『朝の鍵、午前の配列』
セレブリャコーフの朝は、目覚まし時計より前に始まることが多かった。
規律正しいから、という説明は半分だけ正しい。残りの半分は、寝過ごした時に自分より先に困る人間が複数いるからだ。副官の寝坊は本人の失態で済まない。予定の確認、回付の並べ替え、前夜から持ち越した控えの再整理、朝の飲み物の確保、午前中の面談順の再点検。そうした細かな手順は、誰か一人が気付かなくても世界そのものは止まらないが、少なくとも自分の属する執務室では一日の歯車が嫌な音を立て始める。
それは避けたい。避けたいから、彼女は起きる。
まだ空が白み切らないうちに、セレブリャコーフは寝台から身を起こした。毛布の中に残る熱が名残惜しくないわけではないが、惜しんでも予定表の時刻は動かない。寒さに肩をすくめながら足を床へ下ろす。石造りの建物に慣れたつもりでも、朝の冷えだけは好きになれなかった。
水差しの水で顔を洗う。冷たい。冷たいが、それで頭は起きる。髪を整え、制服の襟を指で撫で、袖口の糸が出ていないかを見る。昨日の夜に軽く手入れはしている。しているが、見ないで済ませる気にはなれない。誰かの身なりの乱れは、そのまま「仕事の乱れ」と解釈される時代だ。しかも親衛隊の制服は、着ている本人の都合より先に見る側の印象をつくる。ならば、少なくとも自分の分くらいは整えておくしかない。
鏡の前で襟元を締めながら、彼女は机の上へ置いていた小さな手帳を開いた。
今日の予定は昨夜の時点で大筋が決まっている。国家保安本部内部の回付滞留確認。第四局の照会。第七局の控え移管。護衛配置見直し案の再提出。陸軍側との短時間面談。後方監視班の報告抜け。補佐官“EVA”の提出物確認。そこへ、予定表へ載らない細かな割り込みがどうせ混ざる。
つまり、朝のうちにどれだけ机の上を整えられるかが勝負だった。
小さく息を吐き、手帳を閉じる。寝台脇に置いた箱から、裁縫道具の入った薄い缶を確認した。針、糸、予備のボタン、安全ピン。副官が持つものとしては少し生活感がありすぎる気もするが、持っていて困ることはない。制服のほつれ、手袋の裂け、帽子の内側。仕事の最中に目につく細部は、たいてい今すぐ直した方がいいことばかりだ。
彼女は缶を鞄へ入れ、それから廊下へ出た。
建物の中はまだ静かだった。静かだが、完全な無音ではない。早番の職員がどこかで鍵を回し、遠くで一つ扉が閉まる。国家保安本部の朝は、派手に始まらない。少しずつ灯りが増え、少しずつ足音が重なり、気がつけば一階から上階まで人間の気配で満ちている。組織というものは、起床の号令ひとつで一斉に目を覚ます軍隊より、むしろこういう曖昧な立ち上がり方の方がよく似合う。
セレブリャコーフは先に食堂へ寄った。
朝食の品目は日によって違う。違うが、良くなる方向へ変わることはあまりない。今日も黒パンと温かい飲み物が中心で、他は期待しない方が賢明だった。食堂の係と短く話し、持ち出し分を確認する。彼女は普段、自分の分より先にターニャの分を確保する。年齢や階級というより、あの上官は朝一番の空腹を放置すると言葉が短くなる。そして言葉が短くなると、その後の差し戻しが増える。差し戻しが増えると、結局、机上の処理が遅くなる。
分かりやすい因果だった。
「今日は品目が少ないですね」
食堂係の女が、恐縮した顔で盆を差し出した。
「搬入が遅れています。補給車両が別便へ回されたとかで」
「承知しました。温かいものがあるだけで十分です」
「黒パンしか出せませんが……」
「いえ、結構です。朝は量があれば足ります」
自分へ言っているのではない。だが、嘘でもなかった。朝食に贅沢を求める余裕はない。少なくとも、この建物で勤務する人間にとっては。
