『夕刻の欄、夜の湯気』
午後の順を確認すると言った直後に、順序は崩れた。
崩したのはターニャではない。大抵の混乱は、こちらの手が届かない場所で、こちらの机を目がけて育ってくる。組織というものは、どうしてこう、面倒ごとだけは足並みを揃えてやって来るのか。感心したくもない。
昼の控えを片付けていたセレブリャコーフが、扉の方へ視線をやった。
「失礼します」
入ってきたのは、午前に廊下で綴じ紐の束を抱えていた記録班の女職員だった。今度は両手で一つの箱だけを持っている。学習したらしい。悪くない。
彼女は机の前で止まり、箱を慎重に置いた。緊張が顔に出ている。
「第七局から移管された控えのうち、照合が必要な分を持って参りました」
「担当名」
「ミュラーです」
今度は名を名乗った。さっきの一件を気にしているのだろう。ターニャは箱の上蓋を開け、中を見た。控えの並びは多少荒いが、番号順にはなっている。
「午前よりはましだな」
ミュラーは目を瞬かせ、それからすぐ姿勢を正した。
「ありがとうございます」
「褒めていない。前より落としにくい持ち方をしたと言っただけだ」
「は、はい」
「番号札は誰が振った」
「私です」
「末尾が飛んでいる。二十七の次が二十九だ」
言われて、彼女は箱の中を覗き込み、青ざめた。
「申し訳ありません、確認が――」
「落ち着け。足りないと決めるのはまだ早い。二十七の裏に挟まっている可能性がある」
ターニャが指で束を軽く持ち上げると、案の定、二枚が張り付いていた。二十八はそこにあった。
ミュラーがほっと息をつく。声には出なかったが、肩が分かりやすく落ちた。
「次からは、箱へ入れる前に側面を揃えろ。番号はそれで見つけやすくなる」
「はい」
「それと、急いでいる時ほど箱の重さを増やすな。お前が倒すと、後で拾うのは別の誰かだ」
「はい。気を付けます」
ターニャは箱を閉じた。
「置いていけ。終わったら返す」
「承知しました」
ミュラーが箱を残して下がると、扉が閉まる前に一度だけこちらを見た。感謝と緊張が混ざったような、扱いに困る顔だった。ターニャは視線を返さず、すぐ箱へ手を伸ばした。情で仕事を遅らせる趣味はない。
ただ、午前より足取りが安定していたのは事実だ。人間、たいていは一度叱られたくらいでは直らない。だが、稀に、その場で持ち方を変える者もいる。そういう相手は嫌いではない。
箱の中身を机へ広げ、セレブリャコーフが控えを小分けする。午後の執務室は、午前より音が少し重い。疲労が溜まる時間帯は、職員の靴音まで鈍くなる。タイプの打鍵もわずかに遅い。どこの組織でも、昼を過ぎると人間は機械ではなくなる。
その点で言えば、国家保安本部も人の集まりに過ぎなかった。
「少尉」
「はい」
「ドクトルの件、倉庫側の返答は」
「現況表の控えは出るそうです。ただ、現物確認の立ち会いに時間が必要とのことでした」
「理由は」
「鍵の所在が二重になっているようです。一方は研究側、一方は保管側です」
「面倒だな」
「はい」
ターニャは目の前の控えへ印を付けながら、短く息を吐いた。鍵が二重なのは悪くない。悪くないが、運用している人間が互いを信用していない時、その二重化は単なる遅延装置になる。
「今日のうちに担当者名だけ確定しろ。現物確認は明朝でもいい。責任の所在が曖昧なまま夜を越す方がまずい」
「分かりました」
「研究側、保管側、それぞれ署名者を出させろ。口頭回答は控えに残す」
「はい」
会話を切りながら、ターニャは目の前の書類を一枚めくった。後方監視班の時刻欄欠落。午前から同じ係が繰り返している。欄が読めていないわけではない。優先順位を間違えているのだ。現場に近い人間ほど、重要な事実は本文に書けば足りると思い込みがちである。だが、後から誰かが拾うのは本文ではなく欄だ。欄が空いているだけで、報告書は半分死ぬ。
