足りん」

 

 ターニャはすぐに要点へ戻す。

 

「承知しました。では、責任者を分けてください。海の向こうへの航空継続案は誰が持ちますか。東方の条件整理は誰が持ちますか。人が同じだと両方死にます」

 

 レルゲンは鼻で息を吐く。

 

「そこまでは決まっていない」

 

「決めてください。鉄道はいつまでに数字が出ますか」

 

「五日」

 

「燃料は」

 

「七日見ろ」

 

「では、五日で鉄道、七日で燃料。政治条件は別の窓口へ回してください。軍の検討票に混ぜると遅れます」

 

 レルゲンは少しだけ目を細めた。

 

「分かっているな」

 

「分かる程度には、こちらも紙が増えています」

 

「東はまだ決まっていない」

 

「承知しています。ですので、決まっていない前提で条件だけ拾います。確定の文言は入れません」

 

 レルゲンはそこで頷いた。

 

「それでいい。今は検討だけだ。だが、勝っているうちに数字だけは揃えろという空気が強い」

 

「強いでしょう。今なら、まだ何でもできる気になれますから」

 

 レルゲンは苦く笑った。

 

「その気分に鉄道は従わん」

 

「燃料も同じです」

 

 それで会話は切れた。長くやっても数字は増えない。責任者と期限だけ取れれば十分だ。

 

 レルゲンが帰ったあと、ターニャは机へ戻り、東方向の条件整理票を開いた。そこに書かれているのは、決意ではない。補給、鉄道、燃料、政治、占領地の安定、冬までの余裕。どれも断言ではなく、留保付きの条件だ。だが、条件の数が増えるということは、考えている人間が増えているということでもある。

 

 海の向こうへの攻撃継続票も、同じ机にある。飛行場をどれだけ叩けるか、港をどれだけ絞れるか、輸送船の危険度はどうか。勝てる雰囲気だけなら十分にある。少なくとも、誰かが本気でそう思えるだけの勢いは、まだ帝国に残っていた。

 

 だが、雰囲気では列車は走らない。ターニャはその現実が好きだった。好きというより、信用できる。

 

 外はもう暗い。役所の看板替えは終わり、窓口の札だけが薄く光っている。北方の港は締め直され、南部の権限は一行で移り、海の向こうと東の話が同じ夜に増えていく。勝っているはずなのに、後ろの仕事だけがますます厚くなる。

 

 ターニャは最後の束を揃え、明日回す分と今夜回す分を分けた。勝利のあとに来るのは休息ではない。移管と後始末と、次の検討だ。

 

 その事実だけは、もう十分に見えていた。

 

 机の端へ置かれた最後の文書に、ターニャは短く視線を落とす。

 

(勝っている間に、次が来る)

 

 そのまま別の束へ手を伸ばす。鉄道と燃料の欄が並んでいる。前線の地図はそこにはない。

 

(整うかどうかは、前線じゃない。後ろだ)

 

 だから、まだ終わらない。

 

 レルゲンが去ったあとも、机の上の束は少しも軽くならなかった。鉄道と燃料の検討票を左右へ分け、南部の移管文書を中央へ寄せたところで、今度は交換台のほうが騒がしくなる。短く鳴って切れる内線ではない。優先回線の音だ。

 

 セレブリャコーフが受話器を取り、二言三言で顔をしかめた。

 

「少佐、ベルリン経由です。ドクトルが、今なら繋がるうちにと言っています」

 

 ターニャはペンを置いた。少しだけ、ほんの少しだけ苦笑いに近いものが口元へ浮く。悪い予感しかしない時ほど、当たる。

 

「繋げろ」

 

 受話器の向こうは妙に明るかった。周囲が勝利に浮かれている時のドクトルは、だいたい声まで弾む。

 

「少佐! いやあ、まことに結構な情勢だ。西は片付きつつあり、北も持ち直した。こういう時こそ、大人たちは酒と勲章へ走る。だが、そこで未来の勘定を始める人間が少ないのが困る」

 

「その未来の勘定を話すためだけに、また回線を押さえたのか」

 

「そう言うな。今回は前より実りがある。少なくとも、少佐なら話が早い」

 

「要件を先に言え。今日は勝利報より移管票のほうが厚い」

 

「結構。では簡単に言おう。海の向こうを本気で叩く気なら、空の話だけでは終わらん。飛行機を飛ばすには、飛行機そのものより後ろが要る。鋼材、燃料、化学処理、輸送、整備、それに人だ。みんな戦果の写真ばかり見て、そこを軽く見ている」

 

 ターニャは椅子へ深く座り直した。

 

「抽象は要らない。何を、どこで、いつまでにだ」

 

「冷たいな、少佐。だが正しい。まず北方だ。鉄鉱石の積み出しを、港湾の都合で揺らすな。港が戻ったからといって、荷役の流れまで戻ったと思う連中がいる。あれは別だ。港は港でしかない。流れを戻すには人と列車が要る」

 

「列車は今も取り合いだ。要求を数字で言え」

 

「最低限、北方の鉱石輸送枠は今月末まで固定しろ。南へ回す列車と同列に置くな。優先順位を一段上へ上げろ」

 