彼女は盆へカップとパンを載せ、落とさないよう片手を添えた。持ち上げながら、一瞬だけ、自分の分を後回しにしていることへ苦笑したくなった。副官の仕事は、時々こうして家政婦じみる。もっとも、家政婦と違って、こちらは食事の後に第四局の照会へ目を通し、護衛配置の根拠文言へ赤を入れ、陸軍側の輸送表の読み合わせまでやる。ずいぶんと落ち着きのない家事だ。
廊下を歩きながら、盆の上のカップが小さく揺れる。こぼさないよう慎重に進むのは苦ではない。苦ではないが、たまに、同僚から「器用ですね」と妙な褒め方をされることがある。器用でなければ、こんな仕事は続かないだけだ。
ターニャの部屋の前で一度立ち止まり、時刻を見た。予定より少し早い。早いが、遅らせる理由もない。控えめにノックする。
「失礼します」
中から返事があり、扉を開ける。ターニャは既に身支度をほとんど終えていた。さすがに寝起きの顔は見せない。見せないが、朝一番のわずかな不機嫌さは完全には消えていない。慣れた人間にだけ分かる程度の差だ。
「朝食をお持ちしました。本部の食堂は今日は補給車両の遅れで品目が少なく、選択肢がありません」
「十分だ。量があるだけましだな」
短いやり取りの中で、ターニャの指がカップに触れるのを見て、セレブリャコーフはほんの少しだけ安堵した。熱い飲み物がある。これで少なくとも、午前中の最初の差し戻しは三件くらい減る。根拠のない希望ではない。経験則だ。
盆を置きながら、彼女は机上へ視線を走らせた。今日の分として運び込む予定の回付物はまだ半分ほどしか置いていない。残りは執務室で待機している。朝のこの部屋で全部を広げると、出発前から空気が重くなる。必要なのは、上官へ焦燥を与えることではなく、焦燥に順番を与えることだ。
「本日の回付物は先に分類してあります。至急扱いが六件、午前中で間に合うものが四件、今日中なら差し支えないものが九件です」
「多いな」
「はい。ですが、昨日の時点よりは減っています」
「比較対象がおかしい」
その返答に、セレブリャコーフはわずかに目を伏せた。笑ったわけではない。だが、こういう時のターニャは、まだ会話を切る余裕がある。朝食と同じくらい、その余裕も大事だった。
簡潔に報告を続ける。第四局の照会二件。片方は名簿の整合確認。もう片方は拘束報告の書式不備。ターニャは案の定、後者を即座に差し戻しと判断した。例外を作らない。その点だけは恐ろしく一貫している。
セレブリャコーフは控えを差し替えながら、朝のうちに気付いていた護衛配置見直し案の曖昧な文言へ触れた。
「警戒度引き上げの根拠として、外部からの断片的な情報が添付されています」
言いながら、少しだけ嫌な予感はしていた。案の定、ターニャの眉間がほんの少しだけ寄る。あの上官は、曖昧な言い回しを人一倍嫌う。
「断片的、か。便利な言葉だ」
「はい。明確な暗殺計画と断定できる内容ではありません。ただ、要人扱いの基準に照らせば、増員自体は文書上可能です」
そこで「可能です」とだけ切ったのは、感情を乗せないためでもあるし、自分個人の好悪を挟まないためでもある。護衛が増えることをターニャが好ましく思っていないのは、もう十分に知っていた。だが、書類の上で必要なら進めるしかない。副官に求められるのは、慰めではなく処理の道筋だ。
思った通り、文言の書き直しが入る。情報の種類を明示しろ。伝聞なのか観測なのか、過去事例との一致なのか、ただの不安なのか、区別して出せ。もっともだった。セレブリャコーフも同意見である。だから反論はしない。しないし、最初からしないつもりで報告している。
「曖昧なまま私の署名欄へ持ってくるな」
「承知しました」
そこまで会話が進んだ頃には、ターニャの朝食も半分ほど減っていた。パンは硬そうだった。黒パンに柔らかさを期待してはいけないし、食堂の搬入遅れがある日ならなおさらだ。だが、温かい飲み物があるだけで、随分違う。