赤鉛筆を置いて、ターニャは短い差し戻し文を書く。
記述内容は理解した。だが、時刻欄を空けたまま受理はしない。本文へ埋め込むな。欄へ書け。今日の十七時までに再提出。
無駄がない。無駄がないが、苛立っている時ほど文面はよく締まる。嫌な性分だ。
(どうして揃いも揃って、同じところを外す)
内心でだけ毒づく。声には出さない。出せば、余計な耳に拾われるだけだ。
午後三時を回る頃、部屋の空気がさらに乾いた。暖房の効きが鈍いのではない。紙と人間が多い部屋は、時間が経つと湿り気より先に集中力を奪う。ターニャはペン先を置き、指先を一度だけ揉んだ。小さな手は、長時間の筆記でどうしても強張る。成人の手を前提に作られた事務用品は、この体には微妙に合わないのだ。
その仕草に気付いたのか、セレブリャコーフがさりげなく机の端へカップを置いた。
「熱いものを持ってきました」
中身は薄い茶だった。コーヒーではない。だが湯気が立っているだけで価値がある。
「いつの間に」
「先ほどです。食堂の混雑が引いたので」
「お前は本当に目が多いな」
「不足が分かりやすいだけです」
ターニャはカップを持ち上げた。ほどよく熱い。指先に熱が移る。飲めば渋みが少し舌に残ったが、それでも頭が少し戻る。疲れた時の人間の単純さというものは、何度確認しても興味深い。湯気一つで集中が繋がるのだから、文明の進歩とは案外こういう部分に宿るのかもしれない。
「少尉」
「はい」
「お前は飲んだのか」
「私は後で結構です」
「今だ。湯があるうちに行け」
「しかし」
「私は五分くらい一人でも死なん」
セレブリャコーフは一瞬だけ迷ったようだったが、すぐに頷いた。
「では、補足だけ置いていきます。第七局の照合表は左です。ドクトルの件は右。EVAの更新分は一番下に分けてあります」
「分かった」
彼女が部屋を出ると、静かになった。正確には、部屋の外の音は変わらないのに、自分の周囲だけ密度が落ちた感じがする。普段、それだけ彼女の手が細かく動いているのだろう。
一人になった机の前で、ターニャは茶を飲みながらEVAの更新分を開いた。
相変わらず簡潔だった。簡潔すぎて、行間へ余計なものを読むと失敗する。欠落箇所の訂正は一件のみ。もう一件は、記録係本人が「見たが記載しなかった」と口頭で述べているらしい。理由欄にはただ一言。
判断。
その二文字を見て、ターニャは眉を寄せた。
判断、とは便利な言葉だ。便利な分だけ、責任の置き場を曖昧にする。
紙片をめくると、EVAの細い字でさらに一行だけ追記があった。
同型増加。
増加している、ではない。同型増加。つまり、似た省略が一人の癖ではなく、複数で起きている可能性を示している。厄介だ。癖なら直せる。空気になると広がる。
扉が小さく鳴った。入ってきたのは、当のEVAだった。呼んでいないのに、必要な時だけ現れる辺りが、やはり気味が悪い。
「見た?」
「ああ」
「同じ」
「記録係の癖か」
「違う」
「根拠は」
「手が違う」
EVAは近寄り、ターニャの机へ一枚だけ別紙を置いた。筆跡の比較だ。確かに書いている人間は別だ。別なのに、削っている欄が似ている。これは教育不足というより、先輩か誰かが悪い癖を流している可能性が高い。
「誰が最初だ」
「まだ」
「そうか」
「追う?」
EVAは問いだけ置く。説明しない。命令を欲しがらない。そのくせ、必要な分だけは必ず差し出してくる。
ターニャは別紙を指先で揃えた。
「追う。だが、今日やるのは起点の特定までだ。処分や担当替えは明日でいい」
「分かった」
「監視班の古い控えを三日分出せ。時刻欄と同行者欄だけ見たい」
「ある」
「今からか」
「持ってきた」
EVAはそう言って、背後に隠していた薄い束を差し出した。やはり、最初からそのつもりだったらしい。