「理由は」

 

「空の先をやるなら、鋼材を落とすな。機体も部品も、結局そこへ戻る」

 

 ターニャは控えの端へ書きつける。

 

「次」

 

「重水だ」

 

 そこでドクトルの声色が少し変わった。浮ついた明るさが引き、代わりに妙な熱だけが残る。

 

「今すぐ砲になるわけではない。今すぐ戦況を変えるわけでもない。だが、今ここで緩めれば、将来の選択肢から消える。そういう種類の資材だ。理解していない連中は、倉庫の隅にでも積ませて満足する。だが、あれは積んで終わる代物ではない」

 

「だから何をしろ」

 

「港湾の封印と輸送の分離だ。一般貨物と混ぜるな。積む場所も降ろす場所も、帳簿も別にしろ。あと、監督者を一人、現場に貼り付けろ。兵だけでは駄目だ。中身の価値を知らない」

 

「候補は」

 

「二人いる。若い方は頭がいいが口が軽い。年上の方を勧める」

 

「名前を送れ。今日中だ」

 

「もちろん送る。少佐が相手だと、こちらも怠けにくい」

 

「怠けているつもりはあったのか」

 

 受話器の向こうでドクトルが笑った。たちの悪い、楽しそうな笑いだった。

 

「少なくとも、周囲が勝利の余韻に浸っている時に、こちらまで神妙な顔をしていたら息が詰まる。少しは許せ」

 

「許す気はない。ただ、話が役に立つから切らないだけだ」

 

「それは実質、かなり好意的な扱いだぞ」

 

「勘違いするな。続けろ」

 

「では続ける。人員の件だ。技術者を現場から引き抜くな。今、どこも勝ったつもりで人を融通し始めている。北方も南部も、余った人間から吸われる。だが、港の荷役表を読める人間と、化学処理の帳簿が分かる人間は、余っているようで余っていない」

 

「転用禁止の文書を切ればいいな」

 

「そうだ。期限付きで構わん。今月と来月だけでもいい。その間に、誰が本当に必要かを選り分けろ」

 

 ターニャはそこで、ようやく背もたれへ肩を預けた。腹立たしいほど筋が通っている。回線の使い方だけがひたすら迷惑で、中身はだいたい正しい。

 

「海の向こうを削る案が本気になるなら、航空隊だけ見ていても足りない、ということか」

 

「まさにそれだ。みんな飛行場と爆弾の話をしたがる。だが、長く続けるなら後ろの数字が先に悲鳴を上げる。少佐、その手の悲鳴は好きだろう?」

 

「好きなわけがない。ただ、先に聞こえるだけだ」

 

「結構。では、その先に聞こえる耳を持つ人間として、少佐には北を緩めないでほしい。勝てる雰囲気というものは、たしかにある。だからこそ危ない。雰囲気で後ろを削り始める」

 

 その言い方に、ターニャは少しだけ黙った。勝てる雰囲気。雑だが、今の帝国にはたしかにある。海の向こうへ圧をかけ続ければ折れるかもしれない、と思いたくなる程度の勢いはまだ残っている。だからこそ、後ろが勝手に楽観へ寄る。

 

「……分かった。鉄鉱石の輸送枠は固定を検討する。重水は一般貨物と分ける。監督者を貼る。技術者の転用禁止は今月末までの期限付きで文書を切る」

 

「さすが少佐だ。話が早い」

 

「その代わり、次からは通信部隊を丸ごと動かしてまで回線を取るな。今は移管と治安で全部が詰まっている」

 

「それほど少佐の耳に入れる価値があると判断したんだ」

 

「ヒムラー長官の期待を盾にしたいだけじゃないのか」

 

「半分はそうかもしれん」

 

 ターニャは受話器を持ったまま、今度ははっきりとため息を吐いた。

 

「正直で結構だ。候補名と港湾区分の草案を送れ。雑なら差し戻す」

 

「おお、実に少佐らしい。では送ろう。勝ったあとほど、気の抜けた顔をしている連中が増える。少佐がそれを締めてくれ」

 

「ドクトル」

 

「何だ」

 

「私は便利な締め具じゃない」

 

「知っている。だから頼んでいる」

 

 そこで回線は切れた。最後まで勝手な男だ。だが、切ったあとに残る要点ははっきりしている。北方の鉱石、重水、技術者、輸送枠。西で勝ち、南で移管が進み、海の向こうへの空の話が熱を帯びるほど、逆にそこを落としてはいけない。

 

 受話器を置くと、セレブリャコーフが控えを差し出した。

 

「ドクトルですか」

 

「そうだ。今回は少佐で済んだ。殿まで付けたら切っていた」

 

 セレブリャコーフの口元が、ごくわずかに動いた。笑ったのかどうか、ぎりぎり分からない程度だ。

 

「内容は」

 

「北方を軽く見るな、だ。鉄鉱石の輸送枠、重水の分離、監督者、技術者の転用禁止。どれも面倒で、どれも正しい」

 

「文案を起こします。期限は」

 

「今月末までの暫定で切れ。海の向こうの検討票と同じ束に入れるな。別束にしろ」

 