報告を区切ったところで、彼女はふと帽子の内側の縫い目へ気付いた。
「帽子の内側ですが、縫い目が少し緩んでいます。後ほど、控え室で直させますか」
ターニャが帽子を手に取る。指先でなぞる動きは慎重だった。目立つか、と問われ、セレブリャコーフは事実だけ答える。
「近くで見れば分かります。今すぐ困るほどではありませんが、このまま使い続けると広がります」
そこから先の流れは、彼女にとって少し意外だった。
「少尉」
「はい」
「お前の仕事は増やしたくないんだが」
一瞬、返答に迷う。迷ったのは意味が分からなかったからではない。あまり想定していなかった種類の言葉だったからだ。
ターニャは普段、気遣いを言葉で表に出す方ではない。出さないわけではないが、気遣いの形を取る時でも、多くは命令や確認の形式に落としてくる。そこを一歩外した言い方をされると、受ける側は少しだけ処理に困る。
「ありがとうございます。ただ、増える仕事と減らせる仕事の区別は付いています。これは後者です」
そう答えると、ターニャは短く頷いた。それで話は終わる。余計に広げないところが、あの上官らしかった。
部屋を出て、執務室へ向かう。廊下へ出た時点で、建物の音は朝より明らかに増えていた。タイプライターの打鍵。回付箱を持ち上げる音。遠くの階段で響く靴音。昼間になればただの騒音に溶ける細かな物音も、この時間だけは一つずつ聞き分けられる。
セレブリャコーフはターニャの半歩後ろを歩きながら、廊下の角で記録班の若い職員とすれ違った。両腕いっぱいに綴じ紐の束を抱えている。嫌な持ち方だ、と彼女が思うより先に、束が崩れかけた。ターニャがそれを支える。
助けに入るまでの動きは速かったが、声は短かった。
「止まれ」
命令の調子は強すぎない。強すぎないが、相手が止まるには十分だ。セレブリャコーフは横でそのやり取りを見ながら、すぐに記録班の女職員の顔を記憶に留めた。後で何かあった時に辿れるように、という実務的な癖である。
落ち着け。束ごと床へ置け。二回に分けて運べ。第七局の移管控えならなおさらだ。欠けると後で泣くのはお前だ。
そうした注意が続き、最後に「指は切っていないか」とまで確認した時、セレブリャコーフは少しだけ目を伏せた。驚きはない。ターニャはそういう時がある。表に出す頻度は少ないが、書類にせよ人にせよ、「後で面倒になる前に止める」という基準で動く時、結果的に小さな親切に見えることがある。
ただし、本人にそれを指摘すると面倒なので、当然ながら口には出さない。
執務室へ入り、午前の束を机へ展開する。紙の順番を入れ替え、差し戻し用と即答用を分ける。ターニャが最初の一枚を開く頃には、必要な赤鉛筆、添付の控え、関連する前日分の写しまで机上へ揃えてあった。
セレブリャコーフは副官として有能でありたいと思っている。そう思うようになったのは、栄達が欲しいからだけではない。誰かに褒められたい年頃を過ぎたと言えば嘘になるが、それ以上に、上に立つ人間が細部に意識を削られず、必要な判断へ集中できる状態をつくることに、仕事としての手応えがあるのだ。
もちろん、理想通りに運ぶ日ばかりではない。
名簿の整合確認で三名分の役職表記がずれていた時、ターニャの指示は短かった。
「この三名の担当経路を洗え。更新指示がどこから出たか、口頭処理の有無も確認だ」
「第七局にも当たりますか」
「先にこちらの記録班だ。身内の杜撰さを外へ押しつけるな。こちらで原因が出なければ向こうへ回せ」
「了解しました」