「……お前は本当に嫌な補佐官だな」
「よく言われる」
平坦な声だった。本当に言われているのか、今この場に合わせたのか、判別が付かない。
束を受け取り、ターニャは古い控えを順に追う。やはり似ていた。欄を埋めない場所が、同じ順で抜ける。そして、最初にその形式が現れた日付の末尾には、一つの名前がある。係長補佐。教育係を兼ねる立場だ。
「これだな」
「はい」
「今日はここまででいい。EVA、この名前で関連提出物を拾え。処理は私の机を通す」
「了解」
EVAは頷きもせず下がった。去り際、扉の前で一度だけ止まる。
「デグレチャフ」
珍しく、名を呼んだ。
「何だ」
「茶、冷める」
それだけ言って出ていった。
ターニャは思わずカップを見た。確かに少しぬるくなり始めている。
「……余計なお世話だ」
小さく呟いて口を付ける。だが、その余計なお世話に従ったのだから、結局こちらの負けだろう。
セレブリャコーフが戻ってきた時には、机の上の束がまた少し移動していた。彼女は一目で何が増えたか察したらしく、椅子へ腰を下ろす前に言った。
「EVAでしょうか」
「当たりだ。起点が見えた」
「拾いますか」
「今日は記録だけだ。下手に動かすと、明日の聞き取りで言い逃れに使われる」
「分かりました。関連控えを束ねます」
彼女は座るなり、別の紙帯を取り出して束の端を整えた。淡々とした手つきである。感情を動作に混ぜない点は、本当に助かる。
午後四時を過ぎると、外の光が傾き始めた。窓枠の影が机へ長く伸びる。ターニャはその影を見て、ようやく一日が後半へ入った実感を持った。まだ仕事は終わらない。終わらないが、夕方に差し掛かるだけで人間は少しだけ希望を持てる。夜という区切りは偉大だ。
その頃、ドクトルから再び連絡が入った。今度は本人ではなく伝令だ。封を切ると、倉庫側の鍵担当者名と、研究側の署名候補が書かれている。動きは悪くない。芝居がかった男だが、必要な時の押し込みは速い。
「少尉」
「はい」
「明朝一番で現物確認だ。同行は最小でいい。お前と私、それに倉庫側立ち会い」
「ドクトルは」
「現地合流で十分だ。最初からいると話が増える」
「承知しました。車両は」
「過剰なものは要らん。目立つ」
「護衛は」
「通常でいい。増やすな」
「分かりました」
言いながら、ターニャは小さく肩を回した。背が張っている。椅子へ座ったままの時間が長すぎると、体の小ささはむしろ不利だ。足が床にぴたりと着いていても、卓上の高さは大人向けで、どこかに余計な力が入る。
それを見たセレブリャコーフが立ち上がった。
「少しだけ、立たれますか」
「今か」
「一分で結構です。次の束を整えている間に」
言い方がうまい。休んでください、ではなく、一分で十分です、と切る。副官として心得ている。ターニャは机から手を離し、椅子を引いた。
窓際まで数歩歩く。石の床は夕方になると、朝とは別の冷え方をする。窓の外では、空が淡く鈍っていた。街路の向こうに見える屋根の列は、どこも均一な色で、そこに暮らしている人間の差異を隠している。
平時なら、あの屋根の下で夕食の匂いがし、家族がいて、誰かが仕事の愚痴をこぼし、誰かが明日の天気を気にしているのだろう。いや、今もたぶん、そういう場所はある。あるが、自分のいる部屋とはずいぶん遠い。
窓ガラスに映る自分は、相変わらず小さい。制服が先に目に入り、顔立ちの幼さは後から来る。便利なようで、時々うんざりする。大人の社会は、権限の記号を見て従う。その記号を剥がした時、どこまで何が残るのか。考えても仕方のない疑問だが、たまに頭の隅へ浮かぶ。
「少佐」
セレブリャコーフの声が背中へ届いた。
「一分です」
「容赦がないな」
「先ほど、ご自身で一分で十分と仰っていました」
「覚えていたか」
「記憶力だけが取り柄ですので」