「承知いたしました」

 

「港湾区分も見直す。一般貨物と混ぜるな。荷役表を読める人間を先に押さえろ」

 

「承知いたしました」

 

 セレブリャコーフがすぐに出ていく。廊下では、まだ誰かが「次も押せる」と景気のいい声を上げていた。空の向こうをどうするか、海をどう渡るか、そんな話をしている。勝てる雰囲気だけなら、たしかに今のドイツにはある。

 

 だが、その雰囲気を実際の継続へ変えるのは、結局また後ろの数字だ。鉄道、燃料、港、荷役、人員。前線の勢いではどうにもならない欄ばかりが、静かに次の戦争の匂いを運んでくる。

 

 ターニャは、ドクトルが言い残した「勝てる雰囲気」という雑な言葉を頭の隅へ追いやり、机の上の束を分けた。移管の一行はもう正式に滑り込み、南部の権限は事務として移る。北方の後始末もまだ終わっていない。そこへ海の向こうの話と、さらに先の東の条件整理まで増えてくる。

 

 勝っている間に、次が近づいてくる。そのことだけが、紙の厚みでよく分かった。

 




下記、13話での補足となります。

 第13話でのターニャの役割は、前線で突破を指揮する将ではなく、突破の直後に生じる治安・通行・拘束・移送・占領準備を整える側に置いている。
 本作のターニャは、国家保安本部(RSHA)に足場を置きつつ、ヒムラーの権威を背負った調整官・視察官として、軍と親衛隊と警察の境目にある仕事を押し込む立場にある。史実のRSHAは1939年9月27日に設置され、SDと保安警察を結びつける、まさに「戦時のための機関」だった。

 そのため、第13話のターニャにやらせているのは、戦車部隊の進路決定や砲兵の射撃指揮ではない。検問線の設置、通行証の統一、拘束者や捕虜の分離、移送経路の指定、倉庫や港湾の封印、占領地の警備配置、宣伝班や記録班の保護といった、「軍が前へ進んだあとに後ろを固定する仕事」である。フランス戦そのものは1940年5月10日に始まり、ドイツ軍は6週間余りでベルギー・オランダ・フランスを圧倒し、パリを占領し、フランス政府を降伏に追い込んだ。第13話は、その速度に制度側がどう食らいつくかを描く話として組んでいる。

 史実上、1940年の西方戦役を主導したのは、あくまで国防軍陸軍と空軍だった。ドイツ軍の西方攻勢は、主力の地上戦力を陸軍が担い、空軍が航空優勢と後方攪乱で支えた戦いである。とくに空軍は、飛行場・司令部・通信・砲兵陣地などを叩いて地上戦を有利にした。したがって本作でも、戦線を切り裂く主役は陸軍と空軍であり、ターニャはその勝利を「成立させる後ろ側」に立たせている。

 親衛隊についても、本作ではひとまとめにしていない。前で戦うのは武装親衛隊であり、史実でも武装親衛隊は正規軍と並んで戦闘部隊として戦場に出ていた。一方で、RSHA、SD、保安警察の系統は、占領地の監視・拘束・情報収集・選別・行政との接続を担う側だった。ターニャはこの後者に属する人物として描いている。だから彼女が握るのは「前線の作戦」そのものではなく、「誰を通し、誰を止め、何を封じ、どこへ回すか」という手順と優先順位である。

 なお、史実では英仏は1940年5月になってから対独開戦したのではなく、ドイツのポーランド侵攻を受けて1939年9月3日にすでに宣戦布告している。1940年5月10日は「戦争の開始日」ではなく、西方におけるドイツ側の大攻勢開始日である。第13話では、その前提のうえで、ノルウェー戦線と西方戦線が重なり、後方処理と占領準備が一気に膨れあがる局面として描いている。

 また、フランス占領の初期段階では、占領地の統治を最初から親衛隊が全面的に掌握していたわけではない。ドイツ軍占領地域の中心はまず軍の「軍政」であり、占領地フランスは軍司令官のもとで運営された。SS・警察の装置はその背後で食い込み、のちに比重を増していく。このため本作のターニャも、何でも命令できる万能の存在としてではなく、軍政・警察・親衛隊の境界に割って入って、手順の形で影響力を持つ人物として置いている。

 要するに、第13話のターニャは「フランス戦の勝者」ではない。勝ちが現実になった直後、その現実を固め、次の戦争のための形に変えてしまう側にいる。前線の英雄ではなく、占領と統治の入口で仕事を増やしていく決裁者として、本作では位置づけている。

◾️陸軍と親衛隊の役割整理
・陸軍(Heer):地上戦の主役。突破、包囲、渡河、占領直後の軍政の母体。
・空軍(Luftwaffe):航空優勢、後方攪乱、通信・司令部・砲兵・飛行場の破壊。
・武装親衛隊(Waffen-SS):政治色の濃い戦闘部隊。正規軍と並んで戦うが、西方戦役全体の主導者ではない。
・国家保安本部(RSHA)/一般親衛隊(Allgemeine SS)/ SD/保安警察:監視、拘束、選別、情報、占領地警備、行政との接続。
 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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