了解しました、と答えながら、セレブリャコーフは頭の中で必要な経路を既に並べている。記録班の原票。第七局から来た写し。更新日付の欄。口頭指示が混ざった可能性。係長補佐の在席時刻。これくらいの確認なら、午前のうちに入口までは押さえられる。
ただし、そう思った直後にEVAが現れた。
いつものように、音が少ない。少ないというより、入ってくる時の気配が薄い。見慣れていなければ、背後に立たれた時に心臓へ悪い種類の人間である。
「更新分」
灰色のファイルが机へ置かれる。ターニャとEVAのやり取りはいつも短い。欠落、二件。どこだ。時刻欄と、同行者。不明。前回と同型か。一件だけ。別経路。そうか。
セレブリャコーフは横で必要な箇所だけ記録しながら、EVAの提出物の構造を頭の中でほどいていく。彼女は説明しない。説明しないが、提出物の置き方そのものに順番がある。先に問題箇所。次に比較対象。最後に薄い付箋。こちらがそれに慣れてしまっていること自体、よくないのかもしれないが、慣れないよりはましだった。
EVAが去ると、セレブリャコーフは昨夜の提出有無を短く補足した。必要な情報だけを足す。彼女は、話を長くしすぎるとターニャの思考を邪魔することを知っている。副官の報告で一番避けたいのは、「その情報があってもなくても結論が変わらない」と思われることだ。
電話が鳴る。陸軍側から面談時間の前倒し打診。これも簡潔に繋ぐ。
そこから先、午前の執務は流れるようでいて、実際には何度も小さく引っかかった。
拘束報告の書式不備。名簿照合のずれ。護衛配置案の曖昧な文言。EVAの更新分。どれも別件だが、細部で同じ種類の疲れを呼ぶ。欄を埋めるべき人間が欄を軽く見る。文書を整えるべき人間が曖昧な便利語へ逃げる。そうした小さな怠慢が、最後には机の上へ山となって現れる。
セレブリャコーフは一つ一つの束を整えながら、職員というものはどうして自分の仕事を次の人間の仕事として想像しないのだろう、と時々思う。もちろん、自分だって完璧ではない。だが、少なくとも、回付の先で誰が困るかくらいは考える。それを考えるかどうかで、仕事の形は随分変わる。
十一時前、陸軍との面談に向かう支度が整う。必要な控えだけ抜き、余計な束は机へ残す。護衛の位置を確認し、面談室までの動線を頭の中でなぞる。副官の仕事は、上官の判断そのものではなく、判断が遅れない環境を前もってつくることだ。移動もその一部だった。
会議室にはレルゲンが先に来ていた。
セレブリャコーフは基本的に必要以上に会話へ入らない。入らないが、レルゲンとターニャのやり取りは、横で聞いていると妙に勉強になることがある。互いに余計な飾りを嫌い、長引かせず、必要な条件だけ机へ残す。そのくせ、言葉の端々に棘はある。ない方が不自然なのだろう。
食堂の補給遅延から輸送便の優先順位へ話が飛ぶ。レルゲンは数字を見る。ターニャは結果の波及を見る。どちらも間違っていない。ただ、見ている場所がずれている。そこを会話一往復で噛み合わせるのだから、横で聞いている副官としてはありがたい。長引かない会議は、それだけで正義だ。
「本日中に、便別の扱いだけでも明文化してください」
「そこまで出す義務は陸軍にはない」
「なら、結果責任はそちらで引き受けてください。こちらは遅れた記録を残します」
そのやり取りで決着が見える。レルゲンは嫌そうな顔をしたが、午後二時までと期限を切った。十分だ。会議室で勝ち負けを決めるより、時刻の入った約束を一つ持ち帰る方が価値がある。
退室直前の、昼を抜くなというレルゲンの一言も、セレブリャコーフは聞いていた。口には出さないが、同意見だった。ターニャは集中すると、平気で食事の優先順位を下げる。小柄な体格の人間がやることではない。とはいえ、本人へ「食べてください」と正面から言うと、返ってくるのはだいたい「分かっている」だ。その後で本当に食べるかどうかは別問題になる。