ターニャは窓から離れた。軽口にしては、少し柔らかい。こういう会話が成り立つ程度には、午後の疲れが二人の角を丸くしているのかもしれなかった。
椅子へ戻ると、次の束が待っていた。待っていたというより、逃げてはくれない。
夕刻に入ってからは、差し戻しの返答が順に戻ってきた。午前に赤を入れた拘束報告は、今度は時刻が揃っている。押収物欄も埋まった。文が多少こなれていなくても、この程度なら受け取れる。人間に完璧を求めると仕事が止まる。最低限まで引き上げる方が大事だ。
監視班の控えも数件修正が入った。ただし、例の係長補佐が絡む一件だけは、相変わらず欄が薄かった。本文でごまかしている。気付いていないのではない。分かっていて削っている。
「少尉」
「はい」
「これだけ別にしろ。明朝、最初に呼ぶ」
「個別でよろしいですか」
「個別でいい。人前だと取り繕う」
「分かりました」
処理の線が見えると、ようやく頭の中が少し静かになる。面倒ごとは、正体が見えない時にだけ膨らむ。名前と欄と時刻が揃えば、対処は組める。国家保安本部で働いていて良かったと思う瞬間があるとすれば、たぶん、こういう時だ。混乱が人間の悪意や激情ではなく、帳票の癖として掴めた時だけは、まだどうにかできる。
日が落ちる頃、電話が一本入った。親衛隊全国指導者ヒムラー個人幕僚部からの内線だった。セレブリャコーフが受け、すぐに受話器を差し出す。
「個人幕僚部です」
ターニャは姿勢を正し、受け取った。
「デグレチャフ少佐です」
相手はヒムラー本人ではなかった。幕僚の一人だ。声は丁寧だが、内容は端的だった。明朝の提出控えについて、文言の一部確認が必要だという。
「承知しました。該当箇所を申し上げてください」
数行の読み合わせで済む内容だった。人員配置の表現をやや抑える。臨時指揮権の記載範囲を対象限定へ寄せる。いずれも妥当だ。ターニャは一つずつ返す。
「その修正で問題ありません。再提出は本日中に回します」
相手が一瞬置いてから言った。
「それと、閣下より、明朝の動線は簡素でよいとのことです」
「承知しました。必要最小で組みます」
「デグレチャフ少佐」
「はい」
「無理はなさらぬように、とのことです」
一瞬だけ、言葉が詰まりかけた。だが、そこで黙るわけにはいかない。
「ご配慮に感謝いたします。結果でお返しします」
通話を終え、受話器を置く。セレブリャコーフは何も聞かなかった。聞く必要がないと分かっているのだろう。
「修正箇所は二点だ」
「承知しました。今のうちに直します」
彼女が控えを取り上げる。ターニャはその横顔を見ながら、ほんのわずかに首筋を押さえた。無理をするな。気遣いとしては普通だ。普通だが、上から降りてくると妙に処理に困る。自分は気遣われる側のつもりで仕事をしていない。
それでも、完全に無視できない程度には、少しだけ気が抜けたのも事実だった。面倒だ。人間らしい反応というものは、たいてい面倒である。
修正版をまとめ、最終の印を入れた頃には、窓の外はもう暗かった。廊下の音もまばらになる。残っているのは、帰りの遅い部署か、帰る判断を諦めた人間だけだ。
時計を見る。思ったより遅い。だが、今日はまだ「帰れる時間」に収まっている。ここで帰れるなら上出来だ。
「本日の分は、ここで切りますか」
セレブリャコーフが尋ねた。
ターニャは机上を見た。未処理の束はまだある。あるが、今から手を出しても質が落ちる。明朝一番でやれば済む話だ。無理に今夜ねじ込む必要はない。
「切る」
「分かりました。未処理は左へ移し、朝の順で積みます」
「頼む」
彼女が束を整える間に、ターニャは赤鉛筆へ蓋をし、インク瓶を閉じた。小さな作業だが、一日の終わりにはこういう動作が妙に落ち着く。紙の時間が終わった、と、道具の側から教えられる感じがする。