だから副官は、言うより先に持ってくる方を選ぶ。
執務室へ戻る途中、セレブリャコーフは既に昼食の手配を頭の中で組み始めていた。食堂は混む。混むなら持ち出しにする。皿数は要らない。温い汁と少しの塩気、それに手早く食べられるものがあればいい。
同時に、帽子の縫い目の件も思い出していた。昼前に五分、とターニャは言った。言った以上、自分はその五分の間に終わらせる必要がある。
戻った執務室で、彼女は引き出しから裁縫道具を出した。針に糸を通す。慣れている。慣れている理由は、家で覚えたからだ。
母は厳しい人だった。衣服を自分で整えること、綻びを放置しないこと、取れかけのボタンを次の日まで引きずらないこと。幼い頃は面倒だったし、針を持つたび指を刺していた。だが、今になってみれば、あれほど実用的な教育もない。戦場だろうが官庁だろうが、人間は衣服と一緒に生きている。破れた布地を明日まで放っておけるのは、余計な目が存在しない場所だけだ。
ターニャが椅子へ座り、帽子を机へ置いた。セレブリャコーフは内側の縫い目を指で撫で、裂け始めた部分を確認する。今ならまだ短く済む。広がってからでは遅い。
「本当に持っていたのか」
裁縫道具に対する上官の反応は、半分呆れ、半分納得といったところだった。
「必要になるかと思っていました」
「私の帽子の縫い目が外れることを予見していたと?」
「いえ。ボタン、袖口、手袋のほつれは頻度が高いので」
「妙に生活感のある備えだな」
「現場で困らないための準備です」
淡々と答えながら、彼女は針を進めた。内側の布を傷めないよう、糸を短く取る。帽子の形は崩さない。目立たせず、だが緩ませない。こういう作業は、派手さがない代わりに結果だけが残る。
ターニャが問いかけてくる。
「お前、こういうのはどこで覚えた」
「家です」
「家」
「母が厳しかったので。制服は自分で整えろ、と」
「いい教育だ」
「当時はそう思いませんでした」
「今は思うのか」
ほんのわずか、セレブリャコーフは手を止めそうになった。止めなかったが、声の温度が少しだけ変わる。
「今は、役に立っています」
「なら十分だ」
その返答が、妙にターニャらしかった。情緒へ寄りすぎず、しかし切り捨てもしない。必要なところだけ受け取る。セレブリャコーフは糸の始末を終え、帽子を返した。
「終わりました」
「悪くない」
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらだ」
短い。短いが、確かにそう言った。
セレブリャコーフは一瞬だけ目を伏せ、それから「ありがとうございます」と言い直しかけてやめた。そこで礼を重ねると、かえってくどくなる。必要以上に広げない。それもまた、副官としての仕事だった。
昼食は、予想通り簡素なものになった。温いスープ、小ぶりのソーセージ、芋。それでも、机で食べられるだけましだ。食堂の列で時間を失うより遥かにいい。
彼女は立ったまま報告を続ける。第七局からの照合表。口頭指示の混入。後方監視班の報告抜け。誰がどこを外しているか。ターニャが食べながら処理できる程度の長さで、必要なところだけ差し込む。
「食べながらでいい。続けろ」
そう言われると、少しだけ安堵する。食事が形だけで終わらない。副官としてはそこが大事だ。
ただし、平穏は長く続かなかった。扉が二度鳴り、ドクトルが入ってくる。いかにもドクトルらしい入り方だった。つまり、自分の到着が場の空気を変えると信じて疑っていない人間の入り方である。
「おお、いたか。探したぞ、少佐殿」
食事中に来るな、とターニャが即座に切り返す。セレブリャコーフは内心でまったく同意した。もっとも、その通りに人の予定を守るようなら、あの博士は最初から博士らしい振る舞いなどしていないのだろう。