立ち上がると、腰が少し重かった。若い体なのに、こういう時だけ年寄りじみた不満が出る。いや、体が若くても疲労は溜まるのだ。そこに神秘はない。
廊下へ出ると、夜の建物は昼と別の顔になる。灯りの届く範囲だけが浮き、角の向こうは暗い。昼間ほど人が多くないせいか、靴音もよく響いた。後方に付く護衛の距離も、昼よりわずかに広い。もう見せる時間ではなく、帰す時間だからだろう。
外へ出る前、セレブリャコーフが歩調を合わせて言った。
「明朝の現物確認ですが、出発は七時半でよろしいですか」
「七時十五分だ。道路が読めない」
「承知しました。朝食は車内でも取れるようにします」
「助かる」
自然に礼が口をついて出た。セレブリャコーフは少し目を丸くしたが、すぐに戻した。
「いえ」
「お前は何でもいえ、で片付けるな」
「では、実行します」
その言い換えに、ターニャは小さく鼻を鳴らした。らしい返しだ。
外気は夜の方が素直に冷たい。頬が引き締まる。吐く息が白い。車へ乗り込むまでの短い距離で、肩に残っていた室内の熱が奪われていく。寒い。だが、不快というほどではない。むしろ、紙と暖房の匂いを肺から追い出すには丁度いい。
車内へ座り、窓の外を見る。夜のベルリンは灯りがある分だけ昼より優しく見える時がある。見えるだけで、実際に優しいわけではないのだろうが。
道すがら、ターニャは今日一日の流れを頭の中で並べた。差し戻しは多かった。監視班の癖も見えた。ドクトルの件は明朝へ持ち越し。食堂の遅延は陸軍から便別の返答待ち。護衛配置の文言は書き直し。帽子の縫い目は直った。
最後だけ妙に生活感がある。だが、それでいいのかもしれない。国家だの組織だのと大きな言葉の下にいるのは、結局、帽子の糸がほつれ、茶が冷め、昼のスープで午後を繋ぐ人間ばかりなのだ。
宿舎へ戻ると、静かだった。遅い時間の建物には、仕事場とは違う種類の沈黙がある。誰かが既に眠り、誰かがまだ起きていても、そこには回付物の重さがない。それだけで、空気が少し軽い。
部屋へ入り、帽子と手袋を置く。黒服の上着を脱ぐと、肩が急に軽くなった。制服は便利だ。便利だが、重さまで消してくれるわけではない。
机の端には、朝に見た手帳がそのまま残っている。予定の多くには印が付き、いくつかは明朝へ回っていた。完了と未完了が混ざっている。だが、そういう日もある。全部片付く日など、そもそも期待していない。
洗面の水は冷たかった。顔を洗うと、ようやく自分の皮膚が自分のものへ戻ってくる感じがする。部屋着に替え、髪をほどく。緊張の抜けた頭皮が少し楽だ。
湯の用意は簡素だったが、盥に張られた湯へ手を入れると、思わず息が漏れた。温かい。たったそれだけで、人間は少し救われる。
椅子を寄せ、足先だけでも湯へ浸ける。行儀がいいとは言えないが、誰に見せるわけでもない。小さな体には、小さな贅沢で十分だ。足先から熱が戻ってくると、昼間ずっと立ったり座ったりしていた感覚がようやくほどけた。
(……生き返るな)
大げさだと分かっていても、そう思う。生き返る、は言い過ぎかもしれないが、少なくとも、明日も動く気にはなる。
しばらくそのまま動かずにいた。外では風が鳴っているらしい。窓枠がかすかに音を立てた。部屋の中には湯気が薄く漂い、時計だけが律儀に針を進めている。
ふと、今日の廊下のミュラーの顔が浮かんだ。セレブリャコーフの縫い物の手つきも、EVAの「茶、冷める」という余計な一言も、レルゲンの昼を抜くなという指摘も、妙にまとまりの悪い形で頭に残っている。
特別なことではない。英雄譚になるような出来事は一つもない。あるのは、誰かが箱の持ち方を覚え、副官が針を持ち、補佐官が紙を黙って積み、陸軍の参謀が余計な忠告を一つ残した、それだけだ。
だが、そういう一日があるから、翌朝また国家保安本部へ戻っていけるのかもしれない。