封筒の中身は重水関連の試験資材割当。現況表のずれ。保管量と申告量の食い違い。夢を語る研究者と不足を恐れる倉庫。ドクトルの言い方は芝居がかっているが、要点自体は明快だった。問題は、その要点が例によって今日の予定へ割り込んでくることだ。
ターニャが午後の順を組み替える。後方監視班の差し戻しを一段後ろへ。現況表の経路確認を先に。セレブリャコーフは「承知しました」と答えながら、頭の中で束の位置を入れ替える。食事中に飛び込んできた仕事は、だいたい余計な仕事だ。だが、余計かどうかと重要かどうかは別である。そこを間違えないことが、忙しい日の副官には求められる。
ドクトルが去った後、昼食は少し冷めていた。ターニャがスープを見下ろす一瞬に、セレブリャコーフはほんの少しだけ言葉を選んだ。
「食事、冷めます」
余計な慰めは要らない。今の上官に必要なのは「休んでください」ではなく、単純な事実の提示だ。冷めます、と言えば、少なくとも口へ運ぶ。
「分かっている」
実際、ターニャはスプーンを取り直した。それで十分だった。
昼の後半、セレブリャコーフは執務室の空気が少しずつ乾いていくのを感じていた。暖房と紙と人の体温が混ざり合うと、部屋の中は妙に重くなる。午後はいつもそうだ。誰も怒鳴っていないのに、机上の空気だけが張り詰める。
彼女は第七局の照合表を追いながら、時々横目でターニャの手元を見る。筆記の速度。書類を捲る間。カップに触れる頻度。そうした小さな変化から、どこで声を掛けるべきか、あるいは掛けない方がいいかを見極めるのは、もはや癖に近かった。
午後の前半が切れたところで、ターニャの指先が一度だけ強張る。ペンを置く手がほんの少し止まった。机の端には空になった昼のカップ。暖かいものをもう一つ入れた方がいい。そう判断するまでに、迷いはほとんどなかった。
「少し外します」
許可を取るほどのことでもないが、声だけ置いて部屋を出る。食堂は昼の混雑が引いていた。湯がある。茶葉もまだ残っている。彼女は二つ頼みたかったが、そこまでの余裕はなかった。一つだけ確保する。
戻ると、ターニャはEVAの更新分を前にしていた。机の端へカップを置く。
「熱いものを持ってきました」
「いつの間に」
「先ほどです。食堂の混雑が引いたので」
「お前は本当に目が多いな」
「不足が分かりやすいだけです」
そう返したものの、実際には少し見すぎている自覚もある。副官として当然の範囲だと自分に言い聞かせているが、時々それは「気が付きすぎる」へ寄る。だが、今の執務室ではそのくらいで丁度いいのだろう。誰かが見ていないと、書類も人間も、妙なところから崩れる。
ターニャが茶を受け取ると、セレブリャコーフはようやく自分の喉の渇きに気付いた。だが、自分の分を取ってくる時間はなかったし、取りに行かなかったことを後悔するほどでもない。もっとも、その直後に命じられる。
「お前は飲んだのか」
「私は後で結構です」
「今だ。湯があるうちに行け」
「しかし」
「私は五分くらい一人でも死なん」
その言葉に、セレブリャコーフは一瞬だけ視線を伏せた。言い方はぶっきらぼうだが、内容は明らかに「行ってこい」だった。
「では、補足だけ置いていきます。第七局の照合表は左です。ドクトルの件は右。EVAの更新分は一番下に分けてあります」
「分かった」
部屋を出る時、ほんの少しだけ肩の力が抜けたのを自覚した。自分のことを後回しにしている自覚はある。あるが、指摘される側に回ると、思っていたより対応に困るものだ。
廊下の先で、自分用の茶をようやく手に入れる。大した味ではない。だが、温かい。指先が解ける。それだけで随分違う。
カップを持って数歩進んだところで、同じ方向からEVAが歩いてきた。相変わらず足音が少ない。ぶつかりそうな距離で止まり、こちらの手元へ目を落とす。
「珍しい」
唐突な一言だった。
「何がでしょうか」
「あなたが先」
自分の分の茶を持っていることを言っているらしい。セレブリャコーフは少しだけ首を傾げた。
「命じられましたので」
「そう」
EVAはそれだけ言って通り過ぎる。会話になったのかどうか、微妙なところだ。ただ、去り際に一つだけ紙片を差し出してきた。
「追加」
受け取ると、監視班の古い控えの拾い出し番号だった。手際がいい。気味が悪いほどに。
「ありがとうございます」
「不要」
それで終わる。彼女の「不要」は、礼を受け取らないのではなく、礼の応酬を長くしないという意味だと、セレブリャコーフは最近ようやく理解してきた。理解したところで、相変わらず扱いづらい人物であることに変わりはないが。
執務室へ戻る。ターニャは既に古い控えの束へ目を通し始めていた。茶はまだ湯気を立てている。セレブリャコーフは自分の分のカップを端へ置き、先ほどEVAから受け取った番号を添える。
「追加がありました」
「早いな」
「はい」
そこから先、午後の仕事は少しずつ姿を変えていく。単なる記載漏れだと思っていたものが、どうやら一人の癖ではなく、複数に広がる省略の形式らしい。起点がある。教育係を兼ねる係長補佐の名が出る。そうなると、話は単なる個人の怠慢では済まなくなる。
セレブリャコーフはその流れを見ながら、内心で小さくため息をついた。悪い癖というものは、どうして決まって「教える立場」の人間から広がるのだろう。しかも、本人はたいてい合理化している。「分かればいい」「読む側で補えばいい」「忙しい現場ではこの程度の省略は当然だ」。そういう言葉で削った一欄が、後日、誰かの机上で面倒へ変わる。
ターニャが起点の特定までで切ると決め、今日は記録だけで止める。処分や担当替えは明日。セレブリャコーフはその判断に同意した。下手に今日動かすと、相手が身構える。聞き取りの前に空気を変えるべきではない。
午後も深まり、机上の束は形を変え続ける。差し戻しの返答が戻り始め、修正の質にばらつきが見える。ある者は一度で直す。ある者は直したつもりで別の欄を外す。人間の能力差というものは、こういう時に容赦なく出る。
セレブリャコーフは、一つ一つを整えながら、そろそろ自分の茶も冷めたと気付いた。だが、飲む暇はまだない。手を止めるほどではないし、止めたくもなかった。
窓の外の光が傾き始めたところで、彼女はようやく自分のカップに口を付けた。ぬるい。だが、その温度に妙な安心もあった。自分だけが取り残されていない、という程度の安心だ。
今日はまだ半分終わっただけだ、と彼女は思う。
そう思いながらも、午後の後半には別の種類の仕事が待っていることを知っていた。差し戻しの回収。ヒムラー個人幕僚部への修正版。ドクトルの現物確認の段取り。監視班の起点確定。そして、執務が切れた後に残る細かな片付け。
副官の日常は、決して午前だけでは終わらない。
むしろ、誰かが「今日はここまでだ」と言った後から始まる種類の仕事すらある。続きを考えながら、セレブリャコーフは次の束へ手を伸ばした。午後の光は弱まり始めているのに、机の上だけはまだ明るい。終わるには少し早いが、崩れるには丁度いい時間だった。
次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)
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イギリス戦方面
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帝国内政(モレル関連)