それが健全かどうかは別として。
湯から足を上げ、布で拭う。冷える前に寝台へ入った方がいい。明朝は早い。手帳を開き、出発時刻だけ確認する。七時十五分。忘れるような数字ではないが、見ておくと落ち着く。
灯りを少し落としたところで、小さなノックがあった。こんな時間に珍しい。警戒するほどではない。音の控えめさで分かる。ターニャは扉を開けた。
立っていたのはセレブリャコーフだった。上着の上に外套を羽織り、手には紙袋を持っている。
「何だ」
「明朝の分です」
差し出された紙袋は軽い。受け取ると、わずかに温かかった。
「食堂の係から、朝の分の黒パンを取り置きできると返事がありました。朝は時間が詰まるかと思い、先に受け取ってきました」
紙袋の口を少し開けると、パンの匂いがした。朝の硬いパンと大差ないはずなのに、今はなぜか悪く感じない。
「……わざわざか」
「ついでです」
ついで、にしては時間が遅い。だが、本人がそう言うなら、そこで止めるべきだろう。
「少尉」
「はい」
「お前、今日は帰ったのか」
「まだです」
「だろうな」
紙袋を持ったまま、ターニャは半目になった。
「次からは自分の帰る順も先に考えろ。副官が先に潰れると困る」
「気を付けます」
「本当か」
「善処します」
「それは信用できない」
セレブリャコーフが、ほんの少しだけ口元を緩めた。笑うというほどではない。だが、昼よりは明らかに力が抜けている。
「では、実行します」
「そうしろ」
「おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
扉が閉まり、部屋へ静けさが戻る。手の中の紙袋はまだ少しだけ温かい。机へ置き、ターニャは灯りをさらに落とした。
寝台へ入ると、疲れはすぐに重さへ変わる。だが、頭の中までまだ完全には静かになっていない。明朝の現物確認。監視班の聞き取り。輸送便の返答。やることは残っている。
それでも、今日は多少ましだった、と思う。
仕事が軽かったわけではない。むしろ細かな面倒は多かった。だが、湯気の立つ茶があり、昼の皿があり、帽子の縫い目が整い、帰り際には明朝のパンまで確保されている。そういう小さなものが、妙に効く。
人間味という言葉は好きではない。曖昧で、使い道が広すぎる。だが、それでもあえて言うなら、たぶん、人間は大義や理念だけでは次の日まで持たないのだろう。
熱いものと、短い会話と、少しだけ気の利いた誰か。たぶん、それくらいで十分なのだ。
目を閉じる直前、ターニャは小さく息を吐いた。
(……明日も面倒だな)
諦めに近いその内心は、しかし不思議と重くなかった。
部屋の外ではもう足音もほとんどしない。時計だけが進み、夜は静かに深くなっていく。
国家保安本部の明日は、きっとまた雑に始まり、紙の山と欄の抜けと、誰かの遅れで満ちるのだろう。だが、それでも構わない、とまでは言わないにせよ、今夜くらいは、そう悪くない一日だったと思って眠っても罰は当たるまい。
少なくとも、パンはある。湯もあった。副官はまだ動いている。補佐官は相変わらず嫌なほど目が利く。
それで十分だ。
そうして、ターニャはようやく眠りへ落ちた。次の朝もまた、時計より少し早く目が覚めるのだとしても、今はまだ、その前の静けさの中にいられる。
次回はセレブリャコーフ視点の予定です。
14話考え中のため、何名かの視点で日常篇お届けします。
次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)
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イギリス戦方面
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帝国内政(モレル関連)